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「円満=圓満」なカンジだけれど「㘣=囗+肙」って?

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 インターネットでの
 翻訳「漢字辞典」検索での結果のボクの理解度では・・・
 「漢文語 ≠ 日本語」・・・「日本語」になっていないみたい・・・
 「英 語≒日本語」・・・「日本語」になっている・・・?
 ↓↑
 「円満=圓満⇔㘣」なカンジ?・・・
 「圓=㘣」を調べてみた
 ↓↑

 㘣=囗+肙・・・圓(エン)=囗+員=円
   囗+口+月
   ケン・セン・ゼン
   規則・規制
   从(從)囗,肙(エン)聲
     従がう=随う・遵う・順う・从
   圓規
  《說文解字.囗部》:規也
  《古文苑.卷一七.蔡邕篆勢》
  :摛華豔於紈素・為 學藝之範」
   摛=扌+离
     扌+㐫+禸
     扌+亠+凶+冂+厶
     扌+亠+凵+㐅+冂+厶
    =攡=扌+離
     チ
     述べる・しき述べる・・・しき?
     広める・広く伝える
  【出處】
  《晉書·衛恒傳》
  :摛華艷於紈素,為學藝 之 范先
    華艷=華美艷麗     「范蠡(ハンレイ)」
      素紈=白く美しい
      光沢のある練絹(ねりぎぬ)
      緇=緇衣(シエ)
        黒い衣を着た僧
      素=素衣(ソイ)
        白い着物を着た在家者
   ↓↑
   天(テン)勾践(コウセン)を
   空(むな)しゅうすること莫(なか)れ
   時(とき)に
   「范蠡(ハンレイ)」
   無(な)きにしも
   非(あら)ず
   ↓↑
  《勾践は
   中国春秋時代の
   越の王
   范蠡は
   呉に敗れた勾践を助け
   呉を滅した忠臣》
   ↓↑
   天は勾践を見捨てない
   時がくれば
   范蠡(ハンレイ)
   ↓↑  ↓↑
      范(ハン)=艹+氵+㔾
      いがた・かた
      のり
      草の名
      虫の名
      蜂
      かた・鋳型・鋳造の型
      のり・法則・規範
      蠡(レイ)=彖+䖵
        彑+豕+虫
       =蟸=豕+䖵(蟲)
       =䗍=彖+虫
        レイ
        かい
        にな
        ひさご
        ほらがい(法螺貝)
        むしばむ・虫が食う
        木食い虫
        巻き貝の一種
   のような忠臣が出て助けてくれる
   南北朝時代
   児島高徳 (こじまたかのり) が
   捕らわれの
   後醍醐天皇に
   自分の志を示すため
   桜の幹に書いた
  「太平記」巻4の詩句
   ↓↑
   詩
   児島高徳が
   後醍醐天皇の
   隠岐に遷幸されるのを
   奪還しようとして
   院庄の
   行在所に忍び込み
   桜の幹に
  「天莫空勾践
   時非無范蠡」
   の二句を書き
   忠誠を奏上した図を見て詠じた
   詩
   児島高徳が
   後醍醐天皇の
   隠岐に遷幸されるのを
   奪還しようとして
   院庄の
   行在所に忍び込み
   桜の幹に
  「天莫空勾践
   時非無范蠡」
   の二句を書き
   忠誠を奏上した図を見て詠じた
   詩=シ=詞
   院庄の・・・韻(音・員・陰・蔭・允・寅)状?
   行・・・・・行文?
   在所に
   忍び込み
   桜の幹に・・・櫻=さくら=佐句等?
  「天莫空勾践
   時非無范蠡」
   の二句
   忠誠を
   奏上した
   ↓↑
  参照、参考は
 「https://dictionary.goo.ne.jp/word
  出典:デジタル大辞泉(小学館)」
   ↓↑
   宋・章樵・・・章=あや・あきらか・ショウ
          樵=きこり・ショウ・ジョウ
    ・注
  :「音旋・規也・所以 為 圓・圓規
    音旋=音の旋律
       ・・・円(まろ)やかな
          滑(なめ)らかな音?
    音の響きの規則性
 ↓↑
 㘣=囗+肙・・・圓(エン)=囗+員=円
   囗+口+月
   ケン・セン・ゼン
   規則・規制
   从囗,肙聲
   圓規
  《說文解字.囗部》:規也
  《古文苑.卷一七.蔡邕篆勢》
  :摛華豔於紈素・為 學藝之範」
   宋・章樵・注
  :「音旋・規也・所以為圓・圓規
    音旋=音の旋律
   規則性・ルール・音声の響き
 ↓↑
 異体字
  「円・圓」
   圓=エン
     まる・まるい形・円形
     まるい・まどか・まろやか
     角のないさま
     つぶら。つぶらか
     るいさま。まるくて可愛らしいさま
     まったし・完全な
     かけているところがない
     日本語
     えん・日本の貨幣単位
     そのあたり一帯
 ↓↑
 肙+α
 剈娟悁捐涓狷埍弲㘣
 䧎琄梋焆罥㾓睊瓹裐
 䅌鹃蜎䣺鋗鞙䬼駽鵑
 ↓↑
 㘣=囗+肙・・・圓(エン)=囗+員=円
   囗+口+月
   ケン・セン・ゼン
   規則・規制
 ↓↑
 涓(ケン)=氵+口+月
  しずく(滴)
  わずか(僅か)
  水の小さな流れ・細く流れるさま
  水のちいさなしずく
  水滴・小さい・わずか・微小なさま
  清らか・潔い・はらい清める
  選ぶ・より分ける
  除く・捨てる
 ↓↑
 娟(エン)=女+肙
  ケン
  うつくしい
  しなやか・みめよい・うるわしい
  動作がしなやかなさま
 ↓↑
 肙(エン)=口+月(冃)
       小さな虫の名
       ぼうふら(孑孑・孒孑)
       蚊の幼虫
 ↓↑
 㾓(エン)=疒+肙
   関節が痛む。
   憂鬱(ユウウツ)になる・だるくなる
 絹(ケン)=糸+肙
   きぬ・絹糸=ケンシ=繭糸
 ↓↑
 員(イン)=貟=ム+貝(目+ハ)
   イン・エン・ウン
   かず(数・數)
   人・モノの数
   係・役人・ある組織団体に属する人
   まわり・囲・幅
   まる・まるい形=円
   増す・増やす・増える 
   冗員淘汰(ジョウイントウタ)
   員数を揃える
   員に備わるのみ
  ↓↑
 「大員=Tai-uan=ダイワン」
    =台湾=臺灣・台灣・Táiwān)
台湾語=台湾総人口の7割を占める
    「閩南人」の言語で
     大陸の中国語(官話)とは異なる
     台湾語・客家語・日本語・オランダ語
     原住民語の要素が加わって形成された
     多民族間の共通語
     「台澎金馬=台湾を統治する政治的実体概念」
     台湾の語源
     原住民シラヤ族の言語
    「Tayouan(ダイオワン=来訪者)」
    「Tai-Vaong=海に近い土地」
    「Tai-oan=牛皮の土地」
    「Tayw-an=人間の場所=Tayw-an」
    「大員(台湾語発音:Tāi-uân=台南=ダイワン」
     オランダ人が入植し原住民の言葉が起源
     漢語の由来ではない
     中国の文献に
    「台湾(Tâi-uân)」
     と呼称されるようになったのは
     清朝統治からのこと
 ↓↑   ↓↑
     別称
    「台湾島=フォルモサ(Formosa) 」
    「美しい」という意味のポルトガル語
     16世紀半ば
     ポルトガル船の
     オランダ人航海士が
    「Ilha Formosa
    (イーリャ・フォルモーザ=美しい島)」
     と呼んだことに由来
    「フォルモ=中国語
          意訳・美麗島
          音訳・福爾摩沙」
 ↓↑  ↓↑
    日本
    高山国(コウザンコク)
    高砂国(たかさごこく)
    商船の出入した
    台湾島西南岸の
   「打狗山(高雄)」
    由来の
   「タカサグン」
    の訛り
   「タイオワン事件」
    原住民が
   「高山国からの使節」として
    江戸幕府3代将軍
    徳川家光に拝謁した
 ↓↑  ↓↑
    1628年6月(寛永五年五月)
    タイオワン事件
   『Oud en Nieuw Oost-Indiën』
    フランソワ・ファレンタイン
   「タイオワン(台南・安平)」
    の
   「ノイツ」は帰国した先住民達を
    全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁
   「浜田弥兵衛」の船も渡航を禁止し
    武器を取り上げ
   「弥兵衛」は激しく抗議し
    拒否し続ける「ノイツ」を組み伏せ
    人質にし実力行使
    オランダ東インド会社は
   「弥兵衛」らを包囲
    その後の交渉で
    互いに5人ずつ人質を出しあい
    互いの船に乗せて長崎の港に着いたら
    互いの人質を交換することで同意
    長崎に着くと
    オランダ側は日本の人質を解放
    長崎で迎えた代官
   「末次平蔵」らは
    そのままオランダ人達を
    拘束、大牢に監禁し
    ランダ商館を閉鎖
 ↓↑  ↓↑
    オランダ領東インド総督
    ヤン・ピーテルスゾーン・クーン
    はバタヴィア装備主任
    ウィルレム・ヤンセン
    を特使として日本に派遣
    平戸藩主
   「松浦隆信」と
   「末次平蔵」は
   「ヤンセン」が江戸幕府3代将軍
   「徳川家光」
    に会うため江戸へ行くことを許さず
    将軍家光の名を騙った返書を作成し
   「ヤンセン」に渡した
    その内容
   「先住民を捕らえ
    日本人の帰国を妨害したことは遺憾である
    代償として
    タイオワンの
    熱蘭遮(ゼーランディア)城を明け渡すこと
    受け入れれば
    将軍は
    ポルトガルを憎んでいるので
    オランダが
    貿易を独占できるように取り計らう」
    とし
    ヤンセンは将軍に会えないまま
    バタヴィアにこの返書を持ち帰ったが
    クーンは病死しており
    新たな総督は
    かつて平戸オランダ商館長(カピタン)の
    ヤックス・スペックス
    で長年日本で暮らし
    日本と日本人を研究していた
    スペックスは
    これが偽書であることを見抜き
    ヤンセンを再び日本に派遣した
    長崎通詞
   「貞方利右衛門」
    がオランダ側に語ったのは
   「平蔵は近いうちに死ぬだろう」
    というもので
   「末次平蔵」
    獄中で謎の死
    オランダ側の記録には
    将軍が閣老達に
    貿易に関わる事を禁じていたが
    閣老は平蔵に投資をして
    裏で利益を得ていたため
    切り捨てられたらしい・・・
 ↓↑  ↓↑
    オランダは
   「この事件は経験の浅い
    ノイツの対応が原因で
    ランダ人を解放してさえくれれば良い」
    とし
   「ノイツ」を解雇し
    日本に人質として差し出した
    日本側はこの対応に安堵し
    これが鎖国体制を築いた時に
    オランダにのみ
    貿易を許す一因ともなった・・・
   「ノイツ」は
    1632年~36年まで日本に抑留された
    1636年(寛永十三年)
   「ニコラス・クーケバッケル」
    の代理として参府した
   「フランソワ・カロン」は
    5月3日
    将軍家光に拝謁し
    銅製の灯架を献上
    家光は返礼として
    銀300枚を贈った
    この時、以前より平戸藩主から
   「ノイツ」の釈放を頼まれていた老中の
   「酒井忠勝」が
   「ノイツ」の釈放を願い許可され
   「カロン」が献上した灯架(燈籠)は
    日光東照宮に飾られた
    1632年(寛永九年)
    閉鎖されていた
    平戸オランダ商館再開
    1634年(寛永十一年)
    日本人が
    台湾に渡ることは正式に禁止
    その後は
   「鄭氏政権」が誕生するまで
    ネーデルラント(オランダ)が台湾統治
 ↓↑  ↓↑
    安永四年(1775)
    オランダ商館の医師として
    長崎に滞在した
    スウェーデン人の
   「カール・ツンベルク」は
   『日本紀行』
    の中で本事件について触れて
    日本人は自尊心が高く
    西洋人の滑稽さや不正は忘れて
    許してくれるが
    傲慢な軽蔑的態度は
    許しがたい罪を犯したとみなすと評し
    本事件に関する
   「ケンペルの『日本誌』」
    の記述を引いて
    本事件は
    日本人商人に対する
   「ノイツ」の扱いが非常に酷く
    日本君主および国民に対する
    甚だしい侮辱であると
    憤慨した侍臣たちの
    復讐である・・・とし
    日本人は
    正義の念あつく
    自負心強く
    勇敢な国民であるため
    侮辱を加える者には容赦なく
    普段は
    怒りや憎しみの情を表さず
    侮辱に対して憎厭の念を心中にため込み
    機が至れば
    直ちに殺傷に至る復讐に出ると
    注意を喚起
 ↓↑  ↓↑
    中国による「台湾」呼称の変遷
   『漢書地理志』
   「会稽海外 有 東鯷人
    分 為二十余国
    以 歳時 来献見・・・」
   「東鯷=台湾」を指す・・・?
     鯷=魚+是=鮀=魚+它・鯰=魚+念
              它=蛇=虫+它
                  虫=中+ム
              它=宀+匕=羽生・蝮
     魚=まな=真魚・茉菜
          真名=漢字」の
       「是非」の
       「是=日+一+ト(占)+人」?
     鯷=⺈+田+灬+日+一+龰
       テイ・しこ・ひしこ
       大鯰(おおなまず)=淡水魚
       カタクチイワシ科の海水魚
       硬 口 鰯・鰮=いわし=違和史(詞)
    漢代の中心地は
    中原=長安・洛陽
    で
    福建省や広東省の
    沿岸地帯(河洛)にまで至ることは稀で
   「東鯷」・・・鯷(テイ・ひしこ)
    とは海上の島嶼群を漠然とした名称
   「台湾」の呼称とすることは困難・・・
    三国時代
    沈瑩著『臨海水土志』
    陳寿著『三国志』呉志の孫権伝
    の部分に記述が見られ
   『臨海水土志』に
   「夷州在浙江臨海郡的東南
    離郡二千里
    土地無霜雪、草木不枯、四面皆山
    衆山夷所居。
    山頂有越王射的正白、乃是石也。」
   「部落間互不相属、各号為王、分割土地・・・」
   「夷洲在臨海東南、
    去郡 二千里。
    土地無霜雪、草木不死。
    四面是山谿。
    人皆髠髮穿耳、女人不穿耳。
    土地饒沃、既生五穀。
    又多魚肉。
    有犬、尾短如麕尾状。
    此夷舅姑子婦臥息。
    共一大牀、略不相避。
    地 有銅鐵、
    唯 用鹿格 爲矛以戰闘、
    摩礪 青石以作(弓)矢鏃。
    取 生魚肉雜 貯大瓦器中、
    以 鹽鹵之、歴月所日、
    乃啖食之、以 爲上肴

   『孫権伝』に
    二年春正月
    魏作合肥新城。
    詔立都講祭酒,以教學諸子。
    遣將軍衛温、諸葛直將甲士萬人,
    浮海 求 夷洲及亶洲。
    亶洲在海中,
    長老傳言
    秦始皇帝 遣
    方士 徐福
    將 童男童女數千人入海,
    求 蓬萊神山 及仙藥,
    止 此洲不還。
    世相承有數萬家,其上人民。
    時有 至 會稽 貨布,
    會稽 東 縣 人 海行,
    亦有 遭風流 移 至 亶洲者。
    所在 絶遠,卒不可得至,
    但得 夷洲 數千人還。
    夷州=台湾島

    隋末~宋までの600年間
    中国文献に台湾の記事が無い
    元代
    記録に「台湾」が出現
    明代
   『東西洋考』
   『閩書』
   『世法録』で   「台湾=東蕃」
   「周嬰在」が表した
   『東蕃記』で   「台員」
   「何喬遠」が表した
   『閩書島夷誌』で 「大員」
   「張燮」の
   『東西洋考』で  「大円」
   「何喬遠」の
   『鏡山全集』で  「台湾」
   「沈鉄的奏折」で 「大湾」
    福建沿岸の民衆は
    台湾南部を   「毘舍耶」
    中原の漢族は
    台湾北部を   「小琉球」
    と呼んでいる

    明の太祖
   「朱元璋」の時代
   「琉球」という呼称は
   「沖縄・台湾」双方を指す語として使用
    両者の区別に混乱し
    沖縄を大琉球
    台湾を小琉球
    と呼ぶ
    台湾=小東島・琉球・北港・東番

    明末
   「鄭成功」
    台湾に鄭氏政権
    台湾を
   「東都」「東寧」などと呼ぶ
    なお
   「大員Tai-uan=ダイワン」
    の呼称が用いられ
    台湾近くにある
    琉球嶼(屏東県琉球郷)を指して
   「小琉球」と呼ばれ
    台湾と「琉球嶼」との間で
    両者の区別に混乱が生じた

    清の
    台湾を統治後
    原住民の言語を語源とする
   「台湾」が使用

    16世紀以前の台湾島
    南部に
   「大肚王国」地方政権が存在

    17世紀前半
    ポルトガル・スペイン・オランダ
    などの西洋諸国は台湾を開拓建設し
    キリスト教の教会
    赤崁楼
    洋風な赤レンガの建築を多く建設
    大航海時代の影響で開発され
    オランダを中心とし
    西洋文化を取り入れ
    文明が発展

    1662年
    漢人
   「鄭成功」
    は台湾のオランダ植民者を追放し
    台湾島を
    明朝再興派の拠点とし
    台湾島初の政治的実体である
    東寧王国を設立
    1683年
    漢民族国家
    明に代わって
    満洲民族の
    清は
   「東寧王国」も征服
    台湾を併合
    1662年~19世紀まで
    中国大陸から多くの漢人が台湾島へ移住
    原住民の総数を超えて
    台湾の過半を占めた
    仏教・道教・中華料理
    繁体字などこの時期に台湾へ持ち込まれた

    1895年(明治二十八年)
    日清戦争で日本が清に勝利
   「下関条約」が締結
    台湾島・澎湖諸島が
    日本初の植民地として
    神社や和風の木造建築が建設

    1945年(昭和二十年)
    第二次世界大戦で
    日本はアメリカや中華民国に降伏
    台湾は
    当時中国大陸の政府
    中華民国国民政府の統治下に入った
    1943年にカイロ宣言で
    台湾(台湾島・澎湖諸島)を
   「日本が清から盗取した
    中華民国に返還すべき地」と定め
    中華民国は台湾総督府を解散させ
    台湾島と澎湖諸島を合わせて
   「台湾省」として中華民国に編入

    1949年
    中華民国は
    第二次国共内戦で
    中国共産党に敗れ
    台湾に撤退し
    最終的に中国大陸の領土は
    金門島・馬祖島の2つしか維持できず
    政府を南京から台湾の台北へと移転
   「台湾地区(台澎金馬)」となった
    1971年
    国連
    アルバニア決議によって
    中国共産党の
    中華人民共和国へ継承
    中華民国政府は
    国連から脱退
    中華民国の
   「中国を代表する資格」
    は中華人民共和国に継承されたが
   「中華民国の領土」
   「台湾の帰属」
    に関しては何の法的結論も出さない・・・
    1992年
    台湾民主化以降
    中華民国は
    中国大陸での主権を取り戻すことを完全に放棄
    台湾での発展のみを専念

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