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札幌の薄野(芒野・啜記載・ススキノ)には「キツネ通り」はない・・・

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 ・・・ボクの「おばぁちゃん」は旧姓が「本多てつ」で、福島県の生まれだった・・・なんで、妻子を地元に残し、グウだらで、ナマケモノで、盆栽好きの宮城県生まれの爺ジイ(日下卯之松)を追って極寒の蝦夷地、北海道までやって来たのか?、それとも一緒に駆け落ちしてきたのか?・・・頭を傾げてしまうが・・・「傾く(カブク→カ・ブ・ク→化・分句)」・・・歌舞伎・・・「ぶんぶく茶釜」・・・「分福茶釜(ぶんぶくちゃがま、ぶんぷくちゃがま)」、「文福茶釜」とも表記・・・タヌキ(狸・貍・田貫・多抜き→本多抜き・他抜き?)があらわれ、化けて人を騙す・・・もともとは「狐の恩返し(ゴン狐?)」をテーマにしたもの・・・「日本昔話大成」の中の「狐と博労」、「狐遊女」と同種の昔話・・・「ゴン狐」は「兵十の火縄銃」で殺されてしまったが・・・?・・・余計なお世話の報いだった・・・?・・・
 タヌキは徳川家康・・・キツネはダレ・・・京都の公家衆・・・札幌じゃぁ、「すすきの」の「狸小路」だけれども・・・明治六年~・・・1885年(明治18年)札幌初の「勧工場(かんこうば)」が開店・・・明治十一年(1878)東京にできた「第一勧工場(かんこうば)」が最初。勧商場・物品陳列所・・・「缶工場」ではなく「市場」・・・「中世中期の都市で、週市は毎日開かれる形態をとることになった。マーケット(market)やマルクト(Markt)は週市に由来する名で、年市は年に1~2回開かれ,本来遠隔地商人たちのための,週市より大規模な市をいう」・・・「マルクト」とはネッ・・・缶詰の缶・・・
 「勧工場(かんこうば)」は東京府が明治十一年(1878年)1月、麴町(現,千代田区)辰の口に常設の商品陳列場として東京府勧工場を開設したことにある。
 その前年(明治十年・1877年)、東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会に展示された出品物も,そこに移されて陳列された
 ・・・「マーケット(Marquette)」=「アメリカ合衆国,ミシガン州北部、スペリオル湖南岸にのぞむ都市。1849年入植のフランス人宣教師で探検家の J.マルケットにちなんで命名。鉄鉱石,木材の積出港。化学・鋳物・鉱山機械工業などが立地し、観光事業も盛ん」・・・
 「113年の歴史に幕 2015年01月13日(読売新聞)
  狸小路商店街を代表する老舗
  2015年01月12日
  中川ライター店閉店」
 狸小路の
 名称由来は
 実際に狸が出没したこと、
 夜な夜な街頭に立つ
 客引や
 私娼をその怪しさや手口から
 狸に例えた・・・

 ・・・ダマサレタ・・・
 「和宮 親子内親王
  (弘化三年閏五月十日
    1846年7月3日)
   ~
   明治十年(1877年)9月2日)」
 仁孝天皇の第八皇女
 孝明天皇の異母妹
 明治天皇は甥
 江戸幕府
 第14代将軍
 徳川家茂の正室
 品位は二品、薨後贈一品
 「親子(ちかこ)」は
 文久元年(1861年)の
 内親王宣下に際して賜わった諱
 家茂死後
 静寛院宮(せいかんいんのみや)と
 名乗った
 ↓
 葛飾北斎画『狐の嫁入図』
 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E3%81%AE%E5%AB%81%E5%85%A5%E3%82%8A
 宝暦時代の
 越後国(新潟県)の地誌
 『越後名寄
 (えちごなよせ)』・・・「名寄」は北海道の地名
 には、
 怪火としての「狐の嫁入り」の様子が以下のように述べられている・・・
 「夜何時(いつ)何處(いづこ)共云う事なく折静かなる夜に、提灯或は炬の如くなる火凡(およそ)一里余も無間続きて遠方に見ゆる事有り。右何所にても稀に雖有、蒲原郡中には折節有之。これを児童輩狐の婚と云ひならはせり」
 ・・・天気雨と虹・・・「狐の嫁入り(きつねのよめいり)は、北海道と沖縄県には伝承がない」らしい・・・
 北海道上川地方北部にある「名寄」市である。
 地名は、名寄川が天塩川に注ぐ様子をいった
 アイヌ語の
 「ナイ・オロ・プト
  川の・所の・口」の意→渓流に注ぐ口
 で天塩川から支流の名寄川への入口の意味
 「ナイ・オロ・プト」がつまって
 「ナヨロプト」、さらに
 「プト」の省略で
 「ナヨロ」になり、
 漢字で表記で
 「名寄(なよろ)」となった・・・
 「名寄(なよろ)」で、
 「なよせ・メイヨ」ではない・・・怪しい「ナイオロプト」である・・・「名意於呂附賭(土)」・・・江戸時代後期にナヨロが見え、先住民のアイヌ人はナイプト・ナイプツ・ナヨロプトなどとも呼んでいた・・・
 餅米の生産量は日本一。三重県の伊勢名物の和菓子「赤福餅」。原材料のもち米は、名寄産を中心に使用している。
 明治三十三年(1900年)
 山形県東栄村(旧藤島町、現鶴岡市)から開拓団が集団移住した・・・「山形」からの移民である・・・
 「名寄せ(なよせ)」
 同じ名義で普通預金・定期預金・当座預金など複数の口座を持っている場合、それらを一つにまとめること
 一元管理
 従来、特に預金保険法施行以前は、金融機関における業務の通称。 おおよそ金銭の権利を預かる行政機関にも共通する重要な業務
 金融機関で複数の口座を持っている預金者の同一性を確かめること
 人・物・名所などの名を寄せ集めること
ーーーーー
 ブンブク茶釜・・・以下は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B2%A1%E8%8A%B3%E5%B9%B4
 が原文・・・
  ↓
 群馬県館林市の茂林寺に伝わる伝説
 茂林寺に狸が化けたとされる茶釜が伝わっている
 茂林寺にある茶釜は、
 1394年から1428年の間に住職であった
 「守鶴」が愛用した茶釜で、
 一度水を入れると、
 一昼夜汲み続けても
 水がなくならないという
 伝説(松浦清山著『甲子夜話(かっしやわ)』)
  ↓
 肥前国
 平戸藩
 第9代藩主の
 松浦清(号は静山)により書かれた随筆集
 書名の由来は、
 平戸藩主を退き隠居した後、
 この随筆が
 1821年12月11日
 (文政四年十一月十七日)
 の「甲子の夜」に書き起こされた・・・
  ↓
 「分福」
 「福を分ける茶釜」
  水を入れると突然
 「沸騰」することから
 「ぶんぶく」となったのではないかという説
  ↓
 月岡芳年の画
 『新形三十六怪撰(茂林寺の文福茶釜)』
 タヌキが
 「守鶴」という僧に化けて寺を守り、
 汲んでも尽きない茶を沸かした
  ↓
 民俗学者・柳田國男
 動物と人間との交渉を物語る
 動物の危機を救ってやり
 「報恩」を受ける
 ・・・「人間界の擬人化」だろう・・・
  ↓
 山形県
 米沢市
 南原
 横堀町の
 常慶院にも類種の伝説
 狸ではなくキツネ(狐)
 ・・・キツネは「記通音」だろう・・・
 「木常」の逆字の
 人名、地名の「常木」は
 武蔵国
 埼玉郡
 常木が起源
 徳川家などを輩出した
 愛知県東部である
 三河の氏族の名
  ↓
 ウニの一種
 ブンブクチャガマの名称は分福茶釜から
 毛玉の様な外見を
 タヌキに模して名づけられたらしい・・・
  ↓
 月岡芳年の画
 『新形三十六怪撰(茂林寺の文福茶釜)』
 タヌキが僧に化けたという説に基いて描かれた
 月岡 芳年(つきおか よしとし)
 1839年4月30日(天保十年3月十七日)
   ~
 1892年(明治二十五年)6月9日)
 浮世絵師
 姓は吉岡(よしおか)、
 後に月岡(つきおか)?・・・槻岡→槻山・築山
 本名は米次郎(よねじろう)
 画号は、
 一魁斎芳年(いっかいさい よしとし)、
 魁斎(かいさい)、
 玉桜楼(ぎょくおうろう)、
 咀華亭(そかてい)、
 子英、
 そして最後に
 大蘇芳年(たいそ よしとし)を用いた
 歌川国芳に師事した
 歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵
 など多種多様な浮世絵を手がけた
 衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、
 「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる
 門下からは
 日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出
 「最後の浮世絵師」と評価される・・・
 天保十年三月十七日(1839年4月30日)
 江戸新橋南大阪町
  武蔵国豊島郡新橋南大阪町(東京都港区新橋地区内)
  他説では、
  武蔵国豊島郡大久保(東京都新宿区大久保)
 の商家である
 吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる
 京都の画家の家である
 月岡家・月岡雪斎の養子となる
 (自称の説有り、他に父の従兄弟であった
  薬種京屋織三郎の養子となったのち、
  初めに松月という四条派の絵師についていた
  見限って歌川国芳に入門したとも・・・)
 嘉永三年(1850年)
 12歳で
 歌川国芳に入門(1849年説あり)
 武者絵や役者絵などを手掛ける
 嘉永六年(1853年)
 15歳のときに
 『画本実語教童子教余師』に
 吉岡芳年の名で最初の挿絵を描く
 同年
 錦絵初作品
 『文治元年平家一門海中落入図』
 を
 一魁斎芳年の号で発表
 慶応元年(1865年)
 祖父の弟である
 月岡雪斎の画姓を継承
 慶応二年(1866年)十二月
   ~
 慶応三年(1867年)六月
 にかけて、
 兄弟子の
 落合芳幾と競作で
 『英名二十八衆句』を表す
 これは歌舞伎の
 残酷シーンを集めたもので、
 芳年は
 28枚のうち半分の14枚を描く
 明治元年(1868年)
 『魁題百撰相』を描く
 彰義隊と官軍の実際の戦いを
 弟子の
 旭斎年景とともに取材した後に描いた作品
 明治二年(1869年)頃までに
 『東錦浮世稿談』などを発表
 明治三年(1870年)頃から
 神経衰弱
 明治七年(1874年)
 6枚つながりの錦絵
 『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表
 芳幾の
 新聞錦絵に刺激を受け、
 明治八年(1875年)
 『郵便報知新聞錦絵』を開始
 これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの
 明治十年(1877年)
 西南戦争が勃発
 想像で西南戦争などを描いた
 明治十一年(1878年)
 天皇の侍女を描いた
 『美立七曜星』が問題になる。
 明治十二年(1879年)
 宮永町へ転居
 坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会う
 明治十五年(1882年)
 絵入自由新聞に月給百円の高給で入社
 明治十七年(1884年)
 「自由燈」に挿絵を描いたことで
 絵入自由新聞と問題になる
 読売新聞にも挿絵を描く
 坂巻泰と正式に結婚
 明治十八年(1885年)
 『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって
 『東京流行細見記』(東京府の人気番付)
 「浮世絵師部門」で、
 落合芳幾・小林永濯・豊原国周
 らを押さえて筆頭
 名実共に明治浮世絵界の第一人者となる
 この頃から、
 縦2枚続の
 歴史画、物語絵など制作
 門人も80名超
 その後、
 『大日本名将鑑』
 『大日本史略図会』
 『新柳二十四時』
 『風俗三十二相』
 『月百姿』
 『新撰東錦絵』
 などを出し
 『月百姿』のシリーズは
 芳年の
 歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作
 明治二十四年(1891年)
 ファンタジックで怪異な作品
 『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から
 体が酒のために蝕まれていき、
 再び神経を病んで
 眼も悪くし、脚気も患う
 現金を盗まれる・・・
 明治二十五年(1892年)
 新富座の絵看板を
 右田年英を助手にして製作
 病状が悪化し、巣鴨病院に入院
 5月21日に医師に見放されて退院
 6月9日、東京市本所区藤代町(東京都墨田区両国)
 の仮寓で
 脳充血のために死亡(享年54、満53歳没)
 「やまと新聞で」は
 6月10日の記事に
 「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある・・・
 芳年の墓は新宿区新宿の専福寺
 法名は大蘇院釈芳年居士
 明治三十一年(1898年)
 岡倉天心を中心とする人々によって
 向島
 百花園内に記念碑が建てられた
  ↓
 歴史絵・武者絵
 『大日本史略図会』中の
 日本武尊や、
 1883年(明治十六年)の
 『藤原保昌月下弄笛図』
 など、近代の
 「自意識」を感じさせるものとなっている・・・
 『大日本名将鑑』の
 「神武天皇」
  『日本書紀』における
  神武東征の一場面
 芳年は写生を大切にしており、
 幕末の動乱期には斬首された生首を、
 明治元年(1868年)の
 戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生
 している
 「想像力」を駆使して描いた
 『奥州安達が原ひとつ家の図』
 「責め絵(主に女性を縛った絵)」で有名な
 伊藤晴雨は、この絵を見た後、
 芳年が多くの作品で実践するのと同じく
 実際に妊婦を吊るして写生したのか気になり、
 妻の勧めで妊娠中の彼女を吊るして実験した
 そうして撮った写真を分析したところ、
 モデルを仕立てての写生ではなく
 想像によって描かれたという結論に達した・・・
 月の出てくる作品も多く、
 『月百姿』という百枚にもおよぶ連作も手がけている
 幽霊画も
 『幽霊之図』
 『宿場女郎図』などを描いており、
 芳年自身が
 女郎の幽霊を見たといわれている・・・
ーーーーー
  ↓↑
https://www.google.co.jp/?gfe_rd=cr&ei=uNa1VJPbJeOT8QeD04CoDw&gws_rd=ssl#q=%E5%82%BE%E3%81%8F%EF%BC%88%E3%81%8B%E3%81%B6%E3%81%8F
  ↓↑
 かぶく(傾く)
 「かぶ」は頭の意
 かたむく、頭をかしげる
 勝手な振る舞いをする
 奇抜な身なりをする
 歌舞伎を演じる
 「かぶく」の「かぶ」は「頭」の古称
 「頭を傾ける」が本来の意味
 「頭を傾けるような行動」という意味から
 「常識外れ」や「異様な風体」を表すようになった
  ↓
 歌舞伎の表記は、明治以降に一般化したもので、
 「歌舞妓」の「妓」に
 「伎芸」などの「伎」が当てられた当て字
 「歌舞妓」も当て字のため、
 「歌舞伎の語源」とは関係無い
 「傾く(かぶく)」の
 連用形を名詞化したモノが
 「かぶき」である・・・
 「傾く(かぶく)」
 室町時代、
 他と違った身なりの人や、
 自由奔放にふるまう人のことを
 「傾いた人」、又は「傾き者」と呼んだ
 かぶき者
 (傾奇者・歌舞伎者とも表記)
 戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮
 特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、
 江戸や京都などの都市部で流行
 異風を好み、
 派手な身なりをして、
 常識を逸脱した行動・・・
 「常識外れ」
 「異様な風体」
 「頭を傾ける」
 「片向く」の意
 斜めになる
 かしぐ
 考えや気持ちがある方面に引きつけられるコト
 「傾く(かぶく)」
 「傾き者(かぶきもの)」
 奇抜な格好・身なりをする
 並外れたもの、常軌を逸する
 という意
 放蕩無頼(ほうとうぶらい)、
 異端あるいは
 異装の服装・髪型・行動をする者のこと
ーーーーー
 ・・・


「リスボン=Lisbon・りすぼん・里斯本」の大地震

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 里の斯の本・・・理は「波斯・斯波」、史話、詩話、皺の本・・・

 ・・・昨夜のNHK・TVで「歴史秘話ヒストリア・リスボン大地震」を放映していた・・・「1755年11月1日土曜日9時40分」・・・
 1755年 乙 亥(戊・甲・壬)二黒土星
   11月 丙 戌(辛・丁・戊)三碧木星
         破
    1日 戊 戌(辛・丁・戊)八白土星
         冲
 9時40分 丙 辰(乙・癸・戊)
 ↓        ↓
 ↓       (南)震源西南西約200km
 ↓   一    六    八白土
 年   九    二黒土  四
     五    七    三
 ↓        ↓
 ↓       (南)震源西南西約200km
 ↓   二    七    九紫火
 月   一    三碧木  五
     六    八    四
 ↓         ↓
          (南)震源西南西約200km
     七赤金  三碧木  五黄土
 日(東)六白金  八白土  一白水(西)
     二黒土  四緑木  九紫火
          (北)
 ・・・???・・・「自然の(未来)変化を知りたい」が故に「自然対象の変化(現象)」を過去的経験則とし、「数理的概念」で、それらの「諸関係」を「仮想的」な「科学理論」としたモノであろう・・・現在の地震情報、気象情報も、その結果の積み重ねでの判断である。地球規模の観察、天体規模での観察は「科学機器」で、その「自然情報の把握」は拡大した・・・
 自然災害情報での被害の多寡は時間軸の「短期」であり、「長期」である。大地震の震源地発生時からの情報発信ではその「自己防衛準備」の時間は短すぎる。直下型地震では救いようがない・・・気象情報があっても突風、竜巻、その大小、方向性は未だ測り難く、その被害も救いようがない・・・
 「自然の(未来)変化を知りたい」のは、繰り返される自然災害に対する「自己防衛(避難・逃避)」だからである。
 だが、問題は避難、逃避できなかった「人間」が被った災害後の「事後処理」である。
 モチロン、「事後処理」をドウするかは「生きているモノ、生き残ったモノの仕事」である・・・同じ場所に留まるか、移動するか・・・
 生活空間は「復興・復旧」するかも。元に戻そう、過去よりも「生産性を上げ豊かになろう」と・・・その「意識」を実現していくだろう・・・だが、個々人の「プチブル意識」はオカワリなし・・・カモ・・・
 あらゆる「生物は老化する」。あらゆる「生物には寿命がある」・・・戦争、災害で命を落とさなくても個々人の個はいずれは塵になる。そして、生きているモノだけが、その期間中に「命」を繋いでいくのだ。個々の人間が百年も生きようとは贅沢である・・・
 「世界の破滅」は生きている個々人の、個人の「認識対象の世界」を認識する「脳ミソ機能」の終焉で実現する。
 今の所、個人にとっての認識対象である「世界の破滅」とは「自分自身の死=対象を認識出来なくなった存在」でしかありえない・・・生き続けてきたのは「個人」ではなく、「世代交代」として繋がってきた「人間」である。多分、今年生まれた人間のホトンドは百年後には「絶滅」である。だが「人間種の絶滅」ではない・・・アタリマエである・・・
ーーーーー
 1755年11月1日午前9時40分に発生した地震
 リスボン大震災
 津波による死者1万人を含む、
 5万5000人~6万2000人死亡
 推定マグニチュード
 Mw8.5~9.0
 震源は
 サン・ヴィセンテ岬の
 西南西約200kmと推定
 ポルトガル経済大打撃
 海外植民地への依存度を増す
  ↓
 リスボン地震によって思想的に
 大きな変化を蒙った思想家に
 「ヴォルテール(Voltaire)」がいる
 パリの公証人の子
 姓は
 「アルーエ」とも表記
 「フランソワ=マリー・アルエ
 ( François-Marie Arouet
  1694年11月21日
   ~
  1778年5月30日)
 1717年5月
 バスティーユ牢獄に投獄、以後
 11ヶ月間監禁
 1718年11月18日
 「韻文悲劇」の処女作、
 「エディップ(オイディプス)」
 を
 「コメディー・フランセーズ」で初公演
 「ヴォルテール=Voltaire」という名は
 ペンネーム・・・
 彼の名の
 「Arouet=アルエ」・・・あるエ
 をラテン語表記した
 「AROVET LI 」
 のアナグラムの一
 「ヴォロンテール(意地っぱり)」
 「ゴットフリート・ライプニッツ」
 の「弁神論」に代表される
 「調和的で楽観的な世界観」を批判した
 「カンディード或は楽天主義説
  Candide, ou l'Optimisme・1759年」
 を発表した
  ピカレスク小説=Picaresque novel
           Novela picaresca)
  16世紀~17世紀のスペインを中心に
  流行した小説の形式
  悪漢小説、悪漢譚、悪者小説などと訳される
  「楽天主義とは、
   どんな悲惨な目に遭おうとも、
   この世の全ては善であると、
   気の触れたように
   言い張ることなのだ!」・・・
  ↓
 リスボン地震後
 ポルトガル王
 ジョゼ1世の下で
 宰相の地位にあった
 セバスティアン・デ・カルヴァーリョ
 (ポンバル侯爵)
 がリスボンの再建計画を推進
 宰相は国中の全ての
 教区に質問状を送り、
 地震とその影響を回答させた
 この質問は以下の
 地震はどのくらい続いたか?
 例えば
 南北方向に強く揺れたというふうに、
 地震の揺れに特定の方向はあったか?
 建物の崩壊でも、
 特に
 一方向に崩れるということはあったか?
 余震は何回感じられたか?
 死者の数など、どのような被害があったか?
 海水位は引くのが早かったか?
 それとも上昇が早かったか?
 海は普段の水位からどれだけ上昇したか?
 動物が不審な振る舞いをしなかったか?
 井戸や水穴には何が起こったか?
ーーーーー
 ・・・「地震」が「神の罰」ならば、アラブの人々は「スベテの罰をカミに任せたら」どうか・・・「風刺画」がパリにバラマカレテも「銃、爆弾、兵器、武器」に頼る必要はないだろう・・・そして、「ナンジのテキ」を「アイせよ」と云った「ヒトのコ」を信じているらしい人々も・・・
 「仏教徒」は「無常=自然の変化」を信じ、「無情」は信じない・・・信じようが、信じまいが、「生きている、生き残っている人間の夢情」かも・・・

馬鹿のカンジ・・・

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 ・・・「叶(かな)う」と云う漢字は「口+十」である・・・口に十字架である。「騙(だま)す」と言う漢字は「馬+扁」である・・・訓読みで同音異字漢字に「欺す・瞞す・黙す・珠数」がある・・・「馬」に偏っているのは「司馬遷の史記」か、「馬喀伯(マカベ)、瑪拉基(マラキ)書の旧約聖書」、「馬太(Matthaeus・馬瓄(王+賣)=マテヲ=マチュウ・瑪太・マタイ・摩太)伝の新約聖書」、「馬可(マルコ)伝の新約聖書」で、「約瑟(ヨセフ)」の妻「馬利亜(マリア)」である・・・ヨセフのヤクはオオゴト、ヨメのマリアはウマのキクのアマネシである・・・「羅馬」、「邪馬台国」にも「馬」・・・乳母(うば)は「命婦(みょうぶ)=中級の女官や中�檜の女房の称」で、「稲荷狐の異名」らしいが、「馬婦」・・・「馬喰」・・・「馬瓄(王+賣)=マタイ」は「馬の王の売り」である・・・「瑪」と「瓄」なら「瑪瑙」と「翡翠」・・・「瑪太」とは太い奴である。「瑙」とは「王」の「甾=巛(かわ・セン・サン)+囟(ひよめき・シン)=頭蓋骨」・・・「囡(ジュウ)=ノウ・・ナン・娘・隠す・くすねる」・・・?・・・「囡=囗+女(おんな→音名・ジョ・ニョ)」・・・カンジ、推してミルベシである・・・
 以下の原文は、「ウイッキペデア」や、他の「ブログ記事」で、参照、参考にして「部分添付」・・・少々改作・・・
ーーーーー
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/3916/1/kyoyo115_kato_ma.pdf
 「中国語訳聖書」
 Bridgman(柳治又)
 Culbertson(克陛存)
 の訳による
 『新約全書(漢文)』は
 ヘポンやブラウンの翻訳に
 欠かすことのできない
 参考資料であった
 この『新約全書』は日本人用に訓点がほどこされ
 何度も出版
 1859年に出版
 明治十六年にはすでに日本語訳が完成していたが
 漢文訳が重宝された・・・らしい・・・
 ボクの持っているのは日本語訳は親父が形見に遺してくれた公教宣教師「ラゲ」訳の「新約聖書」で、
 名古屋にいた時に友人の「K(女性)」さんが台湾在住時に贈ってくれた「聖経(新旧聖書)」で、「新標點和合本(上帝版)」である。
ーーーーー
  ↓
 (漢訳聖書)
 ブリッヂマン訳
 明治16年横浜刊行本
 ブリッヂマン訳の「日本語」になった言葉
  ↓
 耶蘇
 神
 聖霊
 預言者
 異邦人
 諸信者
 祈祷
 奥義
 栄光
 嗣業
 施洗礼
 受洗礼
 肉之欲
 迫害
 黙示
 神之子
 聖書
 地之塩
 世之光
 旨
 偽善者
 密室
 誘惑
 誠
 ↓↑
 中国語の聖書「和合本(胡蝶本)」の参考、参照から・・・「日本語聖書の漢字」になった・・・
 中国語の「翻訳」事情
 1853年「代表訳」と「公認本文」
 1853年の「代表訳」には
 翻訳の底本として
 ギリシャ語の
 「公認本文」
 を用いることが決められていた
 エラスムスによる
 「新約」のギリシャ語本文の刊行は
 ルター訳や欽定訳
 ルターは同時代人である
 エラスムスのギリシャ語本文を用いたが
 かなりの部分で
 ラテン語のウルガタに依拠
 キング・ジェームスの欽定訳(1611)は
 ティンダルなどの前人の業績や
 ドイツ語のルター訳を参考
 ギリシャ語の底本にはエラスムスの系統にある
 ギリシャ語校訂本が用いられた
 「公認本文」とは
 エラスムスにまでさかのぼり
 「欽定訳」の
 底本となった
 校訂本を総称して呼ぶ名称
 ・・・ロリー(WalterMacorLowrie)の
 「The Land of Sinim
       (シニムの国)」という本で・・・ロウリーは「イザヤ書49章12節の“Sinim'」という「今でも定説の無い地名」が「中国」を指している・・・と言っているらしい・・・「和合本」では「Sinim=秦」の漢字を本文に採用し、原文の「Sinim=シニム(希尼)」の訳注を「中国・支那」であるとしているらしい・・・
 ギリシャ語
 「ゼウス(Zeus)=古希Ζεύς」・・・雷神、天空神
 Ζεῦ πάτερ(zdêu páter ズデウ パテル)
 ディオス (θεos dios )
 ヘレネス(ギリシャ)の神
 他に神をいう語には
 テオス(theos・ラテン語デウス)
 Ζεύς
 Zeus
   ↓
 「shanti(シャンティ)」・・・何語?
 シャンティ(Shanti)とは、
 インドのサンスクリット語で、
 直訳すると、「平和、至福、祈り」、
 「安らぎ、心の平安、静寂」という意味
 「shen(シェン)」・・・神・申?
   ↓
 「shanti」とは
 日本語で「神」と訳されているモノを
 中国語で「上帝」と訳
 「shen」とはそれを「神」と訳
 イギリス系は「上帝」
 アメリカ系は「神」を用い
 中国語では
 「神さま」の訳語が一定しておらず
 「和合本」も二種類の版
 「代表訳」の時から現在まで未解決の問題で
 「上帝」に対して
 ブリッヂマンが
 「神」を用いた日本語改訳を行い
 それが「日本の聖書」に影響を与えた・・・
 ・・・「上程(議案などを会議にかけること)」の「紙・髪・祇・加味・守」・・・?
 ・・・「ゴット(God は印欧語族中のゲルマン語族系の語・Gott)」の語源は?・・・「ゼウス・ユピテル」の「音」には繋がらない・・・音が繋がるのは「ゴート族(ゴート語=gutans・独語=Gothe・Gote)・・・
 Godの語源
 ゴート語はゲルマン系言語
 「神」は「guth(ゴート語はゴート文字」
 ローマ字に直して
 「th」=「thorn」、
 ゴート語では
 「thiuth 文字」で記録
 「神」は 「guth」・・・
 ゴートに纏わる言葉として、
 ルネサンス時代に野蛮なという意味で
 「ゴシック(ゴート風の)」
 スウェーデンの地名には
 ゴートが訛った
 「イェーテボリ(Göteborg)」がある・・・?
  ↓
 旧約聖書 ヘブライ語で אלהים (エロヒーム)
 「Ἐγώ εἰµι ὁ ὤν
 (エゴー・エイミ・ホ・オーン)
  =私は在るモノである
  「私は在りて在るものである
   (אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה =ehyeh ’ăšer ’ehyeh)」
  と名乗った事に由来
  「出エジプト記・第3章第14節」は
  漢字のタイトルで
  「申命記」である・・・神=示+申
  「申」とは「雷・雷電」・・・ゼウスの武器
 ヤハウェ(ヘブライ語: יהוה‎)
 ヱホバ
 アドナイ
 エル(単数形)
 エロヒム(複数形)
 
 新約聖書 ギリシャ語で θεου (セオス)
 ΘΕΟΣ=θεός (tʰeós テオス)
 ・・・「Y・H・W・H」・・・このアルファベットの「子音」に「a・i・u・e・o」の母音を接続して音を採って読んだら何通りに読めるか・・・
    a  i   u   e  o
   ↓ ↓  ↓  ↓ ↓
 Y→ya・yi・yu・ye・yo→ヤイュヱヨ
 H→ha・hi・hu・he・ho→ハヒフへホ
 W→wa・wi・wu・we・wo→ワヰウヱヲ
 H→ha・hi・hu・he・ho→ハヒフへホ
 ・・・「ヤハウェ」・・・
 以前にも書き込んだが
  ↓
 ラテン語: zeta ゼータ
 アメリカ以外の英語: zed [zɛd] ゼッド
 アメリカ英語: zee [ziː] ズィー
 ドイツ語:zett [tsɛt] ツェット
 オランダ語:zet [zɛt] ゼット
 スラヴ語(チェコ語 他):ゼト
 インドネシア語:ゼッ
 イタリア語: zeta ゼータ
 フランス語:zède ゼド
 スペイン語: zeta セタ
 ポルトガル語:ゼー
 エスペラント:ゾー
 日本語では「ゼット」と呼ぶことが多い
 (オランダ語発音と同等)
 中国語で「ズィー」と呼ぶ
  ↓
 ZZZ・・→乙乙乙・・→乚乚乚・・→LLL
 Z→G
 ラテン語には不要なため
 ラテンアルファベットに採用されず、
 新たに作られた
  G が Ζ の位置に代わりに置かれたが、
 後代ギリシア語の
 Ζ(ゼータ)を
 音写する必要が生じて
 アルファベットの最後に加えられた
 「Z」の文字が表す
 音素・音声は、
 「IPA(国際音声記号
  (International Phonetic Alphabet)」
 では
 有声歯茎摩擦音を表し
 有声歯茎破擦音の「dz」をも表す
 フランス語、
 エスペラントでは、
 音素は「z」
 音声は「z」
 英語では、
 基本的に
 「z」だが、
 「-zure 」などでは
 「zj」が融合同化し「ʒ」となる
 ラテン語では、古典期には
 「dz」を表した
 俗ラテン語ではさまざまな音に変化し、
 現在のロマンス語の音につながる。
 日本語のローマ字表記では、
 「z」=ざ行子音
 ヘボン式では
 「i」「y」 の前以外。
 音は、
 「z」(母音の後で a・e・o・uの前)
 「dz」(母音の後以外で a・e・o・uの前)
 「ʑ」(母音の後で i・yの前)
 「dʑ」(母音の後以外で i・yの前)
 という異音に変化する。
 インドネシア語では、
 「z」 のほかに「ʒ」=「Z」を表すことがある。
 フランス語では、
 「z」が動詞二人称複数の
 語尾部分「-ez」を中心に多く使用
 例は "vous aimez(エメ)"
     "Aimez(エメ)-vous(ヴゥ)"
     愛している
      エメ(得女・絵目・重女)
             ズ(図・事)部得
     アイメ(合い目)z ヴゥ(撫有・分得)
 "vous aimez" 同部分を含めた
     語尾の「z」は殆んどの場合、黙字
 但し、そのあとに
 母音が続く場合は「リエゾン(liaison)=連音・接続」して「z」 を発音する。
 スペイン語では、原則として
 「θ」=「T」を表す (ceceo)
 中南米では 「s」である (seseo)
 イタリア語では、「dz」または「ts」である。
 ドイツ語、スオミ語、中国語の拼音では
 「ts」である。
 ・・・リエゾン(liaison→リアイゾン)
        L→乚→乙・遺愛存
              理合い纂
              離アイ存)
  ↓
ーーーーー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BC%E5%BC%81
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%81%A4%E4%BB%AE%E5%90%8D
  ↓
 「ズーズー弁」は、一般には東北方言の俗称
 日本語の
 音韻上
 「し」対「す」、
 「ち」対「つ」
 その濁音
 「じ」対「ず」
 「ぢ」対「づ」
 の区別がない方言
 一つ仮名弁(ひとつかなべん)とも言う
 一つ仮名弁=「ジ=ヂ=ズ=ヅ」の4つが同意
 二つ仮名弁=「ジ=ヂ≠ズ=ヅ」の2つが同意
 三つ仮名弁=「ジ=ヂ≠ズ≠ヅ」の3つが別意
 四つ仮名弁=「ジ≠ヂ≠ズ≠ヅ」の4つが別意
  ↓
 鎌倉時代頃の京都では、
 シ(ɕi)、チ(ti)、ス(su)、ツ(tu)
 という発音であり、
 「チ、ツ」は「タ、テ、ト」と同じく破裂音
 「ジ(ʑi)、ヂ(di)、ズ(zu)、ヅ(du)」
 それぞれ清音に対応する有声音で、
 現在の表記での
 「チ(ti)=ティ
  ツ(tu)=トゥ
  ヂ(di)=ディ
  ヅ(du)=ドゥ」
 二文字の発音であった・・・
 「シ」と「ス」は現代と同じ発音
 この段階では
 「ジ、ズ」は摩擦音、
 「ヂ、ヅ」は破裂音
 で発音の差は大きい
 京都では
 「四つ仮名」
 はそれぞれ発音が違う仮名文字として弁別
 1251年に書写された観智院本『類聚名義抄』に
 クジラとクヂラの両方の表記
 個別の単語の中には古くから
 「z」 と「d」 が交替するものがあった
 安房国(千葉県南部)で生まれ育った僧である
 日蓮(1222年 - 1282年)の書簡には、
 「嫁がづ」(本来は「嫁がず」
 「ぢうあう(縦横)」(本来は「じゅうわう」)
 などのように混同した例がかなり見られる
 関東地方では音韻変化が数世紀先行し
 それが西へと広がっていた・・・
  ↓
 室町時代の前期までは、
 京都方言では
 まだ
 鎌倉時代までの発音をそのまま引き継いでいた
 しかし、
 京都では室町時代の中期に
 「チ、ヂ、ツ、ヅ」
 の破擦音化が起こり、
 「チ(ʨi)、ツ(ʦu)、ヂ(ʥi)、ヅ(ʣu)」
 という発音になった
 このため、
 「ジ(ʑi)、ズ(zu)、ヂ(ʥi)、ヅ(ʣu)」
 という発音になり、
 調音方法が
 摩擦音と
 破擦音となって音が近くなった
 中国資料の『日本寄語(1523年刊)』で
 日本語の「チ、ツ」を表すのに
 破擦音系の漢字が使われていることから、
 この破擦音化は16世紀初頭までには起きていた
 16世紀末の
 キリシタン資料における
 日本語の
 ローマ字表記では、
 「シ(xi)」
  「ス(su)」
 「チ(chi)」
 「ツ(tçu)」
 「ジ(ji)」
 「ズ(zu)」
 「ヂ(gi)」
 「ヅ(zzu・dzu)」
 で表されており、
 四つ仮名は書き分けられていた
 ただし、
 このローマ字表記の元となった
 当時のポルトガル語では、
 「j」と「g 」
 「z」と「dz」
 の発音の区別はなく、
 日本語の発音を書き分けるための
 便宜的なものとみられる・・・
 このように
 音が接近したため、
 「ジとヂ」、
 「ズとヅ」の混同が起こり始めた
 室町時代後期には、
 京都でも
 「ジとヂ」、「ズとヅ」
 を誤って書いているものが見られるようになった
 キリシタン資料は
 規範的な言葉を記載しており、
 四つ仮名の混同は少ないが、
 それでも中には
 誤ったローマ字表記のものも見られる
 ロドリゲスの
 『日本大文典(1604年 - 1608年刊)』
 でも、
 「本寺(ほんじ)」→ほんぢ、
 「自然(じねん)」→ぢねん、
 「水(みづ)」→みず、
 「参らず」→まいらづ
 と誤って発音されることが
 京都でも見られると「記述」
 筑紫(九州)では、
 字の読めない
 女の子も誰にも習わずとも言い分けている
 と記録
 越後国(新潟県)の
 室町時代後期の書状などには
 「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」
 を混同した事例が非常に多く見える
 この地域では
 16世紀には既に
 四つ仮名の区別が完全に失われ、
 現在の東京方言などと同じ状態に達していた・・・
 江戸時代
 17世紀末の
 元禄時代(1688年 - 1703年)までには
 「ジ」と「ヂ」、
 「ズ」と「ヅ」
 がそれぞれ完全に同音になった
 京都ではこの変化は
 「ヂ(ʥi)」「ヅ(ʣu)」
 の破擦音から
 摩擦音へと変化する方向に進み、
 「ヂ(ʥi)」「ヅ(ʣu)」
 が
 「ジ(ʑi)」「ズ(zu)」
 に統合される形になったが、
 撥音(ン)の直後に限っては
 逆に
 摩擦音から
 破擦音へ変化
  ↓
 1695年には、
 『蜆縮涼鼓集』(けんしゅくりょうこしゅう)という、四つ仮名の書き分けのみを専用に扱った書籍が出版
この本の書名は、
 「蜆(し じみ)」
 「縮(ちぢみ)」
 「涼(すずみ)」
 「鼓(つづみ)」
 と四つ仮名を含んだ言葉を集めたもので
 書籍が出版された背景には、
 「四つ仮名」が
 発音上は同音に帰して区別されなくなっていたのに対し、少なくとも知識人層は表記上は厳密な書き分けが要求されており、混乱があったという事情がある。
 松尾芭蕉(1644年 - 1694年)が
 「出づ」を「出ず」と
 書いた例があるなど、
 文人でも混乱する場合があった・・・?
 ・・・混乱ではなく・・・意図的・・・
 明治時代以降は
 歴史的仮名遣が
 教育や公の場で使われたが、
 これは
 「四つ仮名」を
 語源通りに書き分けることを要求するものだった。
 しかし、
 現代仮名遣いでは、
 語源に関わらず、
 四つ仮名は基本的に
 「じ」「ず」と書き、
 連濁や同音の連呼などで
 「ち」「つ」が濁った場合に限り、
 「ぢ」「づ」と表記するという方針が取られた
   ↓
 1946年
 には
 「現代かなづかい」が、
 1986年にはそれを改訂した
 「現代仮名遣い」が内閣告示として公布
 四つ仮名は
 語源通りに書き分けることをやめ、
 基本的には本来
 「ぢ」「づ」のものでも
 「じ」「ず」と書くことを基本
 「葛(くず)」
 「屑(くづ)」
 は歴史的仮名遣いで
 現代仮名遣いではどちらも
 「くず」と書かれ、
 「富士(ふじ)」
 「藤(ふぢ)」
 は歴史的仮名遣いで
 現代仮名遣いではどちらも
 「ふじ」と書かれる。
 これは
 発音が完全に同一になったための措置である。
 ただし例外として、
 「鼻血(はなぢ)」、
 「三日月(みかづき)」、
 「気付く(きづく)」
 のように、
 連濁によって
 「ち」「つ」が濁って生じたものが
 明らかである場合や、
 「縮む(ちぢむ)」
 「続く(つづく)」のように、
 同じ音が連呼されたことにより
 有声化したものは
 「ぢ」「づ」と書くと定められた。
 現代の「ぢ」「づ」は
 発音の違いを表すものではなく、
 濁る前の語源を明示するための
 語源的な配慮、
 あるいは
 視覚的な配慮
 同音連呼の場合
 「踊り字」を用いて、
 「ちゞむ」
 「つゞく」と続く場合にも配慮した・・・
 現代仮名遣いでは、
 複合語であるなどの
 語源意識が残っており、
 「ち」「つ」
 などから生じたことが明らかである場合に
 「ぢ」「づ」を用いる
 異論
 例えば、
 「世界中(せかいじゅう)」、
 「稲妻(いなずま)」
 などの語は、
 表記を見れば
 「中(ちゅう)」、
 「妻(つま)」
 が連濁したものだと推測できるが、
 「じ」「ず」で書くと定められた。
 これは、これらの語が
 二語に分解できるという
 意識が現在では薄いと判定
 語源意識が残っていると考えれば
 「せかいぢゅう」
 「いなづま」と書くものだとも考えられる。
 その後、
 「現代仮名遣い」では、
 「世界中」「稲妻」などの一部の語は、
 「じ」「ず」で書くことを本則とし、
 「ぢ」「づ」で書くことも
 許容する・・・
 また、
 漢字音についても、
 連濁で生じたものを除いて、
 全て
 「じ」「ず」に統一する。
 例えば、
 「地」という漢字は、
 歴史的仮名遣いでは
 呉音が「ヂ」、
 漢音が「チ」であったが、
 現代仮名遣いでは
 呉音のものは「ジ」と書かれる。
 「地面」「地震」などは、
 本来
 清音のものが連濁で濁音になったわけではなく、
 呉音で
 元々が
 濁音であるため、
 現代仮名遣いでは
 「ぢめん」
 「ぢしん」
 ではなく
 「じめん」
 「じしん」と書く
 しかし、
 「土地(とち)」、
 「地点(ちてん)」など、
 漢音の「ち」が使われている
 熟語もかなりあるため、
 これが
 連濁で濁ったものと
 誤解して
 「ぢめん」
 「ぢしん」
 と書くのではないかと
 誤解する例がかなり多く、
 現代仮名遣いを学習する際に混乱
 呉音と漢音が受容される間に
 中国語は
 濁音が消滅していく段階に当たっていたため、
 呉音で濁音で
 漢音で清音
 という対応を示す漢字は多く、
 「地(歴史的仮名遣いでヂ・チ)」の他にも
 「治(ヂ・ジ)」
 「直(ヂキ・チョク)」
 「図(ヅ・ト)」
 「頭(ヅ・トウ)」
 などが混乱の原因になることがある。
 ただし、
 「中(チウ・チウ)」、
 「通(ツ・ツウ・トウ)」
 のように呉音でも濁音でなく、
 連濁によって生じた
 濁音と考えられる
 「世界中」「融通」について、
 現代仮名遣いは
 「せかいじゅう」「ゆうずう」
 を本則とし、
 「せかいぢゅう」「ゆうづう」
 を許容するという一貫性のない状況となっている。
  ↓
「現代かなづかい」では、
 「ジ・ヂ」「ズ・ヅ」を言い分けている
 地方(「四つ仮名弁」「三つ仮名弁」の地方)に限り、これを書き分けても差し支えないという方針が掲げられていたが、
 「現代仮名遣い」ではこの方針は掲げられていない。
ーーーーー
   ↓↑
 地方言語の「ズーズー弁(方言)」で「カミの聖書の漢字」を訓読したらドウナルンだべか?・・・「沖縄」に「聖書のカミ」をもたらした「外国人」の能ミソの「言語本質」は、やっぱ、「ギリシャ語の文字」に重なった「旧約のモーゼ・新約のキリスト」のモノガタリの「意味」・・・
 「神」の字が、「אלהים」または「אלוהים」、古代ギリシャ語「Θεός」、英語「God」の訳語に当てられたのは、
 近代日本でのキリスト教宣教に先行していた
 「清国」におけるキリスト教宣教の先駆者である、
 ロバート・モリソンによる
 漢文聖書においてであった・・・
ーーーーー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%がBB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0
 バーナード・ジャン・ベッテルハイム
 (伯徳令、Bernard Jean Bettelheim
  1811年~1870年2月9日)
 日本に派遣されたキリスト教宣教師
 沖縄県地域最初のプロテスタント宣教師
 ハンガリーでは
 Bettelheim John Barnardéと表記
 ハンガリーでは
 Bettelheimは
 ベッテルヘイムと発音
 ハンガリーの資料では
 1869年9月11日に死没
 1846年4月30日
 香港から琉球王国に到着
 那覇の護国寺を拠点に8年間滞在
 1848年12月8日に生まれた
 2番目の娘は、
 記録上沖縄本島で生まれた最初のヨーロッパ人
 琉球に住む人々から排斥された
 琉球の支配者
 薩摩と江戸幕府の方針による・・・
 当時、
 琉球王国では
 キリスト教は禁教
 彼は布教や通商のさらなる自由化を要求
 英吉利本国も
 軍事的圧力を続けた
 1847年10月
 国王尚育王の国葬参加で
 ベッテルハイム夫妻と
 フランス人宣教師が
 首里の入口で取り囲まれて殴打された
 医療活動での評価は高く
 「仲地紀仁」に種痘を伝授
 聖書を琉球語(当時琉球王国の沖縄方言)に翻訳し、
 それを配布
 『琉球語文典階梯』
 という琉球文典に関する文献も脱稿
 未刊の稿本を大英博物館に寄贈
 1854年
 マシュー・ペリーが来琉した時、
 琉球の言語と文化についての知識から
 ペリーのもとで働き、
 その船舶でアメリカ合衆国に渡った
 アメリカでは
 シカゴやニューヨークにおいて
 長老派牧師として活躍
 南北戦争では北軍の軍医(少佐)として参加
 ミズーリ州ブルックフィールドにて肺炎で死去
 エピソード
 ペリー来航時に、
 島内で
 米水兵が飲酒の上、
 地場の女を犯そうとして
 島民に石で殴り殺された。
 この事件でペリー艦隊との間に緊張を覚え、
 困っていた首里王府だったが、
 ベッテルハイムの
 次女の守役を務めていた
 田場武太
 が自ら下手人を名のり出て、
 自分の妻が
 水兵に暴力で犯されたので殺したと申し立てた
 このため首里王府は難を逃れたが、
 当時、
 田場は独身で、
 これはベッテルハイムの入れ知恵だった・・・
   ↓
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/biblio/bib37-2/01.html
 英人宣教師ベッテルハイム
 BernardJeanBettelheim,
 1811~1870
 プロテスタントの伝道
 1846年琉球の那覇
 1846~1854・・・琉球王・尚育19~尚泰7
 1797年のプロビデンス号
 1840年のインディアン・オーク号
 の乗組員の救援・救助
 B ベッテルハイムの生い立ち
 琉球海軍伝道会
 宣教師・医者
 沖縄で8年間滞在
 当時の琉球の人々には
 ナンミンヌガンチョー(波之上の眼鏡)
 イヌガンチョー(犬眼鏡)などのあだ名で呼ばれていた
 「波之上」とは、彼が滞在した
 「護国寺」付近の地名
 漢字名を
 「伯徳令」と記す
 1811年
 ハンガリーの
 ブレスブルグの
 ユダヤ系の家庭で生まれた
 13歳の時から親元を離れ、語学教師
 1836年
 イタリアの
 パデュア大学から医師免許状を授与
 エジプト海軍や
 トルコ陸軍で軍医として働く
 1840年
 トルコのスミルナ付近で、
 英国教会の牧師から洗礼を受けてキリスト教徒となる
 1843年
 ロンドンで英国女性
 エリザベスと結婚して英国に帰化
 ロンドンで、
 琉球におけるキリスト教の布教を唯一の目的とする
 琉球海軍伝道会が設立
 創立者は
 1816年
 英海軍バジル・ホール艦長と共に琉球を訪れた
 元海軍大尉クリフォード
 1845年
 伝道会は琉球へ派遣する宣教師として
 ベッテルハイムを採用
 琉球で伝道と医療活動
 ベッテルハイム一家(妻と2人の子供)は、
 1846年4月30日
 香港経由の
 商船で那覇港に到着
 2年前の
 1844年
 既に
 フランス海軍の武威のもとで
 フランス人宣教師
 フォルカード神父が
 中国人の
 高とともに入国し、
 那覇の泊にある
 天久聖現寺に滞在
 ベッテルハイムも
 強引に那覇港に上陸
 波之上の護国寺を住居に指定され、
 8年余の生活を始めた
 1847年10月
 国王尚育の国葬時の殴打事件
 国王の葬儀に参加しようとした
 ベッテルハイム夫妻と
 2人の仏宣教師は、
 首里の入口で群衆に取り囲まれて殴打された
 1854年7月
 沖縄を去る
 1848年ごろ
 那覇の
 医師
 仲地紀仁と交友を結び、
 仲地医師を通して沖縄における
 最初の
 西洋式の
 牛痘法を導入した・・・
 ベッテルハイムの聖書翻訳・米国への移住
 1847年2月
 ルカ伝の翻訳を始めて、
 同年7月には一応終わり
 ルカ伝訳了後は、
 ヨハネ伝・ロマ書・使徒行伝・マタイ伝・マルコ伝を翻訳
 ベッテルハイムの翻訳した文中に
 意味不明なところや誤記が多い
 1851年までに訳した
 ルカ伝・使徒行伝・ヨハネ伝・ロマ書
 が
 琉球語の口語訳
 琉球語訳が日本本土で使用できないことに気づき、
 1851年以後の翻訳作業は
 漢和対訳の
 『路加伝福音書』
 『馬太伝福音書』
 『馬可伝福音書』
 1854年2月
 後任の
 G. H.モートン師が
 那覇に着任
 同年7月、
 ベッテルハイムは
 ペリー艦隊に便乗して那覇を去った
 翌年英国への帰途、立ち寄った米国に永住
 数年ニューヨークに住んだ後、
 イリノイ州に移住
 南北戦争中、
 北軍の軍医として活躍
 戦後一家はミズーリ州に移った
 1870年2月
 肺炎で死亡
 享年59歳
ーーーーー
 ・・・怪しい「セイショ」も「コジキ」も・・・「新井白石」・・・  
 

食糧援助は現物を手渡しで・・・俎板の上には覚悟で・・・

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 ・・・「古事記・日本書紀」の「また(又・叉・俣・股・復・亦・全)=マタの名」→「マタのメイ」・・・「亦」=「亠(音の略字・トウ・ズ)」+「刂(刀の略字・かたな・トウ・ト)」+「八(や・やつ・ハチ・ハツ)」・・・「廣州亦名羊城」=「広州は、亦(また・エキ・腋=わき)の名は、羊城(ヨウジョウ)とも呼ぶ」・・・「羊(ひつじ)の城(しろ)=十+一+成(万戈)」なら、「未白(未だ白ならず)」である。人物なら「高田未白(寛永七年・1630~正徳五年十二月十四日・1716)国学者。山崎闇斎の門人・備中(岡山県)出身・名は正方・別号に海隅白翁」と「酒井未白( ?~弘化二年1845) 江戸時代後期の俳人。信濃(長野県)の人。上野(こうずけ)・群馬県)に永住。通称は治兵衛」・・・「新井白石」に関係するのか・・・?・・・亦も、モウソウ、同じことを書き込んで、これを読んでくれる人は「辟易」するカモネッ・・・
 「辟易=項王瞋目而叱之、赤泉侯人馬倶驚、辟易数里(史記-項羽本紀)?→避けて路を変える意・重い刑罰を易する?・処刑・腰を斬る?」・・・「辟雍(ヘキヨウ)は西周時代の中国の高等教育機関、学校=五学=太学」である。「太く学ぶ」とはネッ。これは「孫 詒譲(ソン イジョウ・1848年~1908年)・字は仲容、号は籀廎。清末の学者・教育家」の「墨子家(墨子は兼愛、非攻の思想家・紀元前450~390頃)」の説らしい。
 キリスト誕生以前の「紀元前450~390」である。
 釈迦誕生の推定生没年は、
 「紀元前624年~紀元前544年南伝(上座部仏教)」説、
 「紀元前566年~紀元前486年北伝(衆聖点記)」説
 があるらしい。
 キリスト誕生以前の「紀元前566年~486年」である。
 誕生日は中国暦「4月8日」、インド系太陽太陰暦「第2月15日」で、「花祭り・華祭り」である・・・
 ・・・「辟=尸+口+立+十」を伴なう漢字・・・「譬=辟+言」は「譬喩=ヒユ=比喩」の「たとえ(譬)=例え・喩え・仮令」である。
  「譬説(ヒセツ)」、「譬喩(ヒユ)」、「譬諭(ヒユ)」、「譬喩尽(たとえづくし)」があり・・・人体では「臂(ひじ・ヒ)=辟+肉」である。
 「辟=尸+口+立+十」は「シカバネ(屍)、カバネ(姓)のクチ、タツ、十字架」・・・「尸」=「屍体、亡骸、かたしろ、晒す、司る、連ねる、陣を並べる、怠る、実体の無い」、「尸」=「陳(つら)ぬるなり(説文解字・巻八)・陳なり、主なり、なり(爾雅・釈詁)」、「字形は屍体の臥せるところの象形」・・・「死体解剖=dissection of a dead body=necrotomy」・・・
 デッド・ボディ=dead body(英語)
 ライヒェ=Leiche(独逸語)
 コール=corps(仏蘭西語)
 カダベル=cadáver(西班牙語)
 カダバル=kadaver(阿蘭陀語・和蘭語)
      lijk
      kreng
      「解体新書」=杉田玄白
             中川淳庵
             前野良沢
       刑死者の腑分(ふわけ=解剖)
       弟子の
       大槻玄沢が改訳
      「重訂・解体新書」
       寛政十年(1798年)脱稿
       文政九年(1826年)刊行
      ドイツ人医師
      ヨハン・アダム・クルムスの医学書
      「Anatomische Tabellen(解剖図譜)」
             たべれん?
       のオランダ語訳
      「ターヘル・アナトミア」
       日本語漢字でのルビ
      「打 係縷・亜那都米」
      「Tabulæ Anatomicæ=解剖(学)図表」
      「ターヘル」が「表」、
      「アナトミイ」が「解剖」
      「Ontleedkundige Tafelen」
      「Tafelen」は「テーブル=図表」
             たふえれん?
 カダーヴル=cadavre(伊太利亜語)
 カダーヴェレ=cadavere(伊太利亜語)
  ↓
 ・・・「白石」は「涅(そ)めても涅めても黒くならず、磨(と)いでも磨いでも薄くならず(論語・陽貨篇)」の意味。「涅」の漢字は元来「釈迦」が入滅した「陰暦二月十五日」の「涅槃(ネハン)=解脱・安楽寂滅」の熟語に使われる漢字である。他には「涅歯(デッシ・ネッシ)」があり「歯を黒く染めるコト」である。「涅=氵+日+土(十一)」は「デツ・ネチ・ネ・ネツ・くろつち・どぶどろ・くろ」と漢和辞典にある。
 兎に角、「亦」である・・・
 「説文解字・巻十」には「亦」は「人の臂亦なり」とある。 字形は「人の正面形に両脇を示す点を加えた指事(または象形)」、「臂亦=ヒエキ・臂(ひじ)と亦(わき)・亦はワキの下の腋」、「説文」に「大に從ひ、兩亦(両脇・両腋)の形に象る」とある。「腋の初文」とも・・・「わき(和記)・エキ(易)」・・・
 釈迦の誕生譚・・・母のマーヤ夫人が「白い象」が体の中に入る夢をみて妊娠し、臨月で里帰りする途中、アショーカ樹(サーラ樹)の花が満開のルンビニー園で休憩。マーヤ夫人はその花を取ろうとして右手を伸ばした時に釈迦は「夫人の右の脇腹(腋腹→亦腹)」から生まれた・・・「形象→白象→白像→想像」、「脇腹(腋腹→亦腹)」・・・「天上天下唯我独尊」・・・
 ボクの持っている「新約聖書(ラゲ訳・東京大司教出版)」には、
 「幼児・幼子」キリストに使用された漢字は
 「孩兒(おさなご・ガイジ・カイシ)」であった。
 「孩」=孑(ひとり・ぼうふら・ケツ・ケチ)+亥
     子(こ・ね・シ・ジ)+亥(い・カイ・ガイ)
 「兒」=臼(うす・キュウ)+儿(ニン・ジン)
     兒=児=旧(ふるい・キュウ・ク・グ)+儿
         旧=「舊」の略体
 「孩」は「孑(子)」は「亥=猪」である。
 「古事記」の「猪」とは「伊吹山(伊服阜能山)の白猪(白豚)の神」であった。「日本書紀」では「五十葺山(膽吹山)」の「大蛇=大巳(大蝮)」である。
 ヤマトタケル=倭建命=小堆皇子
 「亦の名」は
 「日本童男・倭男具那命(やまとをぐな)」
       和談に具えるナメイ(ダメイ)
           命=みこと=いのち
  ↓
 「新約聖書」では
 「アルフェオ(Alfeo)の子」で、「税吏」であった「使徒マタイ」によって書かれたとされている『マタイの福音書』、『マタイ福音』、『マタイ伝』、『マタイ』・・・
 「アルフェオ(Alfeo)」の名前は「モンテ アルフェオ オットーネ ピアチェンツァの州、トレッビアの左岸で、中央イタリアのコミューンの領土内に位置するリグーリア州アペニンの山」・・・
 「アルファ-ベット(alpha-bet)」・・・
 「Alfeo(アルフェオ)」は「ギリシャ神話のオルフェウス(Ὀρφεύς, Orpheus)」の訛りカも・・・?
 「アルフェオ(Alfeo)→オルフェ( Orfeo)」・・・
 「オルフェオとエウリディーチェ(グルック)・
   (Orfeo ed Euridice)
  グルックが作曲したオペラ。1762年初演」
 のオペラに「森鴎外の翻訳」・・・
 モノガタリは
 「黄泉(よみ・冥土・冥界)の国」に
 「妻の伊邪那美命を求めに行った」
 「夫の伊邪那岐命」
 ・・・と重なる・・・?・・・
ーーーーー
 古事記原文・・・島生み・・・
  ↓
 於是
 二柱神議云。
 今吾所生之子不良。
 猶宜白
 天神之御所。
 即共參上。
 請
 天神之命。
 爾
 天神之命以。
 布斗麻迩爾
 【上。此五字以音】
 ト相而詔之。
 因
 女先言而不良。
 「亦」
 還降・・・・刊行?
 改言。・・・改元?
 故爾・・・・古事・故事・古字・虎児?
 反降。・・・反抗・犯行・版行?
 更往
 迴其
 天之
 御柱
 如先。
 於是
 伊邪那岐命。
 先言
 阿那迩夜志愛袁登賣袁。
 後
 妹
 伊邪那美命
 言。
 阿那迩夜志愛袁登古袁。
 如此言竟而。
 御合。
 生子
 淡道之穗之狹別嶋
 【訓別云-和氣-下效此】・・・別=和氣
 次生
 伊豫之二名嶋。
 此嶋者身一而有面四。
 毎面有名。
 故
 伊豫國
 謂
 愛(上)比賣【此二字以音下效此】
      「この二字は音読み
    (以)下は此れに效(効・なら)へ」
 讚岐國
 謂
 飯依比古。
 粟國
 謂
 大宜都比賣【此四字以音】
 土左國
 謂
 建依別。
 次生
 隱伎之三子嶋。
 「亦」-名
 天之忍許呂別【許呂二字以音】
 次生
 筑紫嶋。
 此嶋-「亦」-身一而有面四。
 毎面有名。
 故
 筑紫國
 謂
 白日別。
 豐國謂豐日別。
 肥國
 謂
 建日向日豐久士比泥別。【自久至泥以音】
 熊曾國
 謂
 建日別【曾字以音】
 次生
 伊岐嶋。
 「亦」-名謂天比登都柱【自比至都以音訓天如云】
 次生
 津嶋。
 「亦」-名謂天之狹手依比賣。
 次生
 佐度嶋。
 次生
 大倭豐秋津嶋。
 「亦」-名謂
 天御虚空豐秋津根別。
 故因此
 八嶋
 先所生。
 謂
 大八嶋國。
 然後還坐之時。
 生
 吉備兒嶋。
 「亦」-名謂建日方別。
 次生
 小豆嶋。
 「亦」-名謂
 大野手(上)比賣。
 次生
 大嶋。
 「亦」-名謂
 大多麻(上)流別
 【自多至流以音】
 次生
 女嶋。
 「亦」-名謂
 天一根【訓天如天】
 次生
 知訶嶋。
 「亦」-名謂
 天之忍男。
 次生
 兩兒嶋。
 「亦」-名謂
 天兩屋。
 【自
  吉備兒嶋
  至
  天兩(両)屋嶋
  并
  六嶋】
ーーーーー
 新約聖書(マタイ傳)・・・亦異伝・亦遺伝
 ↓            又叉俣・復股・摩他
 現代語訳
 第17章
 17:1
 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
 17:2
 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
 17:3
 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
 17:4
 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
 17:5
 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
 17:6
 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。   17:7
 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。
 17:8
 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
 17:9
 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
 17:10
 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。
 17:11
 答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。
 17:12
 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。
 17:13
 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。
ーー↓↑ーー
 17:14
 さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、
 17:15
 「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。 17:16
 それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。
 17:17
 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。
 17:18
 イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。
 17:19
 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
 17:20
 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
 17:21
 「しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」・・・?
  ↓
 ?・・・『然(されど)、此類(このたぐい)は、「祈祷」と「断食」とに由(よ)らざれば遂(爫豕辶)出(おひださ)されざるなり』・・・「祈祷」と「断食」がナゼ必要なんだか・・・?・・・これは「信仰が足りないから」ではない、と、イエス自身が否定的に云っているのだ。「釈迦」と同じ「修行」が必要だったのか?・・・
 「遂(ハ豕辶・逐→駆逐)出」=おひだすモノは、猪、豚。「豸(爫+犭)+ト」=「ツメ冠のケモノ偏のト」・・・「豸(むじな・チ、ジ)=「のそのそと這いながら進む・足のない這いながら進む動物の総称・むじなへん」+「卜(うらない・ボク)」・・・「彖(タン・太ったブタ・かくれる=コッソリと物陰に隠れる・易経で一卦ごとに対する総論)=彑(けいがしら・いのこがしら)+豕(いのこ・豚・シ)」・・・
 「遂(とげる・ついに・スイ・ズイ)」
 と
 「逐(おう・チク・ジク)」、
 「豸+ト」
 と
 「彖」は混乱しているらしい・・・
  ↓
ーーーーー
 絡める・からめる・カラメル・・・キャラメル
  ↓
 「キャラメル」の語源
 フランス語の「caramel(カラメル)」
 ラテン語の「calam-us(葦・あし)」
 に語尾がついた・・・「us→ゥス」
 「calamell-us(小さい葦・あし)」が、
 ポルトガル語の「caramelo(カラメロ)」となって、
 フランス語の「caramel」になった・・・
 ↓
 ラテン語の「calamus(葦)」=砂糖黍
 スペイン語(ポルトガル語)の
 「caramelo(カラメロ=甘いもの)」が
 フランス語「caramel(キャラメル)」に入り
 英語の「caramel」に・・・
 砂糖を熱して
 重曹で
 固めた
 軽石のような
 お菓子
 「軽目焼き(かるめやき)」は「caramelo」
 「calamus」から生まれた
 「caramelo」が
 ポルトガル語の
 「charamela(チャラメラ)」は
 葦で作った笛のこと
  ↓
 日本語では、
 キャンディー菓子の
 「キャラメル」に対し、
 「カラメル(浮石糖)」は
 水と砂糖のみを熱して生じた液体
 ↓
 キャラメル(caramel)は、
 16、17世紀に
 ポルトガルが伝えた
 カラメルとは
 別モノで
 森永製菓創始者の
 森永太一郎が
 アメリカで製法を学んで創作
 ↓
 日本の
 キャンディ(candy)の歴史は
 飴(あめ)から
 甘い(あまい)から
 日本書紀にも
 飴の記述・・・
 平安時代には貴族の薬用
 江戸時代の初期になって
 麦芽を使い生産
 現在のキャンディ(candy)の多くは、
 明治時代に欧米から
 「candy」→「canーdy」→「can-day」
 「dy」・・・腐植泥,泥炭泥
       dysprosium
       希土類の3価の金属元素
 「dy」・・・「dye=染料」
             「die=死」
       「dynamic・disable・dyad」
  ↓
 「キャラメル」の語源の一つ・・・
 インド由来の単語
 「伽羅(きゃら)」と
 「スメール山」の
 合成語だという・・・
 伽羅(沈香)は
 甘い匂いを漂わせる香木で
 色もキャラメル色・・・
 スメール山(須弥山)には
 甘露と呼ばれる雨が降る・・・
  ↓
 森永製菓の創業者
 森永太一郎(もりながたいちろう)
ーーーーー
  ↓
 「華厳経(けごんぎょう)
  梵語: Avataṃsaka Sūtra
    アヴァタンサカ・スートラ)
 「大方広仏華厳経
 (だいほうこうぶつけごんきょう
  梵語: Mahā-vaipulya-buddha-avataṃsaka Sūtra
     マハー・ヴァイプリヤ・ブッダ
            アヴァタンサカ・スートラ)
 初期大乗仏教経典
 経名は
 「大方広仏の、
  華で飾られた
  (アヴァタンサカ)
  教え」の意
  「大方広仏」
  時間も空間も超越した
  絶対的な存在としての
  仏という存在について説いた・・・
 ↓
 元来は
 「雑華経(ぞうけきょう)
  梵語: Gaṇḍavyūha Sūtra
  ガンダヴィユーハ・スートラ)
 「様々な華で飾られた
  荘厳された(ガンダヴィユーハ)教え」
 とも呼ばれ
、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という
 仏が本尊
 「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、
 「太陽の輝きの仏」と訳し、
 「毘盧舎那仏」と音写される。
 「毘盧舎那仏」は、
 真言宗の本尊
 「大日如来」と同一の仏
  ↓
 華厳経にも、
 「如来蔵」思想につながる発想・・・
  ↓ 
 陽光である
 毘盧舎那仏の智彗の光は、
 すべての衆生を照らして
 衆生は光に満ち、
 同時に
 毘盧舎那仏の宇宙は
 衆生で満たされている。
 これを
 「一即一切・一切即一」とあらす
 「あらゆるものは
  無縁の関係性(縁)」・・・?
  によって成り立っている
 「法界縁起」と呼ぶ
 「六十華厳」の中で特に重要なのは、
 最も古層に属する
 「十地品」
 「入法界品」の章
  ↓
 「十地品」
 菩薩が踏み行なうべき十段階の修行
 六番目までは
 自利の修行が説かれ、
 七番目から十番目までが
 利他行が説かれている
  ↓
 「入法界品」
 「善財童子(ぜんざいどうじ)」
 という少年が、・・・キリストも子供を例えて説いた
 人生を知り尽くした
 53人の人々を訪ねて、
 悟りへの道を追究する物語
 ↓
 唐の
 法蔵は
 「華厳五教章」
 において、
 五教十宗判の教相判釈を行い、
 華厳の教えを最高とした
  ↓
 第二章
 廬遮那品
 ・・・「因縁」とは「諸関係」というコトだろう・・・道で相手の目を見て「因縁」をつけられる・・・「如来の神通力」ではないだろう・・・
  ↓
 「わたしは、生死の海のなかで、
  ことごとくかなぐりすてて、
  国を浄めることだけを修した」・・・
 「怠惰なものは、
  ふかい
  方便の海を解わかることができない。
  努力精進の力が完成することによって、
  仏の世界は浄められて行く」・・・?
 ・・・「仏の世界」ではなく、浄められて行くのは「俗人の世界」である・・・
  ↓
 第五章
 如来光明覚品
 「仏の説きたもう
  真理は、
  はなはだ深くて、
  色もなく形もない。・・・目では認識できないモノ
  その境界は、
  すべての
  煩悩をこえ、
  すべての
  我執をはなれて、
  空寂であり、
  清浄である。
  さとりの世界は・・・悟りの世界とは「脳ミソ機能」
  広大無辺であり、
  そのなかで
  万象は関連しあって・・・関連とは「関係」である
  起っている。
  その一々が
  ともに
  解脱しており、
  もともと
  つねに空寂であって、
  すべての
  まどいを
  はなれている」・・・纏わりを離れている?
   ↓
 菩薩のつとめ
 「(1)人間界や天上界における
     快楽の心をはなれて、つねに
     大慈心を行じ、
     すべての衆生をすくいまもれ
  (3)とこしえに生死の海をはなれ、
     仏法のながれにしたがい、
     清涼の智慧に安住せよ
  (5)過去現在未来の
     無量であることをしり、
     怠慢の心をおこさないで、
     つねに仏の功徳をもとめよ
  (6)自身のありのままの
     実相を観察し、
     すべては
     みな寂滅
     していること・・・無常とは
              変化で寂滅ではない
     をしって、
     我
     や
     無我
     にたいする
     執着をはなれよ・・・無我は既に無執着である
  (7)衆生の心を観察して、
     まよいの想いをはなれ、
     真実の境界を完成せよ
  (8)無辺の世界に思いをはせ、
     すべての大海を
     のみつくすほどの
     神通の智慧を完成せよ・・・「神通力」?
  (9)諸仏の国土の、
     形あるものと・・・存在・・・形而下
     形ないものの・・・認識・・・形而上
     すべてをしれ
 (10)はかりしれない
     仏国土の、・・・
     一つの塵を
     一仏となし、
     かくして
     すべての塵を
     諸仏となせ
 そのとき、
 仏の光明は、
 無数の世界を照らしだし、
 世界のありとあらゆるものがあらわれでる
  ↓
  第六章
  菩薩明難品
 すべてのものは、
 自性を持たない。・・・関係性である
 あらわれているということにも、
 なんの自性もない。・・・関係性である
 ただしく
 思惟し、
 ありのままに
 観察すれば、
 すべてのものに
 自性のないこと・・・・関係性であるコト
 がしられる
 このような
 心眼は、・・・・・・・「心の眼」は脳ミソ機能
 清浄であり、
 不思議である
 だから、
 虚妄といい、
 虚妄でないといい、
 真実でない
 ということなどは
 かりのコトバにすぎない・・・「コトバ」自体である
  ↓
  教化・・・教化される存在とは「無知」者
  ↓
 「智慧の明かなひとは、
  つねに寂滅の行をねがっている。
  身体を内から観察してみるに、
  いったい、
  わが身になんの所在があろうか。
  どこにも、
  そのもとづくところの根拠がない。
  このように、
  身体の状態をさとっているものは、
  からだのどこにも執著することがないであろう。
  身体のありのままの状態をさとり、
  すべてのことがらに了達しているものは、
  いかなるものも
  すべて虚妄・・・妄想観念
  であるとしって、
  さらに、
  その心にも、
  執著しないであろう。
   ↓ 
 因縁・・・・諸関係
 によって
 おこるところの業は、
 生滅流転の
 一切の世界は、
 ことごとく
 因縁から起っており、
 刹那刹那に消滅している。・・・生成消滅生成
 智者は、
 すべての存在は・・・認識対象存在
 無常迅速であり、
 空にして自我はないと観察し、
 執著のイメージをはなれる」 ・・・
 (これを体得することをさとりという)
 仏が、
 衆生を
 解脱せしめられるときは、
 衆生の
 こころや
 智慧に
 したがって
 仏法をのべられる。
 そしていくらのべられても、仏法は尽きることがない。
 このように
 仏は、
 衆生にしたがって、
 自由自在に
 衆生の世界に入りたもうけれども、
 仏の智慧は、
 つねに寂然としている。
 これが、ただ仏だけの境界である。 
 仏の境界は、
 業でもなく、煩悩でもなく、
 寂滅していて、
 よりどころもないが、
 しかし、
 平等に
 衆生の世界に活動している。
 一切衆生のこころは、
 過去、未来、
 現在のなかにあり、
 仏は、ただ一念において、
 衆生のこころをことごとく
 明達しておられる」
 ・・・
ーーーーー
 十二因縁・十二支縁起
 1.無明
  過去世の無始の煩悩・迷い
 2.行
  志向作用・物事がそのようになる力=業
 3.識
  識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
 4.名色
  物質現象(肉体)と精神現象(心)
  実際の形と、その名前
 5.六処
  六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
 6.触
  六つの感覚器官が、感受対象が触れること
  外界との接触
 7.受
  感受作用。六処、触による感受
 8.愛
  渇愛
 9.取
  執着
 10.有
  存在。生存
 11.生
  生まれること。
 12.老死
  老いと死
 ・・・ご立派・・・デス・・・どうやら、「釈迦」は覚ってなかったようである・・・悟りきれない存在であるコトをサトルてはイナイ?・・・
  ↓↑
 そして、中国人仏僧は「中華の芯」を「シン(秦国・支那・晋国・新国・清国)=チャイニーズ(Chinese)、秦(sino)の国」と解釈し、「ローマ(羅馬)帝国」を
 「太秦(大秦)国=和帝の
          永元九年(97年)
          西域都護の
          班超が
          甘英を使者として
          大秦に派遣」
          桓帝の
          延憙九年(166年)
          大秦国王の
          安敦(アントン=アントニヌス)
          の
          使者が日南郡に訪れて
          象牙・犀角・玳瑁を献上
          初めて(大秦と漢は)
          交流」
 と記し、その後の近代英国人は「sin=罪」と解釈?し、江戸時代、明治教養人は解釈に混乱し、その後「太秦(うずまさ)」に映画会社が乱立されたが、東宝(J.O.スタヂオ)は1941年に閉鎖し、跡地は
 「大日本印刷(1876年=明治九年、前身は秀英舎)」の京都工場工場となった。
 「秀英舎」は
 1935年(昭和十年)2月26日に
 「日清印刷」と合併
 「日清印刷」は
 東京専門学校(早稲田大学)の印刷所だった・・・
 「秀英舎」は
 佐久間貞一
 宏仏海
 大内青巒
 保田久成が共同出資し
 活版での印刷会社として
 東京京橋の
 弥左衛門町に創立
 佐久間が
 大教院・・・尊皇愛国思想の教化
      (大教宣布)をするための機関
       明治八年(1875年)四月
       神仏合同布教禁止の令
       五月、大教院は解散、閉鎖
 の教会新聞発行を引継ぎ、
 その印刷のために
 活版所を買い取ったのが由来
 秀英舎は主に新聞印刷や、
 中村正直の
 「西国立志編」
 の活版による再版などに
 代表する書物の印刷会社として発展・・・
  ↓
 「シン」・・・サンスクリット語では「獅子(しし)」だが、「虎」である。獅子舞の龍の顔は「ライオン?」で、「虎」ではない・・・漢字の「辰(シン)」は日本語で「たつ=龍・竜」だが「リュウ・ロウ」?・・・「獅子(しし)」とは「鹿」か「猪(亥)」である・・・
ーーーーー
 宗教には
 「奇蹟・奇跡」が必要で、
 「比喩」が必要である・・・「一切衆生(この世に生を受けたすべての生き物)」は「無知」だから・・・勉強しなくちゃぁネッ・・・だが、「教化する者」も「教化される者」も、「一切衆生」で、亦、「塵」の「因縁=関係性」で蠢いているハズ・・・?・・・「教化」とはダレに対するモノ・・・コトバを理解する前に先ずはコトバを覚えなくちゃァ・・・その前に喰わなくちゃ・・・
 キリストの最大の奇蹟は「群集(婦女、幼童を除いて五千人、四千人)に二度に与えたパン(麺=麪=ベン・メン=麦・麥+丏)の配給」、「マタイ伝(14章20・21)」と「マタイ伝(15章37・38)」である。
 「麥+丏」の
 「丏(しかばね・おおう・ベン・メン)」とは、隠れるという意味の字である。
 「丐(こう・カイ・乞う、乞食という意味)」
 とは別の字・・・丐は匄(匃)の異体字・・・
 彼以外にこの「奇蹟」を行った宗教家は存在せず、類似するのはモーゼの民は放浪中、天から降り注いだ「マナ(Manna)」で飢えを凌いだ・・・旧約聖書「出エジプト記・第16章」イスラエルの民が「シン」の荒野で飢えた時、神がモーゼの祈りに応じて天から降らせた。人々は「これは何だろう」と口にしたことから「マナ=これは何だろう」を意味するヘブライ語になる・・・「真名・真魚」である・・・
 麦
 wheat(ウィート)=小麦
 barley(バーリィー)=大麦
 rye(ライ)=ライ麦・裸麦
 oats=燕麦・・・「オートミール(oat meal)」
         「オーツ麦の食事」
         「粥状に調理したもの」
         「煮たモノ・porridge
          英俗語で
          刑期
          刑期をつとめる
          do (one's) porridge)」
  「meal」・・・「マナ」の音には繋がらないが「まんま(マンマ)」は「飯(めし・いい・まんま・まま・ハン・パン・ボン)」である・・・だが漢字はナゼか「飯=食+反」?・・・「魚(まな→真名仮名)」の混じった「炊き込みご飯」で「瀧(多伎・他記)込み語判(誤判)」である・・・鳴滝塾・・・座当の市さん、「めしい(盲目)」の、「一宿一飯の義理」である・・・
 「教化」って、「思想教育」、「洗脳教育」、「人間改造教育」・・・「思想」でない「コトバ」なんかは無いのに・・・ネッ・・・「命令キョウカの社会」・・・
ーーーーー
 キャラメルを「カラ」メル・・・絡める・・・
  ↓
 1899年(明治32年)
 前身の森永西洋菓子製造所を設立する。
 1912年(大正元年)
 森永製菓株式会社となる。
 1914年(大正3年)
 ポケット用
 箱入りミルクキャラメルを発売
 1919年(大正8年)
 ミルクココアを発売する・・・
 ・・・「見る句は個々、亜(アマネシ)」である・・・カナ・・・

 

月祈(キセキ)・・・喜捨・・・

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 ・・・「α-」は、「ギリシア(希臘)語・ελληνικά・ελληνική」で「否定」を表す「接頭辞」・・・「否定の接頭辞」・・・「anti-」、「a-new」、「in-convenient」・・・日本語漢字ならば、「異 + 邦人 = 異邦人」、「反 + 物質 = 反物質」、「非 + 常識 = 非常識・非人道的」、「不 + 本意 = 不本意」、「未 + 成年 = 未成年」、「無 + 利子 = 無利子」・・・「アルバニア南部」ではギリシャ語を使用・・・「Λ= λ=ラムダ・ラムザ=λάμβδα・λάμδα」の「λ」は漢字の「入」に類似する・・・「Ολυμπία=オリンピア」の「λ」だが、「入」は「いり・はいる・ニュウ」である・・・

 「新井白石」の「西洋紀聞」・・、「紀聞」なのか?・・・「野作(エソ・中国人の表記)」は「蝦夷」で北海道・・・「イタアリヤ(漢訳は意大里亜、また意多礼亜」・・・「ドオツバルカインとダマスクス」は「ダマスクス」は「シリアの首都」。では「ドオツバルカイン」とは、ドコ?・・・「そもそもどの世界でも、それぞれ尊しとする宗教があります。世界の宗教は三つに分かれます。一つはキリスト教(Christian・キリシタンはポルトガル語)、二つ目はヘイデン(Heiden)で、またこれをゼンテイラ(Gentile 多神教)ともいいます。(この法を質問すると、この宗で仏を多く立て、それにつかえるといい、この教議内容は明確ではない) 三つ目はマアゴメタン(マホメット教、漢語で回教という)です」・・・「そのへイベレイウスといふは、ユデヨラの語なり。(ユデヨラとは、ラテンの語にして、イタリヤの語にはジュデアという。これ古の国の名。其の国、今は滅びたり。其の国人の子孫諸国に散在してあるもんを、ヨード人(ユダヤ人)と称すというなり」・・・「ラテンといふは、古の国の名。今はその地詳ならず。キリイキス、またこれに同じ。その中、ラテンに至ては、此方諸音に相通ぜずといふ所なし。されば、諸国の人、これを学びずといふものあらず。又諸国用ゆる所の字体、二つあり。1 つに、ラテンの字、二つに、イタリヤの字、其ラテンは、漢に楷書の体あるがごとく、イタリヤの字は漢に草書の体あるに似たり。其字母、僅かに二十余字、一切の音を貫けり。文省き、義広くして、其妙天下に遺音なし。(其の説=シドチ説に、漢の文字万有余、強識の人にあらずしては、暗記すべからず。しかれども猶声ありて、字なきあり。さらばまた多しといえども、尽くさざる所あり。徒に其の心力を費やすのみという)」・・・「トルカ(イタリヤの語に、トルコといい、他邦ではツルコという)」・・・此の国、其の地甚だ広くして、アフリカ、ヱウロパ、アジアの地方につらなり。国都は、古のコウスタンチイの地(イスタンブール)、古の時、ローマの君、地を避けし所也という。(コウスタンチイ、またコンスタンチヤともいう。アフリカの地、バルバアリヤの北、マーレニゲーテラーニウムに近き所にあり)」・・・「ヲヲランド人(和蘭陀人・阿蘭陀人)」・・・
 西洋紀聞 現代語訳版
ーーーーー
 以下、「ウイッキペデア」から参照
  ↓
 「アラブ(arab)」は「砂の民、遊牧を行う人」・・・
  ↓
 「アルバニア
 (阿爾巴尼亜
  阿爾巴尼亞 )」
 東ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和制国家。首都はティラナ。
 西はアドリア海に面し、北にはモンテネグロ、東にはマケドニア共和国とコソボ、南にはギリシャと国境を接する。
 「イリュリア(古代アルバニア)」人は南方の古代ギリシア文化の影響を受けた種族・・・
 「スカンデルベグ
 (Skanderbeg
  1405年~1468年1月17日)
  =スカンデルベク」は、
 中世
 アルバニアの君主で
 オスマン帝国に抵抗した
 本名は
 「ジェルジ・カストリオティ
 (Gjergj Kastrioti)」
 通称の
 「スカンデルベク
 (アルバニア語では
  スケンデルベウ
  Skënderbeu)」は
 トルコ名の
 「イスケンデル・ベイ
  (İskender Bey)」
 に由来
 アルバニア共和国の
 「アルバニア」とは「白い土地」
 「一般的には、白い石灰岩性の地質から」、
  ラテン語の
  「albus =白」が語源・・・
  ↓
 正式名称はアルバニア語で
 「Republika e Shqipërise
  (アルバニア語発音は
   ɾɛpuˈblika ɛ ʃcipəˈɾiːs
   レプブリカ・エ・シュチパリセ)」
 通称は
 「Shqipëri(不定形)・Shqipëria(定形)
  ʃcipəˈɾi, ʃcipəˈɾiːa
  シュチパリ、シュチパリア」
 公式の英語表記は
 「Republic of Albania
 rɪˈpʌblɪk əv ælˈbeɪniə, ɔːlˈbeɪniə
 リパブリク・オヴ・エルベイニア、
            オールベイニア」
 通称は
 「Albania
 (エルベイニア、オールベイニア)」
 日本語の表記は
 アルバニア共和国
 通称はアルバニア
 漢字では
 「阿爾巴尼亜」・・・
 古代には
 「イリュリア」と呼ばれた・・・
  ↓↑
 ・・・「白石」の『西洋紀聞』、『采覧異言』に「アルバニア」は記しているか?・・・
  ↓↑
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/Seiyoukibun.pdf
 西洋紀聞 現代語訳版
 「北は、マーレ・ニゲーテラーニウム(すなわち地中海、上の地中海「マーレ・カヌピヨム(おそらくカスピ海のこと)とは用語が異なるのは当然)、東はマーレ・ルーブロム(漢語で西紅海という)」・・・イタリア(漢訳は意大里亜、意多礼亜という)。ヨーロッパの南の地方、地中海上にあり。
 その国都をローマンという。(オランダ語で、ローマという。漢に訳して、羅馬国という。)ここはキリスト教之主(教皇、法王)が支配する場所で、周囲は僅かに十八里、住民は70万人である。
 ・・・私見だが、ポルトガル人が初めて豊後国に来たのは天文10 年(1541)7 月である。その後、薩摩国に来たのが天文12 年(1543)8 月である。
 慶長元和(1596~1623)年間に、毎年
 ゴワや
 アマカワの人(五和、天川と書く)が来聘しているが、それは皆このポルトガルの人がそうした場所にいて、船を操っていた。
 慶長18 年(1613)の冬、西洋の船がキリスト教徒をつれて来ることを禁じた。
 (その前の慶長14 年(1609)、日本人でアマカワに行って貿易していたものが3 百人、ポルトガル人によって皆殺しにあった・・・」
  ↓
 「シドッチが着けている法衣の名を質問すると、「ルリヂヨ(religio)です」と答えた。織ってある布は日本製である。「どこで入手したか」と質問すると、「マルバルのホンテチリで布を買って、ロクソンで法衣にして貰った」という。(この形の法衣を、ポルトガル語では
 カッパ(Capa)
 という。以前日本では、その製法をまねて
 雨衣を作った。今回この製品を見ると、日本でマルガッパという物に似て、襟首の所が少しだけ違う。身に被けて、前襟でボタンという物で左右を連結する。かなり長くて、地面を3,4 尺も引きずるほどである。
  ↓↑
 西洋紀聞 現代語訳版
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/Seiyoukibun.pdf
ーーーーー
 ・・・
 シュチパリアとはアルバニア語で
 「鷲の国」を意味し、
 アルバニア人が
 「鷲の子孫」であるという伝説に由来
 他称の
 「アルバニア」は
 ラテン語の
 「albus(白い)」が語源
 語源を同じくする
 アルビオンと
 同様
 アルバニアの地質が主に
 石灰岩質で白いことから
 「白い土地」
 と呼んだことに由来
 1967年
 共産党政府が
 「無神国家(無神論国家)」を宣言
ーーーーー
 以下、「ウイッキペデア」から参照
  ↓
 Α, α
 (アルファ、アルファー
  希: αλφα / ἄλφα, 英: alpha)
 ギリシア文字の1つで、
 伝統的な配列では
 最初にあたる
 古代ギリシア語では
 アルパまたは
 アルファと発音され、
 日本語でも
 アルファ
 あるいは・・・アルイハ
 アルファー
 と呼ぶ
 音価は、
 短母音 [a](ア)、
 または
 長母音 [a:](アー)
 ラテン文字の「A」に対応する。
 α=単母音=a(中・広開母音「ア」)
 数文字としては、
 右肩に点を置いた場合、
 「αʹ 」で、
 「1」を表し、
 左肩(または左下)に点を置く場合、
 「͵α 」で、
 「1000」を表す。
 「αγγλικά=アングリカ=英語」
  日本語の「アングリー」
 「白色= άσπρο(アスプロ)」
  ↓
 ラテンアルファベットの
 「A」、
 キリル文字の
 「А」
 はこの文字を起源とする。
 ギリシア語
 アルファベットの
 冒頭に位置する文字
 物事のはじめを象徴する。
  ↓
 新約聖書のヨハネの黙示録
「わたしはアルパであり、オメガである。
 最初の者であり、最後の者である。
 初めであり、終りである」(22章13節)
  ↓
 ギリシャ文字系統の文字
 (ラテン文字、キリール文字など)を
 アルファベットと言うが、
 これはギリシア文字の最初の
 2文字
 αとβ(アルファ、ベータ)に由来
 「α」は、「a」で、
 「one・one・One=1・壱=一(はじめ)・Ⅰ」
 ギリシア語で
 「否定」
 を表す
 接頭辞・・・?・・・「窃盗語」
 ・・・接頭辞(せっとうじ、英語のprefix)とは、
    接辞のうち、語基よりも前に付くもの。
    接頭語(せっとうご)とも言う
     ↓↑
http://sky.geocities.jp/gaha_space/prefixo.htm
     ↓↑
    anti- 「-に反する (against)」、
       「-と逆」を意味する
       anti=no lugar de
         =confronto com
       anticancerígeno=抗がん剤
       anticorpo=抗体
       antropo=homem=人
       antropologia=人類学
       antropofobia=人間恐怖症;恐人症
       antropofagia=食人
       antropogênese=人類発生論
       antropogeografia=人文地理学
       antropomorfo=類人猿
       antropóide=人間に似た
 「alvi」- ・alvi=branco=白い
       alvinegro=ゼブラカラー
       alvinitente=真っ白な
 「auto」- ・auto=de si mesmo=自分の
       autobiografia=自伝
       autocracia=自己批判
       autocrítica=自己批判
       autodidaxia=独学
       autodidata=独学の人
       autofagia=自食
       autogamia=自家受粉
       autógrafo=自己分析
       autômato=自己分析
       autópsia=自己分析
   ↓
 ギリシャ語の表記以外では、
 大文字Αは
 ラテン文字のA
 と紛らわしいためほとんど使われず、
 小文字
 「α」のみが使われる。
 プラスアルファは、
 元々
 プラスエックスの誤りである。
 「+X」を速記したものを
 「+α」と読み違えたことが起源
 現在では和製外来語として定着した。
 数学で、a と異なる
 第1の定数としてしばしば用いられる。
 特に、複素数や角度を表すことが多い。
 代数方程式の解にあてられることもある。
 自然科学で、
 角加速度、角度、
 電離度、膨張率、減衰率などの量記号。
 素粒子物理学で、
 微細構造定数を表す。
 核物理学で、
 アルファ線を表す。
 電気回路のベース接地回路における
 電流増幅率。
 天文学で、
 各星座で最も明るい(例外あり)
 アルファ星。
  ↓
 Α/α(アルファ)を冠する用語
 アポジカα 、第一製薬が販売している育毛剤。
 アルファ粒子 、アルファ線
 アルファ波
 Arab (arabun 発音記号)
  ↓
 「arab」は
 「砂の民、遊牧を行う人」
 「アラビア」という語は
 「アラブの土地」を意味する
 古代ギリシャ語に由来
 「アラブ」という語は
 「アラビア語を母語とする者」という意味
 ローマ帝国のときから
 アラビア属州という名前が存在
 それより以前からこの地域は
 アラビアと呼ばれていた
 記録では
 アッカド人が彼らのことを
 「Arabi」と読んでいた
 最も古い物では
 紀元前853年の
 アッシリアの碑文に書かれた
 被征服民リストの中に
 「アラブの王」という用例が見られる
 旧約聖書の創世記2章11節に出てくる
 「ハビラ」を
 「アラビア半島」とする説がある・・・
  語源は、
 古代ペルシャ語で、
 意味は
 「arabaya
  (三番目の a の上に
   フランス語の
   シルコンフレックスのような
   山形のアクセントが付いてる)」
  ↓
 「アラブ」の語源は諸説ある・・・
 ヘブライ語の「遊牧民」
 メソポタミアの人々が
 ユーフラテス川の
 西側に住む人々のことをそう呼び
 「西」の意味のセム語の派生とも。
 最古の記録は、
 紀元前・BC853年
 アッシリアの碑文に、
 シャルマネセル3世へ反乱を起こした王子たちに
 「アラブ」の
 「ギンディブ」と称する者が
 1000頭のラクダを与えたと記されているという。
 前6世紀頃まで
 アッシリアや
 バビロニアの碑文に
 「アラブ」はしばしばみえ、
 アラビア半島北部
 シリア砂漠に住む
 遊牧民のことをさしている・・・
 アラブ人自身が、自分たちを「アラブ」と呼んでいる記録は、北アラビア語(正統古典アラビア語になった)で書かれた
 「ナマーラ」の墓誌 に出てくるものが最古。
 南アラビアの
 古代碑文は年代のはっきりしないが、
 おそらく紀元前末期-紀元後初期と推定
 これらも
 「アラブ」は
 遊牧民をさしている。
 なお、
 『旧約聖書』には
 最古のアラブ人だろう人々の記録が残る。
 「創世紀・第10章」に、
 アラビア半島に住んでいる人たち、
 アラビアの土地のことなどが記されている。
  ↓
 コーランでの
 「アラブ」は、
 町の人間ではない者、
 砂漠の遊牧民という意味で使用
 メッカ
 や
 メディナ
 の町の住民は
 「アラブ」とよばれていない。
 ムハンマド(マホメット)の死後、
 コーラン=アラビア語を
 ともなったイスラム世界の広がりは
 「アラブ」という言葉を
 中央アジアから
 西アジア、
 北アフリカ地域へ
 広く世界へ分布させた。
 「ガズウ(略奪)」が
 習慣的、文化的に行われていたらしい・・・
 略奪した際、
 犠牲者側が砂漠で生きていけるよう
 何頭か残していく家畜をいう
 「ウクラ」というものがある。
  得句覶・・・「慈悲・自費・似非・侍婢」・・・
 民話では家畜をとりかえす力のない
 老人が略奪者に
 「ウクラはどうした?」といって
 相手が
 「ウクラ」をおいていくやりとりがある
 「井戸」の支配権をめぐる争いで戦う
 「シャイフ(齢とった人・遊牧民では族長)
  と呼ばれる
  指導者は勢力圏内の
  一族や客の安全を保障できないと、
  シャイフとしての一切の資格を失う。
  また弱い部族が金品を差し出して
  強い部族に
  隷従し庇護を受けることがあるが、
  その部族は
  軽蔑され
  他のあらゆる部族と
  姻戚関係を持つことは許されない」
  民話にも
  ジプシー的な部族の者と
  姻戚関係が許されない話がある
  名誉を守るため
  婚資の倍の賠償を払って離婚
  サウディ・アラビアでは
  この
  ジプシー的な・・・フランス語で「ジタン」
  存在の部族を
  「スロッバ」といっている・・・?
  「素(数)賂葉」カモ?・・・タロット
   ↓
 「台風」の語源
 はアラビア語?
 「台風」はの言葉の語源は
 「嵐」を意味する
 アラビア語の
 「tufan」=「旋風」
  ↓
 「アル(al)」で始まるモノの
 アラビア語源由来
 アルコール
 キャンディ・シュガー・シロップ、
 コーヒー、コットン、
 マッサージとマットレス
 (遡ると同じ語源)、
 ラケット、ソファ、タンバリン
 などアラビア語からの借用語
  ↓
 alchol(酒)
 algebra (代数)
 algorithm (アルゴリズム)
      数学、コンピューティング、
      言語学、
      それらの関連する分野において、
      問題を解くための
      手順を
      定式化した形で表現したもの
     「算法(さんぽう)」とも
 assassin (暗殺・大麻は
       英語でhasheesh)
 jar (ジャー)
 lemon
 magazine
 monsoon (気象用語)
 mummy(ミイラ・乾物・やせこけた人)
 mask
 racket (テニスのラケット)
 sofa (ソファ)
 syrup (シロップ)
 tariff (税関)
 zero (数字のゼロ)
ーーーーー
 ・・・「ザカート」=「困窮者を助けるための義務的な施し・喜捨」=「制度喜捨・救貧税」=語源は「浄め」の意・・・「サダカ」=「任意で自由な施し・喜捨」・・・「ウンマ・イスラーミーヤ(أمّة إسلامية umma islamiya)」=「イスラーム共同体」=「ウンマ」の語源は「母」・・・「うま=馬→馬婦=乳母=養母」・・・?
 イスラーム
 ムハンマドが
 アッラーフの啓示を受けた
 ムスリム(Muslim)の信仰生活
 第一聖典クルアーン(コーラン=朗唱されるモノ)
 と
 第二聖典ハディース
 の体系思想
 回教=フイフイ教=islamqa
 服従、謙遜、命令に従い
 禁止を守り
 アッラーだけを信仰
  ↓
 ラテン文字で表記
 IS-L-AM(イスラム・isurāmu=islām)
           slām=平安・・・?
           aslama(アスラマ)は
           交換の意味・取引関係
           己の全てを神に委ねる
          (مسلم muslim・al-Islām)
           ムスリム=穆斯林
 IS-R-AEL(イスラエル)・・EL=戦う神
 「ヤコブの別名イスラエル(旧約聖書)」
 「ヤコブ」が天使(神)と相撲をし、
 与えられた名前
 「神に勝つ者」を意味・・・
 「イスラ・エル
  イシャラー(勝つ者)+エル(神)」
 「ヤコブ(弟)」は「エサウ(兄)」と
 「双子」で生まれた・・・「大碓・小堆」も双子
 「イサク(イツハク)の子」、
 「アブラハムの孫」・・・
  アブラハム→イサク(弟)→ヤコブ&エサウ・・・
   ↓     ↑↓
   ↓   →イシマエル(異母兄)
 「イシマエル・イシュマエル=Yišmaʿel」
  アラビア語で「イスマーイール」
  は
 「神は約束し給う・主は聞きいれる」の意
 「アブラム→アブラハム」と
 「ハガル」の子供
 「ハガル」はエジプト人で
 「サライ→サラ」の女奴隷(創世16:11-16)
 神はアブラムとハガルに
 「イシマエル」は
 大いなる国民の父祖になると約束・・・
 「彼は野生のロバのような人になる。
  彼があらゆる人に
  こぶしを振りかざすので
  人々は皆、彼にこぶしを振るう。
  彼は兄弟すべてに敵対して暮らす
  (創世記. 16:12)」
 との預言された人物で、
 全てのアラブ人の先祖・・・
 だが「ハガル」と「イシマエル」母子は「サラ」によって砂漠に放逐・・・「彼は荒野に住んで弓を射る者となった。(創世記21:14-21)」・・・「アラブ=砂漠の人」・・・
 「イサク」・・・
 「アブラハム(100歳)」と
 「サラ(90歳)」の子
 「イサク(英語=Isaac アイザック
      ヘブライ語=yits-khawk=イツハク
      ギリシア語=Ισαάκ=Isaak
      アラビア語=Isḥāq イスハーク)」
      「彼は笑う」の意・・・
 ・・・囚われた「日本人」の祖先はダレなんだか・・・彼らに「サダカ」=「任意で自由な施し・喜捨」はあるのか・・・ワラウのはダレか・・・

アルキはじめ・・・スダチ=巣立ち・鹿立・月出里

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 ・・・「支配の論理」=「支配数<被支配数」=「官僚の論理」、「組織の論理」・・・「搾取する数>搾取される数」・・・「生産=消費」、「生産>消費」、「生産<消費」・・・「需要=供給」・・・「需要>供給」、「需要<供給」・・・「市場=交換価格」・・・「使用価値」・・・
 NHK・ETV「三島由紀夫(1925年1月14日~1970年11月25日)戦後史証言プロジェクト」・・・
 「ナニか」を手に入れればヒトは変わる。しかも与えられた「ナニか」ではなく、自分が自分自身の「能力」で得たと思い込んでしまう「ナニか」である。
 そして、それは自分にとって
 「これからも自由にコントロールできる」
 と思い込んでしまう切っ掛けとしての
 「ナニモノのか」である。
 「ナニモノ」とは「これからも自分自身で出来るモノ、出来るコト」で・・・「自我でコントロール出来るモノ」と思い込んでいる「自我意識」・・・
 「三島由紀夫」の後、
 「日本人論(NHK・ETV・100分de名著)」・・・に欠けているモノは「日本人(の傾向性)」ではなく、「人間の自我としての階級意識の発端、切っ掛け」と、その「階級意識の分岐」である・・・「分岐」とは「支配するもの(能動的に従わせるもの)・支配されるもの(受動的に従わされるもの)」・・・階級社会枠内での個々人の「エゴ意識の覚醒」である・・・覚醒したらどうなるんだか?・・・いずれも「大地でプチブル意識の枠内」で地位の上昇、転落、儲けの多寡の妄想で葛藤するのカモかも・・・
  ↓
 九鬼 周造
 (1888年・明治二十一年2月15日
   ~
  1941年・昭和十六年5月6日)
 「「いき」の構造」
 「偶然性の問題」
 「人間と実存(哲学私見)」
  ↓ 
 河合 隼雄
 (1928年・昭和3年6月23日
   ~2007年・平成19年7月19日)
 日本の心理学者
 京都大学名誉教授、
 国際日本文化研究センター名誉教授
 文化功労者。元文化庁長官
 専門は分析心理学、臨床心理学、日本文化
 兵庫県多紀郡篠山町(篠山市)出身
 ユング派分析家
 日本における分析心理学の普及・実践に貢献
 箱庭療法を日本へ初めて導入
 著作
 「母性社会日本の病理」
 「中空構造日本の深層」
 「日本人の心のゆくえ」
 「日本人という病」
 「日本文化のゆくえ」
   ↓
 鈴木 大拙(だいせつ)
 本名は太郎(ていたろう)
 (1870年11月11日・明治三年10月18日
    ~
  1966年・昭和41年7月12日)
 日本の禅文化を海外に紹介
 仏教学者(文学博士)
 「日本的霊性」
 大拙は仏教の核心に、
 「霊性の自覚」を見出した
 仏教の霊性的自覚というのは
 「即非の論理の体得」
 「日本的霊性」
 霊性
 大知性・莫妄性・無分別智
 ・・・ボクとしては「中空構造日本の深層」が面白かったけれど・・・高天原に成った神の名は、
  ↓
 天地初發之時、於高天原成名、
 天之御中主
 (訓高下天、云阿麻。下效此)、
 次
 高御產巢日、
 次
 產巢日。
 此三柱者、
 並
 獨
 成坐而、
 隱身也。
  ↓
 「天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神」
 の
 「天之御中主神」の役柄、役職が不明で
 「天照大御神・須佐之男・月読命」
 の、
 「月読命」の役柄、役職が不明であるコトが
 「中空(曖昧・無責任・灰色・中間・媒介空間・うつぼ)構造」と説明され、「中空」は「無責任・妥協・取り込む」日本人の傾向性と・・・論議?されていた。
 だが、
 「天之御中主神(テンシオンチュウシュウシン)」
 も
 「月読命(ゲツドクメイ)」
 も、「漢字(真名仮名)」の「意味」であり、「音」であるコトには変わりがない。
 そして「天之御中主神」は
 「獨成坐而、隱身也」
 で三神一括の「神」として説明され、
 「月読命」も「夜之食國」、あるいは「大氣津比賣神・大宜津比賣」と同じ神らしく、「爲穢汚而奉進」=「汚きモノを吐き出した神」として「須佐之男に殺された」と説明され、その後、「故是・產巢日御祖命」ている。これは「御祖(ゴソ)」の字が抜けた「產巢日」である・・・
 ・・・「新井白石」は漢字を「ニホン語の音(音写)」で採れ、と解釈しているらしいが、「古事記」を記録した人物は「漢字の意味も音」も学習した後に「ニホン語の音も、漢字の意味も採って重ねた」のである・・・

「貨幣・紙幣」の増幣、増刷の原因

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  新井白石と「正徳の治」の時代
   ↓
  第六代将軍・徳川家宣
   ↓
  徳川 家継
  第七代将軍
 (宝永六年七月三日・1709年8月8日)
   ~
  正徳六年四月三十日・1716年6月19日)
 (在任:1713年~1716年)
  徳川家宣の四男
  母は側室で
  浅草
  唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)
  一時期、
  徳川家の旧苗字「世良田」を用いて
  世良田 鍋松(せらた なべまつ)
  と呼ばれていた
   ↓
  第六代将軍・徳川家宣の子
  宝永六年(1709年)7月3日
  正室・近衛熙子(天英院)との間に生まれた
  豊姫は天和元年(1681年)に早世
  宝永四年(1707年)
  側室・おこうの方との間に生まれた
  家千代も2ヶ月で早世し
  宝永五年(1708年)に生まれた
  大五郎も
  宝永七年(1710年)八月に早世
  正徳元年(1711年)に
  お須免の方との間に生まれた
  虎吉も早世し、
  家継(鍋松)だけが生き残った
   ↓
  正徳2年(1712年)九月二十三日
  家宣が病に倒れ
  家宣は
  新井白石と
  間部詮房(まなべ あきふさ)・・・?
      「マベ」ではなく「マナベ」
       間部      眞鍋
       真部      眞鍋
       間辺      学べ
       馬部      まナベ
  を呼び寄せて、       南部
  「次期将軍は        奈辺
   尾張の          名部
   徳川吉通にせよ。     ↓
   鍋松・・・・・・・「鍋松(ナベマツ)」
   の処遇は
   吉通に任せよ」
  と
  「鍋松を将軍にして、
   吉通を鍋松の世子として政務を代行せよ」
  の二案を遺言したと
  『折たく柴の記』に記録・・・?
  家宣が死去すると
  白石は
  「吉通公を将軍に迎えたら、
   尾張からやって来る家臣と
   幕臣との間で争いが起こり、
   諸大名を巻き込んでの
   天下騒乱になりかねぬ。
   鍋松君を将軍として
   我らが後見すれば・・・・・?、
   少なくとも
   争いが起こることはない」
  として、鍋松の擁立を推進した。
  これに対して、幕閣の間では
  「鍋松君は幼少であり、
   もし
   継嗣(世継ぎ)が無く
   亡くなられたらどうするおつもりか」
  という反対意見もあったが、
  白石は
  「そのときは、それこそ
   御三家の吉通公を迎えればよい」
  と説得
  また一説に家宣が、
  「鍋松の成長が見込めなかった場合は、
   吉通の子・五郎太か
   徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、
   吉通か吉宗に後見させよ」
  と遺言
  家宣没後
   ↓↑
  正徳三年(1713年)四月二日
  鍋松は
  家継と改名し、
  将軍宣下を受けて
  第七代将軍に就任
  家継は
  詮房や白石とともに、
  家宣の遺志を継ぎ、
  正徳の改革
  を続行した。
  この間、
  幼少の
  家継に代わって
  生母の
  月光院や
  側用人の
  間部詮房、
  顧問格だった
  新井白石らが主導
   ↓
  未亡人だった
  月光院と
  独身の
  間部詮房の間には醜聞風評
  正徳四年(1714年)
  江島生島事件が起こった
   ↓
  家継自身は
  白石より、
  利発で聞き訳が良いと認められていたが
  正徳六年(1716年)四月三十日に死去
  享年八歳
   ↓
  尾張藩主で家継から
 「継」の字の授与を受けていた
  徳川継友が
  間部詮房や
  新井白石らに支持され
  第八代将軍の最有力候補であったが、
  結果として
  大奥の
  家宣の正室・天英院や
  家継生母・月光院など、
  反詮房、
  反白石の
  幕臣達の支持を得た
  紀州藩主の
  徳川吉宗(三十三歳)が
  第八代将軍に迎えられた
ーーーーー
 以下は
 「新井白石」に対する歴史的、かつ、評価の論文だが・・・この記述者は、よく「勉強」しているなぁ~、と思うので、勝手に部分抜粋して、ボクの「?」も加え、注目文字を改行の「頭出し」として、少々改作添付・・・
   ↓
 第3章 新井白石と正徳の治
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
   ↓
 ・・・
 間部(まなべ)詮房(あきふさ)
 ・・・元は能楽者・・・
    西田清貞の子
    猿楽師の
    喜多七太夫の弟子
    相模厚木藩主、
    上野高崎藩主、
    越後村上藩
    間部氏初代藩主
    側用人、老中格
    1666~1720年
    第六代将軍家宣
    第七代将軍家継
    の側用人
     ↓
  間部詮房は
 (徳川)家宣存命中はもちろん、
 その死後も、問題にぶつかる度に
 白石の意見を求めるようになります。
 その家宣が将軍になるにしたがい、
 白石も幕臣となりました。
 が、彼はあくまでも
 儒者という地位に・・・「非儒者・乱学者?」
 とどまりましたから、
 間部と異なり、
 1709年に500石を賜り、
 1711年になって1000石
 に加増されているに過ぎません。
 身分的にも
 本丸寄合(よりあい)・・・ホンガン・本願・本貫
 ↓    本丸=本陣
      城の中心となる
      曲輪(くるわ)で指令部
      「○○丸」と呼ばれる
      曲輪は織田、豊臣、
 ↓    織豊系城郭の系統の城
 すなわち無役のままで、
 最後まで通しています。
  ↓
 一介の寄合に過ぎなかった者が
 幕政を完全に
 左右していたのですから、
 地位と実際に
 行使した権力との
 落差に驚かされます。
 今の感覚でいうと、
 総理大臣の
 秘書官と家庭教師が、
 舞台裏から完全に
 国政を牛耳っている状態でも
 想像すれば
 よいのでしょうか。・・・「是」
       ・・・「階級社会維持意識」
 結果は手段を・・・?
       ・・・「結果論は」
 正当化するとはいえ、
 かなり
 不健全な状況・・・?
       ・・・「非不健全」
 といえるでしょう。
 しかし、
 この二人の誠実さ、・・・?
          ・・・「主人に誠実」
 言葉を換えれば、
 無私の心だけは・・・?
        ・・・「無心=物欲が無い」
        ・・・「権力欲はある」
 否定することができません。
 いくらでもお手盛りで
 自分に対する
 報酬を増やせる状況にありながら、
 そうした動きは全く見せていなかったからです。
  ↓↑
 ・・・ナゼ、そうはしなかったのか?・・・
 ・・・権力欲は物欲に勝る・・・権力>物欲
  ↓↑
 白石は、
 儒者・・・?・・「非儒者」
 としては、
 様々の点においてきわめて
 例外的な・・・・・「非例外」
 人物ですが、
 この時代の
 財政家としての
 最大の特徴は、
 数字に
 明るいということです。
 これまでも度々
 「白石の調査数字」
 を引用してきましたが、
 あらゆる問題に、実に周到に
 「統計調査」
 を行い、それに基づいて、
 合理的な思考で・・・?
        「君臣の階級枠で」
 問題を解決していく点に、
 白石という人の優れた特徴が存在します。
  ↓↑ 
  A 荻原重秀と宝永の改鋳
 前章に詳述したとおり、
 荻原は金貨の改鋳により、
 元禄期の
 幕府の
 財政危機を救いました。
 が、この頃になると、
 経済規模に比べて・・・「非デフレ」
 通貨供給量が
 多くなりすぎたことから、
 インフレ傾向へと
 経済基調が変化していました。
 しかし、
 当時の普通の人々には、
 そのような
 通貨常識はありませんでした。
 そこで、
 物価上昇の原因は、
 品位の低い通貨に改鋳したことにある、
 ときわめて単純な論理で荻原を非難しました。
   ↓
  (A) 金貨の改鋳
 そこで、荻原は、
 1710年に、きわめて皮肉な方法で反撃にでます。
 宝永小判の発行です
 (「乾」・・・いぬい=戌亥=犬猪=狗獅=犬鹿
   の
   字の刻印
   があるところから
  「乾字金」とも呼ばれます)。
 これは、金純度が慶長小判が86.79%であったのに対して、84.29%とほぼ同一の小判です(まだ技術が低かった時代なので、個々の小判における成分比のぶれに過ぎないようです)。
 しかし、その重量は2.5匁で、慶長小判の4.76匁に比べると約半分です。
 だから、含有される純金だけを取り出して重量を比べると、慶長小判の51%に過ぎず、悪名高い元禄小判よりもなお少ない、という小判です。
 つまり
 十分に高品位でありながら、
 改鋳により
 幕府として
 出目が・・・・・・・・・出目=骰子の目数
                突き出た眼球
                再検地などによる
                石高の増加分
                貨幣改悪鋳造によって
                生じた益金。出目高
               「出目米」の略
               「出目金」の略
 得られるという手法です。
 品位の低さだけを取り上げて
 非難していた人が、
 非難の論理を失って当惑している顔が、
 目に見えるような気がしませんか?
 同様に、やはり
 慶長一分金の
 ほぼ半分の重量で、
 ほぼ同一品位の
 宝永一分金も発行します。
 両者合わせて1151万5500両と、
 ほぼ
 元禄金銀の発行量に
 匹敵する大量発行を敢行します。
  ↓↑
 荻原重秀・・・「商品流通・物流」の「社会」では卓越な発想・・・かも、だが・・・「無生産者、消費階級の武士社会の幕府の金庫」を潤すコトが基本目的である・・・そして、未だ「ブルジワ」が成熟していた階級社会ではなかった。「流通経済社会」は浸透しつつあったが、未だ「私有社会の階級社会」でもなかった・・・
  ↓↑
 以下は「ウイッキペデア」が原文
 唐代
 飛銭と呼ばれる
 役所発行の手形が用いられていた
 北宋
 商人によって
 交子・会子と呼ばれる手形が使われた
 全国一律で同じ価値を持つ
 交子は
 他地域との
 交易には欠かせないものとなっ
 交子は仁宗の頃
 会子は南宋になってから
 政府によって発行(世界で最初の紙幣)
 後に大量発行されて
 インフレーションが発生
  ↓
 銅銭・銀との兌換が前提だった紙幣は
 不換紙幣へと変化
 南宋末期の1246年に
 増発され
 北宋末と比較して
 物価水準は約2倍、
 紙幣の価値は
 銅銭の1/3~1/4まで低下
  ↓
 専売品との引き換えに
 茶引・塩引と呼ばれる
 手形も紙幣の代用品として用いられた
 金国は、北宋・遼の銭貨を用いていたが、
 海陵王の治世で、
 交鈔と呼ばれる紙幣が発行
 大量発行されて
 インフレーションが発生
 これらの紙幣は
 使用できる年限が定まっており、
 期限を過ぎるとただの紙切れ
 期限前に
 役所に対して手数料を払う事で、
 新しい紙幣との交換は可能
 1260年
 元国のクビライが即位の
 中統元宝交鈔(通称・中統鈔)という
 有効期限の無い
 交鈔が発行
 交鈔は補助貨幣ではなく、
 基本貨幣(紙幣)で
 金銀との交換できる
 兌換通貨
 大量発行されて
 インフレーションが発生 
ーーーーー
 ・・・ほとんどの「貨幣・紙幣」の増幣、増刷は「官僚への給料支払いのタメ」だった・・・

ろごまーく

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 かって、「アラブの自由化運動」に、崩壊したユーゴスラヴィアの何処かに情勢分析を的確に分析し、「自由化運動の企画立案」する「民間企業」がTVで紹介されていたのを見たコトがあるが・・・その後の「混乱した国家」の指針もビジネスで「企画立案」をしているかも・・・
 「オトポールと応用非暴力行動・戦略センター(CANVAS) 」・・・「オトポールの応用非暴力行動・戦略センター(CANVAS)は、"革命ビジネス"に携わる"指導者とコンサルタントの国際ネットワーク"だと、自らを表現している。全米民主主義基金(NED)により資金援助を受け、アメリカが支援する40ヶ国以上で、反体制集団に助言し、訓練するコンサルタント会社」・・・
 この企業は「応用暴力行動・戦略」に変身しているのかも・・・モウソウ・・・?
  ↓
 ナゼ、「国家組織」は「経済的流通」に法で「規制」をするのか・・・
 「商品交易流通」は
 原則的に
 「自由な交換市場」を媒介にして
 「自由な財産形成」の手段であるからだ・・・
 「自由な財産形成」の結果とは
 「私有財産(富)の蓄積」である
  では「富」とはナニか?
 「富」とは「余剰の生活物資」である。
 「個人、家族、親族、一族郎党」以外の
 人々の「衣食住」を賄うことが出来る
 「生活財」だが、
 その「富=財」の使用、処分は
 得た個々人の
 「自由な意志」でなされる。
 だが、暴力的に
 「略奪・強奪」される可能性がある。
 モチロン、
 生産現場で直接生産、蓄積されるモノも
 この「略奪・強奪」はなされる可能性がある。
 個々人が自分自身で
 武装してマモルのは当然でアタリマエである。
 だが、暴力的な武装と実力ないものはどうするか?
 傭兵を雇う「余剰生産物」はある。
 「山賊・海賊・チンピラ・暴力集団」を
 傭兵として雇うのが上策であるが、
 傭兵が
 「七人の侍」になるとは限らない。
 そして、
 「七人の侍」もイズレは
 「略奪・強奪」のプロの「野盗集団」になるか、
 既存の「野盗集団」に吸収されていくのが必然である・・・
 暴力と暴力の対立、縄張り領域の支配・・・
 暴力を前提にした「秩序の形成」の結果の思想が
 「儒教」である・・・
 生殺与奪の頂点に「君子」が存在する
 この「君子の思想・哲学・意志」が
 民主主義であろうが、
 利権君主主義であろうが、
 独裁、独断、暴力主義であろうが、
 重臣の合議主義であろうが
 形式的に
 「君臣忠義、忠誠の縦の命令関係の組織体制」でさえあればよい・・・
 「君主」は
 「名君」、「暴君」、「愚図」、「木偶」は問わない「秩序思想」・・・
 その秩序組織維持には「血統」もナンのソノ・・・
   ↓ 
 「法」とは「階級支配」の「維持の法」である
 「階級国家(社会)」とは基本的には
 「支配階級・被支配階級」に二分され、
 その中間に「諸階層」が存在する。
 だが、
 「支配階級に位階序列」がアリ、
 「被支配階級にも序列」がアリ、
 「階級社会(国家)」は
 更に、各組織の中で
 「序列秩序」は細分化され
 「階級秩序」を形成している。
 これらはスベテが
 生きている間の「人間社会」の
 「慣習・掟・法律・契約」の
 「約束事」で縛る「秩序」である。
 「国家」が
 「法」で規制しようとしても
 「法の網目=法外=非法=否掟」は
 「規制」できない・・・
 「国家秩序」は
 生きている人間とって
 「利用価値」、「使用価値」がある
 「法でないモノは規制外」で
 「利用価値」、「使用価値」がある・・・
 個々人の「エゴ意識の枠内」で
 「特殊な幻想」であっても
 幻想が実現しようが、しまいが
 「利用価値」、「使用価値」ある・・・
 死んでも、尚且つ、
 「天国・煉獄・地獄」の「法秩序」があるらしいカラ・・・ 
ーーーーー
 以下は「新井白石」の続き
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
 「新井白石」の
  ↓↑
  B 信牌制度
 単に規制を厳しくするだけでは、
 密貿易を誘発するだけです。
 実際、この時期、
 密貿易は第2のピークを迎えていました。
 例えば
 1707年には19件、
 新令の施行された
 1708年にも
 7件の密貿易が摘発されています。
 綱吉時代の密貿易は、
 長崎市民が犯人でしたから、
 市民の
 行動の自由を
 制限することで
 押さえることができたことは、
 前章で紹介しました。
 それに対して、
 この当時の密貿易は、
 主犯は長崎市民ですが、
 補助者には
 よそ者が
 参画している場合がぐっと増え、
 したがって逮捕者を
 長崎市民と
 よそ者に分けると、
 よそ者の数の方が多い、
 という状態になってる点に大きな特徴を示します。
 もちろん、こうしたよそ者の利用が、
 長崎市民の
 行動の自由に対して
 加えられている制限を
 かいくぐるための
 手段であることはいうまでもありません。
 犯行が・・・?・・・「非犯行」
 広域化したということは、
 取締が困難になるということを意味します。
 そこで、白石は、そのための策を立てます。
 すなわち、
 中国船に対する
 信牌(しんぱい)の発行です。
 これこそが、新令の最大の特色です。
 信牌は、
 割符(わっぷ)とも呼ばれます。
 来航した中国船のうち、
 新令に違反しないことを制約した者だけにこれを交付します。
 そして、以後は
 信牌を持たない限りわが国との貿易を認めない、という制度です。
 この制度には、巧みに飴とむちが組み込まれていました。
 すなわち、信牌を持っていれば、
 制限金額を銀30貫までは増額して、
 全量を買い取るという特典がつきます。
 そのかわり、
 積載量に定高より30貫以上の
 過不足がある場合には、以後の来航を禁ずるとか、
 指定された正規の航路以外を通ることは認めないとか、
 粗悪品、不正品を積載してきた者は、
 以後の貿易を認めないというような
 様々の条件を受け入れなければいけません。
 もちろん密貿易をした者は信牌を取り消されます。
 その結果、かなり効果的に密貿易の取締ができるわけです。
 もっとも、
 信牌を発行するのは
 幕府そのものではなく、
 単なる
 通事とされました。
 これは中国政府側の抵抗を恐れたからです。
 すなわち、
 中国の伝統的な政府貿易の形式は
 入貢貿易です。
 中国の臣下の国が貢ぎ物をすると、
 中国側ではその忠誠心を愛でて貢ぎ物以上の物を下賜する、
 という形式の貿易です。
 足利義満が(中国に)臣下の礼をとって行った貿易などが有名です。
 中国では、
 信牌とは、
 この入貢国に対して与えるものだったのです。
 したがって、
 幕府が中国船に信牌を発行すると、
 中国をわが国の入貢国としたかのように見えるので、
 貿易摩擦の発生が予想されたのです。
 実際、そういう事件が起きました。
 信牌を与えられなかった
 中国商人達は、
 本国で訴訟運動を展開します。
 すなわち、
 信牌は
 日本の年号を使用しているので、
 信牌を受けた船頭は
 日本に忠誠を誓って
 清朝に反逆する者だと政府に訴えたのです。
 そこで
 中国政府では信牌を没収したため、
 多くの船が日本に来られなくなったのです。
 もとより
 白石はこうした事態のあることを
 予想して信牌を
 幕府発行とは
 しておかなかったのですから、
 早速適当な便船で、
 抗議書を中国に送りました。
 中国側では、結局
 1717年になって、
 康煕(こうき)帝の勅裁により
 わが国の信牌の発行に
 文句を言わなくなりました。
 なお、
 中国では、
 同年から再び海禁(つまり鎖国)政策に転じます。
 おそらく中国側としても、
 日本の信牌を利用することで、
 貿易状況のチェックが可能になるという点に、
 信牌の許容策を導入した理由があると思われます。
 吉宗が将軍に就任したのが
 1716年のことですから、
 この時には、もう
 白石は政権から遠ざけられていました。
 他方、
 信牌を受けられなかった中国商人達は、
 九州各地、特に福岡、小倉、萩の3藩の領海が接する辺りに回航して、
 日本側の
 密貿易船を半ば公然と待ち受けるということを始めました。
 多いときには十数艘も滞船していた、といいます。
 幕府では当初は手を拱いていましたが、
 1718年に
 3藩合同の軍を出動させて追い払いました。
 その後、何度か出動させ、
 最終的には
 1726年に追い払うのに成功したのです。
 何故このように長く出動を遅らせたのかはよく判っていません。
 海上の3藩の境界という難しい場所であるために、
 関係する
 3藩の足並みをそろえるのに時間がかかったということもあるでしょうし、
 家宣が死亡して、権威が低下しつつある
 間部詮房の命令では、
 各藩がなかなか動こうとしなかったという事情もあるでしょう。
 しかし、国際紛争を未然に防ぐため、
 康煕帝の勅裁が降りて
 中国側が
 信牌の運用に文句を言わないということが
 確認できるまで待っていた、
 というのが真の理由ではないかと、私は考えています。
  ↓↑
  C 長崎市振興策
 ところで、
 白石が新令の制定を諮問されたきっかけは、
 長崎廻銅の量の減少により、
 長崎貿易が不振となり、
 このため長崎市民が困窮しているという
 報告が長崎奉行から出されたことです。
 それなのに、貿易制限を強化したのでは、
 困窮の救済にはならないはずです。
 白石の答申した新令が
 長崎市民の救済になる、
 という逆説を理解するには、
 それまでの
 長崎貿易の状況を理解する必要があります。
 定高仕法によると、
 正規の貿易は
 長崎廻銅を
 ベースとして行われなければなりません。
 ところが、この
 長崎廻銅が不足する結果、
 貿易量が恒常的に
 制限額以下で推移するという状況が生まれていました。
 前章で述べたとおり、長崎貿易では、
 諸利益のうち
 11万両は長崎会所に残し、
 残りはすべて長崎運上として
 幕府が徴収するという制度がとられていました。
 この
 11万両が、会所と市民に分けられるのです。
 細かく内訳を書くと、
 長崎会所で
 外国からの輸入品を
 わが国商人に売って得た銀(金7万両相当)、
 つかい銀(小遣い銭)、
 落銀(長崎市民に落ちる銀)、
 間銀(あいぎん=手数料)、
 役料(役目に対する報酬)
 などです。
 このうちから、
 7万両が
 地下(じげ)分配金として、
 長崎市民に配分されるはずなのです。
 ところが、
 貿易実績が上がらないのですから、
 このような市民への配当も来ません。
 幕府の方も、
 それでは長崎運上が入らないはずですが、
 そこは
 法令を作る方ですから、
 対策の立てようがあります。
 すなわち、
 貿易できずに帰る
 積み戻り船の船荷から、
 貿易制限の枠内での
 「追売」を認めて、
 貿易利潤の補填を図ったのです。
 これは会所の査定額で一方的に買い上げ、
 二割増で日本商人に売り出したので、
 夥しい利潤があったといいます。
 この追売は、
 幕府が長崎運上確保のために
 別枠で行うので、
 長崎市民への配当はありません。
 要するに、
 貿易総額が減少する中で、
 長崎運上に当てる
 追売を確保する方針を幕府が維持したので、
 本来の貿易は圧迫されてますます先細りとなり、
 運上額そのものは増加しているにも関わらず、
 長崎市民への
 貿易利潤の配分は減少する、ということが起きたのです。
 白石は、
 貿易額
 及び
 貿易船の入港数を低く設定することと、
 銅輸出額を
 実際の
 輸出能力にあったものに
 改訂することにより、
 追売のような
 不健全な貿易形態を廃止します。
 また、
 長崎市民が貿易を支えるために
 負担している様々な活動のための経費は、
 従来は、
 貿易決済後の実績によって配分していたのです。
 それを幕府からの
 前貸しの建前にして、
 貿易実績が上がると否とに関わりなく、
 配分することにしたのです。
     *     *     *
 この
 海泊互市新例は、その後幕末まで続く幕府の基本政策となります。
 これを
 消極的な貿易無用論と
 理解しては間違いです。
 この政策は、二つの点で、
 国内産業の保護育成策なのです。
 一つは、
 俵物を正規の輸出品にしたことです。
 これにより、
 全国的に
 煎り海鼠や
 干し鮑の増産が行われるようになっていきます。
 今一つは、
 輸入品の
 国産化です。
 我が国において、
 片貿易が長く続いていた理由は、
 白糸(上質の生糸)、各種絹織物、綿布、鹿皮、砂糖
 などの海外産品に
 国内需要があるにもかかわらず、
 封建政権は、その基盤である
 米の生産に力を入れ、
 そうした農産品の
 国内生産を
 許さなかった点にあるのです。
 そこで、そうした
 農産品は
 国産化を推進すべきである、
 というのが
 白石の結論でした。
 惜しいことに、
 白石時代は長く続きませんでした。
 が、この農業政策の大転換が必要という発想は、
 次の
 享保の改革における農業政策の中心となっていきます。
  ↓↑
  D 日朝貿易
 中国産生糸ほどの高品質のものが、
 幕府の政策が転換されたからといって、
 直ちに国内生産可能になるわけはありません。
 他方、
 国内の生糸需要は依然として根強いものがあり、
 長崎新令は、
 その道をふさいでしまったわけです。
 そうした膨大な需要を、
 長崎貿易に
 代わって支えたのは、
 対馬藩を経由しての
 日朝貿易でした。
 前章で簡単に触れたとおり、
 朝鮮人参については
 宗家と朝鮮王家との間の
 公貿易という形をとっていましたが、
 それ以外に日朝間には
 私貿易という形態の貿易が存在していました。
 その状況について
 対馬藩では
 「私貿易帳簿」というものを作成しており、
 1684年以降のものが現存しています。
 それによると、
 朝鮮経由の
 中国生糸の輸入がこの頃から急増していきます。
 対馬藩は、
 長崎貿易よりも安い価格で
 朝鮮から生糸を輸入するようになり、
 独自のルートで
 西陣などへ供給するようになりました。
 その結果、
 日朝貿易による生糸の輸入量は、
 1730年くらいまでは
 長崎貿易の量を凌ぐようになります。
 この日朝貿易の
 決済手段は相変わらず
 銀でした。
 このため、
 長崎からの銀の流出が止まっても、
 対馬から毎年、
 1000貫~2000貫というレベルで
 銀の流出が続いていたことになります。
 元禄銀の場合には、
 品位の低さを補うため、
 一定の
 プレミアムをつけることが必要だったようです。
 そして、
 三つ宝銀や
 四つ宝銀の場合には、
 プレミアムをつけても
 受け取りを拒否されました。
 このため、
 1710年から1714年までは、
 勘定奉行
 荻原重秀の特別の計らいにより、
 品位80%という
 特別良質の銀貨が、
 年に1417貫だけですが、鋳造されます。
 これは、
 建前上は、
 朝鮮人参輸入の確保という名目でしたから、
 「人参代往古銀」という名称でした。
 これを幕府は、
 普通の
 劣位貨幣と同価で
 対馬藩に渡していました。
 つまり形を変えた
 輸入補助金というわけです。
 その後、
 重秀の失脚により、これは製造されなくなりますが、
 白石が作った
 正徳銀は信用が高かったので、
 そのまま問題なく取り引きされました。
 この対馬からの銀の流出は、
 白石も抑制することができませんでした。
 対馬藩には、
 幕府に代わって
 対朝鮮外交を担当する、
 という
 大義名分があり、
 日朝貿易の独占による利潤は、
 外交を円滑に進めるための
 経済的保障という性格があったためです。
 次章に詳しくは紹介しますが、
 1730年代に行われる元文改鋳により、
 銀貨の品質が再び著しく低下し、
 特例によって
 「人参代往古銀」は製造されます。
 しかし、この時は、
 宝永の時と違って、
 幕府が
 対馬藩に
 必要経費を
 請求するようになったことから、
 輸入量は急減します。
 最終的に
 日朝貿易による
 銀貨流出が終わるのは、
 1750年代のことになります。
 朝鮮人参について 
 国産化が成功し、また、
 国産生糸の品質が向上して、
 中国産生糸に対する
 国内需要がほとんどなくなったのが、
 その理由です。
 なお、その後も
 対馬藩による日朝貿易は続きます。
 その場合、
 日本からの主力輸出品は、
 長崎貿易を通じて
 日本に入ってきた
 東南アジア産の
 胡椒、水牛の角、すおう等です。
 李氏朝鮮は、日本以上に
 厳しい
 鎖国を実施していましたから、
 このような
 奇妙な・・・?・・・「非奇妙」
 三角貿易の
 必要性があったのです。
 この場合の朝鮮からの輸入品は、
 3分の2までが
 木綿で、これは国内市場で売却されました。
 残り
 3分の1は
 米です。対馬はご存じのとおり、山がちの島で、
 米といえども自給自足ができません。
 そして距離的にははるかに朝鮮に近いので、
 (米を)日本国内から輸入するよりも
 安上がりだったのでしょう。
ーーーーー
  ・・・「生活」するタメには「労働」と「生産」を前提する。だが「ダレ」でもではない・・・
 「富=財産=剰余財」が既にあれば、その必要のないヒトも存在する。
 「過去のダレかの労働と生産」を遺産(財産)として受け継いで生活していく人々である・・・
 この社会ではコレを「理不尽」とは思う人は少ない。
 ほどんどの「国家・社会」の「法」の根幹だから・・・
 ・・・そして「社会秩序の混乱」を目論んでは、それをネタに生きていく「人間」たちも・・・「ビジネス」・・・
 そして、
 直接的な生産物の「収奪・強奪・略奪」での「蓄財=剰余生産物」以外は
 「市場交換」での交換の媒介使用物、「貨幣・紙幣」での「蓄財=モウケ」である。
 「貨幣・紙幣」は「余剰価値」となるが、必ずしも「余剰価値物=蓄財物」を保証するものではない・・・「損得」は「市場価格」で決定される。「価格」は「損得」を含むモノである。
 市場での「生産物の交換」が直接的な「物物交換」とは限らず、
 「生産物」の生産の分業は、同時に市場での何でも「交換」できる「媒介物」の「貨幣・紙幣」を発明した。「利子」の発明はそれ以前に発明されていた・・・「貸したモノ」には「+アルファ」で期限付き返してもらう・・・この社会では当たり前である。
 「慈善家」も「寄付金」でダレかに資金援助するが、日本では「寄付金」には「税金」が掛かる・・・「寄付」で援助資金とした「基金」の管理費を貪っている奴も存在する・・・もちろん、「混乱ビジネスマン」は「育成」される・・・

 


新井白石の知識の渇望・・・乱学の後・・・

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 「直接生産物」を生産する原材料費に付随する「間接的、媒介的」な「諸費用?」・・・「諸経費」・・・「諸経費」には「現場経費」・・・ 「現場の運営に必要な費用 人件費 、交通費、通信費、事務用品費、福利厚生費、労務管理費、雑用費、租税公課((契約書の印紙代や各申請手続き費など)や保険料(建築工事保険や賠償責任. 保険など、 労災保険料、建設工事保険 」など。「一般管理費」・・・会社の運営に必要な費用。「経営者や内勤者及び営業マンなどに係る費用、会社の社屋や備品、機械器具などの費用他」・・・「経費(事務所費用、減価償却費、調査研究費、宣伝、広告費など)」・・・「諸経費」は、通常、工事費の6~10%程度が多いらしいが、「本体工事費」、「本体生産費」でもない、「外交(公事?)」、その「+α」の「朝鮮通信使」に掛かった「諸経費」とは・・・「国家外交」には膨大な「経費」が掛かるが、その「目的成果」の是非は「不確実」で、結果は闇である・・・
 ・・・、「外交(公事?)」、その「+α」の「朝鮮通信使」に掛かった「諸経費」以前に当時の白石の「海外貿易」では「幕府のモウケ」がなかった・・・「貿易収支」は「赤字」だったのだ。
 当然である「鎖国」とは本質的に「自給自足の階級社会」である。海外貿易で「幕府財政の黒字」を望んでいないのである。だが、幕府の「大奥=女階級社会」は「海外ブランド」を望んだのである。いずれは掘削で枯渇する「金銀銅」が「海外貿易」での「支出の決済」である。「米」ではなかった。だが、「日本国内の国勢生産と流通の実質的な需給バランの目安」は「米高=石」である。
 白石は「米の封建社会」の常識から抜け出せなかった。当然である。「幕府財政の黒字」は「年貢米の生産量の増加と徴収」であった・・・基本的には「幕藩体制枠内での自給自足の農本主義者」であったのだ。
 日本の世界の窓口は「長崎・出島」であったが・・・当時の白石にあっては「鎖国体制維持枠の知識の範囲での政策」である・・・
 そして、新井白石が渇望、切望したの「書籍」と、それから得られる「知識」であった・・・しかも、「朝鮮通信使」からの・・・戦国時代は終わり、最大の武器である「鉄砲」、「大砲」に必要な「硝石」の輸入も必要とぜず、「兵農分離」も既に確立し、大型の帆船の軍艦も必要とせず、「吉利支丹(切支丹)」も、もはや存在していない「隠れキリシタン」の時代である。
 白石(1657年3月24日~1725年6月29日)にとって、「『読史余論三巻・天下九変五変」』上 または『公武治乱考』.」を将軍に侍講した知識はあれ、この時代的な制約はあれ、伊太利亜人のシドッチに遭遇するまでは「西洋の知識」には疎かった・・・彼の生きた時代は1600年の「関ヶ原」は遥か彼方の過去である・・・
 それにしても、不思議なことに白石には「三浦按針=ウイリアム・アダムス」の言及が見当たらない・・・あんなにも「知識」を追求し、「歴史」を追求していたのに「相模の國の幕臣」になった「三浦按針=ウイリアム・アダムス」の姿がみえない・・・白石の著述の何処かに彼、「三浦按針」の記述があるのかも・・・?・・・「三浦の乱」・・・は、日本での「西洋諸国(葡萄牙・西班牙・英吉利・阿蘭陀)」利権確執が重なる・・・?
ーーーーー
 以下は「新井白石」の続き
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
  ↓↑
 「新井白石」の
  ↓↑
  E 琉球貿易
 この機会に、
 鎖国時代の今一つの貿易ルートであった
 薩摩藩による琉球貿易
 についても説明しておきましょう。
 鎖国というのは、わが国の場合、
 国交を持つ相手を制限する、
 ということであって、
 貿易量そのものを
 制限するものでなかったことは、
 第2章で説明しました。
 このため、
 薩摩藩による
 琉球貿易も、
 制限外として認められていました。
 琉球貿易は、
 琉球が
 独立国という建前の下に、
 中国などと貿易をし、他方、
 薩摩藩に対して
 琉球が
 朝貢貿易の形で
 船を派遣するという形で行われていました。
 銀貨が貿易の決済手段だったことは
 日朝貿易の場合と同じです。
 1715年に、
 白石は、従来認められていた
 銀1206貫の限度額を906貫に抑制しています。
 薩摩の方が対馬よりも制限が厳しいのは、
 小藩である対馬に対しては、
 外交費用相当の援助という要素があるためです。
 琉球貿易の詳細については、
 薩摩藩ははっきりした資料を今日に伝えていないので、
 確かなことは判りませんが、
 薩摩藩は、
 この禁令は余り守らなかったようです。
   ↓
 (3) 年貢増徴策
 貨幣の改鋳や長崎新令は、いずれも大事なものですが、これらは
 幕府財政を豊かにしてくれる力は持っていません。
 通貨改鋳策に至っては、
 経費分だけ
 幕府財政を締め付けることになるはずです。
 そこで、
 歳入の増加策が必要となるのですが、ここまできますと、
 天才白石といえども、
 封建社会の常識から
 抜け出すことはできませんでした。
 すなわち、
 年貢米をいかに増加させるか、
 という点を考えるしか、能がないのです。
 ここでも、白石のきわめて
 数理的な頭脳は、
 統計解析によって
 問題の所在を突き止めようとします。
 彼によると、
 幕府直轄領の
 税率は
 4公6民・・・・・・・・・・生産米の「四割」が収奪
 すなわち
 税率40%のはずです。
 それなのに、
 実際には
 28~29%程度で、
 30%を切っているといいます。
 その租税徴収率の低さが、
 幕府財政が苦しい原因だ、というのです。
 そこまでは正しい計算なのですが、
 白石は、江戸生まれの江戸育ちで、
 農村の生活に
 理解がありません。・・・?・・・「有理解」
 そこで、このように
 年貢徴収率が低いのは、
 幕府の
 代官やその手代が
 地元と結託して、
 賄賂を取るかわりに
 税率を下げる等の
 便宜を図っている
 に違いないという
 結論になります。
 これは当時の
 幕府の公式見解そのもので、
 御触書にも
 「近年は村々からの
  年貢収納量が段々と減少してきて、
  昔の半分ほどになっているのに
  村々は少しも豊かになっていない。
  それは
  村々が年貢を
  負けて貰うために
  代官諸役人に
  賄賂を贈っているからで、
  年貢量は減少するが、
  村々が支出する総領は、
  賄賂分を合わせると
  結局
  昔と同じになるからだ」
 ということが
 明記されていました
 (御触書寛保集成)。
 この当時の年貢の徴収は、
 検見取(けみどり)法というやり方でした。
 すなわち、
 代官以下の
 地方(じかた)役人が
 個々の村を回って、
 米の出来具合を個別に確認しては、
 村ごとの年貢総量を決定する、という方法です。
 そして、確かに、
 収穫高の査定に当たる地方役人が、
 村側の饗応の多少によって
 査定に手心を加えるということは
 かなり横行していたようです。
 余り接待しすぎたために、
 役人の方がつけあがって、
 家族親戚まで連れてきて
 饗応を楽しんだ、
 という話まで残っているほどです。
 白石は、先に
 荻原重秀が廃止した
 勘定吟味役を
 1712年に再度設置して
 勘定所自体の綱紀を引き締めるとともに、
 勘定所に命じて、
 綱吉時代にもまして
 厳しい地方検査を開始します。
 具体的には、
 全国を十の地域に分け、
 それぞれに
 3名で構成される
 巡察使を派遣して虱潰しに査察を実施したのです。
 3名の中には、彼として信頼できる
 甲府藩からの
 転籍者を必ず1名は入れていたといいます。
 この結果、彼が事実上の権力を握っていたわずかの期間に、
 処罰された
 代官は10名に達します。
 期間当たりの処罰数としては空前のもので、
 綱吉の
 元禄期以上に
 代官が厳しく取り締まられた時期ということができます。
 しかも実際には、
 事務処理が遅れて、
 処罰が
 享保以降にずれ込んだ例もかなりあるようですから、
 実質的処罰件数ははるかに多いと見るべきです。
 そして空席になった代官のポストに送り込むのもまた、
 甲府藩からの転籍組です。
 こうした締め付けの甲斐あって、
 1713年の
 年貢米徴収量は、
 前年に比べて
 43万3400俵も増加したと
 白石は自画自賛しています。
 この年、年貢米の量は、
 石数でいうと
 411万石あまりです。
 増加はその後も続いて、
 14年、15年といずれも
 412万石を突破しています。
 代官締め付け策は一応の効果はあったというべきなのでしょう。
 しかし、
 白石が
 見落としていた重大な点があります。
 それは、
 幕府代官
 諸経費に関する
 構造的な要因から、
 まともに代官が仕事をしていたら、
 必ず
 赤字になってしまうという点です。・・・???・・・根拠は?
 年貢の
 未収分の相当部分は、
 そうした
 代官の
 赤字補填のために
 流用されていたものだったのです。
 締め付けると、
 そうした分が増加するのです。
 しかし、
 現場の声が彼のところまでは上がってこなかったために、
 そこまではこの天才でも、
 洞察することはできなかったのです。
 したがって、この問題の真の解決は、
 享保の改革に譲られることになります。
   ↓
 (4) 朝鮮通信使待遇改訂
 白石の事績を紹介して、
 朝鮮通信使の
 待遇改訂問題を
 避けてとおるわけには行かないでしょう。
 ご存じのとおり、
 日朝関係は、
 秀吉の朝鮮出兵によって
 決定的に破壊されます。
 自家存立の必須の条件として
 日朝友好を熱望していた
 対馬の
 宗家は、
 徳川家康が
 日朝関係の復旧に意欲があるのを幸いに、
 日朝間にあって、懸命の工作を行いました。
 その結果、
 1607年に
 初めて朝鮮から使節がわが国を訪れ、
 1609年に、
 対馬と朝鮮の間で
 己酉条約が成立して、ようやく両国間に講和が成立しました。
 その後、
 1617年に
 朝鮮政府は、
 徳川幕府による
 日本統一の賀使を、
 1624年には
 家光の将軍位襲職の
 賀使をそれぞれ派遣してきたので、
 ようやく日朝修好の実が備わるようになってきます。
 そして、
 1636年に、
 通信使という名の使節の最初の者が送られてきます。
 以後、将軍の代替わりの都度、通信使が訪日することになります。
 通信使という名称を使うか否かは問題ではありませんから、以下、
 1607年以降のすべての訪日を、
 朝鮮からの使節として一律に論ずることにします。
 これら使節の訪日の趣旨そのものは、
 日朝友好ということで、全く結構なことです。しかし、これが
 幕府財政上の
 大問題に
 ならざるを得ないのは、
 ひとえに
 その規模のためです。
 1607年の第1回の来日の際には、
 秀吉の朝鮮出兵の後遺症が双方に色濃く残っているときでしたから、
 朝鮮側としては
 各分野のトップクラスの人間を多数送り込んで、
 徹底的に
 日本側の情報を収集することを目指したのだと思います。
 その結果、
 この時の使節団の総数は467人に達しました。
 この規模が、規模に関する先例を作ってしまったのです。
 江戸まで使節が来たことは全部で
 11回ありますが、それを見ると、
 1624年の
 第3回が300人と少ないのを例外にすれば、
 正使以下の一行の人数は、
 最大500人
 (これが実は新井白石の改革の時です。)、
 最小でも428人(第2回)、
 平均470人程度となっています。
 使節団は3艘の船に分乗し、
 これに3艘の副船が献上品その他の荷物を載せて従います。
 これが
 釜山から
 対馬、壱岐経由で下関に入り、
 瀬戸内海を抜けて
 大阪に上陸します。
 その後、
 船を管理する人間を100名程度残して、
 残り全員が陸路、江戸に入ります。
 だから使節団だけで
 3百数十名という規模です。
 これに、
 対馬藩から、
 使節側1名当たり、
 2名程度の割合で随行者がつきます。
 すなわち
 約700名です。したがって、
 行列の本体規模が
 大体1000人に達することになります。
 建前として、
 日朝双方は対等ということになっていますが、
 江戸幕府としては、
 朝鮮は入貢してきている
 というポーズを国内的に取っています。
 そこで、
 この入貢国を厚遇することにより、
 ひいては幕府の権威を高揚することができると考えているのですから、
 この大人数の、
 日本国内に入ってからの経費は
 すべて日本側の負担です。
 滞在期間は、建前としては半年ですが、
 悪天候その他の事情から行程はどうしても遅れがちになり、
 普通は
 大体1年近い期間が必要になります。
 海上にある間は、それでも大して手間も費用もかかりません。
 しかし、大阪に上陸して陸路を進み始めると、
 当然この1000人という
 大行列の荷物を運ぶ人足が必要となります。
 旅行用の荷物に加えて、
 進貢用の荷物、それに
 貿易用の物資ですから、
 決して少ない量ではありません。
 さらに、道案内として諸国の大名から人数がつきます。
 それやこれやで、
 行列は
 大体3000人くらいの規模に膨れ上がります。
 これが半年がかりでしずしずと進んでいく訳です。
 一行の威儀の盛大さ、道中における饗応、接待の手厚さは
 まさに人の目を驚かせるものがあったのです。
 しかも、
 娯楽の少ない時代のことですから、
 見物や交流のため、多くの人々がその道筋にやってきます。
 当時の街道は、東海道にしても中山道にしてもささやかなものですから、
 これほどの規模の行列にゆっくりと進まれては、
 機能が麻痺してしまいます。
 そのためと思うのですが、
 通信使が来る度に、
 幕府では
 「吉道」
 と呼ばれる特別の道を、通常の街道とは別に整備します。
 このように見てくると、
 通信使の応接に巨額の費用がかかり、
 そのため、幕府財政が傾く恐れがある、
 ということが判っていただけると思います。
 家宣が将軍に就いた時には、それを祝って
 1711年に
 第8回目の通信使が来ています。先に述べたとおり、
 空前絶後の規模の通信使です。
 その際に、
 新井白石は、
 末代までの語りぐさになるほどの努力を払って、
 極力この経費を切りつめました。
 しかし、
 記録に残っているのは、
 従来
 朝鮮側の国書の宛先を
 「大君」としていたのを、
 朝鮮と対等に
 「国王」に直したとか、
 使節が将軍に拝謁する際に
 御三家が同席していたのをしないことにした、
 というような形式面の話ばかりが多く、
 具体的にどこで
 どのような経費を削減したのかはよく判りません。
 朝鮮は、
 朱子学の大義名分論を大事にするので、
 大きな論争点になるのは、
 実質的な待遇の良し悪しよりも
 形式的な面に集中するためです。
 しかし、
 白石の方では、
 本当の狙いは
 幕府の
 財政難の救済にあったはずですから、
 できる節減は全部やったはずだ、
 ということだけは確かです。
 それでも、
 陸路に当たる
 兵庫=江戸間の、京、大阪を始めとする
 各地の道普請
 あるいは
 修復、人馬割り等々の入用は、
 総額
 金19万2301両、
 米5385石に達しています。
 また、この道中のために使用された人馬の数は、
 行きの場合には、
 通しで使った人足が310人、
 寄せ人足1万0691人、
 馬9754匹です。
 帰りの場合には、
 通しで使った人足は同じく310人ですが、
 寄せ人足は1万2707人、
 馬8161匹
 という膨大な数字に達しています。
 帰りの人足が若干多いのは、贈り物や土産で荷物が増えたためでしょうか。
 したがって、
 諸大名が負担した分も含めた
 全体の経費がどのくらいに達したのかは判りません。
 が、想像するだけでぞっとするような金額になるはずです。
 この数字が、
 その前回や、
 再び元に戻した次回に比べて
 どの程度の節減になっているのかはよく判りません。
 いつものことながら、
 幕府記録の喪失のためです。
 白石だけが
 こうした記録を
 後世に残してくれたわけです。
ーーーーー
 ・・・「三浦按針=ウイリアム・アダムス」の姿がみえない・・・白石の著述の何処かに彼、「三浦按針」の記述があるのかも・・・?・・・
 

シぇラザードのハナシを聞いてくれッ!

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 ・・・「武器サン原則」解禁で、「日本の武器」をダレに売るつもりなのか・・・
 無償援助は難民のタメ・・・?
 食糧援助の「食糧の現物」は「最大の武器」にもなるが、
 「信用貨幣・紙幣・契約証書」の援助は「現物」ではない。
 「食えるモノ」ではない。
 「現物」でないモノは色々なモノに化ける・・・
 TV画面に映る黒装束の奴らが腕に抱える武器は
 「カラシニコフ自動小銃」
 「AK-47・カラシニコフ銃」
 ・・・「ウラジミール」なんて云う名前の奴もいた・・・
 Влади мир ・・・「世界を征服せよ!」
 「ヴラジーミル」・・・「秩序ある偉大さ」・・・?
 Владимир
      мир =「世界」
      мир =「平和」
 Владимир ウラジーミルの мирは
      東スラヴ語以外では
     mir で 「世界」 の意味はない
 「平和」 を意味する場合は мир
 「世界」 を意味する場合は мiр
 動詞 владеть (ヴら 'ヂェッチ)=「支配する・巧に、堪能にする」
 ・・・大量に武器を売ってモウケた奴はダレか・・・
 武器を買う人間はダレ・・・
 モラウって・・・
 買う以前に秩序が混乱した社会で大量に奪われた結果である・・・
 だが、
 「ナイフ」も」「ナタ」も「カタナ」も
 「拳銃・鉄砲・自動小銃・機関銃・大砲・ロケット・ミサイル」も
 時には、「素手」も「ペン」も
 「コトバ」も・・・
 殺人のタメの「武器」になってしまう・・・
 「日本国民の生命、財産」を護る、って・・・
 「いかなる事態においても
  国民の命と平和な暮らしを・・・・國民のダレの命と平和
  断固として守り抜くとともに、・・・守ってないし、マモレナイ
  国際協調主義に基づく
  積極的平和主義」の下、
  国際社会の
  平和と安定に
  これまで以上に
  積極的に貢献するためには、
  切れ目のない対応を可能とする
  国内法制を整備しなければならない」・・・
 「自衛隊と米軍が緊密に連携して
  切れ目のない対応をすることが」・・・
 「我が国に対する
  武力攻撃が発生した場合のみならず、
  我が国と
  密接な関係にある
  他国に対する武力攻撃が発生し、
  これにより
  我が国の存立が脅かされ、
  国民の生命、自由及び幸福追求の権利が
  根底から覆される・・・?
  明白な危険
  がある場合において、
  これを排除し、
  我が国の
  存立を全うし、
  国民を守るために
  他に適当な
  手段がないときに、
  必要最小限度の・・・・・・限度は状況次第
  実力を行使することは、
  従来の
  政府見解の
  基本的な論理に基づく
  自衛のための措置として、
  憲法上許容されると
  考えるべきであると判断するに至った。」・・・
 ・・・「國民」とは「個々人」の「個人」ではないらしい・・・
ーーーーー
  ↓ 
 ・・・「三浦の欄」・・・「三浦の乱」・・・
 家康は、
 ウイリアムアダムの
 難破船から
 銃、大砲、弾薬を没収して
 関ヶ原で使用した・・・
  ↓
 アダムスを
 250石取りの旗本に取り立て、
 帯刀を許し
 相模国
 逸見(へみ)に
 采地(領地。知行所)も与えた
  ↓
 三浦半島
 古代の律令制度では、
 東海道
 相模国に属する・・・相、模する国
 『日本書紀』には、
 「御浦」と記されている・・・ 「相模国・御浦郡」
 ・・・「みうら」・・・
  ↓
 桓武天皇の子孫で平の姓を賜った
 家系である
 平氏(桓武平氏)
 「良文」流が有名・・・・・?「良文」
 三浦一族の
 本
 拠地である
  ↓
 新井城・・・あらいシロ
 (油壺・・・・・・・・・・・・・1516年
               新井城に籠もった三浦一族は
               北条早雲の大軍を相手に
               3年間にわたって奮戦
               永正十五年(1518)に落城
               三浦義同(道寸)、将兵は討死
               残る者は油壺湾へ投身し、
               湾一面が血汐で染まり
               油を流したような状態になった
               後世
              「油壺」→あぶら=OIL・petroleum
                          灯油・石油                             
                    つぼ= jar ・pot・bottle・point
                      コ・・・壺中天
                         壺盧(ころ)
                         ふくべ=ウリ(瓜)
                              ひさご
                              夕顔の変種
                              瓢箪型の壺
               と言われるようになった
               それ以前は何と呼ばれたのか?
  マリンパークの辺り)
  ↓
 三浦一族は
 小田原を本拠とする
 北条早雲ひきいる
 北条一族と対立
 永正九年(1512年)
 平塚の
 岡崎城を奪われた事をきっかけに
 三浦半島まで追い詰められた三浦一族は、
 網代にあった
 新井城
 に立てこもり、最後の抵抗
 三浦一族
 最後の首領といわれる、
 三浦道寸義同(みうらどうすんよしあつ)と、
 道寸の子である
 三浦荒次郎義意(みうらあらじろうよしおき)
  ↓
 ミウラ(Miura )は、
 イタリアのランボルギーニが開発・製造した
 2シーターミッドシップスポーツカー
 伝説の闘牛牧場ミウラの名にちなんで命名
 ランボルギーニ・ミウラの「MIURA」
 スペインの牧場「Miura」
 ミウラ牛を作り出している牧場がミウラ牧場で、
 その牧場主がアントニオ・ミウラ氏
 ランボルギーニミウラの名前の由来は、
 9匹の闘牛を意味
  ↓ 
 相模国
 御浦郡(三浦郡)をルーツとする
 「御浦(みうら)」・・・・・・・・・・・・・おんうら・オンポ
                     ギョホ・ギョポ
 は
 浦賀海岸の先
 日本武尊が東征の際に、
 現在の
 横須賀市である
 走水(はしりみず)から海路で
 安房国に渡ったが、
 難破を避けようと祈願して、
 身代わりに妃の
 橘比売命が入水したという
 伝説に由来
ーーーーー
 ・・・「シェヘラザード -千夜一夜物語」・・・「1000の物語を王に語って聞かせたという王妃」・・・

日没・・・「数字」のない目安・・・

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 ・・・「新井白石」・・・「学問=知識の追求」の「目的」とはナンなのか・・・「文字」は「階級社会」の「使用価値」のあるモノとして「利用」されてきたのだ。歴史的時間の経過としての記録された既存の「文字」の「学習」と「習得」は「階級社会の出世」の「道具」である。階級社会の「出世での衣食住の確保」の「手段」であり、「科挙制度」も煎じ詰めれば、身を切った「宦官制度」と同類である。支配体制維持の「官僚」になれるかどうかの「条件」である。
 だが、単に「文字の記憶、諳誦」だけでは出世の保障はない。文字で記録された内容の理解力と、判断力、そして、それを駆使した現実的な人間諸関係の中での「状況分析」と、「実行力」である。
 階級社会での決定権は序列社会の上司である。
 「文武両道」と言うが、階級社会での出世は、「知識教養」、「武術技能」だけではそれを保障しない。
 縁故、血縁など、諸々の関係性の壁の高低が存在する。
 そして、「要領」の「善し悪し」・・・・「ヨウリョウの是非」とは微妙なコトバであるが。
 「人間」は時代的な「階級社会・階層社会」の枠内中で
 「感情的な感性(好き嫌い)」と
 「思想的な理屈(善し悪し)」の
 「選択判断」で蠢いている。
 その人間諸関係での
 「心理」は複雑で単純ではないが、
 ほとんどが
 「思想=信念・信条」では動かない。
 「感情=情念・心情」で動く・・・「喜怒哀楽」
 「自己保身」は「自己存在」の生理的原点で・・・相手に要求しても「原則は自分には当て嵌めない」の「倫理・道徳」は、これにプラスアルファである・・・
 「人間」を観察するには
 「歴史的な身上」と
 「学習した思想」と
 そして、現在的な
 状況、環境での
 「心理的」な
 「価値判断」の傾向性を知る必要があるだろう・・・ 
 「信念・信条」で命を「マットウ」するヒトはゴリッパであるかな・・・
 「武装テロリスト」と云えども同類である。
 しかも、奴等に「選択、決断」の「悪知恵」を提供してりるのは「TV・ラジヲ・新聞」等の彼らの次の「行動」の多様性の可能性を「推理・推断・憶断」して披露している、その「情報提供」の「愚かしさ」である。
 「テロ」にも「戦争」にも打ち勝つためには、これらの「情報」を一般公開の「ビジネス」として「敵対者」にも結果的に提供するのは愚かとしか言いようがない・・・「プチブル意識(出世・儲け)の国家幻想」では「個々人の命」をマモるコトを前提とはしてイナイ・・・「国家」は「国家支配体制=階級維持体制」のみを「国家の意志」としているのである・・・軍事参謀は「敵の状況把握の情報」は必要であれ、「味方の情報漏洩」は望むはずもない・・・この時期、「TV・ラジヲ・新聞」等の「情報統制」を切望するだろう・・・それでも、現在的な「情報」は「インターネット」で拡散されていく・・・「文章、文字の読解・誤解・曲解」もアルが・・・それらは織り込み済みである・・・
 「文字知識」
、文章の内容解読はモチロン、「記録の文章」の「個々の文字自体」の意味する内容の理解度はかなり、怪しいものである・・・「コトバの習得」は「文法の習得」からは始まらない・・・親子、兄弟姉妹、自は分自身の存在を支えてくれる環境とのコミュニケーションから始まり、「コトバの文法」は、その後からの「学習」による・・・
 発明された「抽象化(共通理解・一般理解・相互理解)された文字」で、文字の学習者、既知として知っている者を、その意味内容を「認識対象の本質」として唯一「事実」と理解させ、させしめるモノは
 「アラビア数字(0・1・2・3・4・5・6・7・8・9)」の
 「記号文字」である・・・・
 「象徴的意味」を有する場合もあるが、
 「数字記号」にはそれ自体以外の意味はない・・・・
 「10進法」として加減乗除の「計算としての約束事の結果の数字」も、
 その「数字の本質」を踏まえた共通結果の理解でも、
 答えは「異なった数字」とはならない・・・答えは「唯一」である。
 「1+1」=「2」であるコトは既に「文字・数字・数式」を知っている個々人、萬人の共通理解で、それ以外の「結果理解」はない・・・
 だが、個々の「数字」に「数でない意味」を付与した段階から事情が変化する。そして、「数式」をコトバで説明したら、「1に1を加えたら、答えは11」ともなってしまう可能性がある・・・「11」を「二」、あるいは「十一」と理解するかどうかは個々人の知識理解度のレベルによるが・・・
 「1+1=11」
 となり、これを踏まえた「漢数字」の
 「一+一」=「十一・壱壱・拾壱」、
 あるいは、
 記録された記号の「+」も「漢字」としたら
 「一+一」=「王」ともなる・・・
 ・・・「文字」は「階級社会」の支配階級の「官僚・陪臣」に「記憶の記録」と「利用」されてきたが、この階級社会で、「文字知識」は拡散されるのが必然であった。第一に「数字の本質理解」である。
 その理由は簡単で「階級社会」での「商売・交易・税金徴収」には「数字」と、その「計算結果の数字」には階級を超えた「共通理解・相互理解」が必要だった。
 そして、「建築・土木・河川工事」の「正確」さを保証するのは「数字」を前提とする「技能・技術」である。
 時代は、いずれ「農耕」、「工芸」、「造船」などの「技能・技術」の「共通理解」の正確さにも「数字」は必要とされた・・・当然のこと「戦争技術」にも、「政治技術」にも・・・「占いの数字、吉凶の数字は共同体存亡の知識、技術」であった・・・そして「骰子の数字」は「博奕」である・・・
 「数字」以外の他の対象認識を前提とした「具象文字」も、それらを前提にした観念的感情の「抽象文字」も、その理解度の解釈の巾は広い。そして「曖昧性」は必然である。
ーーーーー
 「三浦(釜山浦・薺浦・塩浦の総称)の乱(1510年)」
 の・・・前哨・・・
  ↓
 以下は例のごとく、参考、参照の原文は「ウイッキペデア」などから・・・
 「倭(やまと・ワ・イ・ヰ)」
  ↓
 「日本書紀」では「夜摩苔」
            夜の摩(高山)の苔
  ↓    遠望した夜の高い山の苔
               摩=广の木木の手
  ↓             苔=艸のムの口
  ↓             艸=くさかんむり
  ↓             ム=よこしま
  ↓             口=くち・くに 
 倭(わ、やまと、ワ、ヰ)である
   ウェイ(中国南方音)・・・
   ゥオー(中国北方音)・・・
 倭(やまと)・・・・・・・・・・人は禾の女
 日本の古名
 声符は委(説文解字)
 声符は委(イ)
 委は
 稲魂(いなだま)を?・・・当今・問う今
                唐献
           禾がナゼ、稲の「魂」?
 被(かぶ)って
 舞う女の形で
           女がナゼ、「舞う」?、
 その姿の
 低く
 しなやかなさまをいう・・・?・・・シナやか
 (字通)
 禾(カ)は
 しなやかに穂をたれた低い
 粟(アワ)の姿
 委(イ)は
 それに女を添え
 女性の
 なよなよした姿を示す
 倭は「人+委」で、
 しなやかで
 たけが低く
 背の曲がった
 小人をあらわす
 (漢字源)
  ↓
 字源
  ↓↑
 すなほ
 「順ふ貌・・・貌=かたち・ボウ(バウ)
            顔だち・容姿
            外貌・顔貌(ガンボウ)・形貌・相貌
            体貌・美貌・風貌・面貌・容貌
            物のすがた
            外観
            概貌・全貌
            おぼろげにつかめたありさま
            「万葉集・山上憶良の歌」に
            「朝皃(あさがお)之花」と表記
             「阿佐我保・阿佐加保」
            「牽牛子」・・・?・・・彦星の子
            「蕣花」
           「皃」は異体字
            人の頭と・・・・・・・「白」が「頭」
                       「人面の形」
            足を・・・・・・・・・・・「儿」が「足」
            象ったもので、
            獣や人の姿かたちを
  倭遲は
  囘りて
  遠き貌」
 やまと
 古、支那人が日本を呼ぶ稱
  ↑
 説文解字
  ↓↑
 「順(したが)ふ
  皃(かお)なり、
  人に従ひ、
  委を聲とす、
  詩に曰く、
  周道倭遅(いち)たり、と」
  ・・・
  「倭への周り道で、遅(遅し・遅れる)」・・・?
   ↓
  「寇(あた・あだ・コウ)」・・・・・・・・・・・・・・・仇・仇討
  㓂は、(五経文字)にある異体字
      「㓂」=「ワ+元+女」・・・倭は元は女
           倭は二の儿(ニン・ジン)のオンナ
  冦は、(増広字学挙隅)や
       漢語大字典・異体字表)にある異体字
  𡨥は、(康煕字典)にある俗字
  宼は、(正字通)にある俗字
      「宼」=「ウ+元+女」・・・鵜(鸕)は元は女
           兎(烏・卯)は二の儿(ニン・ジン)のオンナ
  𡯷は、(字彙補)にある異体字
  𢽉は、(説文長箋)にある異体字
  「寇」の類字は「冠(かんむり・カン)」
   ↓
  外から侵入して害を加える賊
  「外寇・元寇・倭寇」
  外から攻めこむ・あだする
  「侵寇・入寇・来寇」
  盗賊、掠め取る、損なう
  「春秋左氏伝・文公七年」
  に
  「內に亂を爲し、外に寇を爲す」
  とある
  外国から侵入する敵
ーーーーー
 倭寇(わこう・ワコウ)・・・
 13世紀から16世紀にかけて
 朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、
 及び
 東アジア諸地域において活動した
 海賊、私貿易、密貿易を行う
 貿易商人の事である。
 「和寇」、
 「海乱鬼(かいらぎ)」?・・・回覧記
 とも表記される
ーーーーー
  ↓
 前期倭寇と、
 過渡期を経た
 後期倭寇の二つに分けられる
 倭寇の構成員
 前期倭寇では
 主に
 日本人で
 一部が
 高麗人
 後期倭寇は
 中国人が多数派で
 一部に
 日本人をはじめ
 諸民族を含んでいたと
 推測されている・・・
  ↓
 倭寇
 「倭(日本)による侵略」という意味
 中国、朝鮮では
 日本人海賊
 5世紀の
 高句麗広開土王碑の条文
 にも見られるが、
 後世の意味とは異なる・・・?
 『倭、○○(地名)を寇す』
 という表現の漢文表記では
 『倭寇○○』のように
 「倭寇」の2字が連結しており、
 これが後に名詞として独立した・・・?
  ↓
 ・・・「倭が仇す」と、「倭を仇す」では
      「寇」の主語が異なる・・・
  ↓
 16世紀の豊臣秀吉の
 文禄・慶長の役
 日中戦争における日本軍も
 「倭寇」と呼ばれる
 朝鮮半島や中国において
 排日感情の表現として使用される
 侮蔑するときに用いており、
 「野蛮人」の意味・・・
ーーーーー
  ↓
 前期倭寇
 14世紀
 日本の南北朝時代から室町時代初期
 朝鮮の高麗から朝鮮王朝の初期
 北朝を奉じて
 室町幕府を開いた足利氏と、
 吉野へ逃れた
 南朝が全国規模で争っていた時代
  ↓↑
 前期倭寇と高麗
 『高麗史』によれば
 1350(庚寅)年2月
 「倭寇の侵すは此より始まる」という記事
 庚寅年以前にも多数の記事がある・・・
 最も古いのは
 『高麗史』の
 高宗10年(1223年)5月条
 「倭寇金州」とあるのが初出
 「高麗史」によれば、
 1375年の
 藤経光
 誘殺未遂によって
 倭寇が激怒し、
 高麗住民を無差別殺戮
 1370年代の
 前期倭寇の行動範囲
 朝鮮北部沿岸にも及び
 南部では内陸深くまで侵入
 高麗では
 1376年には
 崔瑩が
 鴻山で、
 1380年には
 李成桂が
 荒山、
 崔茂宣と
 羅世が
 鎮浦で
 1383年には
 鄭地らが
 南海島
 観音浦で、
 倭寇軍に大打撃を与え、
 1389年の
 朴葳による
 対馬国侵攻では、
 倭寇船300余隻を撃破し、
 捕虜を救出し、
 町を焼き討ちして帰還
  ↓
 『高麗史』によれば、
 高麗は宗主国である
 元国や明国に上奏し、
 元寇以降も
 さかんに軍艦を建造
 日本侵攻を繰り返す
 これは、
 対馬を拠点とする
 倭寇討伐や
 日本侵略を口実に
 元国や明国の大軍が
 再び自国に長期駐留して
 横暴を極めることをおそれた
 あまりの
 「先走り=軍艦建造」・・・
 倭寇討伐した
 李成桂は、
 1392年に
 高麗王朝を倒して
 李氏朝鮮を建国
  ↓
 高麗史にでてくる
 「倭国」を
 南朝(征西府)だと推定・・・
 ほかにも
 倭寇の首領が
 日本の精鋭部隊と同じ装備で、
 南北朝の争いによる統制の緩みに乗じて
 日本の
 正規の精鋭部隊が物資の略奪に参加した・・・
 南朝方の
 菊池氏や
 肥前の
 松浦党(松浦氏)が
 北朝との戦いのための
 物資獲得を目的に行った・・・
  ↓
 中国
 1368年に
 朱元璋が
 明王朝を建国
 倭寇討伐の
 要請をするために
 (日本)に使者を派遣
 九州では
 南朝の
 後醍醐天皇の皇子で
 征西将軍
 宮懐良親王が活動
 使者を迎えた
 懐良は
 九州制圧のための権威として
 明王朝から冊封を受け、
 「日本国王」と称した。
 その後幕府から派遣された
 今川貞世により
 九州の南朝勢力が駆逐、
 室町幕府将軍の
 足利義満が
 1392年に
 南北朝合一
 明国との貿易を望んだ
 義満は、
 明国に要請されて
 倭寇を鎮圧
 義満は明朝より新たに
 「日本国王」として
 冊封され、
 1404年
 (応永十一年)から
 勘合貿易の開始
  ↓
 「応永の外寇」
 1419年、
 朝鮮王朝の
 太宗は
 倭寇撃退を名目にした
 対馬侵攻を決定
 対馬の有力者が
 明などに渡航し不在である時期を狙って、
 同年6月、
 李従茂率いる
 227隻、17,285名の軍勢を
 対馬に侵攻
 朝鮮軍は敗退
 対馬や北九州の
 諸大名の取締りが厳しくなり、
 倭寇の帰化などの
 懐柔策を行った
 同1419年
 遼東半島の
 望海堝で
 倭寇は明軍に敗れた
 前期倭寇は、
 室町幕府や
 北九州の守護大名の
 日明貿易、
 対馬と朝鮮の間の交易再開
  ↓
 『世宗実録(世宗二十八(1446年)十月壬戌条)』の記述には
 「倭人、不過一二、而本国之民、仮著倭服、成党作乱」
    ↓↑
 「倭人は1、2割(1、2件)に過ぎず、
  本国(朝鮮)の民が、
  仮に
  倭服を着して党を成し乱を作す」 
  ↓
 後期倭寇
 日本では
 1523年に勘合を巡って
 細川氏と
 大内氏が
 それぞれ派遣した
 朝貢使節が
 浙江省寧波で争う
 「寧波の乱(寧波争貢事件)」
 が起り、
 勘合貿易が途絶すると
 倭寇を通じた密貿易が盛んになり、
 中央で起こった
 応仁の乱の為、再び倭寇の活動が活発化
 後期倭寇の
 中心は
 私貿易を行う
 中国人であったとされ、
 『明史』日本伝にも
 「真倭(本当の日本人)」は
 「10のうち3である」とも記述
 明王朝は海禁政策により私貿易を制限
 これに反対する
 中国(一説には朝鮮も)の商人たちは
 日本人の格好を真似て(偽倭)、
 浙江省の
 双嶼や
 福建省南部の
 月港を拠点とした
  ↓↑
 後期倭寇は沿岸部の
 有力な
 「郷紳」と・・・郷紳(きょうしん)
  ↓      1911年までの君主制下の
         中国の地方社会で、
         社会的・文化的地位を有する人を指す
         「紳士・士紳・縉紳」ともいう
         「一般的に
          科挙で得られる肩書き(生員以上)
  ↓       を持っている人」を指す
 結託し、
 後期には
 ポルトガルや
 イスパニア(スペイン)
 などのヨーロッパ人や、
 日本の
 博多商人とも
 密貿易を行っていた(大曲藤内『大曲記』)
 後期倭寇の
 頭目には、
 中国人の
 王直
 徐海
 李光頭
 許棟
 などがおり、
 王直は
 日本の
 五島列島などを拠点に
 種子島への
 鉄砲伝来にも関係
 鉄砲伝来後、
 日本では鉄砲が普及し、
 貿易記録の研究から、
 当時、
 世界一の銃の保有量を誇る・・・
  ↓
 1547年
 明の将軍である
 朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗
 1553年
 嘉靖大倭寇
 と呼ばれる倭寇の大規模な活動
 明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和
 胡宗憲が
 王直を懐柔するものの、中央の命により処刑
 戚継光が
 倭寇討伐に成功
 以後、
 明王朝はこの海禁を緩和する宥和策
 東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認める
 日本に対してのみ
 倭寇への不信感から
 貿易を認めない態度を継続
 倭寇は
 1588年
 豊臣秀吉が
 倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた
  ↓
 倭寇の構成員
 初期~最盛期の前期倭寇の構成員は、
 「高麗史」に見える
 高麗末500回前後の倭寇関連記事の内、
 高麗人が加わっていたと
 明記されているのは3件
 一方、
 朝鮮王朝実録『世宗実録』によれば、
 1446年の記事として、
 「(この記事の当時から30年近く前の、太宗時代の末期に)
  真倭(倭人)は一割、二割にすぎず、
  残りは我が国の民である」と記述
 倭寇の本質は
 国籍や民族を超えた人間集団・・・海賊
 倭寇は、
 中国人が中心であり、
 『明史』には、
 日本人の倭寇は
 10人の内3人であり、
 残り7人は倭に従ったものである
 (「大抵真倭十之三、從倭者十之七。」)と記されている
 中国人倭寇が多かったために
 日本人倭寇と
 偽って成敗した将軍を
 朝鮮の
 明宗王は処罰
 朝鮮王朝による
 対馬侵攻(応永の外寇)も、
 倭寇根拠地の征伐が大義名分
  ↓↑
 倭寇の根拠地
 日本の
 対馬や壱岐・五島列島
 朝鮮の
 済州島
 中国の
 沿海諸島部
 台湾島や
 海南島
 に存在
 豊臣秀吉の海賊停止令
 東アジアの海上世界では
 林道乾
 林鳳(リマホン)、
 明国を奉じて
 清国に抵抗した
 鄭芝竜、
 鄭成功
 の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、
 倭寇ではないが同時代の海上勢力
 後期倭寇に多く見られた
 中国南部(広東・福建・浙江・台湾など)出身者は
 日本(横浜・神戸・長崎の三大中華街)や
 東南アジアに多数渡り、
 現地で
 華僑を形成
  ↓
 八幡船
 日本の室町時代から江戸時代にかけての
 海賊船は
 通称して
 「八幡(やわた)船」と呼ばれた
 倭寇が
 「八幡(はちまん)大菩薩」の
 幟を好んで用いたのが語源・・・?野蛮だろう・・・
 「ばはん」には・・・・・・・・・場犯かも・・・
 海賊行為一般を指す・・・
ーーーーー
 以下、参照、参考の原文は「ウイッキペデア」
ーーーーー
 三浦の乱
  ↓
 1510年
 三浦の乱(サンポのらん・庚午三浦倭乱)
 1510年(中宗四年)
 朝鮮国慶尚道で起きた、
 対馬守護宗氏と
 恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱
 朝鮮に鎮圧
 15世紀、
 朝鮮半島南部に
 三浦と呼ばれる日本人居留地が存在
 宗氏を始めとする
 西日本諸勢力は
 三浦を拠点に朝鮮に通交
 朝鮮はこの通交に制限を加えていった
 それに対し
 宗氏と朝鮮両者の間に確執
 また
 三浦居住の
 恒居倭の
 増加に伴い様々な問題が生じ、
 朝鮮は
 恒居倭に対し強硬姿勢でのぞみ
 三浦の乱が勃発
 結果、
 三浦居留地の廃止
 通交も大幅制限
  ↓
 前期倭寇
 朝鮮は討伐・懐柔
 室町幕府への鎮圧要請
 倭寇沈静化を図り、
 通交権をもって
 西日本諸勢力から
 倭寇禁圧の協力を取りつけ、
 また
 倭寇自体を
 平和的通交者へと懐柔し
 対馬は
 倭寇の一大拠点
 対馬守護であった
 宗氏にも協力要請
 李氏朝鮮建国当初
 入港場に制限はなく、
 通交者は
 随意の浦々に
 入港することが可能であった
 各地の防備の状況が
 倭寇に漏れるのを恐れ、
 交易統制のためもあり、
 1407年、
 朝鮮は
 興利倭船
 (米、魚、塩など日常品の交易をする船)
 の入港場を
 釜山浦
 薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の昌原市)
 に制限
 1410年には
 使送船(使節による通交船)
 についても同様の措置
 1426年、
 対馬の有力者
 早田氏が
 慶尚道全域で
 任意に交易できるよう要求
 これを拒絶する代償として
 塩浦(蔚山広域市)を
 入港場に追加
  ↓
 釜山浦・薺浦・塩浦
 を総称して
 「三浦」と呼ぶ
  ↓
 中世の日朝交易
 通交使節による
 進上と回賜、
 朝鮮国による
 公貿易、
 日朝双方の商人による
 私貿易の
 三つの形態が組み合わさったもの
 朝鮮にとって
 公貿易は
 利益を産み出すものではなく
 国庫を圧迫する要因
 朝鮮国内における
 通交者の滞在費・交易品の輸送も
 朝鮮側が負担
 対馬は山がちで耕地が少なく
 土地を通じた
 領国支配は困難で
 宗氏は通交権益の
 知行化を通じて
 有力庶家の掌握や地侍の被官化を行い、
 領国支配を推し進めていた
 また主家である
 少弐氏の敗勢により
 九州北部の所領を喪失
 家臣に代替として
 通交権益を宛がう必要があり、
 通交の拡大を望んだ
 宗氏は様々な手段で通交の拡大を図り、
 朝鮮王朝と軋轢を引き起こすことになった。
 1443年
 嘉吉条約
 朝鮮は対馬から通交する
 歳遣船(毎年の使送船)の上限を
 年間50隻に定めた
 それに対し
 宗氏は
 特送船(緊急の用事で送る使送船)
 を歳遣船の
 定数外とし、
 島主歳遣船(宗氏本宗家名義の歳遣船)
 とは別に
 有力庶家名義の歳遣船を定約し、
 また島主歳遣船の
 上限を引き上げるよう要求したが、
 これは朝鮮から拒絶された。
 宗氏は対馬島外の
 勢力や実在しない
 勢力名を騙った新たな通交者の
 偽使を仕立て上げ、通交の拡大を図った。
 当時の日朝貿易における
 日本側の輸出品は
 胡椒・丹木・朱紅・銅・金等
 朝鮮側の輸出品は
 綿布
 朝鮮は
 綿布の
 国庫備蓄が底をつくことを恐れ、
 1488年に綿布の交換レートの引き上げを行い、
 1494年には金・朱紅の公貿易禁止、
 1498年には銅の公貿易も禁止
 それに対し宗氏は、
 特送船を使って、
 銅の輸出を図った。
 1500年に
 朝鮮に訪れた
 宗氏の使者は、
 11万5千斤の銅を持ち込むが、
 朝鮮は
 3分の1を買い取り、
 残りは持ち帰らせた。
 2年後、
 再度訪れた使者は
 残余の買い取りを迫ったが、
 朝鮮は
 綿布の交換レートを引き上げた上での
 3分の1の買い取りを提示し、
 交渉は物別れに終わった。
 翌々年、三度交渉するが不調
 1508年にもまた同様の交渉
 こうした大量の銅は、
 宗氏が新たに入手したものではなく、
 朝鮮が交易の制限を強化していく中、
 対馬・博多において
 大量に
 過剰在庫のモノ(銅)
 こうした
 交易の制限を巡る軋轢が繰返される中、
 宗氏は不満を募らせ、
 三浦の乱の一因となった
  ↓
 恒居倭の増加
  ↓
 交易従事者のみならず
 三浦に定住する
 日本人(恒居倭)
 は
 倭館の関限を超えて
 居住し、
 田地を購入して耕作
 朝鮮半島沿岸での
 漁業、密貿易など様々な活動
 朝鮮は、
 恒居倭の
 倭寇化を恐れ、
 検断権(警察・司法権)
 徴税権といった
 行政権を行使できず、
 日本人有力者による
 自治に任せるままであった
 朝鮮は恒居倭の増加を危惧し、
 宗氏に恒居倭を送還するよう度々要請
 宗氏は
 当初
 恒居倭を掌握しておらず、
 自身の支配下にある
 対馬へ送還
 1436年の送還により
 宗氏の支配下に
 ない者達が一掃され、・・・恒居倭?
 以降
 三浦は宗氏の派遣する
 三浦代官の支配するところとなった
 その結果、
 宗氏は送還に消極的になり、
 三浦人口は
 1436年の206人
 1466年には1650余人
 1494年には3105人まで急増
 恒居倭による
 漁場の占拠
 倭寇化
 密貿易の恒常化
 恒居倭と朝鮮人の癒着
 三浦周辺朝鮮人の納税回避
 朝鮮人水賊の活発化
 15世紀末
 朝鮮国は、
 恒居倭に対して
 辺将による納税の論告
 海賊行為者の逮捕と処刑
 検断権・徴税権行使
 1510年
 釣りに向かう薺浦の
 恒居倭人4名を、
 海賊と誤認した
 朝鮮役人が斬殺
 恒居倭人は
 この事態に憤慨し反撃
 4月4日
 対馬から
 宗盛順が率いる援軍
 約4500の兵力をもって
 三浦の乱
 を起こした
 倭軍は、
 釜山浦・薺浦の
 僉使営を陥落させ
 釜山浦では
 辺将を討取り、
 薺浦では生け捕りにした。
 さらに
 釜山浦から
 東萊城、
 薺浦から
 熊川城へ攻め進むが
 反撃に会い攻撃は頓挫
 4月9日頃
 倭軍は兵の一部を対馬へ撤退
 盛親は残りを薺浦へ集結させ
 講和交渉に臨もうとしたが、
 朝鮮は講和に応じず、
 4月19日
 朝鮮軍は薺浦へ攻撃
 薺浦は陥落
 倭軍は対馬へ撤退
 6月末
 倭軍は
 再度来攻するも
 撃退された
 日朝の国交は
 断絶状態
 宗氏以外の全ての
 受職人(朝鮮から官位を貰っている者)
 受図書人(通交許可を受けている者)
 に対しても同様
 1512年
 壬申約条により和解
 交易は再開され倭館も再び開かれた
 入港地は薺浦のみに制限
 歳遣船は半減、
 特送船の廃止、
 日本人の駐留の禁止、
 受職人・受図書人も再審査を受け
 通交は以前より制限
 その後、
 釜山浦も再び開港
 1544年
 蛇梁倭変が起こり、
 再び国交は断絶
 1547年
 丁未約条で
 交易が再開
 入港地は
 釜山浦一港に制限
 朝鮮と
 同格である
 日本国王(室町幕府)の
 使節の通交を
 制限するものではなかった
 宗氏は、
 日本国王使の
 偽使を仕立て上げ通交を行おうとした
 三浦の乱をきっかけに本格化することになった。
 偽の日本国王使派遣
 三浦の乱後の
 1511~1581年まで
 日本国王使は
 22回通交することになるが、
 本物の日本国王使は
 2回に過ぎず、
 20回は
 宗氏の仕立て上げた偽使であった
 日本国王使の派遣には
 朝鮮が室町幕府に発行する
 象牙符が必要であった。
 象牙符は
 大友氏と
 大内氏が所持するものであり、
 宗氏は
 両氏との関係の緊密化に腐心
 三浦の乱以前
 九州・中国地方の諸勢力も
 朝鮮から
 図書を受け通交
 三浦の乱を境に
 通交権は宗氏に集中
 日朝交易から締め出された勢力の一部は
 明人海商と結びつき、
 後期倭寇の一翼を担うようになる
 後期倭寇
 明国沿岸部で活動
 朝鮮半島沿岸部も活発に襲撃
 1588年
 豊臣秀吉の
 海賊停止令により
 倭寇が終息
ーーーーー
 ・・・階級社会の「国家エゴ・組織エゴ」は・・・つまり、「個人エゴ」・・・
 国家と「暴力団」の違い、国家と「テロ集団」の違いはナニか?・・・

天王のホシは保志・・・

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 「みうら→視裏」ならば、「三浦」を調べてミルか・・・その前に・・・みうら・・・「視る裏」・・・「御の裏」・・・「音の得等」・・・「音の理・恩の理・温の理」・・・「on の  back、behind」・・・「恩の背後」・・・」天王星・天上の・霊の=天文学上の(Uranus)」・・・「天体の(URANUS)」・・・「天(Uran)」・・・ウラン・・・うらみ・・・?
     ↓↑
 「徳川家康(松平元信→元康→家康)」は改名・・・
 通称は「次郎三郎」・・・
 この「通称名・通名」は
 一般的に使われる呼称の
 「通用名・仮名(けみょう)」ではないのではないか・・・
 「次郎-三郎」の連結は「次郎」でもあり、「三郎」でもある・・・
 「耳漏・痔瘻・自労」の「佐甫良・左文郎」・・・?
ーーーーーーーーーーーーーーーー
              ↓
 「里木 佐甫良(さとき さぶろう
  明治45年・1912年3月31日~1999年12月23日)は、
  山形県山形市八森出身の日本の俳優
  旧制山形県立山形中学校(山形県立山形東高等学校)を
  卒業
  1930年に上京
  1931年
  日本俳優学校
 (歌舞伎役者
  六代目尾上菊五郎が設立した四年制の学校)
  へ二期生として入学
  同期には
  山形勲、植村謙二郎、加藤嘉、三津田健
  その後は
  日本楽劇協会演劇研究所
     ↓↑
 (山田 耕筰が設立)・・・?・・・に在籍
     ↓↑
  「ペチカ・赤とんぼ」などの童謡の作曲
  1930年(昭和五年)
  耕作から耕筰へと改名
  1936年(昭和十一年)
  レジオンドヌール勲章受章
  1937年(昭和十二年)
  相愛女子専門学校(相愛大学)教授に就任
  1940年(昭和十五年)
  演奏家協会を発足させ、会長に就任
  同年11月にオペラ「黒船」(初の題名は「夜明け」)初演
  1941年(昭和十六年)
  情報局管轄下の「日本音楽文化協会」発足、副会長就任
  音楽挺身隊を結成し、占領地での音楽指導
  将官待遇となりしばしば軍服姿で行動
  1942年(昭和十七年)に帝国芸術院会員
  1944年(昭和十九年)に日本音楽文化協会会長
  ・・・終戦後、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に
  「戦犯論争」・・・1948年(昭和二十三年)脳溢血で倒れる
  1950年(昭和二十五年)日本指揮者協会会長就任、放送文化賞を受賞
  1956年(昭和三十一年)文化勲章受章
  サインには
    「Koscak Yamada」と綴りを使用・・・
     ↓↑
  浜田 広介は、山形県高畠町出身の童話作家・・・
     ↓↑
  『赤い蝋燭と人魚』は、
  1921年(大正十年)に発表された
  小川未明の創作童話
  ・・・なるほど、「広介、耕作」の違いである・・・
    「未明」にも混乱・・・
     ↓↑
  濱田 耕作
 (はまだ こうさく
  もしくは浜田 青陵(はまだ せいりょう)
  1881年2月22日 - 1938年7月25日)
  日本の考古学者。
  京都大学名誉教授(京都帝国大学総長)。
  岸和田藩の上級藩士である
  濱田家の長男として
  大阪府岸和田市に生まれた。
  「青陵」は号。
  「日本近代考古学の父」と呼ばれる
ーーーーーーー
     ↓↑
  里木 佐甫良(さぶろう)
  1944年に陸軍移動演劇隊に入隊
  満州および北支・中支前線を慰問で廻った
  戦後は東宝劇団、劇団東京、
  二代目
  曾我廼家五郎劇団
  劇団東芸(設立参加)
  俳協などに所属
  昭和30年代からテレビドラマや映画で脇役として活躍
  晩年は
  伊丹十三監督作品の常連俳優
  デビュー当時の芸名は
 『里木三郎』
  1960年代中盤頃に
 『里木佐甫良(さぶろう)』に改名
  1998年12月23日、死去。87歳没」・・・
     ↓↑
 「二郎三郎」・・・
 コレをもっと、イジって遊んでみると・・・
 「二+三」が「五郎」
 「三-二」が「一郎」
 「二×三」が「六郎」
 「三÷二」が「1+(1/2)」・・・「1.5」で
 「二÷三」なら「2/3」・・・・・・「0.666・・・」で
 割り切れないナイなぁ~ッ、
 「レイのテン(コンマ)の後はロク出の連続」・・・
 
 文字通りの前代の親の名を「通す称」・・・連ねる名?
 ・・・・ナンで、「次郎+三郎」・・・かは、
         「次男の子供」の「三男」・・・?
 松平家の祖始・「世良田親氏」が
 「世良田親氏=松平三郎親氏=松平次郎三郎親氏」、
 松平次郎+三郎+親氏=松平三郎親氏→「次郎」が缺落?
 輩行名=兄弟順を表す名称・輩行は一族の同世代の者・通常は兄弟のこと
   「長男=太郎・次男=次郎・三男=三郎・・・」
 ・・・松平次郎(次男)の子供の三郎(三男)の親氏
      父祖の次男→親の三男→子供(本人)の親氏→孫
 源「九郎」義経は
 源義朝の「九男=九郎」・・・だが、
 「九郎冠者」・・・「冠者(かじゃ・カンジャ)=成人男子)」
           ・・・召使い・下僕
  苦労患者・黒鵜冠者=鵜飼い・・・間者→忍者
 「猿面冠者」は「太閤豊臣秀吉」 
 ・・・諱・字・号・諡・法号・戒名・輩行名・本籍・・・
 あだな=渾名・仇名・綽名
  ↓↑
 以下の原文は「輩行名とは - goo Wikipedia (ウィキペディア) 」
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E8%BC%A9%E8%A1%8C%E5%90%8D
  ↓↑
 嵯峨天皇が第一皇子以下に対して
 太郎、次郎、三郎といった幼名を授けたことに由来
 中国においては、実名(諱 -いみな)で呼びかけることは
 親や主君などのみに許され、
 それ以外の人間が呼ぶ時は
 「字(あざな)」と呼ばれる、本名とは別の名前を使った
 日本においても本名で呼ぶのを避け、
 代わりに
 「仮名(けみょう)」と呼ばれる通称を用いた
 この仮名として、輩行名が使われた
 時代が下った後も武士階級、町人階級問わず広く用いられた
 武士階級が「仮名」なのに対して、
 「諱(いみな)=実名」・・・忌名(いみな)
 を持たない町人の場合は
 「本名」として用いられた
 同姓同名が多くなり、
 1文字あるいは2文字を付け加える場合もあった
 源義家の八幡太郎、
 源義綱の賀茂二郎、
 源義光の新羅三郎
 などである
 必ずしも出生順と一致せず、
 宇喜多秀家は「次男」であるが「八郎」であったり、
 茶屋四郎次郎のように代々襲名される場合もあった
 (「四郎次郎」は「四郎の次男」の意味)
 仇討ちの曾我兄弟の場合は、
 兄の祐成が「十郎」、
 弟の時致が「五郎」
 先に生まれた側室の子を差し置いて
 正室の子が太郎を名乗る場合も多い
  ↓
 北条時頼・・・北条時氏の「次男」、通称は五郎
  の
 「次男」の
 北条時宗が
 「相模太郎」・・・?・・・正室(継室)の子
 「長男」の
 北条時輔が
 「相模二郎」・・・?・・・庶兄・側室の子
 を名乗っている
  ↓
 数字で
 「十一」以降は「郎」の字をつけない場合もあり、
 那須「与一」は
 「十一男」であり、
 「与一」は「十あまり一」の省略
 「三十郎」や「三四郎」は実在の人物で
 この輩行名を名乗った記録は無い・・・
ーーーーー
  ↓↑
 家康
 幼名は「竹千代」
 「得川(えがわ→とくがわ)」、
 ・・・ナンで、「世良田(せらた・せらだ)」が出てくるんだか・・・?

球菜・キャベツ・cabbage・キャ-ベツ=「伽・脚・佉」-「別・捌・滅」

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 「限界集落株式会社・NHK・土曜ドラマ」
 生きている限りヤルことはあるサッ・・・「小ブル社会」・・・
 ・・・キャベツ・cabbage・球菜・・・「タマナ」・・・
 起業、倒産の「バランスリスク」は・・・「流通市場の価格」・・・
 「限界小ブル意識人間協同会社」・・・
 ・・・「ミウラ」ですか・・・「氷点」・・・「憑点」・・・
  ↓
 三浦 綾子(みうら あやこ)
 1922年(大正十一年)4月25日
  ~
 1999年(平成十一年)10月12日
 日本の女性作家、小説家、エッセイスト
 北海道旭川市出身
 旧姓堀田
 結核の闘病中に洗礼を受けた後、創作に専念
 ・・・ぃやぁ~ッ・・・文献を調べて視るだけでも大変・・・
 ・・・「みうら」さん・・・
ーーーーー
  ↓
 「ウイリアムアダムス」が
 「徳川家康」と出会い(1600年)、
 「三浦」一族の「氏姓」を得る以前的な流れは・・・?
  ↓
 家康とは何者・・・タヌキ・・・
 幼名は「竹千代」
  ↓↑
 「得川(えがわ→とくがわ)」、
 ・・・ナンで、「世良田(せらた・せらだ)」が出てくるんだか・・・?
  ↓
 松平 親氏(まつだいら ちかうじ)
 室町時代初期の
 三河国の武将
 江戸時代に作成された系譜において
 松平氏・徳川氏の始祖とされている人物
 「松平氏由緒書」では名を
 「信武」と記している
 系譜
 新田源氏
 「世良田」氏の末裔
 新田義重の四男
 義季が
 新田荘徳川に住して
 得川(えがわ→とくがわ)を称した
 義季の二男は
 「頼氏」といい、・・・「頼山陽」に関係するんだか?
 「世良田-弥四郎」と称し、
 三河守となった
 その二男を
 次郎教氏、
 その「教氏」の子が
 「又+二郎+家時」、
 家時の子が
 「弥次郎-満義」である
 満義のあとを
 政義、親季、有親と継いで
 有親の子が
 「世良田親氏=松平三郎親氏=松平次郎三郎親氏」という
  ↓↑
 この系譜は徳川家康が
 永禄九年(1566年)に
 叙任奏請をする際、
 世良田氏の系譜と
 自らの系譜をつなげた・・・
 (日本史学者、渡辺世祐の論証)
 ・・・学界では家康によって粉飾された系譜・・・
 家康の祖父
 清康がすでに
 世良田氏を称していて、家康はその影響を受けた・・・
 親氏は関東(or信濃国の浪合村)で
 鎌倉公方(or斯波氏)の軍勢に敗れ、
 足利氏の追捕を避けるために
 父の
 有親とともに
 相模国の
 時宗総本山
 清浄光寺に入って出家し、
 徳阿弥(とくあみ)と称した
 「乞食僧」、「一種の賤民」・・・
 しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは
 「武徳大成記」成立後の
 元禄期以降であることが、
 煎本増夫により明らかにされており、
 後世になってから作られたもの・・・
 徳阿弥は部下の
 石川孫三郎を従えて諸国を流浪し、
 三河国
 加茂郡
 松平郷に流れ着き、
 在原氏 or 賀茂氏の血筋を引く
 同地の領主
 松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となった
 信重は
 徳阿弥の
 和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子とした
 徳阿弥は還俗して
 松平三郎親氏(次郎三郎とも)と名乗った・・・
 「松平氏由緒書」では
 信重から先祖を尋ねられた親氏が、
 「わたくしと申しますのは
  東西を定めずに旅する
  浪々の者でありまして、
 恥ずかしく存じます」と返事をしたとする・・・素性不明
 松平郷の領主となった
 親氏は、
 郷敷城を築き、
 嫡子(兄弟説もある)とされる
 泰親と協力して
 「中山七名」と呼ばれる
 近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して
 戦国大名松平氏の基礎を築いた・・・
 しかし、「松平氏由緒書」の記述から、
 実際には買得によって土地を獲得した・・・との説もある
 親氏は
 領内に菩提寺となる
 高月院を初めとして多くの神社仏閣を建立
 以上のような
 親氏の出自と事歴については、
 後世の松平氏・徳川氏の主張に拠っており、
 傍証となる同時代史料は無い・・・
 生没年
 親氏は「松平氏由緒書」によれば、
 急逝
 地元の松平町(豊田市)の伝承では
 明徳四年(1393年)頃に没した・・・
 親氏の没年月日の伝承は
 10通りある・・・
 康安元年(1361年)4月20日
 (「法蔵寺由緒」・「大樹寺記録」・「奥平家記録」)
 応永元年(1394年)4月20日(『三河海東記』)
 応永元年(1394年)4月24日(『高月院記』)
 応永二十年(1413年)(「信光明寺縁起」)
 応永二十一年(1414年)(「松平総系譜」)
 応永二十八年(1421年)(「参陽松平御伝記」)
 応永三十五年(1428年)(『東栄鑑・八)
 永享九年(1437年)(「瀧村万松寺系図」「梁山妙昌寺位牌」)
 康正二年(1456年)(『大三河志』)
 応仁元年(1467年)4月20日(『徳川歴代記』)
 生年には
 永仁六年(1298年)説(「大樹寺記録」)
 元弘二年/正慶元年(1332年)説(「高月院過去帳」)
 など・・・
 後に松平氏の重臣となる
 酒井氏の系譜によると、
 同氏の始祖広親は、
 親氏が松平氏を
 継ぐ以前に
 三河国
 碧海郡
 酒井村の領主の婿となって生んだ子である・・・
 この説に従えば
 酒井氏は松平氏の同族・・・
 他説
 松平信重の長女が
 坂井郷に嫁いだことによって生じたものであるとされる。
 いずれにしても
 松平、酒井両氏は縁戚にあたる・・・
  ↓↑
 「徳阿弥親氏」銘板碑
 享和元(1801)年
 境内の竹林から
 徳川将軍家の先祖をさす
 「世良田徳阿弥親氏、
  応永一四年四月廿日」銘の板碑が発見されたが、
 「応永十四年」を「応永一四年」と
 記載することは
 中世にはありえないことであるという。
 島津氏によって自らの先祖と主張する
 源頼朝の鎌倉の墳墓が整備されたり、
 毛利氏によって
 大江広元らの先祖の墓が整備された
 19世紀初頭頃の状況と酷似しており、
 先祖作りの創作の可能性が高いという
 (現在は非公開)
 ・・・??・・・
  ↓↑
 ・・・「太安万侶」の墓碑
 1979年(昭和54年)1月23日
 奈良県立橿原考古学研究所より、
 奈良県奈良市
 此瀬町の茶畑から
 安万侶の墓が発見され
 (北緯34度39分55.0秒東経135度54分25.0秒)、
 火葬された骨や真珠が納められた
 木櫃と墓誌が出土したと発表された。
 墓誌の銘文は2行41字。
 左京の四条四坊に居住したこと、
 位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、
 養老7年7月6日に歿したことなど記載。
 墓誌銘全文引用は以下の通り。
  ↓↑
 左亰四條
 四坊
 従四位下勲五等
 太朝臣安萬侶
 以
 癸亥年七月六日
 卒之
 養老七年十二月十五日乙巳
 ・・・コレも、あやしい・・・のでは・・・
ーーーーー
  ↓↑
 徳川氏は、
 松平氏当主の徳川家康が創始した苗字で、
 松平氏の伝承によると、
 ルーツは三河国(愛知県)の
 庄屋である
 松平太郎左衛門信重に
 婿養子に入った、
 時宗の遊行僧と伝えられる
 徳阿弥である
 彼は
 清和源氏系
 河内源氏義国流
 得川氏
 (徳川氏、
  世良田氏)・・・世良田(せらた、せらだ)
          セリョウデン=芹生伝・施了傳
 の末裔
 浪人となり
 大浜称名寺
 で開かれた
 連歌会での出会いが
 信重の養子に入るきっかけと伝えられる
 (父祖の地
  上野国新田郡
  徳川郷の
  時宗寺院、
  徳川満徳寺は
  後に
  縁切寺とされた)
 還俗して
 松平親氏と名のった
  ↓
 三河国に興った松平氏は、
 松平清康のとき、世良田氏の後裔を称する。
 清康の孫である
 家康は、朝廷に働きかけて
 世良田氏=得川氏=新田氏=清和源氏の
 末裔であるとの公認を得ようと目論むが、
 世良田氏ではなく、
 世良田義季(得川義季)の末裔ではあるが、
 藤原氏支流と自称する徳川氏として、
 改姓の勅許を受けた
 のちに系譜を改めて整理し
 徳川氏は
 世良田氏直系の
 源姓で
 得川氏を復活した氏族であるということにされ、
 家康は征夷大将軍に就任した・・・
ーーーーー
  ↓
 三浦一族
 宝治合戦(ほうじかっせん)
 鎌倉幕府の内乱
 執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立
 宝治元年(1247年)6月5日
 鎌倉での武力衝突
 北条氏と
 外戚
 安達氏らによって
 三浦一族とその与党が滅ぼされた
 三浦氏の乱とも呼ばれる
 経過を記述する史料は、
 「吾妻鏡」のみ

 三浦氏(みうらし)
 平安時代の
 相模国の武家
 三浦党(みうらとう)とも呼ばれる
 三浦氏は古代から
 三浦半島に勢力を持った
 在地豪族
 相武国造の子孫の
 太田部直氏で、
 平姓
 三浦氏は、
 為通・為継・義継・義明・義澄・義村
 の
 6代に渡って一族を形成
 平良文の曾孫である
 平忠通(別説として忠光)の代に
 初めて三浦の苗字を名乗った
 浦為通は
 前九年の役
 源頼義から
 相模国三浦の領地を与えらた・・・
 実在を疑う説も・・・
 安西氏・宮沢氏
 為通の次男・為俊の息子である
 為景は安西氏を称した
 為俊の養子である
 公俊は宮沢氏の祖
  ↓
 三浦為継
 為継の三男・通継は平子氏を称し
 周防三浦氏の祖となり、
 四男・景継は
 安西氏の養子となった
  ↓
 三浦義継
 為継の子
 三浦義継(1067年-1159年)は
 相模国三浦郡を支配し、
 三浦荘司また三浦介を称した
 以降、三浦党は
 相模の有力在庁官人として相模介
 相模東半分と安房に勢力
 嫡男は
 三浦義明
 次男の義行は
 津久井氏と称した
 三男の
 為清は
 蘆名氏を称し
 孫の
 石田為久は
 木曾義仲を討ち取った
 四男の
 義実は
 岡崎氏を称し、
 その嫡子
 佐奈田義忠は
 石橋山の戦いで討ち死
 次男の
 義清は
 土屋氏の養子
  ↓
 三浦義明
 義継の嫡男
 三浦義明(1092年-1180年)は
 義澄とともに
 1156年の
 保元の乱
 1160年の
 平治の乱で
 源義朝に従う。
 平治の乱では義朝が敗れ、
 三浦一族は、京都から落ち延び帰国
 大番役の行き帰りに
 源頼朝の配所を訪ね、源氏との繋がりを保った
 義明は父にならい
 三浦介と号し、三浦荘(神奈川県横須賀市)
 の在庁官人を務める
 治承四年(1180年)
 頼朝の挙兵に応じて、三浦一族は挙兵
 石橋山の戦いで頼朝敗戦の報せを聞き、
 義明ら一族は引き返し、籠城戦、
 義明は一族を
 安房国に逃したあと、
 衣笠城合戦で戦死(享年89)
 義明の長男
 義宗は杉本氏を称するが39歳で没
 その息子
 義盛は和田氏を称した
 長男の義宗没後、
 家督は次男の
 義澄が継いだ
 三男の
 義久は
 大多和氏を称した・・・?
 四男の
 義春は
 多々良氏を称し、
 その息子
 家村は
 佐久間氏を称した
 五男の
 義季は
 長井氏を称した
 六男の
 義行は杜氏を称した
 十男の
 義連は
 佐原氏を称したが、
 宝治合戦で本家が滅んだ後は、
 この家系が嫡流となった
 また、
 猪苗代氏、北田氏、藤倉氏、蘆名氏、新宮氏、加納氏等、
 奥州で栄えた子孫もいる
  ↓
 三浦義澄(義澄流)
 家督を継いだ
 三浦義澄(1127年-1200年)は
 矢部次郎とも荒次郎とも号した
 義澄は
 千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に
 頼朝の宿老
 一族である
 和田義盛も侍所別当職
 三浦氏は頼朝に従い
 平氏追討・奥州合戦に参戦
 頼朝の死後は
 十三人の合議制のメンバー
 和田義盛も入り、
 三浦党は鎌倉幕府内で大きな権力を持った
 その後、
 北条氏により
 和田義盛は
 建暦三年(1213年)
 和田合戦で滅ぼされた
  ↓
 三浦義村(義村流)
 義澄の跡は長子の
 三浦義村(?-1239年)が継いだ
 義村の弟である
 有綱・重澄は、それぞれ山口氏、大河戸氏を称した
 義村は評定衆の宿老に就任
  ↓
 北条氏による滅亡
 義村の子には
 朝村、泰村、三浦長村、光村、三浦重村、家村、三浦資村、
 三浦胤村(のち親鸞の弟子)、
 三浦重時、三浦良賢らがいる
 義村の長男である
 朝村の末裔が
 今川氏の家臣である
 駿河三浦氏である・・・
 次男は
 三浦泰村(1184年-1247年)
 四男は
 三浦光村
 泰村と光村は権力を持ち
 北条氏を凌ぐほどになったため、
 宝治元年(1247年)の宝治合戦で
 北条氏と安達景盛らに滅亡させられた
 『吾妻鏡』は三浦氏を貶める為に曲筆がなされた・・・
 千葉胤綱が三浦義村の和田合戦での変節を
 「三浦の犬は友を食らうぞ」と非難したという
 『古今著聞集』のエピソードから、より口汚く
 「狂犬(マッドドッグ)」と評された
 三浦氏は鎌倉幕府内部において、
 評定衆として枢要な地位についていたが、
 その地位を『悪用』した
 滅亡後
 家村の末裔と言う
 正次が江戸時代に時の
 将軍
 徳川家光に仕えて若年寄となり
 下総矢作藩で大名に列し、
 明次の代に
 美作勝山藩に封じられ廃藩置県を迎えた
  ↓
 泰村の長男
 景村は
 若狭氏を、
 次男である
 景泰は
 沼田氏を称した
 三浦朝村の三男
 三浦員村は
 宝治合戦で惣領の泰村と共に自害したが、
 員村の次男
 三浦盛明は無事であり、
 その子
 三浦義継が
 石井氏を称した
 相模三浦氏による再興
 三浦氏は傍流の
 佐原氏の
 三浦盛時により再興
 盛時は宝治合戦前には既に
 北条時頼に懐柔・・・
 以降の三浦氏は御内人となって幕府内で活躍
 盛時の子の
 三浦頼盛は
 北条時輔の遺子を捕縛して幕府に引き渡している
 盛時によって再興された
 佐原流三浦氏は
 戦国大名の
 相模三浦氏
  ↓
 三浦氏の本拠があった
 横須賀市
 衣笠の
 衣笠商店街では「衣笠さくら祭り」で
 三浦氏に扮したパレードを
 毎年4月に見ることができる・・・?
 北条氏により滅ぼされた後、三浦氏の落人は各地に散った
 東北地方には地域の三浦姓の大本家として続く家が残っている
 宮城県
 本吉地方には、
 伝承として、
 三浦氏の落人たちが各地に散り散りになる時に約束したという、
 「その地に三浦氏の者が住む目印として、
  庭に
  三浦氏のシンボルである
  かやの木を植える」
 という風習・・・
 三浦氏の祭神である
 三浦大明神を祀っている家もある・・・?
  ↓
 大多和(おおたわ)氏・・・?
 桓武平氏三浦氏の一族
 三浦義明の子大多和義久が、
 領地(相模国三浦郡大多和村)の
 名前を名字として称したのが始まり
 義久の子
 義成は
 従兄の
 和田義盛の乱には、
 義盛に与せず北条氏について生き延び
 宝治合戦で一族の
 三浦泰村が謀反を起こしたときも、
 北条時頼に従っている
 1333年
 義久の5代目の子孫の
 大多和義勝(六左衛門尉義行)は
 新田義貞の
 鎌倉討伐に馳せ参じてその傘下に入り、
 戦功
ーーーーー
 ・・・

「人造人間・ロボット」にもオトルのか・・・クサイ・スカンク

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 ・・・「ロボット爆弾(鉄腕アトム)」以下の存在だな。「テロリスト」…「爆弾用ロボットが海底で自己増殖し、ロボット爆弾の王国」を築き「人間」より優れた存在だと信じ込んで「人間社会」と接触し、愚かな「人間社会」から去っていく・・・彼らには「「ウイスキー(Whisky)」ではなく、「hashish」が必要なんだろう・・・「黄色い馬(鉄腕アトム)」の「麻薬」も・・・「ZZZ総統(鉄腕アトム第11話)」 ・・・彼らには「毒ガスが必要」も必要だったんだろう・・・ニンゲンである「ZZZ総統」はアクビをするほどに「カイギ」に嫌気がサシていた・・・「双子の片割れ」・・・「地球連邦」・・・
 オマエラには、自分自身が吸い込む、この「瓦斯極楽」が必要だな・・・
 今夜(2/1月曜日)のNHK「クローズアップ現代・ピケティ」・・・「トリプルだぅん」・・・今更、ナニを・・・「タックスヘブン」・・・問題は「えご意識=プチブル意識」に勝てるのか・・・
 ブログで調べたら
  「ウイスキーの語源は、ゲール語の言葉、Uisge-beatha(ウシュクベーハー)」で、「いのちの水」の意・・・・「ゲール族とはヨーロッパ中西部に起った古代民族ケルト族のうち、海を渡ってアイルランドからスコットランド地方へ移住した一部族のことで、血族意識が強く、共通の祖先から出たクラン(氏族共同体)単位で生活していた。この末裔が現在のスコットランド人やアイルランド人」・・・「クラン内部で団結心を日々確かめ、強めるものこそが「ウシュクベーハー」と呼ばれる蒸溜酒でした。ウシュクベーハーは時代を経るにしたがって、Usquebaugh(ウスケボー)となり、やがてUsquaとなり、Usky(ウイスキー)に転化し、今日のWhisky,Whiskeyになった・・・
 「東征時代」、「日本戦国時代」、「列強帝国植民地時代」、「第一、二次世界大戦」・・・「東西冷戦時代」・・・ルールは「山賊」のにも「海賊」にもあったハズだが・・・劣る「国家間戦争の暴力現場」・・・ミンナ、ダレのタメにイノチを消耗していったんだろう・・・ 
 1572年~1620年の日本と朝鮮、中国の関係を「漢字」から探る・・・
ーーーーー
  ↓
 児=兒=臼+儿
    皃=白+儿=貌
       旧=「舊(キュウ・ク)」の略体が
          「旧」=「|」+「日」とは
          「Ⅸ」=「I」+「X」=「9」
 と同じ思考仕様だろう・・・じゃぁ「ⅩⅠ」=「11」は?・・・
 「壱拾壱(いち拾うイチ)・壱壱(いちいち)」・・・
 名前なら
 「与一」、「那須与一」
  ↓
 那須 与一(なす の よいち)
 嘉応元年
 (1169年)?
   ~
 文治五年八月八日
 (1189年9月19日?)
 系図上は
 那須氏二代当主
 父は那須資隆(太郎)
 妻は新田義重の娘
 本名の初名は
 宗隆(『平家物語』では宗高)
 当主に就任後は
 父と同名の
 資隆と名乗った・・・
 「与一」は「十あまる一」、つまり「十一男」を示す通称
 学問的には与一の実在すら立証できていない?・・・仮空の人物
 治承・寿永の乱
 源義経に従軍
 元暦二年(1185年)
 屋島の戦いで
 平氏方の軍船に掲げられた
 「扇の的」を射落とす
 源頼朝より丹波・信濃などの
 5カ国に荘園を賜った
 (丹後国五賀荘
  若狭国東宮荘
  武蔵国太田荘
  信濃国角豆荘
  備中国後月郡荏原荘)
  ↓
 十郎為隆を除く
 9人の兄達が、
 皆
 平氏に味方し、
 為隆も処罰され
 与一が
 十一男ながら那須氏の家督を継ぐ
 与一は信濃など各地に
 逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、
 下野国における那須氏発展の基礎を築いた
 山城国伏見において死去
 法名は
 即成院殿
 禅海宗悟大居士(即成院殿月山洞明大居士)
 『寛政重修諸家譜』では
 文治五年(1189年)8月8日死去
 『続群書類従』では
 建久元年(1190年)10月死去・・・
 家督は兄の
 五郎資之(之隆)が継承した
 後
 鎌倉幕府の有力御家人
 宇都宮朝綱の実子(異説もある)
 頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、
 その頼資の子が、
 建久四年(1193年)に
 源頼朝の
 那須の
 巻狩で饗応役を務めた
 那須野光資(『吾妻鏡』)・・・
  ↓
 那須与一
 治承四年(1180年)
 那須温泉神社に必勝祈願に来た
 源義経に出会い、
 父の
 那須資隆(太郎)が
 兄の
 十郎為隆と
 与一を源氏方に従軍させる約束・・・
 
 「扇の的を射る」
 与一に関する伝説は
 西国那須氏の庶流が関わっており、
 下野那須氏の間では
 も南北朝期の段階では
 与一の伝説は認識されていなかった・・・
 可能性も指摘されている
 弓の修行で
 「左右で腕の長さ」が変わってしまった・・・
  ↓
 「与市」、
 地名なら
 「余市」で、「小樽」か・・・マッさん・・・政孝・・・
 よいち・ヨイチ→予一・與市・夜市・酔痴・予一・良い地
ーーーーー
 =ウ+采
 サイ
 訓読み「ちぎょうしょ(知行所)、 つかさ(司)」
  ↓
 地(サイチ)
 古代帝王
 封給臣下的土地,即采()地
 ・・・「采→菜」
 「=官也」・・・・・・官有地=国有地
            「封建的領地」
  ↓
 「采女(うねめ)」
 天皇や皇后に近侍し、
 食事(膳部)など、
 身の回りの雑事を専門に行う女官の召使い
 平安時代以降は廃れ、
 特別な行事の時のみの官職となった
  ↓
 「うねめ」という言葉の語源
  ↓
 本居宣長の「嬰部(うなげえ)」説、
 荻生徂徠の「項意(うなゐめ)」説、
 賀茂真淵の「氏之女(うのめ)」説、
 壺井義知の「畝女(うねめ)」説
 など古来より諸説があるが、
 結論は出ていない・・・
 「采女(うぬめ)」という漢字を当てた理由は
 中国の
 後宮における「采女」を模したと思われるが、
 中国の采女は単に後宮における
 下位の妻妾を指す言葉であるため、
 配膳などの職掌や地方豪族の
 忠誠の証としての性格を持った
 特殊な存在である
 日本の采女とは意味合いが異なっている
ーーーーー
 朝鮮の役(1592年~1593/文禄の役)
 終了後に
 「鉱税の禍」
 1596年に起った
ーーーーー
 万暦帝(朱翊鈞)
 1563年
 明王朝
 第十三代皇帝
 隆慶帝の
 第3子
  ↓
 日本(永禄十年)
  ↓
 織田信長が
 天下布武の朱印状を使い始めた
  ↓
 隆慶帝(朱厚照)
 1568年
 即位
 佞臣(宦官や道士)による
 賄賂政治や汚職、
 国家財政の赤字を立て直しを試みた
 1572年
 隆慶帝死亡
 万暦帝が10歳で即位
  ↓↑
 「張居正」の
 行政改革、
 朝貢貿易を立前とした鎖国政策
 「戚継光」の
 軍事
 北虜(北方騎馬民族)
 南倭(海賊=倭冦の横行)
 を鎮圧
 十年分の
 余剰備蓄米
 余剰備蓄穀物
  ↓
 ・・・似ているのは「新井白石」・・・だが・・・
  ↓
 1582年
 張居正は死亡
 享年57才
 万暦帝は
 封号
 上柱国
 諡名
 文忠
 を贈
  ↓
 その後
 万暦帝の
 「佞臣・奸族」が
 「張居正」を
 誹謗中傷、弾劾
 万暦帝は
 張居正に与えた
 上柱国の
 封号も
 文忠の
 諡も剥奪
 「戚継光」をも左遷
  ↓ 
 言官を統括する
 都察院(秘密警察)の権限を拡大
  ↓
 モンゴル人将軍
 ボバイの反乱
 1592年
 豊臣秀吉の
 日本軍、大明征伐軍が
 朝鮮半島を席巻
  ↓ 
 豊臣秀吉の
 対明貿易再会
 明との交渉決裂・・・
 鎌倉幕府以来
 中国の明王朝と朝貢貿易
  ↓
 倭寇が
 中国沿岸部や朝鮮半島を襲撃
 明王朝(1368~1644)は
 正式に
 西暦894年以来、
 国交の絶えていた日本に使者
 対処しなければ
 遠征軍を送り、
 日本討伐を慣行すると通達
 日本の
 九州を勢力下に置いていた
 南朝方の
 「懐良親王」は
 使者に対して
 「日本は迎撃する」と
 拒否
 「懐良親王」は
 当時、
 北朝の
 足利義満と抗争
  ↓
 朝貢貿易
 明王朝の属国となれば
 明王朝との貿易を許可
  ↓
 倭寇の取り締を
 日本に依頼
 明王朝は
 属国を許す
  ↑
 豊臣秀吉が激怒・・・?
 朝鮮王朝は
 明属国の
 冊封国
  ↓
 李氏朝鮮の陸上兵力は
 7千人程度
 豊臣秀吉の兵力は
 15万
 明の
 万暦帝
 朝鮮に40万を派遣
 1年ほどで和平交渉成立
 日本軍撤退
 1597年(慶長の役)
 再開
 明では
 800万両以上の出費
 明国内
 「朝鮮の役(1592年~1593)」の間も
 「楊応龍 の反乱」が
 1600年まで継続後
 「鉱税」
 を開始
 「鉱税の禍」
 明では
 銀銭による交換通貨が安定供給
 当時
 中国に出回っていた銀は
 南米と
 日本の
 銀
 中国では古来より
 銅銭通貨が主流だったが
 明王朝では銅不足
 銅銭の供給量も不足
 鎖国政策が緩和され
 スペイン南米産の銀
 日本から密貿易の銀
 が中国に流入
 銀が通貨として使用
  ↓
 「一条鞭法」は
 銀で
 「一括納税(張居正の政策)」の義務
  ↓
 銀貨不足を
 「銀山、銀坑の採掘」で補おうとしたが
 元々国内における
 金、銀、銅の鉱山資源の枯渇が
 供給銀の不足が原因
  ↓
 「鉱税」政策は不調
  ↓
 明の国家体制
 官仕の
 任命権は皇帝の権力だが
 その任命をサボって
 中央・地方の役人、官吏、官仕は欠員
   ↓
ーーーーー
   ↓↑
 高 (こう さい、Gao Cai, 生没年不明)は、
 中国明代の宦官
 万暦帝・・・・・・・・???
 に仕える
 順天府文安県(河北省文安県)出身
 順天府文安県(北京市文安県)出身
   ↓
 大学士
 張位の時代に火災により
 二宮三殿が消失、
 その再建資金を目的に
 「砿税の徴収」が実施
 燕山衛指揮
 馮綱
 千戸胡志の上奏により
 福建に
 「高」が派遣され
 1599年
 (万暦二十七年)2月に着任
  ↓
 福建で高は民間からの搾取
 属官は高に従おうとしたが、
 漳州府知府
 「韓擢」
 海澄知県
 「竜国禄」は高に反発
 市舶司も兼任した
 高は
 船舶への課税を強化、
 その結果
 1602年
 (万暦三十年)
 海澄県で民衆反乱が発生
 そのため
 高は生涯再び
 漳州を訪れなかった・・・
  ↓
 1604年
 (万暦三十二年)に、
 Wybrant van Warwijck(nl)を指揮官とする
 オランダ艦隊が来航、
 高は
 オランダとの交易を計画したが、
 参将
 施徳政、
 沈有容
 らにより阻止
 1606年
 (万暦三十四年)に
 砿税中止の詔勅が出されたが、
 宦官による
 徴税活動は継続されその勢力を拡大、
 高は太監に任じられ
 緋魚服を下賜され、
 宦官の行為は一層過酷なものとなり、
 切断した
 「陽道=ペニス=陰茎?」の復活を目的に
 子供の脳を食べたとある・・・?
  ↓
 『五雑組』には福州において
 「生員」が・・・・・・・・・・・・・・・「生員」?
 高に対して
 武力闘争をおこしたという記事があるが、
 年代は記されていない。
 しかし
 1607年
 (万暦三十五年)
 11月に、
 戸科給事
 「中江灝」、
 福建巡撫
 「徐学聚」が上奏文を出し、
 高の不法を訴えている記録がある・・・
 1614年
 (万暦四十二年)、
 広東の税監
 李鳳の死去に伴い、
 後任として
 高が任官
 高は、自分の造らせた
 二本マストの船に乗って
 広東まで行ったものの、
 民衆の抵抗により着任することができなかった
 福建に戻った後、
 高の船は
 閩都督施
 「徳政」
 福建巡撫
 「袁一驥」らによって没収
 4月11日
 福建商人より
 高に
 未払いの
 商品代金支払要求が出されると、
 高は部下に命じて商人を攻撃、
 翌日
 商人は集団で抗議をしたが、
 高は、更に強行手段にで、
 福建巡撫
 袁一驥の役所に押し掛け、
 袁一驥と部下達を人質にした
 この闘争は
 皇帝より詔勅が出されるまで継続
  ↓
 民心不安を招いた
 高は
 万暦帝の怒りに触れて
 北京に召還されたが、
 その後の消息は不明・・・
  ↓
ーーーーー
  ↓
 万暦帝(ばんれきてい)は、
 在位期間
 1572年~1620年
 明朝の
 第14代皇帝
 諱は
 翊鈞(よくきん)
 廟号は神宗
 諡は
 範天合道哲肅敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝
  ↓
 日本では一般的に
 治世の
 元号を取って
 万暦帝と呼ばれる
  ↓
 万暦の中興
 隆慶帝の
 第3子
 10歳で即位
 即位直後は
 主席大学士(宰相)
 張居正の手腕により、
 両税法にかわる
 一条鞭法の導入
 無駄な官職の撤廃
 全国的な検地
 無用な公共事業の廃止
 などにより
 財政は好転し、
 満州の
 女真も
 李成梁により一時的に落ち着いた状態となり、
 内外政で大きな成果を上げた。
 帝自身も幼少年期には
 聡明利発で、将来の大器と目されていた
   ↓
 万暦十年に(1582年)
 張居正が死去
 親政を始めると一転して堕落し、
 寵姫
 「鄭貴妃」の偏愛による
 立太子問題が起きた。
 また日本の
 豊臣秀吉が引き起こした
 朝鮮の役においては、
 宗主国として朝鮮を援助し、
 それ以外にも
 寧夏の
 「ボハイの乱」
 播州の
 「楊応龍の乱」
 の鎮圧
 (朝鮮の役を含めて
  万暦の三征と呼称)
 などによって、
 軍制の腐敗と相まって財政は悪化
 顧憲成
 が復興した
 東林書院を中心とする東林党と、
 魏忠賢ら
 宦官勢力と結んだ非東林党の争い(党争)が
 激化して
 宦官が跋扈するようになり、
 また
 満州の
 女真も
 ヌルハチの下で
 明の遠征軍を破るなど強大化
  ↓
 しかし万暦帝は相変わらず政治に関心を持たず、
 国家財政を無視して個人の蓄財に走った。
 官僚に欠員が出た場合でも給料を惜しんで、
 それを補充しないなどということを行い、
 このために一時期は閣僚が一人しかいない、
 あるいは地方長官が
 規定の半数しかいないなどという異常事態
 さらに
 悪化した財政への対策として
 (あるいは自らの貯蓄を増やすために)、
 全国に税監と呼ばれる
 宦官の徴税官を派遣して厳しい搾取
 搾取に反対する民衆により
 税監たちが度々殺される事件が起こったが、
 万暦帝は最後まで廃止しようとはしなかった。
  ↓
 国家にとって不可欠な出費を惜しむ一方で
 私的な事柄には凄まじい贅沢をした。
 例えば
 鄭貴妃の子である
 福王
 朱常洵
 を溺愛し、
 その結婚式のために
 30万両という金額を使っている
 (張居正が政治を執っていた十数年に
  国庫に積み上げた金額が
  400万両である)
 このことで民衆の恨みを買い、後に
 朱常洵は蜂起
 ・・・
ーーーーー
 ・・・・

表裏の論理

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 「表裏」、「表」と「裏」
  表=物の二つの面のうち、主だったほう
     表面。また、外側
     他のものより前に位置すること
     前面
     顔面・顔
     おもて=うわべ・顔・顔つき・面影・様子
     容貌
     the surface
     the face
     the right side (衣類などの)
     the obverse [head]
  裏=二面ある物の、表面と反対側の面
     裏面(りめん)
     うしろ
     物体の、こちらからは見えない向こう側の面
     物体の、下になっている面
     面状のものの表側に対して反対側のこと・裏側
     筒状、球状のものの内側のこと
     建物などで正面の反対側のこと
     正規ではないこと、普通でないこと
     ↓
 「心裏」・・・・「心」にも「裏」があるとは・・・?
 「しんり=心裏=心裡」
       心のうち・心中
 ・・・「真理=真の理=加減乗除の数学」
 ・・・「心理=心の理=認識の論理(理論)」
 ・・・「存理=存の理=存在の論理(理論)」
   ↓       
 「うらめしい=恨めしい・怨めしい」
  「裏目思惟・裏盲目・有等盲目・浦召し遺」・・・?
   ↓
 (相手や状況に不満で)うらみたい気持ちだ
  うらみ言を言いたいほど憎らしい
 (自分に過失や不足があって)残念だ
 情けない
 盲目(めしい・めくら)
      ↓
    メシア
 ヘブライ語の
 「マーシアハ(משיח)」の慣用的カナ表記
 「(油を)塗られた者」の意
 「メサイア(Messiah)」 の英語発音
 ユダヤ教でメシアを自称した者
 キリスト教でメシアを自称した者
   ↓
 ・・・「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(マタイ傳第27章)」・・・
 「Eli, Eli, Lema Sabachthani?]
 「 My God, My God, why have you abandoned me?」
                        アバァンダァンヅ
 「My God, My God, Why Hast Thou Forsaken Me?」
                         フォセィケン
 「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ・・・・・
               捌 く多似(爾・児・邇・尼・仁・二)
               裁 く詫(わび)丹(タン)・荷(に)
              「佐波・差葉・鯖」句太爾(煮→者+灬)
  エリ ・エリ ・ラマ ・アザブタニ
  ελωι  ελωι  λιμα σαβαχθανει」
 旧約聖書
 「詩篇・第22篇」
 冒頭句「エリ・エリ・ラマ・アザブタニ」
 「エリ‐エリ‐レマ ‐サバクタニ
  ēli  ēli  lemā  sabachthani(ギリシャ語)」
 (ελωι ελωι λιμα  σαβαχθανει)
ーーーーー
 ・・・


エゴに与するニンゲン

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 階級「国家、国民」枠内の「利益・利害」ですか?・・・階級秩序枠内の諸「國家、國民」、各「国家、国民」ではなく、「人間」、「人類」、「地球人」、「宇宙人」としての「個々人」が抜けている・・・
 「市民社会」では「誘拐犯」には情報を提供しないのが鉄則だが・・・モチロン、「警察」は事件解決まで「不用意な発言」をしないのが「鉄則」であるハズだが・・・「ネゴシエイター・ネゴシエーター (negotiator)」の役割の原則は・・・
 外交官、派遣された高級官僚、そして「政治責任者」の・・・双方の「武力行使」は交渉決裂の最終手段だが・・・その「目的」は「階級維持の数の選択?」である・・・
 「0<1<2<3<4<5<6<7<8<9<10・・・・<一億二千万<・・・」・・・「一億総玉砕」はダレが望んだのか・・・「一億総玉砕」でダレが生き残ったのか・・・「国家」は滅亡しなかった・・・
 そして、相変わらず「悪知恵」をTV画面でシタリ顔で与えているのは「キャスター・コメンター・中東専門家」の「推理推測・妄想憶測」などの披露・・・奴らに逆手に取られているコトに「無自覚」なニンゲンは「ヨク、ネムレルんだろう」・・・「善人ほどヨク睡(眠・ネム)る」・・・
ーーーーー
 各新聞のニュース報道の概要・・・
 3日夜(日本時間4日未明)
  ↓
 過激組織「イスラム国」が
 ヨルダン(国)軍パイロットの
 モアズ・カサスベ中尉を「殺害」
 したとする映像は約22分間で、
 中尉が空爆した現場と
 空爆を受けたとする人々
 空爆参加国の国旗など
 の映像・・・
 檻に閉じ込められて
 油のようなものをかけられた中尉が、
 火を放たれ
 生きたまま
 焼殺したとする映像を
 インターネット上で公開
  ↓
 殺害は約1カ月前の
 「1月3日だった」
  ↓
 It reported that
 Moaz Kasasbeh was killed on January 3rd
 and
 he was already dead
 when Islamic State was negotiating
 with the Jordanian government
 over the release of Japanese hostage Kenji Goto.
  ↓
 ヨルダンの国営テレビは4日、
 「イスラム国」が釈放を要求していた
 サジダ・リシャウィ死刑囚ら
 計2人の死刑が執行
  ↓
 2015年02月04日 13時13分
ーーーーー
 ・・・

「ぱうろ・まるこ」のケンカ

$
0
0

 ・・・緊急地震速報、四国徳島県南部10時25分頃・・・「数字」は「抽象概念・一般概念・相互共通概念」として「認識対象のモノの変化」の「質」と「量」を教えてくれる「コトバ」である。キリストの比喩としてのハナシは至極アタリマエで現実社会で「生きている人間」の「損得」、あるいは「リスク」を語っている。
 「両目を失うよりは片目」、「両手を失うよりは片手」、「両足を失うよりは片足」、「両耳を失うよりは、片耳(?)」、「命を失うよりは持病(?)」の方がイイのである、と・・・もちろん、「天国へ逝く条件」で、「五体満足・健康」で「地獄の奈落で炎で焼かれる」よりは「マシ」である、と説教しているのだが。これらの「比喩(?)」は「カタワ」になっても「生きているコト」の方が大切なのだと「現実」の「生き方」を言っているに等しい・・・
 キリスト・・・「マタイ(27:28)」では兵士に支給されていた「赤いマント」を着せられた・・・
ーーーーー
 マルコ(イタリア語: Marco)
 男性名
 ラテン語
 Marticus(マルティクス)が語源
 省略形の
 Marcus(マルクス)
 ローマの軍神のマルス(イタリア語でマルテ)
 スペイン語のマルコス
 フランス語のマルク
 英語のマーク
 チェコ語、ポーランド語はマレク
 ・・・マルコ・ポーロ(Marco Polo・1254年9月15日~1324年1月9日)・・・ヴェネツィア商人・・・毛皮貿易のクリミア(タウリカ→ウクライナ領内の自治共和国→クリミア共和国?)へ・・・「タウリカ (Tauris) 」・・・?
 ケルソネスス・タウリカ (Chersonesus Taurica)
 ロシア語化したものが
 「タヴリダ (Таврида) 」・・・?・・・
 「タウリカ (Tauris) 」
   ↓
 「多ウリ化」→「田邊(辺)里(吏)拿」
         田邊藩(田名部版)の吏を拿
 「他部理隋(妥・拏・拿=ひく・つかむ・ダ・ナ)」
 「多(太)部の理の隋(ダ・ズイ)」
          ↓
 「隨(ズイ・スイ・したがう=従う・遵う
         =随う→随行(ズイコウ)
               →図以降
               →瑞光)」
 紀元前480年~438年まで
 アルカイアナクス家が統治
 後
 トラキア人の僭主、
 スパルトコス(在位紀元前438年~431年)が支配
 王朝が
 紀元前110年頃まで継続・・・
 マルコ・ポーロの
 「東方見聞録(The Travels of Marco Polo)」
 写本名は
 「イル・ミリオーネ (Il Milione)」
 「世界の記述 (Divisement dou monde)」
 「口述」・・・
  ↓↑
 828年
 ヴェネツィア商人はアレクサンドリアにあった
 マルコの聖遺物(有翼のライオン像?)を、
 ヴェネツィア共和国(ヴェネツィア)に運んだ
 聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となった
 ヴェネツィアの国旗
 聖マルコを指す聖書を持った有翼の金のライオン
 「エゼキル書(旧約)のライオン」
  ↓
 タロットカードの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88
  参照
  ↓↑
 アントワーヌ・クール・ド・ジェブラン
 「太古の世界」を著し、
 タロットのエジプト起源説・・・
 最初の職業タロット占い師
 エッティラが
 1783年~1785年
 新解釈の
 タロットカードの
 体系的なタロット占いとした・・・
 1770年
 エッティラが著した書物
  ↓↑
 「逆位置(リバース)」
 「小アルカナの4スートに、四大元素の当てはめ」
 「占星術との結びつけ」
 「大アルカナから
  3枚を除いた
  19枚に7惑星や12星座との関連」
 を与えた・・・
 「エッティラ版タロット」デッキの作成
 このデッキは
 ヘルメス哲学、
 錬金術、
 四大元素の火・水・風・地
 旧約聖書、
 ヌメロジー(Numerology)=数秘術
 なども取り込んだ・・・
 ピタゴラス、プラトンなどの
 数学
 西洋占星術
 タロット等とも結びつき、
 ユダヤ教の
 カバラの書物
 ルネサンス期ヨーロッパは拡散
 ↓↑
 ヴィスコンティ・スフォルツァ版の
 タロットカードは
 1442年~1447年の間に作られた・・・?
 15世紀前半の北イタリアで製作(エステ家の記録)
 タロット占いの記録文献は
 18世紀(エッティラ)以降
 聖書を持った有翼の金の「ライオン」
 ライオンが描かれているカードは、
  ↓↑
 戦車(The Chariot・Ⅶ・7
            七・漆)
 運命の輪(Wheel of Fortune・Ⅹ・10
               十・拾・足)
 力(Strength・ⅩⅠ・11
           十一・拾壱・壱壱
           壱拾余壱・与一)
           マルセイユ版
 or
 力(Strength・Ⅷ・8・八・捌)⇔正義
           ウェイト版
 世界(The World・ⅩⅩⅠ・21
             二十一・弐拾壱・弐壱)
 である・・・
 ウェイト版の
 愚者(The Fool)の
 カード番号は「0」
 マルセイユ版は
 カード番号が書かれていない
 ウェイト版タロットの
 次の
 番号(1)のカードは
 「魔術師」
  ↓
 大アルカナ(22枚)
 0   愚者・・・無数字
 I   魔術師
 II  女教皇
 III   女帝
 IV  皇帝
  V    教皇
  VI   恋人
  VII  戦車
  VIII 正義・・・ XIと逆
 IX    隠者
  X    運命の輪
  XI   力・・・・ VIIIと逆
  XII  吊された男
 XIII  死神・・・無記名
 XIV   節制
 XV    悪魔
 XVI   塔
 XVII  星
 XVIII 月
 XIX   太陽
 XX    審判
 XXI   世界
 「0」は番号無表示の場合もある
 元々は番号が割り当てられていないか
 「22」であったが、
 ウェイトが初めて「0」とした
 マルセイユ版など
 伝統的な物の場合
 ウェイト版の影響をうけたタロットでは
 「VIII」と「XI」が逆になっている
 「XIII」は無記名のモノもある
  ↓↑
 大聖堂名はサン・マルコ大聖堂
  ↓↑
 ・・・「マルコによる福音書」、「マタイ、マルコ、ルカの共観福音書」の「第二福音書=マルコ伝」、「Marcus」、「馬(瑪)可傳」・・・これは「馬子伝⇔蘇我馬子伝」だろう・・・石舞台は空だったけれど、「チビまる子」ちゃんはドウ、考える・・・
  ↓↑
 「マルコ(馬可・瑪可)福音書」
 本文には著者を「マルコ(ヨハネ)」に
 同定するものはない・・・「余ハネ」・・・?
 第二福音書(マルコ福音書)の著者は
 「ペトロ」の通訳を務めた弟子で、
 「ペトロ」からイエスの生涯について聞き取った
 「マルコ(ヨハネ)」であるとされてきた・・・
 「マルコ」は
 イエスを直接知る人々から
 イエスについての証言を聞いた・・・
 「パピアス」の資料は現存せず、
 カイサリアの
 「エウセビオス」の引用によってのみ知られている
   ↓
 「長老たちによれば、
  マルコは
  ペトロの通訳になり、
  ペトロの記憶していたことを
  忠実に記録したという。
  しかし、それは決して
  イエスの生涯における
  時間の流れに正確に沿ったものではなかった。
  マルコ自身は
  イエスに会ったことはなく、
  ペトロから
  イエスについて聞いたのである。
  しかし
  ペトロの言葉も
  聴く人々のその時々の
  必要に応じたものであって、
  決して
  イエスの言葉を
  体系的にまとめることを意図していなかった。
  マルコ自身に関していうなら、
  彼はペトロから聞いたことを
  忠実に記録し、
  決して
  自ら
  加筆修正することはなかった」
 ・・・「又聞き(また聞き・マタギキ・亦聞き)」と言う事か・・・兎に角、「ヘブライ語」を「ギリシャ語」に置き換えるコトが伝道者の悩みであったろう・・・
 ボクのオヤジのカタミの
 「マルコ伝(馬可聖福音書叙言)」には
 「第二福音書の記者マルコ、一名、ヨハネの事蹟は使徒行録、及びパウロ書翰の中に見えて・・・云々」、
 「パウロ、バルナバの両人の第一回傳導旅行に従いしがマケドニア國の布教に従う事を否みし為、一時、
 バルナバと
 パウロの争論の種となり・・・バルナバと布教・・・又再びパウロと會い・・・云々」
 とあるから、「パウロ(サウル・ギリシャ系ユダヤ人)」とも縁が深かったハズだが、問題は「ギリシャ人・ギリシャ語」⇔「ローマ人・ラテン語」である・・・布教の対象は「ローマ帝国の人々」であった・・・「ヨハネ(マルコ・ヘブライ語人でギリシャ語通訳者)はパウロの最初の宣教旅行にバルナバと同行したが、パンフィリア州から一人、エルサレムへ帰ってしまった。パウロ(ギリシャ語系人)はこのことを根に持っており、第二回宣教旅行ではパウロがマルコの同行を拒否してバルナバと喧嘩別れしてしまう。マルコは結局バルナバと共にキプロス島へ向かった。これは西暦50年頃のことと推定される。使徒行伝ではマルコについての記述はここで終わっている」・・・
 「パウロ」はローマの属州「キリキア(Cilicia)」
         キリキア=トルコ南部にある、
         地中海に面した一地域の名前
         地中海をへだてて
         キプロスと向かい合い、
         南東部に
         シリアが位置する地域
         北は、
         カッパドキアと接している
 の州都
 タルソス生まれのユダヤ人で
 「ローマ市民権」の保持者。
 「サウロ」はユダヤ名であり、ギリシア語名では「パウロス」・・・キリストの最初からの弟子ではなく、キリスト弾圧者で、イエス死後に「ダマスカス(Dimashq・シャーム=sham・アッシャーム=ディマシュク・アッシャーム (Dimashq ash-Sham)・シリア・アラブ共和国の首都)=ダマスコ」への途上で「回心(幻聴・幻覚・啓示で?)」した人物である・・・「眼から鱗」・・・「アナニア」・・・「阿那邇夜志愛-袁登賣袁(おとめ)」、「阿那邇夜志愛-袁登古袁(おとこ)」・・・「騙す化す」・・・?・・・
 以下はボクの「パウロ考」・・・ヒマならトライしてミル
  ↓
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/hancyuron/hancyuron2.htm
ーーーーー
 数字(numeral)
 数(数値・数量・number)
 を表現するための
 記号(figure,digit)
 および
 文字(character・letter)
 アラビア数字の 1, 2, 3, 4, 5, ...
 と
 ローマ数字の I, II, III, IV, V, ...
 とは
 異なる数字だが、
 同じ数を表す
 数を表す語は数詞
 数を表す数字の
 記号(figure, digit:例はアラビア数字)
 と
 文字(character, letter:例はローマ数字)
 とを区別される
    「西暦年号」に「0」年はない
    ←5←4←3←2←bc1ad→2→3→4→5→
  「0」から始まる「±」 
 -←-5←-4←-3←-2←-1←0→+1→+2→+3→+4→+5→+
  この場合「0」は「±」は関係なく「加減実数変化のメモリの起点」で、
 「-1+1=0」、「-2+2=0」、「-3+3=0」、
 「-4+4=0」、「-5+5=0」・・・
 本来の「0」は「全部」というコトである。
 当然、
 「(X数)×0=0」、「(X数)÷0=0」
 「0」に「乗除」された「数」は「0」である。
ーーーーー
 「カネ」を借りて「モノ」を買い、その「モノ」で損するヒト、得するヒトを動かすモノ・・・「損得勘定」か「尊徳感情」か・・・博奕感情、エゴ勘定・・・イズレ、破綻の「塞翁が馬」・・・
  ↓
 ウォール街大暴落(Wall Street Crash)
 1929年に発生した株価大暴落
  ↓
 ブラックマンデー(Black Monday)
 1987年10月19日
 史上最大規模の世界的株価大暴落
  ↓
 リーマン・ショック
 2008年9月15日
 アメリカ合衆国の
 投資銀行
 リーマン・ブラザーズが破綻
 (Bankruptcy of Lehman Brothers)
 続発的に世界的金融危機が発生
ーーーーー
 ・・・

棺・柩・日嗣・火継・緋嗣・・・日次・筆技のマルコ・・・

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 ・・・「馬可傳・瑪可傳」・・・これって、「馬鹿・莫迦・葉化・墓」の「伝え」か、それとも「瑪瑙・めのう」の「メノウ(瑪瑙・碼碯・agate・アゲート・アゲット・onyx・オニックス)」で、「縞状の玉髄の一種で、オパール(蛋白石)、石英、玉髄が、火成岩あるいは堆積岩の空洞中に層状に沈殿してできた、鉱物の変種である・二酸化ケイ素・三方晶形・微晶質・潜晶質」・・・「瑪瑙の名前は、石の外観が馬の脳に似ているため。英語の agate は、ギリシャ語の achates に由来し、これはイタリア・シチリア島の同名の川(Acate、現名はディリッロ川)でこの石がとられていたためである」・・・「瑪」は、「女真族の姓」、「瑙」は「龍瑙=龍脳」と同じで、「龍脳樹という香木」・・・らしい・・・
 今現在の問題は「メノウ」の音だが・・・「女(眼・目)能生」は「子・嬰児」で・・・「視覚」・・・「馬の脳」を調べてみる・・・
ーーーーー
 アンティオケヤ事件・・・「安定桶屋」・・・風が吹けば桶屋が儲かる・・・
 「安定於化也」・・・?・・・死者が出れば棺桶屋がモウカルのは摂理であるが・・・
  ↓↑
 共卓=ユダヤ人、非ユダヤ人が共に
    差別なく一緒の食卓で食事するコト
  ↓↑
 「バルナバ(マルコの従兄弟・ユダヤ人)」
 と
 「パウロ(ギリシャ系ユダヤ人)」
 が
 アンティオケヤに帰る時
 「ペテロ(ケパ)」も
 同行し
 アンティオケヤに行った
 アンティオケヤの教会では
 「共卓」が続けられていたが
 エルサレム教会の
 「ヤコブ(キリストの兄)」から
 使者が送られてきて
 「共卓」の禁止命令が伝えられた
  ↓
ーーーーー
 ・・・「キョウタク=教卓・供託・凶宅・京拓・狂卓・今日択」・・・拓殖、拓植・・・選択、選擇したのは「択捉(えとろふ)」島だが・・・択捉島(えとろふとう)は、千島列島南部に位置する島。
 地名の由来は、アイヌ語の「エトゥ・オロ・プ(岬の・ある・所)」。ロシア名は「イトゥルップ島(ロシア語: Итуруп)、(英語表記は Iturup)」・・・
 ・・・日本領有権の領域内で最北端の島・・・
 「第二次世界大戦末期に
  日ソ中立条約を一方的に破棄した
  ソ連軍により
  武力占領され、
  現在は
  ロシア連邦の実効支配下
  ロシア側行政区においては、
  国後島や
  色丹島とは
  別の行政単位である
  サハリン州クリル管区に位置付け
  国際法違反で不法占拠下にある
   ↓↑
  寛永十二年(1635年)
  松前藩は国後・択捉などを含む蝦夷地の地図作成
   ↓
  寛永二十年(1643年)
  オランダのフリース
  ウルップ島に上陸
  正保元年(1644年)
  『正保御国絵図』に
  「エトロホ」島と記録
  寛文元年(1661年)
  『勢州船北海漂着記』に
  伊勢国
  松坂の
  七郎兵衛の船が漂流
  正徳二年(1712年)
  『恵渡路部漂流記』に
  薩摩国
  大隅の船が同島に漂着記録
  正徳五年(1715年)
  松前藩主は幕府に
  「北海道本島、
   樺太
   千島列島
   勘察加は自藩領」と報告
  享保十六年(1731年)
  国後・択捉の首長らが
  松前藩主を訪れ献上品
  宝暦四年(1754年)
  松前藩によって
  家臣の知行地として
  国後の場所の領域に
  択捉島や
  得撫島も含まれていた
  明和三年(1766年)
  ロシア人の
  イワン・チョールヌイ
  (Иван Черный)が、
  ウルップ島のアイヌから
  サヤーク(毛皮税)を取り立て
  その10年後
  ロシア商人
  シャパーリンも同島のアイヌから
  サヤークを受け取った
  天明六年(1786年)
  最上徳内が同島を探検
  上陸時に3名のロシア人が居住
  アイヌの中には
  ロシア正教を信仰する者も居た
  寛政十年(1798年)
  ロシアに対抗するため、
  近藤重蔵が
  アイヌのエカシ(首長)の了承のもと、
  「大日本恵土呂府」の木柱を立て日本領を主張
  寛政十一年(1799年)
  蝦夷地を幕府の直轄地(天領)にし、
  高田屋嘉兵衛に航路を運営させた
  寛政十二年(1800年)
  国後場所から択捉場所を分立し、
  「エトロフ会所」を
  振別に開設
  アイヌの同島住民1,118人の人別帳を作成
  高田屋は
  老門に番屋を建て、
  漁場10ヶ所を開き
  和人による漁業・越年を始める
  文化四年(1807年)
  各村の礎が築く
  4月
  「シャナ(紗那)事件」
  紗那と内保(留別村)の集落が、
  ロシア海軍大尉
  フヴォストフ(Хвостов)
  率いる露米会社の
  武装集団によって襲撃され
  紗那の警固していた
  弘前藩と盛岡藩は奥地へ退避
  会所に赴任中だった
  間宮林蔵も参戦
  その後も、
  盛岡藩など東北諸藩が警備
  文化十三年(1816年)
  日本人漂流民を乗せた
  ロシア船
  パヴェル号が択捉島に来航
  このとき
  督乗丸の
  小栗重吉、音吉、半兵衛
  3名が帰国
  安政二年(1855年)
  日露和親条約締結
  日本はアイヌを日本国民とし
  アイヌの生活圏が日本領であると主張
  択捉島の領有をロシアに認めさせた
  開国後は
  仙台藩の領地とし
  仙台藩兵が駐留、警固
   ↓
 1923年(大正12年)
 北海道二級町村制が施行
 択捉郡留別村
 紗那郡紗那村
 蘂取郡蘂取村
 の
 3郡3村の設置
 1940年(昭和15年)
 海軍が飛行場を整備
 1941年(昭和16年)11月20日
 海軍により、あらゆる船の島への入出港が禁止
 島唯一の紗那郵便局は通信業務を停止
 電信機は常時、情報統制下
 単冠湾に
 南雲忠一中将率いる
 航空母艦6隻を含む
 軍艦30隻の機動部隊が秘密裏に集結
 11月26日
 真珠湾攻撃のためハワイへ向け出港
 島外との情報遮断は
 太平洋戦争が開戦した
 12月8日まで継続
 1944年(昭和19年)
 千島方面防衛の
 陸軍第27軍司令部が新設
 海上機動第4旅団と
 独立混成第43旅団が編成
 1945年(昭和20年)
 海上機動第4旅団含め
 千島列島から多くの部隊が内地に転用
 終戦時には
 第89師団が配置
 8月15日当時
 留別村2,258人
 紗那村1,001人
 蕊取村349人
 の
 合計3,608人が、
 択捉島に居住
  ↓
 1945年(昭和20年)
 8月28日
 太平洋戦争終戦間際
 降伏文書調印(9月2日)直前に
 ソ連軍が同島に上陸し占領
 ポツダム宣言第7条により、
 日本国の諸地点は連合国に占領
 一般命令第1号により、
 択捉島を含む千島列島は、
 ソ連占領地となった
 1946年(昭和21年)
 1月29日
 GHQの
 SCAPIN-677命令
 日本は同島を含む千島列島の施政権を停止
 2月2日
 ソ連はこれらの地域を自国領に編入
 ソ連の後継国家
 ロシア連邦の実効支配が継続
 日本人とロシア人との
 混住状態が1年以上続いたが、
 択捉島からの日本人の本土引き揚げは、
 1946年(昭和21年)12月
  ~
 1948年(昭和23年)までに終了
ーーーーー
 「共卓」・・・「共卓禁止命令事件」のハナシが「今日択・択捉島」の「狂託」に跳んでしまった・・・
   ↓
 それまで
 「ユダヤ人キリスト教徒」
 と
 「非ユダヤ人キリスト教徒」は
 一緒に
 「共卓=食卓を囲んでいた」
 のに 
 ユダヤ人出身の
 キリスト教徒たちが
 「共卓禁止命令」に従い
 「パウロ(ギリシャ系ユダヤ人)」が
 この命令を拒否し
 「非ユダヤ人キリスト教徒」と 
 「共卓」し、 
 「パウロ」は
 「ペテロ(ユダヤ人)」を非難、批判し
 「パウロ」は
 「アンティオケヤ」教会から追放された
  ↓↑
 「ケパ、つまりペテロがアンティオケヤに来たとき、
  私(パウロ)は
  彼(ペトロ)に対立した、
  なぜなら
  彼(ペテロ)が非難されるべきだったから。
  なぜなら
  ヤコブ(ユダヤ人・キリストの兄)
  のところから
  ある者たちがくる前は、
  彼(ペテロ)は
  異邦人たちと共に食べていた(共卓)。
  ところが
  彼(ヤコブの使者)らが来たとき
  彼(ペテロ)は(共卓から)退き
 (彼は)、
  自分(パウロ)をも
 (共卓から)引き離(そうと)した。
  割礼の者(ユダヤ人)たちを恐れて
  そして
  他のユダヤ人たちも
  彼(ペテロ)と共に
  見せかけの・・・本意ではない
  役割を演じた。
  そのために
  バルナバ・・・・場留名葉
 (マルコの従兄弟)も
  彼(ユダヤ人)らの
  見せ掛けに
  引きずり込まれた。
  しかし、
  福音の真実について
  彼(ユダヤ人)らが
  真っ直ぐ歩んでいないのを
  私(パウロ)が見たとき、
  皆の前で
  私(パウロ)は
  ケパ(ペテロ)に言った。
  『ユダヤ人である
   あなた(ペテロ)が
   異邦人風のように生きて
   ユダヤ人のように
   生きないのなら、
   どうして
   異邦人たちに
   ユダヤ人風に
   生きることを
   あなた(ペテロ)は強制するのか』と」
   ↓↑
 ペテロの第二の手紙
   ↓
 「共卓」は「ユダヤ律法」では違反
 「ユダヤ人のペテロ」が
 「共卓禁止命令」が伝えられる前は
 異邦人キリスト教徒たちと
 仲良く
 「共卓」をしていた
 にもかかわらず
 「共卓禁止命令」が伝えられた後
 異邦人キリスト教徒たちに
 ユダヤ人(ユダヤ教)風に
 生きることを強制=「共卓を止めるor割礼」
   ↓↑
 強制の対象は
 アンティオケヤ教会の
 ユダヤ人(割礼)メンバー  
 「共卓を拒否する人」=ユダヤ律法に縛られた割礼者
           ユダヤ律法を守るユダヤ人
  ↓
 アンティオケヤ教会の
 メンバーの凡ては
 ユダヤ人(割礼者)も、非ユダヤ人(異邦人)も、
 もはや
 「凡てのキリスト信者」である、
 「ユダヤの律法」とは無関係である
   ↓↑
 「パウロの立場」=共卓=非差別のキリストの立場
 「ペトロ」は
 キリスト(神)に従うのではなく
 教会組織の
 (ユダヤ人)指導者=「ヤコブ(キリストの兄)」
 に従うのは誤りである・・・と、非難・・・
  ↓
 「ペテロ(ユダヤ人キリスト教徒)」は
 「パウロ(ヘレニスト=ギリシャ系ユダヤ人)」
 に「悪者視」された・・・?
 神(キリスト)よりも
 人の組織の権威を優先させた・・・
 マルコ福音書での
 キリストのペテロ批判
 「サタンよ去れ」は
 悟らぬ
 「ペテロ」への
 キリストの戒め・・・訓告で
 「ペテロはサタン」・・・ではない・・・
ーーーーー
 ・・・ヒトの「行為」はその「時々の状況」による・・・だが、「本心」はオブラートに包まれるか・・・あるいは薬莢に包まれているカモ・・・「パウロはユダヤ人防衛主義者=ユダヤ民族主義者」だったカモ・・・
 ・・・ヒトの「コトバ」もその「時々の状況」による・・・「本心」を隠して「方便」をカタルことで・・・自分も相手も「救われる」カモ・・・モチロン、圧倒的なローマ軍の暴力を抑制するため、「汝の敵を愛せ」とは、「民族主義者の方便」であったカモ・・・?・・・
 「マルコ傳」にある「キリストの教え」とは「奇蹟」でも、「軌跡」でも、「鬼籍」でも、「奇石」でもない・・・
 ローマ帝国(皇帝=セザル=シーザー=カエサル)支配下の属国ユダヤ國家に生まれた「キリストの教え」とは「ユダヤ人同朋」に「我、誠に汝等に告ぐ」・・・「蓋し、(家の主の来たる)期の何時なるべきかを(誰も)知らざればなり」・・・ユダヤ国家の「硬直した律法」と「倫理、道徳の秩序腐敗」している預言者の首を盆に乗せてドンチャン騒ぎのユダヤ支配階級の重税に喘いでいる「ユダヤ人同胞」・・・「然れば、汝等、警戒せよ」・・・である・・・「セザル」とは「ユダヤ王」ではなく、彼を支配下に置いている「ローマ皇帝」である・・・ユダヤ人の解放の地は「天国」ではなく、「生きていく地上の國」である・・・
 「第七項・第十章(マルコ聖福音書)」
 「十八」
 イエズス、是に曰ひけるは、何ぞ我を善きと云うや、
 神独りの外には善きものなし
 「十九」
 汝は掟を知れり、
 「姦淫する勿れ」
 「殺す勿れ」
 「盗む勿れ」
 「偽証する勿れ」
 「害する勿れ」
 「汝の父母を敬へ」
 と是なり、と。
 「二十一」
 「有(も)てる物を悉く賣り之を貧者に施せ」
 「二十三」
 「難い哉、金を有(も)てる人の神の國に入る事」
 「二十四」
 「難い哉、金を恃(た)める人の神の國に入る事」
 「二十五」
 「・・・駱駝が針の孔を通るは易し、と」
 「三十」
 「誰にてもあれ・・・後の世にては
  永遠の生命を受けざるはなし」
 「三十一」
 「但し、多く先なる人は後になり、
       後なる人は先なるべし」
 ・・・?・・・これって、先に死ぬ人は後に永遠の生命を受け、後に死ぬ人は先に永遠の生命を受けざるはなし」ってコト?・・・「細胞バンク」に「細胞(DNA)・万能細胞」を保管しておかなくちゃァ・・・
ーーーーー
 ・・・なるほど、「火葬」よりも「土葬」か「木乃伊」でなくちゃぁ・・・「永遠の生命」はムリ・・・
 ・・・再生されたら「ゾンビ」かも・・・

 

ロズウェルは神話か?

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 ・・・ボクの「HP」にウマい具合に接続ができないらしい・・・それで、その箇所のモノをそのまま添付・・・
ーーーーー
 「キリスト教教義」に関しては日本人の大半は「イエスの処女マリアからの生誕と、その生涯と蘇りの奇蹟」はオハナシであるとするであろう。近代合理主義者のインテリであればあるほどソウであるのに違いない。「キリスト信仰」であって、「律法=生活規範の実践」ではないからだ。もちろん、かっての「ユダヤ人」にとっても、現在の「ユダヤ・イスラエル人」にとってもオハナシである。かたくなにそれらを事実であると信じているのは「パウロ」に組織化され、現在までもその教会権威に伏している「パウロ教=キリスト教信者」である。
 「民族の記憶=ご先祖様の歴史」とは幼少時に聞かされた「オハナシ=スリコミ記憶」が原点である。事実もあれば、デフォルメされた虚偽もあるのだ。
 あらゆる「宗教」は「教義」と「儀式」からなっている。「儀式」は「教義(意味言語)」を「感覚的内在化・一体化」を果たすお膳立ての中での行為である。キリスト教では「最期の晩餐」の儀式化である。
 「宗教教義」とはその「開祖、宗祖の歴史的、履歴的なある部分」は「事実のデフォルメ」であり、「宗教儀式」とは特殊な場(寺院・教会・神社・神殿・聖地=河川、洞窟、森林、山岳霊場)に於ける官能的な恍惚感、臨在感的な雰囲気を感知経験できる執り行いである。この官能的で、恍惚感的な「感知経験」は薬物類によっても、断食によっても、マラソンによっても、日常的なSEXによっても同じモノが得れるハズだ。ある肉体的状況で感じる「脳機能」の仕業である。
 「キリスト教」とは「ユダヤの人の子、キリスト自身の思想」では無く、「ローマ市民権を有したパウロ(サウル)の思想」である。パウロの別名(実名)は「サウル」だが、「サウル」とはイスラエル統一王国の初代王(紀元前1020~1004年)として登場した人物の名前でもあった。「旧約聖書」と「新約聖書」には同じ名前の複数の人物が登場する。「名前」が同じであるのはなんら不思議ではない。日本語的な「発音(カタカナ表示)」の類似も含めて、記録としては同名異人とされているが、各人物の履歴、エピソード、傾向性の類似である。タトエバ、エジプトを脱出したモーゼは紀元前1230年ころで、「旧約聖書」がそれ以後の記録であるとするならば、
  ↓
 旧約・・・ヨセフ1・・・カナン偵察のモーゼのスパイ
 旧約・・・ヨセフ2・・・楽器を使った預言者
 旧約・・・ヨセフ3・・・エズラの命令で異邦人の妻と離婚
 旧約・・・ヨセフ4・・・ヤコブの息子・夢の啓示・「ポテパル」の妻の誘惑を拒否
            ・パロ(ファラオ)の執政官
            ・エジプトのオンの祭司「ポテペラ」の娘アセナテを妻にした
 新約・・・ヨセフ5・・・ヤコブの息子
            ・マリアの婚約者であったが
            ・マリヤが結婚前に妊娠をしたことを知って
            ・結婚解消(離婚)をしようとした
            ・夢で聖霊によって告示され、
            ・マリヤの処女懐胎が聖霊によるモノと知らされた
            ・キリストの「養父(童貞?)」

 旧約・・・ヨシュア1(Joshua)・・・モーゼの後継者。カナン侵略の指揮者
 旧約・・・ヨシ ア2(Josiah )・・・父アモン(アメン)の横死(暗殺)後に
                   ・ユダヤ王(紀元前639~609年)
                   ・当時ユダヤ王国はアッシリア帝国に隷属
                   ・「申命記」を基盤にした宗教改革を実行
                   ・偶像崇拝の多神教を禁止
                   ・アッシリア帝国はエジプトやバビロニアの反発、
                   ・メディア人、カルデア人・スキタイ人に圧迫され、
                   ・前614年にアッシリアの都市アッシュール、
                   ・前612年にニネベとカラクが陥落し、
                   ・前609年に滅亡
                   ・ヨシアはユダヤ王国の独立を狙うも
                   ・この間、エジプトとバビロニアの対立に巻きこまれ
                   ・メギド山道でエジプト王「ネコ」を襲い、敗北
                   ・捕虜後に殺される

 旧約・・・ユダ1・・・ユダ族のアカンは奉納物の横領(ヨシュア記・第七章)
 新約・・・ユダ2・・・キリストを金で裏切った十二使徒の一人(会計係)

 旧約・・・サウル1・・・喜怒哀楽が激しく、部下ダビデに嫉妬したユダヤ初代の王
            ・紀元前1020~1004年
            ・ペリシテ人と戦い敗北後、捕虜となって自殺
 新約・・・パウロ・・・初期ユダヤ過激派で激しくキリスト教徒を弾圧
     (サウル)2・喜怒哀楽が激しかった
            ・後にキリストに回心し、ユダヤ教と対立
            ・紀元64年ころ逮捕処刑(?)

 旧約・・・ヤコブ(イスラエル)1・・・イサクの息子、双子の弟
                    ・長子エサウから家長(長子)権を奪う
 新約・・・ヤコブ2・・・イエスの養父であるヨセフの実父
 新約・・・ヤコブ3・・・イエストの弟
             ・異邦人伝導のパウロと対立
             ・ユダヤ人だけの「キリスト教」を固執
             ・パリサイ人に虐殺
 新約・・・ヤコブ4・・・ヨハネの兄
             ・ヨハネ伝の作者
             ・ヘロデ・アグリッパー一世に処刑

 「旧約」の時代の「サウル1」とはユダヤ王国「初代の王」であった。「新約」の時代の「パウロ(サウル)2」はキリスト教教会の「元祖=鼻祖」であった。「古事記」では「鼻」から生まれたのは「須佐之男=スサノオ=素戔鳴」であった。
 「モーゼ」の奇跡も、「イエス」の奇跡も「神による仕業」である。モーゼに関するエジプト側の「出エジプトの記録」は微塵も発見されていないが、「旧約」に記録された民族救済の「モーゼの奇跡」のパノラマ的なスケールの凄さには、「新約」に記録された暗く罪人として磔刑となってユダヤ人の弟子達を失望させた「イエスの奇跡」とは比べものにならない(映画・十戒の影響もあるが?)。
 「旧約」を信じれば、現実として「モーゼ」はエジプトに勝利し、「ヨシュア(救世主)」はカナン侵略に勝利したが、「イエス」はユダヤ人同胞(パリサイ人)に裏切られ、ローマ帝国に敗北したのだ。
 悲惨で暗く、死に際に「神への愚痴」すらも言った「一人のユダヤ人の磔刑」をローマ帝国、ヘレニズム世界の「救世主」にしたのはギリシャ生まれのパウロ(サウル)の言語的レトリックであった。だが、キリスト自身、現実的な「民族主義的救世主」としてユダヤ民族を何等現実的に解放しえなかったのだ。
 記録上の「救世主」とは・・・なによりも「モーゼ」の誕生と「イエス」の誕生はその出生時の事件が「エジプト王のファラオ」と「ユダヤ王のヘロデ」の「男児の幼子殺害事件」から生きのびた者であった。「モーゼ(名前は水の中から助け出された者の意味)」はナイル川に投げ込まれようとして、「イエス」は「ヘロデ」によって殺されようとした時に「エジプト」に逃れて。「ユダヤ人の救世主」とは出生、幼児期、少年期に殺害の危機にあい、「エジプトで生活」し、「エジプト脱出」が重なるコトが条件なのだ。ナゼ、「エジプト」なのか?・・・ナゼ「エジプト」に逃亡の場所を求めるのか・・・?
 ・・・アブラハム(アブラム)はカナンにいた時に飢饉にあい「エジプト」に行って寄留した(創世記十二章)。そして、妻「サライ」の美貌によって財産を得たが、また災厄も被り、「エジプト」を追われたのだ。
 ヨセフ、モーゼ、キリストはその「多神、異神教のエジプト」でナゼ、命を救われているのか?

 ・・・ギリシャ神話では「エジプト」に逃れたのはゼウスの愛人「イオ(イヨ?)」であった。
 「イオ(イヨ?)」はゼウスの妻ヘラに浮気を発見されそうになって「白牛(牝牛)」に変身させられ、ヘラの「嫉妬=ねたみ」によって「アブ(虻=蝿=アフェフはハエのエジプト語)」をその耳に入れられ、苦難の末に「エジプトのナイル川」にたどり着き、「ヘルメス」によって元の姿にもどされ救われた。その後、息子「エパポス」を産み、「エジプトの女王」となった、と言うハナシなのだが。
 ヘラの「嫉妬=ねたみ」は「アブラハム(アブラム)」の妻「サライ(サラ)」が「エジプト女」の使い女「ハガル」が「アブラハム(アブラム)」の息子「イシマエル」を妊娠し、出産したコトを「ねたんだコト」に重なる。
 その後、「アブラハム(アブラム)=100歳」、妻「サライ(サラ)=90歳」はその年齢を自嘲し、笑いながらも「全能の神」によって息子「イサク」を産んだのだ。
 「イオ(イヨ?)」は「イシス女神」と重ねられ、「イシス」は「牛頭の神」としても崇拝された。習合されているが神話的には「エジプトのイシス女神」がはやいのに違いない。
 「イシス」の夫はエジプト王「オシリス」で、「オシリス」は弟「セト」に殺害され、箱に入れられて「ナイル川」に沈められた。「イシス」は夫の遺体を「ナイルの水底」から引き上げて蘇生させたのだが、「オシリス」は再度「セト」に肉体をバラバラに十四にキザマレ、「性器(ワニに食われた)」を省いて残りの「13」個は「ナイル川」に流されてしまった。「イシス」は夫「オシリス」の「十三個の肉片」を「ナイルの水底」から引き上げて接合し、蘇生させ、「霊界」に赴いた夫と「霊界」で交わり、息子「ホルス」を現世で産んでエジプト王とした母親である。物語では息子「ホルス」は夫「オシリスの蘇えり」とされている。そして「イシス女神」は「太陽神」の「秘密」を知って、その権威を握った女神でもあった。

 「十三・壱拾参・13・??」に関する世界史(アレクサンダー13歳・コンスタンチン大帝313年、グレゴリオス十三世)、中国史(始皇帝・煬帝13歳・玄宗皇帝開元元年=713年)、日本史(壱与13歳)等に関連したモノは別項で述べたのだが・・・イスラエルのソロモン王(列王記上・第七章)は「13年間」をかけて自宅を建てた・・・日本人によく知られているのは「ゴルゴ13」の漫画である・・・ゴルゴダの丘、13日、金曜日である。「オシリス」の肉片の一、「性器を省いて」とはユダヤ人の「割礼」のコトだろう。
 聖書には「割礼」そのものの理由説明が無い。あるのは「神とアブラハムの契約の証(創世記第17章)」である、と言うことだけである。本来性器を保護する役目の包茎、包皮だが、亀頭と包皮の間には不衛生になりやすい(?)。早漏の原因(?)とかも言われて包茎手術をする男もいる。ユダヤ人の「割礼」の始りは「アブラハム、99才」、その妻で「エジプト女のハガル」が産んだ息子「イシマエル、13才」の時であった・・・衛生上の問題とも採れるが、「宮刑(羅切・腐刑・去勢・姦淫罪)=宦官」になった人間の慙愧の記憶、記念かも・・・中国では「宮刑」は本来的に男系血統の断絶の「刑罰(司馬遷が被った刑罰)」である・・・エジプトの執政官となった姦淫容疑の「ヨセフ」・・・?・・・「イエス」・・・不倫の子供・・・?・・・「オシリス」のペニスを食った「ワニ=セベク神」のエジプト語の象徴は貪欲、攻撃、そして集める、そしてエジプト中王国の

 「太陽神=ラー=太陽+鷹(隼)
      =糞ころがし=ケペラ(ケペル・甲虫)
      =夜明けの太陽
      =再生するモノ」

 と習合され、「セベク・ヘテプ」はエジプトの中王国「十三王朝(紀元前1778~1570年)の王」であったらしい(古代エジプトの動物・黒川哲朗著・六興出版)。
 いずれにしてもエジプトではあらゆる動物が種族、地方地域都市の守護神となった「氏神」である。「鷹=隼」と「牡牛」はエジプト王の権威と権力の象徴である。装飾品の首飾りや、腕輪の「ハエ(蝿・虻)」は群れて集る、集めるの意味かも。

 詮索はとにかく、状況は「ナイル川の「水」から救いあげられた「モーゼ」と、「バブテスマ、ヨルダン川の水による洗礼、聖別」、そして教導活動後に紀元30年3月、13日(旧暦なら十三夜)、金曜日に磔刑にされ、3日後、日曜日(ユダヤ教安息日の次の日・満月十五夜)に蘇えった「イエス・キリスト」のハナシの重なりである。
 「新旧聖書」のハナシの根幹は「エジプト神話」である。そして、「神」は一神では無く、「多神」が原点である。「ネピリム(創世記・第六章)」は「神の子達」と「人間の娘」との間に出来た「120歳の寿命」を有する子供達の一人である、と記されている。「神と神から生まれた子達」は「神=神族」である。
 で、「イオ(イヨ?)」のハナシの延長線には「エウロペ(名前の意味はヨーロッパ)」である。「イオとゼウスの孫」の「アゲノルはフェニキアの王」となり、息子三人、娘一人を儲け、その娘が「エウロペ」であった、と言うものだ。その「エウロペ」は海辺で遊んでいる時に牛に変身したゼウスの背に乗って「海」を渡り「クレタ島」に連れて行かれ、そこでゼウスの子供「ミノス」を産んだ。その「ミノス」の子供が牛頭、人身の「ミノタウロス」である。この「ミノタウロス」が存在したところが「ラビリンス(迷宮)」であった。
 ナゼか「モーゼのエジプト脱出はカナンへの直線ではなく、迂回遍歴」であった。「ヤハエの神」はカナンへ直接導くことはせず、40年間もの間、荒野をウロウロと彷徨うことをさせた(紀元前1250~1200年頃)。遍歴とは「迷宮の迷路(ラビリンス)」であるのだが・・・「ユダヤ人」を「迷宮」から救い出したのは・・・「ヨシュア」と「士師記」に登場する人物達である。「ヨシュア」の名前の意味は「救世主」であるが、「神の国」への「救世主」ではない。現実的な「ユダヤ民族」の「生活圏」の獲得者としての「救世主」なのである。現代史に於いて「ゲルマン民族の生活圏確保」は「ヒトラー」や「日本帝国の関東軍」がやってパンクしたのだが。その「生活圏=カナン」は「ダビデ」と「ソロモン」で栄華の絶頂期をむかえたのだ。それは「天国」ではなく、モーゼが神に約束された「地上の国」としてであったのだ。

 ・・・その後の「サムエル記」を繋ぐ「ルツ記」には寡婦となった「ナオミ(名前の由来は楽しみ)」が自分のコトを「マラ(苦しみ)」と呼んで欲しい、と「ベツレヘムの人々」に述べるヶ所がある。
 「ルツ」は「ナオミ」の息子「キリオン」の嫁で、異邦人で異教徒=モアブ人の女である。モアブ人・・・アブラハムの甥ロトとその娘姉妹の姉との間に出来た子孫」であった。その妹も父親ロトの子供(アンモン人の祖先)を産んだ。「モアブ人」とは「父親とその実娘の近親結婚」をヨシとしていた(?)。そして、「ルツ」の夫「キリオン」は死んで、二人の間には子供もいなかった。だが姑と嫁の関係では貧困、不遇な境遇の中で「ルツ」は姑「ナオミ」を大事にし、姑につくした。そして「ルツ」は後にユダヤ人の「ボアズ」と言う男と結ばれる、と言うハナシだが・・・大まかに言ってしまえば、貧困不遇なユダヤ人ばかりではなく、ユダヤ人以外の異邦人、異教徒も救われる、と言うハナシなのだ。
 この「ルツ記」の系図にはこの「ルツ」と「ボアズ」の息子「オベル」が後の「ダビデ」の祖先と記されている。「ダビデ」は歴史的には紀元前1000~961年在位のユダヤの王である。これは「エズラ記(第十章)」のユダヤ民族が「異邦人、異教徒との婚姻の排除、禁止」とは矛盾し、純粋の血統からハズレるハナシだ。
 「ルツ」が異民(モアブ人)族、異教徒の女性ならば、「エジプト女」の「ハガル」が産んだ「アブラハム(アブラム)」の息子「イシマエル」が「ダビデ」の祖先としてもモンクは無いだろう。「神」は「エジプト女の願いも聞いて約束」したのだから・・・「エジプト人との混血児」は「野ロバのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住む」である・・・「エジプト人との混血児」は「(純血)ユダヤ人」に敵対する、と言うことか?・・・各エジプト王朝は「純粋血統」のエジプト人ではなかったし、「純粋血統」のエジプト人も存在しなかったハズだ・・・ナイル川を領有するエジプト領土内に住む人々すべてが「エジプト人」であった。そして「あの世と、この世」の生命=タマシイの往復を信じる神々の国であった。

 「エズラ記(第七章)」ではバビロンに捕囚となったユダヤ人のエルサレム帰還は紀元前458年、あるいは紀元前397年ということになり、紀元前510~515年の神殿再建から60~120年後になる。
 「エズラ記(第十章)」は「異邦人、異教徒との婚姻の排除、禁止」だが、アブラハムは異邦人の妻妾を娶っていた。エジプト執政官となった「ヨセフ」も、そして「サムソン」も・・・ダビデ王の祖先(ルツ)もモアブ人の女性・・・ソロモン以後の諸王は異邦人の女性を妻としていた。
 どのような「帝国の拡張」も他民族を抱え込まざるを得ないのは必然である・・・被占領民族の「ジェノサイド(皆殺し)」でない限り・・・旧約聖書の「ユダヤ人」はそれをやったのだ・・・子女は捕虜(奴隷)にしたのだが・・・「ナチス」はゲルマン民族の「純粋血統主義」でもあった。歴史的な事実として「純粋血統主義」を主張できない「日本民族=日本陸軍」は満州国を傀儡としたが、そのスローガンは「五族協和=満州人+蒙古人+日本人+中国人+朝鮮人」の「王道楽土」ではあった。この「五族協和」に「ユダヤ人」を加えようとしていたらしいのだが・・・
 で、「旧約聖書」は・・・紀元前250~200年ころ、「エジプトのアレクサンドリア」に集まった人々によって成った「七十人訳聖書(ギリシャ語訳・実際は72人のユダヤ長老が72日間で編集と言われている)以降の聖書配列であるらしいのだ。「原本」や「写本」、色々な古文書を寄せ集めて解釈し、再構成されたモノなのだ。日本史の「古事記・日本書紀」と同じである。特に「古事記」にはその「編纂理由」を「序文」に記しているのだが、アヤシイ言い訳かも。「記録」されたモノは、「疑え」、である。

 それにしても、「旧約聖書」は「神に対する裏切りの物語」でもあるな・・・「神の奇跡」を眼前にしてさえも「イスラエル・ユダヤの一神」を信じきれない、あるいは背信と不満を有する「一部ユダヤ人」の存在理由は何か?・・・特に列王記上(第十一章)の「ソロモン王晩年」からはじまる「一神に対する冒涜と不敬は、ソロモンの異国の愛妾達(妻700人+妾300人)が出身地の神を祭ったことを許し、自分もはまっていったコトである。オンナには甘かったのだ。列王記下の第一六章~第二一章に記されている「アハブ王」、「マナセ王」、「アモン王」は異教徒の神の偶像さえ、ソロモン王が建てた「イスラエル・ユダヤの一神の神殿」に据えたのだ。
 「ソロモン」は列王記上(第八章・46)で都合のイイコトを「神」に願っている・・・人は罪を犯さない者はいないのです・・・あなたがエジプトから連れ出した(仕業・嗣業の)民であるから、懺悔したら許して欲しい・・・と・・・なるほど、人間の知恵に於いてソロモンは賢い奴だ・・・だが、アヤマレバ、それでイイってモンじゃない・・・「歯」には「歯」、「目」には「目」をか・・・どうやら「神に対する不信と裏切りの物語」ではなく、「人間同士の裏切りの物語」であるな。

 で、「旧約聖書」が正式な「書物」とされたのは紀元70~90~100年ころらしいのだ。
 「ルツ記」は「ローマ帝国支配下のキリスト教徒(異民族を含む)」にとっては都合がイイハナシであるのだ。
 ちなみに中国では「許慎」の「説文解字」が撰されたとする年代は紀元100年の後漢、和帝の「永元十二年・庚子」である。「永元」の「永」は「水」の漢字に似ている。「永」は「河川の長さ」を意味している。「永元」は「河川の水源」ではあるな・・・「モーゼ=水の中から救われた者」である。

 そしてキリストが生存していた期間の前後、当時の「ユダヤ人一般(ヤコブ2~3~4)」が望んだ「ユダヤの人の子、キリスト自身の思想」とは「イスラエル民族国家」としての「ダビデ・ソロモン」への「地上の王国への回帰運動と、その思想」と、それを実現すべき「指導者=救世主」の登場であった。
 「パウロ」が「ユダヤ人」であったとしても、「キリスト」の思想とは違うのである。もんちろん、現在の「キリスト教」とも違うのだ。「ユダヤ王国滅亡寸前(紀元66~70年)」での「パウロの思想(紀元58年前後からキリスト教の伝道活動。64年に殉死)」は歴史的状況からみれば「ローマ帝国」との妥協の産物であった。「汝の隣人(ユダヤ)を愛せ」ではなく、「汝の敵(ローマ)を愛せ(憎むな・do not hate・δεν μισοs)」とはまさに歴史的状況が言わさせしめた「戦術的コトバ」であるのに違いない。とするならば「ローマ帝国支配下でのユダヤ=キリスト教」である・・・ローマ帝国支配下での現実ではもはや「一神教民族=ユダヤ民族」をまもれず、「ユダヤ民族維持」のためには、パウロの有する「ローマ市民権」が必要であったのだ。そして生きるためには「敵の愛(慈悲・ローマ法)」を請わざるを得なかった。ならば「パウロの思想」とは、彼の本音は別にして、口先では「律法厳守」を言いながら結果的に当時の「ローマ帝国(多神教・偶像崇拝)支配」を許し、自己保身で妥協していた「パリサイ人」の立場にも重なるだろう。
 だが「ギリシャ文明」を引き継ぐローマ帝国は多神教ではあったが、「ギリシャ都市国家アテネ(アシナ)」と同様、政治権力として、「貴族階級」と「平民階級」の「公平、平等化」を追求した「帝国」であった。植民地人であろうが、属国人であろうが、異人種であろうが「ローマ市民権」を有する者はローマ帝国の法律の下に於いて政治的権利はまもられた・・・?・・・「ローマ市民権」は俗社会での生活規範としての政治的権利であった。「キリスト教」を国教とする(西暦313年・ミラノ勅令)までのローマ帝国は多神教であったが「政教分離」の帝国だったのだ。ユダヤ王国、あるいは属国となった「ユダヤ王国」はモーゼの時代から例外もあるが、基本的には「一神教による政教一致」なのである。
 現代社会、「政教一致」どころではない、「科学、政治、経済、法学、宗教、哲学の人間観念混在一致」である。コトバとして現在的な「論理学=諸学問」は「概念範疇」で出来事、事件、物事、事物を「観念的に区別」しているが、「神」がいようが、いまいが「科学、政治、経済、法学、宗教、哲学」は「現実生活」では「渾然一体」となった「アイマイな状況的なその時、その場のズレタ価値観、あるいは重なった価値観」で生活しているのだ。「宇宙飛行士、ノーベル賞クラスの科学者」でさえ、その「世界観」、「価値観」は喜怒哀楽、苦痛苦難で生きているその存在に於いて「エゴイスト」で「セルフッシュ」である。「人間」にとって「神」さえ存在すればすべての「論理=理屈」は「神」にその責任を転嫁できるのだから・・・「政治的」にも「法律的」にも「人間」は「人間」にその「ルール」に於いても「責任」をとろうとせず、他人に「責任転嫁」する。
 「人間」と「人間」の責任関係は単純である。

 「?殺すな、?騙すな、?盗むな」

 に尽きる。「モーゼの神(思想)」は「人間(同胞隣人)」を「人類(異邦隣人)」に拡大したらとっても「エライ」のである。

 で、宗教的権利ではない「ローマ帝国市民権」を有するユダヤ人、「パウロの戦略」は「ユダヤ人の楯となる非ユダヤ人であるローマ市民の準ユダヤ思想化=キリスト教化」・・・であった?

 ・・・紀元前287年ホルテンシウスによるローマ身分制度の政治的公平化法
 ・・・紀元前90年執政官ルキウス・ユリウス・カエサル提出の法案
    ルビコン河以南のイタリア人すべてにローマ市民権を付与
 ・・・帝政開始(前27年)以後、属州都市の有力者に市民権が与えられた
 ・・・212年、カラカラ帝のアントニヌス勅令
    帝国領土の全自由民に市民権を与えられた

 第一次ユダヤ戦争(66~70年)
 紀元66年、ユダヤの支配者である元首属吏フロルスがエルサレム神殿の宝庫を強奪。エルサレムでユダヤ人の暴動が発生。フロルスはユダヤ人暴徒を逮捕磔刑。ユダヤ人はこれに反発、ローマ軍と戦闘を開始した。
 ローマ皇帝ネロはウェスパシアヌスをユダヤ討伐総司令官として三個軍団を派遣。67年、ガリラヤを攻撃。ガリラヤのユダヤ反乱軍指揮者はヨセフスであった。ローマの大軍によって反乱軍は投降、降伏。捕虜となったヨセフスは、後に「ユダヤ戦争」を記した人物であった。
 第一次ユダヤ戦争は、74年ローマの司令官フラウィウス・シルウァによるマサダ要塞の陥落で終わった。

 第二次ユダヤ戦争(132~135年)
 ユダヤ人は、バル・コクバを指導者とし、ローマへの反乱を再度組織化(第2次ユダヤ戦争)したがローマ軍によって壊滅的な敗北、玉砕。その後、ユダヤ人はエルサレムより追放。

 「イエス・キリスト在世」当時の「ユダヤ王国」と「ローマ帝国」の関係は、かっての「中国(清)」と「西欧列強(イギリス・フランス)」、現在の「日本」と「アメリカ」の関係に似ている。パウロのキリスト教伝導時代は紀元58年から64年である。第一次ユダヤ戦争(66~70年)の勃発がくすぶっている前哨的時代であった。「ローマ帝国主義者」に磔刑にされたユダヤ人キリストはモチロンのこと、パウロも「キリスト幻想」をテコにした「ユダヤ民族主義者」であった?・・・だが、「中国」には「民族主義者(?)の林則徐・孫文・毛沢東」が出現したが、現在の「日本民族を救済」しようとしている「日本民族主義者」はみあたらない。「パリサイ人の律法」とはウラハラに当時の「ユダヤ人」同様、「日本国憲法=律法」なんのその、仏壇も神棚も、時には十字架さえも家に祭り、金権主義的個人主義で「隣人・同胞」からの横財、私的財産追求と蓄財にどっぷりと埋没し、ダレかに尻尾を振っている奴等ばかりである。
 「民族概念」は私の「国家論」の他所で述べたので誤解してもらいたくないが、あえて「民族」と言う明治の御用学者が発明したこのコトバを使って概念規定すれば、

 「民族主義」とは「民族内での無階級的な自由平等」、

 と言うコトである。民族の首長、指導者としては誰彼を問わない「一民族=一国家内の人々」のあらゆる利害の公平主義である。「思想的」には「ナチス(国家社会主義)」も「スターリン(一国社会主義)」も「毛沢東(愛国社会主義)」も、変種の「ユダヤ民族」と同類の「国家(民族)主義」である。最近翻訳発行されたヒトラーの「第二の我が闘争(続・我が闘争・甲成書房・2004年出版)」が参考になるだろう。第一次世界大戦後の帝国主義(金融資本主義)的な時代にあってビスマルクを尊敬し、軍隊を「国家社会主義的共同体」の基盤であると考えていた「ゲルマン民族主義者」が「ゲルマン民族」と「他民族」をどのように捉えていたのか理解できるであろう。
 「民族主義」とは企業からウラでカネをセビる「似非右翼の主義」とは違うのである。
 「国家(民族)社会主義」とは、

 「他民族排除」と「自国民族の領土の確保拡張」であり、
 それを前提に
 「民族主義的プライド(pride)とその自民族内の自由平等」とを実現し、
 その
 「統一された自民族の生命と財産、パン」を確保し、
 「自民族の義務として血の購い」で「他民族」から防衛する

 というコトである。「民族主義」を「文化防衛論」などと言うコトバに丸め込むものとは違うのだ。「ヒトラー」を「我が友」だなんて言われても迷惑だろうに・・・
 「諸階級の諸実体を包含する民族概念」とは被支配階級に対する支配階級の対外的な「政治的概念」であり、「政治的範疇概念」である。
 「国家(民族)主義者」にとっては「国内内部の異端者排除」と「民族イデオロギーの統一」が必要とされるのである。「ユダヤ民族主義」は「一神教とその律法厳守」+「同一血統主義」であった。「律法厳守」とは「民族内の社会公平主義」であった。その「イデオロギー」を厳守しない内部の人民は「異端者」として粛清、排除されるのである。
 「旧約・創世記・第34章」には「ヤコブ」の娘「デナ」が「ヒビ人のハモルの息子シケム」とイイ仲になってた事件を切っ掛けに「ヤコブ」の息子達「シメオン」と「レビ」は妹を陵辱されたと怒ったが、「ハモル」も息子「シケム」も「デナ」を愛していたので「シメオン」と「レビ」達に有利な条件を示して結婚を望んだ。それに対して「シメオン」と「レビ」は「ヒビ人のハモル、シケムの一族の男子」すべてに「割礼」を施したら「デナ」と「シケム」の結婚を許し、「ヒビ人」も「ユダヤ人の一族」とする、と言うコトを条件にした。「ハモル」も「シケル」もその条件に同意し、「一族の男子全員に割礼」をさせたのだ。そして、その三日後に「割礼」の痛みで苦しんでいる「ヒビ人」の男子を襲い皆殺しにし、財産を掠め、子女を虜にした。「ヤコブ」は息子達の所業には恐れおののいたのだが・・・「ヤコブの葛藤」は紛れも無く、人間ソノモノであった。だが、「ユダヤの神」は息子達の立場であった。
 そして、「旧約・ヨシュア記・第七章」には「ユダ族のアカン」が神の罠(ヨシュアの策謀?)によって敵軍に壊滅させらことが記されている。
 戦争では外部の敵対者をワナにはめて虐殺するのは当然であり、内部の敵対者の粛清には敵の軍隊に始末させる、と言うのは常套である。
 そして、旧約のヨシュアは「モーゼの神=戒律=思想」+「血統」を厳守することによっての「侵略戦争の遂行」であった。
 「血統主義」・・・不思議なことに「寄留者=ユダヤ人内部の異民族」に対する「律法(出エジプト記・第23章)」があるのだが・・・彼等との婚姻関係は無かったハズがない・・・そして、まもれない「血統」は旧約聖書に散らばっている。異民族、異教徒の女性達から生まれ出た「ユダヤ人混血」の子孫はゴマンといるだろう。もちろん、異民族、異教徒の子供を産んだ「ユダヤ人女性達」も・・・?

 アレクサンダー大王の帝国思想(異民族融和?)、シーザーの「ローマ市民権の思想」を省けば、結果的にはナポレオン、ヒトラー、スターリン、ルーズベルト、チャーチル、毛沢東、東条英機は「国家の支配階級」をまもるための「国家(民族)主義」であった。国家官僚的自己権力に対立、反抗する政治家、軍人、民間人を粛清したのは当然の帰結である。そして内部の粛清は敵の軍隊に始末させる、と言うコトも常套であった。すぐれた対外戦争の戦略、戦術家には「共同体内部の大義名分の統一イデオロギー=幻想」が必要なのだ。
 で、「民族主義的プライド(pride)」とは何か・・・「歴史的家系・血統」に対するイイ意味での自尊心(長所に対する確信的信念)、ワルイ意味での自惚れ(利己優先)・・・「民族主義的プライド(pride)」とは「自民族の優位優先、他民族の蔑視差別、排外」である。
 だが、「似非民族主義者」の「民族(国民)」とは「国家内階級関係を隠蔽」した範疇概念であり、対外的にはその隠蔽保持によって「他国家国民・各人種」を階級ランクづけするための「差別概念」であるのだ。そして「民族主義=一民族内での法的公平」とは現在の資本主義的経済流通の国家間の諸関係に於いては成り立たないモノなのだ。「民族主義=純粋血統主義」などは「範疇論」としてはそもそも成り立たないのである。人種の「血液」を調べさせた合理的精神の「ヒトラー」はそれに気づいて「言語学的なインド・ヨーロピアン語族」としての「民族」をチラチラさせざるを得なかった。
 そもそも、「民族概念」などと言うものは日本人の御用学者が発明し、中国人も借用してしまった「漢字概念」なのだ。「国家(nation)」は「民族」で無いのは当然である。「人種(race)」も「民族」ではないのは自明である。その中国人は、現今もっぱら「愛国国家主義=漢民族主義」である。最近は「民族=文化的同一の人々の集合体(ライトハウス英和辞典)」であるなどと概念規定しようとしている。じゃあ、「文化的同一」とはナンぞや?・・・その根本は「言語=言語観念」である。

 「民族概念」とは「?血統、?言語、?領土」の「同一性の人種」として発明され、概念規定されたモノなのだ。

 「民族」とは、本来が日本人がつくり出した「概念」で、唯一「日本人」が「幻想=思想」として「日本帝国国民=民族」として理解させられたモノであったのだ。純粋「ユダヤ人」ならばその思想を盗むなッ、と抗議するに違いない。その日本人も現在「概念規定」をアイマイにしている理由は「明治速成日本民族」が戦争に負けたからである。

 「諸階級を包含する民族」はその実体的階級関係を解体し、普遍的地球の地域住民としての「対等、公平な人間諸関係を前提にした地球人」として再組織せねばならない。
 もちろん、「民族(国家)主義」と、「人類主義的=国際主義的」な「無階級的社会平等(公平)主義」とは全く違うのだ。
 「民族の解体」は「国家の解体」であり、「階級関係の解体」である。「階級関係の解体」は「国家の解体」であり、「民族の解体」なのだ。
 もちろん、「一文化の解体」ではない。人間生活でのあらゆる事象、事件、事物は「コトバ」として「観念化」される。そして「観念化=思想化」されたモノは「表現、造形、創造化」されるのだ。その逆も当然ある。そして「音声コトバ」も視覚によって理解されるモノとして「文字化、記号化」として表現されるのである。「文化」とは「文字化=記録化」されたあらゆる「知識」である。その「知識」を「生活に具体化」したモノである。そして「文化=文字コトバ=文字言語観念に化されられるモノ」とは必然的に「他の文化」と接した時点から「融和吸収、相互依存関係」にならざるを得ないのは、「異言語、国語、古語辞典、科学辞典などの存在理由」と同じである。未知なモノを理解するには「コトバ」での意味が必要だからである。既知なモノを他人に理解させるにも「コトバ」での意味が必要だからだ。コトバの原点は人間生活での関係性の相互情報の相互理解である。情報伝達として人間による「音声記憶(暗誦・口伝)」よりも、限界はあるが「文字化(記録保存)」された方が有利である。限界とは読み手の「識字」の学習範囲と、意味理解のレベルである。そして、書き手の意図と意味内容は「読めばワカル」と言ったモノではない。読み手に取って理屈では割り切れない書き手の「価値観」、情緒、感情、妄想、空想などの「抽象化」された「文字」がワンサカ散りばめられているモノも多いからだ。「共通言語の国語」で記録された「憲法」ですら理解、誤解、曲解、ワッカラナぁ~イであるのだから「異言語」ならばなおさらである。
 意図的に読み手が「だまされているコト」を前提に読むモノは「虚構としての小説・モノガタリ」である。読み手に取っては「事実」であろうが、「事実」でなかろうが、「虚実混在」であろうがイイのだ。如何なる形で理解しても、読み手の自由である。だが、「ウソ」を「事実」と考えよ、と強制的に押し付けられたらドウするか。
 国家次元で「一文化の言語、言語観念」を他国家に強制し、するのは「膨脹しようとする国家か、膨脹した国家」である。日本はコレを戦前やったのだ。しかも強制されなくても状況的に国家間での「他文化(言語観念)」を吸収せざるを得ないのは「自国家の支配階級維持」のタメでもある。「国家」であろうが、「共同体」であろうが、「家族」であろうがその生活基盤は「衣食住」を確保するタメの居住地域での諸生産、諸交換と、他地域との交易である。「共通言語」がなければ「交易」は成り立たない。その「共通言語」とは「交換比率」としての「数字=価格単位=貨幣単位」である。
 かって、「ギリシャ語」はローマ帝国支配下の「国際言語」であり、当時の支配階級の「宮廷言語」であった。「軍事暴力での領土を拡張支配」をしたものの、いまだ「先端の知識」は「ギリシャ言語」にあったからだ。それ以前は「エジプト言語」にあったハズだ。オスマントルコ帝国は「ギリシャ語」から「知識」を得た。近世のヨーロッパ諸国はその「アラビア言語」から「知識」を得た。中国をみれば中国領土に侵略、侵入して居座った「北方種族」は「漢字言語」に埋没してしまった。現在的な国際語は「英語・米語」である。基本的に「知識」は「言語観念=文字観念」である。国際的な科学、政治、経済、技術など、その最先端の「言語知識=情報知識」を理解しなければ国家間での「国家支配階級のシステム」は弱体するか、崩壊するのは自明である。そして、世界は今現在、「コンピュータ言語」を習得しなければならない状況にある・・・あらゆる「知識」は国家、階級を超えて人類規模で「普遍化」するだろう・・・が・・・人類間の自由、平等、公平そのものを保障するモノではない。
 「文化」は「知識」を押し上げるが、「暴力」と「自然災害」には如何ともし難い。しかも「文明」は「国家支配階級の暴力」に加担スルのだ。

 現在も過去も、「階級国家=民族国家」を支えているモノは「?殺すな、?騙すな、?盗むな」ではなく、「?盗む」ために、「?騙せ」、「?殺せ」である。もちろん、他民族に対してもである。国内的にも対外的にも「盗みあっている奴」は「似非民族主義」なのだ。
 「ユダヤ・イスラエル国家の律法の一」とは、「隣人(家族同胞)」から「利子(手数料も含む?)」を取ってはならない、とするが、「他国民(他民族・他人種・偶像崇拝の人々)」から「利子(手数料も含む?)」を搾取するのはオッケイとしているのだ。
 現在のあらゆる「国家」は「国内の階級関係」を隠蔽し、「自国民(隣人)からも利子(税金)を搾取」と言う「ユダヤ思想(律法)の一点」を歪曲し、それに埋没しているのだ。「階級国家の基盤を支えているモノ」が「税金(盗んだ金)」での「各国国内支配階級社会の維持」と「国際的諸国家関係での国家維持」だから・・・植民地や属国の被支配階級は二重、三重にも「自国民」としてはもちろん、「他国民」としても「搾取」されているのさッ。

 「国外に存在している自国民が生命の危機に晒されている時」には、少なくても現今の「日本国家」以外の「国家支配者」は「自国民の諸事情」がどうであれ、「個人的自己責任」などとは口が裂けてでも言わない。ましてや「弁護士出身の政治家」であるなら尚更である。また、「拉致」をアイマイにする如何なる「国家」も存在しない。「国家」は「階級組織」だが「日本国家」以外の「国家支配者」は「自国の国籍」を有している「人間」ならば、その「人間の思想」如何にかかわらず「国家エゴむき出し」で、その「危機的状況の人間」の生命の安全と確保を「コトバ」でも「行為実行」に於いてもする。「国家支配者」は、それが理不尽であっても「国家支配の階級維持」のタメに身内はまもる、と「コトバ」では言明するのさ。そして身内で裁かさせろ、と言うのだ。沖縄駐留で「日本人」に罪を犯した「アメリカ兵」は人種、思想、出身階級の如何を問わず、「アメリカ国家」は断固として「アメリカ国籍人」として護っている。「他の諸国家権力者」もコレは同じである。「自国民」が危機に晒され、殺されたら・・・仕返しをするのだ。少なくとも言辞を吐く。これは「任侠道の親分子分」の関係ですらソウである。家族に於いてはどうか?・・・身内が悪人であろうが、法を犯したものであろうが「身内を裏切らない」、少なくても「敵」には自らわたしたくないのが「心情的鉄則」である・・・「拉致国家の支配者側」はどうか?・・・「国家の英雄」と讃えている「拉致実行犯」を・・・「国家」はマモルのだ。
 「身内の繁栄」とは「身内の支配者へ組織化された繁栄」である。そして、「身内の枠内でその恩恵享受」をダレもが願っている・・・「他家の凋落衰亡」はなんのその、「一家のみの繁栄と安全」を・・・「ユダヤのカミサマ」はそれをアブラハムに一方的に「約束=契約」させたのだ。相互契約として一方の「アブラム=アブラハム」が望んだとは「旧約」には記録されてはいない。「アブラハム」は人間としての立場で、葛藤し、疑い、この「カミ」と対話している。だが、この「ユダヤの神」はすこぶる押し付けがましく、「エゴイスト」であることを自らも言っている。「正直者のノア」を最初の段階で救ったのだからその生き残っていった子孫はこの時点からすべて救われるべきだが・・・どうやらこの「神」には「パウロの愛」と言うモノを理解していなかったらしい。「パウロの愛」は「契約の眼中」にもなかったらしい。契約をしたのは現実的な子孫への「生活(圏)の保障」である・・・生き残り、生き残って行く者のタメの「シビアな生命保険契約」であった。
 「パウロのカミ」とは別ものである・・・で、人種、民族、階級階層に関係なく「愛憎」は生きて存在している「人間疎外されているモノ同士の問題」だな・・・

 「愛(憎・ゾウ=怨・オン)」に埋没することなく、「自由・平等・博愛」が「ダレ」のタメの、「ナニ」のタメの「範疇概念」であるかを、現実的な人間関係に立脚した、その人間の観念=概念で、アンタも考えてみるべきだなッ。
ーーーーー

親子関係にも色々あるけれど・・・「托卵」の同音異字カンジ、異音同義・・・

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 ・・・外は暗闇で、ミゾレ混じりの雨と雷鳴、強風・・・TV、スゴイね、ッ、「折り紙」の言語化・・・「NHK・ETV・05  スーパープレゼンテーション・進化するorigami・・・折り紙が、今、驚くべき進化を遂げている。世界中に多くのファンを持つ折り紙作家のロバート・ラングが、医療や宇宙開発の分野で応用が進む折り紙技術を紹介する」・・・
 「origami」の前の番組は・・・再放送で以前にも見たけれど・・・「マルハナバチ」・・・スゴイねッ・・・
 「地球ドラマチックNHK・ETV・孤軍奮闘!女王バチの子育て~密着・マルハナバチの一生~2/9 (月) 0:20 ~ 1:05」・・・
 「たった1匹でネズミから巣を奪い、コロニーを築くマルハナバチの女王。多くの子孫を残し、壮絶な最期を迎える。アルプス・丘陵地帯の四季の草花と女王バチがつむぐ物語。冬を迎える前に死ぬマルハナバチ。唯一、女王バチだけが土の中で冬越しする。雪解けとともに目覚めた女王バチは、たった1匹で巣を探す。土の中にある動物の巣や鳥の巣箱を狙い、時にはネズミと闘うことも。卵を大切に守り、子孫を育て、コロニーを築く。天敵の鳥やクマに襲われたり、農地拡大によって年々花が減ったり…。秋、試練を乗り越えて子孫に命をつないだ女王バチを待つ運命とは…(2013年オーストリア)」・・・だった・・・
 ・・・スゴイねッ、「旧約聖書(エゼキエル)」・・・「彼の預言」は終わったと思っていたけれど・・・どうやら、まだ「プロセス中」・・・人間は「戦争を繰り返す」のだから、「歴史的時間を区切って」も「類似の状況」は当たり前か・・・「神の幻」だったらイイのに・・・事後、後付、結果論の「現実」は現実である・・・「まほろば(真滅場・魔滅葉)」は「真秀」「まぼろし」の警告・・・
 以前、「2013/2/21」でも書き込んだが・・・
 「まほろば」・・・現存古事記原文?(真福寺写本)」では「夜麻登波 久爾能・麻・本・呂・婆」で、「夜(ヤ・よ・埜=木木土→キキド)の的の葉」、「句字に納める、アサ(字・朝)の本の呂(賂)、婆(ナミのオンナ→ザブン、ザブン→座分、座文の天文、夜の星座)」である。類似のコトバは「まぼろし(幻)」だろう。「大法螺の太安万侶」だろう・・・
ーーーーー
  ↓
 エゼキエル書
 第1章
 1:1 第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。
 1:2 これはエホヤキン王の捕え移された第五年であって、その月の五日に、
 1:3 主の言葉がケバル川のほとり、カルデヤびとの地でブジの子祭司エゼキエルに臨み、主の手がその所で彼の上にあった。
 1:4 わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。その火の中に青銅のように輝くものがあった。
 1:5 またその中から四つの生きものの形が出てきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもっていた。
 1:6 おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。
 1:7 その足はまっすぐで、足のうらは子牛の足のうらのようであり、みがいた青銅のように光っていた。
 1:8 その四方に、そのおのおのの翼の下に人の手があった。この四つの者はみな顔と翼をもち、
 1:9 翼は互に連なり、行く時は回らずに、おのおの顔の向かうところにまっすぐに進んだ。
 1:10 顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。
 1:11 彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互に連なり、他の二つをもってからだをおおっていた。
 1:12 彼らはおのおのその顔の向かうところへまっすぐに行き、霊の行くところへ彼らも行き、その行く時は回らない。
 1:13 この生きもののうちには燃える炭の火のようなものがあり、たいまつのように、生きものの中を行き来している。火は輝いて、その火から、いなずまが出ていた。
 1:14 生きものは、いなずまのひらめきのように速く行き来していた。
 1:15 わたしが生きものを見ていると、生きもののかたわら、地の上に輪があった。四つの生きものおのおのに、一つずつの輪である。
 1:16 もろもろの輪の形と作りは、光る貴かんらん石のようである。四つのものは同じ形で、その作りは、あたかも、輪の中に輪があるようである。
 1:17 その行く時、彼らは四方のいずれかに行き、行く時は回らない。
 1:18 四つの輪には輪縁と輻とがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。
 1:19 生きものが行く時には、輪もそのかたわらに行き、生きものが地からあがる時は、輪もあがる。
 1:20 霊の行く所には彼らも行き、輪は彼らに伴ってあがる。生きものの霊が輪の中にあるからである。
 1:21 彼らが行く時は、これらも行き、彼らがとどまる時は、これらもとどまり、彼らが地からあがる時は、輪もまたこれらと共にあがる。生きものの霊が輪の中にあるからである。
 1:22 生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。
 1:23 大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。
 1:24 その行く時、わたしは大水の声、全能者の声のような翼の声を聞いた。その声の響きは大軍の声のようで、そのとどまる時は翼をたれる。
 1:25 また彼らの頭の上の大空から声があった。彼らが立ちとどまる時は翼をおろした。
 1:26 彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。
 1:27 そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。
 1:28 そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。わたしはこれを見て、わたしの顔をふせたとき、語る者の声を聞いた。
 ↓
 「またその中には四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれが4つの顔を持ち、4つの翼を持つていた。脚はまっすぐで、脚の裏は子牛の脚の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また翼の下には4つの方向に人間の手があった。4つとも、それぞれの顔と翼を持っていた」・・・「翼を持つ4つの生き物は人間(女性?)、ライオン、雄牛、ワシなどの顔をあらわす。戦車には人間が乗っている」
 四つの生き物
 新約聖書の書記たちを象徴
 「鷲・人間(女性)・牛・獅子の姿」+「両翼+手には聖書」・・・
 5) その火の中に
   4個の生物にてなる
   1個の形が見え、
   人間の形のようであった。
 6) おのおの四つの顔あり。
   おのおの四つの翼あり。
 7) その足は直なる足。
   その足の裏はまるみを帯びて、
   みがかれたる銅のごとくに光れり。
 8) その生物の四方に
   翼の下に人の手あり。
   この4つのもの、みな顔と翼あり。
 9) その翼は、互いに相連なり、
   行く時に回転しないで、
   おのおのその顔の向かう方向に行く。
 10) その顔の形は
       人の顔のごとし。
    右には獅子の顔、
    左には牛の顔、
    鷲の顔あり。
 11) その顔と
       その翼は上に伸ばされ、
       翼二枚は、
       相連なり、
       二枚その身をおおう。
       ↓↑
 ・・・コレって、「UFO=未確認物体=空飛ぶ円盤」・・・?・・・「未承認・未商人・未証人・未昇任・未上人・未聖人・未小人」の「物体」だろう・・・
 「マルコ」のシンボルは
 「獅子(ライオン)」だったけれど・・・
 「牛(うし=丑・主)」のシンボルは
 「ルカ」とされる・・・
 「鷲(わし=酉・禽)」のシンボルは「ローマ」・・・
 「人間の姿」に両翼ならば大天使の「ミカエル・マイケル」・・・
ーーーーー
 ルカ
 (Λουκᾶς・Lukas・路加)傳
  ↓ 
 ギリシア語発音は
 「ルカス」
 「ルカによる福音書」
 「使徒行伝」の著者
 カトリック教会の記念日は
 10月18日
 正教会の記憶日は
 4月22日(5月3日)
 日本語表記は
 「路加」・・・路を加える・・・
        新道路の延長
        地理書・輿(地図)
        「全ての道はローマに通じる」
        羅(馬)加(化・科・禍)
        瑠可・瑠香
        留華(支那)
        露花→梅雨花・・・露西亜の花
        ロカ=濾過・芦花
           蘆花(徳富蘆花)?
  ↓
 「ルカによる福音書・使徒行伝」
 「ルカ文書」
 「新約聖書」に
 「ルカ」という名前が
 「パウロの書簡」の協力者とし記録
 「コロサイ書」には
 「愛する医者ルカ」
 福音記者ルカの職業
 「医者」
 ルカは
 パウロの最初の
 マケドニア宣教
 マケドニアからエルサレムへ
 エルサレムから
 ローマへの護送に付き添っていた
 ルカおよびルカ福音書は
 「牛(うし=丑・主)」のシンボルとされる
 「エゼキエル書(1-10)」に登場する
 四つの生き物
 (天使・鷲=鷹・獅子=ライオン・牛)の
 「牛」に由来
  ↓
 「ルカはシリアの
  アンティオキアの出身で、
  シリア人、
  職業は医者」
 「ルカは
  独身で、
  八十四歳
  でなくなった」
 「ボイオティアの
  テーバイ
  で84歳で死亡
 聖母マリアの絵を描いた
  ↓
 ヨーロッパ中世の
 画家・薬剤師のギルドは
 「ルカ」→シンボル「牛」→牛頭大王→祇園祭
 を守護聖人としている
 「ルカ文書の筆者」は不明・・・
ーーーーー
  ↓↑
 エドワード・ジェンナー
 (Edward Jenner)
 1749年5月17日~1823年1月26日
 イギリスの医学者
 種痘法を開発した
 近代免疫学の父
  ↓
 ・・・「ジェンナー」は「牛痘の種痘」・・・「イギリスでは天然痘はしばしば流行していた。これに対する予防法としては18世紀初頭に、天然痘患者の膿疱から抽出した液を健康な人間に接種するという
 人痘法が
 アラブ世界からもたらされたが、この予防法では接種を受けた者の2パーセントは重症化して死亡するなど、危険を伴うものであった」、
 「1798年、これを発表し、その後、
  種痘法はヨーロッパ中にひろまり
  1802年、
  イギリス議会より賞金が贈られたが
  医学界はこの名誉をなかなか
  認めなかった。
  また一部の町村では、
  牛痘を接種すると
  牛になると言われて苦労したが、
  接種を
 「神の乗った牛の聖なる液」
  と説明したと言われる。
  しかしその後の
  天然痘の大流行を機に
  ジェンナーの
  種痘法は急速に普及し、
 彼は
 「近代免疫学の父」と呼ばれるようになった。
 その後天然痘ワクチンは改良されて世界で使われ、
 1980年には天然痘の根絶宣言・・・?
  ↓
 「鳥の習性にも造詣が深く、
  カッコウ(郭公)→「郭務悰」→書く夢想
  の
  托卵や
  鳥の
  渡りを研究した」・・・
 「日本書紀」の原点は
 「郭公」鳥の「托卵」、「渡り鳥の習性」が鍵(キイ)だろう・・・「同音異字漢字、同義異字、異義同音のコトバ」・・・同義医事の・・・天国なのか地獄なのか、幕末、明治の廓(くるわ・郭・クルワ)の遊女と遊び人(遊男)の事情、情事・・・「茶柱の悲喜劇」・・・
  ↓↑
 「郭務悰」は
 「日本書紀・天智天皇・二十六巻」に
 登場する正体不明な人物・・・
 白村江の戦い
 663年
  ~
 666年
  ↓↑
 「郭務悰」来朝
 664年と665年
  ↓↑
 天智天皇七年
 668年
 正月三日
 「日本」の国号の初見
  ↓↑
 「郭務悰」
 来朝の
 重複記事
 669年
 と
 671年11月
  ↓↑
 「唐国の使人
  郭務悰
  等六百人、
  送使
  沙宅
  孫登
  等千四百人、
  総合べて二千人が
  船
  四十七隻に乗りて
  倶に比知嶋に泊り・・・」
  ↓↑
 664年
 5月17日
 天智三年
  ↓↑
 百済鎮将の
 劉仁願が、
 朝散大夫
 郭務悰
 等を遣わし、
 表函と献物を送り届けた
 10月1日
 郭務悰
 を送り出す勅
 藤原(中臣→中富・中登美)鎌足
 は
 沙門智祥を遣わし、品物を
 郭務悰に贈
 10月4日
 郭務悰
 等を饗応
 12月12日
 郭務悰
 等が帰途
  ↓
 665年
 9月23日
 朝散大夫
 沂州
 司馬
 上柱国
 劉徳高
 等(254人)
 右戎衛郎将
 上柱国
 百済祢軍
 朝散大夫
 柱国
 郭務悰
 を派遣
 7月28日
 対馬
 9月20日
 筑紫に到着
 9月23日
 表函を奉る
 10月23日
 菟道で閲兵
 11月13日
 劉徳高
 等を饗応
 12月14日
 劉徳高
 等に物を賜
 12月
 劉徳高
 等は帰途
  ↓
 667年
 11月9日
 天智六年
  ↓
 百済鎮将
 劉仁願が、
 熊津都督府
 熊山県令
 上柱国
 司馬
 法聰
 等を遣し、
 大山下
 境部連
 石積
 等を
 筑紫都督府に送ってきた
 11月13日
 司馬
 法聰
 等が帰国
 小山下
 伊吉連
 博徳
 と、
 大乙下笠
 諸石
 をもって、使者を見送る
  ↓
 668年
 1月3日
 天智七年
 天智天皇即位
  ↓
 669年
 10月16日
 天智八年
 藤原内大臣(鎌足)薨去
 第5次
 遣唐使
 小錦中
 河内直鯨
 等を派遣
  ↓
 671年
 1月2日
 大友皇子
 太政大臣
 1月13日
 百済鎮将
 劉仁願が、
 李守真
 等を遣わして、上表
 7月11日
 唐人
 李守真
 等と
 百済の使人等帰途
 11月2日
 沙門の道久
 筑紫君の薩野馬
 韓嶋の勝娑婆
 布師首の磐
 等四人が唐から帰国
 「唐国の使人
  郭務悰等600人、
  送使
  沙宅
  孫登等1400人、
  総計2000人、
  船47隻で
  比知島に停泊」
  相談し
  11月10日
  「・・・そこで
   道久
   等を遣して、
   前もって来朝の意を伝えたし」
 と、
 対馬国司が使いを
 太宰府に派遣報告
 12月3日
 天智天皇
 近江宮で崩御
  ↓
 672年
 3月18日
 内小七位
 阿曇連
 稲敷を筑紫に派遣し、
 天皇崩御を
 郭務悰
 等に報告
 郭務悰
 等は、喪服を着て、
 三度哀の礼を奉じ、
 東に向って首を垂れた
 郭務悰
 等は再拝し、
 書函と品物を献上
 5月12日
 甲冑弓矢を
 郭務悰
 等に賜る
 郭務悰等への賜物は、全部で
 「あしぎぬ」1673匹、
 「布」2852端
 「綿」666斤
 6月30日
 郭務悰
 等、帰途
ーー↓↑ーー
 重複記事
ーー↓↑ーー
 664年
 5月17日
 百済の鎭将
 劉仁願、
 朝散大夫
 郭務悰等を遣して、
 表函と獻物とを進る
 10月1日
 郭務悰
 等を發(た)て遣す勅を宣たまふ
 是の日に、
 中臣内臣、
 沙門
 智祥を遣して、物を
 郭務悰
 に賜ふ
 10月4日
 郭務悰
 等に饗賜ふ
 12月12日
 郭務悰
 等罷り帰り・・・
ーーーーー
  ↓
 ジョン・ハンター
 ・・・「ジョン」の頭蓋骨と脳ミソを「ハンター」する・・・
  ↓
 (John Hunter)
 1728年2月13日~1793年10月16日
 イギリスの解剖学者、外科医
 「実験医学の父」「近代外科学の開祖」
 「安易に手術を行うことに慎重であり、
  症例によっては
  自然治癒に任せた。
  教師としては、
  観察し、比較し、推論
  することを学生に要求」・・・
  論文は
 『ヒト歯の博物学
  および
  歯疾患の報告』・・・
 「エドワード・ジェンナー」
 とは
 師弟関係
 狭心症で死亡
 解剖教室のための死体調達で
 レスター・スクウェアの家は
 「ジキル博士とハイド氏」のモデル・・・になった・・・

 

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