November 9, 2018, 5:50 pm
↧
November 10, 2018, 6:08 pm
・・・スゲェッ!格好イイッ!・・・侍ジャパン、背番号22の「柳田 悠岐(1988年10月9日・戊辰-壬戌-丁酉(辰巳)) 1号 サヨナラ 逆転 2 ラン」・・・背番号11の投手って「岸 孝之(きし たかゆき・1984年12月4日・甲子-乙亥-壬申(戌亥)・東北楽天」、「大谷 翔平・11=17」、「柿木 蓮(かきぎ れん)・11」・・・新幹線で煙って?・・・モバイルバッテリー(携帯充電器)の故障・・・
11月10日未明2:00にTV「映画『アンタッチャブル』・1987年」を観たが・・・
「11」にコダワル(拘)・・・「拾壱」・・・
ーーーーー
アル・カポネ
(Al Capone)
1899年1月17日
~
1947年1月25日土曜日・東部標準時午前7時25分
↓↑
戊戌(辛・丁・戊)⇔丙午(丙・ ・丁)
乙丑(癸・辛・己)⇔辛丑(癸・辛・己)
乙酉(庚・ ・辛)⇔壬午(丙・ ・丁)
午未=空亡 ⇔丙寅(己・丙・甲)
↓↑
ブルックリン
アメリカギャング(gang-ster)
・・・労働者・奴隷・囚人などの一群、一隊
悪者・犯罪者などの一団、一味、暴力団
排他的な若者・子供の遊び仲間
非行少年グループ
ひとそろい、ひと組
人や物を問わずに集団を示す言葉
単数形のgang-sterの接尾語は
star(星)ではなく
ster(~の人・~する人・作る人・…な人)
の意味
伊語の発音「カポネ」・・・・伊太利・伊太利亜・以太利
化保音・化骨?
英語の発音「カポーン」・・・英吉利
可保 音?
↓↑
罪名 脱税
刑罰 懲役
九人兄弟の四男
配偶者 メアリー・ジョゼフィン・カフリン(メエ)
子供 アルバート・フランシス・カポネ(ソニー)
↓↑
禁酒法時代
シカゴで
組織を指揮し、密造酒製造・販売、売春業、賭博業
の組織を拡大、統合近代化
ブルックリンから
シカゴへ行くとき
友人の
ラッキー・ルチアーノから2万ドルの餞別
ラッキー・チャールズ・ルチアーノ
は
アメリカのイタリア系犯罪組織
マフィア⇔コーサ・ノストラ=コーザ・ノストラ
↓↑=(La Cosa Nostra=秘密結社的犯罪集団)
la nostra 女性・il nostro, 男性・複数 le nostre
=私たちの・我々の
cosa nostra =我らのもの
コーサ・ノストラ、マフィア
nostra damus=我々の女主人=聖母マリア
「ノストラダムス」
とら=虎・彪・禽・斗羅・寅
「Notre Dame (ノートルダム)」=フランス語形
「ノートル(notre)=私たちの」+「ダム(dame)=婦人」
「nostrum(万能薬 等)の複数形」
イタリア語で「我らのもの」
William Adams・・・アダム&イヴァ
A-dams(ウイリアム-ア-ダムス)?
dame=奥様・貴女・お嬢様・レディ・マダム
la madame=マダム(Madame, 略記: Mme)
ウィリアム・アダムス(William Adams)=三浦按針
卯伊里編-阿田(阿多)武州
1564年9月24日~1620年5月16日(元和六年四月二十四日)
甲子(壬・ ・癸)⇔庚申(己・壬・庚)
癸酉(庚・ ・辛)⇔辛巳(戊・庚・丙)
己卯(甲・ ・乙)⇔乙丑(癸・辛・己)
↓↑ 申酉=空亡
の最高幹部で組織改革者
犯罪シンジケートの立案者・・・・真字形重訳?
本名は
サルヴァトーレ・ルカーニア
沙流話蛙問於例・・・・蛙=anuran・frog・padda
↓↑ アヌーラン・フロッグ・パダ
genus padda
pada=印欧語根 ped-足(足首から下)
=パッダ・・・ハタオリドリ
pioneer=歩兵を表す
古フランス語peonierから派生
アル・カポネの脱税裁判
1931年10月7日
辛未(丁・乙・己)
丁酉(庚・ ・辛)
乙未(丁・乙・己)
↓↑
アル・カポネ
の会計係だった
フレッド・リース
が証言台に立ち
賭博場のことなどを証言
アルは
合計
11年・・・十一年・壱壱年・壱拾壱年・足壱年
の懲役
罰金
8万ドル・・・ハチ萬弗・捌萬弗・・・拂(払)う
「弗」の「…ず」=否定の「~しない」
8=八=捌=さばく・さばける・はける・ハツ・ハチ
∞=limitless・unlimited・endless・infinite
ハチのホバリング=hovering flight
ヘリコプターやハチドリの空中停止飛行
捌=扌+别
異体字は「八・朳・扒・㧙」
の有罪判決
↓↑ ↓↑
エリオット・ネス
(Eliot Ness)
1903年4月19日
~
1957年5月16日
↓↑
癸卯(甲・ ・乙)⇔丁酉(庚・ ・辛)
丙辰(乙・癸・戊)⇔乙巳(戊・庚・丙)
丁丑(癸・辛・己)⇔辛卯(甲・ ・乙)
申酉=空亡
↓↑
アメリカ合衆国財務省(のち司法省に移管)の
酒類取締局の捜査官
アル・カポネの犯罪組織を壊滅するため
特別捜査班の結成を提言
特別捜査班のリーダーとなり
アル・カポネ逮捕
「アンタッチャブル=The Untouchables」
↓↑
エリオット・ネス(Eliot Ness)
ネス=ness=接尾辞・形容詞、分詞などにつけて
「性質・状態」を言う
は酒類取締局の全職員の記録を調べ
信頼に足るチームを作った
当初は50名
のちに15名
最後には
11名・・・・・・「壱壱・十一・壱拾壱・足壱」名
「サッカー=蹴球=soccer player・football」
「サッカー(米: soccer, 英: football)」
のメンバー(member)
(number of people)
に選りすぐられた
↓↑
1931年
連邦大陪審
カポネは
22件の脱税
5,000件の
ボルステッド法違反で告発
同年10月17日
脱税証拠
22件のうちの5件によって
懲役
11年・・・・・十一年・壱壱年・壱拾壱年・足壱年
の刑が宣告され
翌年収監
ネスの集めた5000件の証拠は最終的にすべて却下
罪状に無関係だった
脱税の決定的証拠となった組織の売上金明細を
ウィルスンに
リークした
カポネ組織の
エドワード・J・オヘア
後年
カポネを継いだシカゴギャングに暗殺された
↓↑
1987年
製作・公開
リメイク映画版
『アンタッチャブル』
ブライアン・デ・パルマ監督作品
主演:ケビン・コスナー
ロバート・デニーロ
ショーン・コネリー
↓↑
argue=アーギュー・論争・反論・論駁
感情的に、執拗に異議を唱える、反対する
argue, discuss, debate
ーーーーー
駁=馬+爻=馬+メ+乂
駮・剥
異体字は「驳・𩣄・䮡・駮・駁」
まだら・ぶち・まじる・なじる・バク・ハク
斑 斑 混じる 詰 る
入りまじる・雑駁
ただす・非難する・なじる・駁撃・論駁
不純なものが入り交じる・駁雑
他人の説に反対する・反論する
駁撃・駁論・反駁・弁駁・論駁
入り交じる・雑駁
原義は、
色々な毛色の交じった斑(まだ)ら馬
ーーーーー
11/11/3:00
戊戌(辛・丁・戊)
癸亥(戊・甲・壬)
丁未(丁・乙・己)
癸卯(甲・ ・乙)
↓↑
安政二年九月二十八日
(1855年11月7日)
遠州灘沖を震源とする
最大の余震(M 7 - 7.5)
↓↑
安政二年十月二日
(1855年11月11日)午後10時頃
乙卯(甲・ ・乙)
丁亥(戊・甲・壬)
壬辰(乙・癸・戊)
甲戌(辛・丁・戊)
↓↑
1111年
干支 辛卯
日本
天永二年
皇紀1771年
中国
北宋 政和元年
遼 天慶元年
西夏 貞観十一年
↓↑
1211年
干支: 辛未
日本
承元五年、建暦元年三月九日~
皇紀1871年
中国
南宋 嘉定四年
金 大安三年
中国周辺
西遼 天禧三十四年?
西夏 皇建二年、光定元年旧八月~
モンゴル帝国 太祖(チンギス・ハーン)六年
大理国 天開七年
ーーーーー
・・・???・・・
↧
↧
November 13, 2018, 7:34 pm
・・・守るべきは国家か、家族か、個人か・・・守るべきはダレの国家か、ダレの家族か、個人とはダレか・・・?
アメリカへ不法入国、不法滞在している人間が手っ取り早く「永住権」を得る方法は「アメリカ軍隊に入隊するコト」・・・
アメリカ市民の貧困、移民家庭の子達が「大学の授業料無償援助」を受けられる条件・・・
「予備アメリカ州兵登録」・・・
あるいは
「米軍予備志願兵登録」・・・
ヴェトナム戦争時に、ある「日本人」がアメリカに不法滞在し、米軍に志願兵となってヴェトナムに従軍し、負傷し、車椅子生活・・・
「アメリカの永住権」を得た・・・
日本の「労働力不足」・・・日本の「自衛隊不足」・・・日本の「日本人不足」・・・
「法的人権、市民権、国民権」を守られる「市民、国民、人民の条件=human rights」・・・「国際人権(法)=international human rights law」とはナニか・・・?・・・ドコにあるんだか・・・
市民社会で許されている「正当防衛法」とは異なる、殆どが無条件に「殺人・暴行」が許される現場は・・・「戦場」・・・?
ーーーーー
「基本的人権(日本国憲法第11条)」
・・・「第=𠂉+丨+𠂉+丨+弓+丨+ノ
竹+弔+ノ
竹+弟
+
「十一・拾壱・足壹」
+
条=夂+十+八=ジョウ=・・・
と
「国民に保障する自由及び権利(日本国憲法第12条)」
が同じ内容を持つものではありえないと理解・・・
「第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
この憲法が国民に保障する基本的人権は、
侵すことのできない
永久の権利として、
現在及び将来の
国民に与へられる。」
「第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の不断の努力によつて、
これを保持しなければならない。
又、国民は、
これを濫用してはならないのであつて、
常に
公共の福祉のために
これを利用する責任を負ふ。」
「権利や自由は主張し行使しなければ取り消される」・・・?
・・・保証されていないんだ・・・
「公共の福祉を理由としていかなる人権をも制約することが可能」
・・・
「第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する
国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、
立法
その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。」
・・・?
ーーーーー
アイアン・ソルジャー
監督 クラウディア・マイヤーズ
出演 ミシェル・モナハン
ミシェル・モナハン(Michelle Monaghan)
1976年3月23日
丙辰(乙・癸・戊)
辛卯(甲・ ・乙)
甲戌(辛・丁・戊)
申酉=空亡
米陸軍兵士の
マギー・スワン(ミシェル・モナハン)
アフガニスタン
での延長任務を終えて
テキサス州フォート・ブリス基地に帰還
元夫
リチャード(ロン・リヴィングストン)
に預けていた
5歳の息子
ポール(オークス・フェグリー)
と15カ月ぶりに会う
だが
ポールは
母親としてのマギーを拒絶
そんな関係で
新たな生活をスタート
衛生兵
マギーは帰還後も
フォート・ブリス基地で
若い兵士を教育しながら
息子と心の距離を縮めていく
だが
再び
アフガニスタン
への派遣が決まり
衛生兵
マギーは
苦渋の選択を迫られる
軍人としての誇りか
母としての家族の絆か
・・・
幼い息子と任務との間で
揺れ動く女性兵士の苦悩
女性衛生兵マギー
元夫リチャード
5歳の息子ポール
との新生活
↓↑
再び
アフガニスタンへの
戦争現場への派遣命令
↓↑
根回しで
韓国在留米軍基地派遣での
息子を伴った任務か
↓↑
アフガニスタン派遣衛生兵の
後任交替を押し付けた
部下の家族の離散
決断・・・
↓↑
スタッフ
監督クローディア・マイヤーズ
製作パトリック・カニンガム
脚本クローディア・マイヤーズ
撮影アダム・シルバー
編集マット・チェシー
キャスト
ミシェル・モナハンマギー・スワン
エマニュエル・シュリーキーアルマ
パブロ・シュレイバードノヴァン
ロン・リビングストンリチャード
ダッシュ・ミホクマルコム
ーーーーー
・・・???・・・
↧
November 17, 2018, 5:48 pm
・・・「SK隣国」の「怨念・怨恨・因縁・イチャモン(淫戯)・難くせ」の凄まじさを「youtube」でみていたら、ヒョンなコトから「朝倉さや」さんの「youtube」映像に移動してしまい、彼女の「山形弁」で唄う、張りのある澄んだ高音の歌聲をズぅ~ッと聴いてしまった・・・あのコエには浄化されるような気分になるが・・・リキんで、気張って出しているコエでもなく、普通に唄っているように見えるあの聲量は彼女の何処から湧き出してくるんだろう・・・「怨歌、恨歌・艶歌」で「哀歌、悲歌」は・・・「NK隣国」もTVのニュースでは「イチャモン(淫戯)・難くせ」を「社会主義王朝?」の正当性?を怒鳴り散らし、臨戦、戦時体制の「独裁者」を讃えるが、「SK隣国」の「怨念・怨恨」とは異なるようだ・・・
ナニが異なるのかは
既に
「プチブル個人意識の私的利害」で
「怨恨で洗脳された個々人」
と
「独裁者の私的利害」で
「恫喝、威喝で去勢組織化されている個々人」
↓↑
ドッチも「戦争」はしたくないだろう・・・
「戦争」をしたいのは
「アメリカ」と「ロシア」に潜んで
生きている間にモウケて、ヒトをカミのように
命令で動かすことを夢みて
同類とトラぶって縄張りの利権争いをしている人間だろう・・・
↓↑
・・・「怨念・怨恨・因縁・イチャモン(淫戯)・難くせ」の雑音はゼぇ~ンぶ「朝倉さや」さんの「ありがとさま!」のコエで吹っ飛んでしまう・・・
↓↑
「J-POP=日本で制作されたポピュラー音楽を指す
1989年頃にその語と概念が誕生した後
1993年頃から青年が歌唱する曲のジャンルの一つ
J-POP以前と以後の違いは
BPMの早さや洋楽の影響を受けた
メロディ、コード進行、リズム
昭和歌謡の時代の邦楽と比較して
グルーヴが洗練された作品は増加
一般的な音楽ジャンルとは異なり
先に「J-POP」と言う言葉を定義し
それに既存の楽曲を当てはめる所から
入っていったもので
自然発生した音楽ジャンルではない」・・・
「ポップ・ミュージック(Pop music)=大衆音楽
(pop=popularを短縮した語)+(music)
一般に広く聴かれている軽音楽
楽式(ヴァース・コーラス)を用いて
サビを楽曲中で繰り返す
クラシック音楽以外の
ポピュラー・ミュージック
あるいは
ポピュラー・ソング=pop music・・・?
あらゆるジャンルの折衷歌・・・?」
↓↑ ↓↑
・・・フゥ~ん、そうですか・・・フォークソング・・・
・・・「世界初の民謡×ラップ」・・・?
天真爛漫・・・「朝倉さや」・・・バンザイ・・・
↓↑
「宇宙論歌=宇宙について浅草で歌ってみた(朝倉さや)」?
「ウラナイ・ソング」
「ミン歌」・・・「宙(そら・チュウ)歌」・・・?
「宇(そら・ウ)歌」・・・?
「色(いろ・シキ)歌」・・?
「色(シキ)-即是-空(クウ)」?
「なまり(訛・吪・譌・鉛)歌」・・・
「ナマリ(生里)歌」ですか・・・
「そのままの笑顔でいて」
「東京」
↓↑
・・・
神呪(シンジュ・ジンジュ
神秘な呪文・陀羅尼
↓↑
神呪寺(カンノウジ)
兵庫県西宮市
真言宗御室派の寺
山号は摩尼山
淳和天皇の妃
如意尼が
天長八年(831)創建
本堂は
元禄九年(1696)再建
空海の作と伝える本尊は
如意輪観音
↓↑
神呪寺(カンオウジ・神咒寺)
兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院
山号は武庫山
真言宗御室派別格本山
甲山大師とも呼ばれている
新西国三十三箇所
第二十一番札所
寺号は
「神呪寺」
↓↑
兵庫県西宮市 神呪町
神呪寺(カンオウジ・神咒寺)
↓↑
198文字目からの文
故知(コチ)
般若(ハンニャ)
波羅蜜多(ハラミッダ)
是大神呪(ゼダイジンシュ)
是大明呪(ゼダイミョウシュ)
是無上呪(ゼムジョウシュ)
是無等等呪(ゼムトウドウシュ)
↓↑
般若波羅蜜多=彼岸に到る本質的な智慧?
般=一般=普通=日常=当然・・・凡・平凡
↓↑ 般=ハン=同類の物事・同種類
般=舟+殳(几又)
・・・几=キ・ヂィー
机、おしまずき物の台
肱(ひじ・肘)や
腰を掛けたりする
足つきの台
几案・几帳・床几・浄几・脇息
「几個(いくつ)?」⇔「几乎
(およそ・だいたい)」
又=右手
↓↑ ↓↑ ↓↑
一般・各般・這般・諸般・全般・万般・百般
ある局面・回
過般・今般・先般
めぐる(周囲をまわる)・まわる(般旋)・・・循環
めぐらす(周りを囲ませる)・まわす
運ぶ・移す
名のりは「かず・つら」
尋常=常識=common sense
sense=感覚⇔認識=knowledge
認=言+忍
コトバをシノバせる
識=言+音+戈(弋ノ)
コトバの音の矛
α+戠=職・織・
戠=古形は
「辛(大型の針状の刃物)」
+
「弋(くい・イキ・ヨク)」
で目印をつけること・他と区別して目立つ、
明確になるなどの意
後の意義「粘土」は音の仮借
弋=いぐるみ・鳥をとる道具・弋射
ぐるぐる動き回る・遊弋
常識=社会人が共通にもつべき認識、判断力
common sense=practical sense=wisdom=horse sense?
=共通の知識・周知の事柄
=common knowledge=一般知識、認識
She is lacking common sense.
「彼女、常識がない」・・・lack =欠けている
She is dressed like an idiot.
「彼女、間抜けな格好してきたね」・・・
idiot=イディオット=stupid person
雄馬=horse・雌馬=mare・種馬=stallion
去勢の雄馬=gelding
4歳までの子馬=雄が colt
雌が filly
↓↑
般若波羅蜜多
若し
波のような
「甲羅・網羅」のように・・・
「甲羅=頭蓋骨」の中の
「網羅=脳味噌の神経細胞」
考等(コウラ)、葉等(ハラ)・・・・・・・・?
緻密で多いモノを巡(般・めぐ)らすのであるならば・・・?
↓↑
故知=故は、ゆえに(したがい)
知るとよい
般若波羅蜜多=彼岸に到る本質的な智慧
是大神呪=是=般若波羅蜜多
大=偉大な
神=神(仏)
呪=真言・マントラ
是大明呪=是=般若波羅蜜多
大=偉大な
明=悟り
呪=真言・マントラ
是無上呪=是=般若波羅蜜多
無上=この上なき
呪=真言・マントラ
是無等等呪=是=般若波羅蜜多
無等等=比較するものがない
呪=真言・マントラ
ーーーーー
歌姫
朝倉 さや=吉田爽夏
1992/6/29
壬申(己・壬・庚)
丙午(丙・ ・丁)
丙子(壬・ ・癸)
申酉=空亡
ーーーーー
元寇襲撃
文永の役
文永十一年(1274)
中国元(ゲン)の大軍来攻
・・・「言群は対葉・異記(意記)・・・「文英の訳」?
「壱拾位置」?
1274年11月11日~26日
↓↑
弘安の役
1281年6月6日(滋賀島)~29日(壱岐の島)
~7月7日(鷹島)
↓↑
八合打=バクダッド
↓↑
神呪=かんのう=じんしゅ=神が呪(口の兄)?=咒(口口几)う
カンノウ・ジンシュ・・・神の呪(のろ)い・・・呪=祝?
↓↑ ↓↑ 呪=咒⇔祝?
「呪=口+兄」の漢字の根源は「カイン」だろう・・・
カイン
と
アベル
旧約聖書『創世記』第4章
アダムとイヴの息子たち
兄がカイン
弟がアベル
人類最初の殺人の加害者・被害者
カイン=ノドに追放
鍛冶屋、鋳造者
金属加工技術者の祖
息子はエノク・・・重之句
アベル=息
この二人の弟に
セト(セツ)
「呪」=「祝」であるならば
「カイン」を殺した者への「復讐は七倍」
「レメクのためには七十七倍」
・・・「カインのための復讐が七倍ならば、
レメクのための復讐は七十七倍」
・・・漆(七)拾(足)漆(七)?
(『創世記』第4章22節)
・・・第肆(四)章念弐(弐拾弐・弐足弐)節?
念 =二十 念=20
廿の俗音が念と同じで、日数の20のかわりに「念」を用いる
念(ネン)=思う力
念=思い・気持ち・考え
憎悪の念・怨念・執念
気をつけること・注意
かねての望み・希望
心の働き・記憶する働き
非常に短い時間・一念・刹那
対象に向かって心を集中し、冥想する
思い詰めた考えや気持ち・思い
念願・念力・一念・観念・祈念
思念・専念・想念
いつまでも心にとどめる
念書・記念・祈念
悔恨の念
ー↓ーー↑ー
諭す=さとす・・・たとえ・喩・譬え・例え・仮令
健やか=すこやか・強か
健か=したたか
禿びる=ちびる・先がすれて短くなること
「ちびた鉛筆(短くなった鉛筆)」
の「ちびる」
開かる=はだかる・立ちはだかる
衣服、手足などが大きく開く
象る=かたどる・似せて作る・象徴する
動もすれば=ややもすれば
唆す=そそのかす
擬き=もどき
擬い=まがい・詐欺まがいの手口・紛い
娠る=みごもる・妊娠・妊る
集る=たかる
縦しんば=よしんば
拐す=かどわかす・誘拐する
萌す=きざす・芽生える
感情や考えが生まれる・兆す
絆す=ほだす・情にほだされる
粧す=めかす・おめかしする・めかす
晩い=おそい・時期や時刻が遅れている
晩いから寝る
辱い=かたじけない・忝い
番い=つがい・動物を番いで飼育
匿う=かくまう・囲まう
労う=ねぎらう
勘える=かんがえる・勘に頼る
勘案する
私か=ひそか
寿ぐ=ことほぐ・言葉で祝福すること
言祝ぐ
確り=しっかり・聢り
玩ぶ=もてあそぶ・弄ぶ・翫ぶ
焼べる=くべる・薪をくべる
谷まる=きわまる・行き詰まる
進退ここに谷まる(窮まる)
誕る=いつわる・あざむく・でたらめ
甘い=うまい・あまい
いぎす=海髪=うご・おご=於胡
=おごのり=於胡海苔
ーーーーー
・・・???・・・訓読みか・・・当て字か・・・
↧
November 20, 2018, 12:17 am
・・・山火事ですか・・・呼吸困難・息継ぎがゼイゼイ・・・他人の不幸をみながら、ヒトのセイにして鼻息が荒い人もいるし・・・「ザマァ~みやがれッ!」ってヒトもいるらしい・・・過去的経験で悔しい思いをしてきたんだろうナッ・・・
get revenge
get payback
get revenge against …
This is payback for being an asshole.
I'll get you for this.
I'll pay you for this.
I avenged my parents…
Revenge never repairs an injury.
Humans will receive revenge from nature.
retaliate (リタリエイト)
ーーーーー
「文明・文化」ではない「国家」って・・・?
文は明らかでアル
文は明らかでない?
文は化わらない
文は化わる?・・・
「国家」であり・・・「人びと」ではない・・・?
↓↑
敵討(かたきうち)
仇討ち(あだうち)
直接の尊属を殺害した者に対して
私刑として復讐を行う
中世日本の制度
武士が台頭した中世期からの慣行
江戸期には警察権の範囲として制度化
子が親の仇を討つなど
血縁関係がある
目上の親族のために行う復讐を指した
↓↑
江戸幕府によって法制化
↓↑
眉輪王(目弱王)
「臣元不求天位、唯報父仇而已」
↓↑
『日本書紀(巻十四雄略紀)』
456年(安康天皇三年)
「眉輪王の変」
眉輪王の
義理の父にあたる
安康天皇は
眉輪王の父である
大草香皇子を殺し
眉輪王の母である
中磯皇女を自らの妃としていた
自分の父母の事情を知った
眉輪王は
熟睡の
安康天皇を刺し殺し仇を討った
「臣元不求天位・・・私は皇位を狙ったのではない
唯報父仇而已・・・ただ父の仇に報いただけだ」
↓↑
仇討
父母や兄等尊属の親族が
殺害された場合に限られ
卑属
(妻子や弟・妹を含む)
に対するものは
基本的に認められない
家臣が主君のために行う
血縁関係のない者について
行われることは少なかった
↓↑
江戸時代
殺人の加害者は
原則として
公的権力(幕府・藩)が処罰
加害者が行方不明で
公的権力が
加害者を処罰できない場合に
公的権力が
被害者の関係者に
加害者の処罰を委ねる形式をとって
仇討ちが認められた
↓↑
武士身分
主君の免状を受け
他国へわたる場合は
奉行所への届出が必要で
町奉行所の
敵討帳に記載され
謄本を受け取った
無許可の敵討
現地の役人が調査し
敵討であると認められなければ
殺人として罰した
敵討を果たした者に対して
討たれた側の関係者が
さらに復讐をする
重敵討は禁止されていた・・・
↓↑
敵討の許可
基本的に武士階級のみ
↓↑
それ以外の身分でも
敵討を行う者はまま見られ
手続きを踏まなかった
武士階級の敵討同様
孝子の所業として大目に見られ
賞賛された
↓↑
武家の当主が殺害された場合
嫡子が相手を敵討ちしなければ
家名の継承が許されなかった
↓↑
敵討は決闘
敵側にも
迎え撃つ正当防衛が認められた
敵側が仇討ち側を殺害した場合は
「返り討ち」
↓↑
江戸時代の敵討
喧嘩両成敗を補完する方法
復讐ではなく
武士の意地・面目であるとされていた点に特徴がある。
↓↑
曾我兄弟の仇討ち(1193年『曽我物語』)
鍵屋の辻の決闘(1634年)
赤穂事件(1702年『忠臣蔵』)
↓↑
明治
司法卿の
江藤新平らによる
司法制度の整備
1873年(明治六年)2月7日
第37号布告
「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」
を発布、敵討は禁止
↓↑
御成敗式目と敵討
御成敗式目(貞永式目)第十条
殺人や傷害
役職目的の殺人や強盗殺人の規定
敵討の禁止規定
↓↑
「・・・
或いは子
或いは孫
父祖の敵を殺害せんに於ては
父祖縦え、相知らずと雖も
其の罪に処せ被る可し。
父祖の憤りを散ぜんが為に
忽ちに宿意を遂ぐるの故也。
↓↑
御成敗式目第十条
子や孫が父祖の仇を殺した場合
(殺人をおかした犯人の)
父や祖父がそのことを知らなくても
同じ罪
(死刑か流罪・財産没収)
を課せられる
父祖の憤りを
充たすために宿願を遂げた・・・から。
↓↑
父祖が死亡している場合は
もとより無関係であるが
父祖が存命中に
子孫が父祖のために敵討をすれば
父祖も連座で罰せられる
御成敗式目
父祖のための
敵討は処罰の対象とされ
江戸時代の敵討とは異なる
曾我兄弟の仇討ちでは
敵討後に捕えられた
弟
曾我五郎時致
は斬首
源頼朝の代の先例に準じる
御成敗式目の規定はこの処置
↓↑
女敵討
妻が姦通した際
姦通相手と妻を殺害することを
女敵討(めがたきうち・妻敵討ち)
姦通が表沙汰になった際の
女敵討は
武士にとっては義務
達成しても名誉にはならないため
表沙汰にせずに内々で示談
江戸町奉行所
「公儀御帳」によれば
通常の仇討ちが
元禄年間(1688~1703年)
を過ぎると減少
女敵討は
宝永年間(1704~1710年)
以降に増加
享保年間(1716~1735年)
届け出のあった仇討ちの半数は女仇討
庶民の場合でも
女敵討は殺人罪にはならなかった
↓↑
制度化
戦国期から
鎌倉期
『沙石集』
蛇が妻を姦通したが
杖打ちで許し
殺さず
蛇達はこれを許さず
姦通した蛇を噛み殺し
男にわびた・・・
文明十一年(1479年)
室町幕府が当事者双方(妻の方も)
死罪判決
諸々の「戦国分国法」も
当事者双方を死罪と明記
↓↑
仇討事件
曾我兄弟の仇討ち
大河兼任の乱
源実朝の暗殺
天下茶屋の仇討
伊賀越えの仇討ち
浄瑠璃坂の仇討
亀山の仇討ち
高田馬場の仇討ち
赤穂浪士の討ち入り
臼井六郎仇討事件
↓↑
町人、農民の仇討
幕末に向かって農民が増えた
大部分は
子、弟妹、妻、臣、弟子、友人
などの仇討ち
享保八年
奥州
白鳥明神前の敵討は
姉妹
↓↑
討手の年齢
白鳥明神前の敵討
妹は13歳
西岸寺河原仇討
岩井善次郎は13歳
摂津芥川敵討
松下助三郎は14歳
赤穂浪士の
大石主税は15歳
↓↑
敵討時間
享保七年
相模国
鎌倉山田原での敵討(伊東はる)は
28年間
嘉永六年
母の仇を討った「とませ」は
53年
久米幸太郎による仇討は
41年
↓↑
返り討ち
崇禅寺馬場の仇討
↓↑
討手の助太刀
(by wikipedia)
ーーーーー
喧 嘩 両 成 敗
(けんか りょうせいばい)
「喧嘩に際してその理非を問わず
双方とも均しく処罰するという原則」・・・?
「問題を起こしたら双方を処分」
とするのではなく
「問題を武力で
解決(故戦防戦)しようとしたら
双方を処分」
↓↑
最古の例
「不論理非(理非を論ぜず)」
双方とも罰する
観応三年(1352年)九月十八日
室町幕府が定めた
建武式目追加
第六十条
幕府の訴訟に従わず
実力行使によって
紛争を解決しようとする者を
罰する規定
↓↑
文安二年(1445年)四月
藤原伊勢守の名前で出された
「喧嘩口論堅被停止訖
有違背族者
不謂理非
双方可為斬罪
若於加担人有者
本人同罪事」
の高札・・・
↓↑
双方同罪・単純な公平
支配者による
訴訟規則の遵守
境相論以外の
一般の揉め事に対する
実力行使(喧嘩)に対しても拡大・・・
↓↑
分国法
「今川仮名目録」
「喧嘩におよぶ輩は理非を論ぜず双方とも死罪」
武田氏の
「甲州法度之次第」
「喧嘩はどの様な理由があろうと処罰する
ただし、
喧嘩を仕掛けられても、我慢した者は処罰しない」
長宗我部氏の
「長宗我部氏定書」
↓↑
江戸時代前期まで慣習法として継続
文治政治への転換の中で
儒学者達から
「双方それぞれにどんな非があったかを
吟味せずに、同罪として処断する」
という運用批判で
「喧嘩においては
片方が正しいという事はあり得ず
双方ともに非がある」
とするのは
双方納得とする・・・
ーーーーー
フェーデ(ドイツ語: Fehde)=決闘
の回避の解決法
↓↑
法学的意味での自力救済用語
中世
自己の権利を侵害された者は
ジッペ(血族・氏族)や
友人の助力を得て
侵害した者に対して
自らの実行、措置をとった
血族単位での報復である
血讐を中世法に適合的なように改めたもの
中世法では
身代金を積むことで
フェーデによる
暴力を避けることができた・・・
↓↑
フェーデ完全禁止
制度末期に合法的に
営利誘拐を行い
身代金を要求する手段として悪用
事前に送らなければならない決闘状も
襲っておいて
人質が取れてから決闘状を送って
身代金を要求することが常態化
貴重品輸送の一団は
大規模な警備部隊の随伴を必要とするようになり
襲う側も最低でも数十人規模
多いときには300人を超える
軍事組織の集団にまで膨れ
制度を悪用して営利誘拐を繰り返した
ーーーーー
ハンムラビ法典(Code of Hammurabi)
紀元前1792年~1750年
バビロニアを統治した
ハンムラビ(ハムラビ)王
が発布した法典
アッカド語
楔形文字で記録
バビロンの
マルドゥク神殿に置かれた
1901年
イランのスサで発見
↓↑
完全な形で残る世界で
2番目に古い法典
現存する世界最古の法典は
ウル・ナンム法典
エシュヌンナ法典
リピト・イシュタル法典
↓↑
「前書き・本文・後書き」の3部構成
本文は慣習法を成文化した282条
13条及び66~99条が失われている
前書きにはハンムラビの業績
後書きにはハンムラビの願い
が記録
ーーーーー
「目には目を、歯には歯を(タリオの法)」
ハンムラビ法典196・197条
旧約聖書、新約聖書の各福音書にも同様の記述
195条
子がその父を打ったときは
その手を切られる
205条
奴隷が自由民の頬をなぐれば
耳を切り取られる
「目には目を」が成立するのは
対等な身分同士の者だけ
↓↑
ハンムラビ法典の趣旨
犯罪に対して
厳罰を加えることを主目的ではない
財産の保障
奴隷階級にも
一定の権利を認め
条件によって
奴隷解放を認める条文が存在
女性の権利
女性の側から離婚する権利
夫と死別した寡婦を擁護する条文
後世のセム系民族の慣習で
女性の権利はかなり制限される
女性の地位が高かった
シュメール文明の影響・・・
・・・「女神」が最高神・・・
ーーーーー
罪刑法定主義
「やられたらやりかえせ」の意味
復讐を認める典型
「倍返しのような過剰な報復を禁じ
同等の懲罰にとどめて
報復合戦の拡大を防ぐ」
あらかじめ
犯罪に対応する刑罰の限界を定めること
(罪刑法定主義)がこの条文の本来の趣旨
ーーーーー
これらの条文は
男女平等や人権擁護と同類の指向を持つ条文
犯罪被害者や遺族に対して
加害者側に賠償を命じる条文
加害者が知れない場合に
公金をもって損害を補償する条文
被害の軽重に応じて
賠償額(銀を何シェケルという単位で)
が定めてある
「ハンムラビ法典は
太陽神シャマシュ
から
ハンムラビ王
に授けられた」
と伝えられ
特定の宗教的主観に偏った内容ではない
身分階級の違いによって
刑罰に差がある
人種差別
宗教差別
の条文はない
↓↑
弱者救済
あとがき
「強者が弱者を虐げないように
正義が孤児と寡婦とに授けられるように」
の文言
↓↑
等価
ハンムラビ法典の負債取り消し
報酬にかかる費用
当時の社会での等価は
市場メカニズムではなく
慣習または法によって決められていた・・・
等価概念との相違点
私益のための
利用を含まないこと
等価を維持する公正さ・・・
↓↑
ハンムラビ法典と聖書
モーセの律法書のもと・・・
内容的に大きく異なる・・・
ハンムラビ法典の
「目には目」と
旧約聖書
出エジプト記21章
レビ記24章
申命記19章
「目には目」の律法が似ている
が、その詳細は異なる
身分の違いによって
刑罰が異なる
聖書律法は
身分の違いによる刑罰の軽重はない
聖書の律法は
神と家族間に対する罪
倫理的な罪が重い
物品等の損害など
商業的罪に関しては
軽い
(by wikipedia)
ーーーーー
息(いき)
息急(せ)き切る
息遣い
息衝(づ)く
息巻く
息(いき)む
息吹き・・・・伊吹・井吹
息嘯(おきそ)
息長鳥(しながどり)
息女(むすめ)
息子(むすこ)
息(やす)む
↓↑
息=自+心
いき・やすむ・ソク
安息・休息・気息
終息・生息・喘息
嘆息・窒息・長息
利息
姑息
息災
溜息(ためいき)・吐息(トいき)
子息・令息・息女
ーーーーー
呪い=のろい=咒い・鈍い=カイン=化韻(音)
↓↑
「得た」=「カニティ(ヘブライ語)」?
「カイン」=「形作る」
発音の類似
「アベル」=「はかなさ・むなしさ
空虚・息」
・・・「壱岐・意気」
↓↑ ↓↑ ↓↑
気 長 足 姫 尊(日本書紀)
(おきながたらしひめのみこと)
息 長 帯 比売 命(古事記)
(おきながたらしひめのみこと)
大 帯 比売 命
(おおたらしひめのみこと)
大足姫命
↓↑
応神天皇の
聖母(しょうも)
↓↑
弟に
息長日子王
妹に
虚空津比売、豊姫
↓↑
父は開化天皇の玄孫
息長宿禰王
↓↑
母は
「天 之日矛=天日槍
(あめのひぼこ・新羅人)
日桙
(ひぼこ)
天日槍命・天日桙命
海檜槍
(あまのひぼこ)
の
弟は
新羅王の
知古(チコ・いにしえを知る)」
↓↑
の裔(末裔・マツエイ)
葛 城 高 顙 媛
(かずらきのたかぬかひめ)
↓↑
多遅摩比多訶
(たぢまひたか)
と
姪(めい)の
菅 竈 由良度美=神功皇后の母方の祖母
(すがかまゆらどみ)清日子と
当摩之竎斐の子
伯父の
多遅摩比多訶に娶られる
↓↑
の子
息長宿禰王
に娶られる
↓↑
菅竈由良度美の
父親は
清日子
↓↑
母親は
当摩之竎斐
伯父の
多遅摩比多訶
との間に
↓↑
葛城高額媛=葛城之高額比賣=葛城高顙媛
を儲けた
・・・額(客頁)=顙(桑頁)
客 = 桑・・・又=右手⇔桑の葉
客・・・宀+夂(夊)+口
夂=遅れる・遅滞・チ
夂=冬がしら・チ・シュウ・シュ
後から行く・くだる・降りる
おくれる・ついて行く
異体字は「夊・攵⼡夂」
人の両脚「ク」に
「乀」を入れることで
後に送りとどけるものがあるを
表した指事文字
漢字の上部に位置する・・・各々
「後=彳+幺+夂・・・夂⇔夊」は
漢字の下部に位置するが、ドッチ?
↓↑ ↓↑ ↓↑
夊=ゆっくり行く
躊躇いながら行く
愚図り行く
尻込みしながら行く
嫌々ながら行く
拉致連行?
徴用されて行く?
ゆく・いく・スイ
(行く・往く・往復・逝く)
止を逆さまにした
足趾の象形
脹脛(ふくらはぎ
長脛・長臑)
「人の兩脛に象る
躧(ふ)む所有るなり」
夊=部首、夊部・スイニョウ(夊繞)
なつあし(夏脚)・夏の脚
夂が冠に置かれるのに対し
夊は脚・繞に置かれる
降ろす、降りるという意味の意符
漢字の下部に位置
かたじけない=忝い=辱ない
相手から好意を受けることをへりくだっていう語
辱交・辱知・辱友・忍辱(ニンニク)
ーーーーー
多遲摩比那良岐
此之子
多遲麻毛理
次
多遲摩比多訶
次 ↓↑
芿日子↓↑
上云 ↓↑
多遲摩比多訶
娶其姪
由良度美
生子
葛城之高額比賣命
ーーーーー
↓↑
垂仁天皇三年三月条(日本書紀)
新羅王子の 天日槍が渡来
七物、献上
↓↑
羽太の玉(はふとのたま) 1箇
足高の玉(あしたかのたま) 1箇
鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇
出石の小刀(いづしのかたな) 1口
出石の桙(いづしのほこ) 1枝
日鏡(ひのかがみ) 1面
熊の神籬(くまのひもろき) 1具
↓↑
葉細の珠(はほそのたま)
足高の珠
鵜鹿鹿の赤石の珠
出石の刀子
出石の槍
日鏡
熊の神籬
胆狭浅の大刀(いささのたち)
↓↑
同条に記された別伝
↓↑
垂仁天皇紀三年条一云の系図
↓↑
太耳
I
知古(弟)ー天日槍…麻多烏(配偶者)
I
但馬諸助
但馬日楢杵
清彦
田道間守=多遅摩毛理=多遅麻毛理
(たじまもり・たぢまもり)
三宅連(三宅氏)祖=菓子の神・菓祖
菓子=甘い御八つ
↓↑
田道間守
垂仁天皇三年条(日本書紀)
天日槍(新羅からの渡来人)の
玄孫で
清彦の子とする
↓↑
応神天皇段(古事記)
天之日矛(天日槍)の玄孫
多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子
清日子(清彦)は弟
↓↑
垂仁天皇紀
垂仁天皇九十年二月一日
田道間守は天皇の命により
「非時香菓(ときじくのかくのみ)」
「タチバナ(橘)を求めに常世国に派遣」
垂仁天皇九十九年七月一日
垂仁天皇崩御
景行天皇元年三月十二日
田道間守は
非時香菓八竿 八縵(やほこやかげ
竿・縵は助数詞
葉をとった八枝・葉のついた八枝
を持って常世国から帰国
が、天皇がすでに崩御し
天皇の陵で自殺した
↓↑
垂仁天皇段(古事記)
多遅摩毛理は
「登岐士玖能迦玖能木実=橘
(ときじくのかくのこのみ)」
を求めに
常世国に派遣
多遅摩毛理は常世国に着き
その実の
縵八縵・矛八矛を持って帰国
その間に天皇は崩御し
縵四縵・矛四矛を分けて大后に献上
縵四縵・矛四矛を
天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫び
その末に遂に死んだ・・・
↓↑
『万葉集(巻18 4063番)』
では田道間守の派遣伝承を前提とした歌
「巻18 4111番(反歌4112番)」
では
田道間守を題材とする
歌が載せられている・・・
ーーーーー
「京=亠+口+亅+八=かなどめ」?
力士名(四股名)
読み方の由来は
「いろは」が「京」で終わるから・・・
「いろはうた」の最後は「酔ひもせず」
なぜ「いろは」の最後か「京」なのか?
↓↑
「いろはうた(伊呂波歌)」の末尾に
「京」・・・?
「末尾」に
「京」がつけ加えられたのは
鎌倉時代から
「ん」がつけ加えられたのは
かなり時代が下がる・・・」
↓↑
「いろはかるた」の最後が
「京」であること・・・
↓↑
名字「京(かなどめ)」について
「いぬぼうカルタ」と呼ばれた
「いろはカルタ」の最後は
「京」という札であった
そのため「かなの最後」という意味で
「京」を「かなどめ」と読ませる
「熊本県」にある・・・
↓↑
「かなどめ→かながしら
京(かなどめ)=しこ(四股)名
↓↑
東海道五十三次
道中双六 上がり 「京」
↓↑
弘安十年(1287年)成立
了尊の著
『悉曇輪略図抄』
に「末後に京の字有り」
↓↑
京(かなどめ)
子(えとがしら)
一(にのまえ)
九(いちじく)
十(つなし)
↓↑
「江戸いろはかるた」
「一 匡(かずはじめ はじめ)」
「い 一(かながしら はじめ)」
「京 石松(かなどめ いしまつ)」
「京 昇(かなどめ のぼる)」
↓↑
京極
平安京の四周の大路
東京極・西京極
南京極(九条大路)・北京極(一条大路)
↓↑
京都市内の地名
かつては京の端を意味
平安京は
南北に通じる
朱雀大路 (千本通) によって
右京と左京に分れ
さらに東西南北に走る道路によって
区画されていた
最東端の道路西京極
最南端を南京極 (九条)
最北端を北京極 (一条)
と呼んだ
初めは右京が栄えたが
のち繁華は左京に移った
この左京の
東京極が現在の
中京区寺町通で
その東側を三条通から四条通まで
南北に通じる通りが
新京極と呼ばれ
映画館・劇場・みやげ物店・飲食店
などの立並ぶ繁華街となっている・・・
↓↑
室町時代の守護大名
佐々木信綱の
四男
氏信が
京都の京極に邸を構えた
四職(ししき)家の一
↓↑
京極為兼
藤原為教の子
藤原定家の曾孫
建長六年・1254~1332
鎌倉後期の歌人
二条家と歌道の主導権を争い
革新的な歌風を樹立
「玉葉集」を編集
政治上、持明院統に属し
佐渡・土佐に流された
歌論書
「為兼卿和歌抄」がある
↓↑
持明院統の伏見天皇に信任され
京極派をひきいて歌壇で活躍
佐渡に流される
後
権(ごんの)大納言
正二位
二条為世(ためよ)との論争にかち
「玉葉和歌集」撰者
晩年土佐に流され
1332年
元徳四年
元弘(げんこう)二年
三月二十一日
河内(かわち)で死去
79歳
↓↑
京極高次
1563~1609
安土桃山・江戸初期の武将
妻は豊臣秀吉の側室淀君の妹
織田信長
豊臣秀吉
に仕え、九州征伐などに従軍
近江
大津城主
関ヶ原の戦いで東軍
若狭小浜
8万5千石の城主
↓↑
北海道
虻田郡
京極町
甲斐
地名の由来
開拓を率いた
旧讃岐
丸亀藩主家の
京極高徳
↓↑
1940年(昭和15年)4月1日・・・四月馬鹿?
東倶知安村から
京極村に改称
↓↑
北海道南西部
羊蹄(ようてい)山東麓
尻別(しりべつ)川上流域にある町
虻田(あぶた)郡
畑作地帯で
ジャガイモ・テンサイが主要産物
羊蹄山北東麓に
湧水(ゆうすい)で知られる
ふきだし公園がある
京極温泉・川上温泉が湧く
同町を含む5町村にまたがる
後方羊蹄山(しりべしやま)の
高山植物帯は
国の天然記念物指定
ーーーーー
・・・「蠱毒厭魅」、「巫蟲」・・・
↓↑
蠱毒(コドク)・・・孤独?
古代中国の呪術(ジュジュツ)
動物を使い
中国華南の
少数民族の間で受け継がれている
蠱道(コドウ)・・・鼓動・古道
蠱術(コジュツ)・・・古術・古述・鼓術
日本では
厭魅(エンミ)・・・円観・縁身・塩味・塩見・・・潮観
蠱毒厭魅(コドクエンミ)
として恐れられ
養老律令の中の
「賊盗律」に記載
厳しく禁止・・・
↓↑
蠱毒厭魅(コドクエンミ)
蠱道(こどう)
蠱術(こじゅつ)
巫蠱(ふこ)
などとも・・・
ーーーーー
・・・
神呪(シンジュ・ジンジュ)
神秘な呪文・陀羅尼
・・・
↧
↧
November 21, 2018, 8:09 am
・・・簓(ささら)=竹(たけ・チク)+周(まわる・めぐる・シュウ)+彡(刷毛痕・毛羽痕・さんづくり・彡旁・けかざり・毛髪の飾りの紋様・糸や毛の飾り・模様・サン・セン)・・・竹の彫刻・竹の彫り物・・・他家の捕吏者(罪人をめしとる役人・とりて・とりかた)・・・「ほり(彫り)=彫ること・彫ったぐあい・巧みな彫り・彫ったような凸凹(でこぼこ)・凹凸(オウトツ) 」・・・「凸凹=表面の高低=unevenness・roughness・irregularities・でこぼこ道= bumpy road・でこぼこの地面=uneven ground」・・・
デコボコ・・・出古簿拠・・・彫り師・木版・石版・銅版・彫刻・版木・活字・印刷・フォント・判子・印章・エッチング・・・ヤスリ(鑢)・鉄筆・ガリ版・蝋原紙・謄写版刷り・・・インク・ローラー・・・
「1893年ごろにトーマス・エジソンが、開発したミメオグラフ(Mimeogurafu)」・・・「これを、堀井新治郎父子が日本に合うように改良し、謄写版(堀井謄写版)として発明した」・・・
「1894年(明治二十七年)1月
堀井新治郎父子が
謄写版を発明
7月に発売開始
11月に旧原紙を発売」
・・・11月・・・十一・壱拾壱・壱壱・・・![]()
札幌、ささら(簓)電車・・・「たぬき小路」除雪・・・「きつね小路」のジョセツはないらしい・・・序説・叙説はアルか?
キツネの嫁入り・・・1799年(寛政十一年)、『穴賢狐縁組(十返舎一九画)』・・・十返舎一九・・・
ーーーーー
娶=めとる・めあわせる・シュ・シュウ
異体字は「取・娵」・・・
妻をむかえる・娶嫁
女(め)取る
嫁娶(カシュ)・婚娶(コンシュ)
娶(めと)る
娶=取+女=耳+又+女
娶=めとる・シュ・シュウ
嫁をもらう・嫁を迎える
娶=娵=総画: 11画
ーーーーー
妻=取+女・・・取=耳+又
妻=つま・サイ
妻=十+⺕+女=一+⺕+礀+女(くノ一)
・・・苦のハジメ
句のハジメ
「ア・あ」・「イ・い」・「ウ・う」・「ヱ・え」・「オ・お」
・・・「愛、飢(餓・植)え、乎(嗚)」
・・・カラスの赤ちゃん、ナゼ・・・?
「からすの赤ちゃん」
海沼実作詞・作曲
からすの赤ちゃん なぜなくの
こけこっこの おばさんに
あかいお帽子(ぼうし) ほしいよ
あかいお靴(くつ)も ほしいよと
かあかあ なくのね
↓↑
めえめえ山羊(やぎ)さん なぜなくの
お里の 母さんに
おねむに なったよ
あまいおっぱい 頂戴(ちょうだい)ねと
めえめえ なくのね
↓↑
迷子(まいご)の鳩(はと)さん なぜなくの
みみずく おじさんに
夜路(よみち)は こわいよ
ほおずき提灯(ぢょうちん) かしとくれと
ほろほろ なくのね
↓↑
狐(きつね)の赤ちゃん なぜなくの
三日月(みかづき) おばさんに
木(こ)の葉でかんざし 買っとくれ
小石で花ぐし 買っとくれと
こんこん なくのね
↓↑ ・・・
カラス(鴉・烏・韓州・唐州・漢州・加羅州)
ヤギ(山羊・八木・矢木・谷木)
ハト(鳩・斑鳩)
キツネ(狐・木津子・伏見稲荷・宮城県白石市の狐塚・チロンヌプ)
「なんじ我を忘れたか、子までなせし仲ではないか
来つ寝(来て寝よ)」・・・キツネ・・・
ーーーーーー
聿=肀+二
帇=肀+冂=
隶粛(肅)逮
聿肀𦘒
・・・手指に関する
「肀」の字形が
手の指(又・ヨ・聿=腕+五指)
手指で
何(筆・棒・剣・斧・道具)か
を操る形象
書・晝・劃・畫
筆
肄(ならう・イ)
肆(四・4)
建(たてる・ケン)=廴+聿
腱・健・犍・銉・旔・鍵
律・葎
兼=かねる
「両手=兼=聿+聿」?
肅(粛)=「両手=兼=聿+聿」を置く、握る
鞬=(ゆみぶくろ・ケン)
弓袋・馬上で弓矢を入れる革製の袋
鞬子(けんし)=蹴って遊ぶ道具
まり(毬・鞠)
肈=戶+戈+聿=戸+戈+聿
=戶+戈+肀+二=戸+戈+肀+二
はじめ・はじめる・チョウ
謀る・正す・正しい・正しくする
肇=戸(一尸)+攵+聿=肈
はじめ・初
↓↑
崇神天皇=御肇國天皇
(はつくにしらすすめらみこと)
御間城入彦五十瓊殖天皇
御眞木入日子印恵命
所知初國御眞木天皇
(はつくにしらししみまきのすめらみこと)
美萬貴天皇
(開化天皇十年
~
崇神天皇六十八年十二月五日)
第十代天皇
(在位
崇神天皇元年一月十三日
~
同六十八年十二月五日)
↓↑
神武天皇=始馭天下之天皇
(はつくにしらすすめらみこと)
馭=馬+又(右手)
異体字は「御・𩣓・𩤳・𩤾」
のる・あやつる・おさめる
すべる
ギョ・ゴ
馬を操る・馭者(御者・禦者)
ウマくならす・治める
統馭(トウギョ・統禦)
↓↑ ↓↑
馭=中国古代の楽器の一
木製で伏した虎をかたどり
背に設けた
ギザギザを
竹製の簓(ささら)で
擦(す)り鳴らす楽器
掻擦奏棒・・・編木(ささら)とも当て字
↓↑ ↓↑
説経節(せっきょうぶし)
日本の中世に興起し
中世末から近世にかけて行われた
語りもの芸能・語りもの文芸
仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され
声明(梵唄)から派生した
和讃や講式などを取り入れ
平曲の影響を受けて成立した民衆芸能
近世にあっては
三味線の伴奏を得て洗練され
操り人形と提携して
小屋掛けで演じられ
万治(1658年~1660年)から
寛文(1661年~1672年)にかけ
元禄五年(1692年)頃まで
が最盛期・・・
↓↑ ↓↑
説経語りをする
芸能者は「ささら乞食」
共鳴器なし掻擦奏棒=ささら
びんざさら(こきりこささら)
形は「馬蹄」に似ている
洗浄器具として用いられる
束子(たわし)に似ている
↓↑
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ささら電車
1918年(大正七年)
電化開業
札幌電気軌道(札幌市電前身)
降雪量が多く能率の高い除雪方法が求められ
同社の技師長である
助川貞利を中心とする技術陣が
海外の文献を参考にし研究開発
1920年(大正九年)
最初の
ササラ電車が登場
1925年(大正十四年)実用化
↓↑
電気鉄道の時代
「snow sweeper」の電化
1891年(明治二十四年)
Isaac F. Baker
及び
Robert Booth
を
The Thomsonが特許
アメリカで公開
札幌に20数年ほど先んじて
北アメリカ、カナダの
積雪地で
19世紀末から用いられていた
↓↑ ↓↑
ささら 讃良(ささら)
第四十一代
持統天皇の幼名
↓↑ ↓↑ ↓↑
・・字等・字問・時問・事問
地問・・・地名由来・佳字
↓↑ ↓↑ ↓↑
鸕野讃良(うののささら)
共鳴器つき掻擦奏棒
↓↑ ↓↑ ↓↑
「掻擦奏(こすり付ける)」
中国では楽器をその素材の
金・石・糸・竹・匏・土・革・木
を8種に分類し八音と呼んだ
↓↑ ↓↑
神武天皇
庚午年一月一日~神武天皇七十六年三月十一日
初代天皇
在位
神武天皇元年
辛酉年一月一日~神武天皇七十六年三月十一日
現在の暦で2月11日
和風諡号
神日本磐余彦天皇(日本初期)・・・卑本初期
非本
肥本
比本初期
(かむやまといわれびこのすめらみこと
神倭伊波礼毘古命(古事記)
諱(いみな)は
彦火火出見(ひこほほでみ)
狭野(さぬ)
『日本書紀』
神代第十一段の第三の一書は第三子
第四の一書は第二子
神武天皇=始馭 天下之天皇
はつくにしらす
崇神天皇=御肇 國天皇
↓↑ ↓↑
䀌(キョク)=𦘒+皕(百百)+皿=衋・・・
䀌=𦘒+皕(百百)+皿=衋
モモ(股・腿・桃)が二つ並ぶ
䀋=「𪉹・塩・鹽」=エン
塩+皿=土+𠂉+口+皿
䀋=𪉹=土+𠂉+鹵+皿=塩
異体字は「𪉹・塩・鹽」
「𥂁・䀋・𪉹・𪉩・鹽・𪉟・𨣎」
䀍=贛+皿=カン
異体字は「㔶・䘓・篢」
贛=コウ・トウ
江西省の別称、略称
江西省を流れる川の名
与える・賜う・賜物・貢ぎ物
おろか・愚直なさま
↓↑
盡(尽・つくし・つくす・つきる・ジン・シン)
儘(まま・ことごとく)・・・我儘
↓↑ ↓↑
妻=肀+女=⺕+礀+女(くノ一)・・・苦のハジメ
句のハジメ
異体字は「𡜌・𡜛・𡜈・𡝣」
↓↑
「取」=耳+又・・・耳で訊く、手(又)で書く・・・
戦場で殺した兵士の耳を取ること?
娶=他部族を襲って
女性を略奪し、妻にしたこと・・・?
命令(ことば)を耳で聞き
手を使って家事を仕切る女?
↓↑
こきりこ(筑子)ささら=びんざさら=編木・拍板
ビン=鬢?
ビン=紊・紊乱
ビン=罠・狐罠
簓(ささら)で鳴らすモノ=馭・・・馭者・御者?
ーーーーー
・・・「ささら」・・・???・・・簓=竹+周+彡・・・
紗々羅・沙々羅・佐々羅・差さら・簓・筅・箲・笹良・・・
・・・讃良・・・
ささら(簓)伝者・・・
「たぬき公示」の序説・・・叙説・絮説・如拙・・・
↧
November 22, 2018, 8:26 am
・・・「NI55NE」・・・「55=SS」?・・・「SSとは、サイドストーリーまたはショートストーリーの略」・・・「SS=軍事、地対地ミサイルを表すNATOコードネーム・潜水艦の艦種・ ヒトラー親衛隊・ shortstop・So sorry・same size・secret service・service station」・・・
ーーーーー
2018/11/22
↓↑
犯罪⇔警察・・・110
火災⇔消防・・・119
↓↑
ナゼ「110」なのか・・・?「1+1+0」=11⇔1+1=2
ダイヤル式電話はダイヤルを回す距離が
1番短い1を2度
誤りを防ぐため
ダイヤルを回す距離が長い
0を使うことにした・・・「110」
↓↑
ナゼ「119」なのか・・・?「1+1+9」=11⇔1+1=2
火災報知の電話サービス
大正15年
に導入された番号は
「112」番
112番にしたところ
かけ間違いが多かった
翌年の昭和2年
119番にした
↓↑
110番
昭和23年から始まったが
番号の全国統一は
昭和29年の新警察法によって
110番に統一
↓↑
ウェイト版タロットの正義・カード番号「11」
マルセイユ版タロットの正義・カード番号「8」
正義(Justice・La Justice)
タロットの大アルカナ・カードの1枚
↓↑
裁判の女神
天秤と剣を手にした女神
女神ユースティティア
司法、裁判の公正
↓↑
0=愚者
I=魔術師・II=女教皇・III=女帝・IV=皇帝
V=教皇・VI=恋人・VII=戦車・VIII=力
IX=隠者・X=運命の輪・XI=正義・XII=吊された男
XIII=死神・XIV=節制・XV=悪魔・XVI=塔
XVII=星・XVIII=月・XIX=太陽・XX=審判
XXI=世界
↓↑
0=愚者・1=魔術師・2=女教皇 ・3=女帝
4=皇帝・5=法王 ・6=恋人 ・7=戦車
8=力 ・9=隠者 ・10=運命の輪・11=正義
12=吊男・13=死神・14=節制 ・15=悪魔
16=塔・17=星・18=月・19=太陽・20=審判
12=世界
↓↑
トランプ(trump)
4種各13枚、計52枚(+α)を1セット
↓↑
インデックス(Index)
トランプ 11=トランプ J⇔J=11・Q=12・K=13
King(王)と
Knave(従者・兵士・Knight=騎士)では
「K」が二つになるために
Jackと改めた
ジャック(Jack,Knave)
従者=Valets 女王=Dames 王=Rois
J(ジャック)・Q(クィーン)・K(キング)
1=エース・2=デュース・3=トレイ・4=ケイト
5=シンク・6=サイス・7=セブン・8=エイト
9=ナイン・10=テン
11=ジャック(ネイプ) ・12=クイーン・13=キング
↓↑
1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13=91
91×4=364
+ジョーカー2
364+2=366
1年365
閏年366
↓↑
ユリウス暦
1582年10月4日(木曜日)
の翌日を、曜日を連続させながら、
10日間を省いて
1582年10月15日(金曜日)
と定めた
4~「5-6-7-8-9-10-11-12-13-14」~15
15-4=11
↓↑
「Page one=ページワン」・・・頁の壱(壹・一)
「Last card=ラストカード・・・最終札(歌留多・割符・卩)
札幌・札束
カード(card)=付箋・ラベル・附票・附箋・レッテル
付け札・付票・レーベル・付札・表示
荷札・付け紙・付紙・下げ札・下札
タグ・タッグ・符
守・御守り・御符・護身符・お札
魔よけ札・呪符・神符・護符・御札
お守り・御守・魔除け・納札・納め札
守り・おまじない札
札=木+乚
ふだ・サツ
異体字は「剳・劄・箚・扎・𤵦・軋・・・軋(きし)む・軋轢
↓↑ 拃・揠・椻・・・揠=扌+匽
↓↑ 椻=木+匽
↓↑
堰=土+匽=つつみ・せき
隁=阝+匽=つつみ・せき
・・・匽(ふせる・エン)=匚日女
↓↑ ↓↑ 匽=匚日女=匚(囲)われたヒメ
=「卑弥呼=天照大神」の岩戸隠れ
・・・宴席・宴会=うたげ
匚=方形の容器
匸=秘匿の所
匠・ 匛(柩)は匚に従い
區(区)・匿・医
匽は匸に従う・・・匽=匸+妟(日女)
匠は匚を製作
匛(柩)は屍体を匚に収める
區(区)は多くの祝告を並べて
欧吟して祈る意
匿(トク)は巫祝
医は呪医が祈る意
↓↑ 匽(エン)
↓↑ 匽=匸(秘匿の所)+妟(日女)
↓↑ 匸=一+乚(乙・L)=秘匿の場所?
↓↑ 紥・紮・轧・𢮊」・・・妟(やすらか・アン・エン)
繁体字は「剳・劄」・・・剳=荅(艹合)+刂=こたえ・トウ
劄=答(竹合)+刂=こたえ・トウ
↓↑
「切符(改札)・御札=紙幣・値札・花札・木札・高札・栞」
「メモ札」
「さね(鎧で緒を通して編む、鉄または皮の小さな切れ端)」
「若死に・夭折・流行病で死ぬ事」
ーーーーー
1920年
干支=庚申
日本
大正九年
皇紀2580年
中国
中華民国九年
朝鮮(月日は一致)
檀紀4253年
主体九年
↓↑
3月11日
↓↑
3月12日
ニコライエフスク(尼港)で
ソビエト連邦のパルチザンと
大日本帝国陸軍が交戦
(尼港事件)
3月13日
ベルリンでカップ一揆
カップ一揆に対抗するゼネスト
左派労働者の反乱(ルール蜂起)
3月15日
日本で株価が大暴落
戦後恐慌
ーーーーー
「3/11=3月11日=三月十一日」の事件
↓↑
222年3月11日
帝政ローマの皇帝
ヘリオガバルスが
近衛隊
プラエトリアニに暗殺
1510年3月11日
メディチ家出身の
レオ10世がローマ教皇に就任
1649年3月11日
フランス王国で起こった
フロンドの乱の
リュイユ和議締結
1708年3月11日
イギリス女王
アンが
スコットランド民兵法の裁可拒否権を発動
1795年3月11日
マラーター王国
マラーター同盟と
ニザーム王国の軍勢が激突
マラーター勝利
(カルダーの戦い)
1851年3月11日
ジュゼッペ・ヴェルディの
オペラ『リゴレット』
ヴェネツィアで初演
1862年3月11日(文久2年2月11日)
皇女和宮の降嫁
徳川家茂と和宮親子内親王(皇女和宮)の婚儀
1867年3月11日
ジュゼッペ・ヴェルディ
のオペラ
『ドン・カルロ』
がパリ初演
1869年3月11日
アルマン・ダヴィドが
ジャイアントパンダを“発見
(中国四川省でパンダの毛皮を発見)
1879年3月11日
琉球処分
琉球藩を廃し沖縄県を設置
琉球藩王・尚泰王、東京居住
1881年3月11日
日本訪問中の
ハワイ王国国王
カラカウア
が赤坂仮御所訪問
明治天皇と単独会談で
ハワイ・アジア連合を構築し
姪の
カイウラニ
を日本の皇室に嫁がせることを提案
1892年3月11日
品川弥二郎が
第2回衆議院議員総選挙で
選挙干渉を非難され、内務大臣を辞任
1901年3月11日
国木田独歩の初の作品集
『武蔵野』刊行
1906年3月11日
東京都で電車焼き討ち事件
路面電車の運賃値上げに反対した
東京市民が路面電車を焼き討ち
焼失車両54、検挙者200人以上
1912年3月11日
中華民国臨時大統領
袁世凱統治下の
中華民国臨時約法を公布・施行
1914年3月11日
イギリスの外交官
ヘンリー・マクマホン
イギリス領インド帝国
ロシア帝国
モンゴル、チベット
中華民国北洋政府
等の相互干渉地帯で
イギリス領インド帝国
と
チベット地方政府
による国境線
「マクマホンライン」を引く
↓↑
1920年3月11日
ロシアで尼港事件が発生
シベリアは
ニコライエフスク(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)
に出兵中の日本軍が
武装解除を要求した
抗日パルチザンに攻撃し、敗北
↓↑
1923年3月11日
目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄)目蒲線
目黒~丸子(沼部)間が開通
1924年3月11日
阪神タイガースの本拠地
甲子園球場(阪神電車甲子園大運動場)起工
1933年3月11日
成田線
笹川~松岸間が開通
全線開通
1941年3月11日
第二次世界大戦
アメリカ大統領
フランクリン・ルーズベルト
レンドリース法(武器貸与法)制定
1942年3月11日
第二次世界大戦
フィリピン戦
マッカーサー将軍
コレヒドール島退却
1945年3月11日
フランス領インドシナが
フランスから独立
ベトナム帝国成立
日本へ恭順宣言
1948年3月11日
福岡県で
九州大学生体解剖事件の
軍事裁判開廷(横浜軍事法廷、判決8月27日)
1955年3月11日
東京大学生産技術研究所
AVSA班が
早稲田実業学校校庭で
初のペンシルロケットの水平試射
1960年3月11日
パイオニア計画
アメリカ合衆国のNASAが
惑星探査機
「パイオニア5号」を打ち上げ
1966年3月11日
インドネシア
スカルノ大統領が
政治権限を
スハルト陸将に委譲
「3月11日命令書」にサイン
スハルトが大統領代行に就任
1966年3月11日
菊富士ホテル火災
群馬県利根郡水上町
菊富士ホテルが全焼
茨城県のタバコ組合の団体客など30人が死亡
1970年3月11日
ボーイング747(ジャンボジェット)が日本へ初飛行
1980年3月11日
都市銀行6行の
現金自動支払機 (CD)
相互接続ネットワークSICS運用開始
1981年3月11日
国鉄再建法施行令公布
廃止対象の
特定地方交通線選定の基準を明確化
1984年3月11日
宮崎駿監督
アニメ映画
『風の谷のナウシカ』公開開始
1985年3月11日
ミハイル・ゴルバチョフ
ソビエト連邦の最高指導者に就任
1988年3月11日
アメリカ大統領
ロナルド・レーガン
パナマに経済制裁発動
1989年3月11日
JR東日本
新宿駅と渋谷駅で発車メロディ導入
1990年3月11日
リトアニアが
1940年のソビエト連邦への強制併合を
無効として連邦からの脱退・独立を宣言
1992年3月11日
中国が核拡散防止条約批准
1994年3月11日
ゼネコン汚職事件
中村喜四郎前建設相が逮捕
1997年3月11日
茨城県東海村
動燃再処理施設で爆発事故発生
労働者37人が低レベルの放射線被曝
ーーーーー
文久元年(1861年)
十一月十五日
和宮一行は
江戸城内の
清水屋敷に入った
十一月二十一日
登城した
岩倉具視、千種有文は
老中の
久世広周、安藤信正
と会見し
「幕府は和宮を人質に
天皇に譲位を迫るつもりだ」
との風説について詰問し
幕府に二心無いことを示すため
将軍自らが書いた
誓紙を
朝廷に提出することを求めた
↓↑
十二月十一日
和宮は江戸城本丸大奥に入る
↓↑
文久二年(1862年)
二月十一日
和宮と家茂の婚礼
↓↑
文久三年(1863年)
二月十三日
家茂
江戸を出立
和宮は家茂の無事を祈り
二十四日から
増上寺の
黒本尊の御札を勧請し、御百度
家茂は
二月十九日
二条城に入り
三月七日
参内
三月十一日
孝明天皇の加茂行幸に供奉
四月十一日
石清水八幡宮への行幸は
風邪の高熱で欠席
(天皇から「攘夷の節刀」を受けるのを避けるために
仮病を使った)
「五月十日を以って攘夷を実行する」
の奉答書は出す
六月十六日
家茂は、海路で江戸帰還
八月十八日の政変
長州藩を始めとする
過激な
破約攘夷を唱える勢力が京都から追放
↓↑
慶応四年(1868年)
和宮
1月15日
大坂より帰府した慶喜と対面
1月21日
土御門藤子を使者として上洛させ
徳川家のための嘆願書提出
3月10日
再び藤子を沼津に遣わし
官軍の江戸進撃猶予を嘆願
3月11日
侍女
玉島を蕨駅に遣わし
官軍の進撃猶予を再度嘆願
4月
官軍に江戸城と大奥を明渡し
実成院とともに
田安屋敷へと移る
明治二年(1869年)
一月十一日
天璋院を訪問して暇乞い
一月十八日
東京を発ち
二月三日
京都に戻り
聖護院を仮御殿とする
ーーーーー
・・・
1942年
干支=壬午
日本(月日は一致)
昭和十七年
皇紀2602年
中国・満州(月日は一致)
中華民国暦三十一年
満州国・康徳九年
↓↑
11月11日
独軍が
ヴィシー政権統治下の
フランス本土を占領
(アントン作戦)
↓↑
11月22日
独軍
スターリングラード
でソ連軍に包囲
(スターリングラード攻防戦)
ーーーーー
・・・
「剳・劄・扎・𤵦・軋・拃・揠・椻・箚・紥・紮・轧・𢮊」
「切符(改札)・御札=紙幣・値札・花札・木札・高札・栞」
「若死に・夭折・流行病で死ぬ事」
↓↑
「さね(鎧で緒を通して編む、
鉄または皮の小さな切れ端)」
↓↑
ユリウス暦
1582年10月4日(木曜日)
の翌日を、曜日を連続させながら、
10日間を省いて
1582年10月15日(金曜日)
と定めた
4~「5-6-7-8-9-10-11-12-13-14」~15
15-4=11
↓↑
古事記
(こじき
ふることふみ
ふることぶみ)
和銅五年(712年)
太安万侶が編纂
元明天皇に献上
本文は変体漢文
古語や固有名詞の
漢文では代用しづらいものは
一字一音表記
歌謡はすべて
一字一音表記
↓↑
上つ巻(序・神話)
中つ巻(初代~十五代天皇)
下つ巻(第十六代~三十三代天皇)
の三巻
↓↑
蘇我入鹿
暗殺
皇極天皇2年10月6日(643年11月22日)
蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず
紫冠を入鹿に授け大臣となし
次男を物部の大臣となした
(彼らの祖母が物部守屋の妹)
↓↑
皇極天皇4年6月12日(Y645年7月10日)
(G645年7月13日)
乙巳・癸未・戊申・日曜・大安
↓↑
「乙巳の変
・・・「乙巳」が変・・・養老7年12月14日
西暦724年 1月18日G
西暦724年 1月14日Y
(いっしのへん・おっしのへん)」
で
蘇我蝦夷
は
邸宅に火をかけ自害
『天皇記』など歴史書が失われ
「国記」は難を逃れ
天智天皇に献上・・・
だが、現存しない
↓↑
序文偽書説
『古事記』の序文(上表文)
『古事記』の成立事情を証する
外部の有力な証拠がない
序文の正当性に疑義、偽書・・・
↓↑
本文偽書説
『古事記』には
『日本書紀』より
新しい神話の内容が含まれている
平安時代初期ころの創作・・・
↓↑
上代特殊仮名遣の
『万葉集・日本書紀』
ではすでに消失している
2種類の「モ」の
表記上の区別が
『古事記』には残存する
偽書説を否定する論拠
ただし
序文には
「上代特殊仮名遣」は一切使われていない
↓↑
1979年(昭和54年)1月
奈良市此瀬(このせ)町で
「太安万侶」の墓誌銘が出土
「左京四條四坊従四位下勲五等
太朝臣
安萬侶
以
癸亥年七月六日卒之・・・・G西暦723年8月15日
癸亥・庚申・己巳
Y西暦723年8月11日
養老七年十二月十五日・・・G西暦724年1月19日
癸亥・乙丑・丙午
乙巳」 Y西暦724年1月15日
↓↑
養老 7年12月14日・乙巳・金曜・先勝
西暦724年 1月18日G
西暦724年 1月14日Y
癸亥・乙丑・乙巳
↓↑
とあったことが判明し
漢字表記の「萬⇔万」の異同に関しては否定・・・
↓↑
「乙巳の変」の
翌六月十三日(7月11日)
蘇我蝦夷は舘に火を放ち
『天皇記・国記』を焼いて自殺
船恵尺
がこの内『国記』を
火中から拾い出して中大兄皇子へ献上
蘇我本宗家は滅亡・・・
ーーーーー
・・・???・・・
「乙巳・L蛇・L蝮・Z+Snake=Z+serpent」・・・
「サーペント=serpent」・・・
爬虫類(ハチュウルイ)=「レプタイル. reptile」・・・
葉中 類(留意)
・・・「Set a thief to catch a thief. 」・・・
↧
November 24, 2018, 6:55 am
・・・片仮名英語・・・わッかりまッせん・・・モチロン、アルファベットの言語(language・speech・vocabulary=ボキャブラリー=語彙)も、文字(character)も・・・リカイフノウ・・・
・・・collocation(コロケーション)・・・古賂(拠賂)経処務(書夢)・・・?
「調整=adjust・coordinate・modulate・tune up」・・・
帝国主義者の「国際条約」・・・「阿片(鴉片・Opium War)戦争・アロー戦争(Arrow War)」・・・「allow War(アラウ ワァ)」って、「洗うわッ!」・・・?「 cannot allow such conduct. 」・・・
・・・「混濁度」・・・納得いかない・・・理不尽な社会だけれど・・・ゴ~ン・・・108・・・
ーーーー
ガバナンス(governance)
統治のあらゆるプロセス
統治・支配・管理
そのための機構や方法
↓↑
コンプライアンス(compliance)
遵守・従順
企業コンプライアンス
企業の法令遵守
服薬コンプライアンス
患者が薬を薬剤規定どおりに飲むこと
規格に適合すること
機械的コンプライアンス
物体の変形しやすさを示す物理量
バネ定数の逆数で単位
ーーーーー
法令遵守(コンプライアンス)体制・・・
↓↑
法令遵守できない人びと・・・人間・・・
公私にワンサカ・・・
市民、国民、官僚、企業・王様・政治家、軍人・・・
・・・C・NK・SK・R・G・T・・
↓↑
1842年の8月29日
南京条約締結
アヘン戦争終結
イギリスへの香港の割譲
清にとって不平等条約
「アロー戦争」
を第二次とみなして
第一次アヘン戦争とも呼ばれる・・・
↓↑
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1840年6月28日~1842年8月29日
阿片(鴉片)戦争
(第一次鴉片戰爭・First Opium War)
清は
1757年以来
広東港でのみヨーロッパ諸国と交易
「公行」
という北京政府の
特許を得た商人にしか
ヨーロッパ商人との交易を認めなかった
(広東貿易制度)
イギリス東インド会社
現地に
「管貨人委員会
(Select Commitee of Supercargoes)」
代表機関を設置
管貨人委員会に
公行を通じて「稟」という
請願書を広東地方当局に提出
↓↑
イギリス東インド会社
1773年
ベンガル阿片の専売権を獲得
ーー↓↑ーー
1775年4月19日~1783年9月3日
アメリカ独立戦争
(American War of Independence)
↓↑
干支=乙未
日本
安永四年
皇紀2435年
中国
清=乾隆四十年
朝鮮
李氏朝鮮=英祖五十一年
↓↑
1700年~1775年・・・1702年元禄十五年元禄赤穂事件
(赤穂四十七士討入)
の誕生人物
↓↑
与謝 蕪村 1716年〜1783年(享保元年〜天明3年)59才
田沼 意次 1720年〜1788年(享保5年〜天明8年)55才
↓↑
平賀 源内 1728年〜1779年(享保13年〜安永8年)47才
杉田 玄白 1733年〜1817年(享保18年〜文化14年)42才
↓↑
中川 淳庵 1739年〜1786年(元文4年〜天明6年)36才
↓↑
伊能 忠敬 1745年〜1818年(延享2年〜文政元年)30才
↓↑
長谷川 平蔵1745年〜1795年(延享2年〜寛政7年)30才
↓↑
塙 保己一 1746年〜1821年(延享3年〜文政4年)29才
↓↑
司馬 江漢 1747年〜1818年(延享4年〜文政元年)28才
並木 五瓶 1747年〜1808年(延享4年〜文化5年)28才
大田 南畝 1749年〜1823年(寛延2年〜文政6年)26才
蔦谷 重三郎1750年〜1797年(寛延3年〜寛政9年)25才
笠森 お仙 1751年〜1827年(宝暦元年〜文政10年)24才
桂川 甫周 1751年〜1809年(宝暦元年〜文化6年)24才
↓↑
喜多川 歌麿1753年〜1806年(宝暦3年〜文化3年)22才
鶴屋 南北 1755年〜1829年(宝暦5年〜文政12年)20才
↓↑
大槻 玄沢 1757年〜1827年(宝暦7年〜文政10年)18才
松平 定信 1758年〜1829年(宝暦8年〜文政12年)17才
↓↑
葛飾 北斎 1760年〜1849年(宝暦10年〜嘉永2年)15才
山東 京伝 1761年〜1816年(宝暦11年〜文化13年)14才
↓↑
酒井 抱一 1761年〜1828年(宝暦11年〜文政11年)14才
↓↑
高橋 至時 1764年〜1804年(明和元年〜文化元年)11才
↓↑
十返舎 一九1765年〜1839年(明和2年〜天保10年)10才
滝沢 馬琴 1767年〜1848年(明和4年〜嘉永元年)8才
↓↑
雷電 為衛門1767年〜1825年(明和4年〜文政8年)8才
佐藤 信淵 1769年〜1850年(明和6年〜嘉永3年)6才
近藤 重蔵 1771年〜1829年(明和8年〜文政12年)4才
徳川 家斉 1773年〜1841年(安永2年〜天保12年)2才
↓↑
1774年安永三年 杉田玄白・中川淳庵
解体約図を刊行
1775年安永四年 解体新書が刊行
↓↑
間宮 林蔵 1775年〜1844年(安永4年〜弘化元年)0才
ーー↓↑ーー
1797年
イギリス、阿片(鴉片)の
製造権を獲得
同社は中国への組織的な阿片売り込み開始
北京政府は阿片貿易を禁止
地方の中国人アヘン商人が
官憲を買収して密貿易
↓↑
1823年
阿片がインド綿花に代わって
中国向け輸出の最大の商品
阿片貿易は広東貿易制度を崩壊
↓↑
アヘン貿易
「三角貿易
英国、インド、清国」
イギリスは
茶、陶磁器、絹を清から輸入
時計、望遠鏡の富裕層向けの物品を輸出
イギリスは大幅な輸入超過
イギリスは産業革命による
資本蓄積
アメリカ独立戦争
(American War of Independence
1775年4月19日~1783年9月3日)
の戦費確保
のため、銀の国外流出を抑制
植民地の
インドで栽培した麻薬アヘンを
清に密輸出する事で超過分を相殺
インド→(阿片)イギリス→(阿片)清国
三角貿易
↓↑
明代末期
アヘン吸引の習慣が拡大
清代の
1796年(嘉慶元年)にアヘン輸入禁止
アヘン密輸入
アヘン吸引拡大
アヘンの代金は銀で決済
アヘンの輸入量増加により
貿易収支が逆転
清国内の
銀保有量が激減し銀の高騰
↓↑
清
許乃済から
『許太常奏議』といわれる「弛禁論」
「アヘンを取り締まりは無理
輸入を認めて関税を徴収」
反対を受け一蹴
アヘンを吸引者は死刑
黄爵滋らの意見で
道光帝は
1838年
林則徐を
欽差大臣(特命全権大臣)に任命
広東に派遣
アヘン密輸の取り締まりに当たらせた
↓↑
林則徐
アヘン密輸取り締まり
1839年(道光十九年)
アヘン商人たちに
「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」
という旨の誓約書の提出を要求
「持ち込んだら死刑」
と通告
イギリス商人のアヘンを没収、夷館閉鎖
同年6月6日
没収したアヘンを処分
焼却処分ではなく
阿片塊を海水に浸し
塩と石灰を投入
化学反応によって無毒化
処分アヘンの総量は1,400トン超
その後
誓約書を出さない
アヘン商人たちを港から退去させた
↓↑
1836年
英国外相
パーマストン子爵は
現地イギリス人の保護のため、
植民地勤務経験が豊富な外交官
チャールズ・エリオットを
清国貿易監察官として広東に派遣
パーマストン子爵は
海軍省を通じて東インド艦隊に対し
清に対する軍事行動の規制を
大幅に緩めるので
エリオットに協力するよう通達
1839年3月
林則徐
阿片取り締まり開始
エリオットは
イギリス商人の所持する
阿片の引き渡しの要求には応じたが
誓約書の提出は拒否
5月24日
広東在住の全英国人を連れて
マカオに退去
林則徐は
九竜半島での
イギリス船員による
現地民殺害を口実に
8月15日
マカオを武力封鎖し
市内の食料を断ち
井戸に毒を撒いた
イギリス人を毒殺の企て・・・?
↓↑
エリオット
8月26日
マカオを放棄し
船上へ避難
東インド艦隊の
6等フリゲート艦
(ボレージ
ヒヤシンス)
2隻が到着
これらを使って早速に反撃
↓↑
アロー戦争(Arrow War)
1856年~1860年
清
と
イギリス・フランス連合軍
との間で起こった戦争
北京条約で終結
第二次アヘン戦争(Second Opium War)とも呼ぶ
↓↑
1839年9月
1839年・天保十年
蛮社の獄(渡邉崋山、高野長英、尾関三英ら処罰)
1840年・天保十一年
清でアヘン戦争が勃発する
↓↑
武力行使が始まった
アヘン戦争の講和条約
1842年
に締結された南京条約の規定により
英国は清国に対し
従来の
広東(広州)に加え
厦門、福州、寧波、上海
の計5港を開港させ
それぞれに領事を置くこと
香港の割譲
を認めさせた
広東十三行のような
特許商人が貿易を独占し
徴税請負を行い
外国商人や外国船の保証人となって
統制下に置く、という従来の制度を廃止させた
南京条約締結後
約一年の間に結ばれた諸協定により
公正公平な関税率の設定
領事裁判権、最恵国条項、開港五港
に
それぞれ軍艦一隻を停泊できる権利
などが取り決められた
清国中央政府は公式には認めていないが
当時の
欽差大臣
耆英が
長江河口以南の
アヘン貿易を非公式に黙認
↓↑
南京条約及びその後結ばれた諸協定
香港に駐在する
英国公使兼香港総督に対する
中国側の外交の窓口は
広東(広州)常駐の
広東欽差大臣が担うこととなった
英国側の清国官吏との接触方法が
大きく改善し、直接接触が可能となった
開港五港の
各英国領事は
道(省の下の行政区分)
に置かれた
道台(道の長官)と接触することが可能となった
しかし
北京に外交使節が常駐することは認められなかった
↓↑
アヘン戦争後
広東(広州)内外の住民の間で
外国人排斥運動
1842年12月
広州英国商館焼き打ち事件
英国人対象の暴動が頻発
1846年1月
両広総督
耆英
広東巡撫
黄恩彤
は広州の城壁で囲まれた中国人町に
英国人が入城することをいったん認めたが
反対する群衆が
広州府知府の執務処と住居を焼き打ちし
英国人入城許可を取消
1847年3月
広州に近い仏山鎮で
英国人6名
米国人1名
が住民から投石
これへの仇戦として
香港から軍艦を派遣し
広州港の英国商館街を占領
1847年12月
広州から3マイル上流の
黄竹岐で
英国青年6名が切り殺される
その後再び入城問題について再提起され
後任者が交渉を開始
清国側の方針が定まらず
入城問題は一時棚上げ
排外主義活動を取り締まるよう
英国外務大臣
パーマストンは
北京の清朝政府に抗議
↓↑
南京条約改正交渉
1854年
英国公使兼香港総督
と
清国広東欽差大臣
との交渉
後に北京に
常駐外交使節団
常駐公使館
の設立を志向
↓↑
通商面
既存の徴税機構に代わり
公正公平な徴税機構を
新たに作ることが課題
↓↑
英国外務大臣
パーマストンは
これらの問題の解決を図るために
清国に対し再び武力行使をする決意
1851年12月
外務大臣を辞職し
1855年1月
首相として政界に復帰
武力行使準備
↓↑
アロー号拿捕の清国兵
1856年10月8日
清の官憲は
イギリス船籍を名乗る
中国船アロー号に臨検
清人船員12名を拘束
3人を海賊の容疑で逮捕
残りは釈放
広州領事
ハリー・パークスは
清の両広総督・欽差大臣である
葉名琛
に対して
イギリス(香港)船籍の船に対する
清国官憲の臨検は不当であると主張
逮捕の時に
清の官憲が
イギリスの国旗を引き摺り下ろした事は
イギリスに対する侮辱だと抗議
葉名琛は
国旗は当時掲げられていなかったと主張
パークスは
強硬に自説を主張
交渉は決裂
事件当時に既に
アロー号の船籍登録は
期限を数日過ぎており
アロー号には
イギリスの国旗を掲げる権利は無い
官憲による
アロー号船員の逮捕は全くの合法
清国側の
葉名琛は
基本的な事実関係の調査を全く行わず
事実に気がつかなかった
パークスの方も
期限切れの件は知らなかった
ーーーーー
組織の日算ギム
アライアンス(alliance)
同盟・提携・縁組み
マスメディアでは
企業提携
業務提携
資本提携
戦略的同盟
の意味
↓↑
コンプライアンス
要求・命令などへの承諾・追従
法令遵守
企業活動において
社会規範に反することなく
公正・公平に業務遂行すること
服薬遵守
処方された薬剤を指示に従って服用すること
↓↑
コンプライアンス(compliance)
遵守、従順
企業コンプライアンス
企業の法令遵守
服薬コンプライアンス
患者が薬を薬剤規定どおりに飲むこと
規格に適合すること
機械的コンプライアンス
物体の変形しやすさを示す物理量
バネ定数の逆数で単位はm/N
弾性コンプライアンス
↓↑
コンプライアンス
服従の心理
2012年のアメリカ合衆国の映画
ーーーーー
・・・1867年12月10日(慶応三年十一月十五日)・・・
坂本龍馬・中岡慎太郎が襲撃暗殺(近江屋事件)・・・
↓↑
1867年
干支=丁卯
日本(天保暦)
慶応二年十一月二十六日~慶応三年十二月六日
皇紀2527年
清国
同治五年十一月二十六日~同治六年十二月六日
・・・
↧
November 25, 2018, 8:35 am
・・・どこの支配者も「ご都合主義」・・・「オポチュニズム(opportunism)」・・・発音が「おポちゅ」って、軽くて、柔らかく浮いたカンジの「パピプペポ」・・・「ばびぶべぼ」は重いカンジ・・・「御+都+合・後+都+合」なら「語+都+合」だろう・・・東京遷都・・・東京奠都(テント)・・・
ナゼ、「奠都(テント)」・・・天都って「tent」・・・
↓↑ 天幕・・・天膜=tenマク=天巻
=転換=展観・天漢(漢河・天川)
=テンカン=癲癇
pitch [strike] a tent=テントを張る[たたむ]
↓↑ ↓↑
物を投げる、ほうる、投げ上げる
人、物をほうり(追い)出す・捨てる(out)
投げる
間隔・角度・周波数・物質・場所・設備
俗称・架空
Pitch in=力を貸す・協力する
ギブミハンド=give me a hand=ギヴメアハァンド
pitch=同じことを繰り返し
一定の間隔で物事を行うときの速度や回数
仕事や作業の能率
ねじ・歯車の、隣り合う二つのねじ山
あるいは歯の間隔
コイルばねの線の間隔
登山で確保地点から確保地点までの間隔
音の高低の度合い・ピッチアクセント
投球・ピッチング・ワイルドピッチ
サッカーなどのグラウンド
プリンター印刷、コンピューターの
ディスプレー表示の
↓↑ 文字と文字の間隔や行と行の間隔
ピッチ=coal tar pitch
coal tartar=コールタールを塗る
↓↑ ひっち=筆致
↓↑ ヒッチ=hitch
環・かぎ・ロープなどを引っかける
牛馬を杭(くい)につなぐ
hitch=結び方・小断層・盤張孔
バットをうしろに引く
玉掛け
障害・遅延・兵役期間
↓↑ 足を引きずって歩くこと
↓↑ ヒッチハイク
「奠都(テント)」
1868年9月3日(慶応四年七月十七日)
・・・慶応=慶應・・・『文選』の「慶雲応(まさ)に輝くべし」?
↓↑ ↓↑
『文選(モンセン)』=南朝梁の昭明太子によって
編纂された詩文集
全三十巻
春秋戦国時代~梁までの
文学者131名による賦・詩・文章
800余りの作品を
37のジャンルに分類して収録
↓↑ ↓↑
「慶雲応輝、皇階授木」
漢書,範増 謂 項羽
曰
吾使人望沛公
其氣皆為龍
成五色、此天子氣、急撃之勿失。
春秋
孔演圖
曰
天子皆五帝精、必有諸神扶助、使開階立遂。
宋均
曰
遂、道也。
春秋
保乾圖
曰
黒帝治八百歳、運極而・授木。
蒼帝七百二十歳而授火。
1+8+6+8=23⇔2+3=5(ゴ=五・伍
吾・語・誤・互・後・悟・午・御)
壱(1・一・壹)
弐(2・二・弍・貳・貮・仁)
參(3・三)
肆(4・四)・陸(6・六)・漆(7・七)
捌(8・八)・玖(9・九)・拾(10・十・足)
↓↑ ↓↑
「奠都(テント)」
↓↑
大木喬任(おおきたかとう)・・・・多寡(多可)等(問答)
・・・大(一大)の木(十八)、喬(たか)に任せる
江藤新平
の建言により遷都を決定
天皇東幸の詔を発し
江戸を東京と改めた
明治天皇は
11月26日(明治一年十月十三日)
東京着
江戸城を東京城と改め
東京を首都とした・・・
↓↑
京都との東西両京とし
慶応四年七月十七日(1868年9月3日)
江戸を東京と改称
同年九月に元号が
明治に改められ
同年十月十三日
天皇が東京に入り
↓↑
明治二年(1869年)・・・2度目の東幸(明治二年三月)
政府が京都~東京に移転・・・二都・・・都合=奠都?
↓↑
「奠都」=都を定めるコト
・・・奠=酋+大
通仮字「填・典」
異体字「尊・𠪝・鄭・飣」・・・猶太=Judea?
大猷院=徳川家光?
まつる・そなえる・さだめる・テン・デン
神仏に酒食などを供える・「奠茶」
そなえる・そなえもの・「香奠」
「香奠・祭奠・釈奠・奉奠
奠稲(くましね)?
乞巧奠(キッコウデン)=七夕の短冊」
さだめる・位置を決める
「遷都」=都を移すコト
・・・遷=辶+䙴=辶+覀+大+巳
=辶+覀+一+人+己
通仮字「僊」
異体字「迁・𠨩・𠨧・𢍱・𢍹・𦦉・𦧂
拪・𢫥・𢰕・䙲・䙴・𨒟・𨒿
𨔰・𨕞・𨗢・䢬・𨗺・𨙘・𨙞」
↓↑
徳川家光・・・久能山東照宮~日光東照宮へ「遷都」させた?
↓↑
慶長9年7月17日(1604年8月12日)
~
慶安4年4月20日(1651年6月8日)
改名 竹千代(幼名)→家光
諡号 大猷院・・・徳川三代将軍「家光」の廟所
大猷院・・・大誘引・代誘引?
・・・代「有印・誘因・誘音」?
戒名 大猷院殿贈正一位大相国公
・・・戒名=カイミョウ=改名・甲斐名・蝦夷名・貝名?
↓↑
徳川家康遺書
「久能山に納め(遺骨)
御法会を江戸-増上寺
靈牌は三州-大樹寺
御周忌終て
下野国
日光山へ小堂を營造、
京都には
金地院に小堂をいとなみ
所司代はじめ
武家の輩進拜せしむべし。
徳川実紀(台徳院殿御実紀四十二巻)」
↓↑
己酉約条
(キユウヤクジョウ)・・・杞憂約定?
慶長十四年(1609年)
対馬の
宗氏
と
李氏朝鮮の間で結ばれた条約
慶長条約とも
全十二条
文禄・慶長の役以来断絶していた
朝鮮との貿易が再開
ーーーーー
![]()
ーーーーー
BZI
生年⇒壬 辰(乙・癸・戊)
印綬⇔比肩・偏印・正財・・冠帯
破
生月⇒癸 丑(癸・辛・己)
偏印⇔偏印・偏官・偏財・・衰
生日⇒乙 亥(戊・甲・壬)
⇔正財・劫財・印綬・・死
申酉=空亡
↓↑
73.6⇒庚 申(己・壬・庚)
正官 害
↓↑ ↓↑
壬 辰・癸 丑・乙 亥
2018年 冲
正財年→戊 戌(辛・丁・戊)年
11月
偏印月→癸 亥(戊・甲・壬)月
24日
正官日→庚 申(己・壬・庚)日
↓↑ ↓↑
RM (1946年9月1日~2009年5月23日)
丙 戌(辛・丁・戊)⇔己 丑(癸・辛・己)
丙 申(己・壬・庚)⇔己 巳
戊 寅(己・丙・甲)⇔戊 辰(乙・癸・戊)
申酉=空亡 大運癸 卯(甲・ ・乙)63
ーーーーー
・・・???・・・
命式以外は
以下も以上も原文は「wikipedia」から・・・参照、参考、添付
↓↑
NHKの大河ドラマ
↓↑
征韓論
西郷隆盛
板垣退助・・・「征韓論」者の張本人・・・自由はシンでいた?
江藤新平・・・ナゼ、下野したんだか・・・裁判官?
後藤象二郎・・ナゼ、通称が象二郎か・・・象徴・象形・形象?
諱は正本(まさもと)
後に元曄(もとはる)
・・・ 曄=さかん・かがやく・あきらか・ヨウ
字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁
雅号は暘谷、雲濤、光海、鷗公
副島種臣・・・ナゼ、種臣なんだか?
明治二年(1869年)参議
明治四年(1871年)外務卿
マリア・ルス号事件で
中国(支那・清国)人奴隷を解放?
第1次松方内閣
副総理・内務大臣
在任期間
1892年3月11日~1892年6月8日
「神非守人 人実守神」?
・・・「神 人を守るに非ず 人 実に神を守る」・・・
らによってなされた
↓↑
西郷隆盛の主張は
板垣退助らの主張する
「即時朝鮮出兵」に反対
開国を勧める
遣韓使節の
「遣韓論」
↓↑
西郷隆盛の死後
板垣退助らの
自由民権運動の中で
板垣の推進する征韓論は
西郷の主張として流布定着・・・
↓↑
神功皇后紀
高句麗・新羅・百済
の「三韓」を
征韓派は「征韓」とした
↓↑
安政五カ国条約の勅許の奏請
間部詮勝は
「海外諸蛮此方之掌中ニ納候事
三韓掌握之往古ニ復ス」
と朝廷を説得した・・・
渋沢栄一は
「韓国に対する私の考えは
三韓征伐とか朝鮮征伐とか征韓論とかに
刺戟せられたものであろうが
兎に角
朝鮮は独立せしめて置かねばならぬ
それは
日本と
同様の国であると考えていた」
と日清戦争後の
対露強硬路線に同調した経緯を述べた
↓↑
国学や水戸学
吉田松陰ら
古代日本が
朝鮮半島に
支配権を持っていたと
朝鮮進出を唱え
尊王攘夷運動に
吉田松陰、勝海舟、橋本左内
の思想に加えられた
↓↑
慶応二年(1866年)末
清国広州の新聞に
八戸順叔・・・八戸事件
↓↑ ↓↑
日本・慶応二年十二月十二日
清国・同治五年
朝鮮・高宗三年)
同治五年十二月十二日
1867年1月17日(丙寅・辛丑・丁酉)
清国広州の新聞
『中外新聞』に掲載
「八戸順叔」なる
香港在住の日本人が寄稿した
征韓論の記事
日本と
李氏朝鮮
清国
との間の外交関係を悪化させた
・・・記事は原文が見つかっていない・・・
同治五年十二月十二日
(1867年1月17日)
清国の広州(広東省)で発行
『中外新聞』の
・・・『中外新聞』の12月12日版・・・
問題が発生した1866~67年の時点で
広東には『中外新聞』は存在していなかった・・・?
寧波で発行されていた新聞・・・?
実体不明だが・・・「八戸順叔」は実在した・・・?
記事も
清国-弁理五口通商事務大臣に届けられ
総理衙門へも報告され
清国お雇い英国人の
総税務司
ロバート・ハートからも報告・・・
↓↑ ↓↑
慶応三年十一月十五日
(1867年12月10日)
坂本龍馬。中岡慎太郎暗殺
(近江屋事件)
↓↑ ↓↑
慶応三年十二月九日
(1868年1月3日)
↓↑ 王政復古
「八戸順叔」・・・叔=尗+又・・・尗=蔓を巻いた豆の象形
=上+亅+八+又
=ト+一+亅+八+又
小さい豆粒を手(又)で拾う
ひろう(拾)・わかい(若)・おさない(幼)
汝南に芌(いも)を收むるを名づけて
叔と為す(説文解字)
叔父・叔母・兄弟の序列で三番目
「伯仲叔季」・・・
八の戸(はちのへ・やえ・やべ)
・・・八戸=はちド・ヤコ・ヤゴ・・・哉語・耶後
ヤゴ(水蠆)=トンボ目(蜻蛉目)、
トンボ亜目(不均翅亜目)の幼虫?
秋津島=アキツシマ=安芸対馬?
↓↑ 順は叔(三番目・を・シュク)?
が
「征韓論」の記事を寄稿
清・朝鮮の疑念を招き
日清・日朝関係が悪化
(八戸事件)
朝鮮では国王の父の
大院君が政を摂し
鎖国攘夷策
「丙寅洋擾・丙寅教獄」や
「シャーマン号」事件
で勝利
↓↑
明治維新
対馬藩を介して
朝鮮に対して
新政府発足の
通告と国交を望む交渉
日本の外交文書が
江戸時代の形式と異なる
と朝鮮側に拒否
明治三年(1870年)二月
明治政府は
佐田白茅・・・白の茅(かや・萱・伽耶・栢)
森山茂・・・・森の山の茂
を派遣
佐田は朝鮮の対応に憤慨
帰国後
征韓の建白
9月
外務権少丞
吉岡弘毅
を釜山に遣り
明治五年(1872年)一月
対馬旧藩主を
外務大丞に任じ
9月に
外務大丞
花房義質を派遣
朝鮮は応じず
明治六年
四月、五月
釜山において官憲の先導で
ボイコット
日本国内で征韓論が沸騰
↓↑
大院君は
「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん
我が国人にして
日本人に交わるものは死刑に処せん」
と布告
外交官として釜山に居た
佐田、森山
等は事の次第を政府に報告
↓↑
明治六年(1873年)6月
森山帰国後閣議で
対朝鮮外交問題
参議
板垣退助
は閣議で
日本人居留民保護
を理由に派兵を主張
西郷隆盛は派兵に反対
自身が大使として赴くと主張
後藤象二郎
江藤新平
らもこれに賛成
中国から帰国した
副島種臣は
西郷の主張に賛成し
西郷ではなく自らが赴く事を主張
二人の議論の末
三条実美の説得もあり
副島が折れ
板垣退助も西郷のために尽力
三条実美の承諾を得て
西郷を使節として
朝鮮に派遣することを上奏
↓↑
同年8月
明治政府は
西郷隆盛を使節として派遣決定
9月に帰国した
岩倉具視
木戸孝允
大久保利通
らは時期尚早と反対
10月
太政大臣三条は病に倒れ
太政大臣代理となった
岩倉の意見が容れられ
遣韓中止が決定
西郷や板垣らの
征韓派は一斉に
下野(征韓論政変または明治六年政変)
↓↑
台湾出兵と江華島事件
翌年の
明治七年(1874年)
宮古島島民遭難事件を発端として
初の海外出兵となる台湾出兵
(木戸孝允は
征韓論を否定しておきながら
台湾への海外派兵を行うのは
矛盾として反対
参議を辞任下野)
↓↑
明治八年(1875年)
李氏朝鮮に対して
軍艦を派遣
武力衝突
江華島事件の末
日朝修好条規を締結
↓↑
佐賀の乱~
明治十年(1877年)
西南戦争
不平士族の乱・自由民権運動
ーーーーー
・・・
1875年9月20日~22日
江華島事件
(コウカトウ、カンファド)事件
朝鮮の
首府漢城の北西岸
漢江の河口に位置する
江華島(仁川広域市江華郡)付近で
日本
と
朝鮮の間で起こった武力衝突事件
朝鮮西岸海域を測量中の
日本の軍艦
雲揚号
が
江華島、永宗島砲台と交戦
軍艦の名を取って
雲揚号事件(うんようごうじけん)とも
日朝修好条規締結の契機
↓↑
![]()
明治太平記
(編輯:村井静馬
画:鮮斎(小林)永濯
序:明治8年3月27日
刊行明治13年(1880年)12月
判本:東京・小林鉄治郎)
絵図中にある
旭日旗は
1870年6月13日
(明治三年五月十五日)
太政官布告第355号により制定された
「陸軍御国旗(陸軍御國旗)」であり
この当時の
御国旗ないし海軍旗ではない
↓↑
軍艦旗(海軍旗)への制定は
明治二十二年
↓↑
1875年(明治八年)
当時の海軍旗は
この絵中の左にある海軍旗章
日本の初代軍艦旗(海軍旗)は
中央に
黄色いロープを巻きつけ
赤い桜花を上部に付けた
赤い錨を描き
2本の赤いジグザク横線を入れた
白旗
1871年(明治四年)
~
1888年(明治二十一年)
まで軍艦に使用
当時の韓兵は白衣
ーーーーー
以下も以上も原文は「wikipedia」から
・・・「卯一記経出蛙」・・・
↓↑
興宣大院君(フンソンデウォングン)
大院王(テウォンワン)
1820年12月21日
(時憲暦嘉慶25年11月16日)
~
1898年2月22日
(時憲暦光武2年2月2日)
李氏
朝鮮末期の王族
字は「時伯」
号は「石坡・海東居士」
本名は李昰応(リ・カオウ・イ-ハウン)
南延君の四男
母は郡夫人驪興閔氏
高宗の実父
↓↑
1864年1月~1873年11月
高宗の実父として朝鮮の国政を司り
外戚の専横排除に関連した
古い体制打破を目的とした
具体的には
有能な人材の登用
官制改革の実施
小作人制度の撤廃による
農地の平等分与
など・・・
1866年
フランス人神父
9名
カトリック信者
約8,000名を捕らえて処刑
(丙寅教獄)
江華島へ侵攻した
フランス艦隊を撃退
(丙寅洋擾)
通商を求め
大同江を遡上してきた
アメリカ商船
ジェネラル・シャーマン号を焼き払った
↓↑
外戚の専横排除を目的に
閔妃を高宗の王妃にする
乙未事変
閔妃が暗殺された後
1898年
79歳で死去
↓↑
「大院君」=直系でない国王の実父に与えられる称号
興宣大院君=大院位大監
↓↑
1873年11月3日
大院君の批判する上疏を
崔益鉉が提出
閔妃、神貞王后は
高宗に問い詰め
権門勢家及び各党派そろって
大院君を牽制し、大院君失脚
高宗親政を宣言
閔妃は大院君に代わって大権を握り
大院君は雲峴宮で隠居
閔妃は
鎖国・攘夷政策を捨て
開国政策
日朝修好条規で
朝鮮の門戸開放
↓↑
福沢諭吉邸で
金玉均・朴泳孝・金弘集
らを中心とした
親日開化派が決起・・・
↓↑
1868年(明治元年)12月19日
明治新政権樹立の
通告と
条約に基礎づけられた
近代的な
国際関係の樹立を求める
国書を持つ使者を
李氏朝鮮政府に派遣
大院君の
攘夷を掲げる朝鮮政府は
西洋化を進める明治政府を訝しみ
中華王朝の
皇帝にのみ許される
称号である「皇」
中華皇帝の詔勅を意味する
「勅」の文字が入っていること
などを理由に国書の受け取りを拒否
(書契問題)
↓↑
明治政府は
朝廷直交を実現すべく
朝鮮外交の権限を外務省に一元化し
対馬宗氏を除外して
皇使を派遣すべきだとの意見
調査目的に
佐田白茅らが派遣
1870年(明治三年)
彼は
「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべき」
という征韓の建白書を提出
↓↑
外務省は
対馬宗氏を通して
朝鮮外交の一本化を進める
宗氏派遣計画
(1871年(明治四年)2月)
柳原前光の
清国派遣
(1871年(明治四年)8月政府等対論)
同年9月13日
清国と日清修好条規が締結
1871年(明治四年)4月
アメリカ艦隊が
江華島の砲台を占領
朝鮮側がこれを奪還
(辛未洋擾)
朝鮮の攘夷
1871年(明治四年)末
岩倉使節団が西欧派遣
国政・外交に
関する重要な案件は
1873年(明治六年)秋まで
棚上
↓↑
1872年(明治五年)5月
外務省官吏
相良正樹は
外出を禁じられていた
草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)
を出て
東莱府へ出向き
府使との会見を求めた
(倭館欄出)
↓↑
同年9月
対馬藩が管理していた
草梁倭館を
大日本公館と改名し
外務省が直接管理
草梁倭館は
朝鮮政府が
対馬藩の為に建て使用を認めた施設
対馬藩は
日本と朝鮮の間の交渉窓口の立場
この日本側の措置に
東莱府使は激怒
10月に
大日本公館への食糧等の供給を停止
日本人商人による貿易活動の停止を行った
↓↑
1873年(明治六年)
5月31日付けの
広津報告を受け
朝鮮への使節派遣が閣議
倭館の館門に掲示された
伝令書が日本を侮辱と強調し
出師を前提に
「陸軍若干軍艦幾隻」派遣すべく
協議を求めた
(征韓論)・・・
ーーーーー
・・・???・・・「神 人を守るに非ず 人 実に神を守る」・・・
「ヒト 人を守るに非ず 人 実にヒトを守る」・・・
「ヒト」って、ダレッ・・・?
↧
↧
November 28, 2018, 4:29 am
・・・2018年・・・2+0+1+8=11・・・11月27日・・・1+1+2+7=11・・・十一・壱壱・拾壱・足壹・・・eleven・the eleventh・・・1111年11月11日11時・・・?・・・1111 November 11・・・
辛卯年
日本
天永二年
皇紀1771年
中国
北宋 政和元年
遼 天慶元年
西夏 貞観十一年
南越=ベトナム
李朝 会祥大慶二年・・・ベトナム、李朝の
仁宗李乾徳の治世の元号
1110年~1119年
↓↑
1111年誕生
アンドレイ・ボゴリュブスキー
(Andrei Bogolyubsky)、
ウラジーミル大公・・・裏字意見留考?
(1111~1175年)
↓↑
1111年死去
アルガゼル(Algazer)
イスラム神学者
スンナ派のイスラーム諸学を形作った
トゥースに帰郷
1111年12月18日死去
↓↑
ロベール2世
フランドル伯
第1回十字軍に参加
「エルサレムのロベール」
1111年10月5日死没
↓↑
プッリャ公ルッジェーロ1世
(伊:Ruggero I, 1060/61年~1111年2月22日)
プッリャ・カラブリア
および
シチリア公(1085年~1111年)
ルッジェーロ・ボルサ(Ruggero Borsa)とも・・・
ボルサとは財布の意
金勘定が好きでついた渾名(あだな・綽名・仇名)
↓↑
ボルサリーノ(イタリア語: Borsalino)
イタリアの
アレッサンドリアに本社を置く
帽子メーカー・及びブランド
2017年12月19日
イタリアの老舗帽子メーカー
「ボルサリーノ(Borsalino)」が破産
「ボルサリーノ(原題: Borsalino )」
1970年公開のフランス= イタリア合作映画
ジャン=ポール・ベルモンド
アラン・ドロン
ビッグ・ガン
「オルネラ・ヴァノー二の歌(L'appuntamento )」
「逢びき(Ornella Vanoni - L'appuntamento)」
https://www.youtube.com/watch?v=Bq37jQTZFkM&feature=related
https://www.youtube.com/watch?v=z4nhDtkzhRg
↓↑
蕭 常哥=ショウジョウカ
蕭=艹+肅
異体字「䔥・萧・萧」
草の名
よもぎ(蓬・艾)の一種・蕭艾
ものさびしい・蕭蕭・蕭条・蕭然
蠨=虫+蕭=足長(脚長・肢長)蜘蛛(くも)
常(つね)に哥(うた)う
与模擬がイツモ歌う・・・?
遼・・・・遼朝・内モンゴルを中心で
↓↑ 契丹族が満州、モンゴル、華北
を支配(907/16~1125)し
中国北辺を支配した契丹人(キタイ人)
耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝
満州から中央アジアの地域に存在し半農半牧
女真と南の宋に挟撃され
1125年に滅亡
↓↑ ↓↑
黒契丹=カラは黒、キタイは契丹
西遼=契丹人の遼の皇帝の一族の
耶律大石
が
金(女真)・宋軍に
首都燕京を攻撃され
脱出して外モンゴルを経て西進
中央アジアに入り
カラ=ハン朝を倒して
↓↑ 1133年に建国
↓↑ カラ=黒⇔カラス=烏・鴉
=加羅州・香良洲
枯らす・涸らす・嗄らす
↓↑ 唐州・韓州・・・
の政治家
字は胡独菫
諡は欽粛
容貌魁偉で寡黙
祗候郎君
本族将軍
松山州刺史を歴任
太子太師
国舅詳穏
遼興軍節度使
北府宰相
兼侍中
天慶元年(1111年10月18日)死去
↓↑
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藤原宗円
別名
粟田宗円、宇都宮兼綱
石山寺(大谷寺)座主
宇都宮座主
天永二年(1111年)十月十八日に死没
↓↑
藤原正家
儒宗
文章博士
式部大輔
藤原北家真夏流(日野家)
式部権大輔・藤原家経の子
文章博士
天永二年十月十二日(1111年11月14日)死去
↓↑
大江匡房=死没天永二年十一月五日(1111年12月7日)
主君
後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇
東宮学士
太宰権師
大蔵卿
江家文庫を設置
↓↑
大江広房→橘広房
大江匡房の養子、後に橘氏長者
文章得業生(もんじょうとくごうしょう)
天永二年(1111年)
美濃国に向かう途中で
下野守・源明国との間で私闘
殺害された
↓↑
・・・紀伝道(きでんどう)=日本律令制の大学寮において
歴史(中国史)を教え
後に漢文学の学科である文章道(もんじょうどう)
と統合し
歴史・漢文学の両方を教える学科となり
学科は「紀伝道」
博士は「文章博士」と別々の正式名称を用い
通称として
「紀伝博士」
「文章道」という呼び方も用いられた・・・
↓↑
永観(ようかん・えいかん)
平安時代後期の三論宗の僧
実父は
文章生
源国経
石清水八幡宮別当元命の養子
禅林寺の7世住持
↓↑
呂恵卿
中国北宋の政治家
字は吉甫
号は恩祖
閩南晋江(福建省泉州市晋江市)出身
参知政事を務めた新法党の人物
著作
『文集・孝経伝・道徳経注・論語義・荘子解』等
↓↑
源 国信(みなもと の くにざね)
天永二年一月十日(1111年2月26日)死去
↓↑
chapter=本・論文などを章に分ける
本などの
章・・・立+日+十
項目・・工+頁+目
人生・歴史などの重要な一区切り
一時期を画すること
たいせつな一部分
tʃǽptər=チャプター
chapters・chaptering・chaptered
-ーーーー
CHAPTER 11
創世記
第11章
↓↑
ヨハネによる福音書
第11章
↓↑
マルコによる福音書
第11章
↓↑
マタイによる福音書
第11章
↓↑
ルカによる福音書
第11章
↓↑
ローマ人への手紙
第11章
↓↑
ヘブル人への手紙
第11章
↓↑
申命記
第11章
過去的出来事の無知
↓↑
士師記
第11章
遊女
私娼問題
庶子問題
↓↑
列王紀上
第11章
契約不履行
分断
↓↑
ダニエル
第11章
南北問題
ーーーーー
舊約(旧約)
↓
漢字表題(タイトル・title)
創世記
出埃及記=出エジプト記
利未記=レビ記
民數記=民数記(みんすうき)
申命記=申命記(しんめいき)
約書亞記=ヨシュア記(よしゅあき)
士師記=士師記(ししき)
路得記=ルツ記
撒母耳記上=サムエル記上
撒母耳記下=サムエル記下
列王紀上=列王紀上(れつおうき・じょう)
列王紀下=列王紀下(れつおうき・げ)
歷代志上=歷代志上(れきだいし・じょう)
歷代志下=歷代志下(れきだいし・げ)
以斯拉記=エズラ記
尼希米記=ネヘミヤ記
以斯帖記=エステル記
約伯記=ヨブ記
詩篇=詩篇(しへん)
箴言=箴言(しんげん)
傳道書=伝道の書(でんどうのしょ)
雅歌=雅歌(がか)
↓↑
以賽亞書=イザヤ書
耶利米書=エレミヤ書
耶利米哀歌=哀歌(あいか)
以西結書=エゼキエル書
但以理書=ダニエル書
↓↑
何西阿書=ホセア書
約珥書=ヨエル書
阿摩司書=アモス書
俄巴底亞書=オバデヤ書
約拿書=ヨナ書
彌迦書=ミカ書
那鴻書=ナホム書
哈巴谷書=ハバクク書
西番雅書=ゼパニヤ書
哈該書=ハガイ書
撒迦利亞書=ゼカリヤ書
瑪拉基書=マラキ書
↓↑
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新約(しんやく)
馬太福音=マタイによる福音書
馬可福音=マルコによる福音書
路加福音=ルカによる福音書
約翰福音=ヨハネによる福音書
↓↑
使徒行傳=使徒行伝(しとぎょうでん)
羅馬書=ローマ人への手紙
哥林多前書=コリント人への第一の手紙
哥林多後書=コリント人への第二の手紙
加拉太書=ガラテヤ人への手紙
以弗所書=エペソ人への手紙
腓立比書=ピリピ人への手紙
歌羅西書=コロサイ人への手紙
帖撒羅尼迦前書=テサロニケ人への第一の手紙
帖撒羅尼迦後書=テサロニケ人への第二の手紙
提摩太前書=テモテへの第一の手紙
提摩太後書=テモテへの第二の手紙
提多書=テトスへの手紙
腓利門書=ピレモンへの手紙
希伯來書=ヘブル人への手紙
雅各書=ヤコブの手紙
彼得前書=ペテロの第一の手紙
彼得後書=ペテロの第二の手紙
約翰一書=ヨハネの第一の手紙
約翰二書=ヨハネの第二の手紙
約翰三書=ヨハネの第三の手紙
猶大書=ユダの手紙
啓示錄=啓示録(けいじろく)
↓↑
書卷分類
摩西五經=モーセ五書
四福音書=四福音書(よんふくいんしょ)
心臟書=心臓の書
歷史書=歴史の書
預言書=予言の書
書信=書簡(しょかん)
保羅的書信=パウロの書簡
傳記=伝記(でんき)
↓↑
聖經編
排的構成
經節
章節
綱目
註解
↓↑
希伯來文=ヘブル語
亞蘭文=アラム語
拉丁文=ラテン語
希臘文=ギリシャ語
原文=原文(げんぶん)
直譯=文字どおり
七十士譯本=七十士希臘譯本
=七十人訳(ななじゅうにんやく)
死海古卷=死海写本(しかいしゃほん)
ーーーーー
・・・バベル・・・言語崩壊・・・???・・・
祥=礻+羊=示+羊=𢒑
さいわい・さち・きざし・ショウ
さち・めでたい
嘉祥(カショウ)・吉祥
きざし・前ぶれ
祥雲
喪明けの祭り
祥月
通仮字「翔・詳・常」
異体字「祥・𢒑」
清祥・多祥・不祥事
嘉祥・瑞祥・発祥
忌み明けの祭り
祥月・小祥・大祥
発祥・吉祥・不祥事
さが=祥兆・前兆
↓↑
さが=性=相=たち
生まれつきの性質・性格
持って生まれた宿命
いつもそうであること・常態・尋常
ならわし・習慣
よいところと悪いところ
特に、欠点や短所
↓↑
比べた時、比較したときのモノの
…さ+が=……~さ+が=「様子、様態」が…である
…凄さが・甘さが・辛さが・華麗さが
…適切さ がアル、ナイ
↓↑
サガ=佐賀=嵯峨・砂賀・佐雅・相賀
・・・相模(佐賀美・相見・さがみ)
・・・佐賀美邇・・・・サガミに
迦美而、・・・かみて
(古事記)
↓↑
さがなし=意地が悪い・性格が悪い・たちが悪い
性なし
口が悪い・口うるさい
いたずら好きだ
差が無し=同じ・同類・同種・・・?
↓↑
さがなし=形容詞・ク活用 未然形
さがなく・さがなから
連用形
さがなく・さがなかり
終止形
さがなし
連体形
さがなき・さがなかる
已然形
さがなけれ
命令形
さがなかれ
性格が悪い・ひねくれている
意地が悪い
↓↑
さが=よいところ・質
なし=無い
↓↑
サガ(アイスランド語: saga 複数形: sögur)
おもに中世
アイスランドで成立した
古ノルド語(古北欧語、古アイスランド語とも)
による散文作品群の総称
サガ=古アイスランド語の
segja(「言う」を意味する動詞
英語のsay
ドイツ語のsagen
に相当する)から派生した言葉
「語られたもの、語り物、物語」
を意味する
↓↑
「さがみに カミて カミくだき・・・」
佐賀美邇・・・・サガミに
迦美而、・・・かみて
於
吹棄氣
吹之・・・
↓↑
天照大神(アマテラス)
と
建速須佐之男命(スサノオ・素戔嗚尊)
の誓約(ウケイ・占い)
うけい(うけひ)=宇気比、誓約、祈、誓
あらかじめ宣言を行い
そのどちらが起こるかによって
吉凶、正邪、成否などを判断する
↓↑
天照大御藭詔
「然者、汝心之芿明、何以知。」
於是、
速須佐之男命
答白
「各宇氣比而生子。(自宇以下三字以音、下效此)」
↓↑
故爾各中置 天安河而、宇氣布時、
天照大御藭、
先乞度
建速須佐之男命
所佩
十拳劒、打折三段而、
奴那登母母由良邇(此八字以音、下效此)
振滌
天之眞名井而、
佐賀美邇・・・・
迦美而 ・・・・
(自佐下六字以音、下效此)、
於
吹棄氣
吹
之
狹霧所成藭御名、
多紀理毘賣命(此藭名以音)、
亦御名、謂
奧津嶋比賣命。
次
市寸嶋上比賣命、
亦御名、謂
狹依毘賣命。
次
多岐都比賣命。三柱、(此藭名以音)。
↓↑
速須佐之男命、
乞度
天照大御藭
所纒左
御美豆良
八尺勾璁
之
五百津之美須麻流珠而、
奴那登母母由良爾、
振滌
天之眞名井而、
佐賀美邇・・・・
迦美而、・・・・
於
吹棄氣
吹
之
狹霧所成藭御名、
正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。
亦乞度所
纒右御美豆良之珠而、
佐賀美邇・・・・
迦美而、・・・・
於
吹棄氣
吹
之
狹霧所成藭御名、
天之菩卑能命。(自菩下三字以音)。
亦乞度所
纒御𦆅之珠而、
佐賀美邇・・・・
迦美而、・・・・
於
吹
棄氣
吹
之
狹霧所成藭御名、
天津日子根命。
又乞度所
纒左御手之珠而、
佐賀美邇・・・・
迦美而、・・・・
於
吹
棄氣
吹
之
狹霧所成藭御名、
活津日子根命。
亦乞度所
纒右御手之珠而、
佐賀美邇・・・・
迦美而、・・・・
於
吹
棄氣
吹
之
狹霧所成藭御名、
熊野久須毘命。(自久下三字以音)。
幷五柱。
↓↑
於是
天照大御藭、
告
速須佐之男命
「是後所生
五柱男子者、
物實
因我物所成、
故、自吾子也。
先所生
之
三柱女子者、
物實
因汝物所成、
故、乃汝子也。」
如此
詔別也。
ーーーーー
・・・佐賀美邇・・・・サガミに=佐我彌爾(書紀)
迦美而、・・・かみて =加武而(書紀)
於吹棄氣吹之・・・ =吹棄氣噴(書紀)
噛みに噛み砕き
吐き出した息吹の・・・
吹き棄(うつ)る気吹(いぶき)の
𪗾然咀嚼(書紀)
吹棄氣噴之而」
𪗾然咀嚼(書紀)
𪗾然咀嚼、此云
佐我彌爾=佐賀美邇(古事記)
加武而 =迦美而(古事記)
吹棄氣噴之=吹棄氣吹之(古事記)
↓↑
𪗾然(さがみ・コツゼン?キツゼン?)に
咀嚼(か・ソシャク⇔租借)みて
・・・かじる=囓る・齧る・噛る・・・化字留・佳字留
bite (at)・gnaw (at)・nibble (at)・crunch
chew・・・栗鼠・鼠
リス(栗鼠)は、ネズミ目(齧歯目)リス科
くりス・移鼠=クリスト
![]()
𪗾然咀嚼、此には佐我弥爾加武(さがみにかむ)と云ふ。?
相武国=さがむのくに=相模国
「𪗾=歯+吉」=異体字「𪙏=歯+害」・・・?
𪗾=齒+吉=齿+吉
=カツ・ケチ・ゲチ
吉(柔)=害(硬・固)・・・?
硬いモノはよく齧る・咀嚼・反芻
老人の歯=こう歯会=尚歯会
尚歯会
主宰は遠藤泰通(遠藤勝助)
高野長英、小関三英、渡辺崋山
江川英龍、川路聖謨
シーボルトに学んだ
鳴滝塾の卒業生
吉田長淑に学んだ者などが
中心となって結成
尚歯=尚(とうとぶ)
歯(年歯・年齢)
老人への敬老
↓↑
𪗾然咀嚼
𪗾然咀嚼、
此云
佐我彌爾
加武而
吹棄氣噴
之狹霧吹棄氣噴之狹霧、
此云
浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理所生藭、
號曰
田心姬。
次
湍津姬、
次
市杵嶋姬、
凡三女矣。
↓↑
𪗾然咀嚼、而吹棄氣噴之 狹霧所生藭
囓斷瓊端、而吹出氣噴之 中化生藭
囓斷瓊中、而吹出氣噴之
囓斷瓊尾、而吹出氣噴之
囓斷劒末、而吹出氣噴之
↓↑
尚歯会
最高齢の主人を含む
7人の高齢者が招かれ、集まり
詩賦、和歌を作る
音楽歌舞の遊宴
7人は「七叟」
その他は「垣下」で相伴
845年
唐で
白居易が催した故事が起源
↓↑
貞観十九年(877年)
南淵年名
がその山荘で行なった
「皇年代略記」陽成に
「元慶元年三月
大納言
南淵年名
設二
尚歯会宴一」
「濫觴抄」下に
「尚歯会
陽成二年丁酉(貞観十九)三月
南淵年名設」
↓↑
安和二年(969年)三月十三日
藤原在衡によって
粟田山荘で(日本紀略、本朝文粋)
天承元年(1131年)三月(二十日とも二十二日とも)
藤原宗忠によって
白河山荘で(百練抄、長秋記、今鏡、古今著聞集)
それぞれ開かれた
白居易の先例にならって
詩賦の遊宴
↓↑
承安二年(1172年)三月十九日
藤原清輔によって
白河の宝荘厳院において催された
和歌の尚歯会の最初(百練抄、愚昧記)
↓↑
養和二年(1182年)
賀茂茂重
(古今著聞集)
以後、
尚歯会は
詩賦と和歌とに分かれた
↓↑
江戸時代
年賀の席で兼ねて行なわれ
連歌、俳諧を交えて行なわれた
↓↑
「風のしがらみ」
宝永四年(1707年)十二月十一日
中院通茂
が77歳のとき尚歯会を催した
↓↑
「渡辺幸庵対話」「嬉遊笑覧」によれば
宝永五年(1708年)十二月
谷中感応寺のとなりの草庵で
渡辺幸庵の尚歯会があった
渡辺は127歳で上座
「長生殿裏春秋富」
「不老門前日月遅」
の2句を書いて壁に掛けた
↓↑
「翁草」によれば
正徳五年(1715年)三月
江戸
生島幽軒八十の賀に
老人7人の集会
榊原越中守家来
初名金五郎 志賀瑞翁 167歳
医師 小林勘斉 136歳
松平肥後守内 佐治宗見 107歳
旗本 初名権左衛門 石寺宗寿 97歳
医師 谷口一雲 93歳
旗本 下条長兵衛 93歳
浪人 岡本半之烝 83歳
旗本 初名山田市之烝 亭主 生島幽軒 81歳
↓↑
「翁草」によれば
享保八年(1723年)三月一日
霊元法皇の御所から高寿の人を召され
尚歯会に准られ
↓↑
「武江年表」によると
享保十一年(1726年)十一月十八日
「大道寺友山翁尚歯会
志賀随翁
其余六人の翁会すると云、姓名未詳」
↓↑
「視聴草」によると
明和六年(1769)
奥医師
武田長春院の尚歯会が
仙台河岸の別荘であった
↓↑
「尾張名所図絵」によると
安永十年(1781年)三月九日
内藤閑水の催しで
府下高齢者9人が
金剛山長栄寺に集会し
尚歯会で
詩歌連俳を詠出
ーーーーー
???・・・𪗾然(さがみ・コツゼン?キツゼン?)・・・
忽然=物事の出現・消失が急なさま・突然
屹然=山などが高くそびえ立つさま
孤高を保ち周囲に屈しないさま
他に屈せず、自立しているようす
・・・
↧
December 1, 2018, 5:23 am
・・・トワナイ「人人」・・・ナラビ「立ち並(竝)ぶ人々」・・・「並(竝)ぶ人形=陶器の兵隊・粘土の兵隊=騎兵俑・軍馬俑・彩色兵士、兵馬俑(ヘイバヨウ)」・・・「従=彳+从+止=從=从=人+人=彳」+䒑+龰」・・・異体字は「從・从・䢨・苁・踨・踪・蹤=したがう・したがえる・より・ジュウ・ショウ・後について行く・つきしたがう・従軍・従者・侍従・臣従・随従・追従・つきしたがう者」・・・旧字は「從」・・・從=新字体は「従」・・・本字は「从」・・・「二人が前後する形」、「歩行を表す「辵(辶・チャク)」、「彳+止=辵⇔辶」・・・
![]()
「並(竝の略字)=なみ・ならべる・ならぶ・ならび・ヘイ・竝(旧字)・并(簡体字)・傡(異体字)」・・・「普通・平均的・同列にならぶ・並行・並称・並進・並存・並立・ 並列・なみ⇔並木・並並・毛並・月並・人並・町並・鮎並・足並・人並・街並・手並・軒並・家並・杉並木・鮎並女・十人並」・・・「アイナメ=鮎並・鮎魚女・愛魚女・相嘗=アユのように縄張りを持つため・鮎並が転訛・アユに似て滑らか・形が鮎に似ているので鮎魚女とした・賞味すべき美味な魚の意味」・・・「名のりは、なめ・み・みつ」・・・「日並」・・・「日雙」・・・
↓↑ ↓↑
「日並皇子尊=草壁皇子=日雙皇子命=岡宮天皇
=天武天皇の第二皇子
=母は持統天皇
=子供は文武天皇、元正天皇、吉備親王」・・・
「后は阿閉皇女=元明天皇
(第四十三代
在位707年7月17日~715年9月2日)」・・・
「日並皇子尊(岡宮天皇)
(ひなみしのみこのみこと)」
「妃は阿閉皇女(元明天皇)
日本根子天津御代豊国成姫天皇
(やまと ねこ あまつ
みよ
(みしろ)
とよくに なりひめの すめらみこと
豐國成姬)
和銅五年正月二十八日(Y・712年3月9日)
壬子・癸卯・丁酉
古事記の献上」
「子供は軽皇子(文武天皇)=珂瑠皇子
氷高皇女(元正天皇)
吉備皇女(夫は長屋王
子は膳夫王
桑田王
葛木王
鉤取王)」
↓↑
土or士・・・土=士=十+一=拾壱・拾壹・足壱・足壹
↓↑
「𡌶=土+並=異体字は垪
=土+并=圦(はか・はが ・はた)
=土+入=はが=芳賀」・・・
「𡌶=土+ソ+一+业
=十+一+丷+一+业
=十+一+䒑+业
=十+一+丷+亚
=土+並=𡌶」・・・土生(はぶ)・・・
「碰=石+並=麻雀のポン=カイ・コウ」
「磕=石+盍=磕磕は物がぶつかる音」
↓↑
![]()
ならび=𡌶・・・ならびつち=𡌶?
ならびいし=雙石
ならびおか=双岡. 並岡. 雙岡
ならびがおか=双岡
ならびまつ=双松
ならひら=奈良平
ならふ=楢府=ならぶ=楢府・奈良部
ならふえふき=奈良笛吹
ならべ=楢部・奈良部
ならま=奈良間
ならまつ=双松・雙松・奈良松
ならみだて=楢見館
ーーーーー
問わない
とは言えない
問わず
と得ず
永久にあらず
翔和(とわ)にあらず
↓↑
「とはずがたり(とわずがたり)」
人がたずねないのに、自分から語りだすこと
ひとりごと・独り言・一人言
Monologue
talk to oneself
say to oneself
mutter [mumble] to oneself
・・・「独り言の記録」ならば、
「日記」に類する記録だろう・・・
「ウェブログ(Weblog)の略
自分の意見や感想を日記風に記し
それに対する感想などを閲覧者が
自由にコメントできる形式のWeblog」
「Web(ウェブ)上にlog(ログ・記録)を
残すという意味のWeblog(ウェブログ)の略」
「個人の日記などを、簡便な方法で作成し
公開することができるウェブサイトの総称」
↓↑
「とはずがたり(とわずがたり)」・・・?
鎌倉時代の中後期
後深草院二条が綴ったとみられる日記、紀行文
後深草院に仕えた女房
二条の
14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの境遇
後深草院や恋人との関係
宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録
5巻5冊
1313年ごろまでに成立した・・・
↓↑
一般への公開は1950年(昭和25年)
桂宮本叢書第15巻が初
鎌倉時代後期
古写本一種類の断簡が数点知られる・・・
(by wikipedia)
↓↑
11年
干支 辛未
日本
垂仁天皇 四十年
皇紀671年
中国
新 始建国三年
朝鮮
高句麗 瑠璃明王三十 年
新羅 南解 王 八年
百済 温祚 王二十九年
↓↑
マルクス・アンティスティウス・ラベオ
(M. Antistius Labeo )
古代ローマの法学者(生年未詳、10年没説あり)
↓↑
マルクス
法学者
パクウィウス・アンティスティウス・ラベオ
の息子
父親のパクウィウスは
ジューリアス・シーザー
の暗殺者
マーカス・ユニウス・ブルータス
を支持
ローマ共和制度を信奉
博覧学、法原理、弁証法、言語学
生涯に400冊もの本を書いた
十二表法、近衛兵の布告、教皇の法
訴訟事件の収集
種々の
定義と法的な提案の収集や論評等に及んだ
彼の業績はほとんどが死後に発行
プロキュリアン法学校の創設者
↓↑
111年
干支 辛亥
日本
景行天皇 41年
皇紀771年
中国
後漢 永初 5年
朝鮮
高句麗 太祖王59年
新羅 婆娑王32年
百済 己婁王35年
↓↑
カール・ハインリヒ・マルクス
(Karl Heinrich Marx)
文化15年4月1日
1818年5月5日~1883年3月14日
戊寅(己・丙・甲) ⇔癸未(丁・乙・己)
丙辰(乙・癸・戊)害⇔乙卯(甲・ ・乙)
戊辰(乙・癸・戊) ⇔丁巳(戊・庚・丙)
戌亥=空亡
ーーーーー
・・・
高柳 健次郎
(1899年1月20日~1990年7月23日)
戊戌(辛・丁・戊)⇔庚午(丙・ ・丁)
乙丑(癸・辛・己)⇔癸未(丁・乙・己)
戊子(壬・ ・癸)⇔己丑(癸・辛・己)
午未=空亡
↓↑
日本ビクター元副社長
技術最高顧問
静岡大学名誉教授
日本のテレビの父
1926年12月25日
浜松高工にて
ブラウン管による
電送・受像を世界で初めて成功
送像側に機械式の
ニプコー円板と
受像側にブラウン管を用いて
片仮名の「イ」の文字を送受像
走査線の数は40本
「イ」の文字は
「いろは」順の最初の文字として選んだ
↓↑
いろはにほへと ちりぬるを
色はにほへど 散りぬるを
以呂波耳本へ止 千利奴流乎和加
伊路八尓保反都 知理沼留遠
↓↑
わかよたれそ つねならむ
我が世たれぞ 常ならむ
和加餘多連曽 津祢那良牟
王可与太礼祖 ツ年奈羅无
↓↑
うゐのおくやま けふこえて
有為の奥山 今日越えて
有為能於久耶万 計不己衣天
宇謂乃 九也末 介布古延弖
麻 気符
↓↑
あさきゆめみし ゑひもせす
浅き夢見じ 酔ひもせず
阿佐伎喩女美之 恵比毛勢須
安作畿由馬弥志 會皮文世寸
面 士 廻非裳
『金光明最勝王經音義』
↓↑
いろはにホへト
ちりぬるヲわカ
よたれそツねナ
らむうゐノおク
やまけふコえテ
あさきゆメみシ
ゑひもせ ス
↓↑
「壹與羅殺鴉得」・・・?
「呂理多夢真差異」・・・?
「歯塗例宇気記模」・・・?
「似留素意布由施」・・・?
「大津の来女(姑女)」・・・?
「経和音御重見」・・・?
「咎無くて死す」・・・?
↓↑
色 葉字類抄
伊呂波字類抄
↓↑
高柳 健次郎
1937年
NHKに出向
東京オリンピックの
テレビ放送を目指して
テレビ受像機の研究
1938年に日中戦争が激化
東京オリンピックは中止
テレビの研究も中断
レーダーや奮龍の
誘導装置などの研究
終戦後
NHKに戻ってテレビの研究を再開
GHQの指令によりテレビの研究を禁止
1946年
日本ビクターに入社
NHK、シャープ、東芝と共同で
テレビ放送技術とテレビ受像機を完成
ーーーーー
・・・???
↧
December 3, 2018, 2:20 pm
・・・「人災」で許せないのは「ヒト」だが、「自然災害」で許せない「モノ」は「ダレ」だろう?・・・「人災」で許される「ヒト」とは「ダレ」だろう?・・・「自然災害」で許される「モノ」は「ダレ」だろう・・・許される基準は「ナニ」によるんだろう・・・高速道路枠上の「煽り運転の被告」・・・
活殺格闘技の「相撲」と「土俵枠」、それに「行司審判」を決めたニホン人ってスゴイなァ~って・・・イクサが無くなって暴力組織が失業常態になった・・・武闘の興業化、見世物化・・・平安時代、パックスローマーナ・・・「Pax Romana (パークス・ローマーナ)」・・・[![]()
ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和・・・
パクス(パークス)=ローマ神話の平和と秩序の女神・・・
ホーラ三姉妹のエイレーネー(平和)
エウノミアー(秩序の女神)
ディケー(治安)
ギリシア神話の時間の女神、季節と秩序の三女神の
エイレーネー
「強大な一国の覇権による
相対的な平和」を
「パクス-」と呼ぶ・・・・葉句素?・・・グゥ・チョキ・パァ
把握守? 握る・挟む ・開く
パクス・ブリタニカ(イギリス)
パクス・アメリカーナ
パクス・モンゴリカ(タタリカ)・・・祟り化?
パクス・オトマニカ(オスマン)・・・音真似化?
パクス・エウロパエア
・・・国際平和は「空手⇔素手」で守れるか・・・
・・・市民社会は「空手⇔素手」で守れるか・・・
・・・個々人の生活は「空手⇔素手」で守れるか・・・
↓↑
日吉丸はナゼ「うり売り」に仮装したんだろうか?
「肥前(佐賀県)の名護屋城」で開催した
「瓜畑遊び」といわれる「仮装大会=やつしくらべ」で
関白秀吉が「瓜売」を演じた・・・
江戸時代の「太閤記(小瀬甫庵著、寛永三年)」・・・
文禄三(1594)年六月
瓜畑に、瓜屋や旅籠屋などを粗末な様子で建て
瓜売りの商人の仮装をした
↓↑
彼の出自は・・・?・・・名古屋中村
↓↑
豊臣秀吉
天文六年二月六日(1537年3月17日)
~
慶長三年八月十八日(1598年9月18日)
名 木下藤吉郎、秀吉
羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉
別名 元吉
渾名 木綿藤吉
豊太閤
猿
禿げ鼠
神号 豊国大明神
戒名 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
↓↑
父親(実父)は
木下 弥右衛門
家臣の
竹中重門の秀吉の一代記
『豊鑑』に
「郷のあやしの民の子なれば。
父母のなもたれかは志らむ。
一族なども志かなり」・・・不明、不詳・・・
後世には
カバネを持つ名主百姓
カバネを持たない最下層の貧民
下層農民
大工
鍛冶師
技術者集団
針売り商人
木地師
漂流民の
山窩(広義的な傀儡子)の出身
・・・さまざまな出自説・・・
↓↑
生年不詳
死没 天文十二年一月二日
(1543年2月5日)
別名 弥助、昌吉
戒名 妙雲院殿栄本虚儀・・・栄本は虚儀(虚偽)
主君 織田信秀
父母 吉高(弥助)
妻 大政所(なか)
子 瑞雲院日秀(三好吉房室)
秀吉(藤吉郎)
↓↑
豊臣秀吉の
母 なか・天瑞院
なか(仲)
永正十三年(1516年)
尾張国愛知郡御器所村
死没
天正二十年七月二十二日
(1592年8月29日)
別名
天瑞寺殿贈准三后従一位
春岩宗桂大禅定尼
肩書き 大政所、二位尼君
配偶者 木下弥右衛門
竹阿弥(筑阿弥・再婚相手)
子供 瑞龍院日秀、豊臣秀吉、秀長、朝日姫
親 関兼貞(関兼員)
親戚 妹:栄松院(小出秀政の室)
松雲院(福島正則の母)
大恩院(青木秀以の母)
従妹 聖林院
伊都(加藤清忠の室、加藤清正の母)
↓↑
義父・・・なかの後夫(再婚相手)
弥助(弥右衛門)=竹阿弥=筑阿弥
天文十二年(1543年)一月二日
秀吉が七歳(または8歳)の時に死去
戒名 妙雲院殿栄本虚儀
↓↑
「瓜=うり=ウリ⇔우리=○+丅+己+丨=We・Us」
「ウリは、話し相手が自分と親密な関係で使う
目上に向けては
ジョヒ(저희)を使い・・・저=𠆣(一人)+┫(卜の逆字)
𠆣の異体字「兀・𠆣・㐳・⺎」
희=亠+○+一+丨
亠=音・鍋蓋
ウリ(우리)は使わない」・・・우=○+丅
丅=下
리=己+丨
↓↑ ↓↑
瓜にツメあり、爪にツメなし・・・
瓜に爪 あり、爪に爪 なし
「瓜(カ・ク)」という字にはつめ(ム)があり
「爪(ソウ・ショウ)」という字にはつめ(ム)がない
↓↑
戌に棒(-)あり戊に棒(-)なし
いぬ(犬・狗)にボウあり、ぼう(戊・ボ)にボウなし
↓↑
いぬ(犬・ケン)に点(丶・チュウ)あり、
おほい(大・ダイ)に点(丶・チュウ)なし
↓↑
いぬ(狗・グ・ク)に犭(いぬ・けものへん・ケン)あり、
ク(句・ク)に犭(いぬ・けものへん・ケン)なし
↓↑
ク(句・ク)に口あり
ク(勹・ホウ・ヒョウ)に口なし
↓↑ ↓↑
若(わか)いと言う字は、「苦しい」と言う字に似てる・・・
若(わか)いと言う字は、「若(も)しも」ともヨム・・・
ナゼだ?・・・「if(イフ)」は未来への可能性・・・
「隠匿」の「匿(かくす・かくれる・トク・ジョク)」は
匿=匚(はこ・ホウ)に若を隠す・・・
見られたくないモノを匚(はこ・ホウ)に隠すって?
男子なら・・・・ポルノ(Pornography)・春画・・・
女子は・・・???・・・
↓↑
瓜
gourd・・・Gourd=ゴード
まくわうり
oriental melon
きゅうり
cucumber
しろうり
pickling melon
瓜の蔓(つる)には茄子(なすび)はならぬ
Like father, like son.
An onion will not produce a rose.
瓜二つ 二人は瓜二つ
Those two are
exactly alike
[as like as two peas (in a pod)].
↓↑ ↓↑
文禄の役・・・文の禄の訳
↓↑ 官人に下付される給与
律令制では
絁(あしぎぬ)・綿・布・鍬(くわ)・穀物
など
後世は
知行地・扶持米(ふちまい)・給金
給与・給金・扶持
stipend
get a salary 《from》be on the payroll
↓↑ 当座の褒美・贈り物
文禄(1592)四月中旬日本軍、釜山上陸
~
文禄二年(1593)
文禄元年=万暦二十年=宣祖二十五年=1592年
文禄二年(1593年)に休戦
文禄元年四月十三日
1592年5月24日~1593年7月
朝鮮半島全域
満州・豆満江一帯
小西行長
と
沈惟敬
らの協議によって日本と明の間で休戦成立
日本軍は南に後退、朝鮮半島に築いた城塞に駐留
↓↑
慶長二年(1597年)の講和交渉決裂
慶長三年=万暦二十六=宣祖三十一年=1598年
↓↑
慶長の役
1597年1月~1598年12月
朝鮮半島三南地方
豊臣秀吉死去で日本軍が帰国終結
↓↑
支那明国
李氏朝鮮
ーーーーー
「スポーツ興行」・「祭りとして奉納行事」
「相撲(すもう)=土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭りで、同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている」・・・
ーーーーー
志賀 清林
↓↑ ・・・志賀 直哉
↓↑ (1883年・明治十六年)2月20日
~
1971年(昭和四十六年)10月21日
宮城県石巻生まれ
白樺派
小説の神様・・・?
「小僧の神様」1920年(大正九年)
雑誌「白樺」に発表
デビュー作
「網走まで」(1910年)
「或る朝」(1918年)
↓↑ 「菜の花と小娘」(1920年)
1913年(大正二年)8月15日
東京
「出来事」という小説を書き上げた晩
里見紝と一緒に
↓↑ 素人
相撲を見に行く・・・↓↑
その帰り道に
山手線の電車にはねられ
重傷を負い
東京病院(東京慈恵会医科大学附属病院)
に入院
同年10月
その養生のために
兵庫県の城崎温泉に滞在
城崎滞在中、直哉は
蜂・鼠・いもり
という3つの小動物の死を目撃
短編「城の崎にて」・・・
↓↑ ↓↑↓↑
志賀 清林
(しが の せいりん)
奈良時代の力士・行司
最高位は最手
↓↑
相撲の吉田司家や各行司家に伝わる
『相撲傳書』『相撲講本』『相撲式』
等に登場
奈良時代の
726年(神亀三年)
近江国から朝廷に出仕
相撲の技
四十八手
と
礼法
と
「突く・殴る・蹴る」の
三手の禁じ手を制定する事を
聖武天皇に奏上した人物・・・
↓↑
志賀清林
「近江國
志賀ノ里ニ
志賀清林ト云ヘル者」と
『相撲式』(吉田司家蔵)にあり
本町木戸の出身
相撲司吉田家の伝承によると
734年(天平六年)
「相撲節」の立案に携わり
相撲の公認の作法を作った
国技相撲行司の始祖・・・
↓↑
相撲
力くらべや神事
『日本書紀』
『続日本紀』に
719年(養老三年)
7月に
宮中相撲節を担当する
「抜出司」が任命された
7月7日(七夕)の
宮中行事としての相撲節会がなされたが
志賀清林は
それまで明確な作法も土俵もなく
生死を賭けた闘技であったものを
「突く、蹴る、殴る」
の三技を禁手とし
手による「なげ」
足による「かけ」
腰による「ひねり」
頭による「そり」
の四手を基本に
おのおの
十二手の決まり手を付し
相撲四十八手とした
相撲確立の第一人者・・・
↓↑
志賀清林死後
志賀家は行事の家として代々務め
平安時代末期に相撲が中断し断絶
相撲司は
吉田家(吉田司家)に移り
吉田家から
木村家・式守家により継承
↓↑
1918年(大正七年)
板垣退助碑文の
志賀清林埋骨之碑が
清林顕彰会によって建てられた
↓↑
日本国内外の同じような形態の格闘技
沖縄本島の沖縄角力(シマ)
モンゴルのブフ
中国のシュアイジャオ
朝鮮半島のシルム
トルコのヤールギュレシ
セネガルのラム
↓↑
「すもう」
「すまひ」が「すもう」に変化
「角力」、「捔力」(『日本書紀』)
「角觝」(江戸時代において一部で使用)
「力くらべ」を指す言葉
古代には
「手乞(てごい)」とも呼ばれていた・・・
(手乞とは、相撲の別名とされ
相手の手を掴む事の意
素手で勝負をする事を意味)
↓↑
英語で
「sumo(スモウ)」
「sumo-wrestling(スモウ・レスリング)」
↓↑
組み合う格闘技
相撲と呼ぶ
腕相撲、足相撲、指相撲、拳相撲、草相撲
紙相撲
↓↑
記録の最古
『古事記』の
葦原中国平定の件で
建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して
出雲の
建御名方神(タケミナカタ)が
「然欲爲力競」と言った後
タケミカヅチの腕を摑んで投げようとしたが
タケミカヅチが手を氷柱へ
また氷柱から剣(つるぎ)に
変えたため掴めなかった
逆に
タケミカヅチは
タケミナカタの手を
葦のように握り潰し
勝負にならなかった
↓↑
人間同士の相撲で最古のもの
垂仁天皇七年(紀元前23年)七月七日 (旧暦)
野見宿禰
と
「當麻蹶速(当麻蹴速)」
「捔力(すまいとらしむ・スマヰ
すまい・スマヰと訓す)」
での戦い
「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」
「各擧足相蹶
則蹶折
當麻蹶速
之脇骨
亦
蹈折其腰
而殺之」
とあり
試合展開は主に
蹴り技の応酬
最後は
宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り
更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃し
腰骨を踏み折り、絶命させた
現代の相撲とはルールも意識も異なる
武芸・武術
宿禰・蹶速は相撲の始祖
↓↑
『古事記(垂仁記)』
「ここをもちて軍士の中の力士の
軽く捷きを選り聚めて
宣りたまひしく、その御子を取らむ時
すなわちその母王をも掠取れ。
髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に
掬みて控き出すべし。とのりたまひき。
ここにその后
かねてかその情を知らしめして
悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ
また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし
また酒もちてその御衣を腐し
全き衣の如服しき。
かく設け備へて、その御子を抱きて
城の外にさし出したまひき。
ここにもの
力士等、・・・・力士=相撲取り
その御子を取りて
すなはちその御祖を握りき。
ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち
その御手を握れば、玉の緒また絶え
その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ」
↓↑
「力士=ちからひと
=すまひひと
=相撲取り」・・・リキシ?
↓↑
「相撲」の記録表記は
「日本書紀の雄略天皇十三年」
の記述で、当時の
木工にして
黒縄職人?・・・黒(くろ)の縄(なわ)
であった
猪名部真根
が
「決して(刃先を)誤らない」
と天皇に答えたため、
雄略天皇が
采女を呼び集めて服を脱がせ
褌にして相撲を取らせた
記述が初見
↓↑
「万葉集」と「相撲」
相撲使の役人
大伴君熊凝(くまごり)
が
某国司(それのくにのつかさ)
官位姓名の従者(ともびと)となり
諸国から力士を選別し
都に上る途中、都へ向かった
だが
途上、病にかかり
そのまま
安藝国
佐伯郡(さへきのこほり)
高庭(たかには)
の駅家(うまや)で
身故(みまか)った。
18歳
↓↑
大伴熊凝
が急病で亡くなり
それを悼んで
本人になり代わって・・・?・・・代行して?
山上憶良が
詠った歌・・・・・・・・?・・・ウタった?・・・ナゼ?
↓↑ ↓↑
「出でて行きし
出 弖由伎斯
日を数 へつつ
日乎可俗閇都々
今日今日と
家布々々等
我を待たすらむ
阿袁麻多周良武
父 母 らはも
知々波々良波母」
巻五(八九〇)
↓↑
(私の出て行った後の日を
数えながら
今日か今日かと
私の帰りを
待っているだろう
父母よ)
〔一(云はく)、母の悲しさよ〕」
↓↑
歌も巻五(八八六)の歌などと同じく
相撲使いの某国司(官位姓名)の
従人となって
奈良の都へと向かう途中で
亡くなった
大 伴 君 熊 凝
(おほとものきみくまこり)
の死を悼んで
山 上 憶 良
(やまのうへのおくら)
が詠んだ
六首の歌のうちのひとつ
・・・
↓↑
「一に云はく」以降は
憶良自身による結句の別案
歌の内容は
「私の出て行った後の日を
数えながら今日か今日かと
私の帰りを待っているだろう
父母よ」
巻5の890 山上憶良
ーーーーー
うち日さす 宮へ上(のぼ)ると
たらちしや 母が手離(はな)れ
常(つね)知らぬ 国の奥処(おくか)を
百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き
何時(いつ)しかも 京師(みやこ)を見むと
思ひつつ 語らひ居(を)れど
己(おの)が身し 労(いたは)しければ
玉鉾(たまほこ)の 道の隈廻(くまみ)に
草手折(たを)り 柴取り敷きて
床(とこ)じもの うち臥(こ)い伏(ふ)して
思ひつつ 嘆き伏(ふ)せらく
国に在らば 父とり見まし
家に在らば 母とり見まし
世間(よのなか)は かくのみならし
犬(いぬ)じもの 道に臥(ふ)してや
命過(いのちす)ぎなむ
〔一(ある)は云はく、わが世過ぎなむ〕
巻五(八八六)
↓↑
この歌は相撲使いの
某国司(官位姓名)の従人となって
奈良の都へと向かう途中で亡くなった
大 伴 君 熊 凝
(おほとものきみくまこり)
の死を悼んで
山 上 憶 良
(やまのうへのおくら)が
詠んだ六首の歌のうちのひとつ。
正確には
大 典 麻 田 陽春
(だいてんあさだのやす)が
詠んだ先の
巻五(八八四)の歌と
巻五(八八五)の歌に
山上憶良が
追和して詠んだもの
↓↑
憶良が亡くなった
熊凝になり切って詠んだもの
-ーーーー
『日本書紀』応神天皇三十一(31)年九(9)月条
↓↑ 応神天皇=第十五代天皇
諱は誉田別尊
(ほむたわけのみこと)
誉田別命
(ほんだわけのみこと)
大鞆和気命
(おおともわけのみこと)
誉田天皇
(ほむたのすめらみこと
ほんだのすめらみこと)
胎中天皇
(はらのうちにましますすめらみこと)
麛坂皇子
と
忍熊皇子
↓↑ は異母兄
『日本書紀』雄略天皇一十三(13)年九(9)月条
大泊瀬幼武尊
(おおはつせわかたけ)
大泊瀬幼武尊
(おおはつせわかたけるのみこと)
大長谷若建命
大長谷王
大悪天皇
↓↑ 有徳天皇
・・・「31⇔13」+「9」・・・31巻は日本書紀、含、系図不明
九=9=玖
↓↑
「日本書紀
雄略天皇十三年(469年)秋九月
雄略天皇が
二人の
采女(女官)に命じて
裸にし
褌(フンドシ)を・・・憤怒し?
付けさせ
自らの事(木工刃物の技)を豪語する
工匠の
猪名部真根・・・韋那部 真根=猪名部真根・・・真似?
の前で (イナべ の まね) 真音
相撲をトラせた・・・
↓↑ (いなべ の まね)
木工(こだくみ)・・・鈷巧み?
墨縄(すみなわ)職人
「猪名部」は
木工を専業とした
品部(しなべ・ともべ・しなじなのとも
ほんべ)=官司に上番、世襲的職業集団
統率者は
伴造(とものみやつこ)
「猪名」は
『日本書紀』巻
第十一
に
「猪名県」の
「佐伯部」が・・・佐伯=蝦夷の監督一族
弘法大師空海の姓
↓↑ 「苞苴(おおにえ)」を献上したと記録
『日本書紀』
巻第十四
猪名部真根は
常に刃先を誤らず
刃をこぼさない様子を
雄略天皇に怪しまれ
天皇に
「誤って
(台座の)石に
当てることはないのか」
と尋ねられ
猪名部真根が
「決して誤らない」
と答えた。それで
天皇は
采女を呼び集めて
衣服を脱がせ褌(ふんどし)をさせ
人前で
女相撲を取らせた
その様子に見とれた・・・目が眩み
猪名部真根は
刃先を誤り・・・ナンの道具の刃先か?・・・鑿・鉋・鋸
雄略天皇に
豪語した事と違ったため
処刑執行となる所
その仲間が
猪名部真根
の処刑を
匠(たくみ)な
墨縄技術の・・・墨糸(すみいと)
「墨壺(すみつぼ)」の
糸巻き車に巻いてある
麻糸
墨糸の線引き技術
すみなわ・規則・軌範・標準
失伝を憂う歌を詠んだ
それを聞いた
雄略天皇が
処刑中止の為の使いを出し
執行寸前で中止させ、事なきを得た
↓↑
「最古の女相撲」の記録・・・
↓↑
皇極天皇元年(642年)七月二十二日
百済の使節
大佐(ダイサ)の・・・・大差・代差?
平智積(ヘイチシャク)・・・「併置・並置」釈?
らを饗応し
余興として
健児(ちからひと・ケンジ)に命じて
同年四月八日に亡命していた
百済王族
翹岐(ギョウキ)・・・ギョウキ
の前で 経記・行記・行基・行規?
相撲・・・すもう・・・相=相対・相模(相見・佐賀美・沙加美)
をとらせた 撲=扌+菐
↓↑ 異体字は
「扑(簡体字)・攴・攵
𢪗・擈
菐・僕・璞・轐・墣・䑑・樸・幞・蹼
うつ・たたく・ボク
なぐる・打ちたたく
撲殺・撲滅・打撲
丵・業・菐・撲
↓↑ 対=對・・・相對(対)
菐は鋸歯のある器(丵=サク)
「丵」=いれづみの鍼(はり)
「刺青(入墨・黥面文身)の針(はり)」
だろう・・・黥面文身・・・鯨=魚+京
並=䒑+业
異体字「並・𠀤・併・傡
竝・幷・𢆙・𥩵」
「辛=からい・つらい・かのと・シン」
辛=𨐌⇔丵=业+䒑+十
「𨐌=立+キ=亠+羊=立+一+十」
「辡(ヘン・ベン・弁)」
「相撲節会」
奈良時代~平安時代
宮中行事の一つ
相撲節会が毎年七月頃に行われ
毎年40人ほどの強者が
近衛府により選抜され
宮中で天覧相撲をとった
天平六年(734年)
節会を統括する
相撲司の初見は
養老三年(719年)で
8世紀初頭に定着した・・・
↓↑
相撲節会
当初は七夕の宮中行事の余興
後に健児の制が始まると
宮中警護人の選抜
相撲節会は重要な宮中行事
健児の選抜という
本来の趣旨は次第に忘れられていった
12世紀
律令制の衰退
都の政情不安定
相撲節会は滞る
承安四年(1174年)
最後に廃絶
↓↑
「神事相撲」・・・・神事=シンジ=新示・新字・・・?
相撲=ソウボク=総模句・・・・?
神社における
祭事の相撲
神事相撲
農作物の豊凶を占い
五穀豊穣を祈り
神々の加護に感謝するための
農耕儀礼
↓↑
中世
「武家相撲」
実践的な意味での相撲は
組み打ちの鍛錬として
封建制を成立させた武士の下で広まった
源頼朝は特に相撲を好み
鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた
↓↑
足利幕府
相撲の奨励には消極的
戦国大名は熱心に
相撲人を養成
応仁の乱以降
都落ちをした貴族とともに
京都の相撲文化が地方に伝わり
民衆の間に相撲が定着
相撲を生業とするものが現れる
土地相撲
「草相撲」
↓↑
近世
「勧進相撲」
江戸時代
土地相撲の興行化
興行主は
神事相撲の「勧進」にことよせ
勧進相撲と称し
武家相撲も力士を
大名の抱えとすることで
名残をとどめた
ーーーーー
憎々しい憎まれ役が
「巧い・上手い・ウマい」役者・・・タレント?
KC
1973年9月11日
癸丑癸 辛 己 傷官 傷官 墓
辛酉庚 辛 劫財 比肩 帝旺
庚戌辛 丁 戊 --- 劫財 衰
ーーーーー
・・・???・・・「怨恨」の地勢・・・世界の地理的半島の場
字形は「呂=国⇔半島⇔国」・・・「侶=人+口+ノ+口」・・・
・・・???・・・「諦念」の地勢・・・極東の島
・・・???・・・「海賊」の地勢・・・極西の島
↧
December 5, 2018, 10:49 am
・・・「三角関係」・・・「(高さX底辺)/2=三角形の面積」・・・「多角関係」・・・「多角形の面積」・・・「円関係」・・・「円の面積=(半径)×(半径)×3.14=S=πr²」・・・「台形の面積=(上底+下底)×(高さ)÷2=S」・・・「ひし形の面積=(対角線)×(対角線)÷2=S」・・・「平行四辺形の面積=(底辺)×(高さ)=S」・・・「n角形の内角の和=180×(n-2)」・・・
ーーーーー
大和三山
神代に恋争いをしたという伝説
額田王をめぐる
天智天皇(中大兄皇子)
と
天武天皇(大海人皇子)
との三角関係
↓↑
出雲の
アボニカミ(阿菩大神)という神様が
香具山
と
耳成山
の二人の男が
畝傍山
を妻にしようと争っているのを聞いて
仲裁のため
播磨の国まで来たところ
争いがおさまったので
この国にとどまった
↓↑
「万葉集」巻一
香具山
と
耳梨山
と争(あ)いしとき
立ちて見に来し
印南国原
(香久山と耳成山が妻争いをしたとき、
阿菩の神が、
この印南原まで見にやって来た)
↓↑
「万葉集(巻一)」
香具山・耳成山が女で畝傍山が男。
香具山・耳成山が男で畝傍山が女。
香具山が女で畝傍山・耳成山が男。
↓↑
香具山は
畝火
愛(お)しと
耳梨と
相争いき
神代より
かくにあるらし
古昔も
然にあれこそ
うつせみも
嬬(つま)を
争うらしき
(巻一)
↓↑
大和三山・・・
神々しく聳(そびえ)立つ・・・聳=従(从・從)+耳
「従う耳」・・・ウサギと兎のミミ・・・半島地図・・・
ワニ(鰐・和邇・和仁)=倭人
ウサギ(兎・兔・宇佐戯)=加羅(唐・韓・漢)人
ーーーーー
・・・???・・・戯誤植・・・魏・呉・蜀・・・
唐土(中国)・天竺(印度)・本朝(日本=倭国)・・・
辰韓⇔新羅、馬韓⇔百済、弁韓⇔加羅(伽耶)諸国が分立・・・
高句麗(扶余・女真)
新羅(斯盧・シラ)
・・・
百済(伯済・月支国王=辰王)
新羅(斯盧・シラ)・・・秦の難民(陽侯)?
加羅(金官・任那)・・・倭(九州・阿毎)?
ーー↓↑ーー
天日槍命が
第十一代
垂仁天皇三年(初期紀年BC27年)
新羅国よりやってきた
↓↑
「三角、四角、五角、六角、七角、八角、九角」関係
「n角形の内角の和=180×(n-2)」・・・
(N-2)×180・・・
↓↑
葦原志挙乎命=伊和大神=大己貴命=大国主
(あしはらのしこおのみこと)
と
天日槍命
の
秋津島、領土争奪戦・・・
↓↑
アメノヒボコ
古代朝鮮からの渡来人
『日本書紀』では
「天日槍」
『古事記』では
「天之日矛」
他文献では
「日桙(ひぼこ)」
「天日槍命」
「天日桙命」
「海檜槍(あまのひぼこ)」
とも
新羅王子
『日本書紀』
垂仁天皇三年三月条
新羅王子の
天日槍が渡来
↓↑
天日槍は初め播磨国に停泊し
宍粟邑にいた
天皇は
大友主(三輪氏祖)
長尾市(倭氏祖)
を播磨に派遣し
天日槍の尋問をさせた
自分を新羅国王の子であるといい
日本に聖皇がいると聞いたので
新羅を
弟の知古(ちこ)に任せ
自分は
日本への帰属を願ってやって来た
と語った
天皇は
播磨国宍粟邑
淡路島出浅邑
の2邑に
天日槍の居住を許した
天日槍は
諸国を遍歴し適地を探すことを願った
天日槍は
菟道河(宇治川)を遡って
近江国吾名邑にしばらくい
近江から若狭国を経て
但馬国に至って居住
近江国
鏡村の谷の
陶人(すえびと)が
天日槍の従者となった
天日槍は
但馬国出島(出石)の
太耳の娘の
麻多烏(またお)を娶り
麻多烏との間の子に
但馬諸助(もろすく)を儲けた
諸助は
但馬日楢杵(ひならき)を儲け
日楢杵は
清彦(きよひこ)を
清彦は
田道間守を儲けた・・・
↓↑
『日本書紀』
垂仁天皇八十八年七月条
新羅王子の天日槍が持って来た
但馬の神宝を見たいと
天皇が言ったので
使者を遣わし
天日槍の曾孫の
清彦に勅命を下して献上させた
5物、
羽太の玉 1箇
足高の玉 1箇
鵜鹿鹿の赤石の玉 1箇
日鏡 1面
熊神籬 1具
これらとは別に
「出石(いづし)」
という名の
小刀1口があったが
清彦は献上を望まなかったので
袍の中に隠して身に帯びていたがバレて
神宝の1つであることを言上
天皇はこれと他の神宝とを一緒にして
神府(みくら・奈良県天理市
石上神宮)
に納めた
天皇が神府を開くと
小刀がなくなっており
清彦に人を遣わして問いただすと
小刀が自然と清彦の家に来たが
その日の朝にはなくなったと言った
天皇は畏れそれ以上は
小刀を求めることをやめた
小刀はのちに自然と
淡路島に至り発見され
島人により祠に祀られた・・・
↓↑
天日槍が小舟に乗って
但馬国に停泊し
そのまま但馬に留まった
天日槍は
但馬国の
前津耳(一云に前津見または太耳)
の娘の
麻拕能烏(またのお)を娶り
麻拕能烏との間に
但馬諸助を儲けたとし
これが清彦の祖父であるという
↓↑
その他
『古事記』では
比売碁曾社(比売許曾神社)
の由来が
天日槍
と
阿加流比売神
の伝承として記述
『日本書紀』では
垂仁天皇二年条の注に
「都怒我阿羅斯等」と
その妻の伝承として記述・・・
『古事記』応神天皇記では
新羅の国王の子の
天之日矛が渡来した
新羅国には
「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」
という名の沼があり
そのほとりで
卑しい女が1人昼寝をしていた
そこに日の光が虹のように輝いて
女の陰部を差し、女は身ごもって
赤玉を産んだ
この一連の出来事を窺っていた
卑しい男は、その赤玉をもらい受け
男が谷間で牛を引いていて
国王の子の
天之日矛に遭遇し
天之日矛に牛を殺すのかと
咎められたので
男は許しを乞うて
赤玉を献上
天之日矛は玉を持ち帰り
それを床のあたりに置くと
玉は美しい少女の姿になった
そこで
天之日矛はその少女と結婚し
正妻とした
ある時
天之日矛が奢って女を罵ると
女は祖国に帰ると言って
天之日矛のもとを去り
小船に乗って難波へ向い
そこに留まった
これが
難波の
比売碁曾(ひめごそ)の社の
阿加流比売神である
(大阪市の比売許曾神社)
↓↑
天之日矛は妻が逃げたことを知り
日本に渡来して
難波に着こうとしたが
浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が
遮ったため入ることができなかった
再び新羅に帰ろうとして
但馬国に停泊したが
そのまま但馬国に留まり
多遅摩之俣尾(たじまのまたお)
の娘の
前津見(さきつみ)を娶り
前津見との間に
多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた
多遅摩母呂須玖から
息長帯比売命(神功皇后・第14代仲哀天皇皇后)
に至る系譜を伝える
天之日矛が伝来した物は
「玉津宝(たまつたから)」と称する八種
これらは
「伊豆志之八前大神
(いづしのやまえのおおかみ)」
と称される
(兵庫県豊岡市の出石神社祭神)
『古事記』では
続けてこの
伊豆志大神についての物語が記される
↓↑
『播磨国風土記』では
天日槍について
地名起源説話が記録
↓↑
揖保郡揖保里 粒丘条
客神(外来神)の
天日槍命が
韓の国から海を渡って
宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近)
の川辺に着き
当地の長たる
葦原志挙乎命
(あしはらのしこおのみこと)に
宿所としての土地を求めると
志挙は海中に宿ることのみを許した
これを受けて
天日槍命
は剣で海をかき回し、出来た島に宿った
志挙はその霊力に畏れをなし
天日槍命よりも先に
国を抑えるべく北上し
粒丘に至って食事を取った
その時に口から飯粒が落ちたため
「粒丘(いいぼおか)」と称される
(たつの市揖保町揖保上の北のナカジン山)
宍禾郡比治里 川音村条
天日槍命が村に泊まって
「川の音がとても高い」
と言ったので
「川音村(かわとのむら)」と称される
(宍粟市山崎町川戸付近)
↓↑
宍禾郡比治里 奪谷条
葦原志許乎命
と
天日槍命
の2神が谷を奪い合ったので
「奪谷(うばいだに)」と称される
↓↑
宍禾郡高家里条
天日槍命が
「この村の高さは他の村に優っている」
と言ったので
「高家(たかや)」と称される
(宍粟市山崎町庄能から山崎付近)
↓↑
宍禾郡柏野里 伊奈加川条
葦原志許乎命
と
天日槍命
が土地の占有争いをした時
いななく馬がこの川で
2神に遭遇したため
「伊奈加川(いなかがわ)」と称される
(菅野川)
↓↑
宍禾郡雲箇里 波加村条
伊和大神の国占有の時
天日槍命が先に着き
大神は後から来たが
大神が
「対策を
はかりも(考えも)しなかったから
天日槍命が先に着いたのか」
と言ったので
「波加村(はかのむら)」と称される
(宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近)
↓↑
宍禾郡御方里条
葦原志許乎命
と
天日槍命
が黒土の
志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り
それぞれ黒葛を足に付けて投げた
葦原志許乎命の黒葛のうち
1本は但馬気多郡
1本は夜夫郡(養父郡)
1本はこの村
に落ちた
そのため
「三条(みかた)」と称される
天日槍命の黒葛は
全て但馬に落ちたので
天日槍命は
伊都志(出石)の土地を自分のものとした
別伝として
大神が形見に御杖を村に立てたので
「御形(みかた)」と称される
(宍粟市一宮町の北半部)
↓↑
神前郡多駝里 粳岡条
伊和大神
と
天日桙命
の2神が軍を起こして戦った際
大神の軍が集まって稲をつき
その糠が集まって丘となったが
その箕を落とした糠を墓といい
「城牟礼山(きむれやま)」というとする
(姫路市船津町八幡の糠塚)
↓↑
神前郡多駝里 八千軍条
天日桙命の軍兵が8,000人あったため
「八千軍野(やちぐさの)」と称される
(神崎郡福崎町八千種付近)
↓↑
筑前国風土記
『筑前国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)
足仲彦天皇(仲哀天皇)による
球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲)
征伐のための
筑紫行幸の際
怡土県主(いとのあがたぬし
福岡県糸島市付近)
らの祖の
五十迹手(いとで)が出迎えた
五十迹手はその言の中で
自分を
高麗国(朝鮮)の
意呂山(一説に蔚山)に
天降った
日桙の後裔・・・
↓↑
『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)
応神天皇の時
新羅国の女神が
夫のもとを逃れ
筑紫国の
「伊波比乃比売島」に住んだ
(豊後国ながら大分県の姫島)
この島はまだ新羅から遠くないため
男がやって来るだろうと
摂津国の
比売島松原に移った
その地名
「比売島」は元の島の名に由来
↓↑
『豊前国風土記』逸文(『宇佐宮託宣集』所引)
新羅国の神がやって来て
田河郡鹿春郷の付近に住み
「鹿春の神(かはるのかみ/かわらのかみ)」
と称された
(福岡県田川郡香春町の香春神社)
↓↑
古語拾遺
大同二年(807年)編纂の
『古語拾遺』では
垂仁天皇条において
新羅王子の
海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し
但馬国出石郡に大社(出石神社)
をなした
↓↑
霊廟
アメノヒボコに関わる神社
但馬国一宮の
出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内)
この神社は『延喜式』神名帳では
但馬国出石郡の名神大社として
「伊豆志坐神社八座」と記載
これは
『古事記』の
「伊豆志之八前大神」とも一致
アメノヒボコが将来した
八種神宝の神霊が
「伊豆志八前大神」として祀られ
アメノヒボコの神霊が併せ祀られている
この出石神社の創祀は
社伝を別とすると
実際には
アメノヒボコを奉じる
朝鮮系渡来人の一族が
その将来した宝物を祀った
但馬地方では
出石神社のほかにも関係社数社の分布
↓↑
後裔氏族
アメノヒボコは
『日本書紀』『古事記』では
但馬諸助(多遅摩母呂須玖)
から
神功皇后に至る諸人物の祖
『筑前国風土記』逸文では
怡土県主らの祖とされる・・・
↓↑
『新撰姓氏録』では
後裔は
左京諸蕃 橘守
三宅連同祖。天日桙命の後
右京諸蕃 三宅連
新羅国王子の天日桙命の後
大和国諸蕃 糸井造
三宅連同祖。新羅国人の天日槍命の後
摂津国諸蕃 三宅連
新羅国王子の天日桙命の後
ーーーーー
・・・???・・・角がアル人々の関係の和・・・参百六拾度・・・
↧
↧
December 6, 2018, 10:56 am
・・・始皇帝=シコウテイ=思考綴=試行綴=嗜好定=指向定・・・「呂不韋」・・・「太安万侶の不意・符意」・・・法治でアラずば・・・韓の子にアラず(非)・・・?
「李氏」の末裔も・・・法家の「李斯」ではない・・・?
「郢書燕説(韓非子外儲説左上)」・・・?
ーーーーー
呂氏春秋
中国の戦国時代末期
秦の呂不韋が食客を集めて
共同編纂させた書物
呂覧(リョラン)とも
秦の始皇八年(紀元前239年)に完成
天文暦学、音楽理論、農学理論
など自然科学的な論説が多く
自然科学史において重要な書物
↓↑
呂不韋
賓客を延き集め
各々聞く所によりて
「月令」を選し
円道を明らかにし、人事を証す
天地・陰陽・四時・日月・星辰・五行・礼儀
の類を載せ
名づけて
「春秋」という
![]()
↓↑
呂不韋=「韓」の大商人、
「呂不韋(リョフイ)」は関係アリやナシや・・・?
↓↑
大韓帝国(テハンジェグク)
1897年~1910年まで
李氏朝鮮の使用国号
↓↑
周王室
武王より三十七世八六七年に滅亡
(前256)
↓↑
秦
昭襄王死後
子楚の父
孝文王が即位・・・孝文=コウブンオウ
=「構文・公文・弘文・行文」意宇
子楚が太子となった
趙国は
子楚の妻子を
鄭重・・・鄭=奠+阝=ねんごろ・テイ・丁寧
通仮字「丁」
異体字「𨞀・奠・郑」
鄭袖=楚の懷王の寵姫
重=かさねる・かさなる・チョウ・ジュウ
に送りとどけてきた
孝文王は一年にして死去し
子楚=荘襄王が位につく(前250)
呂不韋を
丞相(宰相)に任じ
文信候に封じ
洛陽の十万戸をあたえた
前249年
魯が
楚にほろぼされた
魯・・・魯=魚+日=ロ・・・呂・侶・盧
周公より三十四代、八五〇年
↓↑
荘襄王
在位三年にして死去(前247)
十三歳
太子の
政=秦王が即位・・・始皇帝・・・指向定
政治は母の
太后(荘襄王の后)
と
呂不韋
が執政
呂不韋は相国(宰相)
仲父(チュウホ=父親に準ずる待遇)とよんだ
太后は
むかしの
呂不韋の愛人
呂不韋の執政時代
韓、魏、趙の領土の一角を奪い
秦の領土の東端は拡張し
斉国と接した
各地から食客を招き三千人
食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ
それを編集して
二十余万字にのぼる
書物を編纂
『呂氏(リョシ)春秋』と名づけた
(前239)
咸陽(カンヨウ)の
市場の門前に展示し
賞金をかけて内容を批判させた
「一字でも増減できる者があれば
千金をあたえよう」と
これが
「一字千金」の由来
呂不韋と太后の関係が噂になり
別の男を太后に推挙し太后の気をひかせ
男に宮刑をほどこしたことにし
宦官に仕立て
太后の側近に侍らせ寵愛させ
二人の子を出産
太后は離宮にかくれ
仕事は
その男によって決裁させ
長信侯の位・・・長信侯(のぶながこう)?
をたまわり
下僕は数千人
食客も千余人におよんだ
政が即位して
九年(前239)
二十二歳
成人の冠礼をおこなった
これをおそれた
長信侯が
反乱をおこして
王宮を攻めて
占拠をくわだてたが
密告され
王は
兵を発し一党をほろぼし
長信侯らを
車裂(シャレツ)の刑にした
太后の
不義の
二子も殺された
事件に
呂不韋も関係したが
王は
呂不韋
が先王につくした
大功をおもんばかり
不問に付した
翌年に
呂不韋の職(相国)を免じ
都から追放し
洛陽の領地においたが
呂不韋には声望があり
洛陽におもむく賓客は多かった
秦王政は謀叛をおそれ
蜀にうつることを命じた
呂不韋は毒をあおって自殺
↓↑
秦
燕に侵攻
↓↑
燕の太子の
「丹」は
かつて
趙に人質となっており
趙でうまれた
秦王政
とも、仲がよかった
政が即位し
「丹」は秦へ人質となったが
秦王政の待遇はつめたく
「丹」はうらんで逃げかえった
秦の将軍の
樊於期(ハンオキ)が
罪をえて
燕に逃げ
「丹」は、これを館舎にむかえ厚遇した
秦王政の怒りを恐れ
群臣がいさめたが、
「丹」太子は聞かなかった
更に
「丹」太子は勇士をもとめて
荊軻(ケイカ)という男をえ
上卿(上席の大臣)とした
「丹」は
荊軻に
秦王政の暗殺、刺し殺すことを要請
↓↑
荊軻は
衛の人で
読書と撃剣をこのみ
感情的性格の男で
燕にうつってからは
町の酒飲みたちと交遊し
遊歴した土地で
賢人や豪傑や長者と親交した
↓↑
荊軻は
樊於期(ハンオキ)の首と
燕の
督亢(トクコウ)の
地図を持参したい、と願った
督亢は
燕の要地にして
秦がもっともほしがっている場所
樊於期(ハンオキ)の首・・・
「丹」太子は
自分をたよってきた樊を
私利のために殺すには忍びなかった
荊軻は
樊於期に会って、うったえた
秦においては
樊の父母をはじめ
一族をすべて殺し
樊於期の首に
莫大な懸賞をかけている
一言にて燕国の憂いをとき
樊於期将軍のあだをむくいる策・・・
樊於期将軍の首を
秦王に献じたなら
秦王は
よろこんで自分を引見するハズ
その時
自分は
左手に秦王の袖をとり
右手で秦王の胸を刺す・・・
これを聞いた
樊於期は
片肌をぬいで腕をにぎり
みずから首はねて死んだ
「丹」太子は駆けつけ
屍体にうちふし
大声をあげて泣いた・・・
↓↑
首を箱にいれて封じ
鋭利な匕首(あいくち)をもとめ
毒薬を刃にぬって人にためし
秦王暗殺支度はととのえた
↓↑
燕のうまれで
秦舞陽(シンブヨウ)という勇士は
十三歳で殺人を犯した無頼
「丹」太子は
秦舞陽を、荊軻の副え人とし
秦舞陽をともなわせて出発させ
事情を知っている者たちは
白い装束(喪服)を着て見送った
↓↑
易(エキ)水のほとりまで
荊軻は
筑(ちく=琴に似た楽器、竹で絃を打つ)・・・筑紫
筑は神功皇后が新羅討伐の占いに使用した
に和して歌った
風蕭蕭兮易水寒
壮士一去兮不復還
↓↑
秦につき
千金のねうちの贈りものを
王の側近にささげ、来意を通じた
秦王政はよろこび
威儀をただして
燕の使者を引見
荊珂は
樊於期の首箱を持ち
秦舞陽は地図の小箱をささげた
すすんで陛(きざはし)にいたると
秦舞陽は
顔色をかえて
ふるえだし・・・
↓↑ 大化の改新の実行犯
「佐伯子麻呂」の様子、態度に類似
古麻呂とも
姓は連
佐伯丹経手の子」とする系図がある?
「佐伯の丹の経の手」・・・「丹」の経?
「佐伯 丹経手=姓は連
内臣・佐伯戸難目の子」
とする系図・・・?
↓↑ 佐伯「戸難目→丹経手→子麻呂(古麻呂)」
となめ にへて こまろ
「佐伯子麻呂」の
兄弟は
東人
子麻呂
百枝
子は
大目
歳主
645年11月(九月)
中大兄皇子に命じられ
阿倍渠曽倍と共に40人の兵士を率いて
入鹿暗殺後に出家し吉野に隠棲していた
古人大兄皇子を攻撃
皇子とその子息を殺害・・・
↓↑ 「丹」は「燕国の太子」・・・丹後・丹波・但馬
群臣があやしんだので
荊軻は顧みて笑い
「北方の蛮夷の鄙人(ヒジン)
いまだ天子に見(まみ)えたことなく
ゆえにおそれ、ふるえたのでございます
願わくは大王、これをゆるさせたまえ」
「その者の持っている地図を見せよ」
↓↑
秦王の言により
荊軻は地図の巻物を収りだし
王にささげ
王が地図をひらき
図のおわるところに
匕首(あいくち)があらわれた
荊軻は
左手で秦王の袖をとらえ
右手に匕首を持って、突きだした
おどろいた王は身を引いて立ちあがり袖が切れた
王は剣をぬこうとしたが
剣は長く鞘(さや)から抜けず
鞘に収まったままにぎった・・・
あわてて剣を竪(たて)にしたまま
すぐには抜けなかったが、抜刀して
荊軻と対峙した・・・。
↓↑
![]()
秦は
魏、楚、燕をほろぽし
斉もほろぼして天下を平定
秦王政は三十九歳
即位二十六年
(前221)
皇帝の
命を「制」
令を「詔」
自称を「朕(チン)」とした
↓↑
廷尉(司法、検察の長官)の
李斯(リシ)が
法治主義(法家)
郡県主義(直轄中央集権)を採用
李斯・・・李斯(?~紀元前208年)
↓↑ 秦代の宰相
字は通古
子は李由
法家を思想的基盤に
度量衡の統一
焚書などを行い
秦帝国の成立に貢献
始皇帝の死後
権力争いに敗れて
趙高(宦官)によって処刑
「馬鹿の趙高」は独裁国家の見本・・・
↓↑ 趙高も「子嬰(秦終皇帝?)」に殺された
楚の出身
荀子の教えをうけ
秦におもむいて
呂不韋につかえ
呂不韋の推挙で
始皇帝(秦王政)
に重用された
↓↑
法家
法による支配
楚での
同門に
韓非子(カンピシ)・・・・・・韓の子にアラず(非)?
始皇帝は
彼の著書
「孤憤篇」
「五蠹篇」の二篇
の
君主独裁の
刑(刑罰)
と
徳(恩賞)
の政治思想に傾倒した・・・
↓↑
亡徴(第十五)
「〜〜者、可亡也」
(〜〜というような場合、
政治は危ない、滅びかねない)
という形の47条の文を列挙・・・
↓↑
備内(第十七編)
「人を信じることは、君主にとって禍の源である
人を信じればその人にしてやられる
臣下が君主のいうことを聞くのは
権力によってやむを得ず
従っているというだけのことであり
臣下は常に君主にあだをなそうと狙っている」・・・
↓↑
「郢書燕説=辻褄の合わないことに
もっともらしい理由をつけること」
↓↑
韓非は
性悪説を説く
儒家の荀子に学んだが
非違の行いを
礼による徳化で矯正するとした
荀子の考えに対し
法によって抑えるべきだと主張
韓非は分断され乱脈化した君主の権力を
法によって一元化し
体系化することにより
強国になるべきと考えた
↓↑ ・・・韓非は咸陽に着き
蘭陵で学んだ頃の同窓の
李斯を訪れた
彼は韓国の特使として
秦国にきて駐在していた
理由は
秦の師団が突然東進し
韓を攻め
三十万の大軍が国境を鎮圧
韓王は恐れ
和議を求めて
土地を納め御璽を献上
藩臣を擁護することを請うた
韓非子はこの和義の使節だったが
↓↑ 李斯にハメラレる
始皇帝にもちいられた
李斯の両策によって
無実の罪におとしいれられ
投獄され、自殺
↓↑
秦の郡県となって統一
諸公子や功臣は、あつく待遇すれば、それでよい
天下に異心をいだく者のないのが安寧の術
諸侯をおくことは便法とはいえない
↓↑
これを始皇帝は採用
天下をわけて三十六郡
中央から官吏を派遣して治めさせ
皇帝の直轄とした
郡の下は
数十の県にわけた
一つの県はおよそ一万戸の人口
郡の戸口は数十万戸・・・
始皇帝の中央集権体制
「郡県制度」とよばれ
中国統治方式の基本とされた
周の封建制度
「王」たる天子と諸侯とのあいだに
画然とした身分の差はなかった
「王」は至上なる神の代理者
天子として地上を統治
諸侯は「王」に服しているものの
その領土の内では
王と同じ性格の統治者であった
↓↑
度量衡の単位の統一
度(ものさし)
量(ます)
衡(はかり)
秦のものに一定化
国定の量(ます)や権(おもり)を
全国に頒布
車輪、道幅を一定にした
↓↑
文字を統一
秦と六国とでは
ちがった文字をもちいていた
秦の文字が大篆(ダイテン)で
始皇帝は李斯に命じ
あらたに
小篆という書体をつくらせた
篆書(テンショ)である
しかし篆書にしても、まだ複雑で
隷書(レイショ)が発明され
漢代には一般に通用文字となる
↓↑
貨幣の統一
斉や燕など北方の国は
「刀(トウ)」をもちい
韓魏趙などは
「布(フ)」(農具のスキの形)
楚では「貝(バイ)」
秦では円形の銭をもちいていた
始皇帝は
重さ半両の円形の穴あき銅貨を
標準の貨幣として定め全国に通用させた
半両銭は
後世にいたるまで貨幣の基本の形となった
↓↑
政令は
都の咸陽(カンヨウ)から発せられ
咸陽は帝国の中心となった
↓↑
民の武器の携帯、携行は禁止
天下の武器をおさめて
これを城蒲にあつめ
熔かして
鐘鐻(ショウキョ=鐘などをかける台)
金人(銅製の大きな人形)
を十二体つくった
重さは、おのおの千石(たん=三〇トン)
↓↑
天下の
富豪十二万戸を
咸陽に移住させた
↓↑
宮殿の壮麗化
各国をほろぼすごとに
その宮殿と同様のものを
咸陽につくっていった
これらの宮殿は、みな渭水の北にあった
上林苑という大遊園地や
祖先の廟は
みな渭水の南にあった
その間には大きな橋がかけられ
また宮殿と宮殿との間は
複道という二階建ての道路によってむすばれた
↓↑
統一の翌年から
始皇帝は巡遊をはじめ
専用の道路の造成
天子の馳道(チドウ)とよばれ
幅が約七〇メートル
しかも地上より高く
道の両側には約七メートルごとに
松の並木
天下の巡遊は
五回
東は斉の山東から
北は燕の北境
南は楚の地をへ
越(エツ)の
会稽山まで巡った
ゆくさきざきで盛大な儀式や宴会
↓↑
その間
六ヵ所に記念の石碑に
始皇帝の功業をしるした文を彫りこんで建てた
随行した
李斯が
小篆の書体でしるした
泰山
と
琅邪台(ロウヤダイ)の刻石が
もっとも古い(前219)
刻石を建てて、名を永世に伝えようとする石碑も
始皇帝がひらいた
ーーーーー
大和三山
神代に恋争いをしたという伝説
額田王をめぐる
天智天皇(中大兄皇子)
と
天武天皇(大海人皇子)
との三角関係
↓↑
出雲の
アボニカミ(阿菩大神)という神様が
香具山
と
耳成山
の二人の男が
畝傍山
を妻にしようと争っているのを聞いて
仲裁のため
播磨の国まで来たところ
争いがおさまったので
この国にとどまった
↓↑
「万葉集」巻一
香具山
と
耳梨山
と争(あ)いしとき
立ちて見に来し
印南国原
(香久山と耳成山が妻争いをしたとき、
阿菩の神が、
この印南原まで見にやって来た)
↓↑
「万葉集(巻一)」
香具山・耳成山が女で畝傍山が男。
香具山・耳成山が男で畝傍山が女。
香具山が女で畝傍山・耳成山が男。
↓↑
香具山は
畝火
愛(お)しと
耳梨と
相争いき
神代より
かくにあるらし
古昔も
然にあれこそ
うつせみも
嬬(つま)を
争うらしき
(巻一)
↓↑
大和三山への
心情を歌った
万葉集の長歌
藤原宮御井の歌として、
青々とした香具山は
宮の東の御門に春の山のように茂り、
畝傍の瑞々(みずみず)しい山は
西の御門に鎮まる瑞祥(ずいしょう)の山。
耳成の青菅の山は
背面の北御門に神々しくそびえ立つ・・・
ーーーーー
尾張(おわり・糸冬)
名古屋(名護屋・名児耶・奈古谷・那古屋)は
「シロ(新羅・斯盧)」で持つ?
↓↑
興正寺
貞享三年(1688)
天瑞-圓照(テンズイ-エンショウ)和尚
が真言密教の道場として草庵を結んだ
尾張二代目藩主
徳川光友
の帰依を受けて
講堂を建立
↓↑
中門は
女人門と呼ばれていた
興正寺は
東山と西山に分かれており
東山は女人禁制
この門から先に女性は入ることは禁止
中門のすぐ奥に
五重塔(30メートル)
文化五年(1808)に建立
名古屋市内で残っている唯一の五重塔
↓↑
宝暦十一年(1761)
徳川宗春より
「八事山」の三文字の親書を賜り
それ以降
「八事山 興正寺」
と呼ばれる
↓↑
「八事」
『尾張国地名考』によると
「八事」は
「岩之田(やがた)」が
↓↑ 八咫烏(やたがらす、やたのからす)
磐余彦(伊波礼毘古)=神武天皇
神武天皇
『日本書紀』
神代第十一段
第三の一書は第三子
第四の一書は第二子
在位
庚午年一月一日(紀元前711年)?
↓↑
即位
辛酉年一月一日(紀元前660年)
橿原宮に初代天皇として即位
G紀元前660(辛酉)年2月11(庚辰)日
Y紀元前660(辛酉)年2月18(庚辰)日
~
神武天皇七十六年三月十一日
G紀元前585(丙子)年4月3(甲辰)日
Y紀元前585(丙子)年4月9(甲辰)日
「磐余の地の旧名
片居または片立という
大軍集(つど)いて
その地に満(いは)めり。
因りて改めてその地を
磐余
とする」・・・
↓↑
鎌倉時代から室町時代にまでに転訛した
『尾張名所志』にある
「石田里(いしだのさと)」
もこの八事だった・・・
「八事」は
「岩之田・石田」
であった
「石の多かった田」とういう意味
「岩之田」「石田」が
「八事」に転訛したもの
「岩の田」よりも
縁起のいい末広がりの
「八」を使うようになった・・・
・・・
「岩・石・磐・イワ」⇔「八」に転化(転嫁)?
↓↑
『尾張地名考』に
「音聞(おときき)の松」の話
八事村の東南にある
島田村に
「音聞山」という山があり
「音聞の松」があった
享保の頃(1716~1735)
枯れてしまったが
後その跡に
若木を継いで
今は「千歳の松」ともいう・・・
↓↑
風ふけは
鳴海の浦による波の
おときヽ山の
やまの名よしも
↓↑
「音聞の松」が聞いたのは
鳴海の浦に打ち寄せる波で
そこから「音聞山」という名が起こった
「音聞山」(天白区)という町名が残されている
↓↑
天白川の名前
緑区の三王山という場所に
山王社という小さな神社があり
その中に
天白社という社があって由来となっている
↓↑
山王神社
比叡山の東にある
日吉大社の別称
神仏習合時代に
山王権現と呼ばれた
↓↑
天白社
正体が不明
本州のほぼ
東半分にみられる民間信仰
星・水・安産
祈願など
↓↑
星の信仰
天白
天一神と太白神から出たもの
星の神
伊勢神宮に
天白が星の神である
「てんはくのうた」
という神楽歌が伝わる・・・
天白を
太白星(金星⇔金生・金姓)と考えていた・・・?
↓↑
白浪滔天=白浪が山のように高い
不分鄢天白日地干=昼夜を分かたず働く
大天白日=真っ昼間に強盗を働く
↓↑
オシラサマ信仰
「てんぱく」と音読みされる以前は
「おしら様
(オシラサマ)」=蚕神、農業神、馬神
と呼ばれた 桑の木で作られ二体一組の偶像
道教と習合されて
天白神信仰になった・・・
「オシラサマ」は
アイヌの
「シランパカムイ」
↓↑
白髭神社
古代の
新羅系渡来人が
自分達の祖先を
「新羅明神」として祭ったものが元
「新羅(しらぎ)」=「白(しろ)」
古代の有力氏族の
「白猪(しらい)」氏も渡来系
↓↑ ・・・伊吹山の白猪神は日本武尊の敵対者
↓↑猪名部 真根=天皇や氏族に隷属する品部
(いなべのまね)・・・
猪名部御田
(いなべのみた)
猪名部は
土木技術の工匠集団
その部民の伴造で工匠集団の長は
↓↑新羅系の渡来人が任命されていた・・・
白猪氏から分かれた
荒田井氏は
緑区鳴海の辺りに住んでいた・・・
↓↑
民俗学者
柳田国男は
天白は風の神かも・・・
↓↑
緑区の三王山のすぐ近くに
隕石に由来する
星崎がある
志摩市
大王町の
天白信仰も、隕石に関係する
東日本に分布
「てんばく」
原住民の信仰・・・
志摩の大王町
天白川
近くにも
旧石器時代の遺跡
ーーーーー
雄略天皇
蘇我満智が
国内の献納物を納める
大蔵の取締りを命じられ
その配下の
秦氏出納
東漢氏、西文(カワチ)氏は記帳をした
↓↑
王辰爾の子孫
白猪・・・伊吹山の神・日本武尊に祟る
↓↑ ↓↑
二十一代
「雄略天皇=日本武尊」?
大泊瀬幼武
(おおはつせわかたけ)
大泊瀬幼武尊
(おおはつせわかたけるのみこと)
大長谷若建王
(おおはせわかたけるおう)
「武=ワカタケル・タケル=建=若建」
「獲加多支鹵・多支鹵」
↓↑ ↓↑
熊本県の江田船山古墳出土鉄剣銘文
「治天下犭复□□□歯大王」
「多遅比弥都歯別」
(タジヒノミズハワケ)
十八代反正天皇(書紀)
水歯別(古事記)
↓↑ ↓↑
埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘文
「治天下獲□□□鹵大王」
「獲加多支鹵大王」
ワカタキル・・・鹵⇔ロ⇔ル
・・・鹵=ロ(ろ)=鹽=塩
塩=土+𠂉+口+皿
鹽=臣+𠂉+鹵+皿
𦣪=𥂁・䀋・盐・𨣎・𪉟・𪉩・𪉹
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
「獲加多支鹵大王」
ワカタケル
大長谷 若 建 =雄略天皇
↓↑ ↓↑
『宋書』本紀
順帝紀
昇明元年(477年)十一月己酉条
倭国が遣使し方物(地方名産物)を献上
↓↑ ↓↑
「倭王武」が「南朝宋」に上表
477年
「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅
秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」
と自称し
478年=昇明二年五月戊午条
「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅
秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」
と
「順帝(南朝宋の末代皇帝・姓は劉、諱は準
第6代明帝の第三子
第7代後廃帝の弟
沈約の『宋書』后妃伝で
実際には
明帝の弟・桂陽王、劉休範の子)」
から叙された
↓↑ ↓↑ ↓↑
「雄略天皇=日本武尊=倭建=倭男具那=日本童男」
(ヤマトオグナ)
「小碓命(おうすのみこと)」
は
白猪=猪名部=新羅の技術者集団に殺された?
白猪氏
船氏
津氏
は河内の
古市に住み
西琳寺は西文氏
葛井(ふじい)寺は白猪(しらい)氏
野中寺は船氏
の氏寺
漢人、阿智の使主の末裔
東漢氏で檜隈に住む
檜隈寺は東漢氏
の氏寺
↓↑
大和、河内、山城の地域
帰化人の人口は全体の35%超
5世紀後半
今来の漢人
鞍作、錦織、金作諸氏
百済より渡来し
蘇我稲目を支援
天皇家は彼らを使用
雄略天皇以降
蘇我→韓子、高麗、稲目、馬子
と天皇に仕え
帰化人たちを統括した
韓子、高麗、稲目、馬子
が半島由来の名
↓↑
蘇我石川宿禰
満智(まち)-韓子(からこ)-高麗(こま)-稲目
蘇我氏は百済系渡来人の総領家
漢(あや)氏や秦(はた)氏を従えた
財政官僚
大伴氏や物部氏らは
軍事官僚
↓↑
小姉君(小兄比売)は渡来人の
ペルシャ(波斯)人or白人(新羅)との混血・・・?
『新撰姓氏録』に
「弓月の君」
に率いられてきた一族に
「秦氏」
↓↑
蘇我小姉君(そがの おあねのきみ)
蘇我稲目の娘
姉妹
蘇我堅塩媛
兄弟
蘇我馬子
欽明天皇の妃
↓↑
子供
茨城皇子
葛城皇子
穴穂部間人皇女
穴穂部皇子
泊瀬部皇子(崇峻天皇)・・・東漢直駒に殺害
↓↑
孫
聖徳太子(厩戸皇子)
来目皇子
殖栗皇子
茨田皇子
麻呂子皇子
酸香手姫皇女
蜂子皇子
錦代皇女
佐富女王・・・皇女、王女でなく女王?
↓↑ 女王は女帝、女支配者?
女性の王
王の后
内親王の宣下のない皇族の女性
皇族で3世以下の嫡男系嫡出の女性
↓↑ ↓↑ ↓↑
佐富女王(さとみのひめみこ
さふのひめみこ
さほのひめみこ)
↓↑ ↓↑ ↓↑↓↑
狭穂 姫命
(さほひめのみこと)
沙本 毘売命
佐波遅比売命
(さわじひめのみこと)
↓↑
垂仁天皇五年十月薨
垂仁天皇の皇后
(垂仁天皇二年二月九日立后)
皇子
誉津別命(本牟智和気御子)
同母兄
狭穂彦王(沙本毘古)
↓↑ ↓↑ ↓↑↓↑
父は田目皇子(多米王)
・・・駄目・試・同目・多目
母は穴穂部間人皇女
穴穂部間人皇女は
田目皇子(多米王)の父
の用明天皇の皇后で
用明天皇の崩御後に
田目皇子(多米王)と再縁し
佐富女王を産んだ
聖徳太子の異母兄の娘かつ異父妹
甥で、従兄弟に当たる
長谷王
(聖徳太子と膳部菩岐々美郎女の子)
と結婚し
葛城王
多智奴女王・・・?
女王⇔多くを智(知日)る奴
を産む
ーーーーー
・・・紀元前722年~紀元前660年=神武元年
↓↑
徳公(トクコウ)
紀元前710年~紀元前676年
・・・紀元前722年~紀元前660年=神武元年
↓↑ 722-660=62=六拾弐=陸拾貳
秦の第六代公
憲公の次子
↓↑
武公二十年(前678年)
同母兄の武公が死んで
徳公が
秦公となった
33歳
↓↑
徳公元年(前677年)
雍城の大鄭宮に住み
犠牲
三百牢を供えて・・牢=家畜化された牛
鄜畤(フジ)・・・夢から覚めた
文公は
鄜に祠廟を建てて
白帝(中国の神様)を祀った
(紀元前756年)
白帝は西方角と五行金徳の神
を祠った
この年
梁伯・芮伯が来朝した
↓↑
徳公二年(前676年)
初めて
伏の節・・・伏=イ+犬=ふす・フク
↓↑ 圧伏・畏伏・帰伏・屈伏
降伏・承伏・信伏・説伏
夏の最も暑い時期
「伏日/三伏・初伏」
仏法の力で人を
↓↑ 降伏・折伏・調伏
を行い
狗(いぬ)を殺して
蠱(コ・悪気)をふせいだ・・・穀物につく虫
この年に死に
長子の宣公が立って
秦君となった
↓↑
蠱(コ)=まじないに使う虫
↓↑ 人を害する呪いや毒薬
蠱毒・巫蠱(フコ)
惑わす・乱す
蠱惑(コワク)・・・
「怖い・恐い・強い」+句?
易の六十四卦の一
上卦は艮(ごん)(山)
下卦は巽(そん)(風)
山風蠱とも
蠱は故(こ)の音通
事の意
風が吹いて山林中の
汚気を一掃
旧弊を一新
↓↑
蠱物(まじモノ)=まじないをしてのろうこと
まじない術・まじ
「畜(けもの)仆(たふ)し、蠱物する罪」
(祝詞・六月晦大祓)
人を惑わすもの・魔性のもの
↓↑
蠱毒(こどく)=古代中国の呪術
動物を使うもので、華南の少数民族の間で
受け継がれ
蠱道、蠱術、巫蠱(フコ)
ーーーーー
・・・???・・・韓非子(カンピシ)・・・
法治でアラずば・・・韓の子にアラず(非)・・・?
↧
December 7, 2018, 11:05 am
・・・???
ーーーーー
郢書燕説
郢書燕説(韓非子外儲説左上)
郢の人が
燕の大臣へあてた手紙の誤った部分を
燕の大臣がいいように解釈し実行し
国が良く治まったという故事
郢の人が
燕の大臣に手紙を書いたとき
周りが暗かったので
「燭を挙げよ(挙燭)」
と言うと、その言葉を
書記がそのまま手紙に書いて送った
燕の大臣は
「賢人(燭)を重用(挙)せよ」
と解釈し実行した
↓↑
「鶏肋=大して役に立たないが
捨てるには惜しいもの」
「鶏肋」・・・鶏=鷄=雞
家鶏(カケイ)・錦鶏(キンケイ)・ 軍鶏(グンケイ)
群鶏(グンケイ)・闘鶏(トウケイ)・野鶏(ヤケイ)
養鶏(ヨウケイ)
「後漢書(楊修伝)」
鶏(雞)のあばら骨には食べるほどの肉はないが
捨てるには惜しい
たいして役に立たないが、捨てるには惜しい
鶏肋=ニワトリ(鶏・雞)の肋(あばら)骨
↓↑
持久戦の
劉備軍に
曹操軍が苦戦を強いられ
曹操・・・曹(つかさ・役人・役所の部局
↓↑ 部屋を意味する
↓↑
李氏朝鮮における六曹
法曹
司法権が付帯
長官は判書
以下
参判、参議、正郎、佐郎
吏曹 - 官制と人事担当
戸曹 - 財政担当
礼曹 - 王室業務・儀礼担当
兵曹 - 軍事担当
刑曹 - 刑事担当
工曹 - 公共事業その他の社会事業担当
↓↑ ↓↑
↓↑ 軍隊などの階級の一
曹長・軍曹・兵曹・陸曹
なかま・ともが・へや・つぼね
曹司・我曹・爾曹・曹達=ソーダ・重曹)
↓↑ 操(あやつる)
が食事中無意識に発した
「鶏肋」を伝令が触れ回り
誰もその意味を理解できなかったが
側近の
楊修は・・・楊=十+八+昜(日一勿)・・・昜≠易
↓↑ やなぎ・ヨウ
かわやなぎ・楊弓・楊柳
黄楊(つげ・コウヨウ)
つげ=柘植・都祁・柘
水楊(スイヨウ)・垂楊(スイヨウ)・白楊(ハクヨウ)
↓↑ 昜=日+一+勿
あがる・ひらく・ヨウ
異体字「暘・陽」
日がのぼる・揚
明るい・日なた・日があたる・あたたかい
陽・ひら(開)く・とびあがる
↓↑ 易=日+勿
やすい・かえる・エキ
とりかえる
改易・交易・不易
うらない
易学・易占・易断
儒教の経典・五経の一
やさしい・やすい・てがる・やすらか
易易・簡易・容易
あなどる・慢易
修=イ+丨+攵+彡
おさむ・おさめる・シュウ
↓↑ 修得・修業・修学・修辞
撤退の準備をさせた
理由を
夏侯惇に
問われた
楊修は
「鶏肋(鶏のあばら骨)は、
↓↑ ・・・肋骨(ロッコツ・Rib)
胸腔を囲む、細長くて湾曲した骨
骨は12本ずつが一対になっていて24本
心臓や肺臓を保護する胸郭を形造
肋骨が痛い時、肋骨の病気、内蔵の病気
肋間神経痛・肋軟骨炎
咳、くしゃみ(嚔・sneeze)で
「肋骨骨折・肋骨罅(ひび)」
気胸
気管支炎・肺炎・肺塞栓症
狭心症・心筋梗塞・・・
↓↑ 肋骨の骨髄では造血
鶏肋は
捨てるには惜しいが、
食べても腹の足しになる
肉(にく・ジク)はついてない
↓↑
進むに勝つあたわず
退くに人の笑うを恐れるが
曹操の
心中は
漢中郡は惜しいが
撤退するつもりだろう」
と説明
撤退準備に
オドロいた
曹操は
楊修を
軍規を乱したとして処刑し
戦争を継続し、結果、敗北
殺してしまった
楊修の才能、機転を惜しんだ・・・
↓↑
楊修は
曹操の言動から
彼の真意を見抜き・・・「読心・揣摩(シマ)」
曹操はその機転の才を危険視していた・・・?
加えて
楊修が
曹操の後継者として世子の
曹丕でなく
庶子の曹植を支持し
曹操の不興を買っていた・・・
↓↑
「鶏肋」・・・阿毎王朝の「阿輩雞彌」
「にわとり(雞・鶏)」を助ける・・・
庭鳥・丹羽鳥・二羽鳥・・・二話取(採り)
↓↑
「開皇二十(600)年」
「俀王-姓-阿毎・字-多利思北孤・號-阿輩雞彌」
天子の
姓は阿毎・・・アマイ・アバイ・アブ・アベ
海人意・阿波意・阿武・阿部・阿閉・海部・海女
名は多利思北孤・・・内裏(ダイリ・宮中)仕置拠?
妻の名前は「雞(鶏)彌」・・・景見?・・・
↓↑
雞=にわとり・ケイ=鶏
『通典(801年)』
隋文帝開皇二十年
倭王
姓
阿毎
名自
多利思北孤(タリシホクコ)・・・北=比?
足 鹽 公子
其國號
阿輩雞彌(オホキミ・アハケイミ)
あわけいみ=阿訳 意味
阿波化意味 鴉葉化意味)
華言(中国語)
天兒也(天子=王)、
遣使詣闕。
(通典 第一百八十五 邊防第一 倭)
↓↑
『隋書』
「倭王、小徳-阿輩台(アハイダイ)を遣わし」
「阿輩台=アワと・阿波都・阿波門・阿倭徒・阿波門=鳴門?」
「大礼・哥多(カタ)」
↓↑
『新唐書』
用明天皇=多利思比孤・・・?
・・・用明=燭(燈)を挙げよ(挙燭)
郢書燕説
和洋折衷・和漢洋折衷
用和折衷・・・用韓折衷・・・?
和魂漢才(わこんかんさい)
和魂洋才(わこんようさい)
中国は「中体西用」
・・・「体」は本体、「用」は枝葉
要務運動・自強運動
日清戦争敗北・変法自強運動
朝鮮は「東道西器」
ーーーーー
南北朝時代
北魏が華北を統一した
439年から始まり
隋が中国を再び統一する
589年まで
中国の南北に
王朝が並立
↓↑
華南=南朝
宋、斉、梁、陳
の4つの王朝が興亡
建康(建業)に都をおいた
・・・建業・・・犍旔腱楗蜨揵鞬健・・・
鍵(かぎ・ケン)=金+建
三国時代の
呉、東晋
と南朝の4つの王朝をあわせて
六朝
六朝時代
江南(長江以南)の開発
隋や唐
江南は
中国全体の経済基盤となった
南朝
政治的に混乱したが
文学や仏教が隆盛し
六朝文化
陶淵明や王羲之などが活躍
↓↑
華北
鮮卑-拓跋部の
北魏・・・前身は「代国」
↓↑ 315年~376年まで
八主、およそ61年続いた
前秦の
苻堅により一旦は滅ぼされる
苻堅が淝水で大敗し
再興され
439年
第3代
太武帝の下で華北を統一した
太武帝が暗殺
混乱を収めたのが
文明皇后(馮太后)
↓↑ ↓↑
文明皇后
第5代
献文帝の乳母
466年
政権を握っていた
乙渾を排除し
献文帝を擁して
垂簾政治
献文帝に長男の
宏(孝文帝)が生まれ
表舞台から引き下がるが
孝文帝の生母を殺し
献文帝と対立
献文帝を廃位し
孝文帝を擁立
↓↑ ↓↑
外戚対策として
新帝の即位後に
その生母を殺すことが通例
↓↑ ↓↑
文明皇太后は
引き続き垂簾政治
班禄制・三長制・均田制
などの諸制度を実行
中央集権化・漢化を推し進めた
↓↑ ↓↑
490年
文明皇太后が死去
孝文帝の親政
文明皇太后の方針を受け継いだ
493年
首都を
平城(山西省大同)から
洛陽に遷都
家臣たちの
鮮卑の氏を全て中国風に改め
皇室の
拓跋氏を
元氏とし
九品を部分的に取り入れ
南朝を模倣した
↓↑ 北朝貴族制度を形成
が
五胡十六国時代の戦乱を収め
北方遊牧民の部族制を解体し
貴族制に基づく中国的国家を形成
「六鎮の乱」を経
534年
東魏、西魏に分裂
東魏は550年に
西魏は556年に
北斉、北周に取って代わられた
↓↑
577年
北周は北斉を滅ぼし
華北を統一
↓↑
581年
隋の
楊堅が
北周の譲りを受けて帝位
589年
隋は
南朝の
陳を滅ぼし中国を統一
北魏・東魏・西魏・北斉・北周
の五王朝を北朝
李延寿の『北史』
隋を北朝に列している
ーー↓↑↓↑ーー
遣隋使
倭国(俀國)が
隋に派遣した朝貢使
600年(推古八年)
~
618年(推古二十六年)
18年間に5回以上派遣
↓↑
『隋書』
竹斯國・・・筑紫
秦王國・・・秦王
の国名が記録
「都於-邪靡堆」・・・靡=なびく・堆⇔碓⇔小碓命
都は
「邪靡堆⇔邪馬台」
↓↑ ・・・邪=牙+阝
=ジャ・シャ・ヤ
よこしま=ム
正しくない・私欲・いつわり
琅邪山=山東省東南部の山名
琅琊山=瑯邪山
琅邪郡=琅琊郡=瑯邪郡
新の王莽の時
填夷郡(チンイグン)と改称
後漢建国
琅邪郡の称にもどされた
↓↑ 41年(建武十七年)
光武帝の子
劉京が琅邪王に封じられ
琅邪郡は琅邪国に改められた
北魏
琅邪郡は北徐州に属
北周
北徐州は沂州と改められ
琅邪郡は沂州に属
583年(開皇三年)
隋が郡制を廃し
琅邪郡は沂州と改められた
607年(大業三年)
州が廃止されて郡が置かれ
沂州は琅邪郡と改称
621年(武徳四年)
徐円朗が唐に滅ぼされ
琅邪郡は唐の沂州となった
742年(天宝元年)
沂州は琅邪郡と改称
758年(乾元元年)
琅邪郡は沂州と改称
以後、琅邪郡の呼称は消滅・・・?
・・・台=ム+口=臺=吉+冖+一+ム+十+一
異体字「臺・䑓」・・・「檯・枱」
↓↑ 臺⇔壱=壹
↓↑
「明年
上遣
文林郎
裴清
使
於
俀國
度-百濟
行至-竹嶋
南望-耼羅國
經-都斯麻國
迥在大海中
又東至-一支國
又 至-竹斯國
又東至-秦王國・・・秦王國
其人
同
於
華夏
以
爲夷州
疑不能明也
隋書 列傳第四十六 東夷 俀國」
↓↑
「明年 上遣文林郎裴世清使俀國
度百濟 行至竹島 南望耽羅國 經都斯麻國
迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國
又東至-秦王國
其人同於華夏
以爲夷洲 疑不能明也
北史 巻94 列傳第82」
ーー↓↑↓↑ーー
新羅本紀第一巻
脱解王
四代目の王に即く・・・
脱解
倭国の東北千里にある
多婆那国の生まれ・・・脱解=倭国の多婆那国の人
丹波那?
↓↑
三国史記に
列島から
脱解という賢者が
4代目の
新羅の王になり
倭人を大臣に任命
大臣になったのは
瓢箪を・・・瓢箪の形象=「呂・𠂤・㠯・阝」?
瓢=票+瓜 「8・∞・Β・β」?
着けて
海を渡ってきた
瓠公・・・瓠=夸+瓜=大+亏+瓜=瓢
↓↑ 大+一+丂+瓜=壺
異体字「𤬄・狐・瓡・𤬗・葫・𤫸」
きつね? にんにく?
ひさご・ふくべ・ひょうたんなどの総称
ウリ科の一年草
↓↑ 夸=ほこる・おごる・カ・コ
大+亏
通仮字「侉」
繁体字「誇」
異体字「𡗢・𡗴・𡗸・𡘆・䠸
姱・荂・跨・誇
誇る・粗大な・言葉の訛り
咵・潰(つい)える・姱=美しい
恗(コ)=怯える
↓↑ 亏=まがる・ウ
一+丂
繁体字「虧=雐+亏=雐+亐
かける・キ」
欠け落ちる
虧損・盈虧(エイキ)
傾虧(ケイキ)・ 頽虧(タイキ)
虧盈(キエイ)
雐=虍+隹
↓↑ 異体字「于」
倭人が
新羅王朝を築いた・・・
ーー↓↑↓↑ーー
唐→晋→絳
唐=から・もろこし・トウ
中国王朝名
中国の古い呼び名・外国
唐人・毛唐
にわかに・出しぬけに・唐突
ほら
↓↑
晋=亚+日=晉=一+厶+厶+一+日・・・晋
異体字「晉・𣇩・晉・㬐・㬜
𡥨・𣈆・𣋤・𣋧・𣌇・𦗎」
抑える・進む・(搢と通じて)差し挟む
advance
篆文は「至+至+日」
旧字の晉→晋≠普
・・「普=並+日=あまねし・フ・ホ」
日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)
日並皇子(ひなみしのみこ・万葉集)
日並知 (ひなめしの) 皇子
諡号は
岡宮御宇天皇
(おかのみやに
あめのした
しろしめししすめらみこと・
おかのみやぎょうてんのう)
岡宮天皇、長岡天皇
岡寺
奈良県高市郡明日香村
龍蓋寺(りゅうがいじ)
「岡寺」は地名
「龍蓋寺」は
龍蓋池に封じた龍に由来
草壁皇子の住んだ
岡宮の跡に義淵僧正が創建
山号 東光山
宗派 真言宗豊山派
本尊 如意輪観音
創建 7世紀末頃
開基 義淵
札所 西国三十三所第7番
=草壁皇子=普(あまねし=海人子)
=大海人皇子の子
=妃は阿閇皇女(元明天皇)
「易に曰く、明、地上に出づるは㬜なり」
晋(紀元前11世紀~紀元前376年)
春秋時代の国名
三国時代と南北朝時代の間の王朝名
三晋・西晋・東晋
名のり「あき・くに・ゆき」
春秋時代に栄えた後
趙・韓・魏の三国に分かれる
司馬炎が建てた王朝の名
↓↑ ↓↑
晋
霊公(?~紀元前607年9月27日
春秋時代の晋の君主
在位
紀元前620年~紀元前607年)
姓は姫
諱は夷皋・・・夷=東夷・蝦夷
皋=白+夲=皐
通仮字「睪・皐」
異体字「皐・咎・𣽎
睾・臯・𦤗・鼛」
さつき・さわ・コウ(カウ)
皐・皐月=五月(さつき)
襄公の子
↓↑
唐=广+⺕+口
トウ(タウ)・から・もろこし
唐詩・盛唐・入唐 ・晩唐・李唐
遣唐使・唐音・唐人・唐土・唐本
でたらめ・荒唐無稽
↓↑
絳=糹+夅=糸+夅
あか・あかい・コウ
深紅色・絳裙(コウクン)・絳帳
↓↑
郤 缺(ゲキ ケツ・?~紀元前597年)
趙武
諡号「献文」諡され
趙文子と呼ばれる
↓↑
韓国
戦国七雄の一国
(紀元前403年~紀元前230年)
春秋時代の
晋の公族
穆侯の子
桓叔の庶子の
韓万(韓武子)が
韓原の地(陝西省韓城市)に
封じられた
姫姓を姓とする
韓武子の一族が
韓氏を称し、この領地名に因んだ
これ以前にも同名の
「韓」という国があり
(周王朝系の韓)
韓原を地盤としていた
↓↑
晋の
韓武子が
韓原に封じられ
晋の六卿の一つとなり
前453年
趙、魏と晋を3分
紀元前375年
鄭を滅ぼした
戦国時代
韓は七雄の中では最弱
西の秦からの侵攻に怯えていた
↓↑
国姓 姫姓韓氏
爵位 侯爵
国都 固安・韓原
分封者 武王
始祖 韓侯
存在時期 前1122年?~前756年
滅亡原因 晋により滅亡
韓祖 周の武王の子で成王の弟
韓叔
殷周革命の際に
固安(河北省廊坊市固安県)
に封じられた
兄の成王の代に
韓原(陝西省韓城市~山西省河津市の境目)
に移封
↓↑
晋の公室の分家である曲沃の
桓叔の庶子に
韓万(韓武子)がおり
この者に食邑として与えられた
これが戦国の韓の起源
ーー↓↑↓↑ーー
呂氏春秋
中国の戦国時代末期
秦の呂不韋が食客を集めて
共同編纂させた書物
呂覧(リョラン)とも
秦の始皇八年(紀元前239年)に完成
天文暦学、音楽理論、農学理論
など自然科学的な論説が多く
自然科学史において重要な書物
↓↑
呂不韋
賓客を延き集め
各々聞く所によりて
「月令」を選し
円道を明らかにし、人事を証す
天地・陰陽・四時・日月・星辰・五行・礼儀
の類を載せ
名づけて
「春秋」という
↓↑
呂不韋=韓の大商人、「呂不韋(りょふい)」
↓↑
大韓帝国(テハンジェグク)
1897年~1910年まで
李氏朝鮮の使用国号
↓↑
周王室
武王より三十七世八六七年に滅亡
(前256)
↓↑
秦
昭襄王死後
子楚の父
孝文王が即位
子楚が太子となった
趙国は
子楚の妻子を
鄭重に送りとどけてきた
孝文王は一年にして死去し
子楚=荘襄王が位につく(前250)
呂不韋を丞相(宰相)に任じ
文信候に封じ
洛陽の十万戸をあたえた
前249年
魯が
楚にほろぼされた
魯
周公より三十四代、八五〇年
↓↑
荘襄王
在位三年にして死去(前247)
十三歳
太子の
政=秦王が即位
政治は母の
太后(荘襄王の后)
と
呂不韋
が執政
呂不韋は相国(宰相)
仲父(チュウホ=父親に準ずる待遇)とよんだ
太后は
むかしの
呂不韋の愛人
呂不韋の執政時代
韓、魏、趙は領土の一角を奪い
秦の領土の東端は
斉国と接した
各地から食客を招き三千人
食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ
それを編集して
二十余万字にのぼる
書物
『呂氏(リョシ)春秋』と名づけた
(前239)
咸陽(カンヨウ)の
市場の門前に展示し
賞金をかけて内容を批判させた
「一字でも増減できる者があれば
千金をあたえよう」と
これが
「一字千金」の由来
呂不韋と太后の関係が噂になり
別の男を太后に推挙し太后の気をひかせ
男に宮刑をほどこしたことにし
宦官に仕立て太后の側近に侍ら寵愛させ
二人の子を出産
太后は離宮にかくれ
仕事はその男によって決裁させ
長信侯の位をたまわり
下僕は数千人
食客も千余人におよんだ
政が即位して
九年(前239)
二十二歳
成人の冠礼をおこなった
これをおそれた
長信侯が
反乱をおこして
王宮を攻めて占拠をくわだてたが
密告され
王は
兵を発し一党をほろぼし
長信侯らは
車裂(シャレツ)の刑にした
太后の
不義の
二子も殺された
事件に呂不韋も関係したが
王は
呂不韋
が先王につくした大功をおもんばかり
不問に付した
翌年に
呂不韋の職(相国)を免じ
都から追放し
洛陽の領地においたが
呂不韋は声望があり
洛陽におもむく賓客は多かった
秦王政は謀叛をおそれ
蜀にうつることを命じた
呂不韋は毒をあおって自殺
↓↑
秦
燕に侵攻
↓↑
燕の太子の
丹は
かつて趙に人質となっており
趙でうまれた
秦王政とも、仲がよかった
政が即位し
丹は秦へ人質となったが
秦王の待遇はつめたく
丹はうらんで逃げかえった
秦の将軍の
樊於期(ハンオキ)が
罪をえて
燕に逃げ
丹は、これを館舎にむかえ厚遇した
秦王の怒りを恐れ
群臣がいさめたが、太子は聞かなかった
更に
太子は勇士をもとめて
荊軻(ケイカ)という男をえ
上卿(上席の大臣)とした
丹は
荊軻に
秦王政の暗殺、刺し殺すことを要請
↓↑
荊軻は
衛の人で
読書と撃剣をこのみ
感情的性格の男で
燕にうつってからは
町の酒飲みたちと交遊し
遊歴した土地で
賢人や豪傑や長者と親交した
↓↑
荊軻は
樊於期(ハンオキ)の首と
燕の
督亢(とくこう)の
地図を持参したい、と願った
督亢は
燕の要地にして
秦がもっともほしがっている場
樊の首、
太子は
自分をたよってきた樊を
私利のために殺すには忍びなかった
荊軻は
樊於期に会って、うったえた
秦においては
樊の父母をはじめ
一族をすべて殺し
その首に莫大な懸賞をかけている
一言にて燕国の憂いをとき
将軍のあだをむくいる策・・・
樊於期将軍の首を
秦王に献じたなら
秦王はよろこんで自分を引見するハズ
自分は
左手に秦王の袖をとり
右手で秦王の胸を刺す・・・
これを聞いた
樊於期は
片肌をぬいで腕をにぎり
みずから首はねて死んだ
太子は駆けつけ、屍体にうちふし
大声をあげて泣いた
↓↑
首を箱にいれて封じ
鋭利な匕首(あいくち)をもとめ
毒薬を刃にぬって人にためし
秦王暗殺支度はととのえた
燕のうまれで
秦舞陽(シンブヨウ)という勇士
十三歳で殺人を犯した無頼
太子は、この秦舞陽を、荊軻の副え人とし
秦舞陽をともなって出発
事情を知っている者たちは
白い装束(喪服)を着て見送った
↓↑
易(エキ)水のほとりまで
荊軻は
筑(ちく=琴に似た楽器、竹で絃を打つ)
に和して歌った
風蕭蕭兮易水寒
壮士一去兮不復還
↓↑
秦につき
千金のねうちの贈りものを
王の側近にささげ、来意を通じた
秦王はよろこび
威儀をただして
燕の使者を引見
荊珂は
樊於期の首箱を持ち
秦舞陽は地図の小箱をささげた
すすんで陛(きざはし)にいたると
秦舞陽は
顔色をかえて
ふるえだし・・・
↓↑ 大化の改新の実行犯
「佐伯子麻呂」に類似
古麻呂とも
姓は連
佐伯丹経手の子」とする系図がある?
「佐伯の丹の経の手」・・・丹の経?
「佐伯 丹経手=姓は連
内臣・佐伯戸難目の子」
とする系図がある?
↓↑ 佐伯「戸難目→丹経手→子麻呂」
「佐伯子麻呂」の
兄弟は
東人
子麻呂
百枝
子は
大目
歳主
645年11月(九月)
中大兄皇子に命じられ
阿倍渠曽倍と共に40人の兵士を率いて
入鹿暗殺後に出家し吉野に隠棲していた
古人大兄皇子を攻撃
皇子とその子息を殺害・・・
↓↑ 「丹」は「燕国の太子」・・・
群臣があやしんだので
荊軻は顧みて笑い
「北方の蛮夷の鄙人(ヒジン)
いまだ天子に見(まみ)えたことなく
ゆえにおそれ、ふるえたのでございます。
願わくは大王、これをゆるさせたまえ」
「その者の持っている地図を見せよ」
↓↑
秦王の言により
荊軻は地図の巻物を収りだして、王にささげ
王が地図をひらき、図のおわるところ
匕首(あいくち)があらわれた。
荊軻は
左手で秦王の袖をとらえ
右手に匕首を持って、突きだした
おどろいた王は身を引いて立ちあがり袖が切れた
王は剣をぬこうとしたが
剣は長く鞘(さや)から抜けず
鞘に収またままにぎった・・・
あわてて剣を竪(たて)にしたまま
すぐには抜けなかったが、抜刀して
荊軻と対峙した・・・。
↓↑
秦は
魏、楚、燕をほろぽし
斉もほろぼして天下を平定
秦王政は三十九歳
即位二十六年
(前221)
皇帝の
命を「制」
令を「詔」
自称を「朕(チン)」とした
↓↑
廷尉(司法、検察の長官)の
李斯(リシ)が
法治主義(法家)
郡県主義(直轄中央集権)を採用
李斯
楚の出身
荀子の教えをうけ
秦におもむいて
呂不韋につかえ
呂不韋の推挙で
始皇帝に重用された
↓↑
法家
法による支配
同門に
韓非子(カンピシ)
↓↑ ・・・韓非は咸陽に着き
蘭陵で学んだ頃の同窓の
李斯を訪れた
彼は韓国の特使として
秦国にきて駐在していた
秦の師団が突然東進し
韓を攻め
三十万の大軍が国境を鎮圧
韓王は恐れ
和議を求めて
土地を納め御璽を献上
藩臣を擁護することを請うた
韓非子はこの和義の使節だったが
↓↑ 李斯にハメラレる
始皇帝にもちいられた
李斯の両策によって
無実の罪におとしいれられ
投獄され、自殺
↓↑
秦の郡県となって統一
諸公子や功臣は、あつく待遇すれば、それでよい
天下に異心をいだく者のないのが安寧の術
諸侯をおくことは便法とはいえない
↓↑
これを始皇帝は採用
天下をわけて三十六郡
中央から官吏を派遣して治めさせ
皇帝の直轄とした
郡の下は
数十の県にわけた
一つの県はおよそ一万戸の人口
郡の戸口は数十万戸・・・
始皇帝の中央集権体制
「郡県制度」とよばれ
中国統治方式の基本とされた
周の封建制度
「王」たる天子と諸侯とのあいだに
画然とした身分の差はなかった
「王」は至上なる神の代理者
天子として地上を統治
諸侯は「王」に服しているものの
その領土の内では
王と同じ性格の統治者であった
↓↑
度量衡の単位の統一
度(ものさし)
量(ます)
衡(はかり)
秦のものに一定化
国定の量(ます)や権(おもり)を
全国に頒布
車輪、道幅を一定にした
↓↑
文字を統一
秦と六国とでは
ちがった文字をもちいていた
秦の文字が大篆(ダイテン)で
始皇帝は李斯に命じ
あらたに
小篆という書体をつくらせた
篆書(テンショ)である
しかし篆書にしても、まだ複雑で
隷書(レイショ)が発明され
漢代には一般に通用文字となる
↓↑
貨幣の統一
斉や燕など北方の国は
「刀(トウ)」をもちい
韓魏趙などは
「布(フ)」(農具のスキの形)
楚では「貝(バイ)」
秦では円形の銭をもちいていた
始皇帝は
重さ半両の円形の穴あき銅貨を
標準の貨幣として定め全国に通用させた
半両銭は
後世にいたるまで貨幣の基本の形となった
↓↑
政令は
都の咸陽(カンヨウ)から発せられ
咸陽は帝国の中心となった
↓↑
民の武器の携帯、携行は禁止
天下の武器をおさめて
これを城蒲にあつめ
熔かして
鐘鐻(ショウキョ=鐘などをかける台)
金人(銅製の大きな人形)
を十二体つくった
重さは、おのおの千石(たん=三〇トン)
↓↑
天下の
富豪十二万戸を
咸陽に移住させた
↓↑
宮殿の壮麗化
各国をほろぼすごとに
その宮殿と同様のものを
咸陽につくっていった
これらの宮殿は、みな渭水の北にあった
上林苑という大遊園地や
祖先の廟は
みな渭水の南にあった
その間には大きな橋がかけられ
また宮殿と宮殿との間は
複道という二階建ての道路によってむすばれた
↓↑
統一の翌年から
始皇帝は巡遊をはじめ
専用の道路の造成
天子の馳道(チドウ)とよばれ
幅が約七〇メートル
しかも地上より高く
道の両側には約七メートルごとに
松の並木
天下の巡遊は
五回
東は斉の山東から
北は燕の北境
南は楚の地をへ
越(エツ)の
会稽山まで巡った
ゆくさきざきで盛大な儀式や宴会
↓↑
その間
六ヵ所に記念の石碑に
始皇帝の功業をしるした文を彫りこんで建てた
随行した
李斯が
小篆の書体でしるした
泰山
と
琅邪台(ロウヤダイ)の刻石が
もっとも古い(前219)
刻石を建てて、名を永世に伝えようとする石碑も
始皇帝がひらいた
ーーーーー
始皇帝は
斉の方士
「徐福(徐市)」に命じ
不老不死の薬を探索
徐福が向かった地は
斉の国・琅邪(瑯琊)の
東海に浮かぶ島
「蓬莱」・・・
↓↑
古墳時代
丹後
丹波(京都府中部)
但馬(兵庫県北部)
を合わせて
「大丹波国(おおたにわこく)」
青龍三年(西暦235年)という
日本で一番古い年号を記した
銅鏡「方格規矩四神鏡
(ほうかくきくししんきょう)」
が峰山町、弥栄町にまたがる
大田南5号墳から出土
ーーーーー
・・・???・・・
↧
December 10, 2018, 11:25 am
↧
December 12, 2018, 1:45 pm
・・・情報宣伝部・広報課・・・「神祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ)=古代の日本の律令制で設けられた、 朝廷の祭祀を司る官庁名。長官は神祇伯(通常、じんぎはく・和訓、かみ(かん)づかさのかみ)。唐名から大常伯(たいじょうはく)、大常卿(たいじょうけい)、大卜令(たいぼく)・祠部尚書(しほうしょうしょ)とも呼ばれた」・・・律令以前の神社組織=中央政府の公報(広報)と地方行政(農業指導=季節の祭政行事=農業行事・人員徴用、徴税)の役所・・・「祭祀神事=農業指導」・・・
「公地公民」=土地と人民はすべて「天皇国家」の所有
≠天皇の私有地・・・?
私有を認めない
大化の改新(645年)の際に打ち出され
以後、日本の「律令制の原則」?
「罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉
及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘」
戸籍・計帳に基づいて
政府から
受田資格を得た貴族や人民へ
田が班給され・・・稲の苗(籾種)も供給・・・
死亡者の田は政府へ収公
班給された田は
課税対象で
その収穫から
租が徴収された
「神祇」とは・・・神=ネ(示)+申・・・さる・シン
祇= 示 +氏・・・うじ・シ
「氏」⇔「民」=冖+氏・・・ワ冠の氏
=刃物で目を
突き刺し潰(つぶ)された
奴隷
=先の鋭いさじの形象
匙(さじ・シ)と同系
氏=血統を同じくする集団
氏=同一の
先祖から出た
血縁集団(姓)から
分れ出た小集団
「神」は天津神である「天神」を
・・・天津⇔隋王朝?・・・
高天原(たかまがはら・コウテンゲン)
「高麗
高句麗」の「辿元(たどるもと)」?
中国河北省東部の河港都市
「祇」は国津神である「地祇」を表し
その名の通り祭祀を司る
諸国の官社を総轄
「養老令の職員令」には
太政官に先んじて筆頭に記載
太政官よりも上位であり
相並んで独立した一官で
諸官の最上位とされた・・・諸官の農工産業の最高行政技官?
↓↑
文書行政では
太政官よりも下位・・・ではなく、同等
神祇を祭り
諸国の
祝部(ほうりべ、
神主や禰宜の下の神職で
神戸から選ばれた)
の名帳(名簿)や神戸の戸籍の管理、
大嘗祭・鎮魂祭の施行、
巫(かんなぎ)や亀卜を司った・・・
農耕、農業の行政技官だろう・・・
![]()
ーーーーー
尾張国(おわりのくに=をはりのくに)
尾州(びしゅう)
『倭訓栞』に
「尾張の國は、・・・・・・尾=尸+毛
張=弓+長
・・・弓巴=弓弝(キュウハ)
弓の籐頭(矢摺り籐の巻き始め
握り部と接している部分)
と弦との距離
南智多郡のかた、
尾の張出たるが如し、・・・「尻尾、尾っぽ」が張り割れる?
![]()
伊勢湾
中部地方と近畿地方の
太平洋(フィリピン海)側の
境界の南側にある湾
旧東海道の七里の渡し
宮宿(愛知県名古屋市熱田区)から
桑名宿(三重県桑名市)まで
伊勢湾北部を通る海路
中世には桑名(十楽の津)
大湊などの港町が商業、海運の中心地
一説に
小墾の義也」
『古事記傳』には
「尾張國、名義未思得ず」
「尾張」の発音が「終わり」と重なり
大和政権の勢力圏の「端・東端」
古代の東海道は
伊勢国から
海路(伊勢湾)経由で
三河国に伸びていた
↓↑
尾張(おわり)は
昔は
「烏波利」・・・烏(ウ)=からす=鴉(ア)・雅=加羅州
と書いた
「ヲ・ハリ(小針)」で
「ハリ」は「墾」で土地を開くこと
「ヲ」は接頭語で、「小」を意味
「小さい開墾地」の意
尾張は奈良からの
移住者由来の地名
大和国葛城郡に
高尾張と言う集落があり・・・高の尾を張る⇔鷹の尾を張る
「後尾・交尾・後備」を張る
今の愛知県に移住し
尾張連(おわりむらじ)と呼ばれ地名にもなった
尾張=開墾された土地と言う意味?
↓↑
国名は、
「開墾した土地」という意味の
「大治」=おはり=「小治」
大和国の豪族
尾張氏が移住したことに因むなど・・・複数
↓↑
「袁波里(古事記)」・・・長袖のように靡く波の里?
「烏波利(日本書紀)」・・「雅・鴉・加羅州」の波の利?
などと表記
近世に
春日井郡「小針(をばり)」村の地名が国名になった
「万葉集(巻十三)」
「小治田(おはりだ)之年魚道(あゆち)」
をこの地方に比定し
「小墾田(おはりだ)」に由来・・・という説
年魚市潟=名古屋市熱田区辺りの海岸一帯
「あゆ」=湧き出る
「桜田へ鶴鳴き渡る
年魚市潟(あゆちがた)潮干に
けらし鶴鳴き渡る」
「足結(あゆ)道(ち)」=東国へ向かう旅支度の場所
「足結」=古墳時代の男性の服装の一部で
動き易い様に
はかまの膝の下の辺りを結ぶ紐
↓↑
尾張氏
素戔男尊(スサノオノミコト)が
・・・素戔嗚・建速須佐之男命・須佐乃袁尊
神須佐能袁命・須佐能乎命・素盞嗚
↓↑
八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し
尾を割って出現した
草薙剣を管理していた一族・・・
「尾を割る」
↓↑
天之尾羽張の剣
祅=亻+光
=おおきい・さかん・かがやく・てらす・コウ
?=亻+牟
ひとしい・そろう
したがう・つとめる
とる・はかる
ボウ・厶
通仮字「貿・牟」
異体字「𠉖・件・牟・蟊」
↓↑
東海道五十三次
海路は
宮宿~桑名宿・・・七里の渡し
の間
↓↑
尾張氏の遠祖
天香語山命・天牟良雲命・天背男命
などは
饒速日尊の東遷(185年頃)に従って
筑紫から大和にやってきた・・・?
尾張氏
大和での本拠地は
高尾張
奈良県西部である
葛城市の
高台(葛城山の麓)
・・・高台=高い建物・たかどの
茶碗・鉢・椀などの底にある輪状の基台
二(代)二人称
手紙などで相手を敬っていう語
あなたさま・貴台
↓↑
天火明命の後裔
崇神朝頃までは
大和国
葛城郡
高尾張邑が本拠地
↓↑
高尾張侍 (高終侍)
「タカオハリ(高終)を治める物部」
熱田神宮の大宮司家
尾張氏で火明命の後裔
大和国葛城郡高尾張邑に起こった
14世孫乎止与命が
尾張国造として
熱田大宮司職を世襲・・・
後に
藤原南家
巨勢麿後胤の
季兼が系嗣
↓↑
『旧事』
葛木彦命(カツラギヒコ)
尾張連等の先祖・天忍男命の子
池心朝=孝昭天皇の御世に大連
天忍男命は
葛木の
剣根命の娘の
賀奈良知姫(かならちひめ)を妻とし
二男一女を生む
尾張連の祖の
瀛津世襲命 (葛木彦命)
建額赤命 (タケヌカアカノミコト)
世襲足姫命
↓↑
『書紀』
高尾張邑(たかおわりのむら)にいた土蜘蛛
「高尾張」の邑の名を変えて「葛城」とした・・・
↓↑
7世紀後半の木簡で
尾張国
と
尾治国
の二つの表記
平安時代に作られた
『先代旧事本紀(天孫本紀)』の
尾張氏の系譜にも
「尾治」とある
大宝四年(704年)に
国印・・・令制国支配の象徴として神秘化
↓↑ 各地の印鎰神社の神体
印鑰=インヤク=印鎰
印判・印判と鍵(かぎ)
官府の長官の印と
諸司・城門・蔵などの鍵
天台座主の職印と延暦寺宝蔵の鍵
僧綱(そうごう)の職印と僧綱所の鍵
↓↑
「鑰・鎰」は錠の意
鎰=金+益
かぎ・イツ
異体字「镒・洫・益・賹」
金貨の重さの単位・二〇両・二四両・三〇両
かぎ(鍵)
鎰取(かぎとり)・鎰役(かぎヤク)
主鑰=主鎰=律令制で
中務省の内蔵寮(くらりょう)、蔵省の職員で
物品の出納をつかさどった役人
典鑰 (てんやく)=神社の扉の鍵を預かり
祭りをつかさどる家筋
「鍵(かぎ・キー=Key・じざいかぎ)」は
「錠前(ロック、鍵穴、Lock)」
を解錠する(操作する)器具
↓↑ ↓↑
印と蔵・門の鍵
国府は中世には廃絶した国庁に
付属した「惣社」や「印鎰社」は
いくつかの国で今も存続
国庁機能が失われた
平安末期~鎌倉初期には
国庁のシンボルとしての
印鎰を
国庁跡地に設けた
社祠に祭った
「印鎰(インヤク・インニャク)」は
「国守の権限である国印を納めた
唐櫃を開閉するための鎰(かぎ)」
新旧国守間での「鎰の授受」は
国守交代の儀式
国守
引継ぎには
引継書類、備品、官舎
国印、倉印、文印
駅鈴、鉤匙(かぎの形のかぎ)
↓↑ ↓↑
印匙駅鈴=国印
印鎰(インヤク・インニャク)
匙(ひ・さじ・かぎ)・・・氏
駅鈴(エキレイ)
↓↑ ↓↑
が鋳造されたときに
尾張と定められた
↓↑ ↓↑
明治四年十一月・・・尾張は
名古屋県
三河と尾張の知多郡は
額田県になる
↓↑
名子屋
平安時代
荘園を土地の所有者に代わって
耕す農民が暮らす家屋
「名=名主」の「子」
荘園領主に従属する者の家
平安時代末期の荘園名
「那古野荘」
「那古野荘」の農民の家屋=「名子屋」
「なごやかな(和やか)」土地
↓↑
霧の多い原野
霧=なご
海から発生する霧の事
霧(なご)の原野
↓↑
根古屋
山城の根(麓・ふもと)の小屋
「根小屋(ねこや)」が・・・ねこや=猫家?
「根古屋」
「なごや」
↓↑
魚子
漁師を意味する「魚子(なご)」の屋
↓↑
波越
大波が越えた土地
波(な)越(ご)え=津波
なごや
↓↑
名古屋市中区大須
「那古野山古墳(五世紀頃)」
「浪越山」と呼ばれていた
津波が大須の
那古野山古墳を超え
「浪越山」と呼んだ
ーーーーー
濊貊(ワイハク・カイハク)
濊貊・沃沮・高句麗・夫余
の四種族の祖
韓国江原道にいた
「東濊(濊貊)」は
前漢代の中国東北部にいた
濊の後裔
濊貊系
沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東濊
貊と同音または近似音の
貉・北發・白民
など
夫余の出自が濊
貊を高句麗の別名、別種と記す
晋の孔晁は
高句麗を
高夷の子孫
『後漢書』は
濊・沃沮・高句麗は
元々
衛氏朝鮮の地に居たと記す・・・
(by Wikipedia)
ーーーーー
東沃沮
在
高句驪
蓋馬大山之東
東濱大海
北與
挹婁、夫餘、
南與
濊貊・・・濊と貊
接。
其地
東西夾、南北長、
可折
方千里。
土肥美、
背山、向海、
宜五穀、
善田種、
有
邑落長帥。
人性質
直彊勇、
便持矛歩戰。
言語、食飲、居處、衣服
有似
句驪。
其葬、作大木槨、長十餘丈、開一頭為戸、
新死者先假埋之、令皮肉盡、乃取骨置槨中。
家人皆共一槨、刻木如(主)〔生〕、
隨死者
為數焉。
↓↑
武帝
滅
朝鮮、
以
沃沮地
為
玄菟郡。
後為
夷貊所侵、
徙郡於
高句驪西北、
更以
沃沮為縣、
屬
樂浪東部都尉。
至
光武
罷都尉官、
後皆以封其
渠帥、
為
沃沮侯。
其土迫小、
介於
大國之輭、
遂臣屬
句驪。
句驪
復置其中
大人(遂)為使者、
以相監領、
(貴)〔責〕其租税、貂布魚鹽、
海中食物、
發美女
為
婢妾焉。
↓↑
又有
北沃沮、
一名置
溝婁、
去
南沃沮
八百餘里。
其俗皆與南同。
界南
接
挹婁。
挹婁人
●乘船
寇抄、
北沃沮
畏之、
毎夏
輒臧
於
巖穴、
至冬
船道不通、
乃下居
邑落。
其耆老言、
嘗於海中
得
一布衣、
其形
如
中人衣、
而兩袖長三丈。
又於
岸際
見
一人乘
破船、
頂中
復有面、
與語不通、
不食而死。
又説
海中
有
女國、無男人。
或傳
其國
有神井、
闚之輒生子云。
ーーーーー
・・・???・・・
浜田藩(はまだはん)
石見国浜田(島根県浜田市)
周辺を領有した藩
藩庁は浜田城に置かれた
↓↑
石見国
中国地方の大半を領有していた
毛利家の所領
慶長五年(1600年)
関ヶ原の戦いに敗北
周防国
長門国
の2国に減封
後
石見は徳川氏の直轄領
津和野藩に
坂崎直盛が入ると
坂崎家の管理下に置かれた
↓↑
元和五年(1619年)二月十三日
伊勢松坂藩より
古田重治が
石見国の1部
5万4000石を与えられて入封
浜田藩が立藩
藩庁の置かれた浜田城
吉川家なども陣屋を置かれとされる
鴨山で
古田家が新たに築城
築城の際
鴨山は
亀山に改名
城の別称は亀山城
↓↑
慶安元年(1648年)
第2代藩主
古田重恒は
重臣を斬殺し
お家騒動(古田騒動)を起こし
嗣子が無く改易
後、
浅野長治
と
亀井茲政
が浜田藩を管理
↓↑
慶安二年(1649年)八月十二日
播磨山崎藩より
松平(松井)康映が5万石で入封
後、5代にわたって在封
第五代藩主
松平康福時代の
宝暦九年(1759年)一月十五日
下総古河藩に転封
↓↑
代わって同地より
徳川四天王の
本多忠勝の嫡流
本多忠敞が5万石で入封
本多一族の
本多忠央が前年に
郡上騒動による連座で改易
本家もそれに連座する形で
左遷されたもの
第三代藩主
本多忠粛時代の
明和六年(1769年)十一月十八日
三河岡崎藩へ移封
↓↑
代わって
古河藩から岡崎藩に転封されていた
松平(松井)康福が
再度5万5400石で再封
康福は老中としての精勤を賞され
1万石の加増を受けた
↓↑
第三代藩主
康任時代の
天保七年(1836年)
鬱陵島を仲介所とする
李氏朝鮮
清国
との密貿易が
間宮林蔵の密偵により発覚
康任は老中を罷免され蟄居
(竹島事件)
竹島事件
石見浜田の
廻船問屋
会津屋
八右衛門が
竹島(鬱陵島)に密航した事件
幕府に探知され、1836年死刑
↓↑
康任は失脚し
強制隠居処分
第四代藩主
康爵は
天保七年(1836年)三月十二日
陸奥
棚倉藩へ
懲罰転封
上野国
館林藩より
第六代将軍
徳川家宣の弟
清武を祖とする
越智松平家の
松平斉厚が6万1000石で入封
第十五代将軍
徳川慶喜の実弟で
水戸徳川家から養子に入った
第四代藩主
武聰は
慶応二年(1866年)
第二次長州征伐のとき
浜田口を担当し
長州藩側の
大村益次郎が指揮する軍に撃破された
浜田の街に
長州軍が入ったときに
武聰は戦わずして
浜田城を放棄して松江城に逃亡
武聰は
美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ
鶴田藩を興して明治維新を迎えた
浜田の街は焼き払われ
浜田城も灰燼に帰し
浜田は長州藩が占領
明治二年(1869年)
版籍奉還により
隣接して
同じく
長州藩の占領下にあった
旧幕府領
石見銀山領とともに
大森県となり
明治四年(1871年)
県庁が浜田へ移転され
浜田県となった後
島根県に編入
ーーーーー
・・・???・・・
↧
↧
December 13, 2018, 8:26 am
↧
December 14, 2018, 8:47 am
・・・忠臣蔵・・・播州赤穂浪士、吉良屋敷へ討ち入り・・・恨みではない理屈(儒教?)での集団テロ殺人事件・・・「復讐の連鎖」の規制・・・「問題を武力で解決(故戦防戦)しようとしたら双方を処分」・・・観応三年(1352年)九月十八日に室町幕府が定めた「建武式目追加第六十条」・・・「不論理非(理非を論ぜず)」双方喧嘩両成敗?の片手落ち・・・「元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入り」・・・「nearly(ni(ə)rlē・ニアリー)=似蛙理意」=「Hotondo」・・・「níɚli(米)・níəli(英)・二ァライ=似蛙蠣(励)・似鴉禮(礼・例・霊)」・・・「ほとんど、もう少しで、かろうじて・危うく・密接に・親密に・緊密に」・・・
以下も以上も「These are nearly Wikipedia」・・・???
ーーーーー
It's nearly half past six.
ほとんど・ほぼ・大体
the person most nearly concerned.
最も関係の深い人…?…nòt néarly
We are nearly there.
目的地までもうすぐダ・・・
It's about right [finished].
いいかげん・ちょっと
I'm about tired of their talk.
彼の話にいいかげんうんざりだ
「most(mōst)」=Mottomo
数・量・程度など
もっとも多い・最大多数の・最大量の・最高の
Most→おおよその〜・大抵の〜・大概の〜
Most of→限定された
〜のほとんど・〜の大部分・〜の大半
(米略式)ほとんど
almostの短縮形で
時にmostとも書く
all, always, any, every
などの語を修飾する
most everyday
ほとんど毎日
most anybody
ほとんどだれでも
almost=副・ほとんど、九分どおり、大体
一種の、匹敵する、いまいち
もう少しで完全に至る状態
ɔ́ːlmoust=オールモーストゥ
almost' の後に続けて
'all' のような程度を表す形容詞が必要
Almost all Japanese people
「ほとんど~ある」= all,every,always など
「ほとんど~ない」= no,none,nothing,never など
Almost no one knows about it.
「それについてはほとんど誰も知らない」
almost(副詞)は名詞と一緒に使えない・・・
ーーーーー
寇抄
寇
あた あだ あだする
外から侵入して害を加える賊
外寇・元寇・倭寇(わこう)
外から攻めこむ・あだする
侵寇・入寇・ 来寇
三別抄(サンベツショウ)
高麗王朝の軍事組織
崔氏政権(武臣政権)において
林衍(イム・ヨン)ら
時々の実権を握った者の
私兵として
しばしば政敵の暗殺やクーデターの
ための武力として用いられた
「別抄」とは、別に組織された「抄」という意味
「抄」とは没収すること
反乱を起こした地域へ派遣され
反乱を鎮圧したのち
没収した財産を分け与えられる
臨時の軍組織
国内の反乱鎮圧などのための
臨時編成される組織
侵寇=他国や他の領土に侵入し
害加えること
「抄(すくう・すく・ショウ・セウ)」
長い文章などの一部を書き出すこと
ぬきがき
「かすめる(すばやく盗む)」
「さじですくい取る」
「うつす(写)」、「書き写す」
「書き写したもの」
「長い文章などの一部を書き出す事
すくい取る・かすめ取る・抄掠 (ショウリャク)
書き写す・手抄
抜き書きする・抜き書き
抄出・抄本・抄訳・抄録・詩抄
注釈書・抄物 (ショウもの)
紙をすく・抄紙・抄造
「鈔」と通用
ーーーーー
安帝=東アジアの皇帝の諡号の一
↓↑
孝安天皇(日本足彦国押人尊・第六代天皇
↓↑ 日本足彦国押人天皇
(やまとたらし
ひこくにおしひと)『日本書紀』
大倭帯日子国押人命
(おおやまとたらし
ひこくにおしひと)『古事記』
孝昭天皇の第二皇子
母は
尾張連祖の
瀛津世襲(奥津余曽)の妹の
世襲足媛尊
同母兄は
和珥臣祖の
天足彦国押人命
(あめたらしひこくにおしひとのみこと
天押帯日子命)
在位紀元前392年~紀元前291年)
大彦命…阿部
↓↑ ↓↑
6孝安天皇→7孝霊天皇→8孝元天皇→9開化天皇
↓↑
倭迹迹日百襲姫命
吉備津彦命
稚武彦命
(わかたけひこ)
↓↑ ↓↑
安帝 (漢・劉祜、在位106年~125年)
後漢の
第六代皇帝
諡号 孝安皇帝
第三代皇帝
章帝の孫
父は清河孝王劉慶
母は側室の左小娥
↓↑
『後漢書』
「和帝紀」・・・倭帝紀・話提起?・・・話綴記?
↓↑↓↑
和帝(ワテイ)
↓↑ 後漢の
第四代皇帝
諱は劉肇
章帝の・・・第三代皇帝(第二代明帝の子)
↓↑ ↓↑ 建武四年五月四日
↓↑ (28年 6月15日)
四男 劉炟
諡号 孝章皇帝
↓↑
建武中元二年(57年)
~
章和二年二月三十日
↓↑ (88年4月9日)
母は梁貴人 ↓↑
平原
懐王
劉勝 ↓↑
殤帝の・・・殤帝
父 後漢の第五代皇帝
↓↑ ↓↑ 後漢の第四代皇帝和帝の
多くの皇子は夭折
宦官、外戚による謀殺の
疑惑を抱いた和帝は
皇子を民間で養育
元興元年(105年)十二月
和帝が崩御し
長子の劉勝は病気で
即位が見送られ
劉隆が宮廷に迎えられて
皇帝に即位
劉勝は殤帝即位と共に
平原王に立てられた
殤帝は生後100日余りであり
朝政は外戚の
訒氏(和帝の皇后だった訒綏と
その兄の車騎将軍訒騭)
により掌握され
翌延、平元年(106年)八月辛亥
病気により崩御し
夭折を意味する
「殤」を諡号に贈られた・・・
中国歴代皇帝の最年少の皇帝だった
↓↑ ↓↑ ↓↑
建武中元(ケンブチュウゲン)
後漢
光武帝・劉秀の治世
2番目の元号・56年~57年
『後漢書』の光武帝紀では
「中元」
祭祀志・東夷伝(倭伝)では
「建武中元」
「中元」は「建武中元」の省略・・・
元年二月
泰山で封禅の儀
四月
建武三十二年を
建武中元元年と改元
↓↑
建武二年一月
倭奴国王の使者が来朝
印綬を授ける
建武二年二月
光武帝崩御
明帝、劉荘が即位
ーー↓↑ーー
「建(たける)と武(たけし)」
・・・日本武尊
・・・ α+武天皇
中国
元号の考察
↓↑
始元(シゲン)
前漢の元号・昭帝-劉弗陵の初元
↓↑
本始(ホンシ)
前漢・宣帝・劉詢の最初の元号
紀元前73年(戊申)~紀元前70年(辛亥)
↓↑
建昭(ケンショウ)
前漢・元帝・劉奭(リュウセキ)の三番目の元号
紀元前38年(癸未)~紀元前34年(丁亥)
↓↑
建始(ケンシ)
前漢・成帝・劉驁の最初の年号
紀元前32年(己丑)~紀元前29年(甲午)
↓↑
建平(ケンペイ)
前漢・哀帝・劉欣の最初の年号
紀元前6年(乙卯)~紀元前3年(戊午)
↓↑
始建国(シケンコク)
新の王莽の最初の元号
9年(己巳)~13年(癸酉)
前年の漢の
初始元年12月を正月として始められた
漢字3文字の元号の初出
↓↑
更始(コウシ)・・・更(さら)が始(はじめる)
・・・沙羅・讃良=持統天皇
新王朝末、後漢初
劉玄(更始帝・淮陽王)が建てた元号
・・・淮(ワイ)陽(ヨウ)王(オウ)・・・和意・濊
劉玄の更始朝は統一政権ではないが
更始の年号は
『後漢書』などの紀年に使用
23年(癸未)~25年(乙酉)
↓↑
建武(ケンブ)・・・兼務の中古得・・・建武中興(1334年)
後漢の光武帝・劉秀の最初の元号
25年(乙酉)~56年(丙辰)
建武三十二年(56年)は
四月に改元
建武中元元年・・・兼務の忠言・中間?
となった
↓↑
建武中元(ケンブチュウゲン)
後漢の光武帝・劉秀の2番目の元号
56年(丙辰)~57年(丁巳)
↓↑
建初(ケンショ)
後漢の章帝・劉炟の最初の元号・・・章帝=ショウテイ=章綴
76年(丙子)~84年(甲申)
・・・丙(火)の子(鼠)・甲(木)の申(猿)
建初九年は、八月に改元され
元和元年となった
↓↑
建光(ケンコウ)
後漢の安帝・劉祜の4番目の元号
121年(辛酉)~122年(壬戌)
↓↑
永建(エイケン)・・・・英検・映研・嬴縣
後漢の順帝・劉保の最初の元号 ↓↑
126年(丙寅)~132年(壬申) ↓↑
↓↑ 桧枝の虎・・・・壬申の乱=天武天皇
檜枝・日野江・・壬辰・人身・人神・人臣
陵所 檜隈大内陵 ↓↑
諱 大海人(おおあま) ↓↑
別称 天渟中原瀛真人天皇・・瀛
浄御原天皇
↓↑ ↓↑ ↓↑
秦始皇帝
初代(31代)皇帝(秦王)
在位 前247年五月丙午~前210年七月丙寅
丙午~ 丙寅
都城 咸陽
姓 嬴
諱 政
↓↑
建康(ケンコウ)
後漢の順帝・劉保の5番目の元号
144年(甲申)
↓↑
本初(ホンショ)・・・本初=ホンショ=本書・本所・本史和
後漢の質帝・劉纘の元号・・・質帝=質綴?
146年(丙戌)
↓↑
建和(ケンワ)
後漢の桓帝・劉志の最初の元号・・・・桓帝⇔桓武天皇
147年(丁亥)~149年(己丑)
↓↑
和平(ワヘイ)・・・平安時代の平和?
後漢の桓帝・劉志の2番目の元号
150年(庚寅)
↓↑
建寧(ケンネイ)
後漢の霊帝・劉宏の最初の元号
・・・霊帝=宮殿内で商人のまね
熹平石経の作成
売官・宦官
168年(戊申)~172年(壬子)
建寧五年は五月に改元され
熹平元年となった
↓↑
建安(ケンアン)・・・懸案・検案?
後漢の献帝・劉協の3番目(永漢を除く)の元号
196年(丙子)~220年(庚子)
建安二十五年は三月に改元され
延康元年となった
↓↑
蜀漢では
次の元号
延康の正統性を認めず
建安を二十六年(221年・辛丑)まで使った
ーー↓↑ーー
光武帝25~57
↓
→明帝57~75
→章帝75~88
→和帝88~105
→殤帝105~106
→安帝106~125
→少帝懿125
→順帝125~144
→沖帝144~145
→質帝145~146
→桓帝146~167
→霊帝167~189
→少帝弁189
→献帝189~220
ーー↓↑ーー
和帝
幼少時は継母の
竇太后と・・・竇=穴+賣=穴+𧶠
(あな・あなぐら・
くぐり戸・みぞ・トウ)
通仮字「瀆」
異体字「窦・𥩐・𤅋・𥥨・𥥷・𤀨」
簡体字「窦」
竇憲(トウケン・?~92年)ら
竇一族の専横を許していたが
成長し
実権を自らの元に取り戻そうと考えたが
竇憲らは和帝を害そうと画策
察知した和帝は
に竇氏誅滅を
宦官の
鄭衆・・・鄭の衆
↓↑・・・鄭=奠+阝=酋+大+阝=八+酉+大+阝
=ねんごろ・かさねる・ていねい
テイ・ジョウ
奠鄭擲躑磸䥖㞟橂㽀
酋=丷+酉=八+酉
おさ・かしら・シュウ
通仮字「就」
異体字「醔・篘・𥬠・𥭛・𥮢・𨡲」
酋+α=「𡞜・緧・遒・猶・趥・揂
蝤・鰌・猷・輶・楢・𧤕・𪓰」
・・・猶太
衆=血+乑
=おおい・シュ・シュウ
簡体字「众」
異体字「乑・㐺・𠍸・𠱧・𡿻
↓↑ 眾・𥅫・众」
を用いて計画
92年(永元四年)
竇憲を宮廷内におびき出し
大将軍の印綬を取り上げ
実権を剥奪、領地において自殺を命じた
和帝は政治の実権を取り戻し
鄭衆は
鄲郷侯に封じられ
大長秋の官を授けられた
和帝はその後も鄭衆を信任
以後
宦官が政治に深く関わるようになった・・・
↓↑
和帝が若くして死去
幼帝の補佐として
和帝の皇后
訒氏の一族が
外戚として政治の実権を握る
幼帝が続き
外戚勢力と宦官勢力との間で
争った
西域で
永元六年(94年)
50余国が後漢に従う
西域都護である
班超個人の力量に拠る
班超が中央に召喚され
後漢の西域における影響力は衰えたが
匈奴の内紛に助けられ有利に進めた
↓↑
班固
班昭
兄妹による
『漢書』の編纂(永元4年(92年)
班固の死後、班昭が完成
永元十七年(105年)
蔡倫による製紙法の改良
↓↑
和帝の
生母の
梁貴人
は宮廷内での争いの中で
章帝の皇后
竇氏によって殺され
建初七年(82年)
3歳で皇太子
↓↑
章和二年(88年)春二月
章帝が崩御し
和帝は
9歳で即位
3月に
郡と国の変更
それぞれの諸王が
別の封地を与えられた
↓↑
和帝が幼少で
竇太后が臨朝し
兄である
竇憲らと政権を握った
↓↑
冬10月
侍中であった
竇憲を車騎将軍に任命
北匈奴を征伐
安息国が使者を送ってきた
↓↑
永元元年(89年)夏六月
竇憲は
度遼将軍の
訒鴻
や
南匈奴の単于と協力し
北匈奴を
稽落山で破り
北匈奴の単于を降伏
9月
竇憲は大将軍に任命
中郎将の
劉尚が後任の車騎将軍となった
↓↑
永元二年(90年)春二月
西河と上郡の属国都尉の官が再び設置
夏五月
諸王の封地が変更
北匈奴に副校尉の
閻槃が追討に赴いた
月氏(クシャーナ朝)が
西域長史の
班超を攻撃し
班超は撃退した
秋七月
竇憲は涼州に出兵
九月
北匈奴が使者を送ってきた
冬十月
行中郎将の
班固が
南匈奴の単于に命令を報じ
河雲北で
北匈奴が破られた
↓↑
永元三年(91年)春正月
和帝は元服
2月
竇憲は左校尉の
耿夔を遣わし
金微山において
北匈奴の単于を包囲し破り
単于の母の
閼氏を捕虜とした
冬十月
和帝は長安に行幸
十二月
西域都護、騎都尉、戊己校尉
の官職を復活させた
↓↑
永元四年(92年)春正月
北匈奴で政変
新たに立った単于が降伏を申し出てきた
左校尉の
耿夔が出向き璽綬を受け取った
三月
司徒の袁安が死去
太常の丁鴻が司徒
夏4月
竇憲が京師に帰還
↓↑
六月
日食と地震の災害
和帝は
竇憲の一党を排除しようとし
宦官の鄭衆らと策をめぐらした
和帝は詔勅を出して
竇憲に謀反の罪があるとし
その与党である
射声校尉の
郭璜とその子である
侍中の
郭挙
衛尉である
訒畳
とその弟である歩兵校尉の
訒磊
を捕らえ、みな獄死させた
謁者僕射を使者におくり
大将軍の印綬を没収し
竇憲とその弟の
竇篤、竇景を封国に赴かせ
そこで自殺させた
↓↑
秋七月
太尉の
宋由が
竇憲に与したとして自殺させられた
八月
司空の
任隗が死去
大司農の
尹睦が太尉・録尚書事となった
冬1十月
宗正の
劉方が司空となった
十二月
武陵と零陵の
漊中蛮が反乱
焼当羌が
金城に侵攻
↓↑
永元五年(93年)春二月
太傅の
訒彪が死去
匈奴の単于
於除鞬が叛いた
中郎将の
任尚が派遣され討滅
冬十月
太尉の尹睦が死去
十一月
太僕の張酺が太尉
武陵郡の蛮族の反乱は
郡により鎮圧
護羌校尉の
貫友が
焼当羌を討ち追い払った
南匈奴の単于が
反乱、敗れて斬られた
↓↑
永元六年(94年)春正月
永昌徼外の
夷が使者を送り
犀牛、大象を献上
司徒の丁鴻が死去
二月
三河、兗、冀、青州貧民に食糧が貸し与えた
許陽侯の馬光が自殺
司空の劉方が司徒
太常の張奮が司空
夏四月
蜀郡徼外の
羌が使者を送ってきた
↓↑
秋七月
西域都護の
班超は
焉耆、尉犁を破り、その王を斬り
西域の多くの国を降伏させた
南匈奴の単于が叛いて
胡亡出塞
九月
光禄勲の
訒鴻が車騎将軍の代行に任命
越騎校尉の馮柱
度遼将軍代行の朱徽
使
匈奴中郎将の
杜崇を送り南匈奴を討たせた
冬十一月
護烏桓校尉の
任尚が
烏桓と鮮卑を率いて
逢侯を大いに破り
馮柱は追撃を加えて
再びこれを破った
武陵の
漊中蛮が反乱を起こし
郡により平定された
↓↑
永元七年(95年)春正月
訒鴻、朱徽、杜崇
らは皆獄に下され死去
夏四月
日食
和帝は天災が続くことを憂え
公卿を引見して意見を募った
秋七月には
易陽で地裂
九月
京師で地震
↓↑
永元八年(96年)春二月
貴人の陰氏を皇后に立てた
国内災害はやまず、対策に追われた
南匈奴が反逆
秋七月
度遼将軍代行の
龐奮と
越騎校尉の
馮柱が軍を引き
南匈奴の反乱を鎮めた
車師後王が叛き、車師前王を攻撃
九月
京師で蝗が発生
広陽郡が再び設置
冬十月
北海王の劉威が罪を得て自殺
十二月
南宮宣室殿で火災
↓↑
永元九年(97年)春正月
永昌徼外の蛮夷と撣国が奉貢
三月
隴西で地震
西域長史の
王林が
車師後王を撃ち、これを斬った
六月
蝗と旱
和帝は詔勅を出して被害の救済を行った
秋七月
蝗蟲が京師を飛び過ぎ去った
八月
鮮卑が
肥如に侵攻
遼東太守の
祭参が獄に下され死去
閏八月
皇太后の
竇氏が死去
章徳皇后とされた
焼当羌が隴西に侵略し、長吏を殺害し
征西将軍代行の
劉尚と
越騎校尉の
趙世らがこれを討ち破った
九月
司徒の
劉方が免職となり、自殺
和帝の生母の
梁貴人に
恭懐皇太后が追尊
冬十月
恭懐皇太后を西陵に改葬
十一月
光禄勲である河南の
呂蓋が司徒に任命
十二月
司空の
張奮が罷免
太僕の
韓稜が司空
若盧獄の官を再び設置
↓↑
永元十年(98年)春三月
和帝は政治についての詔勅
夏五月
京師において大水
秋七月
司空の韓稜が死去
八月
太常の泰山の
巣堪が司空
九月
廩犧の官を再び設置
冬十月
五州において雨水
十二月
焼当羌の
迷唐らが貢物を送ってきた
↓↑
永元十一年(99年)春二月
各地の災害対策として
各地の郡国に使者を送り
刑罰を緩め、税を免じた
夏四月
大赦を行った
右校尉の官を再び設置
秋七月
和帝は再び詔勅を出した
↓↑
永元十二年(100年)春二月
旄牛徼外の
白狼
貗薄夷が内属
災害対策の詔が再び出た
3月
和帝は再び詔勅を出した
夏四月
日南で
象林蛮夷が叛き
郡の兵士がこれを討ち破った
閏三月
敦煌、張掖、五原民の貧者に
穀を貸し振舞った
秭帰山が崩れた
六月
舞陽で大水
被災者への救済がなされた
秋七月
日食
9月
太尉の
張酺が免職
大司農の
張禹が太尉となった
冬十一月
西域の
蒙奇
兜勒
の二国が使いを送ってきたため
その王に
金印紫綬を与えた
焼当羌が再び叛いた
↓↑
永元十三年(101年)春正月
和帝は東観に行った
二月
張掖、居延、朔方、日南
の貧民や孤児や寡婦
生活困窮者向けの政策が行われた
秋八月
詔を出し
農耕民に穀物を貸し与えた
北宮盛饌門閣で火災
護羌校尉の
周鮪は
焼当羌を撃破
荊州で雨水
九月
詔を出し荊州での
被災者向けの政策を表明
冬十一月
安息国が使者を送ってきた
和帝は詔を出し
幽、并、涼州
戸口率が減ったことによる
政策の変更を表明
鮮卑が右北平に侵略
漁陽まで及んできた
漁陽太守がこれを撃破
司徒の
呂蓋が罷免
十二月
光禄勲の
魯恭が司徒となった
巫蛮が叛き、南郡に侵攻
↓↑
永元十四年(102年)春二月
西海郡の
旧郡治が修復され
金城西部都尉が駐在する
三月
大赦
夏四月
使者を遣わして
荊州兵を監督させ
巫蛮を撃たせ降伏させた
張掖、居延、敦煌、五原、漢陽、会稽
の流民に穀物を振舞った
五月
象林将兵長史の官職を初めて設置
六月
皇后の陰氏を廃立
陰氏の父で
特進の
陰綱は自殺
陰氏が
巫蠱の術を用いたため(「皇后紀」)
秋七月
詔を出し、象林県の更賦を復した
秋に三州で雨水
冬十月
詔を出し
兗、豫、荊州の水害対策の命令を出した
貴人の
訒氏を皇后に立てた
司空の巣堪を罷免
十一月
大司農の
徐防が司空
郡国上計補郎の官職を初めて復した
↓↑
永元十五年(103年)春閏月
詔を出し、救貧政策を命じた
二月
詔を出し
潁川、汝南、陳留、江夏、梁国、敦煌
の貧民に
廩を貸すことにした
夏四月
日食
五月
南陽で大風
六月
詔令を出した
秋七月
涿郡故安鉄官の官職を再び設置
九月
南に巡狩をし
清河王の劉慶
済北王の劉寿
河間王の劉開
を並べて従わせ
官吏にも財貨を振舞った
秋
四州で雨水
冬十月
章陵に行き
雲夢に進み
漢水まで行った
十一月
車駕を宮み還し
周囲の者に財貨を振舞った
↓↑
永元十六年(104年)春正月
詔を出し
貧民に田と種を貸し与えるよう命令
二月
詔を出し
兗、豫、徐、冀の四州が
雨で被害を受け
その対策を命令
夏四月
三府の掾を分けて
四州に遣わし
貧民を農耕に従事させるように計らった
秋七月
旱
詔を出し、再び貧民対策を命じた
司徒の
魯恭が免職
光禄勲の
張酺が司徒
詔令を出し
今年の田租、芻稾を半減させることにした
八月
司徒の
張酺が死去
冬十月
司空の
徐防が司徒
大鴻臚の
陳寵が司空
十一月
和帝は緱氏に行幸
柏岯山の上り
百官に布を与えた
北匈奴が使者を送り貢納
十二月
遼東西部都尉の官職を再び置いた
↓↑
元興元年(105年)春正月
禁中において人材吟味
高句麗が郡界を侵略
夏四月
大赦を出し
元興に改元
宗室で罪絶となった者を
悉く属籍に復させた
五月
雍で地裂
秋九月
遼東太守の
耿夔は
貊人を撃ち、これを破った
冬十二月
和帝は
章徳前殿において死去
27歳
皇子の
劉隆を皇太子として
即位させ(殤帝)
訒氏が皇太后として
臨朝
宗室
后妃
皇后陰氏 (廃)
和熹皇后訒綏
↓↑
安帝 (東晋・司馬徳宗、在位396年~418年)
安帝(南朝梁の皇族・蕭歓、子の蕭棟により追尊)
ーーーーー
・・・???・・・
↧
December 16, 2018, 4:16 pm
・・・人生の変遷、履歴・・・「戦争」って、殺戮と略奪のプロセスだが・・・ゴジラか、ロケットか・・・なぜ、ダブらせるんだか・・・今夜9:00・・・怖かったのは「アンギラスの声」、そして炭鉱内での「ラドン (Rodan)の餌の古代トンボの幼虫・メガヌロン(Meganuron・メガドロン)の鳴き声」・・・やご・・・
![]()
ーーーーー
「怨恨=エンコン=縁今」と言うコトバはあったカモ
「愛=アイ」と言うコトバはなかったカモ
「愛憎・憎愛」と言うコトバを発明した
奴らは「愛」と「憎」を
存在環境、生活状況として
それらを「必要」としていた・・・
「アイ」が「ゾウ」が
それらのコトバが
「必要」とされる「人間社会」は
「幸福領域」ではなく、
「災厄領域」なんだろう・・・
「無知」は「サイワイなり」・・・
敢えて知る必要もないから・・・・
それがアイ
それがゾウ
と言うコトバが無くても
それらの「行為自体」はあった・・・
理屈としての
「愛・憎」のコトバを必要とされてない
感性としての
「喜怒哀楽」は
人間諸関係、人間諸生活
生物として「底存在」していた・・・
↓↑
三船敏郎のオーデション・・・
審査員が「笑ってみてください」と
窓の外から「早く笑え!」と囃され
三船は
「面白くもないのに笑えません」
と答えた
「笑え、と言われても、可笑しくないのに
笑えるか」
役者志望じゃなかったから当然だった・・・
谷口千吉に
「俳優にはならない
男のくせに
面で飯を食うのは好きではない」・・・と答えた・・・
↓↑
本名 三船 敏郎
1920年4月1日~1997年12月24日(77歳没)
庚申 (己・壬・庚) ⇔丁丑(癸・辛・己)
傷官⇔(比肩・正財・傷官)沐浴⇔偏印
己卯 (甲・ ・乙) ⇔壬子(壬・ ・癸)
比肩⇔(正官・ ・偏官)病 ⇔正財
己丑 (癸・辛・己) ⇔庚子(壬・ ・癸)
比肩⇔(偏財・食神・比肩)墓 ⇔傷官
午未=空亡 大運丁亥⇔偏印 81
↓↑
膠州湾租借地(中国山東省青島市)出生地
・・・膠=にかわ・コウ
動物の皮や骨などを
煮つめて作った接着剤
膠化・膠漆・にかわする・にかわで接合
つく・ねばりつく・かたくくっつく
膠着(コウチャク)
かたい・質がかたい
もとる・あやまる
膠膠=動き乱れるさま
後
「俳優は人間の屑ではない。
人間の宝石が俳優になるのだ。
何故なら神なくして人間を創造するには
人間の屑では出来ないはずだ」
と俳優業を・・・
「私は日本と日本人のために
これからも
正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく」
「シュークリームをつくること」
「同じ日本人なのに何でいじめるんだ。
俺は俺の階級を忘れる。
お前もお前の階級を忘れて俺と勝負しろ」
「男は黙ってSビール」
世界の三船の出演を決断させる要素は
「日本人を茶化さない」
・・・by wikipedia.org/wiki/三船敏郎・・・
↓↑
「墨」=黒+土=鄢+土
異体字「墨・默・㱄・嘿」
墨翟・水墨画
石墨(セキボク)・白墨(ハクボク)・筆墨(ヒツボク)
↓↑
油煙や松煙(しょうえん)を膠(にかわ)で練り固めたもの
それを水とともに硯(すずり)で
すりおろしてつくった黒色の液
↓↑
「書画(毛筆で書いた文字と絵画)・書画を書く事
「けがれる
(清らかさ、純粋さ、神聖さなどが損なわれてる)」
「よごれる」
「だまる(黙)」
「すみなわ(大工が直線を引くのに用いる道具)」
「うらかた(占いに用いた亀の甲羅の割れ目)」
「周代の長さの単位・五尺・約113センチメートル」
「五刑の1つ・入れ墨の刑」
「墨家(ボッカ・戦国時代の墨子の思想」
「墨子(ボクシ・墨守)」
「隅田川の墨堤、墨東」
「墨西哥(メキシコ)」
↓↑
「墨」=黒+土=鄢+土・・・黒土?・・・アフリカ
墨魚(いか・烏賊)・・・異化・如何・医家・易化
墨(すみ・炭・木炭)
墨染め(すみぞめ)
墨壺(すみつぼ)
墨流し(すみながし)
↓↑
墨子糸に泣く(ボクシいとになく)=墨子悲絲
環境次第で
人は善にも悪にもなると
兼愛説と非戦論を唱えた
墨子が嘆き泣いたという故事
『淮南子(エナンジ)』
「楊子(ヨウシ)
道が幾筋にも分れているのを見て泣いた
そこは南にも北にも行けて
その踏み出しを誤れば
大変な違いになるから
↓↑
墨子
まだ染まらない白の練り糸を見て
悲しみ泣いた
白い糸は染めようによっては
黄色にも黒にもなり
一旦染まってしまえば
その色になってしまう・・・当然だが・・・
↓↑
「『淮南子』注釈を施した
高誘(コウユウ)は・・・高いところへ誘う?
『本(もと・本)は同じなのに
末が異なってくることを
楊子(自利愛己・個人主義者?)
墨子の二人は
憐れんでいるのだ』
・・・ダレをアワレんでいるのか・・・?
と述べている」・・・儒教=差別愛・・・?
儒教は「協同体指導者の序列」ではないカラ・・・
・・・搾取秩序の序列・・・
↓↑
「多岐亡羊(タキキュウボウ)・列子説符」
「墨子泣絲(ボクシキュウシ)・淮南子」
「近墨必緇、近朱必赤
(墨に近づけば必ず黒く
↓↑ 朱に近づけば必ず赤くなる)」
墨子兼愛(ボクシケンアイ)
墨子薄葬(ボクシハクソウ)
墨守(ボクシュ)
墨汁(ボクジュウ)
墨跡・墨蹟(ボクセキ)
墨突黔まず(ボクトツくろまず)
孔席暖まらず、
墨突黔まず=多忙で落ち着かない
(班固・文選・答賓戯)
↓↑
墨名儒行(ボクメイジュコウ)
主義主張と
実際の実行が食い違っていること
儒家を批判している墨家が
儒家の孔子の教えに従って行動している
(韓愈「送浮屠文暢師序」
儒名墨行(ジュメイボクコウ)
↓↑
墨客(ボッカク)
墨痕(ボッコン)
墨痕淋漓(ボッコンリンリ)
墨西哥(メキシコ・Mekishiko・Mexico=メェヒィコォ
Estados Unidos Mexicanos)
・・・墨(すみ)の西(にし)の哥(うた)
哥=歌=哥+欠
異体字「謌=言+哥=言+可+可」
うた・うたう
歌曲・歌劇・歌手
やまとうた・わか(和歌)
歌人・歌聖・詠歌
「音調の強弱・遅速等の
変化をつけて出す音声」
「鳥が鳴く=鳥が歌う」
「詩歌(和歌 ・俳句・詩など
一定規則で書き表された文
詩歌にリズム、抑揚をつけて読む(詠う)」
「音律、音調をつけて音声の総称」
「和歌・俳句・詩など
一定規則で作られた感情表現文」
うた=雅楽(ガガク)
「和歌(日本固有の規則の詩歌の表現文
長歌・短歌・旋頭歌
うたう=歌・唄・詠・謡・謳」
詩歌にリズムをつけて読む場合は
「歌」の代わりに「詠」も使用
「謡=能の台本(脚本)に
節(区切り)をつけて声を出す」
「謳=褒める・讃える・主張する
讃歌・・・言は讃岐の歌
(平和な世を謳う
民主主義を謳う)」
「歌=人が口をあけ大きな声でうたう」
うた・うたう・カ
欠(あくび(欠伸)・かける・けんづくり
欠=缺=缶+夬=午+凵+ユ+人
夬=わける・カイ・ケ
異体字「㐸・𣣓・缺・缼・𡙇・𡚆・𥁍・𦈫」
欠=缺=かける・かく・あくび・ケツ・ケン
ユ=愉・愈・癒・諭・喩・楡・由・柚・油
ユ=諛=へつらう・おもねる
諛( ユ)=言+臾
臾=ひきとめる・しばらく・ュ・ヨウ
しばらく・わずかの
須臾(シュユ)
すすめる・そそのかす
縦臾(ショウユ)
臾=𦥑+人=臼人
異体字「㬰・𠒍・蕢・䕚・蒉
𤆂・𧂟・𧸋」
謟(テン)=言+舀
・・・舀=爫+臼=くむ・ヨウ
異体字「𦥝・抭・𤔘・𦥞
𦥟・𥦶・𦥵・ 𦥨」
𦥨⇔咽喉
諂(テン)=言+臽
謟・・・諂諛(テンユ)・讒諂(ザンテン)
六韜三略・・・韜=革の矢袋
稲=稻・水稲・陸稲=米
稲作・稲妻・稲光・稲穂
稲荷(いなり)・稲熱病(いもちびょう)
粳稲(うるしね)・陸稲(おかぼ)
晩稲(おくて・おしね)
税稲(ちからしね)・中稲(なかて)
稲架(はさ)・早稲(わせ)
↓↑
「墨」
すみ・すみでかいたもの
墨汁・水墨
きたない・むさぼる
墨吏・墨子
墨家・墨守
隅田(墨田)川
墨堤
墨西哥(メキシコ)
米墨(アメリカ・亜墨利加・亜米利加・米利堅)
遺墨(イボク)
朱墨(シュボク)
縄墨(ジョウボク)
水墨(スイボク)
石墨(セキボク)
白墨(ハクボク)
筆墨(ヒツボク)
ーーーーー
水蠆=やご=陽侯⇔秋津・安芸津・蜻蛉・とんぼ・Dragonfly
蠆=萬+虫
![]()
・・・???・・・
墨子(ボクシ)
紀元前470年~紀元前390年頃?
中国戦国時代の思想家
魯の人
墨家の始祖
差別が無い博愛主義(兼愛)者
「墨子十大」主張を説く
諱は翟(テキ・羽+隹)
儒学の仁の思想を差別愛とし
墨家集団と呼ばれる学派
↓↑
墨(すみ)を使う工匠
入れ墨をした囚人などの諸説・・・
司馬遷の「史記・孟子荀卿列伝」
墨子についての記述で
「蓋し墨子は宋の大夫なり」
(宋の高官)などと憶測
著書『墨子』(53篇現存)
大部分は墨子の弟子によって編まれた
一部が散逸
↓↑
第一構成
「親士」「修身」「所染」「法儀」
「七患」「辞過」「三弁」
断想集
↓↑
第二構成 「尚賢」「尚同」「兼愛」「非攻」
「節用」「節葬」「天志」「明鬼」「非楽」
「非命」「非儒」「十論」
墨子の主要論考
↓↑
第三構成 「経上」「経下」「経説上」
「経説下」「大取」「小取」
論理学の文集
「墨弁」
哲学、幾何学、光学等を記した論文集
↓↑
第四構成 「耕柱」「貴義」「公孟」「魯問」「公輸」
言行録、説話集
↓↑
第五構成 「備城門」「備高臨」「備梯」
「備水」「備突」「備穴」「備蛾傅」「迎敵祠」
「旗幟」「号令」「雑守」
他に散逸して編名が分からないもの10編
城(市街地)を守る為の詳細かつ具体的な技術論集
主な思想
兼愛・非攻
諸侯からは敬遠
兼愛
兼愛とは
「天下の利益」は平等思想
「天下の損害」は差別思想
非攻
非戦論
「人一人を殺せば死刑なのに、
なぜ百万人を殺した将軍が
勲章をもらうのか」
↓↑
墨子の没後
墨家集団は三墨、三つの集団に分裂
秦帝国成立後
各種文献から墨家集団の記述は
歴史上から消滅
焚書坑儒の秦帝国の思想統制
一気に消滅
漢代
墨家と対立していた儒家が一大勢力となり
墨家は思想排斥
後、清末の動乱期に
墨子思想は
キリスト教の思想に酷似
「墨弁」の科学的な内容
孫詒譲、清末の学者らによって
墨子の思想は再評価
↓↑
墨子の出身地
濫邑(山東省棗荘市滕州市)
or
魯陽(河南省平頂山市魯山県)
↓↑
墨家
諸子百家の一
博愛主義(兼愛交利)を説き
武装防御集団として各地の守城戦で活躍
秦の中国統一ののち勢威が衰え消滅
↓↑
基本思想(墨家十論)
実用主義的で
秩序の安定や労働・節約を通じ
人民の救済と国家経済の強化をめざす
論の展開方法として比喩や反復を多用
兼愛、非攻の思想は稀有な思想
兼愛
兼(ひろ)く愛する・・・兼ねて愛す
全ての人を
公平に隔たり無く愛せよという教え
儒家の愛は
家族や長たる者のみを
強調する「偏愛」として排撃
非攻
戦争による
社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難
他国への侵攻を否定
ただし防衛のための戦争は否定しない
墨家は土木、冶金といった
工学技術と
人間観察という二面より
守城のための技術を磨き
他国に侵攻された城の防衛に
自ら参加
尚賢
貴賎を問わず賢者を登用
「官無常貴而民無終賤
(官に常貴無く、民に終賤無し)」
平等主義的・・・
尚同
賢者の考えに
天子から庶民まで
社会全体が従い
価値基準を一つにし
社会秩序を守り
社会を繁栄させること
節用
無駄をなくし
物事に費やす金銭の節約
節葬
葬礼を簡素にし
祭礼浪費を防ぐこと
儒家の祭礼重視と対立
非命
宿命論を否定
主体性論
非楽
悦楽、舞楽は否定
音楽自体は肯定も否定もしない
天志
上帝(天)を絶対者として設定し
天の意思は
人々が正義をなすことだとし
天意にそむく
憎み合いや争いを抑制
明鬼
善悪の賞罰を与える鬼神の存在を主張し
争いなど悪い行いを抑制
鬼神否定の儒家対立
組織
墨家集団は
鉅子(キョシ)と言う指導者の下で
強固な結束
『呂氏春秋』によれば
楚において
守備していた城が落城した責任をとって
鉅子の孟勝以下、墨者400人が集団自決
城から脱出して孟勝の死と鉅子の引継ぎを
田襄子に伝えにいった使者の墨者二人も
楚に戻って後追い自殺・・・
墨家集団は宗教集団的・・・
歴代鉅子
墨子、呂氏春秋等の鉅子の名前
『荘子』・天下篇
墨家は
相里氏
と
鄧陵氏の二派に分れ
互いに「別墨」と非難した・・・
『韓非子』・顕学篇
前二派に加え
相夫氏もある・・・
墨子…初代
禽滑釐(キンコツリ)…二代目
・・・禽=𠆢+离
=𠆢+亠+凶+禸
=𠆢+亠+凵+乂+ム+冂
とり・とらえる・いけどる
とりこにする・キン
鳥類の総称・家禽・猛禽・鳥や獣類の総称
禽獣・小禽・水禽・鳴禽・猛禽・野禽
禽獲・擒(キン)
説文解字⇔走獸の緫名也
厹に従ひ・・・厹=九+ム=蹂の正字
狐狸の類の足迹
厹=禸
厹矛=三叉の矛
圧倒する?
今(キン)を聲とす
禽、离(リ)、兕(ジ)は
頭相ひ似たり
滑=氵+冎+冃(月・肉)
冎=骨・削る・穴にはまりこむ関節の骨
異体字「剮・叧」・関節・骨・肩甲骨
冎+口=咼=拐・骨
説文解字⇔冎=剔人肉置其骨也・頭隆骨也
凡冎之屬皆从冎
段注⇔剔當作𩮜・解也
其周禮膊之、焚之、辜之之㓝與。
列子(湯問)⇔曰、炎人之國、其親戚死、
冎=其肉而棄之・刀部無剔字・冎俗作剮
冎+α=渦・過・禍
まるい・めぐる・渦・カ
水中のうずまきめぐっている所
渦中(うずまきの中・もめごと・ごたごた)
蝸牛=蝸牛・蝸=かたつむり
滑
異体字「猾・抇・磆・㹟・狤・狯・獪」
すべる・なめらか・ぬめる
カツ(クヮツ)・コツ
なめらかで滞りがない
円滑・潤滑・平滑・円転滑脱
滑空・滑降・滑車・滑走・滑落
秩序を乱す・まぜ返してすべる
釐
釐=𠩺+里=未+攵+厂+里(田十一)
おさめる・ あらためる・たまう・あたえる
やもめ・リ
釐正・釐定
リン=単位の名・分(ブ)の十分の一
きわめてわずか・毫釐(ゴウリ)
孟勝…三代目
田襄子…四代目
ーーーーー
・・・???・・・墨子=ボクシ=牧師・牧之・牧史・朴子・・・
墨=囗(くに・囲い・エ・イ)の中の十(十字架)で
烈火に焼かれる
十(十字架・磔刑)の一(はじめ)
子=了と一=終始・始終
・・・
↧