・・・「救われし時」・・・生きているモノが危機的な生死の境目で彷徨っている時に、なんらかのコトで「延命」と云う梯子を手に入れた時だろう・・・それは、自力的の場合もあろうが、それらの殆んどは他力的にダレかに、ナニかに「スクワレタ」と云うコトだ・・・結果、アリガタイか、ドウカは別問題だが・・・生きている限り、先行き「確かなモノ」と云うモノは「ナニモナイ」が、生きている「確証」は自分自身の手で鼻と口を塞ぐだけで簡単に判る。30秒も経てば息苦しくなり、それに耐えられなくなるのは確実に実感できる。今現在、息をして生きているコトは確かであるが、「脆(肉+危・もろ)い存在」としてである・・・
ハルらしいけれど・・・まだ、サビィ、ッ・・・
再三考・・・前々回に「確実」の「確」の「隺(冖+隹)」と、「鶴亀」の「鶴」の「寉(宀+隹)」の考察が曖昧だったようである・・・単純にいえば漢字の部首の「ワかんむり」か、「ウかんむり」の相違(相異)だが・・・「ワカンも無理(ム里)」、「ウカンも無理(ム裏)」・・・「ム=わたくし=私=ム=よこしま=邪・横島・横志摩・横縞・与故揣摩」・・・
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「確=石の寉(宀+隹)」の漢字か?
or
「確=石の隺(冖+隹)」の漢字か?
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「隺」は、「硬い」という意味の
「確実」の「隺(冖+隹)で
「寉」は、「高く飛ぶ」という意味の
「鶴」の「寉(宀+隹)=鶴」で
別字・・・
確実の
「確(石+冖+隹)=石+隺
=「石(いし・セキ)の
冖(ベキ・ミャク・ワかんむり
冪・
布で物を覆うこと・被せる)
隹(小鳥)」
ならば、飛べないことの確実性だろう・・・
「鶴=寉+鳥
=宀(ベン・ウかんむり
交差して覆う屋根の形象・家屋)
宇・宙・空・寓・宮・塞・安・憲・家、
宇宙空間を遮って包み支えているモノ(?)
「宀=ウ」は屋根で空を仕切るモノ(?)ならば
屋根の上、屋根の下(軒下)の
隹(小鳥・ふるとり・舊鳥・旧鳥)
鳥
つる・カク・鳥の名
長いくちばし、首、足をもつ大型の水鳥
羽毛は部分的に頚と尾は黒、
身体は白、
頭は赤
くちばし(嘴・喙)が細長く、全身が白く
千年生きるとされ、・・・実際の野生では30年位
亀とともに長寿のたとえ
たず・白い・細長く痩(やせ)たコトのたとえ」
鶴嘴(つるはし)=先端を尖らせて
左右に長く張り出した頭部を
ハンドル部分に直角に連結した道具
唐鍬の一種
固い岩石、鉱石、岩場の地面や
アスファルトを砕くために使われる
ピカクス(Pick-axe)
硬い土を掘り起こすのに用いる道具
鉄製で両端または片方だけを
鶴の嘴のような形に作り
柄をつけたもの
pickaxe・mattock
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「隹」は更に分解出来る
「隹=イ(人)+主+丄」
「隹=イ(人)+亠+圭」
「隹=い(人)+亠+十+一+丄」
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伊勢・・・伊勢津彦=建御名方(タケミナカタ)神?
語源は「伊呂 勢(=弟)」?
志摩・・・しま=島・嶋・嶌
=縞
=揣摩
志摩市・・・北緯34度19分41.5秒 東経136度49分46.8秒
の
大王町~志摩町
にかけて
英虞湾を囲む部分を
「先志摩(さきしま)半島」
三重県東部、志摩半島、南部の地域
奥志摩とも呼ぶ
先志摩台地は
隆起海食台地としては日本最大
志摩半島
小さな島・岬・入り江(溺れ谷)の多い
リアス式海岸が発達した地形
平城京跡から発見された
和銅五年(712年)木簡に
『志摩国志摩郡手節里』、・・・手節里
養老七年(723年)木簡に
『志摩国答志郡和具』・・・・・答志郡和具
の文字がみえる。
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答志(とうし)島 北緯34度31分
淡路島 北緯34度30分
出雲大社 北緯35度24分
平城宮跡 北緯34度41分
平城京
朱雀大路跡 北緯34度41分
伊勢神宮内宮 北緯34度27分
伊勢神宮外宮 北緯34度29分
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『和名抄』でも、
答志郷・和具郷との名が記録・・・
・・・ナゼ、「答(こたえ・トウ)を志(こころざす・シ)」で、「和(にぎ・やわらぐ・ワ)の具(そなえ・グ)」なんだか、「和名抄」=「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)=平安時代中期に作られた辞書・承平年間(931年~938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂 した」・・・源(みなもと)の順(したごう)・・・
「勤子(いそこ・キンシ)内親王
延喜四年(904年)
~
天慶元年十一月五日(938年 11月29日)
醍醐天皇の第五皇女・四品
母は更衣・源周子
女四の宮
夫は右大臣・藤原師輔・・・臣下として初めて
内親王と結婚した人物
密通(?)の後に正式に
皇族と結婚した最初の相手
時代は「931年~947年」の
「承平~天慶」
「平将門の乱・藤原純友の乱」
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伊勢志摩
律令制以前は
島津国造の領域・・・「島津藩」は鹿児島・・・
令制国設置に伴い
伊勢国が成立し、
志摩は伊勢の属領域
7世紀後半~8世紀初
志摩国として分立
8世紀初めまで、
嶋国、志麻国とも記録
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飛鳥・奈良時代
代々
内膳司の
高橋氏などが・・・・・高橋虫麻呂・・・日下部の浦島子
国司であったが、
志摩に赴くことはなかった・・・
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志摩国
面積が小さく
平地もほとんどなく
稲米の収穫量が少なかった
伊勢国や尾張国の田を
志摩国の口分田とし、
国衙や国分寺の費用を
伊勢国・尾張国・三河国
が負担した。
海産物を贄として、
宮中へ貢ぐ
御食(みけ)国の一つとされた・・・
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平城京発掘で出土した木簡
伊雑郷・名錐郷・船越郷
などの表記
海産物を貢租していた
船越郷は、
名錐郷に隣接する船越とする説があるが、
現在の
度会郡
南伊勢町
船越とするのが一般的・・・
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志摩国の領域
三重県の
鳥羽市・志摩市だけではなく、
度会郡南伊勢町、
大紀町の錦地区、
北牟婁郡紀北町、
尾鷲市全域
までが
志摩国
英虞(あご)郡に含まれていた・・・英語?
国府は
志摩市
阿児町
国府に比定
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守護代所が、
室町時代に
答志郡泊浦(鳥羽市鳥羽)にあった
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天正十年(1582年)
紀伊新宮城主の
堀内氏善
と
伊勢国司の
北畠信雄
が
荷坂峠を境として、
それぞれが
紀伊国
牟婁郡
と
伊勢国
度会郡
に編入したため、
志摩国は現在の
三重県の鳥羽市・志摩市だけの地域に限定された・・・
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安国寺 - 三重県志摩市沓掛・・・沓掛(くつかけ・トウケ)?・・・長野県中軽井沢の地名・・・「くつかけ」の「くつ」は「朽ちる」、「かけ」は「欠ける」?・・・信濃国小県郡沓掛村・・・「沓掛の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれて栄えた」・・・「沓懸(くつかけ)」=「旅に草鞋(わらじ)を履き替え、古いものを神社の松の枝などに掛け、旅の平安を祈る習俗があり、地名はこれらの習俗から起こった」・・・
「沓」=「くつ(足を覆うように作った履物の総称」・・・一般的な漢字は「靴(くつ・革靴・軍靴)・履(ぞうり・草履・草鞋・足袋)」だと思うが・・・「沓=水+日」が「くつ」?・・・「舞踏会」の「踏(ふむ・トウ)」
「踏」=足 + 沓=口+ト+人+水+曰」
タリのクツ 口で占う人、ミズのイワク
拾 の沓・・・天智天皇の「沓」を拾った?
藤の木古墳の「沓」?
だろう・・・
「沓=くつ・はきもの・かさなる・かさなりあう・トウ・こみあう=雑沓・よくしゃべる=饒舌(冗舌)=お喋り・沓沓・むさぼる(貪る)」・・・「沓石(くついし)=礎石の上、柱や縁の束柱(つかばしら)の下に据える石・根石(ねいし)・礎盤(そばん)・束(床の下に使う束)の下に敷く石が束石、外の柱が腐らないように沓のように履かせる石が沓石」、「沓手鳥(くつてどり・ほととぎす=時鳥・不如帰・杜鵑)」・・・
「郭公(かっこう)」は「ホトトギス」なのか?
「郭務悰」・・・郭(囲む廓)の務(つとめ)は悰(忄=立身弁の宗=ウを示す)・・・
「ほととぎす」の異名、別名・・・
杜鵑・時鳥・子規・不如帰・杜宇・蜀魂・田鵑
霍公鳥・霍公・郭公・杜魂・布谷・無常鳥
黄昏鳥・夕影鳥・菖蒲鳥・初時鳥・山時鳥
沓手鳥・山郭公
・・・「沓の手の鳥」って?・・・
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・・・「沓」の漢字を上下に入れ替えたら「泉」・・・「泉水」の象徴は「蘭学」・・・「鳴瀧(滝)塾」・・・
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すくわれしトキ・・・
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