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ネコの名は「そめ」・・・

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 ・・・「十三歳」の「和泉式部」と別れ、置き去りにされたネコ(そめ)が悲しんで病にかかり(罹)、そこの温泉に浸かって病を癒やした「猫啼温泉」が現存するらしい・・・温泉街はないものの、「今出川」の流域に二軒の旅館があるらしい・・・「磐城の國・福島県石川郡石川町」ですか・・・
 「今出川=いまでがわ
     =位倍出臥倭(話)」
 「今出川=コンシュツセン
     =今出撰=艮朮撰
     =金戌(シュツ・卆・甩・述・朮)撰」
     =錦舟津殱(戦)
         殲=つくす・ほろぼす・殺しつくす
           セン・殲滅
 以上も、以下もウイッキペデアから添付・・・少々、改作・・・
 「八色の姓において
  上級の氏姓にもれた
  下級の身分の者や、
  これらの農民を主な対象としたもので
  その順位は、無姓を下級とし、
  造(みやっこ)
  公(きみ)
  史(ふひと)
  勝(すぐり)
  村主(すぐり)
  拘登(ひと)・・・拘=扌+句=かかわりを持つ・関係する
             拘泥・拘引・自由を奪う
             拘置・拘禁・拘束
           登=のぼる
  連(むらじ)
  と身分が上がっていく。これは、
  天武朝において氏上に相当する氏が
  八色の姓に改姓する前段階として、
  まず連(むらじ)への改姓が行われ、
  この
  「連=小錦」位以上を基点として、
  「忌寸」以上の4つの姓へ改められたことと
  同様の対応である」・・・
 「氏上である
  忌寸以上についても、
  補足的な氏姓の変更が行われている。
  氏の名において
  春日より大春日
  中臣より大中臣
  への変更、また
  宿禰から大宿禰
  への変更が行われるなどしたため、
  氏姓の制は、全般的に、
  より緻密に浸透することになった」・・・
 「首位の昇叙があり、ついでそれに連なる
  直系親族のみに対し氏姓の変更が行われる
  といった順序により
  同族の中から有力な者が抽出されるという点にある。
  この改賜姓を認可する権限は天皇にあった」・・・
 「氏姓制度の基盤は、
  血縁集団としての同族にあったが、
  それが国家の政治制度として編成し直された。
  その成立時期は、5~6世紀をさかのぼらない。
  同族のなかの特定の者が、
 臣(おみ)・・・・目・見張る・監督
 連(むらじ)・・・聨合=聯合=連合・・・
          聨=耳+幺+幺+廾(丱)=連=車+辶
 伴造(とものみやっこ)・・・創造・造形・造詣・物造・技術者
 国造(くにのみやっこ)・・・
 百八十部(ももあまりやそのとも)
 県主(あがたぬし)・・・縣・懸・阿形・鼎・阿片
 などの地位をあたえられ、
 それに応ずる氏姓を賜った。
 各姓は以下、
 臣(おみ)
 ↓↑・・・使主(おみ・漢人系渡来人
     阿知使主(あちのおみ)
     東漢氏の祖・阿智使主・阿知王・阿知吉師
     王仁の裔と称する
     河内漢氏(かわちのあやうじ)
     東漢、西漢と連称されるが氏は別
     坂上苅田麻呂の上表文
     応神天皇のとき
     後漢の
     霊帝の三世孫
     阿知使主(あちのおみ)が
     党類十七県をひきい来日
     子の
     都加使主(つかのおみ・掬使主)を
     呉に遣わし
     工女兄媛・弟媛・呉織・穴織
     四婦女を連れてかえった
     これは
     雄略天皇のときに
     倭漢氏の一族が呉に使し
     手末才伎(たなすえのてひと)の
     衣縫兄媛・弟媛・漢織・呉織
     を連れかえった説話と共通・・・
 ↓↑  ↓↑
     阿知使主
     旧居の帯方郡の故地
     高句麗と百済の間に
     才芸に巧みなものが
     多いので迎えたいと申請
     村落をあげ連れかえったのが
    「漢人(あやひと)」・・・
    「東漢掬=都加使主」
     都加使主(つかのおみ)
     応神朝に父の
     阿知使主(あちのおみ)
     とともに朝鮮半島から渡来
     同朝の末年に父とともに
     呉(くれ・中国江南の地)の国に
     遣わされて
     縫織の工女を伴い帰った
     雄略朝に
     百済から貢上した
     今来才伎(いまきのてひと)である
     新来の手工業技術者の
     陶部(すえつくり)
     鞍部(くらつくり)
     画部(えかき)
     錦部(にしごり)
     訳語(おさ)
 ↓↑  などの管理を命ぜられた・・・
 葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏
 圓(つぶら)氏=都夫羅使主
 ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を
 氏の名とし
 王家と並ぶ立場にあり
 ヤマト王権においても
 最高の地位を占めた豪族
 ↓↑
 連(むらじ)
 大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏
 ヤマト王権での
 職務を氏の名とし
 王家に従属する
 官人としての立場にあり
 ヤマト王権の成立に
 重要な役割をはたした豪族
 ↓↑
 伴造(とものみやつこ)
 連(むらじ)とも重なり合うが、
 おもにそのもとで
 ヤマト王権の
 各部司を分掌した豪族
 弓削氏(ゆげ)
 矢集氏(やずめ)
 服部氏(はっとり)
 犬養氏(いぬかい)
 舂米氏(つきしね)
 倭文氏(しとり)・・・ナゼ「倭文氏(しとり)」?
 ↓↑         訓なら「やまとのあやし」だろう
         倭文=シトオリという織布
            倭文とは倭文(しず・旧事記)
            という織物の名で
            正しくは
            「シズリ・シドリ(和訓栞)」
            「シズオリ(天武記)」
            等と読むべきで、
            倭織りの文布ではなく
            倭文の文字をシズオリと読ませた?
      倭文=楮(こうぞ)、麻、苧(からむし)などの繊維で
         その横糸を赤青の原色で染めて
         乱れ模様に織ったもので
         横シマの
         楮(こうぞ)布、麻布、苧(からむし)布・・・
         ならば
         「やまとのあやし」なら
         「倭文氏」は「倭」とは
         「日本以外」からの「帰化人」だろう?
         しかも「倭と漢の文氏」とは
 ↓↑      双方の「文字」の「翻訳係り」だろう・・・
 などの氏や
 秦氏(はた)
 東漢氏(やまとのあや)・・・東=やまと
                 ひがし=比嘉詞-漢-氏
                 あつま・吾妻・我妻・阿妻
 西文氏(かわちのふみ)・・・西=かわち=河内
                 にし=爾耳・似詞-文-氏
 などの代表的な
 帰化人達に与えられた氏
 連(むらじ)
 造(みやつこ)
 直(あたい)・・・「直=なおす・ジキ・チョク
                 正直・直角・直線」
             直衣(のうし)=タダの衣
 公(きみ)
 などの
 姓を称した
 ↓↑
 百八十部(ももあまりやそのとも)・・・陌捌拾(足)の部
 さらにその下位にあり、
 部(べ)を直接に指揮する・・・部=隷属する人々の集団、班
 多くの
 伴(とも)・・・現場監督・班長
 をさす。
 首(おびと)
 史(ふひと)・・・・記録係
 村主(すくり)・・・村長
 勝(すくり)・・・・警察、軍事、秩序係り
 などの
 姓(カバネ)を称した。
 ↓↑
 国造(くにのみやつこ)
 代表的な
 地方豪族をさし
 一面では
 ヤマト王権の地方官
 また在地の
 部民を率いる
 地方的
 伴造の地位にある者・・・
 ↓↑
 国造には、
 君(きみ)
 直(あたい・あたえ)
 の姓が多く、
 中には
 臣(おみ)・・・使主
 を称するものもあった。
 ↓↑
 県主(あがたぬし)
 これより古く、
 かつ小範囲の
 族長
 いずれも
 地名を氏の名とする。
 このように、
 氏姓制度とは
 連―伴造―伴(百八十部)という
 王のもとで
 ヤマト王権を構成し、
 職務を分掌し世襲する、
 「負名氏(なおいのうじ)」
 を主体として生まれた
 そののち、
 臣(おみ)のように、
 元々は王とならぶ
 地位にあった豪族にも及んだ・・・
 ↓↑
 「部民制」
 「氏姓は元来はヤマト王権を構成する
  臣・連・伴造・国造
  などの
  支配序列の階級別構成員を称したものである
 (王とその一族を除く)
  しかし、6世紀には一般の民にも及んだ
  これらの一般の民は、
  朝廷すなわち、
  天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、
  さらに
  臣、連らの豪族に
  領有・支配されていた
  一般の民の中から、
  朝廷に出仕して、
  職務の名を負う
  品部(しなべ)
  王名、宮号を負う
  名代・子代、屯倉
  の耕作民である
  田部
  などが必然的に生まれた
  彼らは
  部民共同体の中で
  戸を単位に編成され
  6世紀に
  籍帳に登載され
  正式に氏姓をもった」・・・
  ↓↑
 「地方豪族の
  支配下にあった
  民部(かきべ)は、
  在地の族長を介して、
  共同体・・・支配下に無い「協同体」は在ったか?
  のまま
  部(べ)に編入し
  族長を経て
  生産物を貢納させる形のものが多かった
  ↓↑
  地方豪族の
  支配下にあった・・・支配下に無い
           「協同体」は在ったか?
            支配序列の無い
           「協同体」は在ったか?
  一般の民にまで
  6世紀の段階で
  氏姓が及んでいたかどうかは定かではない」・・・
 ・・・定かではない・・・らしい・・・
ーーーーー
 大化元年(645年)九月十二日
 吉備笠垂
 (きびのかさのしだる)=名は志太留とも表記
             冠位は「大錦下」
 が
 「古人大兄皇子が
  謀反を企てている」
 と密告を受けた
 「中大兄」皇子は
 阿倍渠曽倍(あべのこそへ)・・・・九州、阿毎王朝
 佐伯子麻呂(さえきのこまろ)・・・東北蝦夷、四国讃岐
 以下兵四十名を
 吉野へ派遣し・・・吉野は
  ↓↑      神武天皇東遷の通過地で
          高倉下(たかくらじ)に
          剣、「布都御魂」をもたらした
         「八咫烏」の熊野から橿原まで先導
          高句麗の古墳の壁画には多くの
         「八咫烏」が描かれているらしい
          天武が隠遁し、
          壬申の乱での挙兵の地
  ↓↑     「役行者」が修験道を開いた地
          弟子に典薬頭の「韓國連廣足」
         「役行者=役君小角(えのきみおづぬ)」は
          一言主に讒言され
         「文武天皇」に
          699年「伊豆」に流刑、701年に大赦
          道昭が唐へ留学の途中
          新羅の山中で五百の虎を相手に
          法華経の講義を行っていると
          聴衆(虎)の中に役行者がいて
          道昭に質問した・・・
  ↓↑      南朝、後醍醐天皇の拠点
 古人大兄(大市)皇子・・・古人皇子・古人大市皇子
              吉野太子とも呼称
 を
 殺害・・・?
 「中大兄、即(すなは)ち
  …古人大市皇子等を討たしむ」
 ・・・討たして殺害したか、どうかは「?」である・・・
 生きていたとしたら
 「古人大兄(大市)皇子=天武=大海人皇子=漢人皇子」?
 「漢人」の大罪を天武は許した・・・
 ↓↑
 大化元年(645年)九月三日
 吉備笠垂は
 ↓↑
 蘇我田口川掘・・・後、川堀の消息は不明
 ↓↑
 物部
 朴井連椎子・・えのいのむらじしいのみ・・・朴井=朴市?
 ↓↑       連鮪(しび)=連椎子(しい)?
          壬申の乱の天武側の武将
          物部尾興(おこし)
 倭漢文麻呂・・・・倭漢文直麻呂=倭漢文を直す麻呂
                 倭漢の文直麻呂
          倭漢(やまとのあや)の
          文(ふみ)の(直=あたえ)の麻呂(まろ)
 ↓↑      「倭漢=東漢=やまとのあや」氏
          祖は
          応神大王の時代(3~4世紀初頭?)
          百済(安羅国)から渡来した
          阿智使主(あちのおみ)の末裔
          明日香村の西部の
          檜隈(ひのくま)に住み着いた
          阿智使主を祀る
          於美阿志(おみあし・御足?)神社
          古人(古市)皇子=吉野皇子
          ↓↑
     ・・・・「ふる・布留・振る」比訳王爾・・・
     ・・・・・古「いち・位置・位地」往事・・・
          ↓↑
          倭王-古人大兄皇子の娘、
          倭姫(天智天皇の皇后)
          は
         「倭-漢-氏」に養育された・・・
         「やまとのあや」氏
          記録は
          東漢=敏達紀頃まで
             東漢直の姓
             東漢掬(5世紀後半)
             が賜ったもの
             東漢直駒のあと
             分家の坂上氏が宗家
             坂上直駒子=東漢駒
          ↓↑
     ・・・「掬=扌+菊=すくう・キク
           片手、両手を丸くして
           その中へ水をすくいとる
           手の平を丸めて
           その中にナニかを載せる
           両手一ぱいほどの量をすくう」
          ↓↑掬う=すくう=救う・巣食う
          ↓↑
          倭漢=推古期以降
          西漢=かわちのあや
             河内を本拠地にしていた
             河内漢、川内漢
             倭漢氏より後に渡来
             雄略天皇時代の
             5世紀末~6世紀初頭
             今来(いまき)の
             今来漢人(新漢人)
            (いまきのあやひと)
             忍海漢人・漢部氏が
             製鉄業に従事
             遣隋使=新漢人氏
     ・・・「桓武天皇の母、
         和新笠が田村後宮(今木)
         にて祀っていた」・・・
     ・・・なぜ「和(倭)の新笠」なのか?
      ・・・「吉備笠垂」・・・
   「笠=かさ=蓋(おほい)・傘(サン)・暈・嵩・量」
          ↓↑
          後漢の霊帝の子孫・・・
          霊帝
          後漢の第十二代皇帝
          解瀆亭侯劉萇の子
          解瀆亭侯劉淑の孫
          河間王劉開の曾孫
          章帝の玄孫
          184年(中平元年)
          黄巾の乱
     ・・・「桓帝・霊帝の間(146年~189年)
         光和年間」
     ・・・・光の和(倭・窪・話)
         に倭国の大乱」・・・
          ↓↑
          大化元年(645年)
          古人大兄皇子襲撃に
          倭漢文直麻呂
         (やまとのあやのふみのあたえのまろ)
         (倭の漢文を直す麻呂)
          などが加わった
          大化三年(647年)
          倭漢直荒田井・・・倭漢の直す新たな意?
 ↓↑        ↓↑
   「壬申の乱(天武天皇元年六月二十四日~七月二十三日
    ユリウス暦672年7月24日~8月21日
グレゴリオ暦672年7月27日~8月24日
         672年 壬 申(己・壬・庚)
         007月 丁 未(丁・乙・己)
         027日 甲 申(己・壬・庚)・大安・土曜日
         ~
         028日 乙 酉(庚・ ・辛)
              ↓ ↑
              申(猿・猨・猴・猱・沙流)
              ~
              酉(鳥・隹・鶏・禽)
              ~
              戌(犬・狗・獒・山犬=狼)
         獒=十一方攵犬=敖(おごる・ゴウ)+犬
          =マスチフ犬(Mastiff)・主に番犬・闘犬
           獒犬(からいぬ・ごうけん)
           大きくて強い犬
              ↓ ↑
       天武一年六月二十九日
       西暦672年7月29日ユリウス
       西暦672年8月1日グレゴ
         672年 壬申(己・壬・庚)
          8月 丁未(丁・乙・己)
              冲剋(己)
          1日 己丑(癸・辛・己)・仏滅・木曜日
        己(おのれ)丑(ぬし・うし)
              ↓ ↑
         672年 壬 申(己・壬・庚)
         008月 戊 申(己・壬・庚)
         024日 壬 子(壬・ ・癸)・大安・土曜日」
 ↓↑         ↓↑
    「天武紀・六年(677年)六月
     天皇が
     東漢直(やまとのあやのあたえ)
     東漢直=父は東漢直磐井(いわい)か・・・?
     ↓↑ 「聖徳太子伝暦一本」に
         駒の別名を「盤(いわお)」
     ↓↑  又の別名を「駒子(こまこ)」
     たちに対して
    「六月壬辰朔乙巳、大震動。
           ・・・地震=天武6年6月14日
             (677年7月19日ユリウス
                 7月22日グレゴり)
            丁丑・丁未・乙巳→23日(丙午)
     是月、
     詔
     東漢直等
     曰
    「汝等
     黨族
     之自
     本犯七・・・本を犯し、七(漆・漆塗)
     不可也。
     是以、
     從
     小墾田御世
     至于
     近江朝、
     常
     以謀
     汝等爲事。
     今當朕世、
     將責汝等
     不可之狀
     以
     隨犯・・・「隨犯」?→「隨(王朝)」の「犯」?
     應罪。
     然頓
     不欲絶
     漢直之氏、
     故
     降大恩以原之。
     從今以後、
     若
     有
     犯者
     必入
     不赦之例」」
      ↓↑
 ↓↑ 「汝等党族は今までに
     七つの悪逆を犯してきた。
     小墾田の御世(推古大王の時代)から
     近江朝まで常に
     汝等(東漢直・やまとのあやのあたえ)が
     謀り事を為してきた。
     朕の世に当たり罪に処そうと思ったが、
     漢直の血筋を絶やさないために、
     大恩を下す。
     以後
     罪を犯す者は赦(ゆる)さない」
     と勅・・・
 ↓↑  ↓↑
     七つの悪逆・・・?
     ・・・そんなコトより地震災害で大変だった・・・
     ・・・「漢直之氏」の知識も技術も必要だった・・・
 ↓↑  ↓↑
     崇峻五年(592年)
     東漢(やまとのあやの
     直(あたえ)-駒(こま)が
         ・・・駒=馬+句=こま=高麗・独楽・狛
     泊瀬部皇子を暗殺
     東漢(やまとのあや)直-駒が
     皇子の后、
     河上娘(蘇我馬子の娘)を
     馬子に返さずに自分のものにした
     推古三十八年(628年)
     舒明大王擁立のために
     泊瀬王
    (山背大兄皇子の異母弟)
     を殺した?
     境部摩理勢の襲撃に加わって絞殺した
     皇極二年(643年)
     倭(やまと)の
     馬飼(うまかい)の
     首(おびと)が
     山背-大兄-皇子を襲撃・・・「大兄」は高句麗の官位?
     ↓↑         高句麗の官職十三段階の七番目
               「大兄」→「大江(おおえ)」
     ↓↑ 大江山=京都府丹後半島の付け根
            に位置し与謝野町、福知山市、宮津市
            にまたがる連山
         別称、大枝山・与謝大山・千丈ヶ嶽
            三上ヶ嶽、御嶽
           「大江山
            いくのの道の遠ければ
            まだ文もみず
            天の橋立」
            小式部内侍=和泉式部の娘
           (こしきぶ の ないし)
            父は陸奥守の橘道貞
            長保元年(999年)頃
             ~
            万寿二年(1025年)十一月)
            掌侍・女房三十六歌仙の一人
           「とどめおきて
            誰をあはれと思ふらむ
            子はまさるらむ 子はまさりけり
            万寿二年(1025年)
            娘の小式部内侍が死去の時の歌
            和泉式部・・・越前守・大江雅致の娘
            福島県石川郡石川町に
            この地方の豪族、安田兵衛国康の
            一子「玉世姫(たまよひめ)」が
           「和泉式部」であるとの伝承
            式部が産湯を浴びた湧水を
            小和清水(こわしみず)
            十三でこの地を離れた式部との
            別れを悲しんだ
            飼猫「そめ」が
            啼きながら浸かり病を治した
            といわれる
           「猫啼温泉」が現存・・・
            和泉式部の童女名は
           「御許丸(おもとまる)」
           「国許=故郷・生地・本国
            許王朝=宇文化及(隋王朝末期)」
            天寿二年(619年)
           和泉式部
            泉蓋蘇文=高句麗末期の宰相
     ↓↑     淵蓋蘇文(?~665年・宝蔵王二十四年)
     皇極四年(645年)
     中-大兄-皇子に加担し・・・「大兄」は高句麗の官位?
                高句麗の官職十三段階の七番目
               「大兄」→「大江」
     蘇我入鹿を殺害
     高向国押
     の甘言に乗り
     警護していた
     蘇我蝦夷の館の守りを解き
     蝦夷を殺害
     大化元年(645年)
     古人大兄皇子の襲撃に
     倭漢文直-麻呂→「倭漢の文直=訳文・翻訳文」の麻呂
     などが加担
     大化三年(647年)
     倭漢直荒田井比羅夫が・・・倭漢
                  直
                  荒田井
                  比羅夫・・・役職名
     用水路の工事で
     難波に水を引き
     百姓を疲労させた
     斉明五年(659年)
     ↓↑・・・7月27日(斉明天皇5年7月3日)
          坂合部石布
          津守連吉祥
          らを遣唐使に派遣
          坂合部石布は遭難、漂着し
          原住民に襲撃され死亡
          津守連吉祥らは唐に到着
          10月21日(斉明天皇5年9月30日)
          遣唐使が唐の皇帝に謁見
          12月19日(斉明天皇5年11月1日)
          唐での冬至の儀式にて
          日本からの
          遣唐使の風采挙措が最も優れていた
          との評価
          誕生
          藤原不比等(藤原鎌足の次男・~720年)
          賀知章(詩人・書家・~744年)
          死去
     ↓↑  「長孫無忌」・・・唐建国の元老
     遣唐使
     西漢(いまき)大麻呂(おほまろ)が
     皇帝、
     高宗の客人を讒言し
     客人らを流刑にしたこと
     斉明七年(661年)
     東漢草直足嶋が
     耽羅(済州島)の王が
     送ってきた使人を讒言し
     使人が
     唐から厚遇を得られなくしたこと
     天武元年(672年)
     即位前
     樟磐手・・・樟(木章)の磐(般石)の手
    (くすのいわて)が
     近江側の刺客になり
     吉備国主だった
     当麻広嶋(たいまのひろしま)を殺害
     広嶋は用明天皇の孫で
     大海人皇子派の重鎮・・・
    「壬申の乱」で
     倭漢(やまとのあや)氏の
     全員が天皇側にならず
     一部が近江朝側について敵対した・・・
     罪・・・
     ↓↑
     天武天皇側の
     倭漢(やまとのあや)氏に属する人々
     書智徳(ふみのちとこ)
     書根麻呂(ふみのねまろ)
     荒田尾赤麻呂(あらたおのあかまろ)
     民大火(たみのおおひ)
     民小鮪(たみのおしび)
     長尾真墨(ながおのますみ)
     大蔵広隅(おおくらのひろすみ)
     坂上老(さかのうえのおきな)
     坂上国麻呂(さかのうえのくにまろ)
     坂上熊毛(さかのうえのくまけ)
     路益人(みちのますひと)
     調淡海(つきのおうみ)
     倉墻麻呂(くらかきのまろ)
     谷根麻呂(たにのねまろ)
     など・・・
     ↓↑
     大友皇子側
     蘇我の重臣の他
     書薬(ふみのくすり)
     谷塩手(たにのしおて)
     忍坂大摩呂(おしさかのおおまろ)
     らが
     倭漢(やまとのあや)氏の枝族・・・
     ↓↑
     天武十一年(682年)五月
     倭漢(やまとのあや)の直(あたい)
     の個々人
     十七名に
     連(むらじ)の姓を
     を与え、更に
     一族全員、
     川内漢直を含む
     38氏に
     連(むらじ)の姓(かばね)を与えた
     684年
     「八色の姓」
     阿智使主の直系の子孫は
     他の倭漢氏と区別され
     書連氏、
     河内漢氏
     らと共に
     第四位の姓
    「忌寸(いみき)」が授けられた・・・
 ↓↑  ↓↑          
 朴市秦田来津
    ・・・天智天皇二年
    八月二十七日~二十八日
    ↓↑
    旧暦
    年 癸亥
    月 壬戌
    日 戊申(さる)~己酉(とり)
    ↓↑ボシン   ~キユウ
 ↓↑ ↓↑戊辰    ~杞憂・希有・喜勇    
    ↓↑   猿田比古の溺死
    白村江の海戦で戦死
    ↓↑
    朴市秦田来津は
    斉明天皇七年百済の皇子
    豊璋(ほうしょう)と
    百済再興のため
    狭井梹榔と
    兵5000をひきいて
    朝鮮半島へ渡海
    後
    鬼室福信
    と対立
    王位に就いた
    豊璋は
    都を
    州柔(錦江下流域・白江村)から
    避城(全羅北道金堤)に
    遷すことを決定
    朴市秦田来津は
    遷都に反対した
    遷都後、
    二月
    新羅に攻めこまれ
    再び州柔(錦江下流域)へ遷都
 ↓↑ 白村江で唐水軍に惨敗戦死
 らとともに
 古人大兄皇子を擁して
 謀反を企てるが
 九月十二日
 中大兄皇子に密告
 古人大兄(大市)皇子
 は攻められて殺害
 笠垂・・・・・・・・笠の垂
 はこの功で
 功田20町を賜った
 天平宝字元年(757年)
 この功労は中功に当たるとして
 二代に相続された
 吉備笠垂の系譜・・・笠の垂
 父は吉備笠羽鳥・・・笠の羽の鳥
 母は不詳
 生母不詳の子女
 男子、笠麻呂・・・笠の麻呂
 男子、笠御室・・・笠の御室
 男子、笠金村・・・笠の金村
 ↓↑
 「或本云。古人大兄。或本云。古人大兄。
  此 皇子入吉野山。故或云吉野太子。
  垂。此云之娜屡」
  「垂(た)れる」・・・「ダル・ナル」?
      「娜=しなやか・ダ・ナ」
      「屡=たびたび・つねに・しばしば・ル」

 「古人(古市)大兄皇子」・・・「倭の漢人()皇子」・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・高向「玄理」・・・高向「原理」・・・鷹婿「原理」・・・「堯(多化)務拠」・・・「高句麗」・・・
 高向 玄理(たかむこ の くろまろ)
 ?~白雉五年(654年)
   しろきじ・・・詞賂(皎・代)・記字・語念
 名は「黒麻呂」とも記録
 高向古足の子
 姓は「漢人」、のち「史」
 冠位は「大錦上」
 ・・・用明天皇の孫の「高向王」
 「高向玄理」は、
 後の
 「舒明天皇皇后=皇極・斉明天皇」
 の元の夫・・・
 ・・・「高向王」は「皇極女帝」の最初の夫・・・
 ↓↑  ↓↑
 第三十五代・第三十七代天皇
 在位期間
 皇極  642年2月19日~645年7月12日
 斉明  655年2月14日~661年8月24日
 先代
 舒明天皇(第34代)
 次代
 孝徳天皇(第36代)
 天智天皇(第38代)
 誕生   594年
 崩御   661年8月24日
 陵所   越智崗上陵
 ↓↑
 諱   寶女王
 別称   天豊財重日足姫尊
    (あめとよたからいかしひたらし
            ひめのすめらみこと)
 父親   茅渟王
 母親   吉備姫王
 皇配   高向王・・・「高向の王」
      高向塩古→猪子→宇摩→国押 (国忍)
      →麻呂(和銅従三位)
      →人足
      →跡見(越前大ジョウ)
      高向氏は魏の曹操の末裔の
      渡来人の子孫
      高向玄理は
      高向古足の子・・・
      舒明天皇
 子女
 漢皇子
 天智天皇
 間人皇女
 天武天皇
 ↓↑
 皇居
 皇極  飛鳥板蓋宮
 斉明  飛鳥板蓋宮
 ↓↑  朝倉橘広庭宮(661年8月24日)で死没
 ↓↑  ↓↑
 ↓↑  泊瀬朝倉宮=第二十一代、雄略天皇の宮殿
           安康天皇三年十一月十三日
           丙申年  庚子月  甲子日 
          (西暦456年12月25日・ユリウス)
            ~
           雄略天皇二十三年八月七日
          (西暦479年9月8日・ユリウス)
           己未年  癸酉月  丙子日
 ↓↑        所在地は奈良県桜井市?
           別称 大泊瀬幼武尊
              大長谷若建命
              大長谷王
           父親 允恭天皇
           母親 忍坂大中姫
           皇后 草香(日下)幡梭姫皇女
           子女
              白髪皇子
              栲幡姫皇女
              磐城皇子
              星川稚宮皇子
              春日大娘皇女
           御陵 丹比「高鷲」原陵
ー↓↑ーー↓↑ーー
 善徳(ゼントコ)女王
 647年2月17日(旧暦1月8日)
 新羅の第27代の王
 真徳(シントコ)女王
 (?~654年)
 新羅の第28代の王
 (在位647年~654年)
 姓は金
 諱は勝曼
 「新羅本紀」
 父は第26代
 真平王の母方の叔父である
 真安葛文王-国飯
 母は
 朴氏の
 満天葛文王の娘
 月明夫人
ーー↓↑ーー
 高向玄理
 608年
 遣隋使
 小野妹子(蘇因高)
 に従い留学生として
 隋へ留学
 640年
 南淵請安とともに帰国
 645年(大化元年)
 後
 僧の旻
 とともに新政府の
 国博士
 ↓↑
 高向臣
 武内宿禰の末裔氏族
 河内国
 錦部郡
 高向村(大阪府河内長野市高向)
 を本拠地とし
 姓は初め
 臣だったが
 天武天皇十三年(684年)十一月
 高向麻呂は
 「八色の姓(カバネ)」で、
 上から二番目の
 朝臣(あそん、あそみ)の
 姓の賜与を受けた
 ↓↑
 孝元天皇段(古事記)で
 武内宿禰の9人の子の一人
 蘇賀石河宿禰を
 高向氏の祖
 石川氏と同氏で
 武内宿禰
 六世の孫・猪子臣(蘇我稲目の甥)
 の後裔(新撰姓氏録・右京皇別・高向朝臣)
 ↓↑
 舒明天皇即位前条
 高向宇摩
 が大夫(まえつきみ)を務め
 奈良時代前期に
 高向麻呂が参議・中納言を歴任
 (日本書紀)
 河内長野市では「高向=たこ」と呼ぶ。
 高向家主(たかむこの‐やかぬし)
 は、奈良時代の官吏
 天平勝宝四年(752)
 東大寺の
 大仏
 開眼会(かいげんえ)
 で
 唐散楽頭(とうさんがくのかみ)
 開眼師施使
 をつとめる
 藤原仲麻呂
 追討の功により
 従五位下
 南海道巡察使
 治部少輔(ジブショウホ)
 筑後守を歴任・・・
 宝亀六年(775)
 従五位上
 伊勢神宮の北に
 高向大社
 三重県御園町に
 高向(たかぶく)の地名
 畠山氏の一族で
 羽曳野市の御師についての
 墨書に
 明応四(1495)年
 高向最大夫光貞
 の銘・・・
 (以上は「知恵袋」回答記事を参考添付)
ーーーーー
 ・・・


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