・・・「今更、なんだ・・・」、「今となっては、どう(如何)しようもない」、「終わったことだ、どう(如何)しょうもない」、「最早(もはや)、どう(如何)しょうもない」・・・「如何(いかん)ともしょうがない」・・・ナントかしろ・・・「償え」って・・・「賠え」って・・・ナニを?・・・もはや、手遅れであるカナ・・・
・・・「だから、云ったじゃないか」・・・
I told ya!・・・
I told you this would happen.
I told you so.
アイ トールド ユウ ソー
蛙意 訳乎留怒 有 想(素得)
ーーーーー
已んぬる哉
慨嘆・絶望の辞
「やんぬる」は「やみぬる」の音変化
「已矣・已矣乎・已矣哉」などの訓読み
今となっては、どうしようもない
「弓折れ矢尽きた。已んぬる哉」
↓↑
已=やむ・やめる・止・すでに・もはや
のみ・だけ・ばかり
はなはだ
已下(イカ)・已降(イコウ)・已来(イライ)・已然(イゼン)
「己(コ)・巳(シ)」は別字
既已(すでに)・業已(すでに)・而已(のみ)
已然(イゼン)・已(すで)に・已(や)む
矣(イ)=厶+矢
異体字、𠤘・𢦕
文末の助字・断定・推量・疑問・反問・感嘆・詠嘆などを表す
…である・…だなあ・…だろう
文末に置いて、その文を強調
哉=十+一+口+戈=土+口+戈
=や・かな・はじめ・サイ
かな・…だなあ・詠嘆の助字・快哉
や・か・…であろうか・反語・疑問の助字
↓↑
兮=八+丂(コウ)=ケイ・ゲ
矣(イ)・焉(エン)・也(ヤ)
置き字で文末に置いて、文を強調
兮(ケイ)は
文中のバランスを整えるため使用
「兮」が出ても漢字の意味は無い
↓↑
膝行=躄(いざる)・膝や尻をついて移動すること
足が立たない人
膝行(シッコウ)
神前や貴人の前などで
ひざまずき
ひざがしらをついて進退すること
膝行三度=膝行作法
左膝・右膝・左膝の順に
合計三度で進み出る
膝行・膝退=跪坐の姿勢から
片膝を立てながら
前進あるいは後退する動作
膝行=おそれ敬う気持ちを表すため
神前や貴人の前などでひざまずいき
そのまま膝で進退すること
座礼のひとつ
膝頭(ひざがしら)で進んで礼拝し
膝頭で退くこと
神前などでひざをついたままで進み退くこと
↓↑
惆悵=恨み嘆くこと・いた(悼)み悲しむこと
物事を嘆き恨む
regret to lament over a thing.
↓↑
晨光=夜明けの陽光,曙光(ショコウ)
早朝、鶏がときを告げること
二十八宿の一つ、房星
ひかる・ひかり・明るくかがやく
外に照りはえるかがやき
目だつ才能や名声・光を発散させる
みがきをかけて浮きだたせる
相手の行為を光栄とする意
発散し尽くす意から、全部尽き果てるさま
↓↑
衡宇=門の横木と家の屋根・転じて、粗末な家
三逕=三筋の小道
壺觴=酒つぼと、さかずき
羽觴=雀の形に作って
頭部や翼などをつけた杯、酒杯
羽觴を飛ばす
李白「春夜宴桃李園序」から
盛んに酒杯のやり取りをすること
↓↑
眄(ベン)=目+丐(こう・カイ・ガイ)
流し目で見る・流眄
わき見をする
右顧左眄
かえりみる
一眄(イチベン)・眷眄(ケンベン)
顧眄(コベン)
丐=乞う・ねだる・ものごい・こじき
丐子・丐取・丐命
乞(キツ)・乞丐(キッカイ)
↓↑
憩流=憩潮=潮流=潮の流れ・海水の流れ
潮汐によって生じる海水の流れ
↓↑
倦(うん)で=あぐんで
倦=刺身の下に敷く野菜・大根などの千切り
↓↑
盤桓=うろうろと歩き回ること
ぐずぐずすること
↓↑
崎嶇(キク)=険しいこと・容易でないこと
辛苦
↓↑
耘耔(ウンシ)=除草する・取り除く・耕す
芸(ウン)と通じる
「或耘或耔(詩経・甫田)」
耘・耔と対で使われる
耘=くさぎる・ウン
耔=つちかう・シ
苗の根本に土をかける意
ーーーーー
・・・タケルのムクイ・・・「一兵卒の無自覚」なセンソウ行為者・・・の報い・・・
膝行(シッコウ)=躄(いざる)・膝や尻で移動すること・足が立たない人?
「金有り哉」・・・キラウエア(Kilauea)火山爆発
・・・米ハワイ州ハワイ島、3日噴火、4日も午後5時(日本時間4日正午)前に地表に熔岩噴出、マグニチュード(M)6.9 の地震、キラウエア(Kilauea)火山爆発・・・
Hawai'i=Ha(ハ)=息、呼吸
Wai(ヴァイ)=水
'i(イ)=霊魂・魂魄・spirit
「火の鳥=Phoenix・フェニックス」は飛びったったのかな・・・
「Dinah Shore - Blue Canary・青いカナリア」は
「ダイナ・ショア」だった・・・
「黄色い鳥」、「Canary Yellow?」・・・
「マリーゴールドイエロー=カナリアイエロー」・・・?
キラウエア=ハワイ語で「噴き出す・多くまき散らす」意味・・・「カナリア」・・・「金有り哉」・・・「唄(口+貝・ウタ)を忘れたカネリア」・・・「忘れたウタを思い出す」・・・災害、人災は忘れた頃にヤってくる・・・
「カナリア諸島(スペイン語=Islas Canarias)・アフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋上にある、スペイン領の7つの群島・カナリアス諸島とも」・・・
ランサロテ・フエルテベントゥラ
グランカナリア
テネリフェ・ゴメラ・ラパルマ
イエロ (フェロ)
の7島と周辺の小島から成る
ラスパルマス・カナリア諸島
緯度:北緯27.92 °
経度:西経15.38 °
ーーーーー
焉(エン)=「正+鳥」の会意
↓↑ 美しい鳥
焉の助字の意は仮借
原意は
「嫣=女+焉」・・・嫣然⇔婉然・宛然・艶然
容貌が美しい・器量よし・あでやか
色彩が鮮やかな・嫣紅
鮮やかな赤の
嫣然=笑顔がつやっぽい
にっこりほほえむさま
嫣然一笑
↓↑「黄色い鳥」の象形・・・種類?
・・・ヒヨコ(雛・ひな)
ひよこ(雛)
にわとり(鶏・鷄・雞・二和鳥)のヒナ鳥
↓↑↓↑ ↓↑
矮鶏(チャボ)・・・矮(𠂉一人)=矢+委(禾女)
↓↑ 「𠂉=かみ(髪・神)挿(指)しの
一=初めの
人=人(ひと)は
禾=能義(退き)の
女=おんな」は
↓↑ 「卑弥呼」・・・?
烏骨鶏(ウコッケイ)・・・香良洲の酷刑?
羽色は白か黒で
皮(ヒ・かわ)、肉(ジク・にく)、骨(コツ・ほね)
↓↑比・掛倭 字句・似句 呼通・保音
は暗紫色
↓↑ ↓↑
「烏(からす・ウ)」の訓読みは
「烏んぞ=いずくんぞ=焉んぞ=奚ぞ」で
同義として使用
↓↑
「にわとり」は卵を何個か産んだ後に抱卵するが
品種改良で現在の養鶏種では
採卵用の鶏として
抱卵をしないように改良されている
↓↑ ↓↑
「黄色い鳥」の象形・・・種類?
カナリア
canaria
金糸雀
↓↑ ↓↑
コウライウグイス
Oriolus chinensis
高麗鶯(こうらいうぐいす)は
黄色のウグイス(鶯)
↓↑ ↓↑
「ホーホケキョ」・・・法、法華経?
が
他の鳥に対する縄張り宣言
巣にエサを運ぶメスに対する
「縄張り内に危険なし」の合図
「ケキョケキョケキョ」・・・氣去?
が
侵入した者や外敵への威嚇
↓↑ ↓↑
キンケイ
Oriolus chinensis
錦鶏=金鶏
胸が赤いが、全身黄色い鳥もいる
↓↑ ↓↑
ヤマキヌバネドリ
Harpactes oreskios
山絹羽根鳥
↓↑ ↓↑
ひわ・・・比和(倭)・悲話・秘話・比話(把)・肥話
アトリ(集鳥)科の小鳥の総称
集鳥=あとり
花鶏(あとり)=臘觜(ロウシ)鳥
=獦子(カッシ)鳥
=Finches(フィンチ)
「金翅雀」・「鶸(ひわ)」
スズメに似た
黄色い翅(はね)の鳥
頭部は黒っぽい
↓↑
助字、「于是・於此」と同義
文末に置いて
比較の表現に使われ
意味が軽くなり語気を示す置き字
↓↑訓は「いずくんぞ」
焉(エン)=いずくんぞ・なんぞ・ここに
いずくにか・これ
ようすを表す語に添える助字
状態を示す
溘焉 (コウエン) ・忽焉 (コツエン)
「ここに」の意を添える助字
終焉(シュウエン)
少焉 (しばらく・しばらくして)
↓↑ 焉爾 (のみ)
烏焉魯魚(ウエンロギョ)
字を書き間違えること
文字の誤り
写し誤り
「烏」と「焉」
「魯」と「魚」
字形の類似
魯魚焉馬
烏焉馬
烏焉
↓↑
焉=「於是・於此」の意を表し
文末におかれる
「ここに」と読む
「於是・於此」の意を表し、文末におかれる
形容詞につける助詞
状態をあらわす
類義語は然、似
「や・か」と読み
「~か・~であろうか」
「少焉(ショウエン)
「頃焉(ケイエン)」
の連綿字・・・連綿=切れ目なく延々と続く様
燕(エン・つばめ・鷰・鳦・乙鳥)
に似た
黄色い鳥・・・?・・・
↓↑↓↑↓↑
カナリア
(金糸雀)=スペイン語の「canaria(カナアリア)」
ラテン語で「犬」を意味する「canis」
カナアリア
仮名有 蛙(鴉・ア)は
「犬・狗・戌=狗奴国(くなこく)」の
「卑彌弓-呼素
-不和」
・・・不倭=不破・不窪・付和・附和
「其八年、
太守
王頎(斤頁)
↓↑・・王頎(オウキ)
頎=端正・端整・キ・ゲ・キン・コン
みめかたちがよい
↓↑ 頎⇔斤+頁⇔斧の頁⇔小野の頁
到官。
↓↑ ↓↑↓↑
王頎
姓は王
名は頎(斤頁)
字は孔碩・・・碩=おおきい・すぐれる・セキ
青州東莱郡の生まれ
245年
玄菟郡の太守
丸都から逃走した
高句麗王
位宮を
毋丘倹に命ぜられ追撃
沃沮を通り
粛慎の南端までたどり着き
石碑を建てた
道中の老人の話
「東の海の彼方の島に流れ着くと
言葉が通じず
七月に童女を
海に沈める習慣を持った国があった
他に女ばかりで
男のいない国もある」と・・・
248年
帯方郡
太守に就く
倭の女王
卑弥呼は
狗奴国の男王の
卑弥弓呼と戦争状態
その旨を
帯方郡に
載斯烏越などの
使者のを遣わし知らせてきた
王頎は
塞曹掾史(守備役人)の
張政を派遣し
難升米に
仮に
詔書・黄憧を
受け渡し檄文で告諭した
263年
天水太守
蠟艾に命ぜられて
姜維の本陣に
進軍、追撃し
姜維を破った
(魏書・毋丘倹伝、東夷伝、蠟艾伝)
↓↑ ↓↑ ↓↑
王頎(斤頁)は
蠟艾に命ぜられ
一万五千の兵を率いて
諸軍と協力し
姜維を漢中から撤退させ
沓中では姜維と刃を交え
負けて撤退
(演義)
↓↑ ↓↑ ↓↑
王頎(斤頁)は
蜀が平定されると
蠟艾に
益州の
↓↑ ↓↑ 益州・・・四川盆地と漢中盆地一帯
前漢末
公孫述が益州を占拠したが
光武帝に攻め滅ぼされた
後漢の益州
漢中郡・巴郡・広漢郡・蜀郡・犍為郡
牂牁郡・越巂郡・益州郡・永昌郡・広漢属国
蜀郡属国・犍為属国
↓↑ の12郡国118県を管轄
長官に任命された
↓↑ ↓↑
帯方郡の太守
と
天水郡の太守・・・歴任・・・
↓↑天水郡・・・漢代~唐代
甘粛省天水市一帯に設置
紀元前114年(前漢の元鼎三年)
天水郡設置
天水郡は
涼州に属し
平襄・街泉・戎邑道・望垣
罕幵・綿諸道・阿陽・略陽道
冀・勇士・成紀・清水・奉捷
隴・豲道・蘭干
の16県を管轄
王莽のとき
填戎郡と改称
後漢が建国後
天水郡の称に戻され
74年(永平十七年)
↓↑漢陽郡と改称
↓↑ ↓↑
「其八年、
太守(大帯群)
王頎(斤頁)
倭女王
卑彌(ひみ)・・・彌=弓+爾=ビ・ミ
-呼(こ)
與
狗奴國・・・・狗(いぬ・ク)の奴の國
男王
卑彌弓(ひみきゅう)
-呼(こ・?)
素(?)
↓↑ ↓↑
(呼素)・・・・?
↓↑ ↓↑
不和、・・・・「呼素、不和=不破」?
遣倭 和にあらず・破れず?
載斯
烏越・・・・・烏越(ウエツ・香良洲越え?)
等
詣郡、
説相攻撃状。
遣
塞曹掾史
張政
等
因齎・・・齎した=もたらした
詔書・黄幢、
拜假
難
升米
爲
檄告喩之。」
↓↑ ↓↑
狗奴國?=鹿児島=薩摩=隼人
可児州=カニス(canis)=鹿児島?
蟹 巣
・・・猿蟹合戦・・・秀吉vs島津?
猿(握り飯)と、蟹(柿の種)が
食料交換をメグッて蟹が殺され
子蟹が猿に殺された親蟹の敵を討つため
「栗・臼・蜂・牛の糞」の助太刀で
(句理・得諏・葉知・得史の文)?
敵討ちを果たしたハナシ
同様の説話は
中国の少数民族の
「ヒヨコの仇討ち」があるらしい・・・
比余語(比予後・比横)
「canis=狗・犬」ではなく
「海豹・水豹=あざらし」との説も・・・
ーーーーー
連綿語
二音節からなる単純語
(語源的に複数の要素に分割できない語)
をいう名称
一音節目の
頭の子音と
二音節目の
頭の子音が
一致する双声、あるいは
一音節目と二音節目で
頭の子音以外が一致する畳韻を持つ
「逍遥(めぐりあるく)」や
「酩酊(酔っているさま)」
のように、一音節目と二音節目で、
部首を同じくする
形声文字を使って書くものが多い
が、
「猶予」や
「参差(ふぞろいな様)」
のような語もある
一つの語に複数の表記がある
「匍匐(ホフク)」は、
古典では
「匍伏・蒲伏・伏服・俯伏」と記録
固有語だけでなく
借用語で
二音節の単語も含む・・・同音異字はドウか?
↓↑
連綿語・・・連麺・練緬
↓↑
齷齪(アクセク)=気をもみ行為を急ぐさま
偓 促・悪塞く
慇懃(インギン)=ねんごろなさま
印 銀・韻吟
鸚鵡(おうむ)=鳥の名
雄 武・王蟲・桜夢
膃肭(おっとつ)=膃肭臍(おっとせい)
乙 凸・乙津戸津
邂逅(カイコウ)=偶然性や一回性の出会い
開 港・海幸・海溝・開校・開講・開口
傀儡(カイライ)=あやつり人形
魁 蕾・界雷
矍鑠(カクシャク)=壮健な老人
各 尺・客酌・格釈
混沌(コントン)=無秩序・混乱した状態
渾 沌=今頓
珊瑚(サンゴ)=生物の名
産 後・三語・山後・纂語・蚕子
獅子(しし)=動物の名・ライオン
刺史・史誌・宍・肉
芍薬(シャクヤク)=植物の名
綽 約・釈訳
憔悴(ショウスイ)=疲れ切った顔つきのさま
小 水・将帥・傷忰
逍遥(ショウヨウ)=めぐり歩き、散策する
小 葉・商用・床用・賞用・小用・昇陽・・・
鶺鴒(セキレイ)=鳥の名
関 礼・籍令・籍戻・・・
齟齬(ソゴ)=くいちがい
祖語・十川
躊躇(チュウチョ)=ためらうさま
虫 除・冲貯・・・
丁寧(テイネイ)=親切な人への応対
叮 嚀・綴婦負
蟷螂(トウロウ)=カマキリ・蟷螂の斧
螳 螂・燈籠・灯篭
髑髏(ドクロ)=頭の骨
読 路・毒蕗
徘徊(ハイカイ)=あちこちを歩き回るさま
俳 諧・廃回・誹諧
溌剌(ハツラツ)=釣られた魚のはねるさま
溌 溂
篳篥(ひちりき)=笛の一種
小童力・飛馳利器
葡萄(ブドウ)=植物の名・・・匍匐(ホフク)
無道・武道・武堂
鳳凰(ホウオウ)=想像上の鳥
法皇・訪欧・芳翁・・・
彷彿、髣髴(ホウフツ)=ぼんやりと見えるさま
日本語では「~を彷彿・髣髴とさせる」で
「何となく~を思わせる・~を連想する」
匍匐(ホフク)=はう(這う・匍う・貼う)
匍伏・蒲伏・伏服・俯伏・・・保福・屠く
酩酊(メイテイ)=非常に酔っているさま
明 帝・迷亭・名庭
滅裂(メツレツ)=支離滅裂
烕 烈
魍魎(モウリョウ)=魑魅魍魎・化け物、妖怪
猛 龍・網漁・毛量
朦朧(モウロク)=ぼんやりとしているさま
耄 碌・毛録
猶予(ユウヨ)=留保された(短い)時間
有余・優依・悠依
林檎(リンゴ)=植物の名・果実
苹果・凜吾・倫伍・輪語
連綿(レンメン)=長く連なるさま
轆轤(ロクロ)=回転器具の名
鹿 路・賂句路
ーーーーー
・・・ウタを忘れたカナリアの色って・・・青黄赤・・・
戦友・・・岸壁の母・・・ヨイトマケの唄
・・・前回、貼り付けたモノの漢字「鄧=登+阝」が「蠟=虫+巤」に文字化けていた・・・蠟=ワックス(wax)=蜡・蝋・・・何を唄っても上手い歌手って、本当に「天才」・・・「星」も「理論」どうりに出ているのが不思議に思う・・・
ーー↓↑ーー
島津・亜矢
↓↑
岸壁の母
旅愁
麗人抄
マイ・ウェイ
島津亜矢/布施明
Unchained・Melody
出世坂(16歳)
青い珊瑚礁
裏町酒場
逢いたくていま(MISIA)
糸
ヒーロー
あなたに逢いたくて~Missing・You~
Mary・Jane
望郷じょんから
さくら
飾りじゃないのよ涙は
哀愁列車
I・Will・Always・Love・You
ヨイトマケの唄
浪曲子守唄
ジェラシー
飾りじゃないのよ涙は
恋人よ
勝手にしやがれ
戦友
都会の雀
兄弟仁義
おてもやん
黒田節
人生劇場
古城
桃色鴉
温故知新
大器晩成
↓↑
ーーーーー
「卑湛」?・・・ナゼ、名前が「卑湛」なんだか?
『三国志』
巻十七・張郃伝・・・ナゼ、
「巻(カン)十七・張の郃」の傅なんだか?
↓↑ 重漆・葉瑠の合の阝(邑・ユウ)
張郃は・・・郃=合+阝(邑)・・・張政=調整
武将でありながら
儒学を愛好し
同郷の儒学者である
「卑湛」・・・湛=たたえる・タン・チン
しずむ・たたへる
(氵=サン隋)+甚=はなはだ)卑しい
纂隋、 甚だ賎しい???
卑湛=卑弥呼をミズに沈ませる?
卑弥呼を神代にタタエル?
・・・道教の儒学者が「卑湛(ヒタン・悲嘆)」?
を推挙し、詔で称えらえた
「張郃
雖
武將
而
愛樂儒士
嘗薦同鄉
(卑)湛
經明行修・・・九年(1076)三月甲戌(十九日)
↓↑ 進士の策問に律義と断案を試験
哲宗の
元祐元年(1086)
夏四月辛亥(二十四日)
司馬光が
↓↑ 経明行修科を設けるよう訴えた
「經の明行を修」・・・經は明王朝の行(瓊)を修
明王朝(1368年~1644年)
朱元璋が元を逐って建国
元末の天暦元年(1328年)
濠州の
鐘離(安徽省鳳陽県)の
貧農の末子として生まれた
飢饉・凶作が頻発し
家族は飢え死にし
彼(朱元璋)は托鉢僧とし流浪し
↓↑ コジキ(乞食)をしながら生き延び
その後
至正十一年(1351年)
白蓮教徒が各地で反乱
紅巾の乱が勃発
朱重八(朱元璋)は
系紅巾軍の一派
郭子興
の旗下で頭角を現し
養女の
馬氏(馬皇后)を妻に貰った
↓↑ ↓↑
洪武帝(コウブテイ)
朱重八(シュジュウハチ)
朱興宗(シュコウソウ)
紅 巾(コウキン)軍に参加し
朱元璋(シュゲンショウ)と改名
字を
国 瑞(コクズイ)
↓↑
・・・經を明(あきらか)に行を修(おさむ)
↓↑ 詔曰「…今將軍外勒戎旅
內存國朝
朕嘉將軍之意
今、擢(卑)湛為博士」・・・擢=抜擢=えらばれる
↓↑
張郃
劉備(蜀)が
警戒する魏将
関羽を大敗させた
楽進
張郃で
諸葛亮
ら蜀の将兵は
張郃を恐れた
↓↑
功績があった魏将
張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃
↓↑
「(張)郃
雖
武將
而
愛樂儒士
嘗薦(ショウスイ)・・・嘗=かつて・こころみる・なめる
同鄉
卑湛
經明行修
詔曰
「…今將軍外勒戎旅
內存國朝.朕嘉將軍之意,今擢湛為博士」
(魏の張郃は武将ながら儒者を尊び
同郷の
卑湛を経明行修に推薦し
卑湛は博士となった」・・・
↓↑
「顰蹙(ヒンシュク)をかう」
↓↑
「卑=甶+ノ+十
甶(フツ・フチ・ヒ)=鬼、亡霊の頭
囟(ひよめき・シン・シ)
=嬰児の頭蓋骨の割れ目
囟=丿+龱(囗乂・囗乄)・・ 思
恩=因+心
知恩・報恩の者・・・恩師
異体字、𠈀・𠔋・𠙷・𠚁・䏤・𦞤
𩒦・䪿・𩔙・顖・𩕄・𦥓
傀儡(カイライ)
卑=ひくい・いやしい
地位や身分が低い
「卑賤(ヒセン)・尊卑(ソンピ)」
心がいやしい・下品な
「卑屈・卑俗」
いやしめる・さげすむ
「卑下」
自分のことをいうときの謙称
「卑見」
ちかい・身近な
「卑近」
書きかえ
「鄙(ヒ)」の書きかえ字
下卑(ゲビ)・尊卑(ソンピ)・野卑(ヤヒ)
卑官(ヒカン)・卑怯(ヒキョウ)
卑金属(ヒキンゾク)・卑屈(ヒクツ)
↓↑
卑=いやしい・いやしむ・いやしめる
身分や地位が低い・価値が劣る
「卑賤・卑属・卑金属・尊卑」
品性が劣る・下品
「卑俗・卑劣・卑猥・野卑」
低い位に置く・いやしめる
へりくだる
「卑称・自卑・男尊女卑」
「卑官・卑見」
土地が低い・「卑湿」
「鄙」の代用字
↓↑
α+卑
鼙・鵯・髀・顰・鞞・陴・錍・郫・貏
豍・諀・裨・蠯・螷・蜱・薭・萆・脾
聛・粺・簲 簰・篺・箄・稗・禆・碑
睥・痺・琕・猈・牌・焷 渒・椑・朇
捭・庳・崥・婢・埤・啤・俾・䴽・䱝
䰦・䫌・䡟・䠋・䚜
↓↑
「鵯=卑+鳥=ひよどり・ヒヨドリ・ヒエドリ
鵯・Hypsipetes amaurotis)
スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属」
↓↑
天水太守、「鄧艾」・・・「鄧=登+阝」→「蠟」
↓↑
「鄧=登+阝」が「蠟=虫+巤」に文字化け
蠟=ワックス(wax)=蜡・蝋
鄧=登+阝(邑⇔阜)・・・異体字=邓
鄧=登+阝
文字化け
蠟 ⇔鄧
蠟艾⇔鄧艾(トウガイ)・・・当該?
艾=もぐさ・ガイ
「登+阝」=春秋時代の国名・河南省鄧州
地名・姓
「鄧小平トウショウヘイ」
↓↑
鄧(登+阝)・-・中国の春秋時代の諸侯国の一つ
曼姓・小国であり何度か都を遷した
楚に滅ぼされた
↓↑
国名、姓
「曼姓の國・南陽に屬す
(登+阝)=邑に从ひ登聲(説文解字・巻六)」
↓↑
「登+阝+艾」は
蜀の平定
屯田制と運河開通への貢献
地図作成で全国各地へ派遣され地図を作成
それを元に「済河論」を著し
水害対策と食料備蓄の両方を達成
蜀進攻の際
天険の陰平を突破し
綿竹等を攻略
劉禅を降伏させた
略奪を行わなかったため
蜀の民に称えられた・・・
↓↑
忘年の交わり
三国志演義
鄧艾(登+阝+艾)が
陳泰と
結んだ
彼は
毌丘倹の反乱鎮圧に参加した後
姜維の北伐軍と戦い
狄道(テキドウ)の戦いで
王経の窮地を救い
共闘した
陳泰から評価され
10歳以上年齢の離れた
彼ら(鄧艾の方が年上)は
「忘年の交わり(年齢差を越えた交わり)」
を結んだ
↓↑
彼の最期
蜀を平定した後
独断専行を繰り返し
共に蜀を平定した
鍾会に束縛され
謀反人として都へ運ばれる途中
殺害された
↓↑
兵の指揮権は
鄧艾と鍾会の二人に分けられ
鄧艾が身勝手な行動をし
周囲から非難をされ
鍾会は鄧艾を捕縛し
全ての指揮権を手中に収めた
彼はその後
姜維と共に魏へ反逆
↓↑
ーーーーー
鄧艾(?~264)
三国時代の武将
字は士載
蜀漢平定の功労者
実力者ながら吃音者
↓↑
蜀の戦線で功績
劉禅を降伏させ
蜀の平定に貢献
任地の地図作りを好み
「いつか役立つ時が来る」と言っていた
姜維の
蜀軍を迎え撃った
「段谷の戦い」で、地図の戦術的効力を実証
吃音で
司馬昭から
からかわれた・・・
↓↑
「鄧(トウ)艾」は
30代後半~40代まで
徴税・農業分野の地方役人で
上計吏となった
↓↑
吃音者は書くことで評価
地図などを書いて
状況を把握し
上司(司馬仲達)に認められた
↓↑
「燕雀いずくんぞ
鴻鵠の志しを知らむや
(陳勝=秦の反乱首謀者)」
ギョウ(業=大里)からやってきた
石苞(セキホウ)という少年との会話
「雀と雲雀には、鸛(こうのとり)や
白鳥の気持が判らない
小人には大人の大望を理解できない」と・・・
鄧艾は、
石苞の好意を察し
二人は、地図を元にした溝掘りを
上司の典農司馬へ願い出
典農部民の位を得た
ーーーーー
生活費を金策・・・
1903/8/14~1951/1/30
癸卯(甲・ ・乙)⇔庚寅(己・丙・甲)
庚申(己・壬・庚)⇔己丑(癸・辛・己)
甲戌(辛・丁・戊)⇔庚午(丙・ ・丁)
申酉=空亡
↓↑
「キンはニッポンをナス」って・・・?
・・・キンは日を成・・・斤日生?・・・斤=おの=斧=小野・尾野
1912年4月15日~1994年7月08日?
↓↑
・・・コンは正す日・・・今生日?
1941年2月16日~2011年12月17日?
↓↑
・・・キンは正す恩・・・筋生怨?
1984生年1月8日?
癸亥(戊・甲・壬)
乙丑(癸・辛・己)
壬寅(己・丙・甲)辰巳=空亡
↓↑
・・・キンは与す正・・・禁與姓?
1987年9月26日 ?
丁卯(甲・ ・乙)
己酉(庚・ ・辛)
戊寅(己・丙・甲)申酉=空亡
ーー↓↑ーー
ヨーロッパ・ピクニック計画
1989年8月19日
オーストリア共和国
ブルゲンラント州に食い込む
ハンガリー人民共和国領
ショプロンで開かれた政治集会
ピクニック事件
↓↑
ベルリンの壁
1989/11/9
己巳(戊・庚・丙)
乙亥(戊・甲・壬)
癸酉(庚・ ・辛)戌亥=空亡
↓↑
ニューヨーク
2001年9月11日
辛巳(戊・庚・丙)
丁酉(庚・ ・辛)
丁丑(癸・辛・己)申酉=空亡
↓↑
2011/3・11
辛卯(甲・ ・乙)
辛卯(甲・ ・乙)
乙丑(癸・辛・己)戌亥=空亡
↓↑
熊本地震
2016年4月14日21時26分
丙申(己・壬・庚)
壬辰(乙・癸・戊)
丙寅(己・丙・甲)戌亥=空亡
戊戌(辛・丁・戊)
ーー↓↑ーー
カナリア諸島
緯度:北緯27.92度
火山島の
休火山
テイデ(Teide)
or
ピコ・デル・テイデ
カナリア諸島の
テネリフェ島にある
スペイン領内最高峰の火山
テイデ山=玄武岩の盾状火山の上に形成された
成層火山
最新の噴火
1909年11月
テネリフェ島自体が
地球で第三位の規模を持つ火山島
テイデ(Teide)
ピコ・デル・テイデ(Pico・del・Teide)
テイデという名前
グアンチェ族の言葉で
「エチェイデ(Echeide)=地獄」に由来
↓↑ ハワイ
緯度:北緯21.05度
ーーーーー
島津・亜矢
1971年(昭和46年)3月28日
辛亥(戊・甲・壬)
辛卯(甲・ ・乙)
壬子(壬・ ・癸)寅卯=空亡
↓↑
1971年金曜日から始まる平年
干支・:・辛亥(かのと・いのしし)
昭和46年
↓↑
4月5日・-・エトナ火山噴火
エトナ火山(Etna)
イタリア南部シチリア島の東部にある活火山
旧名は
モンジベッロ・(Mongibello)・
ヨーロッパ最大の活火山
アルプスを除いたイタリアでは最も高い山
イタリアにある3つの活火山の内で
2番目に高い
ヴェスヴィオ山の
3倍近くもある
↓↑
8月15日
ニクソン・ショック
(アメリカが金とドルの交換停止)
8月23日
実尾島事件
韓国が実尾島(シルミド)で
訓練を行っていた特殊部隊員が叛乱
10月25日
中華人民共和国が国連加盟
中華民国(台湾)は事実上の追放
(アルバニア決議)
11月11日
川崎市生田で科学技術庁が実施した
崖崩れ再現実験が失敗
15人が死亡
11月27日
ソ連の火星探査機マルス2号が火星に衝突
火星に到達した初の人工物
12月2日
ソ連の火星探査機マルス3号が探査機による
初の火星着陸に成功
↓↑
阪神・淡路大震災
1995年1月17日5時46分52秒
甲戌(辛・丁・戊)
丁丑(癸・辛・己)
戊申(己・壬・庚)寅卯=空亡
甲寅(己・丙・甲)
ーーーーー
・・・???・・・
皿嘗めた猫が科を負う、って?
・・・「嘗=過去の経験を表す助字」・・・ナめルな・・・「舌、口に触れる・侮る事・物を舌で触れる事・馬鹿にする、みくびるコト」・・・「ナメル(ヘブライ語 Nammer)は、イスラエル・エアロスペース・ インダストリーズが開発した試作戦闘機」、「ナメル=ナメル(Namer, ヘブライ語)は、メルカバ戦車の車体を基礎としたイスラエルの装甲兵員輸送車・イスラエル国防軍武器科によって開発、製造・2008 年夏以降、本車は少数がイスラエル国防軍に就役・ナメルとは「ヒョウ」の意味で、Nagmash(APC)、Merkavaの綴りの略語」・・・
「エナメル(enamel)=陶磁器の釉薬・エナメル(enamel)=塗料の一。エナメルペインと、ラッカーエナメル・金属・陶器・ガラス器などの表面に焼きつけるガラス質の塗料・琺瑯 (ホウロウ)・ エナメル革」・・・
「いなめる=否むに可能などを表す、ル・レルが付いた形・否めない、と否定形で用い、否認することができない、肯定せざるを得ない、断ることができない、否定できない、などの意味」・・・
「要(かなめ)=物事の最も大切な部分・要点・肝心要・扇の骨をとじ合わせるために、その末端に近い部分に穴をあけてはめ込む釘・蟹(かに)の目・要黐(かなめもち)の略」・・・・
「つなめ=綱目・綱にできた結び目・・・つなみ(津波)?」・・・
ーーーーー
嘗=龸+口+旨・・・龸=はばへん・つち・て=小+冖
嘗=尚+旨・・・・尚=たっとぶ・とうとぶ・なお・重んじる
尚古・尚歯・尚武・好尚・・・尚歯会
なお=猶・尚・・・猶太・・・以色列
以前の状態がそのまま続いているさま
相変わらず・やはり・まだ
状態や程度がいちだんと進むさま
さらに・もっと・いっそう
現にある物事に
付け加えるべきものがあるさま
あとに「ごとし」を伴って
ちょうど・あたかも
嘗=⺌+冖+口+旨
嘗=龸+口+匕+日
嘗=⺌+冖+口+匕+日
嘗=ショウ(シャウ)・ジョウ(ジャウ)
なめる=舐(千口氏)める・甞(尚甘)める
かつて
味をみる
臥薪嘗胆
試してみる
嘗試
秋、新穀を神に供える祭
大嘗祭
嘗=なめる・あじわう・嘗味・嘗胆
こころみる・ためす・嘗試
かつて
過去の経験を表す助字
新しくとれた穀物を神に供える祭り・新嘗祭
神嘗(かんなめ・シンショウ)
新嘗(にいなめ・シンショウ)
嘗て(かつて)
嘗試(ショウシ) ・嘗胆(ショウタン)
嘗(な)める
嘗=尚+旨
異体字、尝(簡体字)
甞(別字)
臥薪嘗胆
嘗の隠語=「おすのタカ・弟鷹(だい)」?
兄鷹(しょう)=雄のタカ
雄よりも
大きい雌のタカを
弟鷹 (だい) というのに対する
鷹=たか・オウ・ヨウ・hawka falcon
ワシ(鷲・Eagle)
タカ(鷹・Hawk)
鷲=わし・シュウ・ジュ
⇔嘗=ショウ(シャウ)・ジョウ(ジャウ)
嘗の名のり「ふる」
大嘗 (おおにえ) の祭
神嘗祭 (かんなめさい)
新嘗祭 (にいなめさい)
↓↑
嘗=龸+口+旨
嘗=⺌+冖+口+旨
嘗=龸+口+匕+日
嘗=⺌+冖+口+匕+日
なめる・舌で味わう
こころみる・ためす
かつて・過去・以前
その年に
新しく収穫した穀物を
神に供える秋の祭り
↓↑
皿嘗めた猫が科を負う
さらナメたネコがトガをおう
悪事をはたらいた主犯が罪を逃れ
悪事に少しだけ関係した小者が罰せられるたとえ
皿の上の魚を食べた猫はとっくに逃げ
そのあと
皿を嘗めただけの猫が罪を着せられる
類語
米食った犬が叩かれず
糠食った犬が叩かれる
↓↑
塩を売っても手を嘗めろ
シオをうってもテをナメめろ
塩を売る商人が、
手に付いた塩も無駄にせず嘗めるように
細かな事にも注意し
無駄のないように気をつけよ、という戒め
↓↑
辛酸を嘗める
シンサンをナメる
辛く苦しい目に遭うこと
「辛酸」は、辛い目や苦しい思いのこと
↓↑
ちょっと嘗めたが身の詰まり
ちょっとナメたがミのツマり
ほんのちょっとだけ、と
軽い気持ちで手を出したため
どうにもならない
窮地に追い込まれること
↓↑
嘗女(なめおんな)
江戸時代の絵本読本
『絵本小夜時雨』五之目録にある奇談
「阿州(阿波国・徳島県)の奇女」
に登場する怪女
「猫娘」、・・・ビョウジョウ?
天保元年(1830年)の
狂歌本『狂歌百鬼夜興』には
「舐め女(なめおんな)」
の名
阿州(阿波国・徳島県)
蜂須賀家政が
阿波に封ぜられ
蜂須賀氏は改易されることなく
江戸時代を通じて
阿波国徳島藩・富田藩(徳島藩支藩)
および
淡路国の国主として
阿波・淡路の
二国を治めた
国府は
名方郡
徳島市国府町と推定
ーーーーー
???・・・なめるなョナッ・・・???・・・
君子豹変=クンシヒョウヘン=訓詞剽変
・・・「君子豹変=クンシヒョウヘン=訓詞剽変」・・・?・・・「姉小路公知の豹変」・・・ナンで、「アネの公示の狡知」?・・・「巧遅は拙速に如(し)かず」・・・
コウチ=狡智・巧知・巧緻
高知・高地・高置・高値・・・高麗・高句麗からの帰化
芸西・・・高知県安芸郡芸西村・本地域を構成する主な
岩石群は、枕状溶岩・赤色チャート・多色凝灰岩
剪断された泥岩からなり、これらの岩石群が
ブロック状に入り混じって複雑な構造を呈し
メランジュ(混在岩)帯と呼ばれている
芸西(小惑星)=芸西(2571 Geisei)は
1981年10月23日
関勉が
高知県芸西村で発見した小惑星
拘置
河内・川内・荒地・鴻池
耕地・好地・交地
甲地・・・・・・・・・・・・甲府・甲斐・山梨
カイ=蝦夷
幸地
古内
後置・構築・・・?
・・・高知県=土佐・・・
ーーーー↓↑ー
土佐藩
戦国時代末期は
長宗我部氏・・・長曽我部・ 長曾我部とも
↓↑ 本姓は秦氏
家紋は「七つ酢漿草(かたばみ・片喰・鳩酢草)」
長宗我部盛親は
慶長十九年(1614年)~同慶長二十年(1615年)の
「大坂の陣」で豊臣方に与し、豊臣方が敗れ
盛親、盛親の子らもすべて斬首され直系は絶えた
長宗我部国親の四男・親房が
「島(島親益)」氏を名乗り、その子孫である
「島親典」が土佐藩に下級藩士として仕えた
再び長宗我部を名乗ったのは明治維新後・・・?
・・・「島大臣」は「蘇我蝦夷」だが・・・
元親の三女で佐竹親直に嫁いだ
↓↑ 「阿古姫」は大坂の陣で
伊達政宗に捕えられ助命され二人の息子と共に
仙台藩に仕えた・・・
阿古姫は伊達家の侍女として中将と称し
教養豊かで弁が立ったため政宗ので近侍を務めた
息子二人も小姓とし
二男の輪丸(賀江忠次郎)は
のちに重臣
四保柴田氏を継いで・・・四保?
柴田朝意と名乗った・・・朝意?
朝意は
奉行職(家老に相当)を務めた
寛文十一年(1671年)・・・寛文十一年
カンブン拾壹(壱)撚?
伊達騒動の際に
(寛文事件とも)
酒井忠清邸で
「原田宗輔(原田甲斐)・・・甲斐?
元和五年・1619年
~
寛文十一年三月二十七日
1671年5月6日)」
は
江戸の
酒井雅楽頭邸で
行われた評定の席で
上訴の主である
伊達安芸(伊達宗重)・・・安芸?
を斬り殺し
柴田朝意・・・・・・・・・朝意?
↓↑ と斬り合って死亡」・・・・?
が統治
長宗我部盛親が
慶長五年(1600年)
「関ヶ原の戦い」
でにおいて西軍に与して改易
徳川に与した
遠江掛川城主
山内一豊が
土佐国20万2600石を与えられ
明治時代初頭まで
山内氏が治めた
↓↑
「一領具足(戦国時代,土佐国(高知県)
長宗我部氏によって行われた農兵制度
のちには土佐藩郷士の別名
兵農未分離の地侍)」
と呼ばれた長宗我部氏旧臣が、山内氏に馴染まず
反乱を繰り返したため
山内氏は
藩内の要衝に
重臣を配して反乱に備えた
中村の山内康豊(2万石)
佐川に深尾重良(1万石)
宿毛に山内可氏(7000石)
窪川に山内一吉(5000石)
本山に山内一照(1300石)
安芸に五藤為重(1100石)
を配し
藩政の中枢を
山内家家臣(上士)で独占し
長宗我部氏旧臣(郷士)との
二重構造を幕末まで続けた
↓↑
一豊は
長宗我部氏(浦戸藩)の旧城である
浦戸城に入城
城下町には狭かく
高知城と城下町の建設
藩政が確立した
二代・山内忠義の時代
野中兼山を登用し
新田開発、殖産興業に努めたが
兼山は政敵の恨みを買って失脚
↓↑
宝暦期(1751年~1764年)以降
一揆、農民の他領への逃散
九代・山内豊雍
による質素倹約、藩政改革(天明の改革)
十三代・山内豊熈は
「おこぜ組」と呼ばれる
馬淵嘉平
の改革派を起用、藩政改革
失敗した
十五代豊信(容堂)が
吉田東洋を起用し改革断行
東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い
武市瑞山の
土佐勤王党によって暗殺
後
勤王党は
容堂(豊信)の報復を受け
瑞山の切腹や党員の処刑、弾圧解散
東洋の門下より
後藤象二郎
板垣退助
岩崎弥太郎
らを
郷士の
坂本龍馬
中岡慎太郎
などが輩出
坂本
後藤を通じ
容堂から
十五代将軍・徳川慶喜へ献策され
大政奉還
(慶応三年十月十四日(1867年11月9 日)
江戸幕府第十五代将軍
徳川慶喜
が政権返上を
明治天皇に奏上
翌十五日に天皇が奏上を勅許)
ーー↓↑ーー
ヒョウヘン=豹変・氷片・平辺・病変・別府弁
平編銅線(平編線・平編組線・TBC)⇔評編同撰?
↓↑
朔 平 門 外 の変・・・・サク 平 文外の変?
(さくへいもんがいのへん)
文久三年五月二十日
(1863年7月5日)
尊王攘夷を唱える過激派公家
姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が
禁裏朔平門外の
猿ヶ辻(さるがつじ)で暗殺
猿ヶ辻の変
↓↑
姉小路 公知(あねがこうじ きんとも)
天保十年十二月五日(1840年1月9日)
~
文久三年五月二十日(1863年7月5日)
↓↑
姉小路公知の
養子に
姉小路公義
(万里小路博房 男、次代)
(までのこうじ ひろふさ
文政七年六月二十五日(1824年7月21日)
~
明治十七年(1884年)二月二十二日)
江戸時代後期の公卿
万里小路正房の子
明治元年(1868年)
従三位・権中納言に叙任
後は
京都裁判所総督
宮内大輔
皇太后宮大夫
などを務め
明治十七年(1884年)
六十一歳で死去
博房の死去から約5か月後の7月7日
子の通房に伯爵が叙爵された
妻は
森長義の娘・貞子
子に
万里小路通房など
↓↑
事件二日後の二十二日
薩摩藩邸に潜伏していた
土佐浪士の
那須信吾が姉小路邸を訪れ
遺棄された刀が
薩摩藩士
田中新兵衛のものであると証言
これを受けて姉小路家は
京都守護職・町奉行に対し
田中を犯人として告訴
二十六日
武家伝奏
坊城俊克
三条実美
の依頼により
京都守護職の会津藩は
東洞院蛸薬師の田中の寓居を急襲
田中新兵衛
仁礼源之丞
下僕の太郎を逮捕
坊城邸へ連行
しかし会津藩は京都守護職の職掌上
容疑者の逮捕までは行ったが
薩摩藩との関係悪化を恐れ
拘留・取調は拒否・・・
↓↑
文久三年八月十八日
1863年9月30日
八月十八日の政変
会津藩・薩摩藩
を中心とした
公武合体派が
長州藩を主とする
尊皇攘夷派と急進派公卿を
京都から追放した事件
文久の政変
堺町門の変とも
↓↑
文久三年(1863年)朝廷内において
三条実美
姉小路公知
ら急進派が朝議を左右
二月に
国事参政と
国事寄人の
二職が設けられ
急進派が登用され実権を握った
学習院では
草莽の者でも時事を建言できることとなり
これに出仕する尊攘派の
真木和泉(久留米藩士)
久坂玄瑞(長州藩士)
らが朝廷に影響力を持つ
二月
足利三代木像梟首事件
三月から四月
天皇の攘夷祈願のため
賀茂・石清水行幸
五月十日・・・5/10
攘夷決行の日と
参内した将軍
徳川家茂に約束させた
五月十日・・・5/10
長州藩は
下関海峡で
アメリカ商船を砲撃し
長州藩が欧米艦隊から報復攻撃
将軍家茂も
六月には京を離れ江戸に帰った
長州藩の窮状を
天皇による
攘夷親征の実行(大和行幸)が
尊攘急進派によって企てられ
天皇が大和国の
神武天皇陵・春日大社に
行幸して親征の軍議をなし
次いで
伊勢神宮に行幸するというものであった
この行幸に関し
真木らは討幕の実行まで視野に入れていた・・・
↓↑
八月四日の朝議
長州藩の攘夷砲撃に非協力的であった
小倉藩の処分を幕府の頭越しに決定したが
池田慶徳(鳥取藩主)らが強く反発
池田らは
大和行幸に反対するため参内し
天皇への直接面会を要求し
取り次いだ
議奏らを驚愕させた
↓↑
孝明天皇
熱心な攘夷主義者ではあったものの
急進派の横暴を快く思っておらず
攘夷の実施についても
幕府や諸藩が行うべきものと考えていた
天皇は
三条らを排除するため
島津久光らに期待
薩英戦争 薩英戦争
↓↑ (文久三年旧暦七月二日~四日
1863年8月15日~17日)
文久二年旧暦八月二十一日(1862年9月14日)
武蔵国橘樹郡生麦村で発生した
生麦事件の解決と補償を
英国艦隊を背景に迫り
攘夷実行の名目のもと
兵制の近代化の実力で阻止しようとする
薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突
↓↑ ↓↑
生麦事件
文久二年八月二十一日(1862年9月14日)
武蔵国
橘樹郡
生麦村(神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で
薩摩藩主
島津茂久(忠義)の父
島津久光の行列に乱入した
騎馬のイギリス人たちを
供回りの藩士たちが
殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件
この事件の処理は政治問題となり
薩英戦争(文久三年七月)が起こった
↓↑
を背景に
久光の上京は難航
↓↑
大和行幸の詔
八月十三日に発せられ
前後して
会津藩
と
薩摩藩を中心とした公武合体派は
中川宮朝彦親王を擁して
朝廷における
尊攘派を一掃する計画を画策
八月十五日
松平容保(京都守護職、会津藩主)の了解のもと
高崎正風(薩摩)
秋月悌次郎(会津)が
中川宮を訪れて計画を告げ
翌十六日に
中川宮が参内して天皇を説得
翌十七日に
天皇から
中川宮に密命が下った
↓↑
会津藩は兵1500名を動員
薩摩藩兵は150名
他に
藩主稲葉正邦が京都所司代であった淀藩
徳島藩・岡山藩・鳥取藩・米沢藩
ら諸藩が政変に協力
↓↑
文久三年八月十八日午前一時頃
中川宮
松平容保
近衛忠熙(前関白)
二条斉敬(右大臣)
近衛忠房父子
らが参内
早朝4時頃
会津・薩摩・淀藩兵により
御所九門の警備配置が完了
在京の諸藩主にも参内を命じるとともに
三条ら尊攘急進派公家に
禁足と他人面会の禁止を命じ
国事参政、国事寄人の二職が廃止
八時過ぎから兵を率いた諸藩主が参内
諸藩兵がさらに九門を固めた
↓↑
朝議によって
大和行幸の延期
尊攘派公家
長州藩主
毛利敬親・定広父子の処罰等を決議
長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ
京都を追われる
十九日
長州藩兵千余人は失脚した
三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧
壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉
の公家7人とともに
妙法院から長州へと下った(七卿落ち)
↓↑
変後、孝明天皇は
「去十八日以後申出儀者真実之朕存意」
としてこれまでの勅命を自ら否定
↓↑
政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮
十月
島津久光が大兵を率いて入京
松平慶永・山内豊信ら
公武合体派大名がこれに続き
翌文久四年一月にかけ
久光・慶永・豊信・松平容保
一橋慶喜・伊達宗城
による参預会議が成立
朝廷内で
鷹司輔煕が関白を罷免
親幕的な
二条斉敬がこれに代わった
長州藩は
同年6月の
池田屋事件をきっかけに
京都へ出兵
禁門の変(7月)で
会津・薩摩らと戦火を交えた
ーー↓↑ーー
豹変
「易経」の
「君子豹変す、
小人は面を革(あらた)む」
豹の斑文がくっきりしているように
君子ははっきりと過ちを改める
人の態度や性行ががらりと変わること
よいほうへ変わるの意
「易経革卦」
「豹の毛が季節によって抜けかわり
斑紋も美しくなること」
から性質・主張などが急激に変化すること
それまでの性質や状態とは
大きな変化を見せる
大きく変化する
様変わりする
一変する
変わり果てる
激しく変わる
激変する
激動の
大きく様変わる
激しく変動する
変貌を遂げる
劇的に変化する
打って変わる
がらりと変わる
それまでの言動と逆のことを急に行うこと・・・言行不一致
手の平(ひら)を翻す
ーーーーー
・・・???・・・
「禽・禽・禽」・「寅・寅・寅」・「飛羅・杜羅・トラ」
・・・「とりとりとり」・・・「とらとらとら」・・・「禽・禽・禽」・・・「寅・寅・寅」・・・「飛羅・杜羅・トラ」・・・「虎・虎・虎」・・・ トラ、トラ、トラ・・・「虎列刺(コレラ)」、ネズミ、ネズミ、ネズミ・・・「黒死病(コロリ)」、ムシ、ムシ、ムシ・・・「鵡詞・六史・無視・無死・無私・蒸し・武士・節・務試・夢誌」・・・
↓↑
虎=虍=とら・コ・ク
𧆞・乕・𠂰・𢁺・虝・𧇂・𪊖・𪋕・𢋪・𠪳
虎=⺊+乛+丿+七+丿+乚
虎、ネコ科ヒョウ属の動物の総称
勇猛なさま
猛猛(たけだけ)しいさま
凶暴なさま
虏=虍+力=とりこ・リョ・ロ・ル
虜=⺊+乛+丿+七+男
生きたまま捕える
捕まえて縄を掛ける
殺して捕まえるのは「獲」
縛って自由に動けなくする
自由を奪う
↓↑
ーーーーー
ナタリー・ポートマン
(Natalie Portman)
1981年6月9日~)
辛酉(庚・ ・辛)
甲午(丙・ ・丁)
戊午(丙・ ・丁)
子丑=空亡
↓↑
ホイットニー・ヒューストン
(Whitney Elizabeth Houston)
1963年8月9日~2012年2月11日
癸卯(甲・ ・乙)⇔壬辰(乙・癸・戊)
庚申(己・壬・庚)⇔壬寅(己・丙・甲)
甲申(己・壬・庚)⇔壬寅(己・丙・甲)
午未=空亡 大運甲子(壬・ ・癸)
↓↑
I WILL ALWAYS LOVE YOU
島津亜矢
https://www.youtube.com/watch?v=LIup4t-fRx4
ーー↓↑ーー
「イエロー・バード」
作家ケビン・パワーズの
デビュー作
↓↑
ポルシェ
「イエロー・バード」
↓↑
ザ・ピーナッツ
「イエローバード」
↓↑
イエロー・バード
作詞:Keith Bergman
訳詞:音羽たかし
作曲:N.Luboff
↓↑
Brothers Four
Yellow bird (1960) 黃鸝鳥
↓↑
Yellowbird(1957)
James Randall
↓↑
The Brothers Four - Yellow Bird
↓↑
History of Yellow Bird
Harry Belafonte, Lawrence
ーーーーー
レオン・・・レオン
仏: Léon [leɔ̃]
西: León [leˈon]
英、独: Leon 英語: [ˈliːɔn, ˈliːən]
ドイツ語: [ˈleːɔn])
男性の名前
ゲルマン語=「雷」
ギリシア語・ラテン語=「ライオン」
Léon
The Professional
監督 リュック・ベッソン
脚本 リュック・ベッソン
製作 パトリス・ルドゥー
出演者 ジャン・レノ
ナタリー・ポートマン
ゲイリー・オールドマン
音楽 エリック・セラ
撮影 ティエリー・アルボガスト
編集 シルヴィ・ランドラ
上映時間110分(劇場版)
133分(完全版)
ーーーーー
https://www.youtube.com/watch?v=_r2M16hAf4s
ーー↓↑ーーー
ロバート・
ニコラス・
バード中尉(23歳)
↓↑
鎌倉事件
元治元年・・・
元治元年=元字願(眼・磐・岩)念?
十月二十二日
・・・・拾解通弐拾弐似知
(1864年11月21日)
相模国
鎌倉郡
大町村(神奈川県鎌倉市御成町)
イギリス人士官2名が
日本武士に斬殺
↓↑
イギリス人士官の殺害
横浜駐留中の
イギリス陸軍
第20連隊
第2大隊所属の
ジョージ・ウォルター・ボールドゥィン少佐(34歳)
ロバート・ニコラス・バード中尉(23歳)
は騎馬で江ノ島~鎌倉を巡遊
2人が
大仏の見物を終え
金沢方面に向かう途中
昼七つ時(午後3~4時)頃
若宮大路近くの路上(御成町4丁目付近)
で2人の武士に斬りつけられた
↓↑
ボールドゥィン少佐は
四肢に深傷を受け
脇腹から背中にかけての傷が致命傷で即死
↓↑
バード中尉は
右腕と左膝、首などに重傷
現場近くの民家に運ばれ
地元の医師による治療を受けたが
夜暮れ四つ(午後10時)頃死亡
↓↑
生麦事件
や
井土ヶ谷事件
などの外国人殺傷事件が続発
犯人未逮捕のまま
↓↑
白昼公然とイギリス人士官2名が惨殺
横浜居留地の外国人社会に強い衝撃
↓↑
イギリスの駐日公使
ラザフォード・オールコックは
四国艦隊下関砲撃事件の事後処理のため
帰国予定である自身の出発までに
犯人の逮捕と処罰を求める強硬な要求
これに応じて
老中水野忠精らが
オールコックら各国公使に対し
イギリス公使の出発までに
事件を解決する事を書面で確約
↓↑
犯人は
2人組の若い武士と判明
蒲池源八
稲葉紐次郎
の処刑
清水清次
の捕縛
相模国
高座郡
羽鳥村(神奈川県藤沢市羽鳥)
で起こった強盗事件の犯人として
神奈川奉行所に召し捕られた
自称浪人の無宿
蒲池源八(26歳)
稲葉紐次郎(23歳)
を取り調べた際
彼らの首領で逃亡中の浪人
清水清次(25歳)が
イギリス人殺害事件の犯人であるとの供述
オールコックは
同種の事件の再発を防止するため
見せしめとして2人を獄門に処し
その罪状を公布
処刑に際し
駐留イギリス軍の士官を
立ち合わせる事を求めた
↓↑
幕府側は
2人の処刑は
日本の法律に従って行うとして通常の死罪
牢内での斬首のみ
刑に際して
イギリス軍士官の立ち合い
横浜市中の各所に
罪状書の掲示を認めた
↓↑
蒲池と稲葉は
10月18日(12月16日)
強盗およびイギリス人士官殺害事件の連累
被害者が所属の
第20連隊の士官や
イギリス公使館員、
外国人多数の立ち合いのもと
戸部の牢屋敷において死罪に処せられた
処刑の翌日
千住の遊廓に潜伏中の
清水を捕縛
十一月二十五日(12月23日)
に清水は供述
高橋藤次郎なる人物と意気投合
2人で
八幡宮門前近くで待ち伏せして
イギリス人を殺害
犯行後は高橋と別れて江戸に逃れ
蒲池、稲葉と出会い
3人で京に上るための費用として
羽鳥村の富農から金150両を脅し取った
↓↑
横浜で清水の処刑の段取りについて
幕府とイギリス側の協議
処刑は横浜で行われる事
鎌倉を始めとする
外国人遊歩区域の各所
に罪状書を掲示
十一月三十日(12月28日)
清水は
戸部の鞍止坂刑場にて
外国人や日本人の見守るなか斬首
首は吉田橋に晒された
第20連隊所属の通訳官
ラクラン・フレッチャー
らによれば
清水の態度は非常に快活で堂々とし
引き回しの際には見物の群衆に向かって
自分はかって
水戸では高名な役人であり
その遺体は故郷の
水戸に手厚く葬られるだろうなどと
語って役人に制止され
また辞世と思われる和歌や詩吟などを
大声で口ずさんでいた・・・
帰国を延期していた
オールコックは
清水の取り調べの完了とともに
代理公使を務める
チャールズ・A・ウィンチェスター横浜領事に
後事を託し
十一月二十七日(12月25日)に横浜を出港
↓↑
清水清次
青森出身の浪人や
肥後藩の元足軽、
一橋慶喜の家来・・・
フレッチャーも
清水には
水戸または
常陸の訛りがあったと証言
明治政府が編纂した
「続通信全覧」に収録された風説書
身元について
「細川玄蕃頭(常陸谷田部藩主細川興貫)
元家来
清水清次」
と記されている
間宮一の捕縛
供述を裏付ける証拠も得
幕府は間宮を犯人と断定
九月十一日(10月30日)
鞍止坂刑場で処刑
吉田橋にて梟首
↓↑
真犯人の
間宮一(はじめ)が自首し
幕府は大いに困惑
やむを得ず逮捕するが
間宮一は共犯者である
井田普之助の名前も出す
井田普之助のゆくえは不明
幕府は
蒲池源八、稲笹丑之助、清水清次郎
が冤罪であったことを隠すため
間宮一
一名のみを秘密裏に処刑
井田普之助は後日別件で逮捕・処刑した
↓↑
間宮の供述によって
姫路藩主
酒井忠績の元家来で
旗本
根来五左衛門に仕える
飯田(井田)晋之介という人物が共犯者
↓↑
慶応二年二月二十五日(1866年4月9日)
イギリス政府は
間宮一の処刑について満足
事件は落着
↓↑
アーネスト・サトウの記録中
特に一章を設けて
「ボールドウィン
と
バードの殺害」
が詳しく記録
明治政府からは発禁扱い
戦後になるまで翻訳が公刊されず
現在は岩波文庫で坂田精一訳を利用できる・・・
この事件の一部始終は
横浜居留地に住んだ
イラストレイテッド・
ロンドン・ニュースの
特派員記者
チャールズ・ワーグマンの
イラストで残っている
↓↑
「鳶の小亀事件(フランス水兵殺害事件)」
慶応二年(1866)二月
酒に酔った
ふたりのフランス人水兵が
太田町7、8丁目から
埋め埋めて地の
坂下町を騒いで歩き
遊廓に入り娘を強姦しようとしたところ
かけつけてきた
鳶の小亀が
持っていた鳶口で
水兵ひとりを殺害した事件
小亀の引き回しの日に
沿道に横浜の芸者、 鳶職たちが総出で繰り出し
木遺音頭を唄い
小亀の冥土への花道を飾った・・・
ーー↓↑ーーー
http://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2018/05/01/%E3%80%8C%E7%8F%BE%E5%AD%98%E3%83%BB%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98%E4%BA%BA%E3%83%BB%E3%80%8C%E8%9B%AE%E7%A4%BE%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%80%8D%E3%83%BB1%E3%83%BB55
http://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2018/05/01/%E3%80%8C%E7%8F%BE%E5%AD%98%E3%83%BB%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98%E4%BA%BA%E3%83%BB%E3%80%8C%E8%9B%AE%E7%A4%BE%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%80%8D%E3%83%BB3%E3%83%BB55y-%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%83%81%E3%80%81%E3%80%8C%E7%8F%BE%E5%AD%98%E3%83%BB%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%81%AF
「現存・古事記」と江戸時代の知識人
「蛮社のコジキ」・(3)・(55y)
スナワチ、「現存・古事記」は
「1999年7月7日水曜日」の「中日新聞・夕刊・E版」の記事には「【ロンドン7日共同】幕末の鎌倉で(じょうい)浪人に殺された英国軍人の署名がある英和事典がこのほど、ロンドンの古書市場で見つかった。日英交渉史を研究している恒松郁生『ロンドン漱石記念館』館長が競売で入手した。」とある。この辞書の内側のページには「英国歩兵第二十連隊バード中尉、1864年8月13日」と書き込みがあるらしい。右から
「安政四年稟准」、
「井上修理校正」、
「英語箋」、
「一名 米語箋」、
「村上英俊閲」
と印刷されている。そして、英語で、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・AN ・
・EINGLISH AND JAPANESE ・
・AND ・
・JAPANESE AND EINGLISH ・
・VOCABULARY ・
・COMPILED PROMANTIVE WORKS・
・BY ・
・W,H.MEDHCRST ・
・ ・
・BATAVIA ・
・PRINTED BY LITHOGRAPNY ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と印刷されている。ちなみにこの「バード中尉」は「1864年(元治元年)」の「十一月二十一日」に「鶴岡八幡宮前」で事件にあって死亡したらしいのだ。外国人が絡んでくる事件は「1792年」の「北方の海」からであった。
・・・「幕藩体制」の政治的動揺は「海(うみ・わた・あま・カイ)」からの「外圧(解亜柘)」である。1789年(寛政一年)5月には「クナシリ島」で「蝦夷・アイヌの倭人に対する叛乱」が起こった。そして「二丸不正貸付金問題」で「奥女中の多数」が処罰されたのだ。1792年(寛政四年)五月の「林友直(子平)」の「海国兵談」に対する「禁固」はその前兆であった。
1792年(寛政四年)・・・6月安房嶺岡牧場で「白牛酪」の製造
↓ 9月ロシア使節ラクスマンが「大黒屋光大夫」
↓ を送って根室にくる。
↓
1803年・・・7月アメリカ船「ナガサキ」が長崎に入港
1804年・・・ロシア使節「レザノフ」が長崎に入港
1809年・・・~1814年まで
「ナポレオン戦争」によりオランダ船入港
中絶。
1811年・・・6月ロシア艦長「ゴロウニン」を捕虜とする
1813年・・・「尾藤二州(約山)」の死没。
1814年・・・6月イギリス船「シャーロット号」が長崎に入港
1815年・・・2月千姫150回忌法会を伝通院で、
家嗣百回忌法会を増上寺で行う。
4月家康二百回忌法会を日光山で行う。
4月「塙(はなわ)保己一」、家斉に謁見。
「杉田玄白」の「蘭学事始」。
5月阿蘇山噴火
盛岡南部藩で一揆・
7月朝鮮飢饉
1816年・・・4~8月疫病流行・
1823年・・・7月プロシャ人「シーボルト」の来朝
1823年・・・「シーボルト」が長崎で「鳴滝塾」を開塾
1829年・・・10月「シーボルト事件」
「天文方」の「高橋景保」が連座
1837年・・・2月「大塩平八郎の乱」
1838年・・・10月「高野長英」の「夢物語」
1839年・・・・・「蛮社の獄(蛮舎の獄)」
5月
「高野長英」、「渡部登(華山)」等が逮捕
「小関三英」自殺
1849年・・・6月「佐賀藩医・楢林宗建」が
「蘭法」で「種痘」をする
佐賀藩主「鍋島斉正」が全藩内に実施させる
12月「佐倉藩」も「種痘」実施の奨励
1850年・・・10月『高野長英』が暗殺(撲殺)
1858年・・・2月「江戸・案針」橋より出火
5月「伊東玄朴」ら「神田お玉ヶ池」に
「種痘所」を設置
8~9月江戸「コレラ病(暴瀉病)」で
死者二万八千人余
十一月
「塙(はなわ)次郎(塙保己一の子ども)」を
「小十人格」とする
「亜」とは「次」で
「亜相」は「大納言・御史大夫」
「亜流」とは同類の系統。模倣者である
「亜=亞」
1861年・・・12月「遣欧使節」として
「竹内保徳」、「松平康直」らが
イギリス軍艦「オージン号」で品川を出発
1862年・・・3月「竹内保徳」が「ナポレオン三世」に謁見
4月「麻疹」が流行
7月「竹内保徳」等が
ロシア皇帝「アレクサンドル二世」に謁見
9月オランダに
「榎本武楊」、
「津田真道」、
「西周(あまね)」等を派遣
1862年・・・「塙次郎」が「廃帝史実」の調査の疑いで暗殺
1863年・・・12月「鎖港談判交渉」に「池田長発」等34名を
「フランス」に派遣
「池田筑後守」「川津伊豆守」「河田相模守」
「田辺太一」「田中廉太郎」「西吉十郎」
「斎籐次郎太郎」「須藤時一郎」
「塩田三郎」「谷津勘四郎」「堀江六五郎」
「益田鷹之助」
「杉浦愛蔵」「横山敬一」「矢野次郎兵衛」
「松濤権之丞」「尺振八」「益田進」
「山内六三郎」「原田吾一」「小泉保右エ門」
「大関半之助」「金上佐助」「岩松太郎」
「別所三郎」
「高橋留三郎」「玉木三弥」「菅波恒」「三宅復一」
「名倉予何人」・・・「奥州棚倉藩士」
「森田弥助」「浦本時蔵」
「乙骨亘」「青木梅蔵」等
(ココに記した人名は「小学館発行」、
「鈴木明」氏の
著作「維新前夜」から抜粋したモノ)
1866年・・・10月25日幕府師弟「英国留学生12名」出発
学生取締役は
「川路太郎」、「中村敬輔」
留学生は
「箕作大六」「箕作奎吾」「市川森三郎」
「林重三郎」「杉徳次郎」「成瀬錠五郎」
「外山捨八」「億川一郎」「福沢英之助」
「伊東昌之助」「安井真八郎」「岩佐源二」等
(ココに記した人名は「新人物往来社発行」
「宮永孝」氏の著作
「慶応二年幕府イギリス留学生」から抜粋)
・・・「鎖国」は「倭人種」を延命させる「一つの方法」であるカモ。「経済」、「政治」、「地理」に於て「鎖国」は「betterの方策」であるカモ(?)。「国の領海の際(きわ)」から孤立、独立し、延命させるのだ・・・
もう、充分に「腐るほどモノ」はある。リサイクルも出来る。他国に賣るモノ(商品)は必要ない。
ないのは「エネルギー」と「原材料」、「食料」等だ、と、「日本人種の延命思想」であるらしいが、コレラのモノは総て日本国内に「豊富に存在」する・・・
「富の配分」さえきっかり出来れば「飢餓」で死ぬヒトなどはイナイのだ・・・もちろん「地球規模」でもそうである・・・
ーーーーー
・・・???
「エンドはオワリか?、ハテ」か?
・・・「ブレンダ・リー(Brenda Lee・1944年12月11日~)」・・・「Brendaはゲルマン語で“flame(炎)”または“sword(剣・刀)”の意・エリザベス二世(英国の風刺雑誌 Private Eye の命名)・(米俗語)ばか・知的でない人」・・・?・・・「Brend」は「blend(混ぜる)のミススペル(misspell・misspelling・spelling error)=綴り間違い」・・・カンジ間違い・・・カンチチガイ・・・?
「Brend」+「a」=「Brenda」・・・
「flame(f'lAm)=炎」≠「frame(f'rAm)=枠・枠組み」・・・
「ブ (武・部・分・侮・悔
憮=がっかりする・失望する・驚きあきれる・憮然
撫=愛撫
嘸=さだめし・きっと・さぞかし
嫵=妩=娬=媚びる
舞・無・无・不)
レン(鍊・煉・練・蓮・連(聯)・戀(恋)
攣=つる・ひきつる・かかる・つながる・かがまる
ひきつる・攣縮・痙攣(ケイレン)
鎌=金+兼=かま・鎌足
ダ (拿)
リイ(理意・利意・李意)」・・・
「The end of the world(1963)」・・・?・・・
「地球の崩壊」なのか、「人間の崩壊」なのか・・・?・・・
「人間」と言う動物は存在しないのカモ・・・
「人の間」には「隙間」だけあるようだし・・・
「人間(ニンゲン・呉音)」
「人間(ジンカン・漢音)」
「blend」
+
「lee=風の当たらない所・風下・陰」・・・
「リー (Lee・Lea・Lei・Leigh・Li・Lie・Ly・Re・Ree・ Ri)・・・
Lee=草地(牧草地・leah⇒meadow=メドウ)」・・・
「The end of the world(1963)」・・・?
「エンド」は「オワリ」か、「ハテ」か・・・?
ーーーーー
Brenda Lee
The end of the world(1963)
↓↑
Uボートのサントラ
↓↑
ゼロ地帯
(1961年5月20日公開・イタリア/フランス)
エディット(スーザン・ストラスバーグ)
Susan Strasberg
スーザン・ストラスバーグ
(Susan Strasberg)
1938年5月22日~1999年1月21日
戊寅(己・丙・甲)⇔戊寅(己・丙・甲)
丁巳(戊・庚・丙)⇔乙丑(癸・辛・己)
甲寅(己・丙・甲)⇔癸酉(庚・ ・辛)
子丑=空亡 大運己酉(庚・ ・辛)
1955年、18歳
ブロードウェイの舞台
『アンネの日記』に主演
https://www.youtube.com/watch?v=SO3O57Ol2pw&t=540s
https://www.youtube.com/watch?v=SO3O57Ol2pw
https://www.youtube.com/watch?v=R4Y2M9-HDcQ
https://www.youtube.com/watch?v=QT7QbrEGMpc&t=80s
1943年10月14日
600人の囚人の
約半数300人が脱出・・・100人が射殺
全体で収容者16万7,000人が殺害・・・
事件後
ソビボール(Konzentrationslager Sobibor)強制
(Vernichtungslager Sobibor)絶滅
収容所閉鎖
・・・「生き残った人間の子供」たちは同じようなコトを「他の生き残った人間とその子供」たちにもする・・・
↓↑
ドリス・デイ・・・どうして「Doris」の「Day」なんだか?
↓↑
Doris Mary Ann von Keppelhoff
(ドリス・メアリー・アン・フォン・ケッペルホフ)
ドイツ系アメリカ人
センチメンタル・ジャーニー(Sentimental Journey)
ドリス
古代ギリシア中部の
ペロポネソス半島に定住した
ドーリア人(the Dorians)
小アジア南西部の
Caria の沿岸にあった
地方の先住民を征服し
ドーリア人が植民
スパルタ都市国家を建国
Lycurgus(リュクルゴス)
は、諸国遍歴の末
スパルタに「リュクルゴスの制度」を執行
土地の均等配分・長老会設置・民会設置
教育制度・常備軍の創設
装飾品の禁止
共同食事制
を社会生活の基本とした
ドリスは
ギリシア神話で
大洋神
Oceanus(オルセーイス) の娘で海神
Nereus の妻
Nereid たちの母・・・???
↓↑
Doris Day
1922年4月3日~
壬戌(辛・丁・戊)
癸卯(甲・ ・乙)
辛丑(癸・辛・己)
辰巳=空亡
Que sera sera ケ・セラ・セラ・・・化・施螺・施覶
↓↑ ラ=覶=𤔔+見=みる・ラ・ラン・レン
異体字、覼
声符「𤔔」、𤔔・𡡗・辭・𢿢・亂
𤔔=爪+マ+冂+ム+又
辭=𤔧=𤔔+亐
亂=𤔔+乚
辭=𤔔+辛
異体字、辞・司・𤔧・𤔲
𦧦・辝・𨐕・辤・𨐲・𨾱
簡体字、辞
声符「𤔔」、𤔔・𡡗・𢿢・覶・辭
𤔔=治也・幺子相亂、𠬪治之也
讀若亂同・一曰理也
𠬪部・𠭟
古文𤔔(説文解字)
一曰𤔔、理也
↓↑
「Que Será, Será」は
「なるようになる・・・「運否天賦(ウンプテンプ)」
「人間万事塞翁が馬」
(Whatever will be, will be)」
「なるようになる、先のことなど解らない」
スペイン語だとされることもあるが
スペイン語の文としては
非文法的で、スペインで用いられた歴史もない
専ら英語圏のみで
擬似外国語として使われたフレーズ・・・
ヒッチコック監督の
「知りすぎていた男」の主題歌
昭和32年(1957)ごろの流行語
↓↑
ザ・ピーナッツ (The Peanuts)
かわいい花
情熱の花(カテリーナ・ヴァレンテ)
月影のナポリ
17歳よさようなら(フロ・サンダンス)
イエロー・バード
ウナ・セラ・ディ東京
恋のフーガ
↓↑ ↓↑
伊藤エミ(澤田 日出代)
1941年4月1日~2012年6月15日
辛巳(戊・庚・丙)⇔壬辰(乙・癸・戊)
辛卯(甲・ ・乙)⇔丙午(丙・ ・丁)
己卯(甲・ ・乙)⇔丁未(丁・乙・己)
申酉=空亡 運戊戌(辛・丁・戊)
ほくろあり
1975年6月4日
乙卯(甲・ ・乙)
辛巳(戊・庚・丙)
辛巳(戊・庚・丙)
ザ・タイガースの・・・tiger=虎
沢田研二と結婚
1987年1月に離婚
↓↑
伊藤ユミ(伊藤月子)
1941年4月1日~2016年5月18日
辛巳(戊・庚・丙)⇔丙申(己・壬・庚)
辛卯(甲・ ・乙)⇔癸巳(戊・庚・丙)
己卯(甲・ ・乙)⇔庚子(壬・ ・癸)
申酉=空亡 運戊戌(辛・丁・戊)
ほくろなし
ーーーーー
・・・???・・・
ロンドンの夏の目の漱石・・・英和辞典は必要だった
・・・「煙霧のロンドンの夏の目の漱石」・・・「霧の英和箋」・・・「霧の英和戦」・・・「霧の英和撰」・・・「霧の英和潜」・・・「霧の英和泉」・・・「霧の倫敦(ロンドン・London・龍動?)」・・・恒松郁生氏の『ロンドン漱石記念館』・・・「1900(明治三十三)年10月28日・夏目漱石の留学開始」・・・「ロンドン漱石記念館は 漱石の5番目の下宿先、ミス・リール家の前」にあるらしいが、ボクの興味は「夏目漱石」なんかじゃあなくて・・・「1999年7月7日、館長が競売で入手した」と新聞記事にあった「英和・和英辞書」・・・
アメリカの「南北戦争=1861年~1865年」で、「英国歩兵第二十連隊バード中尉、1864年8月13日」は当時の日本に存在していた・・・
ーーーーー
ロンドンの漱石記念館
2016年9月28日閉館・・・・今年2018年の夏に再開館・・・?
32年の歴史に幕
↓↑
1999年7月7日
「館長が競売で入手した」とある辞書
↓↑
この辞書の内側のページには
「英国歩兵第二十連隊バード中尉、
1864年8月13日」
↓↑ ↓↑
・・・1864年・甲子
日本(天保暦)
文久三年十一月二十二日~文久四年 二月十九日
元治元年 二月二十 日~元治元年十二月 三日
皇紀2524年 ↓↑ ↓↑ ↓↑
清王朝 ↓↑ ↓↑ ↓↑
↓↑同治二年十一月二十二日~同治三年十二月 三日
同時・同事・童児・道寺
↓↑ ↓↑
1864年2月6日
横浜鎖港談判使節団(第2回遣欧使節)出発
横浜鎖港談判使節団
↓↑池田長発(筑後守)を正使
河津祐邦(伊豆守)を副使
河田 熙(相模守)を目付
文久三年十二月二十九日~元治元年七月二十二日
にかけて幕府がフランスに派遣した外交団
第2回遣欧使節、池田使節団とも呼ばれる
↓↑
と書き込みがあるらしい。右から
「安政四年稟准」
「井上修理校正」
「英語箋」
「一名 米語箋」
「村上英俊閲」
と印刷
↓↑
禀准=稟准・・・ひんじゅん
許可を申請する・極限準
稟=うける・こめぐら・ふち
もうす・ヒン・リン
受ける・授かる・上から下に与える
扶持・俸給・俸給としての穀物
生まれつき・天からさずかった性質
天稟(テンピン)
申す・申し上げる
こめぐら・食糧
禀=㐭+示=亠+回+示=亠+囗+口+示
↓↑
1864年4月22日
米国で貨幣鋳造法成立
(In God We Trustの刻印が義務化)
↓↑
1864年11月8日
米国大統領選挙で
第16代アメリカ合衆国大統領
エイブラハム・リンカーンが再選
奴隷州11州と戦争中・・・
↓↑
1864年11月21日(元治元年十月二十二日)
鎌倉見物中の英国士官2名が浪士に斬殺される(鎌倉事件)
ーーーー↓↑ーーーー
村上英俊閲
『英語箋(竹戔・艹戔)』
安政四(1857)年丁巳十月稟(禀)准
英和・和英辞書は翻刻されたもの
↓↑
原著はイギリス人宣教師で
上海領事となる
ウォルター・ヘンリー・メドハースト
(1796~1857)
1830年
オランダ領バタビアで刊行
An English and Japanese
and
Japanese and English Vocabulary
↓↑
メドハーストは、
日本語の知識を
来日経験のある
オランダ人からの情報をもとに
この辞書の編纂事業を進めた・・・?
彼自身は中国語やマレー語に通じ
他にも聖書の中国語訳を行っている
↓↑
日本で翻刻した
村上英俊(1811~1890)は
医学、漢学、蘭学
に通じたフランス語学者
「英語箋」辞書は
2巻からなる
和装本
1600語を収録
↓↑
a b c d e
ヱー・ビー・スィー・ディー・イー
f g h i j
ヱフ・ジー・ヱィッチ・アイ・ゼイ
k l m n o
ケィ・ヱル・ヱム・ヱン・オー
p q r s t
ピー・キウ・アル・ヱス・ティー
u v w x y
ユー・フィー・ドゥブルュー・エッキス・ワイ
z
ズイー
↓↑
箋=セン=籤
slip (of paper)
tag (usu. bamboo, wood, ivory, etc.)
label
↓↑
「英語箋」
万延二 (1861)年刊
英和・和英辞書
↓↑
干支:辛酉
日本(天保暦)
万延元年十一月二十一日~万延二年 二月十八日
文久元年 二月 十九日~文久元年十二月 一日
皇紀2521年
清王朝
咸豊十年十一月二十一日~咸豊十一年十二月一日 朝鮮
李氏朝鮮
哲宗十二年
↓↑
1861年
1月14日(万延元年十二月四日)
米国駐日総領事館の通弁官
ヘンリー・ヒュースケン
攘夷派薩摩藩士に殺害
↓↑
1861年
3月4日
エイブラハム・リンカーン
第16代米大統領に就任
3月13日(万延2年2月3日)
ロシア軍艦対馬占領事件
ロシア軍艦
ポサードニク号が
対馬の
尾崎湾に来航
↓↑
1861年
7月5日(文久元年5月28日)
攘夷派水戸藩浪士ら
英国駐日公使館(東禅寺)
を襲撃(東禅寺事件)
↓↑
1861年
11月11日
同治帝即位
↓↑
上海領事イギリス人
宣教師
ウォルター・ヘンリー・メドハースト
(1796-1857)が
1830年にバタビアで刊行
「An English and Japanese
and
Japanese and English Vocabulary」
が
「英語箋」の原著
↓↑
1861年
ドイツで
始祖鳥の標本発表
ーーーーー
攘夷事件
以上も以下も参考、参照の原文は
「wikipedia」・・・少々改作して添付・・・
「・・・」の付け足しは「ボクの?」・・・
↓↑
(1) 安政三年
(1856年8月21日)
1.1 ハリス襲撃未遂事件
タウンゼント・ハリス襲撃未遂事件
初代駐日領事
安政三年七月二十一日
(1856年8月21日)
下田・・・・ゲデン=解傅(伝)
玉泉寺・・・漁句撰字
に
領事館・・・両耳間⇔顔・面
両字観⇔偏旁冠脚垂構繞
(ヘンボウカンキャクスイコウニョウ)の七つ?
変 貌 観 客 推 敲 二葉・・・?
を構えた
ハリス・・・葉理素?
は
大統領親書の提出のため
江戸出府を望むが
水戸藩の徳川斉昭ら
攘夷論者が反対
江戸出府は留保
このハリスに対し
水戸藩郷士
らが
ハリスの襲撃を計画
安政三年十一月二十七日
一同は自訴
同四年四月四日投獄・・・444?・・・四四四・・・肆陌肆拾肆?
↓↑
(2) 安政六年
(1859年)
2.1 ロシア海軍軍人殺害事件
2.2 フランス領事館従僕殺害事件
ロシア海軍軍人殺害事件
東シベリア総督
ニコライ・ムラビヨフは
安政六年七月二十日
(1859年8月18日)
7隻の艦隊で江戸に来航
日露国境策定の交渉を開始
七月二十七日
海軍少尉
ロマン・モフェト
水兵
イワン・ソコロフ・・・言わん・云わん・謂わん?
其処賂附?
および1人の
まかない係が・・・・・真仮名意?
横浜の波止場近くで
数人の武装した
日本人に襲われた
モフェトとソコロフは死亡
最初の外国人殺害事件
ムラビヨフ・・・・・・務等備與附?
は
ラザフォード・オールコックの
勧めにもかかわらず
日本に賠償請求をしなかった
6年後の
慶應元年
(1865年)
水戸天狗党・・・見訳典具等砥
の一人で
敦賀に幽閉中であった
小林幸八が
実行犯であることを自供し
五月に横浜で磔刑
事件の幕府側責任者
外国奉行の
水野忠徳
の態度が各国外交団から疎まれ
文久遣欧使節の候補となりながら
オールコックの同意が得られず
使節に加わることができなかった
↓↑
フランス領事館従僕殺害事件
安政六年十月十一日
(1859年11月5日)
フランス副領事
ジョゼ・ルーレイロ
の従僕が横浜の外国人居留地で殺害
従僕は清国人であったが
服装から欧米人と間違えられた
↓↑
(3) 安政七年
(1860年)
3.1 日本人通訳殺害事件
3.2 フランス公使館放火事件
3.3 オランダ船長殺害事件
安政七年(1860年)
日本人通訳殺害事件・・・???
安政七年一月七日
(1860年1月29日)
イギリス公使
オールコック付きの通訳
小林伝吉(洋装し、有名だった)が
江戸のイギリス公使館の門前で
2人の侍に
背後から刺されて殺害
↓↑
フランス公使館放火事件
伝吉殺害の
翌一月八日
フランス公使館が放火で焼失
↓↑
オランダ船長殺害事件
二月五日夜八時ごろ
オランダ商船の船長
ヴェッセル・デ=フォス
と
ナニング・デッケル・・・何務具・出通懸留?
が横浜の街路上で斬殺
イギリス・オランダ・フランス
の三国が共同して
被害者1名につき
2万5千ドルの賠償金を日本に要求
幕府は
オランダに
1,700両を支払
↓↑
万延元年・・・?・・・蔓延?
(1860年)
フランス公使従僕傷害事件
九月十七日の夕刻
フランス公使
ド・ベルクール
の従僕で
イタリア人の
ナタール
が、2人の武士に右腕を切られた
ナタールはピストルで反撃し
武士は逃げた
↓↑
(4) 万延元年
(1860年)
4.1 フランス公使従僕傷害事件
4.2 マイケル・モース事件
4.3 ヒュースケン殺害事件
マイケル・モース事件
万延元年十月十五日
(1860年11月27日)
狩猟帰りの英国人
マイケル・モースの従僕が
役人らに捕らわれそうになった
江戸城から十里以内での
火器の使用は禁じられ
外国人も例外ではなかった
モースは従僕を助けようと
役人らを銃でおどし
もみ合っている間に
銃が発射され役人の1人が負傷
モースは捕縛され
夜中になって釈放された
領事裁判所において裁判にかけられ
オールコックから
1,000ドルの罰金と国外追放の判決
モースは後に
香港で
オールコックに損害賠償の訴訟を起こし
オールコックは敗訴
モースに2,000ドルを支払った
↓↑
負傷した役人は重傷
家族が復讐をする噂が
横浜の外国人居留地に広まった
↓↑
ヒュースケン殺害事件
ヘンリー・ヒュースケンは
安政三年
(1856年)から
タウンゼント・ハリス
の秘書兼通訳を務め
ヒュースケンは有能な通訳で
ハリスは他国の外交交渉にも
ヒュースケンを貸し出していた
万延元年十二月四日
(1861年1月14日)
プロイセン王国使節宿舎であった
芝赤羽接遇所(港区三田)から
善福寺への帰途
芝薪河岸の中の橋付近で
攘夷派の薩摩藩士
伊牟田尚平
樋渡八兵衛
らに襲われ
翌日死亡
幕府はヒュースケンの母
ジョアンネ(ヨアンナ)に
1万ドルの
弔慰金を支払って事件を落着
ヒュースケンは有名人であり
事態を重く見た幕府は
辻番所に
外国人保護を訴える標識を立てたり
外国御用出役の新設するなど
外国人警護に努めたが
その後も外国人に対する襲撃事件は続いた
↓↑
(5) 文久元年
(1861年)
5.1 第一次東禅寺事件
文久元年
(1861年)
第一次東禅寺事件
文久元年五月
イギリス公使
オールコックは
長崎から江戸へ陸路で旅
尊攘派の志士らは
「神州日本が穢された」と憤激し
文久元年五月二十八日午後十時頃
(1861年7月5日)
水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名は
東禅寺のイギリス公使館内に侵入し
オールコック公使らを襲撃
外国奉行配下で
公使館の警備に就いていた
旗本や郡山藩士
西尾藩士らが応戦し
邸の内外で
攘夷派浪士と戦闘し
双方に死傷者を出した
オールコックは危うく難を逃れたが
書記官
ローレンス・オリファント
長崎駐在領事
ジョージ・モリソン
が負傷
攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗
3人が討取られ
1人が現場で捕縛
現場から逃走した浪士も
3人は切腹
1人が捕らえられた
事件後
オールコックは幕府に対し抗議し
イギリス水兵の公使館駐屯の承認
日本側警備兵の増強
賠償金1万ドルの支払いという条件で
事件は解決
事件後
英国艦隊の軍艦が横浜に常駐
↓↑
(6) 文久二年
(1862年)
6.1 第二次東禅寺事件
6.2 生麦事件
6.3 英国公使館焼打ち事件
文久二年
(1862年)
第二次東禅寺事件
東禅寺警備の
松本藩士
伊藤軍兵衛は
東禅寺警備により
自藩が多くの出費を強いられ
外国人のために
日本人同士が殺し合うことを憂い
公使を殺害し
自藩の
東禅寺・・・トウゼンジ=当然(當然・当然・当前・陶然)事?
警備の任を解こうと考え
文久二年五月二十九日夜中
(1862年6月26日)
代理公使
ジョン・ニールの
寝室に侵入しようとしたが
警備のイギリス兵
2人に発見され戦闘
伊藤はこれを倒したが自分も負傷
番小屋に逃れ
翌三十日に自刃
幕府は警備責任者を処罰
イギリスとの間に
賠償金の支払い交渉を行ったがまとまらず
紛糾するうちに
生麦事件が発生
幕府は
翌文久三年四月
生麦事件の賠償金とともに
1万ポンドを支払い
事件は解決
↓↑
生麦事件
文久二年八月二十一日
(1862年9月14日)
横浜近くの
生麦村付近で
薩摩藩主の父
島津久光
の行列に乱入した
騎馬のイギリス人4人に
供回りの藩士が斬りつけ
チャールス・リチャードソン
が死亡
ウッドソープ・クラーク
ウィリアム・マーシャル
の2名が重傷
賠償交渉がもつれ
薩英戦争が勃発・・・薩英戦争
↓↑
第一次
東禅寺事件以後
英国は横浜に艦隊を常駐
が、
東インド艦隊司令官
ジェームズ・ホープは
攘夷派の強力な取り締まりを
幕府に促すため
海上封鎖
および
一部砲台に対する限定的な攻撃を提案
提案は後に本国政府の承認を得
用意された艦隊が
薩英戦争に転用
↓↑
英国公使館焼打ち事件
品川・・・・ヒンセン・・・貧賤・比武戦(撰)?
御殿山・・・ゴテンサン・・誤伝纂(簒)?
の地に
公使館を建設することを要求
猛反対が起きたが
幕府は列国の要求を呑んだ
新英国公使館は
文久二年八月から
品川御殿山に建設が開始
十二月にはほぼ完成
長州藩士
高杉晋作
は
イギリス公使館の焼打ちを計画
文久二年十二月十二日深夜
警戒を突破し
築中のイギリス公使館に潜入
井上聞多(井上馨)
伊藤俊輔(伊藤博文)
らが焼玉を使ってこれに放火
↓↑
(7) 文久三年
(1863年)
7.1 井土ヶ谷事件
文久三年
(1863年)
井土ヶ谷事件
文久三年九月二日
(1863年10月14日)
フランス陸軍横浜警備隊員
陸軍少尉
アンリ・カミュ・・・アルベール・カミュ(Albert Camus)?
1913年11月7日~1960年1月4日
1913癸丑(癸・辛・己)⇔己亥(戊・甲・壬)
0011癸亥(戊・甲・壬)⇔丙子(壬・ ・癸)
?0011壬戌(辛・丁・戊)月生?
0007壬辰(乙・癸・戊)⇔辛卯(甲・ ・乙)
午未=空亡 大運己未(丁・乙・己)
フランスの小説家、劇作家、哲学者
フランス領アルジェリア出身
第二次世界大戦中に小説『異邦人』
戦後は「ペスト」
が
同僚のフランス陸軍士官とともに
馬で
武蔵国
久良岐郡
井戸谷村
十二天社
(神奈川県横浜市南区
井戸谷下町井戸谷橋付近)
を通行中に斬殺
フランス公使
ド・ベルクール
が幕府に強く抗議
外国奉行
竹本甲斐守を・・・・・・竹の本、甲斐の守り?
特使として謝罪のために
フランスに派遣するよう迫った
苦慮した幕府が
横浜鎖港
談判使節団という名目で
フランスに使節を派遣
幕府は
カミュの遺族に
35000ドル支払った
↓↑
(8) 元治元年
(1864年)
8.1 鎌倉事件
元治元年
(1864年)
鎌倉事件
元治元年十月二十二日
(1864年11月21日)
イギリスの
横浜駐屯歩兵
第20連隊付き士官
ジョージ・ボールドウィン少佐
ロバート・ニコラス・バード中尉
・・・賂バード・似凝らす・葉蛙度・注意(中位)?
↓↑↓↑
ロバート
・・・ニコラス=問題の「バード」の
「英和辞典=箋」・・・箋=竹+戈+戈=竹+戔
英和辞典?
「1999年7月7日水曜日
「中日新聞・夕刊・E版」の記事
「【ロンドン7日共同】
幕末の鎌倉で攘夷(じょうい)浪人に
殺された英国軍人の
署名がある英和事典がこのほど、
ロンドンの古書市場で見つかった。
日英交渉史を研究している
恒松郁生
『ロンドン漱石記念館』・・・ロンドンの漱石記念館
2016年9月28日閉館
32年の歴史に幕
館長が競売で入手した」とある。
この辞書の内側のページには
「英国歩兵第二十連隊バード中尉、
1864年8月13日」
と書き込みがあるらしい。右から
「安政四年稟准」
「井上修理校正」
「英語箋」
「一名 米語箋」
「村上英俊閲」
と印刷されている。
そして、英語で、
↓↑ ↓↑
・AN・
・EINGLISH AND JAPANESE・
・AND・
・JAPANESE AND EINGLISH・
・VOCABULARY・
・COMPILED
PROMANTIVE WORKS・
・BY・
・W,H.MEDHCRST・
・ ・
・BATAVIA・
・PRINTED BY
LITHOGRAPNY・
↓↑↓↑
と印刷されている
ちなみにこの
「バード中尉」は
「1864年(元治元年)」の
「十一月二十一日」に
「鶴岡八幡宮前」で
「鎌倉事件」にあって死亡した人物であった・・・
↓↑↓↑
下関戦争
攘夷を唱える長州藩が
関門海峡で外国船を砲撃
報復でイギリス海軍が
フランスなどと共に
下関の砲台を占拠
帰国した井上と伊藤は事態収拾に奔走
↓↑ーーーーー↓↑
の2名が鎌倉で惨殺
幕府は
蒲池源八
稲葉丑次郎
を捕縛
十一月十八日
横浜戸部の刑場で斬首
十一月二十五日
犯人の1人
元谷田部藩士
清水清次が捕縛
十一月二十八日
横浜市中引き回しの後
翌十一月二十九日
戸部にて
イギリス守備隊分権隊の見守るなか斬首
吉田橋にて梟首
慶応元年九月十一日
清水清次の共犯者
旗本
内藤豊助家来
間宮一が
戸部で斬首
吉田橋で梟首
↓↑
(9) 慶応二年
(1866年)
9.1 鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)
「鳶=とんび」の「小亀」?
9.2 ハリー・パークス恫喝事件
慶応二年
(1866年)
鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)
慶応二年二月
酒に酔った2人のフランス水兵が
港崎町の遊廓に入って乱暴
乱暴を見かねた力士の
鹿毛山の長吉が取り押さえ
駆けつけた
鳶職の
亀吉が鳶口で殴打
1人を即死させた
亀吉は下手人として処刑
鹿毛山は追放
↓↑
ハリー・パークス恫喝事件
慶応二年十一月二十五日
(1866年12月31日)
イギリス公使
ハリー・パークス
が江戸の郊外の品川を騎馬で通行中
人吉藩士
岩奥八右衛門
が道の真ん中に立ちはだかり
刀を少し抜いていて恫喝
パークスと英国人護衛の特務曹長が
これを拘束し英国公使館に連行して捕虜
↓↑
(10)慶応三年
(1867年)
10.1 アーネスト・サトウ襲撃事件
10.2 英国水兵殺害事件
(イカルス号事件)
10.3 ヘンリー・スネル襲撃事件
10.4 英国水兵襲撃事件
慶応三年
(1867年)
アーネスト・サトウ襲撃事件
慶応三年三月二十五日
(1867年4月29日)
英国公使一行は
大坂で新将軍
徳川慶喜との会見に臨んだが
通訳の
アーネスト・サトウ
と画家の
チャールズ・ワーグマン
は、その後陸路大坂から江戸に向かった
四月二十四日
サトウらは近くに
例幣使(レイヘイシ)・・・例併史(詞)?
・・・例幣使=朝廷の伊勢神宮に捧げ物をもっていく使者
江戸時代、朝廷は徳川家康の法要のために
日光東照宮にも同じように勅使を派遣した・・・
一行が
来ているとの噂を聞いた
予定では
例幣使は
掛川宿を・・・掛=カ・カイ・ケ・ケイ・かける
川=セン・かわ
宿=シュク・スク・かねてからの
「掛川宿=カイセンスク=改選素句」?
通過し
次の宿に泊まることになっていたので
彼らと遭遇しないよう
英国人
一行は先を急ぎ
例幣使と出会う前に掛川宿に到着
夜半、12人ほどの凶漢に宿が襲撃され
護衛の侍が撃退し
サトウらは難を逃れた
彼らを襲ったのが
例幣使一行だとわかったのは
落としていった提灯によってであった
数ヶ月後
凶漢とこの事件に関係した
他の3人の者が江戸に檻送
審問を受け
2人が死刑(うち1人は獄死)
4人が遠島
↓↑
英国水兵殺害事件(イカルス号事件)
七月六日夜
長崎で
イギリス軍艦
イカルス号の水兵
ジョン・ホッチング
ロバート・フォード
の2人が泥酔し
丸山の路上に寝込んでいるところを
筑前藩士
金子才吉
に殺害
金子は八日に自刃
筑前藩がこれを秘匿
明治元年(1872年)十月二十七日
犯人が金子だったことが判明し
被害者遺族に
見舞金・・・舞=𠂉卌一舛
↓↑ 舞=𠂉+卌+一+舛(タヰ)
𠂉+卌+一夕+㐄
ブ・ム・まい・まう・もてあそぶ
まう・まわす
はげます・奮い立たせる
思いのままにあつかう
無=𠂉+卌+一+灬=𤍍=亠+廿+廿+灬
卌=四十・肆十・よそ・よそじ・forty
↓↑ 廿=二十・弐拾・念
が支払われ
金子と同道していた
6名の者が禁錮刑に処せられた
↓↑
ヘンリー・スネル襲撃事件
七月十五日
オランダ人で
プロイセンの
シャルジェ・ダフェール公使の書記官
ヘンリー・スネル
↓↑ 兄はジョン・ヘンリー・スネル
(John Henry Schnell・日本名は平松武兵衛
1843年?~1871年?)
弟はエドワルド・スネル
(Edward Schnell
1844年?~没年不詳)
↓↑ プロイセン出身・・・
が弟の
エドワード
と馬車で
江戸に戻ってきたところ
沼田藩士
三橋昌
が馬の前に飛び出し
スネルは馬首を廻らせ
男に触れずに通り過ぎようとしたが
馬車が斜め前に来たところ
三橋は刀を抜き
スネルの隣に座っていた
エドワードに一撃を浴びせようとした
スネルは拳銃で反撃
誤って
下駄商
幸次郎の雇人
淺次郎
を傷つけてしまった
事件から2日後の17日
沼田藩は、書面をもって、
幕府に
三橋昌を拘禁したことを報告
↓↑
英国水兵襲撃事件
九月十一日
土佐藩士
島村雄二郎が
長崎の江戸町において
泥酔したイギリス人水兵
エドワード・ウォーレン
の頭部を切り
アメリカ人
ジョージ・アンダーソン
にも腕に軽傷を負わせた
島村は
「その足ですぐに同藩の役人に自首」
島村は
自分に殺意はなく
防御のための抜刀であったと主張
事件は解決を見ぬまま
幕府の崩壊で立ち消え・・・
↓↑
(11)慶応四年
(1868年)
11.1 神戸事件
11.2 堺事件
11.3 パークス襲撃事件
慶応四年
(1868年)
神戸事件
慶応四年一月十一日
(1868年2月4日)
神戸(現・神戸市)
三宮神社前で
備前藩(岡山県)兵が隊列を横切った
フランス人水兵らを負傷させ
居留地(旧居留地)予定地を
検分中の欧米諸国公使らに
水平射撃を加え
明治政府初の外交問題となり
一時、外国軍が
神戸中心部を占拠
隊の責任者であった
滝善三郎
が切腹で解決
↓↑
堺事件
慶応四年二月十五日
(1868年3月8日)
フランス海軍
コルベット艦
デュプレクスが堺港に入り
士官以下数十人の水兵が上陸
市内を徘徊
土佐藩軍艦府は警備の藩兵に取締を命じ
帰艦を諭示させたが言葉が通じず
水兵側は
土佐の隊旗を倒伏して逃亡しようとした
土佐藩側はこれを咄嗟に発砲
フランス人11人を・・・十一?
殺傷、海に落として溺死させた
土佐藩側では
フランス人が
迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした
遺体は十六日に引き渡しを終え
フランス公使
レオン・ロッシュは
二月十九日
に在阪各国公使と話し合い
下手人斬刑・陳謝・賠償などの
5箇条からなる抗議書を日本側に提示
明治政府は事態を憂慮し
イギリス公使
ハリー・パークス
に調停を求めたが失敗
同月二十二日
明治政府は
賠償金15万ドルの支払い
暴行者の処刑など全ての主張を飲んだ
同月二十三日に
大阪裁判所の宣告により
堺の妙国寺で
土佐藩士20人の刑の執行が行われた
立ち会っていた
フランス軍艦長
デュプティ=トゥアールは
フランス人の被害者数と同じ
11人・・・十一?
が切腹したところで
外国局判事
五代才助
に中止を要請
結果として
9人が助命された
処刑を免れた
橋詰愛平ら9人は
土佐の
渡川(四万十川)以西の
入田へ配流され
庄屋
宇賀佑之進
預けとなり
その後
明治新政府の恩赦により帰郷
自刃した土佐藩士は
妙国寺内に厚く葬られ
遭難したフランス人の碑も
神戸市立外国人墓地に建てられた・・・
↓↑
パークス襲撃事件
慶応四年二月三十日
(1868年3月23日)
イギリス公使
パークス一行は
明治天皇に謁見するため
宿舎の知恩院を出て
御所に向かう途上
2人の男に襲撃され
護衛の
中井弘蔵
後藤象二郎
が反撃、犯人の一人
朱雀操
を斬殺
一人の犯人である
三枝蓊
も他の警護兵に重傷を負わされ
逃走しようとした所を捕縛
襲撃は失敗
三枝は
同年三月四日に斬首
ーーーーー
万国を敵に回せば
碬 卵
(カンラン=石を投げて卵を割る)の勢い
↓↑
三軍之衆
可使必
受敵
而無敗者
奇正是也
兵之所加
如以碬
投卵者
虚實是也
↓↑
碬をもって
卵に投ずるがごとくは
虚実これなり
↓↑
如以碬投卵者
虚実是也
固い石を卵に投げつけるように
敵を打ち破ることができるのは
敵のすき(虚)を
実した軍(実)で
攻撃する虚実の運用
↓↑
碬=といし・カ・ゲ・ケ
といし=砥石・研石
砥=石+氐(氏+一
テ=弖=弓+一)・・・?
問い詞(史・氏)?
高低があって平らでないさま
↓↑
碬=石+叚
丆+口+叚・・・丆=面?
一+丿+口+叚
↓↑
碬疵
欠点、失敗、不足
難・非・ぼろ・瑕瑾・デメリット
疵瑕
欠点・弊竇・欠缺・襤褸・不具合・粗製
瑕・悪目・欠陥・難点・汚点・傷・疵・芥
短所・不備・短・穴
それが失敗の原因となる
あるいは
その効力を減少させる計画
理論の法的文書の欠陥
欠陥・汚点・短所・不備
人体の上で
概観を損なう特徴または欠陥
小疵・瑕瑾・瑕・傷・疵
適切でない
欠陥があるという特性
痛いところ・弱み・非・泣き処
デメリット・疵瑕・欠点・足下
失
搦め手・悪目・泣所・難点・苦手
傷・疵・咎
芥もくた・泣き所・ウィークポイント
足元・弱点・搦手・短所
付け目・痛い所・短・鬼門
ウイークポイント・足許
まずい判断や
怠慢、不注意を原因とする誤った行動
躓き・過誤・ミステーク・ちょんぼ
間違い・誤り・誤まり・謬り・間違え
疵瑕・過失・ミステイク・過怠
失・誤・謬・過ち・緩怠
事誤り・間違・ミス・誤謬・謬錯・誤ち
↓↑
凡戰者、以正合、以奇勝、故善出奇者
無窮如天地、不竭如江河、終而復始
日月是也、死而復生、四時是也、聲不過五
五聲之變、不可勝聽也、色不過五、五色之變
不可勝觀也、味不過五、五味之變、不可勝嘗也
戰勢、不過奇正、奇正之變、不可勝窮也
奇正相生、如循環之無端、孰能窮之
↓↑
およそ戦いは、
正をもって合っし、
奇をもって勝つ
ゆえに善く奇を出いだす者は
窮まりなきこと天地のごとく
竭(つき)ざること
江河のごとし
終わりてまた始まるは
日月これなり
死してまた生ずるは
四時これなり
声は五に過ぎざるも
五声の変は勝あげて聴くべからざるなり
色は五に過ぎざるも
五色の変は勝あげて観みるべからざるなり
味は五に過ぎざるも
五味の変は勝あげて嘗なむべからざるなり
戦勢は奇正に過ぎざるも
奇正の変は勝あげて窮わむべからざるなり
奇正のあい生ずることは
循環の端なきがごとし
たれかよくこれを窮わめんや
↓↑
激水之疾、至於漂石者、勢也
鷙鳥之疾、至於毀折者、節也
是故善戰者、其勢險、其節短
勢如彍弩、節如發機
↓↑
激水の疾やくして石を漂だよわすに至るは
勢なり
鷙鳥(シチョウ)疾やくして
毀折(キセツ)に至るは、節なり
このゆえに善く戦う者は
その勢は険にしてその節は短なり
勢は弩ど彍くがごとく
節は機を発するがごとし
↓↑
彍=はる・はしる・クワク・カク
弓をいっぱいに引く
弘
↓↑
彊=弓+畺
つよい・しいて・キョウ・ゴウ
通仮字、姜・疆
異体字、强・疆・強=弓+厶+虫
声 符、畺
↓↑
亂生於治
怯生於勇
弱生於彊
治亂數也
勇怯勢也
彊弱形也、
↓↑
乱は治に生じ
怯は勇に生じ
弱は彊に生ず
治乱は数なり
勇怯は勢なり
彊弱は形けいなり
ーーーーー
朝廷に
横浜鎖港談判使節の
成功を約束している幕府は
翌日の
7月23日
談判使節が
フランスと結んできた
パリ協定を直ちに破棄
池田筑後守に
六百石召上げと隠居蟄居を
河津伊豆守に
小普請入りと逼塞を
河田相模守に
小普請入りと閉門を申しつけ
「不埒の至りに候」
と
使命不履行を厳しく罰した
池田長発には
幕閣に会い
直接詳しい帰国報告をする機会をも
与えなかった
幕府は朝廷に
「横浜鎖港をもって攘夷を始める」
と約束してきたてまえ
いかに
池田筑後守の報告書が
理に適っていようとも
こうする以外の道は無かった・・・
ーーーーー
幕末の交換レート
1両=1.33ドル
明治
1両=1円=金1.5グラム
現在
金1gは約5000円
1円=7,500円
↓↑
300万ドル=225万円
=現在の168億7500万円
200億~300億くらい
↓↑
当時の300万ドルは225万両
1両の価値は現在の価値に換算し
約2万円
従って
225万両は450億円
↓↑
かけそば
一杯16文(幕末には20文)
浮世絵
一枚絵16文
現在のそばの値(500~600円程度)
1文=31~38円見当
1両=6000文
186000円~228000円
職人の日当換算
文化文政期(19世紀初)
職人の手間(日当)
銀5匁4分
現在の日当を大まかに2万円~3万円
換算すると
銀1匁=3700~5555円
1両=銀60匁とし
222000円~333300円
この場合の
1文=37~55円
↓↑
一両の価値
お風呂屋
8文=200円
スイカ
40文=1,000円
そば・うどん
16文=400円
床屋(髪結い)
28文=700円
酒(1升)
250文=6,250円
納豆
4文=100円
たばこ(14g)
8文=200円
お冷1杯
4文=100円
居酒屋・酒1合
26文=650円
串団子
4文=100円
駕籠
(日本橋・三越前~吉原まで直線で約5km)
200文=5,000円
天ぷらそば
32文=800円
ゆで卵1個
18文=450円
吉原揚げ代
1両2分=150,000円
鰻めし
150文=2,625円
↓↑
1800年を1ドルとして
1865年は1.11倍
2008年は0.08倍
現在から考えれば
1ドルは13.875倍
13.875×20×89.8(今日のレート)
=24919.5円≒¥25000
↓↑
南北戦争直後
1ドル=2500円~3000円
ーーーーー
薩英戦争
年月日
1863年8月15日~1863年8月17日
ーーーーー
馬関戦争
1863年5月10日
23日
26日
↓↑
孝明天皇の要望により
将軍徳川家茂は
文久三年五月十日
(1863年6月25日)
をもっての
攘夷実行を約束
長州藩は
馬関海峡(関門海峡)
を通過する外国船への砲撃実施
戦後、
長州藩は幕命に従ったのみと主張
アメリカ・イギリス・フランス・オランダ
に対する損害賠償責任は
徳川幕府のみが負うこととなった
↓↑
文久三年五月十日
長州藩が馬関海峡を封鎖
航行中の
アメリカ・フランス・オランダ艦
に対して無通告で砲撃
約半月後の
六月
アメリカ・フランス軍艦
が
馬関海峡内に停泊中の
長州軍艦を砲撃
長州海軍に壊滅的打撃を与えた
長州は砲台を修復した上
対岸の
小倉藩領の一部をも占領
新たな砲台を築き
海峡封鎖を続行
↓↑
元治一年(1864年)七月
イギリスは長州に対して
懲戒的報復措置を決定
フランス・オランダ・アメリカ
の三国に参加を呼びかけ
都合艦船17隻で連合艦隊を編成し
8月5日~8月7日
馬関(下関市中心部)と
彦島の砲台を砲撃
各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊
馬関海峡の砲台を
四国連合艦隊によって無力化され
長州藩は
以後列強に対する武力での攘夷を放棄
海外から新知識や技術を積極的に導入し
軍備軍制を近代化
坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により
慶応二年一月二十一日
(1866年3月7日)
薩摩藩と
薩長同盟を締結
↓↑
下関戦争(1863年)
馬関戦争(1864年)四国艦隊下関砲撃事件
ーーーーー
・・・???・・・
つむぎ=摘武儀・摘麦・津夢紀・・・都麦都・・・
・・・「イスラエル(State of Israel・以色列・1948/5/14)建国から70年・2018年5月14日、米国は在イスラエル大使館を商都テルアビブからエルサレム(Jerusalem)に移転」・・・「禀准=稟准」・・・『英和・和英語彙』・・・「麦都思」・・・麦(むぎ・バク)の都(みやこ・ト)を思(おも・シ)う・・・「麦⇔都(バク⇔ト)」って?・・・「博徒(バクト)⇔賭博(トバク)⇔ばくち=博打・博奕」・・・「都⇔麦(つ⇔むぎ)」・・・?
ーーーーー
麦=主+夂(攵)=麥=來(十+父)+夂
來(十+人+人+八)
夂=「後から行く(説文解字)」の意味
「人」の両脚「ク」に「乀」を入れ
「後に送りとどけるものがあること」
を表した指事文字・・・??
麥都・・・十字架と福音書の都・・・ベツレヘム
バク・むぎ
旧字、「麥=來+夂=麥」
麦・麥・稞・麮・麺・麵・麪・麨
大麦(おおむぎ)・烏麦(からすむぎ)
蕎麦(キョウバク・そば)・玄麦(ゲンバク)
原麦(ゲンバク)・小麦(こむぎ)
米麦(ベイバク)
↓↑
つむぎ
万葵
亜麦
摘喜
摘来
摘武儀
摘麦
津夢紀
津夢綺
津麦
積紀
紡
紡伎
紡伎
紡喜
紡姫
紡希
紡希
紡来
紡煌
紡生
紡生
紡祈
紡稀
紡紀
紡絆
紡綺
紡金
紬
紬伎
紬來
紬凪
紬喜
紬妃
紬姫
紬季
紬希
紬希
紬星
紬樹
紬武儀
紬生
紬祇
紬祇
紬稀
紬稀
紬紀
紬綺
紬衣
紬記
紬貴
紬麦
継南
継未
績
績伎
績伎
績葵
通夢稀
通麦
都夢紀
都武儀
都矛技
都麦
ーーーーー
↓↑
禀准=稟准=許可を受けること
稟=申し上げる・ヒン・リン
稟告
天から授かる
生まれつきの性質
稟性・稟賦・気稟・天稟
命令を受ける
申し出る
稟議・稟告・稟請
「禀」は異体字
ーーーーー
↓↑
准=なぞらえる・主たるものになぞらえる
ならす
準ずる・ゆるす・承認する
ジュン
准尉・准看護婦
↓↑
淮=水+隹
ワイ・エ(ヱ)・カイ(クヮイ)
「隹」は元は「𠂤(タイ)」に共通し
「堆・帷」に見られ
「めぐる・あつめる」等の意味
淮河(淮水)地名
長江・黄河に次ぐ第三の大河
↓↑
『淮南子(エナンジ・ワイナンシ』
前漢の武帝の頃
淮南王劉安(紀元前179年~紀元前122年)
が学者を集めて編纂させた思想書
呉音で「エナンジ」と読むのが一般的
『淮南鴻烈(ワイナンコウレツ)』
劉安・蘇非・李尚・伍被
らが著作
10部21篇
『漢書』芸文志には
「内二十一篇、外三十三篇」とあるが
「内二十一篇」しか伝わっていない
道家思想を中心に
儒家・法家・陰陽家の
思想を交えて書かれ
一般的には雑家の書に分類
注釈
後漢の
高誘『淮南鴻烈解』
許慎『淮南鴻烈間詁』
がある
ーー↓↑ーー
ウォルター・ヘンリー・メドハースト=麦都思=麥都思
(Walter Henry Medhurst) 麥=來(十父)+夊(夂・攵)
1796年4月29日~1857年1月24日 麥(麦)都=エルサレム
↓↑ (Jerusalem)
丙辰(乙・癸・戊)⇔丙辰(乙・癸・戊)
壬辰(乙・癸・戊)⇔辛丑(癸・辛・己)
戊辰(乙・癸・戊)⇔壬子(壬・ ・癸)
戌亥=空亡
↓↑
会衆派のイギリス人宣教師
中国学者、出版人
上海にはいった最初の宣教師
中国語訳聖書の翻訳・改訂・出版に尽力
中国名は
麦都思(Mài Dūsī・麦都思=メドハースト=バクトシ?)
日本では
『英和・和英語彙』の著者として知られている
1856年
上海を離れて帰国
1857年1月22日に
ロンドンに帰り着いた
2日後に死亡
出版物は
中国語によるもの59種
英語によるもの27種
マレー語によるもの6種類
↓↑
尚徳『東西史記和合』
1829年
盤古以来の中国の王統と
アダム以来の西洋の歴史を
上下2段に分けて対比したもの
両者の古代史は
洪水伝説があるなど一致
堯とノア
舜とセム
が同一人物であるとした
その後両者の歴史は分かれたが
イギリスが広東に入ることによって
再び堯舜の昔にかえるとした
「尚徳」はメドハーストの偽名
↓↑
尚徳『新増三字経』
『三字経』形式で
キリスト教の教えを説いたもの
↓↑
A Chinese and English Dictionary.
Batavia. (1842).
漢英字典
↓↑
English and Chinese Dictionary.
Shanghai. (1847~1848).
英漢字典
↓↑
A dictionary of the Hok-këèn
dialect of the Chinese language.
Macao. (1832).
福建方言字典
↓↑
An English and Japanese,
and
Japanese and English vocabulary.
Batavia. (1830).
英和・和英辞典
1857年に
日本で『英語箋』の名で翻刻出版
Philo-Sinensis (1835).
↓↑
Translation of a comparative vocabulary
of the Chinese,
Corean, and Japanese languages.
Batavia.
朝鮮偉国字彙
シーボルトがもたらした
洪舜明『倭語類解』
朝鮮人向けの日本語辞書を元にした
朝鮮語と日本語の単語集
↓↑
China, its state and prospects.
Boston. (1838).
中国の現状と展望
A dissertation on the theology
of the Chinese,
with a view to the elucidation
of the most appropriate term
for expressing the Deity,
in the Chinese language.
Shanghai. (1847).
↓↑
「God」を中国語でどう翻訳すべきかについて
On the true meaning of the word Shin.
Shanghai. (1849).
漢字「神」の意味するところを
『佩文韻府』をもとに考察した
↓↑
メドハーストは初めて
中国語の原文から『書経』を英訳
The Shoo King, or the historical classic.
Shanghai. (1846).
↓↑
絹と茶の産地を訪れた旅行記の中で
『農政全書』の抄訳も行った
A glance at the interior of China
: obtained during a journey
through the silk and green tea
districts taken.
Shanghai. (1849).
ーーーーー
批准=署名により
内容が確定した条約に対して
国家の権限ある機関が
各国国内法 (憲法) 上の
手続に従い行う
最終的確認と確定的同意を与える行為
批准(ratification)
国家が条約に
拘束されることに同意する手続き
通常は議会の同意を得て
元首等が裁可あるいは認証
公布等を行うことにより
国内において成立し
多国間条約においては
国際機関等の寄託者に批准書を寄託
批准
全権委員が署名して内容の確定した条約を
条約締結権をもつ国家機関が確認し
これに同意を与えること
核兵器禁止条約を「批准」しない政府
批准
表奏の末尾に天子が可否の決裁を書き示す意
「准」は許す意
「批」=つきあわせて良否をきめる
批正・批判・批評・高批
比べて良し悪しを判定するの意
指摘する・品定めする
↓↑
「批准」=主権者が決裁する
全権委員が署名した条約に対する
当事国における
最終的な確認・同意の手続き
日本では内閣が行うが
国会の承認を必要とする
↓↑
条約や協定
(国と国とのとりきめ。国際的なルール)
を最終的に、国として確認・同意すること
ratification(批准)
ratify~(批准する)
↓↑
「批」=強く打つ・ひっぱたく
押す・押しのける
触る
開く
誤りを指摘する・分析する
示す・答える
「𠜱=卑+刂(刀)」に通じて
削るの意
天子が表奏最後に決裁を書き示すこと
「琵」と通じ琵琶⇔批把と書く
平手打ちの意
「人の言動・仕事などの
誤りや欠点を指摘し)正す・改める」
「𢱧」が本字(説文解字)
「手を反(かへ)して
擊つ(説文・巻十二)」
「擊なり(玉篇)」
「擊なり、推なり
轉なり、示なり(広韻)」
声符は比(𢱧の声符は𣬉)
うつ・ふれる・ヘイ・ヒ・ビ
批准・批答・批判・批評
↓↑ 異体字、「𢱧=扌+囟+比」
批准
ひとつの国家が
国・地域をまたがる条約や協定に
正式に拘束されることへの同意を表明する方法
総称して「締結」と呼ばれる
通常、個別の条約において規定され
多国間条約の場合に
「批准」や
「受諾(acceptance)」
「承認(approval)」
「加入(accession)」
による
二国間条約の場合は
批准、受諾、承認、加入のほか
公文の交換
批准は署名、議会における承認
元首等による裁可・認証
批准書の寄託を経る手続きで
重要な多国間条約には
条約に
未署名の国(条約の交渉に参加しなかった国)
に対して加入手続きを認めているほかは
批准によらなければならない
(ジェノサイド条約
欧州人権条約、
社会権規約
自由権規約、
ウィーン条約法条約
包括的核実験禁止条約)
条約に署名した国について
批准書とよばれる
国家の同意や確認を示す文書を作成し
この文書を
寄託または交換することによって
当該国について条約の効力が生じる
ーーーーー
・・・???
ーー↓↑ーー
1867年以前に
中国に渡来した
キリスト教宣教師12人名
↓↑
馬士曼(Joshua Marshman)
ヨシア
馬礼遜(Robea Morrison)
モリソン
米 憐(William Milne)
ウイリアム
麦都思(Walter Henry Medhurst)
約翰・斯莱特(John Slater)
ジョン
約翰・因斯(John Ince)
ジョン
撒母耳・米爾頓(Samuel Milton)
サムエル ミルトン
羅伯特・弗莱明(Robed Fleming)
フェルミン
喬治・H・赫特曼(George H.Huttman)
ジョウジ ハットマン
宏富礼(James Humphreys)
ハンフレイ
高大衛(David Collie)
デビット
基 徳(Samuel Kidd)
サムエル キッド
ーーーーー
・・・???・・・漢字の名前には当然、メッセージが・・・でも、ダレに?・・・後に送りとどけるものがある・・・「福音」?・・・でも「パン」がなくちゃぁ~・・・
皐月(五月)のカンジ・・・躑躅(つつじ)に毒・・・?
・・・16世紀ころから・・・1500年代~苗字の「大田」の漢字表記が「太田」に変化していった・・・ナゼ?「大(おほ・おお・ダイ)」が「太(ふとい・ぶとい・タイ)」に変化していったのか?・・・「大⇔太=タイ=他意・替・対・体・帯・台・鯛・tie(?)・・・」・・・「太閤=太閤下=摂政または関白の職を子弟に譲った人物・内覧(ナイラン⇔名意蘭=ないらん=内乱?)職に就き天皇に奉る文書などを先に見る役職」・・・タイコウ-ゲ(カ)?・・・
ーーーーー
tie(?)
…を(ひも=紐・綱などで)縛る・・・紐育=ニューヨーク
…を(ひも=紐・綱などで)結ぶ
…ゆわえる(with…)
…をしっかりとくくる
…人を縛りあげる
…動物をつなぐ(up)
…を縛りつける(down)
…を(…に)つなぐ(to, onto…)
tie up a package
小包をしっかりくくる
be tied hand and foot
tie 【自動】
ゲーム・試合で同点になる、引き分ける
ーーーーー
帯=おび・たらし・タイ・・・帯方郡?
獸帯=黄道帯
=zodiac(ゾウディアック)
象 出入鴉通区
古事記・序文
↓↑
「亦、於姓・・・また、姓に於いて名
日・・・ジツ・ニチ・・・字通・似知・仁智?
日(にちへん・にち)・曰(ひらび)
ニチ・ジツ
か・ひ・ひる・あき・はる
下・・・ゲ・カ・・・・・解-化・外-科・乂-卦?
下=丅+丶=一+ト
カ・ゲ
した・しも・もと
さげる・さがる
くだる・くだす・くださる
おろす・おりる
位置・地位・価値
年齢などが低い
劣っている
時間・順序・物事の流れの後の方
高い所から低い所へ移動する
ある者のした
支配の範囲
命令を出す
手をくだす・物事を行う
謂・・・・言う
玖沙訶、・くさか
於名・・・名に於いて
帶・・・・タイ・おび
字・・・・ジ・あざ
謂・・・・言う
多羅斯、・たらし
如此之類、・・・この類いのごとく
隨本不改」・・・本に倭(したが)って・・・隨本=隨書?
従(したが)って・・・臣従
遵(したが)って・・・遵法
隨(したが)って・・・隨本=隋書?
もとづいて
隨=阝(阜)+左+月+⻌
隋=阝(阜)+左+月=したがう
付き従う・寄り添う
追う
聞き入れる・言いなりになる
成り行きにまかせる
したがって・だから・それゆえ
その都度
部下・付き添い
易の六十四卦の一
物と自分との違いのかたちを表す
隋道=随道=隨道
随道=ズイドウ=瑞道=隋同⇔髄如何⇔真髄・心髄・神髄
隧道=ズイドウ=地中に掘った墓室に通じる通路
ズイドウ=瑞同
↓↑
吉兆=瑞光・瑞祥・瑞兆・瑞鳥・嘉瑞・奇瑞・祥瑞
瑞西(スイス)
瑞典(スウェーデン)
↓↑
久坂玄瑞(ゲンズイ)
天保十一年(1840年)五月誕生日不明
~
元治元年七月十九日(1864年8月20日)
幼名は秀三郎
諱は通武
字は「玄瑞」、「実甫」
通称は誠、義助
↓↑
高野 瑞皐(ズイコウ)=高野長英
文化元年五月五日(1804年6月12日)
~
嘉永三年十月三十日(1850年12月3日)
甲子(壬・ ・癸)⇔庚戌(辛・丁・戊)
庚午(丙・ ・丁)⇔丁亥(戊・甲・壬)
癸巳(戊・庚・丙)⇔戊子(壬・ ・癸)
午未=空亡
医者・蘭学者
通称は悦三郎
諱は譲(ゆずる)
号は瑞皐(ズイコウ)
皐=白+=+十+=
コウ(カウ)
さわ。岸辺
「九皐」
陰暦の五月
さつき=皐月(コウゲツ)=早苗月・・・
五月蝿(蠅)い=うるさい・煩い
さつきつつじ=皐月躑躅・・・躑躅(テキチャク)?
「羊躑躅(ヨウテキチャク)」
「羊がその葉を食べると躑躅(テキチャク)して死ぬ
それで羊躑躅という(陶弘景)」
足+「鄭(酋大邑)=ねんごろ・かさなる・ていねい(丁寧)
テイ・ジョウ」
足+「蜀(罒勹虫)=いもむし・ショク・ゾク
桑の葉などにつく昆虫の幼虫
目を強調した毛虫・芋虫
皐は
白骨の頭の骨に
四本足の獣のむくろ(骸)
「白く輝く」
転じて沢や岸、沼などの
水辺を表す文字となった・・・「羊の白く輝く毛並み」?
五月は羊毛を刈り取る季節?
「皐」は毛を刈り取られた羊?
揺れる水面の波形・・・?
「呼ぶ、ゆっくりと呼ぶ」
「ゆるやか・耕作・神に捧げる稲穂」
・・・「皐」はトンボの形象に見えたり
「ヤゴ=水蠆⇔萬+虫」の形象にも見えるが・・・
うるさい(五月蝿い・煩い)
「はえ=蠅・蝿」?・・・
「蠅伊呂泥(はえいろね)」は
「倭迹々日-百襲姫」・・・百(百済)を
↓↑ 襲(おそう
つぐ・受けつぐ・引きつぐ
あとをつぐ
かさねる)
おそう=熊襲・襲撃・奇襲・強襲
逆襲・急襲
つぐ=襲名・世襲・踏襲
かさねる=重ね着・重ねた着物
襲衣
↓↑ 因襲
の母親で
「意富-夜麻登-玖邇-阿礼-比売」
おほ-やまと-くに-あれ-ひめ・・・・大=おほ=太・多
「皋=白+大+十=白+一+人」+十」は「皐」の異体字
ヤゴ(水の蠆)=水(ミズ)の萬(ヨロズ)の
中のム(私・己・邪=よこしま=横島)・・・
ーーーーー
古事記・序文
↓↑
・・・於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、
以
和銅四年九月十八日、
詔臣
安萬侶、
撰錄
稗田阿禮
所誦之勅語
舊辭
以
獻上者、
謹
隨詔旨、子細採摭。
然、上古之時、
言意並朴、
敷文構句、
於
字卽難。
已
因訓述者、
詞不逮心、
全
以音連者、
事趣更長。
是以今、
或一句之中、
交用音訓、
或一事之內、
全以訓錄。
卽、辭理叵見、
以注明、
意況易解、
更非注。
亦、
於姓
日
下
謂
玖沙訶、
於名
帶
字
謂
多羅斯、
如此之類、
隨本
不改。
………
和銅五年・・・和同(導)語撚?・・・銅=金+同=コンドウ=混同
正月廿八日・・正解通念葉知字通?・・廿八日=念捌似曰(いわく)
正五位・・・・正語彙
上勳五等・・・状訓語等
太・・・・・・おほの・ふとい・タイ
朝臣
安萬侶
ーーーーー
『古事記』写本は32本
最古の写本は
『真福寺本-古事記』
建徳二年(1371年)~翌、建徳三年(1372年⇔文中元年)にかけ
真福寺の僧
賢瑜・・・1344年~?・・・1371-1344=37
が
師
信瑜・・・1333年~1382年 南北朝時代の僧
正慶二年=元弘三年生まれ
真言宗・尾張(愛知県)宝生院(真福寺)二世
元弘の乱(元弘元年・1331年)
後醍醐天皇を中心とした鎌倉幕府倒幕運動
元弘三年・正慶二年(1333年)
元弘三年(1333年)五月二十二日
鎌倉幕府滅亡
元弘三年=正慶二年(1333年)六月
建武の中興
元弘四年=建武元年(1334年)⇔「建武」の元号
の命を受けて書写した・・・
↓↑
干支辛亥
日本
南朝 建徳二年(1371年)・・・1372年は「壬子・文中元年」
北朝 応安四年
皇紀弐千参拾壱(2031)年
↓↑
中国
明王朝 洪武四年(1371年)
鄭和(テイワ・1371年~1434年)
イスラム教徒
馬哈只の子として誕生
中国明代の武将
12歳の時に
永楽帝に宦官として仕え
軍功をあげ重用
1405年~1433年
南海への7度の大航海の指揮
鄭和の船団は
東南アジア、インド
アラビア半島
アフリカ東海岸の
マリンディ(ケニアのマリンディ)
まで到達
本姓は馬
初名は三保
宦官の最高位、太監
三保太監あるいは
三宝太監の通称で知られる
↓↑
夏 開熙五年(旧六月まで)
ーーーーー
タイ
大・太・歹・台・代
忕・旲・忲・豸・兌
呆・汰・対・体・邰
隶・抬・苔・岱・㤗
祋・珆・迨・玳・殆
帝・怠・胎・耐・退
待・軑・泰・帯・菭
陮・釱・帶・紿・梯
堆・袋・逮・脱・跆
鈦・躰・蒂・詒・棣
替・貸・隊・搥・搋
?・瑇・碓・滞・㦅
䃍・蓷・箉・䲦・臺
滯・態・腿・颱・蔕
對・憞・慸・磓・蝳
䈚・隤・褪・駘・曃
憝・跎・頺・頹・鮐
頽・黛・諦・㿉・薱
艜・駾・薹・擡・戴
懟・蹛・魋・鎚・譈
蹪・蠆・穨・斄・鐜
鐟・軆・鐓・㿗・體
襶・靆
ーーーーー
太田 道灌(おおた どうかん)
生誕 永享四年(1432年)
死没 文明十八年七月二十六日・・・文の明の拾捌年漆月弐拾陸日?
(1486年8月25日)
改名 鶴千代(幼名)→資長→道灌(法名)
諱名 持資
ーーーーー
16世紀ころから・・・1500年代~
「大田」が
「太田」に変化していった・・・ナゼ?
草書での漢字「大」の「乀」が次の字へ
「ゝ」と引き摺った?
・・・点(天)が膨張?・太陽・太陰
「太田牛一」・・・「信長公記」の著者
・・・「牛一」=うしイチ・ゴイチ=「丑一・語位置」?
紐市
池田家文庫本に
慶長十五年(1610年)の
太田牛一
自身の記録
織田信長の一代記
戦国時代~安土桃山時代
織田信長の旧臣
太田牛一
原本は
江戸時代初期に成立
信長の幼少時代から
信長が
足利義昭を奉じて
上洛する前までを
首巻とし
上洛(永禄十一年(1568年)
から
本能寺の変(天正十年・1582年)・・・本の能の字の変
能事=ノウジ=農事
しなければならないこと
なすべきこと
まで
十五年の記録を
一年一巻とし
全十六巻(16冊)にまとめている
↓↑
読み「信長記=しんちやうき」
・・・「新調・伸長・伸張・慎重・新潮」の記?
写本を含め
20種類以上が残され
表題も
『安土日記・安土記・信長記・信長公記』
など様々で
大名や公家などに
写本で伝わり
明治時代になって初めて刊行された
太田自筆のものは3つ
自筆本にはいずれも首巻がなく
首巻は巻一〜巻十五より
後に書かれた・・・
↓↑
『永禄十一年記』(1巻)
永禄十一年(1568年)の部分のみ
尊経閣文庫所蔵
(尊経閣文庫は他にも
『信長記』15巻などを所蔵する)
↓↑
池田本『信長記』(十五巻)
岡山大学付属図書館池田家文庫所蔵
姫路城主・池田輝政に献上されたもの
首巻なし。重要文化財。第十二巻のみ古写本
↓↑
建勲神社本『信長公記』(十五巻)
京都・建勲神社所蔵。首巻なし
↓↑
町田本
町田久成旧蔵本(所在不明)
『我自刊我書』
明治十三年(1880年)~十七年(1884年)
甫喜山景雄が刊行
後に『史籍集覧』に収められた
近代デジタルライブラリーで閲覧可能
↓↑
陽明本
近衛家所蔵本。角川文庫版の底本
↓↑
天理本
天理大学附属天理図書館所蔵の写本
↓↑
太安萬(万)侶
ーーーーー
信長公記
太田牛一
時代 安土桃山時代、江戸時代
生誕 大永七年(1527年)
死没 慶長十八年(1613年)
改名 天正九年(1581年)まで
「信定」を名乗る
別名 通称又助(又介)あるいは「和泉」
墓所 仏日寺(大阪府池田市)
官位 和泉守
幕府 織豊政権
主君 斯波義統、柴田勝家、織田信長
丹羽長秀、丹羽長重、豊臣秀吉
豊臣秀頼
子 大田小又助・・・・・太田⇔大田
大田又七郎牛次・・・太田⇔大田
(子孫の加賀大田家では
「大田」を名乗る)
諱
天正九年(1581年)までの文書では
「信定」と署名
その後の書状
天正十七年(1589年)から
「牛一」と署名し、晩年まで続けた
信長の死んだ
天正十年(1582年)前後に
諱を変えた・・・
平家語り
一方流琵琶法師が名乗りの
一文字の末尾に「一」を付けるので
それに倣った・・・?
↓↑
大永七年(1527年)
尾張国春日井郡
山田荘
安食村(名古屋市北区)
土豪の家に生まれ
成願寺で僧侶
還俗し
斯波義統
の家臣となる
天文二十三年(1554年)七月十二日
義統殺害の後
那古野城の
織田信長の保護を求めた遺児の
斯波義銀に付いて
織田家に行った・・・
天文二十三年(1554年)
信長の家臣
柴田勝家に仕え
足軽衆となる
同年七月十八日
「安食の戦い」に参加
義統弔い合戦
弓の腕を認められ
信長の直臣となり
弓3人
鑓3人の「六人衆」の
一員となり近侍衆
永禄七年(1564年)
美濃-斎藤氏の
堂洞城攻略で
二の丸の門近くの建物の屋根から
弓を射て活躍
信長に褒められ知行増
後は
近習の書記
後
安土城下で屋敷を持ち
信長に近侍する官僚(吏僚)とし
永禄十二年(1569年)~天正十年(1582年)
丹羽長秀の与力
京の寺社との間の行政担当
同時代の
『賀茂別雷神社文書』に
同社から
牛一に筆がしばしば贈られた記録
他に筆を贈られているのは
長束正家やその弟
直吉
↓↑
本能寺の変後
長秀に2,000石で仕え
柴田勝家との戦いのため
坂本城に長秀に従い参陣
後
天正十三年(1585年)
長秀没後は
丹羽長重に加賀国松任で仕える
公務は息子に譲り
同地で一時隠居
↓↑
豊臣秀吉に召し出され
天正十七年(1587年)
洛南の行政官僚
寺社行政と検地なども担当
山城国加茂六郷を検地
天正十八年(1588年)
淀城を拠点にし
南山城と
近江国
浅井郡の代官も兼任
↓↑
天正二十年(1590年)
肥前国
名護屋
へ秀吉に従軍
道中の
人足や馬を
配分する奉行に就く
名護屋城の
建築工事の差配
↓↑
文禄元年(1592年)
文禄の役
城の留守番衆
文禄三年(1594年)
大阪に戻る
文禄五年(1596年)五月九日
豊臣秀頼の初の上洛に供奉
後陽成天皇に
『太閤御代度々御進発之記』を献上
慶長三年(1598年)三月十五日
醍醐の花見では
秀吉の側室
三の丸殿の警護を務めた
同年三月十七日
醍醐寺三宝院で
門跡・義演から
信長から秀頼までの
記録を書いたと紹介され一部暗誦もした
同年九月十八日
秀吉の没後は
豊臣秀頼に仕えた
慶長六年(1601年)までに
『関ヶ原合戦双紙』を
徳川家康に献上し
十一月七日
中井宗茂にも進上
慶長十一年(1606年)
南禅寺
金地院の河内
真観寺領の代官になる
慶長十二年(1607年)頃
『関ヶ原合戦双紙』奥書で
自分の著作をまとめ
「五代之軍記」と名付ける
慶長十六年(1611年)三月二十八日
秀頼の家康との京都
二条城での会見への上洛に供奉
慶長十五年(1610年)
84歳時の書もある
大阪城東南の重臣の屋敷地区の
大坂玉造で
慶長十八年(1613年)
病死
大阪府池田市の
佛日寺に
子孫が立てた墓がある
↓↑
信長・秀吉・秀次、秀頼、家康
などの軍記・伝記を著述
長篠の戦いを描いた
屏風『長篠合戦屏風』は
概ね、『信長公記』通り
安土城についても
細部まで正確に記録していたことが、
加賀藩伝来の
天守指図の発見で裏付けられた・・・
↓↑
子孫
嫡男の
又七郎牛次は
秀頼家臣の
青木一重
に仕え
大坂夏の陣の
豊臣氏滅亡後
津藩の
藤堂高虎
に仕えるが
摂津麻田藩の青木家に戻り
麻田藩士として続いた
子息の
小又助は
丹羽家、織田信雄、豊臣秀吉に仕え
その孫の宗古が浪人後
寛永十八年(1641年)より
前田利常に仕え
以来
加賀藩士
↓↑
著作
『信長公記』
(「信長記・安土記・安土日記」)
『大かうさまくんきのうち』
(「太田牛一雑記」)
『関ヶ原合戦双紙』
(「太田和泉守記」、「内府公軍記」)
『高麗陣日記』
『関東軍記』
『別本御代々軍記』
(「太田牛一旧記」)
『太閤御代度々御進発之記』
『豊国大明神臨時御祭礼記録』
『今度之公家草紙』
(「猪熊物語」慶長十五年)
『新門跡大坂退散之次第』
↓↑
太安万(萬)侶・太
田 田
牛 和
一 泉
↓↑
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_1.pdf
↓↑
信長公記 巻 首・天文三年~永禄十一年
(1534年~1568年)
信長公記 巻 一・永禄十一年(1568年)
信長公記 巻 二・永禄十二年(1569年)
信長公記 巻 三・元亀元年(1570年)
信長公記 巻 四・元亀二年(1571年)
信長公記 巻 五・元亀三年(1572年)
信長公記 巻 六・天正元年(1573年)
信長公記 巻 七・天正二年(1574年)
信長公記 巻 八・天正三年(1575年)
信長公記 巻 九・天正四年(1576年)
信長公記 巻 十・天正五年(1577年)
信長公記 巻十一・天正六年(1578年)
信長公記 巻十二・天正七年(1579年)
信長公記 巻十三・天正八年(1580年)
信長公記 巻十四・天正九年(1581年)
信長公記 巻十五・天正十年(1582年)
ーーーーー
・・・???・・・
「訳(譯)語田(おさだ)・幸玉の宮」の所在の字・・・
・・・「沢=さわ・タク=澤=氵+睪(罒幸)」・・・「皐」・・・「訳=わけ・とく・ヤク・エキ=譯(罒幸)」・・・「訳(譯)語田=おさだ」・・・「大津が謀叛の疑いをもたれ大和(やまと)で磯城(シキ)の訳(譯)語田(をさだ)の家を引き出されて、磐余(いはれ)の池の堤で処刑され、二上山に葬られた(大津皇子、24才)」・・・「訳(譯)語田(おさだ)という地名は現在は残っていないが、今の戒重(カイジュウ)という地区にあったらしい」・・・それにしても「訳(譯)語田(おさだ)」は、ナゼ、「訳(譯)語田(わけゴだ・とくゴだ・トゴデン・ヤクゴデン・エキゴデン)」とヨマないんだか・・・
をさだ=訳(譯)語田=他田
=長田=長多=蓬田
=納田=押田=治田
=織田(おだ、おりた、おた、おさだ)
=尾定=小佐田・・・「御沙汰」?
御沙汰=おさた・ゴサタ
天皇や貴人の命令・指図
おさばき・ご処置
最高権力者の指示・命令
権力意思に基づいて
行われる官府や裁判などの指示、命令
ーーーーー
「訳(譯)語田・幸玉宮」の所在地・・・譯の語を田(かる)
幸の玉の宮(キュウ)
桜井市「戒重」・・・戒(いましめ・カイ)が重(かさなる)
または「太田」・・・太(ふとい・おほ・タイを田(かる・デン)
という二つの説
地名は平安時代に
「他田(オサダ)」・・・他(ほか・あだし・タ)を田(かる・デン)
他所(よそ)
と表記
奈良時代に
「他田(オサダ)」臣の姓氏があった
「敏達天皇一年(ユリウス暦572年4月30日)
欽明天皇の第二子
訳(譯)語田皇子が即位し
第三十代・敏達天皇」
「敏達天皇・沼名倉太玉敷
訳(譯)語田(他田=おさだ)」
「訳(譯)語田渟中倉太珠敷尊
(おさだのぬなくらふとたましきのみこと
日本書紀)
沼名倉太玉敷命
(ぬなくらふとたましきのみこと
古事記)」
「大永四年(1524)戒重-春日神社を
長田(おさだ)宮」とも
「朱鳥一(686)年八月封400戸を加えられ
同年九月、天武天皇が亡くなると
十月二日、
新羅僧「行心」らに
唆(そそのか)されて謀反を企て
「訳(譯)語田(桜井市-戒重)」
の家で死を賜った
二十四歳
即日、妃の
「山辺皇女」・・・山(やま・サン)の辺(あたり・ヘン)
は嘆いて殉死・・・巡視・荀子
準指(準指導員)⇔「准南・淮南」史?
ーーーーー
睾丸(Balls)とも呼ばれ、左右1対
俗称は、金玉、玉、ふぐり(布久利)
↓↑
睾=丿+睪=丿+罒+幸
=丿+罒+一+辛
=丿+罒+一+立+十
=さわ・たかい・コウ・カウ
きんたま・男性の持つ生殖器官・精巣
澤・水辺の低地・・・・澤(沢)⇔譯(訳)・・・睪=尺
高いさま・広いさま
異体字、睪(繁体字)=皐=皋
皐(異体字)・・・「皐月(さつき)」の皐
・・・「皐魚の泣」の皐
親の死を嘆き悲しんで泣くたとえ
韓詩外伝(カンシガイデン)?
皋(異体字)
訓読み=さつき・さわ・きんたま・おお
睾丸・睾然・睾蘇
蘭=ラン(orchid)
ギリシア語で睾丸を意味する
ορχις (orchis)に由来
イヌのフグリ
陰嚢(ふぐり)⇔「河豚・鰒・鯸・鮐」詈(理)
背嚢(ハイノウ) 罵詈雑言
ふ-ぐり(くり)
す-ぐり(くり)・・・栗=くり=庫裏
ぐり=屈輪・倶利=堆朱、寺院建築などの
蕨 (わらび) 形の曲線の連続文様
ぐりぐり・デキもの・腫れモノ
村主(す-ぐり)⇔勝(すぐり・かつ・ショウ)
勝海舟?
古代の姓(かばね)の一
韓・漢からの渡来人の統率者に与えられた
酸塊(すぐり・サンカイ)
=ユキノシタ科スグリ属植物の数種の総称
ユキノシタ=雪の下=虎耳草(コジソウ)
西洋スグリ(グズベリー・マルスグリ)
果実の形状から
アボカド
スペイン語名aguacateは
ナワトル語で睾丸を意味
ahuacatl
auacatl
に由来との説もある・・・
皐=皋=臯=曲がりくねった奥深い沢
↓↑
九皐=幾重にも曲がりくねった奥深い沢
↓↑
鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ(詩経 小雅、鶴鳴)
鶴の声は天に聞こえる
賢人は身を隠しても
その名声は広く世間に知れ渡る
↓↑
鶴鳴之士=才能や能力があっても
世のために使われることなく
世間から認められていない賢者
公職についていない賢者
鶴鳴九皐=山奥に隠遁している賢者
山の中から
鶴の美しい鳴き声は聞こえるが
姿を見ることは出来ない
(後漢書-楊賜伝)
↓↑
皐=皋=臯
=曲がりくねった奥深い沢?
↓↑ ↓↑
「沢(澤)三伯」
↓↑ ・・・さわじ姫=佐和遅姫
佐波遲比賣命=沙本毘賣命
↓↑
高野 長英
文化元年五月五日(1804年6月12日)
~
嘉永三年十月三十日(1850年12月3日)
江戸時代後期の医者・蘭学者
通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)
号は瑞皐(ずいこう)
実父は後藤実慶
養父は叔父・高野玄斎
江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説く
弾圧を受け死去
1898年(明治三十一年)七月四日)
正四位を追贈
主著に
『戊戌夢物語・わすれがたみ・三兵答古知機』
など
オランダ(阿蘭陀・和蘭陀)語の
文献の翻訳も多(さわ・おほい・多)
↓↑
仲間の
伊東玄朴(名は淵
妻はオランダ通訳の
猪俣傳次衛門の
長女・照)
が
長英を階段から突き落としたが
長英は
「GEVAARLIJK!(オランダ語で危ない!)」
と叫んだ
GEVAARLIJK=ヒゥヴァールリック
ヘフぁーレク
把付嗚呼例句?
蛙鴉例句?
DANGEROUS =デンジャぁラス
伝 邪 蛙等素?
↓↑
岩手県奥州市水沢(水沢市)で
三偉人
高野長英、後藤新平、斎藤実
の一人
↓↑
澤=沢=佐和=さわ=多
↓↑
稲城の火責めの中で死んだ
「佐波(遅媛)・佐和(知姫)」は
「垂仁天皇の妃(后・皇后)」だった
「藝」の漢字は
聾唖(おし)の
「佐波遲比賣命=沙本毘賣命」の皇子
「品牟都和氣命=本牟智和氣御子」が
「阿藝(あぎ)=今聞高往鵠之音、
始爲-阿藝-登比」
と声を発した時に
記録されている「文字」
「藝(ゲイ)→藝術、技藝」の類字に
「芸(ウン)→香草、芸香(ウンコウ)」
と読ませている漢字
「阿藝」は「あぎ」ではなく
「アウン=阿吽」である・・・?
「大修館漢和辞典(731ページ)」
には
「本の虫食い」を防ぐ「防虫草」で
「草刈・草ぎる→草薙・黄(きい)ばむ・多い」
と説明
「芸(藝)術」の「藝→芸(ゲイ)」は
「新字体」・・・
同じ「大修館漢和辞典(732ページ)」に
「芸(ゲイ)」が記述されているが
「藝」の漢字は無い
「芸(ウン)←藝→芸(ゲイ)」
は何時から?・・・
「芸亭(ウンテイ)」は歴史では
「石上宅嗣」が開設した
日本最初の公開図書館である
「芸編(ウンヘン)」は「書物」
「芸閣(ウンカク)」は
「書庫、書斎で、書籍、本の倉庫」である
そして
「芸省(ウンショウ)」は
「秘書省・秘書局」で、「局=個室」・・・
↓↑
泣沢女神(なきさわめのかみ)
須佐之男命の
御子(みこ)である
八島士妖美神は、
大山津見神の娘である
木花知流比売(このはなちるひめ)をめとり、
布波能母遅久奴須奴神
(…その涙から
泣沢女神(なきさわめのかみ)が生まれた
↓↑
稲城の火責めの中で死んだ
「佐波(遅媛)・佐和(知姫)」は
「垂仁天皇の妃(后・皇后)」だった
↓↑
参考は以下に断りも無く添付させて頂きました。申し訳ありません・・・「疑義のある記録文書解読」のお助けと思って・・・お許しを・・・
↓↑
ーー
尾張国司
多治
比
真人
水守と
面会
『続日本紀』
ー
・・・「多治比=タジヒ」とは「多くを治め比べる」か、「治」の音を採って異字にすれば「多字比」で「多くの字を比べる」、「多くの慈悲・自費」である。
「おおはる」と言う地名も愛知にはある。「愛知県海部郡大治町」の「大治(おおはる)」である。名古屋市に隣接している。
ーー
多治比真人嶋
多治比真人嶋
(たじひ・まひと・しま・624~701)
嶋の次男
「水守(みずもり)」
ーー
「水主」と書いて「かこ」と読ませている場所も名古屋にある。「名古屋市水主町」である。そして「加古」は「過去」で、「賀古←古賀」である・・・「古賀謹一郎」は「蕃書調所(蛮書調所・ばんしょしらべしょ・1856年・安政三年)開所の頭取である・・・
ーー
多治比(丹比)真人(たじひ・まひと)
多治比真人嶋(たじひ・まひと・しま)は
朝廷から
文武四年(700)正月十三日
老齢と勲功をねぎらい
「霊寿の杖」と
「輿」
および
「供人(従者)」を授与される
ーー
↑
人麻呂の「死」に関する歌を
「万葉集」に残した?
多治比真人三宅麻呂の歌?
↓
ーー
万葉集巻二、
223~227に
柿本人麻呂の最晩年の歌
「鴨山五首」
一連の歌の四首目
丹比真人
名闕(欠)く
柿本朝臣人麻呂の意に擬へて
報ふる
歌一首
ー
荒浪に寄り来る玉を枕に置き
吾ここにありと、誰か告げなむ
226
ー
↑
この歌は
多治比真人三宅麻呂の
歌とする説があるらしく
人麻呂の死は
和銅二年ごろ
敢えて名前を伏せる必要があった人物
流罪になった三宅麻呂の可能性が大
ーーー
天武十一年(682)~
神護景雲二年(768)まで
86年間に記載される
多治比真人一族の名
年代順
嶋、麻呂、池守、水守、三宅麻呂、県守、夜部、広成、 吉備、吉提、広足、占部、屋主、多夫勢、伯、国人、
家主、牛養、祖人、木人、犢養、土作、石足、乎婆売、 若日女、犬養、礼麻呂、鷹主、小耳、長野、乙麻呂、
伊止、古奈祢
総計三十三人
ーー
・・・それにしても、ナマエが「音」からの意味なのか、「文字」からの意味なのか、その双方なのか・・・「誕生地」、「誕生時」、「職業名」は「文字」から推察できるが・・・「小耳」は顔につく「耳の形の大小」なのか、「小耳に挟む」などと言うコトバがあるから「情報通」なのか、とにかく「33人」である・・・
ーー
万葉集の時代の事件
天武元年(672) 壬申の乱
天武十一年(682) 大津皇子の変
天平元年(729) 長屋王の変
天平十二年(740) 藤原広嗣の乱
天平宝字元年(757) 橘奈良麻呂の変
天平宝字八年(764) 藤原仲麻呂の乱
ーー
最初の人物
多治比真人嶋
・・・多字(持・時・事・耳)比真人問
は
「宣化天皇の玄孫・日本書記」
「三代実録」によると
宣化天皇~恵波皇子~十一王
~多治比古王~多治比嶋
の系図である
ーー
恵波皇子を
読めば、
えなみ=めぐみなみ=ケイハオウジ
とあまりひとつ=ジュウイチオウ
おほはるひこ=タジヒコオウ
「多治・比古・王」は
「多治 彦 王」であろう。
であるならば、
「古」を欠落させた
「多治比」は
「多の治の比」で、
「古(ふるい・いにしえ)」である
ーー
大宝元年(701)
正二位左大臣で死亡
享年七十八歳
真人の姓
天武十二年(683)
六十四歳の時
ー
「真人」は
「天武天皇十三年(684)」に
「八色の姓」の制定されたモノだが、
第一真人、第二朝臣、第三宿禰、第四忌寸
第五導師、第六臣、第七連、第八稲置
コレ「以前」のものと比較すべきである・・・
ー
当時活躍していた者
池守、水守、三宅麻呂、県守、広成、広足の
六名
池守は・・・池守???
↓↑ 池田 筑 後 守 長発
(いけだちくごのかみ ながおき)
天保八年七月二十三日
(1837年8月23日)
~
明治十二年
(1879年9月12日)
↓↑
備中国松山藩
井原(岡山県)の領主
↓↑
↓↑ 元治元年(1864年)二月二十三日
文久三年(1863年)
第二次
(第二回遣欧使節
横浜鎖港談判使節団)
遣欧使節団の
「池田長発」隊
仏艦ル・モンジュ号
↓↑
↓↑ 文久二年十二月二十二日
(1862年1月21日)
第一次
(第1回遣欧使節
開市開港延期交渉使節))
遣欧使節団の
「竹内保徳」隊
英国海軍の
蒸気フリゲート、オーディン号
↓↑
1862年9月22日
リンカーン・奴隷解放宣言
↓↑
↓↑ 文久二年九月十一日
(1862年11月2日)
幕府の
第1回留学生が長崎を出帆
(榎本武揚、赤松則良、西周
ら15名)
↓↑
↓↑ ロンドン万国博覧会
1862年5月1日~11月1日
開催
↓↑
「竹内保徳」隊
文久二年十二月十一日
↓↑ (1863年1月30日)帰国
嶋の第一子、
広成は第五子
広足は嶋の子
「続日本紀」の記録
嶋の子
水守が第二子、
三宅麻呂が第三子
県守は第四子
らしい・・・
ーーーーー
太田 源三郎 (おおた げんざぶろう)?
生年月日 1835年4月18日
江戸時代 明治時代の通詞
1895年没
Mr.Ohataは静岡藩士
1862年~1863年に
ヨーロッパ使節・・・定役格通詞
の通詞、通訳
↓↑
竹内 下野 守 保徳
(たけうち しもつけのかみ やすのり)
外国奉行、正使
↓↑
太田 源三郎
横浜語学所の英学教授
教育指導者として
他の藩に派遣される
という制度で
静岡藩の御貸人として
福井藩に雇われた
横浜語学所が閉鎖してしまって
浪人し
勝海舟
の世話で
福井藩に斡旋した
高橋是清
は仙台藩から派遣されて来た
数え年十二歳のときに
横浜へ来て
初めは横浜にいた通訳の
太田源三郎
の所から
ヘボン塾に通った
その後、働きながら
実用的な英語の勉強をした
↓↑
日下部太郎⇔旧名は八木八十八(やぎやそはち)
22歳の時に海外旅行免許状
(パスポート・幕府の免許状発行が
4番目であることから
当時日本でも留学創成期に
渡米した)を携え渡米
遊学先の長崎から
ジャワを経てアメリカへ向かう
この時に藩主の
松平春嶽から
日下部太郎の名を拝命
(日下部は八木家の先祖の姓)
↓↑
150日の航海の末
ニュージャージー州
ニューブランズウィック
に到着
ここで1年前に密航で海を渡っていた
伊勢佐太郎
と
沼川三郎
の兄弟に出迎えられる
↓↑
ラトガース大学入学前に付属中学に入学し
英語と基礎教育を受け
ここの教師をしていた
2歳年上でラトガース大学生でもあった
ウィリアム・グリフィスと出会う
23歳の時ラトガース大学に入学し
2年に編入
↓↑
グリフィス=「希利比士(グリヒス)」
ウィリアム・エリオット・グリフィス
(William Elliot Griffis)
1843年9月17日~1928年2月5日
アメリカ合衆国出身の
お雇い外国人
理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者
ラトガース大学で
福井藩からの留学生であった
日下部太郎と出会い、親交を結ぶ
その縁により
明治四年(1871年)
日本に渡り、福井藩の藩校明新館で
同年3月7日~翌年1月20日まで
理科(化学と物理)を教えた
1876年
アメリカで刊行した
The Mikado's Empire
(『ミカドの帝国』あるいは『皇国』)は
第一部が日本の通史、第二部が滞在記
ーーーーー
「聞く・話す」は表音文字
「読み・書き」は漢字
文字の「書く、読む」
口頭の「聞く、話す」
「聞く、話す」は表音文字で情報交換
福沢と万次郎が
『ウエブストル』を初めて輸入
万延元年(一八六〇)
咸臨丸がアメリカへ渡り
福沢は通弁の中浜万次郎と一緒に買った
安政二年
ペリーが
『ウエブストル』
の字引を持ってき
名村五八郎
というオランダ通詞に与えた
名村五八郎はそれで
complaint(訴訟)という単語を引いた・・・
訪米から戻った
福沢は
『西洋旅案内』
『条約十一国記』
を書き上げた
(福沢が
『条約十一国記』と題し
国旗とその国の状況を紹介する本)
慶応三年までに
わが国と条約を交換した
十一ヶ国
アメリカ、オランダ、イギリス、ロシヤ
フランス、ポルトガル、プロシヤ、スイス
ベルギー、イタリー、デンマーク
の各国について
簡略な紹介をした小冊子
↓↑
慶応三年冬に上梓
表紙は本文と共紙の土佐半紙
上部に黄色のリボン
書名
その下に
北アメリカ合衆国
と
デンマークの国旗
が描かれ
見返しは
太罫の匡郭の中を縦三行に割り
「慶応三年丁卯仲冬/
条約十一 国記/ 福沢氏蔵版」
と記し、右側の刊年の下部に
「福沢氏図書記」
または
「慶応義塾蔵版之印」
の長方形朱印が押捺
口絵二丁に
条約各国の国旗を描き
序文一丁、本文二十四丁
ウラ表紙も本文と共紙の無地
この書には京都の
醍醐家で出版した偽版がある
網代模様の
地紋の濃藍
または
黄の厚表紙を用い
左肩に子持罫の枠の中に
「条約十一国記全」
と記した題箋を貼り
表紙の見返しは黄、緑
または鼠色の和紙を用い
太罫の枠の中を
縦三つに割り、中央に
「条約十一国記」
と記し左右はブランク
口絵も序文も本文も真版そのまま
巻末の表紙ウラに
此冊子旧冬
於江戸版成然処依
当春騒擾未弘両三冊流伝
而巳求得之一読了欲令方
今諸人亦一読故急翻刻為蔵版
「醍醐家蔵版」と彫った
大きな長方形朱印が押捺
この本の表紙
20星は厳密には
1818年7月4日~1819年7月3日まで
「星条旗」の紅白の条は
1818年以来
13本だが
11本
アメリカ合衆国の国旗
星条旗(the Stars and Stripes)
正式名は
合衆国旗(Flag of the United States)
白線と赤線の組み合わせの
13本の横縞(赤7本と白6本)
四角に区切った左上部(カントン)は
青地に50の白い星が配置
白は
purity(純粋)
innocence(純潔)
赤は
hardiness(たくましさ)
valor(勇気)
青は
vigilance(戒心)
perseverance(忍耐)
justice(正義)
縞模様は独立当時の
13の入植地
星は現在の州を表す
現在のデザインは
27代目
今までに
26回デザインが更新
↓↑
「日の丸」の記録
平安時代初期の
延暦十六(797)年に編纂された
「続日本紀」
大宝元(701)年正月元旦の朝賀の儀
「日像の旗」を掲げた・・・
ーーーーー
多(おおの・おほの・タ)
品治(ほんじ・ほむじ・ヒンチ)
生年不詳~
持統天皇十年 (696年八8月?)
姓は
臣、
後に
朝臣
672年の壬申の乱で
大海人皇子(天武天皇)側で戦い、
莿萩野を守った
ー
「多品治(おほのほんじ)」は
「多くの品(ほん)を治(おさ)む」である
「多くのシナをハル」、
これは
「多くの本を修む」である。
ー
壬申の乱が勃発
多品治は
美濃国の
安八磨郡(安八郡)の
湯沐令
(皇子の生計を支える
封戸を管理する役職)
大海人皇子は
六月二十二日に、
村国男依、
和珥部君手、
身毛広
の
三人を美濃国に先行するよう命じた
任務は
多品治と接触、連絡し、
安八磨郡を挙兵させること
美濃の兵三千が
不破道を塞ぐ
美濃国に入った
大海人皇子は、
七月二日に軍を
数万の二手に分け
一軍を伊勢国の
大山越えで大和国へ、
もう
一軍を直接
近江国に入らせることを命じ
多品治は、
紀阿閉麻呂、
三輪子首、
置始菟
とともに
大和に向かう軍を率いた
この後、
品治は別に命令を受け取り、
三千の兵とともに
莿萩野(たらの)に駐屯する
莿萩野の位置は、
伊賀(当時は伊勢国に属す)の北部
大和、伊賀、伊勢、美濃
と続く連絡線のうち
伊賀を守る位置
田中足麻呂が
近江と伊賀を結ぶ
倉歴道を守る位置についた。
ー
これに対して
大友皇子側の将、
田辺小隅は、
五日に倉歴を夜襲
守備兵敗走、
田中足麻呂
は一人逃れた
小隅の軍は翌日
莿萩野を襲おうとしたが、
多品治はこれを阻止し、精兵で追撃
小隅は一人免れて逃げた
ーーーー
日本書紀
十二月四日に
勲功の人を選び冠位を増し、
小山位以上を与えた
天武天皇十二年(638年)十二月十三日
多品治は
伊勢王、羽田八国(羽田矢国)
中臣大島とともに、
判官・録史・工匠
といった部下を引き連れて全国を巡り
諸国の境界を定めた。
品治の位は
小錦下
ーー
天武天皇十三年(684年)十一月一日
多臣など
五十二氏に
朝臣の姓を賜う
天武天皇十四年(685年)九月十八日
天武天皇は皇族・臣下と
大安殿で博打
このとき
天皇は
大安殿の
中に、
皇族と臣下は
殿の前に位置し
多品治は
天皇の
衣と袴を与えられた
十人中の一人であった
ーー
持統天皇十年(696年)八月二十五日
多品治は
直広壱と
物を与えられた
品治を
太安万侶の父とする説がある
(『阿蘇家略系譜』)
ーーーーー
・・・
本の美、之、主の貝(カイ=会・害・甲斐・害・蝦夷)?
・・・「あかし=赤石・ルビー(ruby)・明石・灯・証・赤司」・・・「アか・アき・アく・アけ・アこ」・・・「あかじ=赤字・赤地(赤丹?)・赤児・朱地(朱丹)・朱路・・・朱鷺(とき・鴇・Nipponia nippon・ニッポニア・ニッポン)」・・・「赤=十+亦」・・・
「赤貝(あかがい=蛙化甲斐?=鴉化蝦夷⇔赤蝦夷⇔赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)=江戸時代中期の医師・経世家である工藤平助が著したロシア研究書・赤蝦夷(セキカイ・あかえぞ)はロシア人を意味・仙台藩藩医であった工藤平助は、オランダ語通詞、吉雄耕牛、蘭学者、前野良沢らと親交を持ち、北方海防を世に問うべく、本書を上梓・天明初年(1781年)ごろの刊行(上巻序文に天明三年癸卯正月日・上下二巻・天明三 (1783) 年、老中田沼意次に献上)・江戸期の海防貿易論・赤狄風説の事(上巻)・カムサスカ-ヲロシヤ私考之事、ヲロシヤの記事・一名ムスコヒヤ(下巻)・写本に『加摸西葛杜加(カムチャトカ)国風説考』・『魯西亜略説』」・・・
「赤=赤毛の露西亜(ロシア・魯西亜)人の意味」・・・
「アカガイ(赤貝・蚶・𧏛・学名Anadara broughtonii
Bloody clam)
フネガイ目フネガイ科に属する二枚貝の一種
内湾の潮間帯や浅海の砂泥底に浅く潜って生息
殻には42本前後の放射肋がある
他のフネガイ科の二枚貝と同様
呼吸色素がヘモグロビンと同様に鉄
ポルフィリンを補欠分子団とする
エリトロクルオリンのため、
血液が赤く、これが名前の由来・・・
水深0から60mの砂泥底に棲息
主な分布域は
ピョートル大帝湾から黄海にかけての区域
日本、朝鮮半島、中国、台湾、極東ロシア」・・・
「『古事記』に、八十神に大火傷を負わされた
大穴牟遅神(大国主)を救うため
母親の
刺国若比売
(サシクニワカヒメ)
刺国大神の娘
刺国若比売は
天之冬衣神・・・冬衣=防寒着?
の妻(配偶神)で
大国主の母親
が
神産巣日(かみむすび)命
に願い
遣わされたのが
𧏛貝比売と
蛤貝比売で
彼を蘇生させた
↓↑
蚶貝比売(キサカイヒメ)=アカガイ(赤貝)
蛤貝比売(ウムキヒメ)=ハマグリ(蛤・文蛤)
赤貝の殻の粉を
蛤汁で溶いて
火傷(やけど)に塗布し治療した」・・・
↓↑
「アカガイと名のつく
他の二枚貝=サツマアカガイ
(薩摩)赤貝・Paphia amabilis (Philippi, 1847)
(マルスダレガイ(円簾貝)科 (Veneridae)
スダレガイ(簾貝)属)」・・・
「足糸(ソクシ)を出して
砂泥や岩などに自分の体を固定する
アカガイも稚貝期には
足糸(ソクシ・byssus)を出す
水管はない」
クラム (clam) は、英語で二枚貝を意味・・・眩む・暗む・句等夢?
日本ではクラムチャウダーの材料
マルスダレガイ科の
主に
ホンビノスガイ (hard clam) ?
・・・ 見た目の印象から「白ハマグリ・大アサリ」
という名前で売られてた
「本美之主貝
・・・本の美、之、主の害(甲斐・害・蝦夷)?
と表記し
美之素とはこの貝が
ヴィーナス属であることから『ビノス』」?
日本では
ハマグリ (common orient clam) 等も使われる・・・
フネガイ目(ふねがいもく)
学名 Arcida は
軟体動物門二枚貝綱翼形亜綱に属する分類群
二枚貝のなかでも起源の古い原始的なグループ
オルドビス紀から存在している
学名はフネガイ科のタイプ属 Arca に由来・・・
元になった属名
「Arca(アカ)」 は「箱」の意で
「ノアの方舟(はこぶね)貝の殻形に由来」・・・?
「閼伽(アカ)は、仏教で仏前などに供養される水で
六種供養のひとつ
サンスクリット語の
argha(アルガ)の音写
功徳水(クドクスイ)と訳
閼伽井から汲まれた水に香を入れ
閼伽香水とも」・・・
↓↑
「フネガイ(舟貝)科は・・・フ-ネガイ?
付-願 い(希い・根害)
「ark clam・ark shell」
日本ではフネガイ科の
アカガイ(赤貝)属(Anadara)の
アカガイが有名
旧来は
シラスナガイ上科が・・・白砂貝
・・・しらす-ながい?
・・・知らす-長井(永井・長居)?
存在するとされていたが
近年では
フネガイ上科に
含むことができると考えられている」・・・?
ーーーーー
赤貝=あかがい=赤甲斐・赤蝦夷・赤華夷・赤界・朱加衣?
赤刈=赤害
阿賀カイ?
阿賀(あが)=新潟県の地名
阿賀野川流域の上流〜中流の地域
岡山県
阿賀郡=過去に存在した岡山県の郡
阿賀 (西伯郡南部町)
鳥取県西伯郡南部町の地名
阿賀 (呉市)=広島県呉市の汎称地名
安芸阿賀駅
英賀カイ?
英賀(あが)=兵庫県姫路市飾磨区の地名
飾磨区「英賀」
飾磨区「英賀」清水町
あかし
明石=赤石=紅石=朱石
↓↑
日本標準時子午線
Japan Standard Time Meridian
日本の標準時(中央標準時)の基準となる子午線
明治十九年勅令第51号
「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」
(1886年)で定められた
東経135度の経線
経度135度では
英国グリニッジ天文台を通る
グリニッジ子午線(経度0度線)より
9時間の時差
東経135度は9時間進んでいる
京都府京丹後市から
明石海峡に面した兵庫県明石市
淡路島北端の兵庫県淡路市を通り
和歌山市沖ノ島西端(友ヶ島灯台近傍)
をかすめて太平洋に至る
↓↑
明石-日本標準時間
↓↑
明石 元二郎
「日本の諜報 スクープ
最高機密ファイル
2018年5月19日(土) 午後9時00分~9時49分・NHK」
↓↑
陸軍中野学校
諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する
教育や訓練を目的とした
大日本帝国陸軍の軍学校
情報機関
所在地は東京都中野区中野4丁目付近
校名の中野は地名に由来
偽装用の通称号は
東部第33部隊
↓↑
岩畔、秋草俊、福本亀治各中佐を中心とし
1938年(昭和13年)3月
「防諜研究所」として新設
秋草 俊(あきくさ しゅん)
1894年(明治27年)4月6日~1949年(昭和24年)3月22日)
甲午(丙・ ・丁)⇔己丑(癸・辛・己)
戊辰(乙・癸・戊)⇔丁卯(甲・ ・乙)
戊寅(己・丙・甲)⇔辛亥(戊・甲・壬
申酉=空亡
↓↑
陸軍少将
陸軍士官学校(26期)卒
陸軍中野学校校長(初代)
同年7月より
特種勤務要員(第一期学生19名)の教育開始
1939年(昭和14年)5月
「後方勤務要員養成所」に改編
7月には第一期学生の卒業
1940年(昭和15年)
「陸軍中野学校」と改名
1941年(昭和16年)
参謀本部直轄の軍学校へ転身
1945年(昭和20年)2月1日
ハルピン特務機関長
ソ連抑留ウラジミール監獄で死亡
↓↑
錬成要領
「外なる天業恢弘の範を
明石大佐にとる」
明石元二郎(大佐は日露戦争当時の階級)
の報告書『革命のしをり』を基本教材とし
神(アマテラス)の意志にもとづいて
世界人類の平和を確立する
諜報工作戦士を養成
↓↑
明石 元二郎(あかし もとじろう)
元治元年8月1日(1864年9月1日)
~
大正8年(1919年)10月26日)
甲子(壬・ ・癸)⇔己未(丁・乙・己)
壬申(己・壬・庚)⇔甲戌(辛・丁・戊)
己巳(戊・庚・丙)⇔辛亥(戊・甲・壬)
戌亥=空亡
陸軍軍人
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵
第7代台湾総督
福岡藩出身
夫人は国子
後妻は黒田信子(黒田一葦の娘)
↓↑
福岡藩士・明石助九郎の次男
福岡藩の大名町で誕生
藩校-修猷館(福岡県立修猷館高等学校)を経
明治十六年(1883年)
陸軍士官学校(旧陸士6期)を卒業
明治二十二年(1889年)
陸軍大学校(5期)を卒業
↓↑
ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経
明治34年(1901年)
フランス公使館付陸軍武官
明治35年(1902年)
ロシア帝国公使館付陸軍武官に転任
首都サンクトペテルブルクの
ロシア公使館に着任後
日英同盟(1902年1月30日・1905年と1911年に改定)
に基づいた情報協力により
イギリス秘密情報部のスパイである
シドニー・ライリーと接触
明石の依頼により
ライリーは
明治36年(1903年)から
建築用木材の貿易商に偽装して
戦略的要衝である旅順に移住し
材木会社を開業
ロシア軍司令部の信頼を得て
ロシア軍の動向に関する情報や
旅順要塞の図面などを
イギリスおよび日本にもたらした
1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日)
日露戦争
↓↑
第一次世界大戦で日英同盟で
日本は
1914年(大正3)8月23日
ドイツへ宣戦布告
1917年(大正6)2月から
駆逐艦や巡洋艦からなる
三つの特務艦隊を
インド洋、地中海、南太平洋などに派遣
788隻の連合国側の輸送船や病院船を護送
兵員70万人を輸送
Uボートと35回交戦
駆逐艦「榊」が魚雷攻撃を受けて大破
艦長ら59人が死亡
Uボートの攻撃を受けた船から7千人以上を救出
戦後はUボート7隻を戦利品として日本まで運んだ・・・
↓↑
1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日
日露戦争
開戦で
中立国スウェーデンに移り
そこを本拠として活動
明石大佐は日露戦争中に
当時の国家予算は
2億3,000万円程であった中
山縣有朋
により
参謀本部から当時の金額で
100万円(今の価値では400億円以上)を
工作資金として支給され
ロシア革命支援工作を画策
↓↑
ーーーーー
「…はカイ…」・・・日本が日露戦争の負債を返しきったのは昭和61年(1986年)・・・日露戦争時の借金を82年間かけて返済・・・
1986年2月25日
フィリピンのマルコス大統領が国外脱出
アキノ大統領が就任(エドサ革命)
3月5日
青函トンネルの本州と北海道が結合
3月16日
スイスが国民投票で国際連合加盟を否決
4月15日
アメリカによるリビア爆撃。
4月26日
ソ連の
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の
チェルノブイリ原子力発電所で
大規模な爆発事故発生
(チェルノブイリ原子力発電所事故)
6月5日
新潟県佐渡島のトキが2羽に
11月3日
レバノンの雑誌が
レーガン政権の
イランへの秘密の武器輸出を報じ
イラン・コントラ事件が発覚
ーーーーー
???・・・儲かるなら「敵」にも「武器」を売るのが常套・・・
商売に敵も味方も無いのはアタリマエ・・・
好き嫌いでは「商売」は成り立たないが・・・
亜墨利加・鎧球・・・米式蹴球・・・
・・・「アメリカンフットボール(American football・米式蹴球・鎧球(ガイキュウ)・起源は1869年・選手数、グラウンド上で11人)」・・・「正義を潰せとは、信じられないカモしれませんが?」・・・「井の中の蛙 大海を知らず、されど空の深さを知る?」・・・「尚且つ、空の深さも知らず」では?・・・「意の中を交わす、他意解をしらす」?・・・「かわす・かはす=躱す=巧みに避けて逃れる・逸らす・ソラす」・・・「蛙=かえる=替える・換える・還る・変える・代える・返る・孵る・反る・帰る・買える」・・・「五代友厚」・・・ゴを代える友の厚さ・・・?
1869年・・・1月27日(明治元年十二月十五日)
↓↑ 旧幕府軍が
「蝦夷共和国」を樹立
6月27日(明治2年5月18日)
箱館戦争(蝦夷共和国戦争)終結
8月15日(明治2年7月8日)
太政官制(職員令
民部省・大蔵省・兵部省・刑部省
宮内省・外務省の二官六省制を採用)
蝦夷地に開拓使を設置
↓↑ 同時に
蝦夷地は北海道と改められ
正式に?
9月20日(明治2年8月15日)
蝦夷地を北海道と改称
11国86郡が設置
大学校の設立
11月17日
スエズ運河、開通
12月25日(明治2年11月23日)
↓↑ 公衆電報の取り扱い開始(東京~横浜間)
1869年
干支己巳・・・己の巳=オノレ(私)のヨコシマ(邪)
日本(天保暦)
明治、元年11月19日~明治2年11月29日
元・・・十一・十九(拾九・足玖)・二十九(念玖)
皇紀2529年
清朝、同治7年11月19日~同治8年11月29日
七・・・漆・十九(拾九・足玖)・二十九(念玖)
・・・明字(明事・明時・明示・明地)・・・
・・・同字(同事・同時・同示・同地)・・・
ーーーーー
五代友厚・・・語代有効?
天保六年十二月二十六日(1836年2月12日)・・・?
~
明治十八年(1885年)9月25日(満49歳没)
丙申(己・壬・庚)⇔乙酉(庚・ ・辛)
庚寅(己・丙・甲)⇔乙酉(庚・ ・辛)
辛巳(戊・庚・丙)⇔癸未(丁・乙・己)
申酉=空亡
↓↑
別名 徳助(幼名)・才助(通称)
諡号 松陰・・・?・・・吉田松陰も同じ「松陰」・・・?
ーーーーー
・・・明字(明事・明時・明示・明地)・・・
・・・同字(同事・同時・同示・同地)・・・
↓↑
兵庫県
明石市中崎一丁目5番1号
北緯 34度38分35. 3秒
東経134度59分 50秒
↓↑
明石町(あかしちょう、あかしまち)
自治体
兵庫県
明石郡にあった自治体・・・字事体・字字体・字字帯・自辞退
町・字
明石町 東京都中央区
明石町 神奈川県平塚市
明石町 新潟県十日町市
明石町 愛知県碧南市
明石町 兵庫県神戸市中央区
明石町 台湾・台北市の日本統治時代の地名
ーーーーー
タロットの正義の番号は「十一」or「八」?
11・正義=JUSTICE・・・「十一・拾壱・足壹」の正義?
マルセイユ版タロットの正義(カード番号「8」)
「8=∞=○+○=天秤の2つの皿を垂直に並べた形」
タロットの正義
正位置
「公正・公平、善行、均衡、誠意、善意、両立」
逆位置
「不正、不公平、偏向、不均衡、一方通行、被告人」
ーーーーー
正義の異邦人(Righteous foreigner)
非ユダヤ人はノアの法に示される
比較的緩やかな
倫理上の
徳義を守るべきだとされている・・・?・・・徳義=正義?
↓↑
「諸国民の中の正義の人」
「名誉の壁」にその氏名が記される
↓↑
経済的困窮の状態にある諸国民の中の正義の人は、
たとえどこに居住していても、
正義の人のための
ユダヤ人基金によって
経済的援助を受けることが出来る。
この基金はニューヨークに拠点を構える
慈善団体であり、
この目的のために設立・・・
↓↑
日本がアジアに進出した
1941(昭和16年)/12/8
~
1942(昭和17年)6月5日-7日
ミッドウェー海戦
日本海軍の
空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍が撃沈
~
1945(昭和20年)/8/15
の「結果」
ベトナム
1885年からフランスの植民地
1945年独立
フィリピン
1900年からアメリカの植民地
1946年独立
マレーシア
1895年からイギリスの植民地
1957年独立
インドネシア
19世紀中頃からオランダの植民地
1945年独立
カンボジア
1863年からフランスの植民地
1945年独立
ラオス
1899年からフランスの植民地
1953年独立
ミャンマー
1886年からイギリスの植民地
1943年独立
インド
19世紀中頃~イギリスの植民地
1947年独立
パキスタン
19世紀中頃~イギリスの植民地
1971年独立
バングラディシュ
19世紀中頃~イギリスの植民地
1971年独立
↓↑
Righteous among the Nations
「正義の異邦人」
あるいは
「諸国民の中の正義の人」という用語
本来ユダヤ人の伝統において
良心のある
「非ユダヤ人」を
呼ぶために使用されていた
↓↑
ユダヤの伝統によると
モーセ五書、タルムード
口伝律法に
入っている
一連の諸法や諸訓示は
「ユダヤ人」に対して要求されたもの・・・?
「非猶太人」は「外人・異人種・異邦人」であり
「神の選民人種」ではない・・・?
・・・差別は区別ではない・・・?
↓↑
リーベラ(Libera)・the statue of Liberty
↓↑ ・スタチュー・オブ・リバティー
スタチュゥ=銅像
「自由の女神」の「像」で女神自身ではない
ラテン語=Libra
黄道十二宮の天秤宮・・・七番目
左手の天秤は、均衡を保っているにもかかわらず
左右の受け皿の大きさを変えて描かれている
「公平」とは
常に
「左右対称(平等)」を示すものではない・・・
「8=∞=○+○=天秤の2つの皿を垂直に並べた形」
↓↑ 天秤=古代から人の罪悪の計測器という
神話・宗教的なシンボル
エジプト神話で
オシリス主宰の
『死者の法廷』
ギリシャ神話で
正義の女神
アストライアーの持物
として登場
天秤座の天秤は
アストライアーの天秤に由来
アストライアーを起源とする
裁判の守護女神
『審判の女神』の象徴
↓↑ ↓↑
アストライアー(Astraiā)
ゼウスとテミスの娘
他説では
星空の神アストライオス
と
暁の女神エーオースの娘
アストライアーの名は
「星のごとく輝く者」
「星乙女」
の意味で
ホーラ(ホーライ)三女神の一柱
正義の神格化である
ディケー女神と同一視された
有翼の女性として表され
ラテン語形は
アストライアー(Astraea)
アストレア
ローマ神話の
正義の女神である
ユースティティアと同一視された
てんびん座(天秤座、Libra)
黄道十二星座の1
トレミーの48星座の1つ
元々はさそり座の
はさみの部分
てんびん座として独立したのは
紀元前1世紀頃・・・
古代ローマでは
昼夜の長さを等しく計る天秤・・・
神話
ギリシア神話で
正義と天文の女神
アストライアーが
手に持っている
正義を計る天秤
隣にある
おとめ座が
アストライアー
をかたどったものとする説も・・・
ーーーーー
↓↑
勧善懲悪?
正義の仮面ライダー・・・人間の自由を守る戦士?
鞍馬天狗?
近藤勇?
アンパンマン?
ーーーーー
松方正義・・・松の方が正義?
天保六年二月二十五日(1835年3月23日)
~
大正十三年(1924年)7月2日
↓↑ ↓↑
乙未(丁・乙・己)⇔甲子(壬・ ・癸)
己卯(甲・ ・乙)⇔庚午(丙・ ・丁)
甲寅(己・丙・甲)⇔壬午(丙・ ・丁)
子丑=空亡
薩摩(鹿児島)藩出身
幼名は金次郎
通称は助左衛門
号は海東
13歳にして両親を亡くす
島津久光の側近として
生麦事件
寺田屋事件等に関係
長崎裁判所参議
日田県知事に転任
大蔵省官僚として財政
内務卿・大久保の下で地租改正
松方は
大隈が進める外債による
政府紙幣の整理に反対し
伊藤博文の配慮によって
内務卿に転出
↓↑
明治十年(1877年)に渡欧
明治十一年(1878年)3月~12月
第三共和制下のフランスに滞在
フランス蔵相
レオン・セイ
(「セイの法則」で名高い
フランスの経済学者の
ジャン=バティスト・セイの孫)
から3つの助言を得る
第一
日本が発券を独占する中央銀行を持つべきこと
第二
フランス銀行やイングランド銀行は
古い伝統故にモデルとならないこと
第三
最新のベルギー国立銀行を精査模範
↓↑
明治13年(1880)
内務卿
明治14年(1880)
参議兼大蔵卿に就任
日本銀行を設立
金本位制を確立
↓↑
明治期に内閣総理大臣を
二度(第4・6代)
大蔵大臣を
七度(初・第2・ 第3・第4・第6・第8・第11代)
↓↑
元老会議
日英同盟締結・明治35年(1902年)1月
↓↑
91~92年と 96~98年に内閣を組織
1900年元老
1903年に枢密顧問官
1917年内大臣
ーーーーー
・・・
旦暮周密・密雲不雨・・・
・・・「たましぎ」?・・・「水蜜・蜜柑・蜂蜜・蜜蜂・蜜腺・花蜜・蜜蝋・蜜月・蜜豆・餡蜜(アンミツ)・糖蜜(トウミツ)」・・・「密柑」?・・・「三密≠三蜜・密教」・・・「機密・密閉・親密・疎密・密度・稠密・濃密・過密・疎密・密造」・・・スゴイね「カケ」も「カントク」も「コーチ」も・・・それに「メリケン王国のカケヤ、アキンド」も・・・「NK王朝のキンさん」も、「SK王国のトラさん」も・・・もちろん、「密(宀+必+山)」と「蜜(宀+必+虫)」がなければ、ボクも・・・「蜜語・密語」が無ければ生きられない・・・カモ・・・
「秘密・枢密・密閉・密談・密謀・密策・密命・密約・隠密・慎密・密契・密使・密栓・気密・機密・稠密・緻密・密詔・詳密・細密・密葬・密偵・密輸・密航・密行・密室・密告」・・・
「密集・密生・密着・密度・密閉・密林・過密・気密・緊密・親密・稠密 (チュウミツ)・厳密・周密・精密・綿密」・・・
「顕密(ケンミツ)・台密・東密・舎密 (セイミ)」・・・
「密=たかし(なのり)」・・・
「前島密(ひそか)」・・・
「天保六年一月七日(1835年2月4日)
~
大正八年(1919年4月27日)」は、
↓↑ ↓↑
甲午(丙・ ・丁)⇔己未(丁・乙・己)
丁丑(癸・辛・己)⇔戊辰(乙・癸・戊)
丁卯(甲・ ・乙)⇔己酉(庚・ ・辛)
戌亥=空亡
↓↑ ↓↑
官僚、政治家・号は鴻爪(コウソウ)」、1866年(慶応2年)に「漢字御廃止之議」の建議書を将軍徳川慶喜に提出」・・・
三密瑜伽=サンミツユガ・・・「三密=身密、口密、意密」
周密精到=シュウミツセイトウ・隅々まで行き届いていること
人口稠密=ジンコウチュウミツ
ジンコウチョウミツ
旦暮周密=タンボシュウミツ・・常時警戒注意
密雲不雨=ミツウンフウ・・・・雲、密集すれど、雨、降らず
・・・前触れ・前兆・予兆
・・・雲の秘密は雨にアラズ
アメには無い
密(宀+必+山)
・・・密の雨が云うは雨に不(あらず)
不=…でない・…しない・…がない
…がわるい・…がよくない
兆しはあるのに
未だ事、起こらず
恩恵が全ての人に行き渡らないことの喩え
雨雲が空を覆っているが
未だ雨は降らず
・・・「隠密剣士・秋草新太郎」・・・「私が守るのは将軍家でもなければ徳川の権力でもない。この世の中に生きる民百姓の安らぎを守るため」・・・本当かな・・・「シンタロウでも、シンゾウでもない」コトは・・・カモ・・・
「秋草 俊」、「明石 元二郎」・・・
「リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge)
1895年10月4日~1944年11月7日」はどうだったのか?・・・
乙未(丁・乙・己)⇔甲申(己・壬・庚)
乙酉(庚・ ・辛)⇔乙亥(戊・甲・壬)
甲申(己・壬・庚)⇔乙亥(戊・甲・壬)
午未=空亡
・・・???・・・年月日が「乙乙甲⇔甲乙乙」の逆・・・
ーーーーー
枢密=木+区+宀+必+山
=樞密=木+匚+品+宀+必+山
枢=とぼそ・くるる・開き戸の回転軸
かなめ・物事のたいせつなところ・中心・枢機
枢=樞=くくる・スウ
開き戸を開閉する軸
物事のかなめ
枢機・枢軸・枢密・枢要・中枢
区=區・・・ハコの中の品・・・「メ=品(口口口)」?
↓↑
枢密院(スウミツイン)
国王・皇帝の諮問機関
大統領が
元首を務める共和制国家には
このような機関はない・・・
「枢密」とは機密や政治上の重要な
秘密のこと
枢密院 (中国) =主として
軍制を掌った中国歴代王朝の
国家機関、「枢密院」の語源
憲法問題も扱い
「憲法の番人」とも
ーーーーー
枢密院
1888年(明治21年)
憲法草案審議を行うため
枢密院官制及枢密院事務規程に基づいて
創設され(明治21年4月30日勅令第22号)
1889年(明治22年)
に公布された大日本帝国憲法で
天皇の最高諮問機関とされた
初代議長は、伊藤博文
藩閥・官僚制政治の牙城
ーーーーー
↓↑
1931年(昭和6年)
満州事変(滿洲事變)
1931年(昭和6年、民国20年)9月18日
中華民国奉天(瀋陽)郊外の
柳条湖で関東軍が
南満州鉄道の線路を爆破した事件
(柳条湖事件)
以後、軍部の台頭で
枢密院の
影響力は低下
↓↑
ーーーーー
田中 義一(たなか ぎいち)
1864年7月25日(元治元年6月22日)
~
1929年(昭和4年)9 月29日)
ーーーーー
甲子(壬・ ・癸)⇔己巳(戊・庚・丙)
辛未(丁・乙・己)⇔癸酉(庚・ ・辛)
辛卯(甲・ ・乙)⇔丁丑(癸・辛・己)
午未=空亡
ーーーーー
↓↑
政治家・陸軍大将・男爵
20歳で陸軍教導団
陸軍士官学校(旧8期)
陸軍大学校(8期)
日清戦争に従軍
ロシア留学
日露戦争で
満州軍参謀として
総参謀長
児玉源太郎のスタッフを務めた
陸軍大臣・貴族院議員・内閣総理大臣(第26代)
外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)
拓務大臣(初代)などを歴任
↓↑
1927年(昭和2年)3月
第1次若槻内閣
全国各地の銀行で取り付け騒ぎ
(昭和金融恐慌)
若槻内閣
4月17日に総辞職
立憲政友会総裁の
田中が
4月20日
田中内閣組閣
↓↑
1928年(昭和3年)2月
第1回普通選挙
3月
全国の社会主義者
共産主義者を一斉検挙
(三・一五事件)
↓↑
辞意を表明した閣僚を
昭和天皇に慰留させ
天皇を政局に利用したと批判され
(水野文相優諚問題)
貴族院は
田中首相問責決議を可決
↓↑
1928年
張作霖爆殺事件
容疑者を・・・容疑者って「日本人」?
軍法会議によって
厳罰に処すべきと主張し
天皇に奏上したが
陸軍の反対で頓挫し
野党の
立憲民政党に批判され
中野正剛は
尼港(ニコラエフスク)事件
↓↑ ・・・シベリア出兵中の日本軍隊と
ソビエト・パルチザンとの間の紛争事件
1920年2月アムール川河口のニコライエフスク (尼港) を
占領中の日本軍は
ソビエト・パルチザンの攻撃を受け降伏
将兵および居留民は捕虜となった
日本軍、邦人はパルチザン部隊と降伏協定を結んだが
3月、日本軍はそれを破って奇襲したが敗北
122名が捕虜
5月、捕虜救出に日本軍がくることを知った
パルチザンは捕虜全員
351名の将兵
副領事を含む
383名の日本居留民を殺害、市内を焼払って逃亡
ソ連革命政府はパルチザンの責任者を処刑
日本政府は賠償を要求し
北樺太(からふと・サハリン)を保障占領
↓↑ 1925年日ソ国交回復して撤退
の際に
田中が
「断じて臣節を全うす」
と称して
陸軍大臣の職を辞した
済南事件・・・1928(昭和3)年5月3日午前9時半
↓↑ 中国山東省「済南」で起きた日本人居留民虐殺事件
国民革命軍の一部による日本人襲撃
日本の権益と日本人居留民を保護するために
派遣(第二次山東出兵)された
日本軍と、北伐中であった
蒋介石率いる国民革命軍(南軍)
↓↑ との間に起きた武力衝突事件
の責任を
福田司令官に帰し
満洲事件を
村岡司令官に帰した
田中が
「この如き事に責任を
負うたら総理大臣は
何万居っても足らぬ」
と豪語したが
政略出兵の責任を
軍部に転嫁するような
総理大臣がいたら
日本帝国の国軍は
何百万人居っても
足らないこととなると
糾弾された
↓↑
1929年(昭和4年)6月27日
関東軍は
無関係であったと
田中が
天皇に奏上したが
天皇は
「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」
と田中を直接詰問
田中は
7月2日に内閣総辞職
↓↑
ーーーーー
枢密院は
日本国憲法施行の前日の
1947年(昭和22年)5月2日に廃止
ーーーーー
各国の
枢密院 (中国)
主として軍制を掌った中国歴代王朝の
国家機関で、「枢密院」の語源
枢密院 (イギリス)
イギリス国王の諮問機関
枢密院 (カナダ)
カナダ国王の諮問機関
枢密院 (日本)
1888年(明治21年)~1947年(昭和22年)まで
存在した天皇の諮問機関
最高枢密院(ロシア帝国)
皇帝の諮問機関
枢密院 (タイ)
王国の諮問機関
ーーーーー
・・・今日の世界情勢と日本の政治的状況は、第二次世界大戦前夜に似ているカモ・・・
イラン・コントラ事件(Iran-Contra Affair)
アメリカ合衆国の
ロナルド・レーガン政権が
イランと裏取引をし
同国への武器売却代金を
ニカラグアの
反共ゲリラ「コントラ」の援助に流用
1986年に発覚
↓↑
1985年8月
アメリカ軍の兵士らが
レバノン(内戦中)での活動中
イスラム教シーア派系過激派の
ヒズボラに拘束、人質
人質を救出する為
共和党の
ロナルド・レーガン
アメリカ政府は
ヒズボラの後ろ盾
イランと非公式ルートで接触
イラン・イラク戦争で
イラクと戦って劣勢であった
イランに
極秘裏に
武器を輸出する事を約束
イランへの武器の輸出の提案は
ヒズボラおよび西欧諸国での
爆弾テロを支援したグループに対する
影響力を持つ
イランの歓心を買った
↓↑
1983年12月
アメリカ国防総省の
ラルフ・ブローマン中佐
CIAの
ポール・カッター
は、イランへの兵器売却を目的に、
ヨーロッパ・ディフェンス・アソシエイツ(EDA)
という会社を設立
数億ドルにおよぶ兵器を
イランに売り込もうとした
フランス人兵器ディーラーの
ベルナール・ベイヨ
イラン人仲介者の
マヌチェル・ゴルバニファー
が絡んでいた・・・
↓↑
イランの
ホメイニーの革命
1979年1月に
イラン国王を追放
↓↑
ホメイニー革命の10ヶ月後
ホメイニーの信者が
イランのアメリカ大使館を占拠
大使館員を人質
アメリカ大使館人質事件により
カーター大統領は
経済制裁を課し
兵器禁輸の措置
イランとの
国交断絶
イランに対する
武器輸出禁止
政治家や官僚、軍人による
公式な交渉も禁止
↓↑
アメリカの
イランに対する
武器輸出は
イランの敵国である
イラクと
アメリカは国交があり
アメリカとイラクとの
外交上の問題は必至となる・・・
アメリカの人質は
カーターに勝った
レーガンが大統領就任日に解放
↓↑
アメリカは兵器禁輸を続行
イラン軍は
国王時代に
大量の
アメリカ製兵器を購入しており
部品、メンテナンスが必要だった
↓↑
ロナルド・レーガン大統領
の承認を受け
極秘に
イランに対して
武器を輸出
↓↑
国家安全保障担当補佐官の
ジョン・ポインデクスターと
国家安全保障会議軍政部次長の
アメリカ海兵隊の
オリバー・ノース中佐
らが
イランに
武器を売却し
その収益を
左傾化が進む
ニカラグアの
反政府戦争(コントラ戦争)を行う
反共ゲリラ
「コントラ」に与えた
↓↑
中南米の
ニカラグアは
1979年
ニカラグア革命で
40年以上続いた
親米の
ソモサ王朝独裁政権が崩壊し
キューバおよびソ連に支援され
「社会主義(?)」寄りの
サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)政権
が統治
↓↑
アメリカ政府の
イランへの武器輸出と
「コントラ」反共ゲリラ
への資金流用行為は
アメリカ議会の了解を取っていなく
民主党が多数を占めた
議会の議決に反していた
↓↑
アメリカ政府の
イランと
コントラの
双方の交渉窓口は
ロナルド・レーガン政権の
副大統領だった
ジョージ・H・W・ブッシュ(後の大統領)
の関与が
後の民主党政権下の
連邦議会における
公聴会で取りあげられたが
その真相は不明・・・?
↓↑
同事件において
1986年11月
ノース中佐は
レーガン大統領直属
↓↑
ノース中佐は
武器ブローカーを通して
イランへ
武器を
密輸する
計画責任者を務め
得られた資金で
ニカラグアの
反政府組織
コントラへ資金援助の
秘密ネットワークの設置に関与
↓↑
1987年
ノース中佐は
イラン・コントラ事件を
調査するために設定された
両院協議会の
テレビ公聴会に
先立って
証言のために召喚
聴聞の間
ノース中佐は
議会に対し
虚偽の証言をしたことを認め
後に告訴された
↓↑
ノース中佐は
「自分が『自由の戦士』と見なした
コントラを援助する目的が正しいと信じている」
と述べ自身の行為を弁護し
非合法の
イラン・コントラ計画を
「素晴らしいアイデア」
と述べた・・・
↓↑
1979年1月イラン革命
↓↑
イラン・イラク戦争
1980年~1988年
1980年9月22日未明
イラク軍が
イランの10の空軍基地を爆撃
イラン軍が迎撃
東西諸国共に対イラン制裁処置を発動
イランは物資、兵器の補給などが滞り
孤立したイランはイラクへの降伏も・・・だが
イラン国民は20万を越える義勇兵を前線に送って奮戦
↓↑
アメリカ政府は
テヘランの
アメリカ大使館占拠事件での
人質の解放
同時に
ニカラグアの傭兵右派ゲリラの
コントラへ
イランに対して武器輸出で
得た資金を秘密裏に援助した
↓↑
イスラエル⇔敵国⇔イラク・イラン
イラク⇔交戦敵国⇔イラン
イスラエル⇔敵国イランに武器援助
イラン⇔断交敵国⇔アメリカ
イスラエル⇔武器売買⇔アメリカ
イスラエル⇔敵国イランにアメリカ制の武器売買援助
イラン⇔戦争⇔イラク
アメリカ⇔国交国イラク(ソ連寄り)
アメリカ⇔断交国イランにイスラエルを仲介し武器援助
アメリカ⇔断交国イランに秘密武器援助
アメリカ⇔武器売買で得た資金を
⇔ニカラグア「右翼ゲリラ・コントラ」に援助
↓↑
イスラエルは
アメリカによる
極秘裏の支援が開始される以前から
イランを支援し
武器を密輸出
↓↑
イラン革命の直後に
イラクに
攻撃された
イランは
国際的には敗北必至と判断され
実際に戦死者は
イラクをはるかに上回っていた
革命後のイランは
「反イスラエル・反シオニズム」
が国是であったが
戦争敗北の恐れから
イスラエルからの
武器援助を承諾し
戦争時
イランの
武器輸入総額は半分が
イスラエルからのものであった
イスラエルが
イランに
販売した武器は
友好国である
アメリカや西欧諸国
の軍が使用する数多の
最新兵器であった
↓↑
アメリカ政府
アメリカ人人質解放のために
身代金として
アメリカの武器を
イランへ輸出するように要請
↓↑
イランとの
武器貿易を公式にしたい
イスラエルにとって望むところで
アメリカは
イスラエルによる
イランへの武器輸出を承認し
密貿易は
公式な間接貿易となった
これによって
アメリカの人質の一部が解放されたが
イスラエルは
アメリカの代理人として
イランへ武器を輸出することを
渋るようになった・・・?
↓↑
その後
アメリカ政府は
直接
イランに対しての
武器の密輸出が
発覚し
スキャンダル・・・になった
↓↑
ニカラグアの
「コントラ」に対して
左傾化が進む中南米で
ニカラグアをはじめとする
複数国で
イスラエルが
単独で
右派ゲリラを積極的に支援し
アメリカも
1970年代前半は
反共ゲリラを
公式に支援していたが
民主党左派である
ジミー・カーター大統領
によって
反共支援は
非合法化され
後に
レーガン大統領の
アメリカは
イスラエルを介して
間接的に援助し
イスラエルは
数重にわたって
アメリカの代理人となり
反共ゲリラに対して
アメリカの
最新兵器を輸出した
レーガン政権は
イスラエルの外交を利用し
イランと
ニカラグアの右派ゲリラを
支援し
双方と接触したが
暴露された・・・
↓↑
イスラエルは
暴露の前に
アメリカとの
取引を清算し
スキャンダルによって
攻撃されることは免れ
その後の
イランの政治状況の変化を受け
一転して
イスラエルは
反イランの姿勢を強めた・・・
↓↑
ニカラグア事件で
サレム・ビンラディン
(ウサーマ・ビン・ラーディンの兄で
支援資金の洗浄をしていた
アル=ハラム・モスク占拠事件にも関与
1988年に飛行機事故で死亡)・・・?
ーーーーー
・・・?????・・・
生きている間、繰り返し、繰り返し・・・
・・・集合住宅の4階ベランダのバルコニーにブラ下っている子供(4歳)を救ったマリからのフランス移民、スパイダーマン(22歳のガッサマさん)・・・「人間の条件」・・・生きている間、繰り返し、繰り返し「ダマし、騙(欺・瞞・詐欺)される存在」らしい・・・繰り返し、繰り返し「オドし、脅(嚇・威・嗋)される存在」らしい・・・繰り返し、繰り返し「ウバう、奪(簒・篡・褫=衤厂虎=簒奪・強奪)われる存在」らしい・・・「rob・take by force・snatch away・dispossess・plunder・usurp」・・・「人間の条件」・・・「社会的公平を目指す存在」・・・?・・・社会的整合性・・・
「整合性=無矛盾性に同じ」
「矛盾がない・理にかなう・筋が通る・理屈に合う・道理に合う・道理にかなう・筋道が通る・矛盾しない・矛盾のない・整合性がある・整合性のある・筋道立った・論理の破綻がない・一貫性のある・筋の通っている・整合している・整合性がとれる・整合性がとれている・つじつまが合う・辻褄があう・辻褄が合う・理屈が合う・理屈が合っている・一貫している・一貫性のある・一貫性がある・論理的一貫性がある・筋道だっている・筋が通っている・筋の通る・説得性をもつ・説得力がある・説得力をもつ・理屈が通る・無理がない・系統だっている・論理だっている・論理的な・筋の通った・首尾一貫している・食い違いのない・論理に裏打ちされている」・・・磁力の「+と-」は「矛盾」と言う概念で説明する時は「+と-」が同じ時間と同じ位置には存在できないのにもかかわらず、それが事象的に同じ位置に存在できると言うコトだろう・・・「矛盾」は「高低・深浅・強弱・前後・左右・上下・表裏・冷熱・明暗・剛柔」などの真逆な程度のモノが同次元に存在し得ない、と言うコトだ・・・
「整合性(Consistency・コンシステンシー)=一貫性 ・無矛盾性・無撞着性・矛盾、撞着を持たないこと」・・・
道具としての機能性の異なる「矛と盾」の「構成物の原材料の異質」を考慮するならば「双方が接触した衝撃の破壊度」には差異がある・・・
「構成物の原材料が同質」ならば「双方の衝撃の破壊度」には差異がない・・・「核分裂」は「核連鎖分裂」で、「核融合」は「核連鎖融合(nuclear fusion reaction)」である・・・「分裂・融合」の反応する「連鎖物」が存在しないとするならば・・・「一核分裂」の変化はありえても、反応相手のいない「核連鎖融合」の変化はありえない・・・?
「F=ma」?
「人間」は「整合性を知っても、望まない」⇔不整合を好む
「人間」は「完全性を知っても、望めない」⇔完全なモノはない
「セイゴウ」・・・?
ーーーーー
中野 正剛(なかの まさかた・セイゴウ)・・・正の剛?
1886年(明治十九年)2月12日
~
1943年(昭和18年)10月27日)
丙戌(辛・丁・戊)⇔癸未(丁・乙・己)
庚寅(己・丙・甲)⇔壬戌(辛・丁・戊)
癸卯(甲・ ・乙)⇔戊午(丙・ ・丁)
辰巳=空亡
↓↑
ジャーナリスト、政治家
東方会総裁、衆議院議員
旧福岡藩士の
中野泰次郎と
母のトラの長男・・・トラ?・・・虎・寅
母・トラは
福岡県
糸島郡
元岡村(福岡市西区元岡)で
醤油・・・醤=将(まさに・ショウ)に酉(とり・ユウ)
醸造業を営む
黨又九郎の長女・・・黨=尚+黒=党=光が当たらず「暗い」
暗い場所で結成され
部外者からは
目的が見えない「なかま・やから・むら」
集団・徒党・政党・たむろ(屯)
中野家は代々福岡藩の
御船方
父・泰次郎の代に分家し
福岡市西町(中央区今川)で
質屋を・・・質=シチ・シツ=七・死地・漆・膝・櫛・失?
家業
十四歳で
福岡県中学
修猷館・・・猷=はかる・はかりごと・みち・ユウ
. 嘉猷(カユウ)=猷は道、言の意
善いはかりごと・善い道
嘉謨嘉猷(カボカユウ)有らば
則ち入りて爾(汝・なんじ)が
后(きみ)の内(内密)に告げよ
猷(はか)る⇔猶=なお・なお…ごとし・尚
猶太(ユダ)
(福岡県立修猷館高等学校)に進学
家業の質屋を毛嫌い
質屋の甚太郎と呼ばれるのが厭で
在学中の
1903年(明治三十六年)に
自ら
正剛(まさかた)と改名
周囲は皆
「セイゴウ」と呼んだ
十四歳で柔道道場の
「振武館」を開いた・・・振る武の館?
修猷館時代に出会った
緒方竹虎・・・・・・・・緒(糸者)の方、竹(筑紫)の虎(寅)
1888年(明治21年)1月30日~1956年(昭和31年)1月28日
丁亥(戊・甲・壬)⇔乙未(丁・乙・己)
癸丑(癸・辛・己)⇔己丑(癸・辛・己)
辛丑(癸・辛・己)⇔乙未(丁・乙・己)
辰巳=空亡
とは
早稲田大学や
東京朝日新聞社でも行動を共にし
大学時代には2人で下宿
三宅雪嶺の
・・・1860年7月7日(万延元年五月十九日)
~
1945年(昭和20年)11月26日
庚申(己・壬・庚)⇔乙酉(庚・ ・辛)
壬午(丙・ ・丁)⇔丁亥(戊・甲・壬)
壬子(壬・ ・癸)⇔癸巳(戊・庚・丙)
寅卯=空亡
『日本及日本人』に寄稿し
このことが縁で
玄洋社を主宰する
頭山満・・・安政2年4月12日(1855年5月27日)
~
昭和19年(1944年)10月5日
乙卯(甲・ ・乙)⇔甲申(己・壬・庚)
辛巳(戊・庚・丙)⇔癸酉(庚・ ・辛)
甲辰(乙・癸・戊)⇔壬寅(己・丙・甲)
寅卯=空亡
(幼名、乙次郎)
と知り合う
↓↑
中野 正剛の
幼名は甚太郎
号は耕堂
配偶者は
中野多美子・・・たみこ?
↓↑
1905年(明治三十八年)
~
1909年(明治四十二年)
早稲田大学
政治経済学科を
卒業し
同級生だった
風見章・・・風見の章
1886年(明治十九年)2月12日
~
1961年(昭和36年)12月20日
立憲民政党、国民同盟、日本社会党に所属
衆議院議員・当選9回
第1次近衛内閣で内閣書記官長
第2次近衛内閣で司法大臣
とともに
東京日日新聞(毎日新聞)
を発行していた
日報社に入社
次いで
朝日新聞に移る
「戎蛮馬」・・・戎の蛮の馬?
夷狄戎蛮(イテキジュウバン)
漢民族以外の異民族の蔑称
のペンネームで
「朝野の政治家・明治民権史論」
などの政治評論を連載
1913年(大正二年)に
三宅雪嶺の娘
多美子と結婚
仲人は
頭山満
と
古島一雄
↓↑
1916年(大正五年)
朝日新聞を退職
東方時論社に移って社長兼主筆に就任
1917年(大正六年)
衆議院議員総選挙に立候補するが落選
↓↑
日本外交を批判的に論考した
『講和会議を目撃して』
がベストセラー
1920年(大正九年)
総選挙で当選
以後、8回当選
当初は
無所属倶楽部を結成
1922年(大正十一年)
革新倶楽部結成に動く
その後
憲政会・立憲民政党
と政党を渡り歩いた
↓↑
民政党時代
党遊説部長
永井柳太郎
と
臨時軍事費問題
張作霖爆殺事件を
田中義一内閣に迫り
反軍派政党人として活躍
内務大臣だった
濱口雄幸の推薦で
三木武吉の後任の
大蔵参与官
逓信政務次官
などを歴任
↓↑
挙国一致内閣を提唱していた親軍派の
安達謙蔵と民政党を脱党
国民同盟を結成
1936年(昭和十一年)
東則正と
東方会を結成し
自ら総裁となった
↓↑
1937年(昭和十二年)~1938年(昭和十三年)
イタリア、ドイツ両国を訪問
ムッソリーニ、ヒトラーと会見
当時の中野自身は
両者を偉大な政治家と認識評価
同時に
フランスのジョルジュ・クレマンソー
イギリスのウィンストン・チャーチル
も評価
1939年(昭和十四年)
議会政治否定
政党解消を主張
衆議院議員を辞職
衆議院に当選復帰
南進論・日独伊三国同盟を支持
撃栄東亜民族会議を主催
↓↑
1940年(昭和十五年)
大政翼賛会総務に就任
1941年(昭和十六年)
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時
東方会本部で万歳三唱
↓↑
首相・東條英機
に激しく反発
1942年(昭和十七年)
大政翼賛会の
権力強化に反対し脱会
翼賛選挙で
自ら非推薦候補を選び
東条首相に反抗
東方会は候補者46人中
当選者は中野のほか、
本領信治郎(早大教授)
三田村武夫
たち7人
翼賛政治会に入ることを頑強に拒み
最終的には
星野直樹の説得で
政治会に入ることを了承
↓↑
同年11月10日
早稲田大学大隈講堂で
「天下一人を以て興る」
という演題で2時間半にわたり
東條への弾劾する大演説
↓↑
1943年
中野正剛事件
太平洋戦争中
現職衆議院議員の
東方同志会の
中野正剛
に対し
特別高等警察が
身柄を拘束
中野は最終的に釈放
直後に自殺
↓↑
福岡県生
幼名は甚太郎
号は耕堂
早大卒後
東京朝日新聞記者として
護憲運動に奔走
『東方時論』を刊行
衆議院に8回当選
革新倶楽部・憲政会・民政党
などに属して活躍
↓↑
1926年(大正十五年)6月
手術ミスで
左脚大腿下部切断
幼年時代の落馬
(柿の木から落ちた)で
左足の関節に痛みを覚え
学生時代に
柔道の稽古中に骨折
大腿部のカリエスを患って
3回手術をしたが完治せず
軽いビッコをひく・・・・・・・日本建・黒田如水・・・
柔道の
稽古に支障はなかったが
手術のために1年休学
宮川一貫と同級生
後遺症のため成人後
再手術したが
血栓により
足の血管が詰まって壊疽
左足を切断
ーーーーー
・・・重複参考、参照の添付記事(Wikipedia)で再検討・・・
↓↑
イラン・コントラ事件(Iran-Contra Affair)
↓↑
アメリカ合衆国の
ロナルド・レーガン政権が
イランと裏取引をし
同国への武器売却代金を
ニカラグアの
反共ゲリラ「コントラ」の援助に流用
1986年に発覚
・・・?????・・・
イラン革命の際
テヘランの
アメリカ大使館占拠事件において
人質の解放をめぐる取引の一環とし
ニカラグア内戦を戦う
傭兵軍コントラへの資金援助のため
イランに武器輸出
↓↑
アラブ諸国と関係を正常化してなかった
イスラエルが援助
米国製部品を
イスラエルが
代わりに調達
イランを支えた
他のアラブ諸国と異なり
シリアの
国家元首のアサド一族
少数派のアラウィー派
の政権と
反欧米を掲げる
リビアが
イランに味方
↓↑
イスラエルと
アラブ諸国の中でも
対イスラエル強硬派
シリアと
リビア
がそれぞれの思惑で共闘し
イランを支援
↓↑
1980年~1988年
中国が
イランに最大の
武器を供給
↓↑
その2倍以上の武器を
イラクに供与
↓↑
北朝鮮は
1980年10月10日から
フセイン政権のイラクと断交
イランと親密関係を構築
↓↑
1981年6月7日
イスラエル空軍機が
ヨルダン、
サウジアラビア領空を侵犯し
イラク領に侵入し
フランスの技術で建造中の
原子力発電所(未稼働)を
空爆、破壊(イラク原子炉爆撃事件)
イラクは
イスラエル方面の防空を強化
↓↑
1982年4月
シリア経由のパイプラインが止められ
イラクは石油の輸出ができなくなった
5月24日
イランは
ホラムシャハル港を奪回
3万のイラク兵を捕虜とし
6月には旧領土ほぼ全域を奪還
逆にイラク国内への攻勢
イランの勝利もありうると考えた
イラク側が休戦を持ちかけたが
イランは
フセイン体制の打倒に固執
戦争は継続
11月
イラク軍が
イランの
カーグ島石油基地を破壊
シリアの占領下の
レバノンに
イスラエル軍が侵攻
レバノン内戦が再燃
アメリカはフランスと共に軍を
レバノンへ派遣
レバノン内戦の裏で
イスラエル
と
イラン間で密接に連絡
↓↑
1982年
イギリスがフォークランド戦争
1983年10月
アメリカはグレナダ侵攻
ソ連はアフガニスタン問題
↓↑
1983年
レバノンの
アメリカ・フランス軍
のキャンプが
自爆テロ攻撃を受け
報復に
シリア軍を艦砲射撃し
1984年2月に撤退
(アメリカ大使館爆破事件)
アメリカ軍撤退の直後
イラン・イラク間の戦闘が再燃
3月に国際連合の調査により
イラクが化学兵器
タブン
などの毒ガス兵器を使用
11月
イラクは
アメリカと正式に国交回復
イラク援助は公式化
↓↑
1985年3月
イランとイラクは相互に都市を
ミサイル攻撃
イラクは
ソ連のスカッドを改良した
「アル・フセイン」を
イランの都市へ撃ち込んで
イランはミサイル開発
5月
イラク空軍機、テヘラン空襲
1986年6月
イラク軍のミサイル
イランの旅客列車に命中
↓↑
1986年3月
イランを支援し続ける
リビア(チャド・リビア紛争中)
と
アメリカ軍機が
シドラ湾で交戦
アメリカは
4月にリビアを攻撃
↓↑
12月
アメリカで
イラン・コントラ事件が暴露
大統領ロナルド・レーガン
は窮地に立たされ
取引を持ちかけたのは
イランだ非難
クウェートへの攻撃を防ぐ為
クウェートのタンカーに
星条旗を掲げさせ
アメリカ軍艦の護衛をつけた
(アーネスト・ウィル作戦)
↓↑
1987年1月
イランは「カルバラ5号作戦」を実行
イラク領へ向け南部戦線に大攻勢
イラク軍に損害を与えた
イラク国内の反政府的な
クルド人を支援し
反乱を起こすよう仕向け
イラク軍の弱体化を狙った
イラク軍は
反乱クルド人に化学兵器を使用
化学兵器使用は
イラン軍によるもの・・・真相は不明
7月20日
国際連合安全保障理事会が
598号決議を採択
即時停戦ほか
公正な機関による
戦争責任の調査
抗戦を継続する場合には
武器の輸出停止、経済制裁を行う
先にイラクが受諾の姿勢を見せたが
8月からペルシャ湾に
大量の機雷が浮遊
イラクは報復として
イランのタンカーを攻撃
9月から
アメリカ軍のヘリコプターが出動
対してイランは
アメリカのタンカーを攻撃
10月
アメリカ海軍は
アーネスト・ウィル作戦として
クウェートが保有する
アメリカ船籍の
石油タンカーの護衛
タンカーが攻撃を受け
報復として
10月19日
イランの2つの油田を攻撃
(Operation Nimble Archer 作戦)
この作戦で
株価暴落 (ブラックマンデー)
1988年2月
イランとイラクは相互都市攻撃を再開
アメリカ軍がペルシャ湾に出動
4月14日
イランと交戦
(プレイング・マンティス作戦)
イランに寛容だった
サウジアラビアがイランに断交を通告
イランは
7月に安保理決議598号の受諾を表明
8月20日に停戦が発効
↓↑
ペルシャ湾岸諸国
(・サウジアラビア
・クウェート
・アラブ首長国連邦
・カタール
・バーレーン
・オマーン)
は湾岸協力会議(GCC)を結成
GCCはアメリカが後ろ盾となり
各国にアメリカ軍兵器を輸出
(サウジアラビアは
アメリカからF-15戦闘機などを購入)
サウジアラビアは
米国に
秘密で
中国の弾道ミサイルDF-3を導入
イランからの攻撃に備えた
↓↑
1989年6月
イランのホメイニーが死去
1990年9月10日
イラン・イラク両国間で国交回復
1990年8月2日
イラクがクウェートに侵攻
翌年に湾岸戦争
この戦争を通じて
イラクがクウェートに対して
抱え込んだ
負債を帳消しようと
湾岸戦争へ発展・・・?
↓↑
日本の在留邦人脱出・・・トルコ人民と政府に感謝デス
↓↑
1985年3月17日
サッダーム・フセイン大統領は
両国の都市爆撃の応酬
48時間の猶予期限以降に
イラン上空を飛ぶ航空機は
無差別に攻撃すると宣言
日本航空に
チャーター便の派遣を依頼
同社の
パイロットと
客室乗務員が組織する労働組合は
組合員の安全が保障されないことを理由に
この要請を拒絶
200名を超える
イラン在外日本人の脱出方法が見つからず
生命の危機に瀕する状況にあった
↓↑
1985年8月12日18時56分
日本航空123便墜落事故
高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)
(御巣鷹山墜落激突)・撃墜・・???
で亡くなった
海上自衛隊出身の
高濱雅巳・・・?昭和11(1936)年1月2日生まれ
乙亥(戊・甲・壬)⇔乙丑(癸・辛・己)
戊子(壬・ ・癸)⇔甲申(己・壬・庚)
甲申(己・壬・庚)⇔癸未(丁・乙・己)
午未=空亡 ⇔辛酉(庚・ ・辛)
機長は
真っ先に
救援便の運行乗務員に志願・・・?!
当時の自衛隊法
自衛隊の外国における活動を
人道目的を含めて想定しておらず
イランまで
ノンストップで飛行できる航空機が
配備されていなかった
自衛隊を派遣するのは事実上不可能
↓↑
2016年以降
事態が発生した場合に
外務省が在外公館を通じて
相手国の許可を得たうえで
航空自衛隊の
日本国政府専用機や
海上自衛隊の護衛艦による
在外日本人救出を行うことになっている
陸上自衛隊も
「在外邦人輸送訓練」
を毎年行っている他
海上保安庁も必要に応じて
巡視船艇・保安官を派遣する
↓↑
トルコ政府の協力
個人的な親交に一縷の望みを託した
野村豊在イラン日本国特命全権大使が
イスメット・ビルセル
在イラントルコ特命全権大使に救援を要請し
トルコ政府が応じ
トルコ航空の
自国民救援のための
最終便を2機に増やしたため
215名の
日本人がそれに分乗し
イランを脱出
タイムリミットの
1時間15分前
トルコ機は自国が近隣に位置することから
陸路での脱出もできる自国民よりも
日本人の救出を最優先し
実際この救援機に乗れなかった
トルコ人約500名は
陸路自動車でイランを脱出
トルコ政府とトルコ航空の
↓↑
厚情は
1890年(明治23年)
日本に親善訪問した帰途
和歌山沖で遭難した
フリゲート・エルトゥールル号
1890年(明治二十三年)9月16日夜半
オスマン帝国(トルコ)の軍艦
和歌山県串本(大島村)町沖で
同号が座礁
581名が死亡
串本町大島の住人が必死の救助で69名を救出
救助で
日本から受けた恩義に報いた
2015年
日本・トルコ修好125周年を記念し
エルトゥールル号遭難事件と
テヘラン邦人救出劇を描いた
映画『海難1890』が
日本・トルコ合作映画として製作された
ーーーーー
・・・TVドラマ・・・
「隠密剣士」
天明七年(1787年)~寛政二年(1790年)
日本各地を舞台として
江戸幕府
十一代将軍
徳川家斉の腹違いの兄である
松平信千代が
秋草新太郎と名乗り
公儀隠密として旅をしながら
世の平和を乱す
忍者集団との戦いを繰り広げる作品
徳川十一代将軍
家斉の異母兄で
本名は松平信千代
柳生新陰流を極めた剣士
↓↑
数人の忍者が乗る
「潜水艦」が登場
江戸時代に実際に伝えられていた
「龍宮舟」は「潜水艦」?
↓↑・・・龍宮船(りゅうぐうふね)
戦国時代の水軍である
能島水軍(のちに毛利水軍の一派)
が使用した軍船
名称は龍宮の如く
潜水する機能があり
外観にもよると見られる・・・
船は、天正四年(1576年)
第一次-木津川口の戦いで織田水軍と戦った
火折命⇔目無(まな)しかたま=潜水艦?
村上水軍=今治市本土と尾道市本土と芸予諸島
めくらぶね(盲船)
戦国時代、船上の総矢倉の周囲を
厚い盾板で囲った軍船
大坂冬の陣で
九鬼守隆は盲船(めくらぶね、潜水艦)で
大坂城の豊臣軍を攻撃
船は全体を木や竹で囲んで上から
酸素を取り込んで水面すれすれを走り
大砲や鉄砲の装備を備えていた
日本丸 (安宅船)
↓↑海賊八幡(ばはん)船・・・東映映画・・・幽霊船?
↓↑ 海賊八幡船=1960年9月18日公開・原作、村上元三の原作
↓↑ 幽霊船=原作、大佛次郎=ゆうれい船=東映、1957年
↓↑ 葛飾北斎『北越奇談』=宝暦年間に新潟沖に現れた幽霊船
↓↑ 「船頭孫助洋中にたゞよひて幽霊船・アヤカシを見る」
と呼ばれる木造で
船首と船尾に竜の頭部をあしらい
水中を進むとされた船
古文書に依拠
↓↑
オーストラリアのロックグループ
「メン・アット・ワーク」は
「Shintaro」という曲を歌い
この曲は1983年のシングル
「It's A Mistake」のB面に収録
↓↑
「私が守るのは
将軍家でもなければ
徳川の権力でもない
この世の中に生きる
民百姓の安らぎを守るため」
↓↑
「化け学」って?
↓↑
舎密 (セイミ)
セイミ=化学の日本における旧称
幕末から明治初期にかけて使われた語
セイミ学
「舎密」
舎密(セイミ)=江戸時代後期の蘭学者の
宇田川榕菴がオランダ語で
化学を
意味する単語「Chemie」を
音写して当てた言葉
宇田川榕菴は
ウィリアム・ヘンリーの
『Epitome of chemistry』の
オランダ語版を日本語に翻訳し
『舎密開宗』の名で世に出した
舎密開宗(セイミカイソウ)
宇田川榕菴
により著された
日本初の体系的な化学書
内編18巻、外編3巻
1837年~1847年にかけて発行
↓↑
舎密局(セイミキョク)
明治維新期における
化学技術の研究・教育
および勧業のために作られた
官営・公営機関
ーーーーー
・・・???
フェア(fair=faire=fayre=お祭り興業・市場・ fare=運賃、料金)
・・・やり方は「東条英機内閣」と「特別高等警察」の連携で、同胞を粛清し「戦争遂行」し、「大本営発表」である・・・「戦場」は「敵との活殺生死の現場」である・・・だが、最期は「特攻」と「玉砕」・・・1941年1月8日に陸軍大臣「東條英機」が示達した訓令(陸訓一号・「軍人勅諭」・「捕虜になるよりは自決(生きて虜囚の辱を受けず)=敵前逃亡者の家族は国賊」・・・「勝利至上主義」の指揮の官の戦略戦術命令は当前である・・・一兵卒はその命令の遂行(スイコウ)、完遂(カンスイ)である・・・負けて結果オーライと言うワケにはいかない・・・都市の一般市民が爆撃されて無差別に「一方的に殺戮」されてしまっては・・・古代オリンピック・・・今や一刻の名誉の月桂冠では無く、プレイヤー個人とチーム、監督、コーチ(coach)の生活をカケた現代スポーツに「フェア(fair)」はあるのか?・・・しかも「フェア(fair=faire=fayre=お祭り興業・市場)・ fare=運賃、料金」で巨大組織をまもる創立130年のN大学の繁栄?・・・崩壊?・・・「あたりまえ」の「社会意識の構造」・・・「ダーウインが来た」の生き物は「弱肉強食の食物連鎖の社会」ではあるが・・・「人間」は違う、異なるのか?
サッカー日本・・・0-2(ガーナ)・・・時間が無い・・・6分・・・負けた・・・バヒド・ハリルホジッチ「人間として深く失望」したか?・・・川淵氏も田嶋氏も「人間として深く失格」カモ?・・・
日本ハム7-9巨人・・・21時50分・・・
親方の教えを守り・・・栃ノ心・・・コトバを稽古学習し・・・「ハシ、はし、ハシ」・・・
・・・「遂行(スイコウ)」を「遂行(ツイコウ)」と時折、音読みで使用してきた・・・「遂(と)げる」、「遂(つい)に」だし・・・
ーーーーー
遂=とげる・なしとげる・やりおえる
ついに・はては・かくて・そのまま
かなう・したがう
育つ・成長する
スイ
↓↑
スイ⇔水=H₂O=0-H-0・・・「2H₂O」は「H₂O」分子が2個
五行の第五・季節は冬・方位は北・色は黒・十干は壬癸
五星は水星
七曜の一・水曜の略
漢方で体内の水分
気・血
糖蜜(トウミツ)だけを加えた掻(かき)氷・氷水
ーーーーー
遂行(スイコウ)
未遂(ミスイ)
既遂(キスイ)
完遂(カンスイ)
墜落(ツイラク)
遂 (つい)に・・・副詞
↓↑
「追孝する・追考する・追行する」の
未然形である
「追孝さ・追考さ・追行さ」に
受身・尊敬・ 自発・可能の
助動詞「れる」が付いた形
終止形の
ツイコウ
追孝する=死んだ親や祖先などの供養をし
孝養を尽くすこと。菩提をとむらうこと
↓↑
遂行機能障害(スイカウキノウシヤウガイ)
実行機能障害
高次脳機能障害の一
事故や疾病で脳に損傷を受けて起こる
計画を立て
状況を把握して柔軟に対応し
目標を達成する
といった行動ができなくなり
自発的に物事を始めることができない
物事の優先順位が付けられない
いきあたりばったりの行動をする
などの状態・・・
↓↑
高次脳機能障害
失語症・記憶障害・注意障害
失認症(半側空間無視・身体失認)
失行症
地誌的障害・遂行機能障害
行動と情緒の障害
話す・考える・覚える・判断する・予測する
などの障害
↓↑
追考する=あとから以前の物事について
考えること
追行する=続いてあとから行うこと
あとからついて行くこと
↓↑
堆紅(ツイコウ)
朱の漆(うるし)で彫漆すること
彫漆の一
下地の上に
朱漆を塗り重ねてゆく途中に
黒漆の層を何度か入れる
それに彫り目をつけて
断面の朱漆の中に
何本かの黒い筋が見えるようにしたもの
下地を錆または木彫で作っておき
その上に
朱漆を塗って
堆朱にみせかけたもの
↓↑
椎孔(ツイコウ)
椎骨の前方部分と後方部分の間に
存在する孔(あな)
椎骨の椎体と椎弓に囲まれた穴
脊柱管を形成し、中を脊髄が通る
ーーーーー
↓↑
稽古(ケイコ)=広く芸道に共通して使われる
練習を指す言葉
大相撲における稽古
申し合い
三番稽古
ぶつかり稽古
見取稽古
山稽古
演劇における稽古
読み合わせ・半立ち
稽古=古(いにしえ)を稽(かんが)えるの意
芸能・武術・技術などを習うこと・練習
リハーサル
昔の書を読んで物の道理や
故実を学ぶこと
学問
稽古浄瑠璃(ケイコジョウルリ)
浄瑠璃を稽古すること
素人が修業中に語る未熟な浄瑠璃
↓↑
稽古には、基本となる型、規範、手本があり、それに近づくための努力、研鑚、という意味があります。練習は規範となるものがあってもなくても自らの技能を高めるためにすることという意味
↓↑
英語だと
lesson(稽古)
practice(練習)
↓↑
「当然」の当て字「当前」を訓読みした語
だれが考えてもそうであるべきだと思うこと
当然なこと
普通と変わっていないこと(さま)
世間なみ
なみ
江戸期に
「当然」を「当前」と書き誤り
さらにそれを訓読した
↓↑
当たり前にやる
決まり事(ルール)や手順(方法)を
間違い無く守って目的を果たす
↓↑
・・・???・・・
ーーーーー
美空ひばり
1937年(昭和十二年)5月29日
~
1989年(平成元年)6月24日
丁丑(癸・辛・己)⇔己巳(戊・庚・丙)
乙巳(戊・庚・丙)⇔庚午(丙・ ・丁)
丙辰(乙・癸・戊)⇔乙卯(甲・ ・乙)
子丑=空亡 大運 癸丑(癸・辛・己)
28⇔乙卯?
・・・島津亜矢さんの「川の流れ…」・・・巧い・・・
ーーーーー
虚舟(うつろぶね)
1803年(享和3年)常陸国
1796年(寛政8年)加賀国見屋のこし
1681年(元禄12年)尾張国熱田沖
越後国今町、正徳年間伊予国日振島
1883年(明治16年)神戸沖
などの記録がある
↓↑
舎利浜・・・「うつろ舟奇談」
地名は「常陸原舎り濱」
(現在の神栖市波崎舎利浜)
「常陸原舎り濱」
(現在の神栖市波崎舎利浜)
↓↑
舎利浜
ジャリハマ(jarihama)
俳諧書
江戸中期
作者
田河移竹(移竹)・・・移す築?
ーーーーー
・・・???・・・
血圧と血糖値・結-鴉(蛙)通⇔「阿都・阿津」・「阿毎王朝」
2541日目・・・「巌流島の決闘」・・・武蔵は櫂(かい)を削った2尺5寸と1尺8寸の木刀2本、二刀流&物干竿(三尺の白刃・備前長船長光)の「燕返し」・・・「宮本武蔵=二刀を用いる二天一流兵法の開祖」、「佐々木 小次郎=号は岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)」、山口県の「岩国市の吉香公園」や、福井県の「一乗滝」には小次郎の銅像、山口県「阿武」町大字福田には小次郎のものと伝承される墓」・・・小次郎は周防国岩国(現山口県岩国市)の出身、決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で佐々木小次郎が60歳・・・
巖流島(がんりゅうじま)は、山口県下関市にある関門海峡に浮かぶ島(無人島)。正式な島の名前は船島(ふなしま)であり、住所は「下関市大字彦島字船島」・・・「隣に岩礁があり、難所として恐れられていた。豊臣秀吉も名護屋から大坂への帰路の途中でここで乗船が座礁転覆し毛利水軍によって助けられた・・・このとき船と運命を共にした船長の明石与次兵衛の名」を取り、江戸時代には「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれていた・・・「明石の与次兵衛」・・・」?
巖流島は「小倉藩(細川藩)」・・・
武蔵は細川忠利に仕えて京から小倉に赴く途中で「佐々木岩流」から挑戦を受け、舟島での決闘を約した・・・
武蔵と小次郎が決闘を行った日時は、『二天記』(安永五年(1776年))によると慶長十七年四月十三日(グレゴリオ暦、1612年5月13日)に行なわれた・・・といわれる・・・?
武蔵が再び小倉の地を踏むのは
巌流島の決闘から
22年後、50歳になってから
その2年前に
明石10万石の
小笠原忠真(おがさわらただざね)が
小倉15万石を得て小倉城に入り
そのとき小倉藩の家老になっていたのが
武蔵の養子・伊織・・・
宮本伊織は
寛永元年(1624)
武蔵の養子となり
2年後に
明石藩の小笠原忠真の近習になった
その後、家老へと出世・・・
宮本武蔵は
寛永十七年(1640)
細川忠利
に招かれて
熊本藩に移り
5年後、その地で死没・・・
豊前
小倉藩の
第二代藩主
後に
肥後-熊本藩の初代藩主
細川忠利
生誕 天正十四年十一月十一日(1586年12月21日)・・・十一ヒ?
死没 寛永十八年三月十七日(1641年4月26日)
丙戌(辛・丁・戊)⇔辛巳(戊・庚・丙)
庚子(壬・ ・癸)⇔壬辰(乙・癸・戊)
壬寅(己・丙・甲)⇔壬辰(乙・癸・戊)
辰巳=空亡
↓↑
肥後・熊本藩の初代藩主
細川忠利
ーーーーー
↓↑
熊本藩
1600年~1871年
まで存在し
52万石
1871年
肥後国(熊本県)の
球磨郡・天草郡
を除く地域と
豊後国(大分県)の
一部(鶴崎・佐賀関等)を知行
肥後藩(ヒゴハン)とも
藩庁は
熊本城(熊本市)
↓↑
肥後隈本(熊本)領を
占拠していた
各戦国大名は
菊池氏、阿蘇氏、相良氏
北部、中部、南部と各々に拠点
菊池氏は阿蘇氏に支配され
後、
阿蘇氏は身内の後継争い・内紛
豊後国の
大友氏によって
旧菊池領は平定され
阿蘇氏もその支配下に入った
↓↑
鹿児島・島津氏
鉄砲伝来後
相良氏は島津軍に降伏
阿蘇氏も島津軍に次々と城を落とされ滅亡
九州平定の寸前の島津軍は
大分・大友の要請により
挙兵した
豊臣秀吉の大軍に敗れ
肥後を放棄(秀吉の九州平定)
↓↑
戦国期
佐々成政の統治
豊臣秀吉より
富山城主であった
佐々成政に
肥後の統治を命じたが
佐々成政に反感し肥後国人一揆
秀吉は
加藤・小西に鎮圧を命じ一揆は収束
佐々成政は自害
↓↑
加藤・小西は
肥後を平定し
肥後の所領を与えられ
加藤は北部
小西は中南部
を所領
↓↑
慶長五年(1600年)
肥後南部24万石を領していた
宇土城主
小西行長は
西軍につき、
関ヶ原の戦いで
西軍の敗将となり
斬首、改易
↓↑
加藤清正
肥後北部25万石を領有し
熊本(隈本)城主の
加藤清正が
関ヶ原の戦いの戦功で
行長の旧領を獲得
豊後国内にも
鶴崎など
2万石を加増され
52万石を領した
↓↑
清正は
熊本城を築き
城下町や道路網を整備
新田開発、灌漑用水の整備
統治を安定させた
↓↑
朝鮮出兵で
動員・徴税体制
関ヶ原の戦い後の
天下普請などで
農村の疲弊
重臣達の権力争いを招いた・・・
加藤家2代
加藤忠広は・・・加藤清正の三男
慶長十六年(1611年)
父の清正が死去し
十一歳で跡を継いだ
寛永九年(1632年)
駿河大納言事件・・・徳川忠長
極位極官が従二位大納言
領地が駿河国で通称は
駿河大納言・徳川家康の孫
藩、甲斐甲府藩主→駿河駿府藩主
父は第二代将軍-徳川秀忠の三男
母は江(浅井長政の三女)
に連座し?
改易、
出羽国庄内に配流
加藤家断絶・・・
↓↑
細川氏
寛永九年(1632年)
豊前国小倉藩より
細川忠利
が54万石で入部
以後、
廃藩置県まで細川家が藩主
手永(てなが)という
独自の地方行政制度を敷いた・・・
細川氏が豊前、肥後で設けた地方行政単位
郡の下に30村程度を束ねる
責任者として惣庄屋を置いた
↓↑
細川家の
上卿三家
世襲家老
松井氏(歴代八代城代、実質上の八代支藩主)
米田氏(細川別姓である長岡姓も許されていた)
有吉氏
細川藤孝時代からの重臣で
一門家臣として
細川忠隆の
内膳家と
細川興孝の
刑部家
支藩として
宇土支藩
肥後新田支藩(高瀬藩)
↓↑
細川忠利は
晩年の宮本武蔵を迎え
島原の乱で活躍
忠利死去の2年後
寛永二十年(1643年)
忠利への殉死をめぐり
森鴎外の小説の
「阿部一族」の反乱が起きた
二代
細川光尚は
七歳の
綱利を残して早死
御家断絶の危機があったが
三代綱利が家督を継ぐ
綱利は
赤穂浪士
大石良雄らの切腹を任された
↓↑
五代宗孝は
延享四年(1747年)
江戸城中で人違い
(九曜家紋間違い)により
旗本
板倉勝該に斬られて死去・・・板倉修理勝該=旗本寄合席六千石
弟の
細川重賢が急遽藩主の座に就き
細川家の
九曜紋を
「細川九曜⇔離れ九曜」
に変えた
↓↑
重賢は
宝暦五年(1755年)
藩校
時習館を開館・・・時を習う館(やかた・カン)
行政と司法を分離し
刑法を改正
藩の機構を整備
↓↑
熊本藩では百姓一揆が無く
(島原の乱の
天草は
唐津藩領)
農民は豊かで領地の統治は良かったが
藩財政は火の車
江戸大坂の大商人からの
多額の借金は何度も踏み倒し
大商人達からは
貧乏細川と嫌われた・・・
↓↑
幕末の藩論
勤王党、時習館党、実学党
の3派に分かれた
実学党の中心は
横井小楠・・・横井小楠=横井時存(ときひろ・ときあり)とも
文化六年八月十三日(1809年9月22日)
~
明治二年一月五日(1869年2月15日)
己巳(戊・庚・丙)⇔己巳(戊・庚・丙)
癸酉(庚・ ・辛)⇔丙寅(己・丙・甲)
辛丑(癸・辛・己)⇔丁丑(癸・辛・己)
辰巳=空亡
彼は『国是三論』を著し
藩政改革に携わったが失脚
安政五年(1858年)
福井藩主
松平慶永(春嶽)の誘いにより
政治顧問として福井藩に移った
文久二年(1862年)
江戸留守居役らと酒宴中に
刺客に襲われ
一人逃亡したという罪で
翌年、熊本藩士の籍を剥奪
↓↑
勤王党の中心人物
宮部鼎蔵も
元治元年(1864年)
池田屋事件で死亡
これにより
時習館党が主流となった
↓↑
横井小楠は
戊辰戦争
薩長主導の
明治新政府に加わり
江戸無血開城後
上野の
寛永寺に立てこもった
彰義隊の討伐に参戦
明治二年(1869年)1月5日午後
参内の帰途
十津川郷士ら6人組に襲撃され暗殺
↓↑
明治三年(1870年)
知藩事
華族に列した
細川護久は
実学党を藩政の中心に据え
明治四年(1871年)
廃藩置県により熊本県
明治十七年(1884年)
細川家は侯爵に叙爵
昭和五十八年(1983年)
細川家
第十八代当主
細川護煕(第79代内閣総理大臣)
が熊本県知事に就任
↓↑ ↓↑
歴代藩主
加藤家
外様 52万石 (1588年~1632年)
加藤清正
加藤忠広
↓↑
細川家
外様 54万石 (1632年~1871年)
細川忠利~
↓↑
支藩
宇土藩(うとはん)
熊本藩の支藩
藩庁は宇土(宇土市)
正保三年(1646年)
熊本藩二代藩主
細川光尚の
従兄弟
行孝(初代忠利の弟・立孝の子)が
宇土郡・下益城郡に
三万石を分与
新小路町と称される
「本町筋南側」の一角に陣屋(御屋敷)を構えた
六代
立礼と
八代
立政は熊本藩主として迎えられた
↓↑
十一代
225年在封
明治三年(1870年)
熊本藩に合併し廃藩
↓↑
江戸藩邸
永田町に上屋敷
愛宕の下と
神保こうしに中屋敷
白銀猿町に下屋敷
大阪中ノ島
常安町に
大阪藩邸
↓↑
歴代藩主
細川家
外様 3万石(1646年~1870年)
↓↑
肥後
新田藩、後の高瀬藩
熊本藩の支藩
寛文六年(1666年)
熊本藩三代藩主
細川綱利の弟
細川利重が
熊本藩の蔵米より
3万5千石を分与され立藩
江戸鉄砲洲に住み
参勤交代を行わない
定府大名
明治維新により
慶応四年(1868年)
仮藩庁を
高瀬町奉行所(玉名市)に置き
高瀬藩と改称
明治三年(1870年)
玉名郡岩崎村(玉名市)
の陣屋に移ったが
熊本藩に合併し廃藩
↓↑
細川家
外様 3万5千石(1666年~1870年)
↓↑
天平十二年(740年)頃の
『豊後国風土記』
豊後国の8つの郡のひとつとして
海部郡が記録・・・海部(あま)⇔阿毎⇔阿武・・・則天武后
⇔阿部・阿倍・安倍・安部・安陪
海人=あま=白水郎
海部郡の条には
「この郡の百姓は、みな海辺の
白水郎(あま)なり。よりて海部の郡という」
と記録
海部郡の名は
海人=あま=白水郎
が多く住んでいたことに因る・・・
承平年間(931年~938年)の
『和名類聚抄』に
海部郡に
佐加(さか)、穂門(ほと)、佐井(さい)、丹生(にう)、
日田、在田、夜開、曰理、叉連、石井
の10郷があったと記録
実際には
佐加、穂門、佐井、丹生の4郷が
海部郡に属し
他は
日田郡に属していた・・・
佐加、佐井は
現在の大分市の東部に
丹生郷は
大分市東部から臼杵市にかけての地域
穂門郷は
臼杵市、津久見市から佐伯市に及んだ・・・
↓↑
江戸時代
臼杵藩・佐伯藩が藩庁
熊本藩が領地を有していた
旧佐伯藩領の一部が
天領(幕府領)
↓↑
海部郡
幕末から明治初年当時の
実際の村割と取調帳の記載との間に差異・・・
明治八年(1875年)の村落統合を経
明治十一年(1878年)の
海部郡分割時に存在した村名とも
一部でずれ
幕府領は佐伯藩が預地として管轄(1町260村54浦2島)
後の南海部郡域(102村50浦1島) - 幕府領、豊後佐伯藩
後の北海部郡域(1町158村4浦1島) - 幕府領、豊後臼杵藩
豊後佐伯藩、肥後熊本藩
明治三年十二月二十四日(1871年2月13日)
佐伯藩預地が
日田県の管轄
明治四年七月十四日(1871年8月29日)
廃藩置県により
藩領が
臼杵県、佐伯県、熊本県の管轄
十一月十四日(1871年12月25日)
第1次府県統合により、全域が
大分県の管轄
明治十一年(1878年)十一月一日・・・?
郡区町村編制法の
大分県での施行で
臼杵町ほか1町77村4浦1島の区域に
北海部郡が
佐伯村ほか46村36浦1島の区域に
南海部郡が
行政区画として発足
同日
↓↑
海部郡は廃止・・・?
↓↑
海部郡のうち - 22か村(39村)
↓↑
括弧内は『旧高旧領取調帳』の数字
↓↑
明治維新後
根室国
標津郡
目梨郡
を管轄したが
後に仙台藩に移管
↓↑
ーーーーー
血圧と血糖値・・・結-鴉(蛙)通⇔「阿都・阿津」
・・・「阿毎王朝」
甘いモノ・・・?
血糖値=ケットウチ
=「決闘・結党・血統」地・・・?
阿毎王朝=隈本・隈元・熊本
細川藩?
↓↑
糖(トウ)=米+唐=米+广+肀(𦘒)+口
米+广+彐+I+口
尹・・・㚑=灵=霊
トウ(タウ)・あめ
杵と臼で
米を水でつき固めてできる
「あめ」を意味
唐=广+肀+口
から・もろこし
中国王朝名・「唐音・唐書・唐人・毛唐」
にわかに・出しぬけに
「唐突」
荒唐無稽・ほら
糖=あめ=飴=米や芋などの
で澱粉(デンプン)・・・伝聞・電文
含有材料が水で分解され
糖類となった
粘り気のある甘い食品
㚑=彐+大=霊=レイ=灵
=リョウ・たま・たましい・よい
死者のたましい
神秘な力・不思議な力
みこ・かんなぎ・よい
かしこい・すぐれている
↓↑
多価アルコールの最初の酸化生成物
アルデヒド基 (-CHO)
または
ケトン基 (>C=O) をひとつ持つ
アルデヒド基を持つ糖をアルドース(Aldose)
ケトン基を持つ糖をケトース(Ketose)と分類
糖類(sugars)
↓↑
単糖2分子が
グリコシド結合により
1分子となったものを二糖といい
単糖3分子が結合したものを三糖
同様に4分子のものを四糖という
単糖2分子
20分子程度が結合したものを
オリゴ糖という
多数の単糖が
グリコシド結合により
重合したものを多糖
↓↑
糖蜜
糖蜜(トウミツ)
糖分を含んだ液体
シロップ(syrup)
砂糖を原料から精製する時に現れる副産物
モラセス(molasses )
↓↑
廃糖蜜
すべてを含めて「糖蜜」と総称される
精糖や料理で一次的に用いるものを糖蜜
食品工業で二次的に用いるものを廃糖蜜
↓↑
精糖
サトウキビなどの原料糖から
不純物を取り除いた液体(糖液)
液体を結晶させて
氷砂糖や上白糖などを作る時に用いる
なお主に
氷砂糖を作るときに用いられる
糖度の高いものは
「氷糖みつ」と記されている
↓↑
廃糖蜜
砂糖を精製する時に発生する
糖分以外の成分も含んだ粘状で
黒褐色の液体であり
英語では
モラセス・・・漏らせ素?・・・甘い=阿毎?
または
モラッセス(Molasses [məˈlæsɨz])
廃糖蜜
精糖の副産物
テンサイから出る廃糖蜜は・・・甜菜=テンサイ=転載・天災・天才
全体量から見ても少なく
糖分はほぼ取り尽くされ
特有の臭いなどがある
精糖を繰り返して限界まで
糖分を精製した時
精製糖廃糖蜜ともいい
糖蜜から
三温糖を製造した後のもの
糖分を結晶させられなかった残りで
精糖時の焦げて生じた
灰分(カラメル)などで黒褐色
大量の廃糖蜜は
工業原料として地元で消費されたり
輸出されることが多い
↓↑
あめ・さとう(砂糖)・糖衣・精糖
水にとけ
甘味のある炭水化物
糖分・乳糖
果糖(カトウ)
血糖(ケットウ)
黒糖(コクトウ)
蔗糖(ショトウ)
精糖(セイトウ)
製糖(セイトウ)
↓↑
砂糖黍・・・沖縄・琉球・・・那覇・・・?
おきなわ・リュウキュウ・ナハ
チュウジョウ
ーーーーー
墜=隊+土
=阝+㒸+土
=阝+丷+豕 +十+一
おちる・おとす・ツイ
落下する・上から下に落ちる
うしなう・なくす・おとろえる
墜落・撃墜・失墜
顚墜(テンツイ)
墜死(ツイシ)
堕地獄
だめになる
通仮字は「隧」
異体字、坠・𨼾・䃍・礈・𨺵・隊・𨽎・𡑖
簡体字、坠.
声符、隊・䥙・𩐌
顚落
顚=顛=頭のてっぺん・山や物の上のはし
物の先端・また、はじめ。「顚末」
たおれる・たおす・さかさまになる
頭のてっぺんを地につける
顚蹶(テンケツ)
つまずき倒れること
失敗すること
顚墜・ころげ落ちること
顚落
顚倒
顚=顛
=いただき・たおれる・くつがえる
テン
頭のてっぺん
山や物の上のはし
物の先端・はじめ
顚末
↓↑
顚(たお)れる
さかさまになる・ひっくり返る
転ぶ。
顚越不恭(テンエツフキョウ)
道を外れて、君主の命令を軽んずること
「顚越」は転がり落ちる
転じて道から外れていること
「不恭」はうやうやしくないさま
顚蹶(テンケツ)
つまずき倒れる・失敗する
顚墜(テンツイ)
ころげ落ちること・顚落
顚倒(テントウ)
ひっくりかえる(かえす)こと
さかさまになる(する)こと
「本末顚倒」
びっくりしてうろたえること
「気が顚倒」
「転倒」と書き換えられる
顚動(テンドウ)
驚いて平静さをなくすこと
度を失うこと
動顚
顚沛(テンパイ)
つまずき倒れること
わずかな時間・とっさの場合・つかの間
「造次顚沛」
顚沛流浪(テンパイルロウ)
つまずき倒れながらさまよい歩くこと
「顚沛」はつまずいて倒れること
「顚沛流離」
「流離」は故郷を遠く離れて
他の土地をさまよい歩くこと
顚覆(テンプク)
車両・船舶などがひっくり返ること
ひっくり返すこと
政府などの大きな組織体が
倒れ滅びること・倒し滅ぼすこと
顚撲不破(テンボクフハ)
動かし破ることが出来ないこと
学説などにいう
天下の断案
覆しても打っても破れないほど強い意
顚末(テンマツ)
物事の始めから終わりまでの事情
一部始終・いきさつ・始末
「首尾・経緯」
冠履顚倒(カンリテントウ)
上下の順序が逆になっていること
「冠履」は「かんむり」と「くつ」
「冠履倒易」「冠履倒置」
怪顚(ケデン)
非常にびっくりすること・驚くこと
山顚(サンテン)
山のいただき・山頂・「山巓」とも
造次顚沛(ゾウジテンパイ)
つまずき倒れるわずかの間
非常に短い時間・とっさの場合・瞬間
「造次」は急にあわただしくなるさま
「顚沛」はつまずきひっくり返って
うろたえるさま
とっさの場合や危険なときのこと
動顚(ドウテン)
ひどく驚いて平静さを失うこと
度を失うこと
「動転」と書き換えられる
廃忘怪顚(ハイモウケデン)
うろたえること
狼狽、当惑してあわてふためくこと
↓↑
「眞(真)=まこと・ま・シン」
「眞=「化=死者」+「県」
(縣=首を逆さにした形)
=顚死者(行き倒れの死体)
「眞」は「化=死者」と
「県(縣=首を逆さにした形)」から成り 顚死者(行き倒れの死体)
ーーーーー
・・・???・・・
多品治(おお の ほんじ)⇔直広壱の冠位⇔於補の本字?
・・・「五稜郭」・・・ポルトガルの五稜郭=エルヴァスの要塞・・・「エルヴァスは、グアディアナ川から約8km離れた丘の上にある町。 エルヴァスは、7つの稜堡とサンタ・ルジーアとノサ・セニョーラ・ダ・グラーサと名づけられた要塞に守られている」・・・門は三箇所・・・住人、1万5千人・・・水の確保はアモレイラ水道橋・・・アフリカから伝わったという楽器、ロンカ(つぼ型楽器・いびき音 (rhonchi))の製造と演奏・・・サンタ・ルジア要塞・・・サン・マメデ、グラーサ要塞・・・星型要塞・・・五稜要塞に接近し「☆の外堀VのVVVVV間」に侵入した敵軍を銃撃し挟み撃ち・・・ナポレオン軍を撃退・・・
ーーーーー
エルヴァス
ローマ時代に
Alpesa
or
Helvas
ムーア人時代は
Balesh
スペイン統治時代は
Yelves
アルフォンソ8世が
1166年
カスティーリャ王国の領土とした
カスティーリャ
と
ポルトガル
の間で
エルヴァスをめぐり衝突
1226年
ポルトガル領土
1570年
監督教会派の司教座
スペインvsポルトガル
領土争い
1658年と1711年
スペイン領土
ナポレオン支配の
スペイン独立戦争(1808年)で
ジャン=アンドシュ・ジュノー
に攻撃された
ーーーーー
五光星・五稜星・五角星
交差する長さの等しい5本の線分で構成
中心に五角形が現れる図形
五芒星
ペンタグラム・五線星・星型五角形
星型正五角形
西洋式城郭の
函館の五稜郭と
長野県
龍岡五稜郭=桔梗城
ペンタグラム(pentagram)
五芒星=星型正多角形の一
正5/2角形
正五角形に内接
対称的で一筆書きが可能
キキョウ(桔梗・Platycodon grandiflorus)
多年生草本植物
万葉集で秋の七草
絶滅危惧種
↓↑
未確認飛行物体・・・確認しても「未確認」?・・・
(unidentified flying object、UFO)
↓↑
多治見=多治見風土記の・・・「字見・多事見・多時見・他字見」?
天火明命
(あめのほあかりのみこと)の
十一世の子孫が
移り住み「タジヒ部」を名乗った
タジヒ=マムシの古称・・・?
蛙目粘土(がいろめねんど)・・・蛙(ア)=がいろ?
木節粘土(きぶしねんど)
を産出する、陶磁器(美濃焼)の産地
↓↑
「多治部を諸国に定め、
皇子の「湯沐邑」と為す
(平安時代の新撰姓氏録)」
「多治部」は
天皇の養育に当たる
古代の部曲の一つ
「蝮部(たぢひべ)」
「湯沐邑」
とは皇族に与えられた領地
↓↑
「虎杖(イタドリ)」
↓↑ ・・・タデ科の多年草
高さ約1.5メートル・葉は卵状楕円形
晩夏、白色の小花多数を穂状につける
春出る若芽は酸味があって食用
花が紅色は明月草
根は漢方の
緩下・利尿・通経剤
表皮から糸状のものを採るので
「いとどり(糸取)」と呼ばれ、
「いたどり(板取」になった・・・
「虎杖(コジョウ)」は漢名
「杖」は茎で、
「虎」は若い芽の紅紫色の斑点が
↓↑ 虎の斑(まだら)模様の皮に似ている
を指す
「多遅(タヂ、タヂヒ)」とする説・・・
県内に
旧「板取(村)」の地名も・・・
「多治見」という地名
南北朝時代頃
それ以前は
「只見」と書いて
「たじみ」と読んだ・・・
「太平記」に登場する
「多治見国長」が有名
後醍醐天皇に参画しようと
事が発覚
幕府側に京都で急襲され、自害
「正中の変」
日本一の盃の産地=市之倉
忠臣蔵で赤垣源蔵が使っていた
源蔵徳利
高田徳利の産地の高田・・・高田の馬場・新宿?
函館(箱館)
↓↑
五稜郭
江戸幕府により
蝦夷地の
箱館(函館市)郊外に建造された
稜堡式の城郭
同時期に築城された
長野県
佐久市の
龍岡城(桔梗城)も
稜堡式城郭で
「五稜郭」と呼ばれた
↓↑
名称は築造中は
亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)
亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)
元は湿地で
ネコヤナギ(猫柳)が多く生えていた土地で
柳野城(やなぎのじょう)
の別名
五稜郭
箱館開港時に
函館山の麓に置かれた
箱館奉行所の移転先として築造
1866年(慶応二年)完成
2年後に幕府が崩壊
箱館府が使用した後
箱館戦争で旧幕府軍に占領された
↓↑
明治
郭内の建物は1棟を除いて解体
陸軍の練兵場として使用
1914年(大正三年)から
五稜郭公園として一般開放
↓↑
1854年(安政元年)三月
日米和親条約の締結
箱館開港が決定
箱館周辺を上知
同年六月
箱館奉行を再置
箱館奉行所は
前幕領時代(1802年~1807年)と
同じ基坂
(松前藩の箱館奉行詰役所)に置かれた
初代奉行の
竹内保徳・・・最初の遣欧使節正使・通称,清太郎
下野守・父富蔵の跡を継いで勘定方吟味役に出仕
安政元年(1854年)、箱館奉行就任
文久元年(1861年)、勘定奉行兼外国奉行
同年12月に遣欧使節(文久遣欧使節)
30余名を伴い横浜から出港しイギリスへ
・・・竹内宿禰・・・?
は
松前藩の建物を増改築
続いて奉行に任命された
堀利煕(としひろ)・・・通称は織部、織部正、省之助
↓↑ 字は欽文、士績虎
号は有梅、梅花山人・初名は利忠
箱館・外国奉行兼務の
堀利煕は日普修好通商条約
(プロイセン・ドイツ)
締結直前の1861年1月24日に切腹
日本年号
萬延元年(1860)十一月六日
老中の
↓↑ 安藤信正に疑いをかけられ憤死
↓↑ 1818~1860(自刃・享年43 )
は
外国人の遊歩区域内の
箱館山に登れば
奉行所を見下ろすことができ
防御に適さず
亀田方面への移転が必要と上申
竹内と
堀は江戸に戻ると
箱館湾内からの
艦砲射撃の射程外に位置する
鍛冶村中道に
「御役所四方土塁」を築いて
奉行所移転の意見書を
老中
阿部正弘
に出し受理され
五稜郭の建設が決定
↓↑
1855年(安政二年)七月
フランスの
軍艦
コンスタンティーヌ号が
箱館に入港
箱館奉行所で
器械製造と
弾薬製造の
御用取扱を務めていた
武田斐三郎が
同艦の副艦長から指導を受け
大砲設計図や
稜堡の絵図面を写し取った
武田は
この絵図面を基に
五稜郭と
弁天台場の設計を行い
五稜郭と
弁天・築島・沖の口台場の築造からなる
総工費41万両の予算書が作成
蝦夷地警備を命じられた
松前藩(戸切地陣屋)
津軽藩(津軽陣屋)
南部藩(南部陣屋)
仙台藩(白老陣屋)
の各陣屋が既に完成していたことから
五稜郭や
台場の工事が遅れると
箱館市民や外国人に対して
幕府の権威を失うことになるので
弁天台場と五稜郭の築造を急いだ
↓↑
1856年(安政三年)十一月
組頭・河津祐邦
調役並・鈴木孫四郎
下役元締・山口顕之進
諸術教授役・武田斐三郎
らを
台場並亀田役所土塁普請掛に任命
1857年(安政四年)七月
五稜郭の築造を開始
1856年(安政五年)から
郭外北側に役宅を建設
1861年(文久元年)
奉行所庁舎建設を開始
施工は
土木工事を松川弁之助
石垣工事を井上喜三郎
奉行所の建築を江戸在住の
小普請方鍛冶方石方請負人
中川伝蔵が請け負った
地盤が脆弱で
冬季の凍結・融解により
掘割の壁面が崩落し
急遽石垣工事を先行させた
1864年(元治元年)に竣工
6月15日
箱館奉行
小出秀実が
奉行所を五稜郭内に移転
1866年(慶応二年)
工事完了
↓↑
大政奉還後
新政府により箱館府が設置
1868年(慶応四年)十月二十一日
榎本武揚率いる旧幕府軍が
鷲ノ木(森町)に上陸
箱館府は各地で敗北
十月二十五日
清水谷知事が箱館から青森へ逃走
十月二十六日
松岡四郎次郎隊が
五稜郭を占領
五月十一日
新政府軍による箱館総攻撃の際
五稜郭の
大砲で
七重浜
箱館港方面に砲撃
新政府軍が箱館市街を制圧
翌十二日以降
甲鉄が
箱館港内から
五稜郭に向けて
艦砲射撃
五月十八日
榎本らが降伏
五稜郭は新政府軍に引き渡された
ーーーーー
以上も以下も「Wikipedia」、「諸検索ブログ」などを参照、参考にして少々改作添付・・・「・・・?」のヶ所はボクの脳ミソ反応記・・・
↓↑の
彐=彑・ヨ・彐・⺕
夛=⺕+タ=多
↓↑
多氏(おほシ・おほうじ)
「多(おお・おほ・タ)」を氏名とする氏族
日本最古の皇別氏族・・・
「太(おほ・ふとい・タイ)」=「一人丶」
「大(おほ・おおきい・ダイ)」=「一人」
「意富(おほ・イとみ・イフ)」=「立日心宀𠮛(𠫔)田(口十)」
「飯富(おほ・いひとみ・イフ)」=「飠厂又宀𠮛(𠫔)田(口十)」
「於保(おほ・オホ)」=「方𠆢冫イ口十八」
↓↑
九州と畿内に系譜を伝える
皇別氏族の古族
神武天皇の子の
神八井耳命の後裔
シンハチセイジメイ・・・?
新 葉知政 治名?
↓↑
多 品治(おお の ほんじ)・・・タヒンジ=他斌(貧・賓)字?
多 之 本 字?
・・・翻字・誉字・褒事?
↓↑
誉津別命=垂仁(活目)天皇の皇子
本牟都和気命=本牟智和気命
品津別皇子
↓↑
誉田別尊(応神天皇・胎中天皇)
誉田別命
大鞆和気命
(おおともわけのみこと)
品太天皇
凡牟都和希王
?~持統天皇十年 (696年)八月?
旧仮名遣いで
「おほの-ほむぢ(多-品治)」・・・多くの本あそん字?
姓は
始め臣(おみ・シン)
臣姓
蘇我氏、巨勢氏(巨瀬・許勢)、紀氏
平群氏、葛城氏、波多氏
阿部氏、穂積氏
等がある
臣の姓はもとは皇室に従属
ヤマト王権を形成した
畿内周辺の豪族に与えられた
後に
朝臣(あそん・あそみ・チョウシン)
↓↑
朝臣=684年(天武天皇十三年)
八色の姓の制度
姓(カバネ)で、上から二番目
一番上の真人(まひと)
皇族に与えられた
皇族以外の臣下の中では
事実上一番上目の地位
古くは阿曽美、旦臣とも書いた・・・「阿蘇見・阿蘇観」?
↓↑
672年
壬申の乱で
大海人皇子(天武天皇)について戦い
莿萩野(たらの)を守った
↓↑ 三重県-卽急行到-伊賀郡、焚伊賀驛家。
逮于-伊賀中山、而當国郡司等率數百衆歸焉。
會明至-莿萩野、暫停駕而進食)
莿=艹+刺
莿=とげ・シ・セキ・シャク
thorn
萩=艹+秋=Lespedeza
はぎ・シュウ・シュ
秋の七草のひとつ
花期は7月から10月
蘒・骹・骭・蘒・萩
「萩(はぎ)」≠「荻(おぎ)」
よもぎの一種
川岸の砂地や荒れ地に自生
かわらにんじん(川原人参)
はぎ・初秋に
紫紅色または白色の花をつける
荻=艹+狄
おぎ・テキ
↓↑ 異体字は蔐・𧁱・藡
倉歴(くらふ・ソウレキ)の戦い・・・蒼頡(ソウケツ・倉頡)の暦
・・・操 歴(暦)・・・双極性障害(躁鬱病)
槽 櫪=かいばおけ・馬小屋・厩戸・厩舎⇔鳩舎
槽(ソウ)=かいばおけ=櫪(レキ)
蔵 礫?・・・蔵の瓦礫(瓦と小石
破壊された建造物の破片)
↓↑
厩戸皇子(うまやどのみこ・うまやどのおうじ)
聖徳太子(聖徳太子・聖徳王)
敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)
~
推古天皇30年2月22日(622年4月8日)
甲午(丙・ ・丁)⇔壬午(丙・ ・丁)
丙寅(己・丙・甲)⇔甲辰(乙・癸・戊)
庚申(己・壬・庚)⇔辛未(丁・乙・己)
子丑=空亡
↓↑
馬屋古女王(うまやこのひめみこ)は
↓↑
厩戸皇子(聖徳太子)
厩(厂既)=廏(广良殳)=廐(广`既)
(广白ヒ旡)・(广白ム旡)
馬を支配する役所
別当・預(あずかり)・舎人(とねり)などが勤めた職場
厩=「食器に盛った御馳走、手に木の杖を持つ」象形
馬小屋で馬を世話するさま
・・・厩=厂+良+旡
既⇔艮+旡
尢(オウ)=片足の曲がった人
尤(ユウ)=もっとも・すぐれる
とがめる・非難する
ただし・ことなる
すぐれている
とりわけ
尤異・尤物
良+旡=「丶+艮=白+ヒ」+旡⇔兂
旡=つくす・つきる・つまる
いきつまる・むせる
キ・ケ
兂=かんざし・シン
无=ない・ブ・ム
良の異体字は、𣌩(異体字)
・・・と
膳部菩岐々美郎女
(かしわで の ほききみのいらつめ)
ゼンブボキキビロウジョ
全 部模記吉備(機微)漏(廊・弄)所?
?~推古天皇三十年二月二十一日(622 年4月7日)
聖徳太子妃
「膳大娘(女)」
「高橋妃」などとも記録・・・高橋=膳部
↓↑
の第八子(第四王女)で
『上宮記』は
「馬屋古女王」を
「馬屋女王」と記録・・・
ーーーーー
「合言葉は金」・・・?・・・「かね・こがね・キン・キム」
近江(おうみ)朝廷軍(大友皇子)の将軍
田辺小隅(たなべのをすみ)が
倉歴道の守備兵に夜襲をかけたとき
「金(かね)」と問われたら
「金」と答えるという合言葉を決めた
↓↑
倉歴(くらふ)の戦い
美濃国に入った
大海人皇子は
7月2日
軍を二手に分け
一軍を伊勢国の大山越えで大和国へ
一軍を直接近江国に入らせることを命じた
多品治は
紀阿閉麻呂、三輪子首、置始菟
とともに大和に向かう軍を率いた
後
多品治は
3千の兵とともに
莿萩野(たらの)に駐屯
大和~伊賀-莿萩野~伊勢~美濃
田中足麻呂は
近江と伊賀を結ぶ
倉歴道(くらふ)を守る
↓↑
大友皇子側の
田辺小隅は
倉歴に夜襲
守備兵は敗走し
田中足麻呂は一人逃れ
田辺小隅の軍は
翌日
莿萩野を襲ったが
多品治が迎撃、追撃
田辺小隅は一人逃げた
↓↑
天武天皇十二年(683年)十二月十三日
多品治(小錦下)は
伊勢王
羽田八国(羽田矢国)
中臣大島
とともに
全国を巡り
諸国の境界を定めた
天武天皇十三年(684年)十一月一日
多臣など52氏に
朝臣の姓を授ける
天武天皇十四年(685年)九月十八日
天皇は皇族・臣下と
大安殿で博打
多品治は
天皇の
衣(イ)と袴(コ)・・・ころも&はかま(衣+太+丂)・・・丂=曲
意 故・・・?・・・イコジ=意固地・依怙地
袴=衣+夸(おごる・カ・コ)⇔誇張・誇大
はかま・ももひき・衣袴(イコ)・弊袴(ヘイコ)
を与えられた
十人の中の一人
持統天皇十年(696年)八月二十五日
多品治は
直広壱・・・天武天皇十四年(685年)一月
直広壱(じきコウイチ)の位
冠位二十六階を四十八階に改訂し
諸臣四十八階の・・・九位=直大壱・十位=直広壱
文武天皇四年十月の条
「直大壱-石上朝臣麻呂を筑紫総領に
直広参-小野朝臣毛野を大弐(次官)と為し
直広参-波多朝臣牟後閇を周防総領と為す」
「直広壱」は「総領」とも・・・
と物を与えられ
壬申の乱の功績を
褒められた
多品治を
太安万侶の父とする説・・・
(阿蘇家略系譜)・・・ナンで阿蘇家?
↓↑
推古天皇十一年(603年)
冠位十二階が制定
↓↑
大化三年(647年)
冠位十三階
大化四年(648年)施行
↓↑
大化五年(649年)施行
冠位十九階
↓↑
天智天皇三年(664年)
冠位二十六階
↓↑
天武天皇十四年(685年)一月
冠位四十八階
↓↑
多品治(おお の ほんじ)⇔直広壱の冠位
(持統天皇十年(696年)八月二十五日)
↓↑
多=夛(彐+タ)
おおい・たくさん・さわ
多彩・多様・雑多
ほめる・ありがたく思う
多謝
「多」の省略形が
片仮名の
「タ」になった・・・
夕(ユウ)=星が現れる時刻
多=タ+タ⇔星空の夜
↓↑
幾多(いくタ)・過多(カタ)・雑多(ザッタ)
煩多(ハンタ)・繁多(ハンタ)
↓↑
帚(はく・ソウ・掃除)
帚・菷・箒・薓・婦・帰・掃・歸
鯞・㫶・巋・㑴・㷌・蘬・㱕・濅
㝲・䢜・埽・㴆
↓↑
帚+α
止・丿・㠯・扌・女・竹・艹・土
山・又⇔手=彐=⺕・宀 氵・魚・田・灬・⺈
亻・冖・爿・罒・日・火・辶
↓↑
彗星の「彗=丰+丰+⺕」
𡴀(古字)・草木が茂る
異体字、豐(繁体字)
風貌=フウボウ=風丰
貌=ボウ=丰
彑・彐=⺕(ケイがしら・⺈⇔々⇔互)⇔鶏冠(とさか)
↓↑ 互=一L(T-)ユ⇔ユの上下反転逆字
彗星・・・慧=恵・・・智慧 (ちえ)
彗氾画塗(すいはんがと)
↓↑
「婦人」
「女・妻」等の熟語を構成
「ほうき(箒・菷・帚・彗)
を持って掃除をする女性」
を意味
↓↑
鶏冠=ニワトリなど
キジ科の一部の鳥の
頭上の肉質の冠状突起
鶏冠(ケイカン・とさか)
鶏冠=ニワトリなどの鳥の頭にある突起物
体温調節のための機能性を有す・・・
くちばしの肉垂れも同じ機能
ーーーーー
・・・???・・・
1717年7.4の地震 グアテマラ・マヤ神話『ポポル・ヴフ』・・・
・・・「コントラスト(contrast)」・・・金(今・欣)虎州都?・・・「コン-トラ(虎・寅・斗羅)-ス-ト」・・・
ーーーーー
コントラスト(contrast)
対照・対比・明暗比
写真・テレビ画像などで
明るい部分と暗い部分との明暗の差
並置されているものごとや
近縁のものごとと
著しく異なっていること
色・トーン・形などの差違
17世紀に
ファインアート(美術)の用語とし
「形や色の違いを際立たせるために
並置する」という意味の語
フランス語のcontraste(名詞)
contraster(動詞)
対比・対照・明暗の差や色彩の対比
↓↑
これらのフランス語は
中世ラテン語が(イタリア語経由で)
フランス語にもたらされた
ラテン語の
contra は「~に対して」
stare は「立てる・置く」という意味
↓↑
straiv (米国・英国)
ストライブ(日本)
strive=困難に対して長期間懸命に努力する
努力する・骨を折る
for strive=~のために努力する
達成しようと努力する、骨を折る
物事に反対する、対抗する
struggle
に類似するが
strive
のほうより自発的努力の意
Struggle
は何かの抑圧から抜け出すために
「もがく、あがく」という意味で
ーーーーー
ストライプ(stripe)
&
ボーダー
どちらも縞模様
ストライプは縦縞(縦に入った線)
ボーダーは横縞(横に入った線)
↓↑
ストライプ=縦縞、横縞のこと
横縞であるボーダーも
縞(しま)一般の
ストライプに含まれる
横縞は
クロス-ストライプ
ホリゾンタル-ストライプ
とも呼ばれる
ボーダー(border)
=周辺・縁(ふち)
袖口の
周りにあるラインや柄
横縞
↓↑
ボーダー(border)=境界・国境・州境・県境
境界地方、辺境
大文字の
「the Border」=境界地方
イングランドとスコットランド
との国境地帯
↓↑
ストライプ(stripe)=縞・縞模様・・・ス-トラ-イ-プ
洋服地の縞(しま)模様
2種以上の色糸を用いたり
異なる組織によって織ったものと
捺染(なっせん)によるものとがある
横縞と縦縞があり種類は多
ペンシル・ストライプは
鉛筆で線を引いたような細い縞
チョーク・ストライプより
さらに細く、シャープ
ヘアライン・ストライプ
(hairline stripe)
万筋(まとすじ)のことで
ぎっしりと間隔を詰めた細い縦縞
グループ・ストライプ
数本の細い縞がまとまって
太い縞となったもの
2本1組は
ダブル・ストライプ
という
綿織物に多い
ブロック・ストライプは
大柄な棒縞で
シャツ地や日よけ地に用いられる
チェック=格子縞
↓↑
縞模様(しまもよう)
2色以上の
異なる色
または
同色の濃淡を用いて
複数の
平行もしくは
交差する線で構成された文様の総称
縞柄、縞
特に交差する色柄は
格子と呼ばれ
縞模様は
平行の模様の縦縞や横縞と
交差する模様の格子縞に大別
英語
ストライプ(stripe・縦縞・横縞)
チェック(check・格子)
等と呼ぶ
ーーーーー
グアテマラシティの位置
座標
北緯14度37分22秒
西経90度31分53秒
↓↑
グアテマラの
活火山のフエゴ山が3日火山噴火
中米グアテマラで3日
62人が死亡
多数の負傷者
↓↑
グアテマラ共和国
北にメキシコ
北東にベリーズ
東にホンジュラス
南東にエルサルバドル
と国境
↓↑
マヤ文明
現在も国民の過半数は
マヤ系のインディヘナ
República de Guatemala
(スペイン語・レプブリカ・デ・グアテマラ)
通称・Guatemala
英語・Republic of Guatemala
(リパブリック・オブ・グワーテマーラ)
通称・Guatemala
↓↑
日本語の表記
グアテマラ共和国
通称・グアテマラ・グァテマラやガテマラ
マヤ神話の
『ポポル・ヴフ』と呼ばれる
キチェ族の創世神話が伝わっている
↓↑
1717年
マグニチュード7.4の地震
アンティグア・グアテマラに被害
1773年の地震
被害
1776年にスペイン国王の命により
首都はグアテマラシティへと移る
1786年
スペインからイギリスに
カリブ海側の領土が割譲
地域は「英領ホンジュラス」として統治され
現在は「ベリーズ」
↓↑
グアテマラ建国
1789年
フランス革命
ナポレオン戦争が勃発
1808年
本国スペインが
フランス皇帝ナポレオン1世によって侵攻
ナポレオンは
ボルボン朝の
フェルナンド7世を退位させ
兄の
ジョゼフ・ボナパルトを
スペイン王ホセ1世に据えた
スペイン独立戦争が勃発
インディアス植民地は
ホセ1世への忠誠を拒否
グアテマラ総監領は
1821年にスペインから独立を宣言
同年
アグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の
第一次メキシコ帝国に併合
↓↑
中央アメリカ連邦共和国
(1823年~1839年)
1823年
メキシコ帝国は崩壊
新たに結成された
中央アメリカ連合州
の一州となった
1827年~1838年
ラファエル・カレーラの
保守主義のグアテマラ派
と
フランシスコ・モラサンの
自由主義のエル・サルバドル派
の内戦
↓↑
カレーラが勝利
1839年
グアテマラは独立国
内戦に勝利、連邦派を駆逐
1856年
ウィリアム・ウォーカーとの
国民戦争の際には
グアテマラも中米連合軍に加わった
↓↑
1871年
自由党が内戦に勝利
1873年
フスト・ルフィーノ・バリオス
が大統領
1885年までバリオスの統治
1879年
憲法が制定
1893年
日本初のラテンアメリカ移民
↓↑
1898年
マヌエル・エストラーダ・カブレーラ
が大統領に就任
22年間の独裁政治
1920年に失脚
1931年
ホルヘ・ウビコ将軍が権力を握り
苛烈な統治
日本と
1935年
堀義貴初代駐グアテマラ日本公使が着任
外交関係が成立
↓↑
アメリカ中央情報局は
グアテマラ軍上層部の支援を得
1954年
PBSUCCESS作戦
政府転覆を実行
親米独裁政権が生まれた
長い動乱の時代
1960年からグアテマラ内戦
36年間にわたり
武装反乱軍(FAR)などのゲリラと
グアテマラ政府軍の戦闘が続いた
1980年代
軍部がほぼ実権を握り
農村部への焦土作戦
内戦状態は
1996年
平和条約の調印で終わった
ーーーーー
・・・???・・・
コシの筋肉・骨肉・・・分離?
・・・トマトとキュウリの苗を庭に植え、苗を支える棒を埋めていて・・・ヤってしまった・・・バッキッ!・・・腰の筋肉分離・・・
ーーーーー
2018/6/5
戊戌(辛・丁・戊)年
戊午(丙・ ・丁)月
戊辰(乙・癸・戊)日
ーーーーー
北京の55日
↓↑ ・・・伊丹 十三(1933年5月15日~1997年12月20日)64
癸酉(庚・ ・辛)⇔丁丑(癸・辛・己)
丁巳(戊・庚・丙)⇔壬子(壬・ ・癸)
辛巳(戊・庚・丙)⇔丙申(己・壬・庚)
申酉=空亡 大運辛亥(戊・甲・壬)
↓↑
北京の居留区の11か国
イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス
イタリア・ロシア・ベルギー・オランダ
スペイン・オーストリア=ハンガリー
↓↑ 日本が籠城し「義和団」と戦闘
柴五郎(しば ごろう)
=リュウトナンコロネル・シバ
1860年6月21日(万延元年5月3日)
~
1945年(昭和20年12月13日)
庚申(己・壬・庚)⇔乙酉(庚・ ・辛)
壬午(丙・ ・丁)⇔戊子(壬・ ・癸)
丙申(己・壬・庚)⇔丙辰(乙・癸・戊)
辰巳=空亡
↓↑
元會津藩士族
陸軍軍人・軍事参議官・台湾軍司令官
東京衛戍総督
第12師団長を歴任
階級は陸軍大将勲一等功二級
英語、仏蘭西語、中国語はペラペラ
↓↑
「義和団の乱」
1900年6月20日~1901年9月7日
庚子(壬・ ・癸)~辛丑(、ふらbbす癸・辛・己)
壬午(丙・ ・丁)~丙申(己・壬・庚)
甲子(壬・ ・癸)~戊子(壬・ ・癸)
の防衛戦で賞賛・・・
「セ・シ・ボン=C'est si bon(フランス語)」・・・
https://www.youtube.com/watch?v=OFCS7kZwxug
Louis Armstrong - C'est si bon (1962)
「それは素敵(すてき・素的)だ・素晴(すば)らしい
良(い)いね・活(イカ・生)すぜ」
・・・ナンで「素は敵・モトはテキ・敵はシロ」・・・新羅?
「素(もと・しろ)に的(あてる)」
「素(しろ)い的(まと)」
「的=白+勺=まと・あてる・テキ」
勺=勹+丶=合の10分の1・升の100分の1
1升=約1.8039 ℓ(リットル)
1勺=約18.039 mℓ(ミリリットル)
・・・ナンで「素は晴・モトはハレ・晴はシロ」・・・新羅?
「モトはhare(野ウサギ)」⇔兎=rabbit, hare, cony
「スバ(磨ば)+らしい」
「素=主+糸」=「もと=基・元・下・本」は「イト・シ」
「フランス語・tres bien・トレビアン=Trevian」
「Comment allez vous? =こまんたれぶぅ・ご機嫌いかが?」
コメント アレ ヴゥ
ーーーーー
「とらとらとら」・・・
「トラ・トラ・トラ」・・・
「タイガー・タイガー・タイガー」
・・・太(他意・タイ)画(臥・ガ)蛙(鴉・ア)?
「とら」と「トラ」類音?・・・
「ト・ラジ=桔梗(ききょう)」・・・
「・・―・・ ・・・」モールス符号
「ワレ奇襲ニ成功セリ」
「突撃」と「雷撃隊」の最初の文字「トラ」・・・
「ツンドラ(ロシア語=тундра・英語=tundra)
地下に永久凍土が
・・・永久凍土⇔A級問う怒?・・・A級戦犯?
↓↑ 唐土・陶土・糖度・陶土・問う度?
頭(と・賭・徒・途・兎・渡・都・訳)
独活(うど・ドクカツ)
ウド(独活)の大木
風も無いのに動くように見えるので
「うごく」が「うど」になった・・・?
「独活(ドクカツ)」の由来
独=獨=「犬(獣)+蜀」
蜀=罒+勹+中+ム=毛虫・芋虫
毛虫が葉にぴったりくっつさま
羊の群れにつく番犬?
独立自尊・独立独歩
蜀魄(ショクハク)・蜀鳥蜀=ホトトギス
望帝の魂が化してこの鳥になった説
蜀=いもむし・あおむし・とうまる
中国四川省の別名
とうまる=蜀・鶤・鶤鶏
鶏(ニワトリ)の大きいもの
独活・独楽・独乙・独逸・独鈷・蜀黍
蠲=益+蜀=やすで・はぶく・ケン
除去・免除・免税・~除・~免
显示・昭明
涓・清洁
古代称一种多足虫(ダンゴ虫・むかで・やすで)
↓↑ 种=種
ツンドラ(tundra)
広がる降水量の少ない地域
凍原(トウゲン)、寒地荒原(カンチコウゲン)」
「ツンドラ(tundra)=木のない平原
サーミ語(ロシア語に取り入れられた単語)」
北極圏の「サーミ諸語(Sammi languages)」
↓↑
トライ=Torai=渡来・虎威
・・・マレーのトラのイ=ハリマオ(虎)
谷 豊
1911年11月6日~1942年3月17日
辛亥(戊・甲・壬)⇔壬午(丙・ ・丁)
戊戌(辛・丁・戊)⇔癸卯(甲・ ・乙)
庚辰(乙・癸・戊)⇔己巳(戊・庚・丙)
申酉=空亡
↓↑ ↓↑
山下奉文
1885年(明治18年)11月8日~1946年(昭和21年)2月23日)
乙酉(庚・ ・辛)⇔丙戌(辛・丁・戊)
丁亥(戊・甲・壬)⇔庚寅(己・丙・甲)
丁卯(甲・ ・乙)⇔戊辰(乙・癸・戊)
戌亥=空亡
↓↑
Try
トライ burl〈豪NZ〉 try(ラグビーの)
↓↑
トライデントゥ・・・ギリシア語トリアイナ( τρίαινα)
ギリシア神話の
海神ポセイドンが持つ三叉の矛⇔Ψ・ψ
trident
trident=三つ又・三叉の道具・・・Ψ・ψ・psi=プサイ
ポセイドン(ポセイドーン)
ギリシア神話の「海と地震の神」が有する
「トリアイナ」と呼ばれる三又の槍
矛・やり(槍・鑓)・やす(矢須)
↓↑
トライポフォビア
trypophobia《精神医学》
ハスの実が入っている穴や
蜂の巣、キツツキが開けた穴など
小さな穴の集合体に対する恐怖(感)
ギリシャ語の
trypo(穴、穴開け)
-phobia(~に対する恐怖症)
↓↑
もう一度トライする
リトライ
retry
↓↑
考案、発明品・機械仕掛け・装置
もくろみ・たくらみ・計略
コントライヴァンス
contrivance
↓↑
岩屑・砕岩・破片の山・プランクトンの死骸などの有機物
デトリタス
ディトライタス
detritus
↓↑
トライアスロン
triathlon
水泳、自転車、マラソンを連続で行う競技
ギリシャ語
tri-(三つの)+ athlon(競技)
トライアスロンで競う
compete in a triathlon
↓↑
トライアック
triac《電気》
triode(三極管)+ A.C.(交流)
↓↑
トライアッドゥ
トライアド
triad《音楽》
根音、長3度または短3度、完全5度から成る
それぞれ
長3和音(major triad)と
短3和音(minor triad)を指す
triad〈米〉
核戦略の
戦略爆撃機、大陸間弾道弾、潜水艦発射弾道弾
の三つから成る戦略ミサイル攻撃力
triad
古代ウェールズ詩の
三つの関連する主題から構成される詩形
↓↑
トライアル
trial
トライアル=審判
映画
The Trial
英1992
監督デヴィッド・ジョーンズ
↓↑
トライアルバイク
trial bike
小回りの利くバイク
↓↑
トライアルレースに勝つ
win a trial race
↓↑
トライアル・アンド・エラー
trial and error
↓↑
トライアル・サービスを開始する
start a trial service
↓↑
トライアル後の申し立て
post-trial motion《法律》
↓↑
トライアル期間
trial phase
↓↑
トライアル期間中に
in the trial phase
↓↑
トライアル雇用
trial employment
↓↑
トライアン
人名 Tryon
↓↑
トライアンギュラー
triangular・三角(形)の・三角柱(錐)の
↓↑
トライアングル
triangle
↓↑
トライアングルのばち
a triangle beater(楽器の)
↓↑
トライアンチロープ
triantelope
オーストラリア産の大きなクモ
ーーーーー
とら(トラ)模様
↓↑
縞模様・縞(しまもよう・しま)
英語
ストライプ
stripe
ドイツ語
シュトライフェン
Streifen
フランス語
レ
raies
レイユール
rayures
レユール
rayure
イタリア語
ストリッシェ
strisch
リーガ
riga
↓↑
三角(さんかく)
トライアングル
triangle
ドイツ語
ドライエック
Dreieck
フランス語
トリアングル
triangle
イタリア語
トリアンゴロ
triangolo
↓↑
Triangle=Tora-ian-guru
トラ(虎・寅)イアン(慰安)グル(指導者)?
↓↑
三角形、三角形のもの、三角定規
トライアングル、3人組、三角関係の男女
トライアングル (triangle)
体鳴楽器に分類される打楽器の一
形状は三角形に曲げられた
金属(一般には鋼鉄)の棒
「トライアングル」=三角形
トライアングル (triangle)
英語・Triangle
独語・Triangel
仏語・Triangle
伊語・Triangolo
中語・(簡)三角铁・(正)三角鐵
打楽器、体鳴楽器
↓↑
trans(beyond=向こう側へ)の異形
tradition・traverse
↓↑
tracasserie=迷惑
↓↑
trick(トリック)
人を欺くたくらみ・策略・計略・術策
ごまかし・ぺてん
窃盗・強盗などの犯罪行為
中期英語 trik
古期北フランス語 trique
詐欺(trikier=だます)
trikier=俗ラテン語・triccre
↓↑
カトリック=大赦?
カトリック=微罪?
the Catholic Church
Roman Catholic
↓↑
カトリック⇔「香取・蚊取・鹿取・・・トリ⇔トラ・トル
トレ・トロ
嘉鳥・花都里」
+
通句(苦・区)・付・憑く
化トリック・・・化トリ憑く?
↓↑
ギリシア語=katholikos
羅=catholicus
蘭=katholiek
英=Catholic・・・化トリック・・・化トリ憑く?
化け物がトリ憑く?
公同、普遍、普公
普遍的・世界的・全体的の意・・・?
キリスト教(カトリック)
およびその信者
幾利紫旦
貴理師端
吉利支丹
切支丹
鬼理至端
↓↑
ラテン語=Ecclesia Catholica
↓↑
the addition of matrices・・・間取りクス?
マトリックス(matrix)・・・・的理盡(尽・悉)くす
「母体・基盤・何かを生み出すもの」
一般には「数学の行列」
高校数学で習う行列
「長方形状
かつ
格子状に複数の数字を並べ
全体を括弧でくくったもの」
「子宮」を意味するラテン語
Mater(母)+ix
のMatrixの音写で
英語では「メイトリクス」・・・名取り樟(十八章・玖珠・句素)
(CHAPTER 18)
tombocom・新約聖書マタイによる福音書・第18章
tombocom・新約聖書ヨハネの黙示録・第18章
新旧聖書の十八章
「生み出す機能」
「子宮状の形状」
マトリクス(matrix)
母体、基盤、原盤、鋳型、(数学の)行列
英語での発音は
「メイトリクス」
↓↑
back in one's memory
記憶を遡(たど・辿)る
↓↑
back several centuries
~を数百年遡る
↓↑
Back to the Future
↓↑
back to a manufacturer
製造元を突き止める
↓↑
to its origin
~の起源を尋ねる
表現パターン
to its origin [source]
↓↑
with a fingertip
指先で~をなぞる
↓↑
with a gentle finger
~をそっと指でなぞる
↓↑
with the tip of one's tongue
舌先で~をたどる
↓↑
trace(トレース)
道に沿って進む、たどる
~の間を探す、突き止める
源泉や歴史がたどれる、遡れる
~の跡を追う・たどる・付ける
調査して~を探し出す・突き止める
~の発達や歴史を明らかにする・解明する
Descendants of this family
can be traced to the present day.
子孫は現在までたどることができる
透明な紙を当てて図などを
トレースする、敷き写す
線や図などを描く
物や場所をスケッチする
文字を丁寧に書く
建築
~にはざま飾りを施す
数値をグラフなどにトレースする
目に見える跡、足跡、形跡
人がいたことや物があったことの
手掛かり、痕跡、証拠
辛うじて感知できるわずかな
しるし、分量
化学
痕跡、微量
一定基準以下または測定限界値以下の量
↓↑
人や動物が踏みならした小道、山道
心電計や地震計などの出力記録(波形)
製図や美術のトレース図・画
↓↑
数学
跡、トレース
正方行列の
対角成分の和
↓↑
気象
微量
降水はあるが
測定装置では
0と表示される量
↓↑
言語学
痕跡
生成文法で
移動した要素の跡に残ると考えられるもの
記憶痕跡
memory trace・engram
↓↑
電子工学
プリント配線基板上の線、配線
line
馬具の引き革・綱
カナトゥレイス
トレイス
変化《動》traces | tracing | traced
↓↑
Trace
痕跡
↓↑
trace a call
逆探知する
↓↑
trace a circle around
丸い物に沿って円を描く
↓↑
trace a design
図案・下絵・デザインをなぞる
透写する・トレースする
↓↑
trace a letter
文字をなぞる
↓↑
ラテン語 trans に由来
↓↑
trans は
beyond「向こう側へ」を意味
transform「変換」
↓↑
trans-の異形
tradition,traverse.
↓↑
TRA. 台湾鉄路管理局
(Taiwan Railway Administration)
↓↑
tra-la ・・・トララー
さようなら、じゃーね・あばよ・さらば
「さらば友よ(Mea culpa)
友よさらば(Adieu l'ami)1968」
「Avec son tra-la-la」というシャンソン
↓↑
transform
trans-「変換」form「形」
形を変換する
変形する、変化する
↓↑
ラテン語 trans
beyond「向こう側へ」
輸送 (transfer)
変換(transform)
↓↑
mistranscribe
mis-「誤って」
trans-「向こう側へ」
scribe「書く」
↓↑
あるものを
別のところに誤って書く
誤って書き写す
mistranslate
mis-「誤って」
trans-「向こう側へ」
lat「運ぶ」
↓↑
誤って翻訳する
(A から B へ変化させる)
誤訳する
mistranslation
mis-「誤って」
trans-「向こう側へ」
lat「運ぶ」
-ion「こと」
誤って翻訳する
(=A から B へ変化させる) こと
誤訳
↓↑
tradition
tra-「向こう側へ」
dit「与える」
-ion「こと」
↓↑
世代を超えて受け継がれていくもの
伝統
traditional
tra-「向こう側へ」
dit「与える」
-ion「こと」
-al「性質」
世代を超えて受け継がれていく
↓↑
伝統的な
transcontinental
trans-「向こう側へ」
con-「共に」
tinent「つかんで離さない」
-al「性質」
↓↑
大陸 (しっかりと集まり合う土地)
の向こう側へ
大陸の向こう側へ、大陸を横断する
transcribe
trans-「向こう側へ」
scribe「書く」
あるものを別のところにも書く
書き写す
transfer
trans-「向こう側へ」
fer「運ぶ」
別の所へ運ぶ
運ぶ、移す、転送する
transferable
trans-「向こう側へ」
fer「運ぶ」
-able「できる、しうる」
↓↑
別の所へ運べる
移動できる
transit
trans-「向こう側へ」
it「行く」
↓↑
向こう側へ持っていく、移り変わっていく
運送、移り変わり
transition
trans-「向こう側へ」
it「行く」
-ion「こと」
↓↑
移り変わっていくこと
推移、遷移
translate
trans-「向こう側へ」
lat「運ぶ」
↓↑
A から B へ運ぶ、
A から B へ変化させる
↓↑
翻訳する、変換する、移動する
translation
trans-「向こう側へ」
lat「運ぶ」
-ion「こと」
↓↑
A から B へ運ぶこと
A から B へ変化させること
翻訳
transmarine
trans-「向こう側へ」
marine「海の」
↓↑
海の向こう側へ
海を横断する、海外の
transmission
trans-「向こう側へ」
miss「送る」
-ion「こと」
↓↑
向こう側へ送ること
送信
transmit
trans-「向こう側へ」
mit「送る」
↓↑
向こう側へ送る
送る
transpolar
trans-「向こう側へ」
polar「極の」
↓↑
極のむこう側へ行く
北極や南極を横断する
transport
trans-「向こう側へ」
port「運ぶ」
↓↑
ある場所から他の場所へ運ぶ
輸送する
ーーーーー
・・・???・・・変化・・・