・・・「ロボット爆弾(鉄腕アトム)」以下の存在だな。「テロリスト」…「爆弾用ロボットが海底で自己増殖し、ロボット爆弾の王国」を築き「人間」より優れた存在だと信じ込んで「人間社会」と接触し、愚かな「人間社会」から去っていく・・・彼らには「「ウイスキー(Whisky)」ではなく、「hashish」が必要なんだろう・・・「黄色い馬(鉄腕アトム)」の「麻薬」も・・・「ZZZ総統(鉄腕アトム第11話)」 ・・・彼らには「毒ガスが必要」も必要だったんだろう・・・ニンゲンである「ZZZ総統」はアクビをするほどに「カイギ」に嫌気がサシていた・・・「双子の片割れ」・・・「地球連邦」・・・
オマエラには、自分自身が吸い込む、この「瓦斯極楽」が必要だな・・・
今夜(2/1月曜日)のNHK「クローズアップ現代・ピケティ」・・・「トリプルだぅん」・・・今更、ナニを・・・「タックスヘブン」・・・問題は「えご意識=プチブル意識」に勝てるのか・・・
ブログで調べたら
「ウイスキーの語源は、ゲール語の言葉、Uisge-beatha(ウシュクベーハー)」で、「いのちの水」の意・・・・「ゲール族とはヨーロッパ中西部に起った古代民族ケルト族のうち、海を渡ってアイルランドからスコットランド地方へ移住した一部族のことで、血族意識が強く、共通の祖先から出たクラン(氏族共同体)単位で生活していた。この末裔が現在のスコットランド人やアイルランド人」・・・「クラン内部で団結心を日々確かめ、強めるものこそが「ウシュクベーハー」と呼ばれる蒸溜酒でした。ウシュクベーハーは時代を経るにしたがって、Usquebaugh(ウスケボー)となり、やがてUsquaとなり、Usky(ウイスキー)に転化し、今日のWhisky,Whiskeyになった・・・
「東征時代」、「日本戦国時代」、「列強帝国植民地時代」、「第一、二次世界大戦」・・・「東西冷戦時代」・・・ルールは「山賊」のにも「海賊」にもあったハズだが・・・劣る「国家間戦争の暴力現場」・・・ミンナ、ダレのタメにイノチを消耗していったんだろう・・・
1572年~1620年の日本と朝鮮、中国の関係を「漢字」から探る・・・
ーーーーー
↓
児=兒=臼+儿
皃=白+儿=貌
旧=「舊(キュウ・ク)」の略体が
「旧」=「|」+「日」とは
「Ⅸ」=「I」+「X」=「9」
と同じ思考仕様だろう・・・じゃぁ「ⅩⅠ」=「11」は?・・・
「壱拾壱(いち拾うイチ)・壱壱(いちいち)」・・・
名前なら
「与一」、「那須与一」
↓
那須 与一(なす の よいち)
嘉応元年
(1169年)?
~
文治五年八月八日
(1189年9月19日?)
系図上は
那須氏二代当主
父は那須資隆(太郎)
妻は新田義重の娘
本名の初名は
宗隆(『平家物語』では宗高)
当主に就任後は
父と同名の
資隆と名乗った・・・
「与一」は「十あまる一」、つまり「十一男」を示す通称
学問的には与一の実在すら立証できていない?・・・仮空の人物
治承・寿永の乱
源義経に従軍
元暦二年(1185年)
屋島の戦いで
平氏方の軍船に掲げられた
「扇の的」を射落とす
源頼朝より丹波・信濃などの
5カ国に荘園を賜った
(丹後国五賀荘
若狭国東宮荘
武蔵国太田荘
信濃国角豆荘
備中国後月郡荏原荘)
↓
十郎為隆を除く
9人の兄達が、
皆
平氏に味方し、
為隆も処罰され
与一が
十一男ながら那須氏の家督を継ぐ
与一は信濃など各地に
逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、
下野国における那須氏発展の基礎を築いた
山城国伏見において死去
法名は
即成院殿
禅海宗悟大居士(即成院殿月山洞明大居士)
『寛政重修諸家譜』では
文治五年(1189年)8月8日死去
『続群書類従』では
建久元年(1190年)10月死去・・・
家督は兄の
五郎資之(之隆)が継承した
後
鎌倉幕府の有力御家人
宇都宮朝綱の実子(異説もある)
頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、
その頼資の子が、
建久四年(1193年)に
源頼朝の
那須の
巻狩で饗応役を務めた
那須野光資(『吾妻鏡』)・・・
↓
那須与一
治承四年(1180年)
那須温泉神社に必勝祈願に来た
源義経に出会い、
父の
那須資隆(太郎)が
兄の
十郎為隆と
与一を源氏方に従軍させる約束・・・
「扇の的を射る」
与一に関する伝説は
西国那須氏の庶流が関わっており、
下野那須氏の間では
も南北朝期の段階では
与一の伝説は認識されていなかった・・・
可能性も指摘されている
弓の修行で
「左右で腕の長さ」が変わってしまった・・・
↓
「与市」、
地名なら
「余市」で、「小樽」か・・・マッさん・・・政孝・・・
よいち・ヨイチ→予一・與市・夜市・酔痴・予一・良い地
ーーーーー
=ウ+采
サイ
訓読み「ちぎょうしょ(知行所)、 つかさ(司)」
↓
地(サイチ)
古代帝王
封給臣下的土地,即采()地
・・・「采→菜」
「=官也」・・・・・・官有地=国有地
「封建的領地」
↓
「采女(うねめ)」
天皇や皇后に近侍し、
食事(膳部)など、
身の回りの雑事を専門に行う女官の召使い
平安時代以降は廃れ、
特別な行事の時のみの官職となった
↓
「うねめ」という言葉の語源
↓
本居宣長の「嬰部(うなげえ)」説、
荻生徂徠の「項意(うなゐめ)」説、
賀茂真淵の「氏之女(うのめ)」説、
壺井義知の「畝女(うねめ)」説
など古来より諸説があるが、
結論は出ていない・・・
「采女(うぬめ)」という漢字を当てた理由は
中国の
後宮における「采女」を模したと思われるが、
中国の采女は単に後宮における
下位の妻妾を指す言葉であるため、
配膳などの職掌や地方豪族の
忠誠の証としての性格を持った
特殊な存在である
日本の采女とは意味合いが異なっている
ーーーーー
朝鮮の役(1592年~1593/文禄の役)
終了後に
「鉱税の禍」
1596年に起った
ーーーーー
万暦帝(朱翊鈞)
1563年
明王朝
第十三代皇帝
隆慶帝の
第3子
↓
日本(永禄十年)
↓
織田信長が
天下布武の朱印状を使い始めた
↓
隆慶帝(朱厚照)
1568年
即位
佞臣(宦官や道士)による
賄賂政治や汚職、
国家財政の赤字を立て直しを試みた
1572年
隆慶帝死亡
万暦帝が10歳で即位
↓↑
「張居正」の
行政改革、
朝貢貿易を立前とした鎖国政策
「戚継光」の
軍事
北虜(北方騎馬民族)
南倭(海賊=倭冦の横行)
を鎮圧
十年分の
余剰備蓄米
余剰備蓄穀物
↓
・・・似ているのは「新井白石」・・・だが・・・
↓
1582年
張居正は死亡
享年57才
万暦帝は
封号
上柱国
諡名
文忠
を贈
↓
その後
万暦帝の
「佞臣・奸族」が
「張居正」を
誹謗中傷、弾劾
万暦帝は
張居正に与えた
上柱国の
封号も
文忠の
諡も剥奪
「戚継光」をも左遷
↓
言官を統括する
都察院(秘密警察)の権限を拡大
↓
モンゴル人将軍
ボバイの反乱
1592年
豊臣秀吉の
日本軍、大明征伐軍が
朝鮮半島を席巻
↓
豊臣秀吉の
対明貿易再会
明との交渉決裂・・・
鎌倉幕府以来
中国の明王朝と朝貢貿易
↓
倭寇が
中国沿岸部や朝鮮半島を襲撃
明王朝(1368~1644)は
正式に
西暦894年以来、
国交の絶えていた日本に使者
対処しなければ
遠征軍を送り、
日本討伐を慣行すると通達
日本の
九州を勢力下に置いていた
南朝方の
「懐良親王」は
使者に対して
「日本は迎撃する」と
拒否
「懐良親王」は
当時、
北朝の
足利義満と抗争
↓
朝貢貿易
明王朝の属国となれば
明王朝との貿易を許可
↓
倭寇の取り締を
日本に依頼
明王朝は
属国を許す
↑
豊臣秀吉が激怒・・・?
朝鮮王朝は
明属国の
冊封国
↓
李氏朝鮮の陸上兵力は
7千人程度
豊臣秀吉の兵力は
15万
明の
万暦帝
朝鮮に40万を派遣
1年ほどで和平交渉成立
日本軍撤退
1597年(慶長の役)
再開
明では
800万両以上の出費
明国内
「朝鮮の役(1592年~1593)」の間も
「楊応龍 の反乱」が
1600年まで継続後
「鉱税」
を開始
「鉱税の禍」
明では
銀銭による交換通貨が安定供給
当時
中国に出回っていた銀は
南米と
日本の
銀
中国では古来より
銅銭通貨が主流だったが
明王朝では銅不足
銅銭の供給量も不足
鎖国政策が緩和され
スペイン南米産の銀
日本から密貿易の銀
が中国に流入
銀が通貨として使用
↓
「一条鞭法」は
銀で
「一括納税(張居正の政策)」の義務
↓
銀貨不足を
「銀山、銀坑の採掘」で補おうとしたが
元々国内における
金、銀、銅の鉱山資源の枯渇が
供給銀の不足が原因
↓
「鉱税」政策は不調
↓
明の国家体制
官仕の
任命権は皇帝の権力だが
その任命をサボって
中央・地方の役人、官吏、官仕は欠員
↓
ーーーーー
↓↑
高 (こう さい、Gao Cai, 生没年不明)は、
中国明代の宦官
万暦帝・・・・・・・・???
に仕える
順天府文安県(河北省文安県)出身
順天府文安県(北京市文安県)出身
↓
大学士
張位の時代に火災により
二宮三殿が消失、
その再建資金を目的に
「砿税の徴収」が実施
燕山衛指揮
馮綱
千戸胡志の上奏により
福建に
「高」が派遣され
1599年
(万暦二十七年)2月に着任
↓
福建で高は民間からの搾取
属官は高に従おうとしたが、
漳州府知府
「韓擢」
海澄知県
「竜国禄」は高に反発
市舶司も兼任した
高は
船舶への課税を強化、
その結果
1602年
(万暦三十年)
海澄県で民衆反乱が発生
そのため
高は生涯再び
漳州を訪れなかった・・・
↓
1604年
(万暦三十二年)に、
Wybrant van Warwijck(nl)を指揮官とする
オランダ艦隊が来航、
高は
オランダとの交易を計画したが、
参将
施徳政、
沈有容
らにより阻止
1606年
(万暦三十四年)に
砿税中止の詔勅が出されたが、
宦官による
徴税活動は継続されその勢力を拡大、
高は太監に任じられ
緋魚服を下賜され、
宦官の行為は一層過酷なものとなり、
切断した
「陽道=ペニス=陰茎?」の復活を目的に
子供の脳を食べたとある・・・?
↓
『五雑組』には福州において
「生員」が・・・・・・・・・・・・・・・「生員」?
高に対して
武力闘争をおこしたという記事があるが、
年代は記されていない。
しかし
1607年
(万暦三十五年)
11月に、
戸科給事
「中江灝」、
福建巡撫
「徐学聚」が上奏文を出し、
高の不法を訴えている記録がある・・・
1614年
(万暦四十二年)、
広東の税監
李鳳の死去に伴い、
後任として
高が任官
高は、自分の造らせた
二本マストの船に乗って
広東まで行ったものの、
民衆の抵抗により着任することができなかった
福建に戻った後、
高の船は
閩都督施
「徳政」
福建巡撫
「袁一驥」らによって没収
4月11日
福建商人より
高に
未払いの
商品代金支払要求が出されると、
高は部下に命じて商人を攻撃、
翌日
商人は集団で抗議をしたが、
高は、更に強行手段にで、
福建巡撫
袁一驥の役所に押し掛け、
袁一驥と部下達を人質にした
この闘争は
皇帝より詔勅が出されるまで継続
↓
民心不安を招いた
高は
万暦帝の怒りに触れて
北京に召還されたが、
その後の消息は不明・・・
↓
ーーーーー
↓
万暦帝(ばんれきてい)は、
在位期間
1572年~1620年
明朝の
第14代皇帝
諱は
翊鈞(よくきん)
廟号は神宗
諡は
範天合道哲肅敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝
↓
日本では一般的に
治世の
元号を取って
万暦帝と呼ばれる
↓
万暦の中興
隆慶帝の
第3子
10歳で即位
即位直後は
主席大学士(宰相)
張居正の手腕により、
両税法にかわる
一条鞭法の導入
無駄な官職の撤廃
全国的な検地
無用な公共事業の廃止
などにより
財政は好転し、
満州の
女真も
李成梁により一時的に落ち着いた状態となり、
内外政で大きな成果を上げた。
帝自身も幼少年期には
聡明利発で、将来の大器と目されていた
↓
万暦十年に(1582年)
張居正が死去
親政を始めると一転して堕落し、
寵姫
「鄭貴妃」の偏愛による
立太子問題が起きた。
また日本の
豊臣秀吉が引き起こした
朝鮮の役においては、
宗主国として朝鮮を援助し、
それ以外にも
寧夏の
「ボハイの乱」
播州の
「楊応龍の乱」
の鎮圧
(朝鮮の役を含めて
万暦の三征と呼称)
などによって、
軍制の腐敗と相まって財政は悪化
顧憲成
が復興した
東林書院を中心とする東林党と、
魏忠賢ら
宦官勢力と結んだ非東林党の争い(党争)が
激化して
宦官が跋扈するようになり、
また
満州の
女真も
ヌルハチの下で
明の遠征軍を破るなど強大化
↓
しかし万暦帝は相変わらず政治に関心を持たず、
国家財政を無視して個人の蓄財に走った。
官僚に欠員が出た場合でも給料を惜しんで、
それを補充しないなどということを行い、
このために一時期は閣僚が一人しかいない、
あるいは地方長官が
規定の半数しかいないなどという異常事態
さらに
悪化した財政への対策として
(あるいは自らの貯蓄を増やすために)、
全国に税監と呼ばれる
宦官の徴税官を派遣して厳しい搾取
搾取に反対する民衆により
税監たちが度々殺される事件が起こったが、
万暦帝は最後まで廃止しようとはしなかった。
↓
国家にとって不可欠な出費を惜しむ一方で
私的な事柄には凄まじい贅沢をした。
例えば
鄭貴妃の子である
福王
朱常洵
を溺愛し、
その結婚式のために
30万両という金額を使っている
(張居正が政治を執っていた十数年に
国庫に積み上げた金額が
400万両である)
このことで民衆の恨みを買い、後に
朱常洵は蜂起
・・・
ーーーーー
・・・・
↧
「人造人間・ロボット」にもオトルのか・・・クサイ・スカンク
↧