・・・ランダム検索・・・ 「小泉八雲・島根県松江で旧制中学教員となったのち、日本に帰化」・・・「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン=パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)・父チャールズはアイルランド出身の軍医、母ローザはギリシャ、キシラ島の出身・明治二十三年(1890)来日・松江中学の英語教師となり小泉節子と結婚・明治二十九年イギリス国籍から日本国籍に帰化」・・・「来日前にニューオーリンズで新聞記者を務めていた」・・・
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小泉 八雲(1850年6月27日~1904年9月26日)
1850生年 庚戌(辛・丁・戊)1904没年 甲辰(乙・癸・戊)
0006生月 壬午(丙・ ・丁)0009没月 癸酉(庚・ ・辛)
0027生日 己酉(庚・ ・辛)0026没日 癸亥(戊・甲・壬)
寅卯=空亡
ギリシャ(当時イギリス領)
レフカダ島で誕生
東京府
豊多摩郡
大久保村
西大久保で死没
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「ニューオーリンズ港と北海道釧路市釧路港は姉妹港」・・・
↓↑
ミネソタ州
ミシシッピ川(ミシシッピがわ、Mississippi River)は、北アメリカ大陸を流れる河川の1つである。アメリカ合衆国のミネソタ州を源流とし、ミシシッピ川の水源であるイタスカ湖からメキシコ湾へと注いでいる。
「ミシシッピ」の名は、オジブワ族インディアンの言語で「偉大な川」を意味するmisi-ziibiまたは「大きな川」を意味するgichi-ziibiからの転訛
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アイオワ州
State of Iowa(眠たがり)
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ジャパン (ミズーリ州)
ジャパン(Japan)
アメリカ合衆国ミズーリ州フランクリン郡
非法人地域
北緯38度14分21秒
西経91度18分21秒
セントルイスの都市圏内にあり
セントルイスからは南南西へ約120km
集落の中心部は
ハイウェイH
と
ハイウェイAE
との交差点付近
集落の中心部から
西へ約500mには
ジャパン
の名を冠した
カトリックの
セントルイス大司教区管轄下の
ジャパン聖殉教者教会が立地
教会の住所は
ジャパンから最も近い
法人化された市である
サリバン
となっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3_(%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%BC%E3%83%AA%E5%B7%9E)
↓↑
ジャパンという名の郵便局が
1860年に建てられ
1908年に廃止されるまで稼働
日本=Japan
にちなんで名付けられた地名・・・
Holy Martyrs of Japan,
Church of the (Japan).
Archdiocese of St. Louis
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ミズーリ川(Missouri River)
アメリカ合衆国中部を流れる川
ミシシッピ川の最も大きな支流で
本流の西側に位置
全長は4,130km
流域面積は
アメリカ合衆国本土のおよそ
6分の1
「ミズーリ」は
この地に先住した
インディアンのアルゴンキン語で
「泥の河」
という意味
この川は多量の泥を含むので
「Big Muddy・(Muddy=泥の)」
とよばれる
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ミズーリ州(State of Missouri)
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アーカンソー州(State of Arkansas
カンザ族と近縁の
クアポー族 (Quapaw) の言葉で
「下流の人々の土地」を意味する
「アカカズ(akakaze)」
あるいは
スー族の言葉で
「南風の人々」を意味する
「アカカズ(akakaze)」
をフランス語風に発音したのが
「アーカンソー(Arcansas)」
アーカンソーは
1803年
アメリカ合衆国が
ナポレオン・ボナパルト
から買収した
ルイジアナ領土の一部
北はミズーリ州に接し
東はテネシー州とミシシッピ州
西はオクラホマ州とテキサス州
南はルイジアナ州に接している
略称「Ark,AR」
州都は
「リトル-ロック(little-rock・little-lock」市
小-石
小石川診療所=小石川養生所
江戸時代に幕府が江戸に設置した
無料の医療施設
将軍徳川吉宗
と
江戸町奉行
大岡忠相の主導した
「享保の改革」における
下層民対策・・・貧民救済施設
享保七年(1722年)一月二十一日
麹(麦+匊)町(東京都新宿区)
小石川伝通院(三郎兵衛店)の
町医師である
小川笙船・・・笙=竹+生=竹管を十九、十三ならべた
しょうの笛
船=舟+八+口
(赤ひげ先生)・・・山本周五郎・黒沢明
が
将軍への訴願を目的に設置された
目安箱に貧民対策を投書
笙船は翌月に評定所へ呼び出され
吉宗は忠相に養生所設立の検討を命じた
建築費は金210両と銀12匁
経常費は金289両と銀12匁1分8厘
人員は与力2名、同心10名、中間8名
与力は入出病人の改めや
総賄入用費の吟味を行い
同心のうち
年寄同心は
賄所総取締や諸物受払の吟味を行い
平同心は部屋の見回りや
薬膳の立ち会い
「錠前(lock & key)」預かり
などを行った
中間は朝夕の病人食や看病
洗濯や門番などの雑用を担当
女性患者は
女性の中間が担当
享保七年(1722年)十二月二十一日
小石川薬園(小石川植物園)内に開設
建物は
柿葺の長屋で
薬膳所が2カ所設置
収容人数は40名
医師は
本道(内科)のみで
小川ら
七名が担当
はじめは
町奉行所の配下で
寄合医師・小普請医師
などの幕府医師の家柄の者が
治療にあたっていたが
天保十四年(1843年)から
町医者に切り替えられた
町医者のなかには
養生所勤務の年功により
幕府医師に取り立てられるものもいた
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「アーカンザス(kænzəs)・ar-KAN-zəs)」
「アーカンソー(ɑːrkənsɔ)・AR-kən-saw)」
を主張する論争があった
1881年
州議会立法で公式に
「アーカンソー」
と決定
開拓初期に
「クマ=熊」が多く棲息し
「クマの州=Bear State」
という愛称で呼ばれる・・・「クマモン」って?
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ジャパン(Japan)
アメリカ合衆国
ミズーリ州
フランクリン郡
↓↑
フランクリン郡(Franklin County)
アメリカ合衆国
ミズーリ州の東部
ミズーリ川の南岸
に位置する郡
郡庁所在地は
ユニオン市
同郡で
人口最大の都市は
ワシントン市
↓↑
フランクリン郡は
セントルイス大都市圏に属す
独立市
セントルイス市と
ミズーリ州
イリノイ州
にある周辺郡を合わせると
都市圏人口は280万人
セントルイス市の
西の準郊外地域を構成
フランクリン郡は
1818年
建国の父である
ベンジャミン・フランクリン
に因んだ名
↓↑
フランクリン郡
地域の前史時代は
幾つかの
インディアン文化が続き
ヨーロッパ人と遭遇したときは
オーセージ族
インディアン
が住んでいた
スペイン帝国が地域を支配した時代
最初のヨーロッパ人が入植
スペインの
丸太作り砦
サンフアン・デル・ミズリ
(1796年~1803年)
が現在の
ワシントン市に建設
アメリカ独立戦争後
移民が西に動き
探検家で
1799年
地域の開拓を始めた
ダニエル・ブーン
の家族と追随者もいた
その後の20年間
大半の開拓者は
アッパーサウスから来て
土地を耕すために
奴隷を連れてきていた
↓↑
1833年
ドイツ人移民
が地域に入り
奴隷所有者の数を上回るようになった
ドイツ人は奴隷制度に反対
子孫は南北戦争のときに
北軍の強い支持者
南軍の将軍
スターリング・プライス
が戦中にその部隊を率いて
地域を略奪して回った・・・
↓↑
南北戦争前に地域には蒸気船が往来(オウライ)
荷物や旅人の運搬に力を発揮
鉄道が開通すると交通の中心
南北戦争終戦時
製造業が興った
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小都市バーガーの近くの
バイアス・ブドウ園は
1983年に指定された
ハーマン・ブドウ栽培地域の中にある
ニューヘイブンに近い
レブラー・ブドウ園と
ワイン醸造所もその中にある
ミズーリ川両岸にある
ワイン醸造所は
ミズーリ・ラインランド
と呼ばれ
そのブドウ園は19世紀半ばに
ドイツ系移民が始めた
禁酒法時代以前は
ミズーリ州が国内でも
第2のワイン製造州だった
禁酒法時代には
宗教的な目的で許される
ワインを除いて
全て閉鎖
州内のワイン産業の再建は
1960年代
田園部で
違法薬物の
メタンフェタミン
の製造
薬物と戦う郡役人の様子が
2005年
A&Eテレビのドキュメンタリー
『Meth: A County in Crisis』
で取り上げられた
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セントアルバンズ近くの
セントチャールズ郡は
現在ミズーリ川の南岸
フランクリン郡の
オーガスタは
現在北岸にある
郡内を
バービューズ川が流れ
延長は107マイル (171 km)
この川が深く狭い峡谷を作り
大蛇行
ユニオン市の近くで
メラメック川に注ぐ
↓↑
フランクリン郡
オザーク高原に入っており
急峻な丘陵と深い谷、洞穴、泉
また陥没が特徴的な
カルスト地形
↓↑
設立
1818年12月11日
郡名の由来
ベンジャミン・フランクリン
郡庁所在地=ユニオン
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非法人地域
北緯38度14分21秒
西経91度18分21秒
セントルイスの都市圏内
セントルイスから
南南西へ約120km
カトリックの
セントルイス大司教区管轄下
ジャパン聖殉教者教会が立地
教会の住所は
法人化された市である
サリバンのジャパン・・・
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フランス領ルイジアナ
最初のヨーロッパ人開拓者
フランス系カナダ人
セントルイスから約1時間南の
セントジェネビーブ
に最初の開拓地を造った
1750年頃
イリノイ・カントリーから移ってきていた
ミシシッピ川東岸にあった開拓村では
土地が痩せてきており
増加する人口を養うに足る平地が無かった
セントジェネビーブは農業中心として繁栄
小麦、トウモロコシおよびタバコを生産
余剰分を下流の
ルイジアナに船で運んだ
農産物は
ルイジアナ
ニューオーリンズ市
重要なものになった
1762年
フォンテーヌブロー条約
ヌエバ・エスパーニャ副王領とされ
1764年
ニューオーリンズ市から来た
フランス人によって
セントルイスの町が設立
1764年~1803年まで
ミシシッピ川西岸の流域は
その北限まで
フランス領ルイジアナと呼ばれた
スペイン人が
セントルイスに現れたのは
1767年9月
セントルイスは
ミズーリ川やミシシッピ川流域に広がる
インディアンとの毛皮交易中心となり
長い間地域経済の支配要素となった
交易会社と提携している者達は
セントルイスから毛皮を船積みして
ニューオーリンズ市まで運び
そこからヨーロッパの市場に送った
その見返りに様々な商品が業者に渡り
それがインディアンとの交易に使われた
毛皮交易とそれに関連する事業で
セントルイスは初期の金融中心となり
それで得た富によって
瀟洒な家を建て、贅沢品を輸入する者もいた
セントルイスは
ミシシッピ川
と
イリノイ川
が合流する地点に近く
農作地域からの産品も取り扱えた
ミシシッピ川による輸送と交易は
地域経済と一体のものとなり
セントルイスは地域最初の主要都市として
特に蒸気船が発明され川の交易が増えた後は
著しい発展を遂げた。
↓↑
ルイジアナ
1800年
ナポレオン・ボナパルトは
サンイルデフォンソ条約によって
スペイン領だった
ルイジアナをフランスに取り戻した
条約は秘密にしておかれた
ルイジアナは
1803年11月30日
にフランスに移管されるまで
名目上スペイン領だった
これはルイジアナが
アメリカ合衆国に移譲される
3週間前のことだった・・・
↓↑
アメリカ合衆国による
1803年のルイジアナ買収地の一部だった
ミズーリ州は
19世紀に西に向かう探検隊や開拓者の出発点で
「西部への玄関」という渾名がついた
セントルイスの西にある
セントチャールズは
1804年
ミシシッピ川から出発し
西部領土を探検し
太平洋に至った
ルイス・クラーク探検隊の
出発点かつ帰還目標地となった
セントルイスはその後長い間
西に向かう開拓者隊の重要な供給点
1812年
ニューマドリード地震
ミズーリ州西部の開拓者の多くが
アッパーサウスから移ってきたので
労働力として
アフリカ人奴隷を連れてきており
その文化と奴隷制度の継続を望んだ
ミズーリ川沿いの17郡に入った者が多く
そこはプランテーションによる
農業を可能にする平地であり
リトル・ディキシー
と呼ばれるようになった。
↓↑
1821年
ミズーリ妥協
奴隷州として州昇格を認められ
暫定州都は
セントチャールズに置かれ
1826年
州都はミズーリ川沿いの
ジェファーソンシティ
に移された
州の西側境界は
コーズマスを通る子午線で
定義されたので直線
コーズマスは
カンザス川が
ミズーリ川に合流する地点だった
この直線は
オーセージ境界線と呼ばれている
1835年
インディアンから土地を買収した
プラット買収によって
州北西隅に領域が付け加えられ
カンザス川より北側にある
ミズーリ川が州境になった
この領土追加によって
バージニア州に代わって
当時の国内最大の州になった
(当時のバージニア州は
ウェストバージニア州を含んでいた)
1830年代初期
モルモン教徒が北部州やカナダから移ってきて
インディペンデンス近くとその北に入植
昔からの開拓者(主に南部出身)と
モルモン教徒(主に北部出身)の間に
宗教と奴隷制度を巡って紛争
1838年
モルモン戦争
1839年
リルバーン・ボッグス知事が
「根絶命令」
昔からの開拓者が
モルモン教徒を
ミズーリ州から追い出し
その土地を没収した・・・
↓↑
ーーーーー
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