現存・古事記・漢字源の世界・再四考
コジキのキリちゃん、砂漠で蜃気楼を追う
プラトン古事記をカタる
ハナシは、「乙=L=五拾=log」だった・・・「乙巳(いつし・いつみ・おつみ)の変(645=陸肆伍=六百四拾五年)」で「炎上」した「蘇我氏の邸宅にあった本」であった・・・「乙」と「巳」・・・つばめ(燕・津波目)」とは「乙鳥」と当て字され、「龍宮城」とは「乙姫」さまの「海神=海蛇(巳)=龍神」の城で、「乙訓」とは「おとくに」のコトであった。「乙夜」とは「午後十時過ぎ二時間」である。亡くなった人の火葬前の「お通夜」である。約440年前の「つばめ市の伝説」の濁流に流されてきた祠のハナシは「津波(つなみ)の目」だったカモ・・・約510年前に「水原憲家」という人(水原氏は鎌倉時代から白河荘の地頭の家柄)がその子の「景家」に出した手紙に、「おまえに津波目の土地を与える」ということが書かれてあるらしい(燕市広報ブログ)。「燕」は昔、「津波目」と書いていた。
カケラレテいるのは「現存・古事記」のスベテの「個々の漢字文字、合字された漢字を分解した漢字も含める」である・・・
そして
「北緯33度23分秒」、「東経120度7分秒」は、
「補(保)-句-意(違・異)
参・拾(足)・参・
度(渡・斗・途・都)
弐拾(念)・参
分(和気・別け・訳・腋・和記・倭紀・輪軌・環徽・話記)」、
「東-経(問う稽・問う景・島形・当稽)
壱・百・弐拾(念)
度(渡・斗・途・都)
七(漆)
分(和気・別け・訳・腋・和記・倭紀・輪軌・環徽・話記)」
である。ついでに中国「上海」の「位置」と「別称、簡称」を挙げておくと、
北緯31度10分→31.166667度
東経121度29分→121.483333度
別称→申→シン・もうす→「網巣・亡子」→さる→猿女君=宇受女
簡称→滬→コ・ゴ・えり・あじろ→上海の東北、松江の下流にある川の名前。
「滬上」とも・「えり」は衿・襟
「あじろ」は竹網の仕掛け、魚獲りの罠
滬拼(コヘイ)→氵+扈+手+并→扈(コ・ゴ・つきそう・とも・家来・しもべ
とどめる・禁止・蔓延・はびこる・おおきい)
扈従(コジュウ)→小舅・小姑→虎獣・虎従→付き従う
一々出典著作は個々に挙げないが、私が参照、参考にしたモノのホトンドは諸々の「現存・古事記」、「岩波文庫本・日本書紀」、諸々の腐るほどの「日本史関係書」、「世界史関係書」などの「歴史書本」、そして、ボロボロになった「大修館・漢和辞典」、「平凡社・百科辞典」、そして諸々の「旺文社・古語辞典+アルファ」、「英和・和英辞典+アルファ」、更には手っ取りバヤクてコピー、複写改作に便利な「ウイキペデア百科事典」等であるから・・・疑わしきは、読者が直接「コレラ(瀑瀉)」、「コロリ(虎列刺)」を調べて欲しい・・・危険か、安全か、有害か無害かは保障しない・・・原発事故、メルトダウン、放射能汚染は視えなし、一昔前のはガイガー機器は「ガァガァ」と測量音だけが頼りだった・・・毎年の伝染行事、「インフルエンザ菌」の感染は「平常体温36度5分」以上の高熱度、発熱度、そして「咳き込み」の激しさ、ゴホン、ゴホンと、泪と鼻タレの度合いが目安の判断である・・・地震、カミナリ、台風、突風、暴雨、洪水、豪雪、雪崩、噴火、貰った「受(授)命」、肉体(ジクタイ)はドウショウモない、ニッポンレットウ・・・それでも「天空」を見上げるのさ・・・ハヤブサはイトカワから帰還したのだから・・・キボウはチキュウを周っているのだし・・・
何時の時代からあった地名かは不明だが、「東冶」と「東台」の違いは「冫」が「有るか無いか」である。しかもここは「緯度32度50分」、ほとんど「33度線上」に存在する。そして「邪馬台国は会稽、東冶の東に存在」したのだ。
「会稽、東台の真東、緯度32度50分」あたりには九州長崎、島原諫早、熊本玉名郡横島、阿蘇山頂、横島、四国土佐横島、八丈島が並んでいる。
「東台」→東→「邪馬台」→「32度50分」にあるとするならば当時の中国人は平面な地球ではなく、「球体」としての地球を知っていたのだ。傾いている地球を輪切りにした「緯度」の概念を明確に知っていた。
歴史上、日本ではその知識を確実に実測して有していたのは江戸天文方の
高橋景保→「カルデアン(天文地理・占星術師)」であった・・・
「軽を、出す、案」・・・ヨルを観察するヒトは「塩漬け」
「古事記の島(秋津島・大八島)」は
「塩水の滴り、点滴」から形成
高橋景保の履歴は、
天明五年(1785年乙巳)から
文政十二年2月16日(1829年己丑3月20日)の生涯であった。
通称、
作左衛門。
字(あざな)は
子昌。
号、観巣
文化七年1810年庚午、
「新訂万国全図」銅版画制作。
伊能忠敬の全国測量事業を
監督→かんとく→寛徳
↓ ↓
↓ 寛徳(かんとく)は、年号
↓ 長久五年十一月二十四日(1044年甲申12月16日)に改元
↓ 永承元年(1046年丙戌5月22日)前までの三年間の年号
↓ 後朱雀天皇~寛徳二年、親仁親王が即位し後冷泉天皇の時代
↓ ↓ 巻得似撚 ↓ ↓ 足依 ↓
↓ 語取座句→後首割 信認震央 測位 碁例線→ご霊前
↓
↓ 寛徳のコトバは「杜林」と言う人物の評判伝
↓ (後漢書・杜林伝)の「上下歓欣、人懐二寛徳一」
↓ 建武二十二年(46年)、光禄勲に再任。
↓ 同年冬に、→同年問う 項録訓 再認
↓ 「朱浮」が罷免されその後任として
↓ 「大司空」に任命された。
↓ 「司空は『周礼』に記された六官の一つ、三公の一で、
↓ 周代では「冬官」の長として灌漑、土木 工作を監督。
↓ 『漢書』の注には水と罪人を主る(つかさどる)役人とある。
↓
全面的に援助。
忠敬の死後、彼の実測を基に→実測→字通素句→日足
「大日本沿海輿地全図」を完成。→輿(ヨ)=地図→与・夜・世
文化八年(1811年辛未)、→文化→文の変化は葉の知を念
「蛮書和解」→「蛮(バン)=亦+中+ム」の書の話(環・輪)
御用の主管。→おんよう→陰陽の主幹→音要の取換
「厚生新編」の翻訳開始。→構成→恒星→更正→光星
文化十一年(1814年甲戌)→文の変化はイチを拾うハジメ
「書物奉行兼天文方筆頭」就任。
文政十一年(1828年庚寅)の→文の所為は重(獣)の位置を撚る
シーボルト事件に関与投獄、→ジィボルト→字意簿留(流)図(斗)
文政十二年(1829年己丑)二月十六日に獄死。→語句史・極視
享年四十五才。→四拾五→肆を拾う語→ヨム、カサネル、語の才能
遺体は→異体・意他意・意多意→意富→太安萬侶
塩漬け保存。シヲ→潮汐→朔望→新月-満月→円
その後、遺体は→意他意→意対(碓・態・鯛・帯・台・戴・太・胎・退)
引っ張り出され→引張出(弟=乙・音・手=又=右手)→索引され
斬首刑。→算珠計(稽)・参主形→オリオン座三星・台形・逆台形
斬(車+斤)首(具の逆字)→キルクビ→記留句備
であった。
「かる・カル」とは
歌舞伎(かぶき・カブキ→化武記)の
「仮(假)名手本・忠臣蔵」に登場する「おかる(お軽)・かんぺい(勘平)」の名前にもなっているのだが・・・知っているかな?・・・事件の場所は「赤穂藩」である。現在の「赤穂市は、兵庫県の南西端部に位置し、岡山県との県境に位置する市。
古代には赤穂は吉備の国に属していた。
↓
「桃太郎の黍(きび・ショ)団子の国」→氵+黍=漆(うるし・シチ・シツ)→七・7
↓ ↓
「黍糕(米+羊+灬)=ショコウ」→黍(もちきび)・禝(うるちきび)
とすると、「鬼(おに・キ)」は「仇(かたき・キュウ・ク・玖=王+久=たま(黒曜石の球・球磨→熊)=イ+九」である。「玖=王+久」→「オウキュウ=王宮・応急」の示唆である。「吉良上野介」は名前からすると「吉良」で「綺羅」である、のだが・・・
兎に角、
「赤穂浪士・四十七士の仇(敵)討ち(1702年壬午、元禄15年12月14日)」のハナシである。
「仮(假)名手本」とは「いろは四十七(47=四拾七=肆拾漆)文字歌」に懸けられたタイトルで、「四+七=11→十一=壱拾壱」である。歌舞伎での初演の配役は、勘平が五代目「市川海老蔵」、 お軽が三代目「尾上菊五郎」・・・ お軽は矢絣に縦やの字帯の御殿女中の着物姿。この着物は「景事(所作、動作)」によっては振袖にもなるらしい。、勘平は黒の紋付の着流し、「東からげ(あづま絡げ)= 尻っぱしょり(尻端折り)=着物の裾を腰の両わきにからげて帯に挟むこと」で舞台に登場。
「五段目」では一人三役で登場人物を役者が早替わりで演じる。「火縄銃(ひなわじゅう)」で「猪(いのしし)」を二度撃つ「二つ玉」と呼ばれる場面がある。
「七段目」では「由良助が密書を読み、おかると縁の下に隠れていた九太夫に盗み見されてしまう」場面である。
上に記した浄瑠璃、歌舞伎の筋立て、台本の「文字、漢字、数字」、「シナリオ段取り文章」は時の「御政道」の権力を慮って、当時の江戸時代の事件を作家が「過去の時代の歴史的事件」に移(写・映・遷・ウツ)し、変(代・換・加重・買・飼・替・カ)え、重(笠・加佐・暈・傘・量・瘡・嵩・カサ)ねて、「脚色」したモノなのである。
これを踏まえ、ここは、主に「日本書紀」、「古事記」、「ギリシャ神話」に記されている人物と事件を歴史(暦史・轢死・例記詞・レキシ)の流れの中で拾ってイキタイ・・・
更に
「幕末~明治」に登場する人物の名前や、その履歴傾向、彼等の事件があった場所等を重ね、時代が異なるのに何故、同じような物語展開がナサレテイルノカを、妄想、推理しながら追求してイキタイ。
*「→」は私が文字、文章、数字、を「同音異字」で変化させたモノで、
「合字」された「漢字」を文字分解して同音異義で読んだモノも含む。
*「↓」は関連させたモノへのツナギ方向である。
*「←」は関連示唆ではないのか、と思われるモノである。
*「干支六十(60・六拾)サイクル年」の重なりとして
同音異字を記し、漢字分解もしてヨンだが特に注目してほしい。
例(タトエ)ば、
「子=鼠=ね・こ・す・シ」、「子」=一+了=壱+了(ア・あ)=始終
1)
「軽」皇子とは「木梨軽」皇子(きなしのかるのみこ)で
第壱拾九(玖)代の
允恭天皇の→「允(イン)=ム+儿」→ヨコシマのヒト→木戸孝允
↓ ↓ ↓
↓ ↓ 桂 小五郎=長州閥」の長(おさ)
↓ ↓ 天保四年六月二十六日・1833年八月壱拾壱日
↓ ↓ 誕生
↓ ↓ 明治十年1877年五月二十六日死没←胃癌?
↓ ↓
↓ 充から「亠(音の字の略)」を除去した漢字
↓ まこと=眞言・眞人・信・誠・実→承認・認可
↓ 允文・允武→天子が臣下を褒め称えるコトバ
↓ 眞人は天武天皇→天渟中原瀛真人(まひと)
↓ ↓ 第四拾代天皇・明日香清御原宮(御宇)天皇(萬葉集)
↓ ↓ 在位は天武二年二月二十七日(673年3月20日)
↓ ↓ 朱鳥元年九月九日(686年10月1日)
↓ 国語では主殿寮第三等判官「允(じょう)」と訓む
↓
第一皇子、皇太子であった・・・
「軽」の漢字分解は
「車」の「圣(又+土)」で、車輪の「直径・半径・径行・圣→茎(くき)」
↓
小道・横路・横道・差渡し・径行
径(けい、diameter)とは、図形の差し渡しの長さのこと。
「軽(かるい・ケイ・キン)=車+又+十+一」は古代の戦車である。
↓ ↓ ↓ 戦車に乗って
↓ 車の右手の壱拾壱→鞭か槍か弓の弦に番えた矢
↓ 11=壱拾壱=イチひろうイチ=位置を拾う射置→鯱(魚+虎)
↓ ジュウイチ=重位置・獣位置
↓ 十=と・たり・ そ・ はつ
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
↓ 七 充 足 三十日 二十日
↓ ↓ ↓ ↓
↓ ↓ 晦日(みそか) 念
↓ 一=はじめ・はじまり
↓ ↓
↓ 始初肇創元春本源甫基啓哉
↓ 一日=ついたち→対他値→朔日(サクジツ)
↓ 月建(立) 昨日→差句字通
かるい=駆る・駈る・刈る・狩る→借る意
「かるい」は「狩る射(畏=くま=熊=大熊座・小熊座・北斗七星」)」で、
この「母子の熊、二頭の物語」は
ギリシャ(希臘)神話に語られているモノである。
↓
主神の
ゼウス(ユピテル)が→ぜうす→是-ウス(臼・碓・薄・有珠)
↓ ゆひてる→結い手瑠・唯出留・諭意輝(耀・照・瑛)
↓ ゼウスは稲妻の光、落雷の「雷電の神」で、
↓ 来電→頼伝(傳)→人は専→伊藤博文
↓ 落雷音→ラク・ライオン」は「殷(イン)→轟音→號(号・合)音
女神→おんなかみ→音名化視→めがみ→目加美
↓ ジョシン→序審
アルテミス→あるてみす→在る出(弟)見素
侍女の→ジジョ→次女・二女・児女・爾汝・自序・自助・次序・字如
↓ はべるおんな→葉辺(邊・部・経)留音名
乙女→おとめ→音目→いつめ→何時芽・逸目・伍目・溢目・意津女
↓ ↓
↓ 処女→ショジョ→書所→図書館・翰林館→坂本乙女→坂本龍馬・お龍
↓ 「乙名=乙人」とは長崎出島の管理通訳役人でもあった。
↓ 「乙名(おとな=乙人)部屋」もある。
↓ ↓
↓ 耶蘇会士「ジェロラモ・デ・アンジェリス」は
↓ ↓
↓ 出・編む字絵利州
↓ ↓
↓ 「元和二年」に津軽に流されたキリシタンを慰問した。
↓ その時に彼は津軽の深浦から出帆し、「蝦夷が島」に渡航。
↓ 上国(かみのくに)付近に着き、徒歩で松前城下に入った。
↓ この地では「乙人(おとな)」の待遇を受け
↓ 10日ほど滞在してキリシタン信徒の「告解」を受けて出羽に戻った。
↓ 同僚の「カルワリオ」も「六年・七年」に蝦夷地に渡っている。
↓ ↓
↓ 「カルワリオ」の記録→軽・話・理・御→化留話理御
↓ ↓ ↓
↓ ↓ (緒・汚・悪・於・尾)
↓ 彼は金(キン・コン)掘坑夫に変装し蝦夷地に渡り、
↓ 金山に存在していた隠れキリシタンのために
↓ ↓ 「8月15日」の「聖母昇天祭」を祝った。
↓ ここにいた隠れキリシタン(切支丹)は→切(七刀)支丹
↓ ↓ ↓長崎→ 七島視譚=横島
↓ 寛永十四年(1637)の「島原の乱」があった後の寛永十六年に
↓ 蝦夷地の大沢、知内、石崎の金山に潜伏していたが
↓ 松前藩はこれら「106人」を捕らえて斬首にした。
↓ 「正保元年(1644)」に「日高の様似」の金坑で
↓ 隠れキリシタンの「児玉喜左衛門」を捕らえて江戸に送った。
↓ ↓
↓ 字を漁る句(区・九)記、左(よこしま)に重る意(異)文
↓ この時点で蝦夷の隠れキリシタンは絶滅した、らしい。
↓
↓
カリストと→かりすと→借素賭・仮州都・雁州渡・刈諏斗・化理素図
↓ かるしと→軽視斗→北斗七星→大熊座、小熊座
関係し→カンケイ→環形・還啓・姦計
妊娠させ、→にんしん→認真・仁診・任審・人参・人身・人臣・壬申
カリストは男子→だんし→談詞・旦視・檀氏・檀紙・拿務史
アルカスを出産。→しゅっさん→出纂・出燦・出参・出讃・取津山
ゼウスの妻→つま→津間→サイ→歳・才・斎・差異・差意・差緯
ヘラ(ユノー)は→へら→箆・平良・経等・辺羅
その→園・苑・素埜(乃・廼・之・野・能)
事情を知って→ジジョウ→自浄・二乗・治定・字條
ことのなさけ→古都の名差懸(化)
激怒し→ゲキド→劇奴→解記度
↓
カリストを
熊に→くま→球磨・久万・玖磨・曲・隅・隈→大隈重信
↓ ↓ ↓
↓ クマ=「宮間」の逆→間宮→間宮林蔵
↓ ↓
↓ 蝦夷渡島→樺太(からふと・サハリン)→間宮海峡(マミアのセト)
↓ 佐和(佐波)臨 ↓ ↓
↓ 1808年(戊辰)間宮林蔵↓↑発見→松田伝(傳)十郎
↓ ↓ 1809年(己巳)渡航↓ ↓↑
↓ ↓ 北満州-沿海-ハバロフスク間の海峡=海人の背徒
↓ ↓ タタール海峡→祟る海峡?
↓ ↓ お庭番←間人←間諜(スパイ)→密告→鳴滝(瀧)塾→蛮社の獄
↓ ↓ ↓ 間人王女 蛮=亦中ム
↓ ↓ 真人=大海人皇子
↓ ↓ ↓ ↓
↓ ↓ 忍者・変身→隠密・お庭番
↓ ↓ ↓ ↓
変身させてしまった。→ヘンシン→返信・変身・変心
↓ ↓ ↓ ↓
↓ 「交・響・曲」・・・1808年12月22日に
↓ ↓ ↓ 壱千八百八撚壱拾弐ガツ弐拾弐比
↓ ↓ヒビキ(比備記)が交わるヨコシマ(横嶋・邪)
↓ ベートベンが→邊(辺・部)重都弁
↓ 「運命(第五番)」と→ハコブ(葉胡分)イノチ(亥の地=北西)
↓ ↓ 大悟の番(つがい・対)
↓ ウンメイのダイゴバン→有無名の代(拿意)語伴→第(竹弟)→題
↓ 「田園(第六番)」を→デン(傳・伝)エン(円・苑・猿・媛・塩)
↓ タソノのダイロクバン→多祖の代録判
↓ ウィーンで初演・・・アン・デア・ヴィーン劇場
↓ ↓
↓ 案 出亜 武意音(允・寅・蔭)→木戸孝允
↓ ↓ 桂小五郎
↓ 松下村塾→吉田松陰(寅次郎)
↓
アルカスは→歩かす
(アレカス)→稗田阿礼→阿礼が化した州
狩の名手に成長し→メイシュ→名取・盟主・明主・姪主・命取
谷間で→たにま→他似眞・多爾間・太邇間
↓ コクカン→国間・刻間・告奸(姦・翰・官)・弧区間
熊に変身させられた
母カリストを発見し
槍で熊を殺そうとした瞬間
大神ゼウスは、
アルカスを小熊に変身させ、
二頭の→ニトウ→二等・二島・似唐・爾当・爾問・次当→字問・時当
↓ じとう ↓
↓ 字問→「邇邇芸命」=天津日子番能邇邇藝(芸)命
↓ ↓
↓ ツガイの二字の解意明
↓ 笠沙(かささ・リュウサ=龍座)の御前(みさき・音作記)
↓ 量の差 見左記 音叉器
↓ 木花之佐久夜毘賣=記(胡)のハナシ作句依る備目
↓ 泣く子も黙る地頭→名句胡摸拿眞留字答→時塔=時計台
↓
大熊と小熊を→大熊(ダイタイ)代替・大腿・大隊・大体
↓ おおくま→大隈・逢隈→大隈重信
天空の→あまのそら→雨の空・海女の空・海部の素等・海士の空
↓ テンクウ→転空・典句得・点空・添句宇
星座とした。→セイザ→正座・静座・静坐
だが
ヘラの
怒りと→いかり・おこり→錨・猪狩・起こり・興り・熾り・瘧
憎しみは納まらず→にくい→似句意→シミ=詞(史)視=染・凍・衣魚・紙魚・滲
両親の→リョウシン→良心→龍神・龍人→龍審
海神→あまかみ→天神
オケアノスと→おけあのす→尾懸亜名素
↓ ↓
↓ 尾張をかけたアマネシの名の本
その妻
テーティスに→てえてぃす→手重訂す→出(弟)重帝椅子(慰す)
二頭の母子熊の→丹(朱・紅・赤)等の星の熊
星座が
海中に沈まないように訴え
海中で→改鋳→天中→てんちゅう→典中→天誅→添注
休息するコトが出来ない→きゅうそく→球速・九速・九足・求測
北極星(ポラリス)の→ぽらりす→歩等理数
「周極星座」とさせた。紫薇苑(垣)の天皇皇帝=北極星
↓
小熊座の尻尾の星
その見上げた夜の天界の転回の天海の「展開図」である。
「見上げてご覧、夜の星をォ~ヲ~」である・・・
「渦(カ・うづ)留(ル・とどまる)意(イ・音(立日)心)」=天体図
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
宇津・宇図 斗度〇 移 音(立つ日)の個々路
逗留 海流・潮流
潮汐の旋廻→迂通→迂回→鳴門→なると→月の朔望 ↓
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
渦とは旋毛(旋風)→「つむじ」の形の螺旋巻き→有頭の回転 ↓
↓宇・雨・烏・兎・う=鵜(弟鳥・鸕)頭の廻添
↓得=ウ→弟鳥→音取→乙酉
↓「宇=ウ+于」は「字=ウ+子」に類字
↓「宇受女=猿女」→目が丸い←古事記
竜巻・龍巻・辰巻→建巻き←乞事記
↓ ↓
「摘む字・詰む字・積む字・抓む字」 ↓ 台風←候時季
↓ ↓秋=穐(禾亀)・空
現存・古事記→←大和(倭)建の命 ↓
↓ 能義亀
垂仁天皇 ↓
佐波遅比賣=沙本毘賣→差和字秘・査本備目 鼈甲→別項・捌考
↓ ↓
唖の品牟都和氣=本牟智和氣→大鷹(帝鳥)→阿藝登比=アキ
↓ ↓ ↓ ↓アキ=安芸→広島
↓ 本(叛)無知訳 安芸問い(土肥)
↓ 高知←土佐・肥後→熊本
唖(おし・ア)の「建皇子(たけるのみこ」の履歴
(白雉二年・651辛亥~斉明天皇四年・658年戊午)→白雉→白知
「唖で語ふこと能はず(日本書紀)」 白きじ→白記事
天智天皇の第二子 ↓
母親は落智姫(蘇我倉山石川麻呂の娘) 生地・木地→落智
斉明-皇極天皇は「萬歳千秋の後に、(建を)要ず朕が陵に合せ葬れ(日本書紀)」
と言って「建皇子」を一緒の墓に埋葬することを命じた。
建皇子享年、「数えで八才(歳)」、「満で七才歳」
↓
「目弱王=眉輪王」は「七歳」で
雄略天皇=「大長谷若建=大泊瀬幼武」に「都夫良意富美」と共に殺された。
父は「大日下王」、つぶら(円)
母は「長田太郎女=中蒂(丱+帝=へた・臍・ね・棘・テイ・タイ・蔕)」
↓ ↓ ↓ ↓
おさだ=訳語拿 へそ・ほぞ とげ ++ナ廿九ワ巾
2)
そして、
「孝徳天皇=軽皇子
(645年7月12日・大化元年六月十四日即位~654年11月24日・白雉五年十月十日」
「天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)」であった。
大化元年十二月九日、都を難波長柄豊碕に遷した。
父親は「茅渟王」
母親は「吉備姫王」であり、
皇后は「間人皇女」であった。
妃は阿倍倉梯麻呂の娘「小足媛」
妃は蘇我倉山田石川麻呂の娘「乳姫」
3)
もう一人の「軽」は
「珂瑠(かる)、軽(かる)皇子」で、
文武天皇(もんむてんのう、第42代天皇
(在位文武天皇元年八月一日(697年8月22日)
~慶雲四年六月十五日(707年7月18日)。
諱が珂瑠(かる)、軽(かる)。
和風諡号は
二つ、
「倭根子豊祖父天皇(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)」
旧字体:豐祖父
と、
「天之真宗豊祖父天皇-『続日本紀』797年(延暦十六年)である。
父親は「草壁皇子=日下部皇子」で
母は「阿陪皇女」である。
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