・・・やっとヒカリをみせてくれたネッ・・・一般的にはスポーツは勝っても、負けても、「楽しんでやる」のが自然体である。「階級国家」を背負って、「金メダル」を狙うコトのみを目的にしてはナデシコの本来の「笑顔」は消えてしまうのは当然である・・・カッテの「世界チャンピオン」の「結果としてのナデシコの笑顔」は、大震災、大津波、原発事故で苦しみ、モガイテいた東北に住んでいた人びとに対するプレゼントであったし、この地球上に苦悩しながら生きている人間に対するプレゼントでもあった・・・「国家エゴの名誉のタメ」ではない、「カネを稼ぐタメ」でもない、「命を賭ける見世物」でもない?・・・それは、勝っても、負けても、その「フェア(fair)な勝負」で「一所懸命に躍動した姿」を感動的な「希望」として、震災、津波、原発の悲惨さを背負った「小さな女性達」の活躍として世界の人びとにアッピールしたのである・・・彼女らの笑顔のサッカーは現実的には「プロ生活者」としてのモノではなく、好きだからヤル、と云う「アマチュア(amateur)精神」だったハズだ・・・だが、「王様の期待」を背負ってしまうと「なでしこの笑顔」は別なものになってしまうのは当然である・・・
・・・撞球(billiards)の「映画のハスラー(hustler)」は「玉突き技の名人」だったが・・・「ワザの名人」だけでは喰ってはいけないのも、この「現実社会」である・・・「プロの勝負師」とは生活をかけての「ワザ」である・・・「アマ」では喰ってはいけない現実がある・・・そして観衆は「プロの勝負師」にカネを賭ける・・・
「撞球(ドウキュウ・billiards)」の漢字の「撞(つく・さしさわる・ドウ・シュ」は「扌(てへん・手)+童(わらべ・立里)」である。熟語は「撞着・撞木(突棒)」童を部首とする漢字は、「憧(あこがれ)・瞳(ひとみ)・鐘(つりがね)」・・・「釣鐘(つりがね・チョウドウ)」、「撞鐘(つきがね・シュドウ)」・・・
「自己撞着」=辻褄があわないこと、矛盾していること
自分 で自分の言行に反することをすること
「自家撞着・矛盾撞着」
人間は常に
「矛盾する状況」で生活をせざるを得ない・・・?
「宮本武蔵」の「活殺剣」・・・?
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スポーツの「自己撞着・自家撞着・矛盾撞着」
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