・・・「give and take」・・・「疑部 安堵 綴句」・・・「岐阜(義父)安土(蛙務努)帝宮(定句)」・・・「万歳=バンザイ=両手を上げて降伏する」・・・「give up=権力または他の者の所有物を諦(あき)らめ、手放すことに同意する・降参・投降・帰伏・降服・屈伏・帰服・降る・観念・屈服・下る ・伏する・降伏・望みを欠いて・万歳・降参・絶念・思断つ・観念・ 断念・参る・諦める・棄権」・・・「take up=再び始める・再開する・~を取り上げる・~を手に取る・~に乗客を乗せる・天気、景気などが回復する・よくなる・再開する・続ける・授業などが始まる」、「take up=~を取り上げる・~を取る・~を始める」・・・「希望を取り上げる」って?・・・「希望をトウ」か?・・・「ラピュタ」・・・
「天空の城ラピュタ」の「バルス」・・・「bans(バルシュ)」・・・「葉留蘇(子)」・・・
ーーーーー
「対策を取る手立てがなく危機に陥るさま」
「万事休す・絶体絶命・万策尽きた・もう打つ手がない
手立てがない・最大のピンチ・追い詰められた
何もかも終わりだ・後がない・崖っ縁・命運が尽きる
打つ手なし・破綻・お仕舞い・終い・打つ手がない
追い詰められて・八方塞がり・行き詰まり・お手上げ
ギブアップ・手も足も出ない・絶体絶命の・万事休すの」
「八方塞がりの
戦いに敗れたことを認めること
降参・参った・ギブアップ・降伏・降服・投降
白旗・帰順・お手上げ・降旗
問題が解けないまま回答を棄権するさま
わかりません・降参です」
ーーーーー
・・・
「天空の城ラピュタ」の「バルス」
セイジ-ゴロ
・・・「理不尽」・・・「李夫人(リフジン)=中国の皇帝の夫人(側室)、孝武李夫人(前漢の武帝の夫人、李延年と李広利の妹)」、「北魏献文帝の献文帝の夫人・孝文帝の生母」、「李夫人 (北斉武成帝) 北斉の武成帝の夫人、元は東魏の孝静帝の嬪」・・・なんか「リフジン」・・・植物の名・・・
李夫人=リフジン(rifujin)
=ツルナ科の園芸植物
学名 Lithops salicola」
なんか、マーガレットに似ている・・・
・・・「恐竜(キョウリュウ)=恐龍」・・・「今日留」・・・「乎訳諏=オトス=落す=おとす=音素」・・・「オトシどころ=もめ事や話し合いの妥協点・双方が納得する決着点・双方が要望を少しずつ譲歩し、妥協し合って決めた、両者とも納得できる条件」・・・「カンシンごと」・・・?・・・「ニンゲンのコトバ」・・・
ーーーーー
「政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来る (リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です?) Y軸 Libertarian(自由・市場主義=小さな政府)-Statist(統制主義=大きな政府) X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)」・・・?
↓↑
「リベラル(英:liberal)とは、英語で「自由な」、「気前のよい」という意味を持つ言葉」・・・?
↓↑
「自由主義(英:liberalism・リベラリズム)とは、国家や集団や権威などによる統制に対し、個人などが自由に判断し決定する事が可能であり自己決定権を持つとする思想・体制・傾向などを指す用語」・・・?
↓↑
「尚、日本では、昔の自由至上主義(自由放任を基本とする)と異なる個人の自由意思や行動に基づいた福祉・環境・人権などの公共活動を基本とする、社会自由主義のことを特にリベラリズムと呼ぶ」・・・?
↓↑
「日本国憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」・・・?
ーー↓↑ーー
「韓信(カンシン)」
漢の名将
若い頃、
町の
ゴロツキ・・・「ごろつき(破落戸)=ならず者・住所や定職を
もたず人の弱みにつけいる、ならずもの
荒くれ者・無頼漢・企業対象暴力を行う者
「rogue state=ならずもの国家」
「愚連隊」ってのあったが・・・
に喧嘩を売られ
争うことを避け
ゴロツキの命令のまま
股の下をくぐらされた
↓↑
目の前の
小さな侮りを忍ぶべき
「感心=カンシン=韓信」
「カンシンの股くぐり(史記)」
「堪忍辛抱は立身の力綱
堪忍の足らぬは心の足らぬ人
堪忍の忍の字が百貫する
堪忍は一生の宝
堪忍は万宝にかえ難し
堪忍は無事長久の基
ならぬ堪忍するが堪忍
なる堪忍は誰もする
忍の一字は衆妙の門
忍は一字千金の法則
・・・屈辱を我慢(我満・臥瞞)、忍耐(認他意)するコトが
「衆妙の門」・・・プチブル意識で忍の一字?
「無事長久の基」・・・プチブル意識で長生きの基?
個々人、状況次第ではそうはイカナイカモ・・・
↓↑
「韓信」
中国秦末~前漢初期の武将
劉邦の元で数々の戦いに勝利
劉邦の覇権を決定付け
張良
蕭何・・・蕭何(ショウカ)
秦末~前漢初期にかけての政治家
劉邦の天下統一を輔けた
韓信を劉邦に推薦した
などと漢の三傑の一人
↓↑
同時代に
戦国時代の
韓の王族出身の
同じく
「韓信」
という名の人物がおり
劉邦によって
「韓王」に封じられ
「韓王信」
と呼んで区別される・・・?、「韓信」が二人?
↓↑
マタクグリの「韓信」
↓↑
淮陰(江蘇省淮安市)の出身
秦の始皇帝の没後
陳勝・呉広の乱
紀元前209年
韓信は
項梁、
甥の
項羽に仕えて
郎中の
劉邦
配下
紀元前206年
秦の滅亡後
韓信は
項羽の下から離れ
漢中に左遷
漢王
劉邦の元へと移り
連敖(接待係)となる
↓↑
垓下の戦い
垓下を脱出した
項羽は
烏江(安徽省・・・・暗記=アンキ=安企・安危
和県の・・・和を懸る
烏江鎮)・・・ウコウチン
で自決
楚漢戦争終結
↓↑
紀元前202年
項羽の死が確認され
劉邦は
「本来
楚王となるべき
義帝には
御子が居ないので
韓信は
楚出身であり、
楚の風土・風習にも馴染んでいる」
として
韓信を
斉王から
楚王へと移し
故郷の
淮陰に凱旋させた
↓↑
酈炎
酈食其の子孫と称した
范陽(河北省保定市定興県)の人・・・范陽は地名
范蠡は人名
字は文勝
霊帝の時代に存在
弁舌爽やかで
文辞と詩に巧みで
親孝行で音律に長じていた
彼を州郡の官吏として招聘したが
酈炎はこれに応ぜず
後、酈炎は病に倒れてさらに母が死去
酈炎の妻が子を産んで産熱で亡くし
妻の実家は女婿の
酈炎を訴訟
175年に州郡は酈炎を逮捕投獄
酈炎は獄死
酈炎の師、
盧植は彼の死を惜しみ
彼を称える
徳行の詩を謳った
↓↑
紀元前201年
韓信は
「狡兎死して良狗烹られ、
高鳥尽きて良弓蔵され、
敵国敗れて謀臣亡ぶ。
天下が定まったので、
私もまた煮られるのか?」
と
范蠡(ハンレイ)・・・范=艹+氾(氵+㔾)
㔾=字彙に「卽ち卩」
蠡=ひさご・レイ・ラ・リ
にな・ほらがい
巻貝の一種
蠡測(レイソク)
木の芯を食い荒らす虫
=「彖+虫+虫」
彑+豕
ハンレイ・・・・凡例・判例・反例・範例
范蠡(ハンレイ)・・・春秋時代の越の政治家
氏は范・諱は蠡・字は少伯
越王の勾践に仕えた
越が呉王夫差に敗北した後
再建、夫差23 (前473) 年
呉を破って
「会稽の恥」をそそいだ
の言葉を引いた
劉邦は謀反の疑いについては保留し
韓信を兵権を持たない
淮陰侯へと降格させた
↓↑
陳豨・・・「豨=豕+希=猪野子(イノシシの子)」
「豨=楚人呼豬也」
狶・㹷・猪突豨勇
豨薟(キレン)=めなもみ
キク科の一年草
秋、黄色い花が多数咲く
花を包む総苞に
腺毛があり、粘液を出す
漢方で全草を腫瘍などの薬用
もちなもみ
が
鉅鹿太守に任命され
韓信を尊敬していた
陳豨は
長安の韓信の屋敷に挨拶にきた時
韓信は
陳豨に
冷遇され
劉邦への忠誠はなく
私(韓信)が天下を取るまで
と言い
一計を授けた
劉邦の信頼が篤い
陳豨が謀叛すれば
劉邦は必ず激怒して自ら討伐に赴き
長安は空になる
しかし鉅鹿は精兵のいる要衝であるから
容易には落ちないだろう
その隙に
自分(韓信)が長安を掌握する
反乱の頻発に現れているように
天下には不満が渦巻いているので
諸国も味方に就く
と・・・
↓↑
紀元前196年
陳豨
は
鉅鹿で反乱
劉邦は
鎮圧のために親征し
都を留守にし
韓信は、
長安で反乱を起こし
囚人を解放してこれを配下とし
呂后と皇太子の
劉盈(恵帝)
を監禁して政権を奪おうとしたが
韓信に恨みを持つ
下僕がこれを
呂后に密告
呂后に相談された相国の
蕭何は
韓信に
劉邦からの使者に仕立て
「陳豨が討伐された」
と報告をさせ、
長安中に布告を出した
韓信は計画が頓挫したとし
自邸に引篭もるが
蕭何は
「病身であることは知っているが、
自身にかけられた疑いを晴らすためにも、
親征成功の祝辞を述べに参内した方が良い」
と招き
韓信はおびき出され、捕らえられた
自分を大いに買って引きとめ
大将軍に推挙してくれた
蕭何だけは信用していたため
誘いに乗ってしまった
韓信は劉邦の帰還を待たずに
長安城中の未央宮内で斬られ
死ぬ間際に
「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」?
↓↑
蒯越(カイエツ?~214年)
後漢時代末期の武将
字は異度(イド)
荊州南郡中廬侯国の人
楚漢戦争期の説客である
↓↑
蒯通の子孫・・・後漢末に
劉表や曹操に仕えた武将
蒯越・蒯良は蒯通の子孫
↓↑
韓信が斉王になった時
蒯通(カイツウ)=蒯徹(カイテツ)
↓↑ 韓信に「今なら、漢王へ
『斉を慰撫のため治めたい』
と言えば王になれる」と説き
劉邦に斉王即位を認めさせ
さらに韓信を大国斉を地盤として独立させ
劉邦(漢)、項羽(楚)に対抗出来る
第三勢力の首領にし
天下を狙わせようと図るも
韓信は悩んだ末、
これに乗らなかった
で、韓信に劉邦への謀反を勧めたと
誅殺されかねないとして
↓↑ 発狂を装って韓信から離れた・・・
が
「天下三分の計(蒯通=蒯徹)」を唱えた
「劉邦(漢):項羽(楚):韓信(斉)」
独立を拒否する韓信に直言
「計誠知之、而決弗敢行者、百事之禍也。」
(よく謀りよく承知していながら
決断できないのは、全ての禍根)
「夫功者難成而易敗、時者難値而易失
『時乎時、不再來。』」
(それ功業は成し難く失敗しやすい
機会は得難く失いやすい)
↓↑
「天下三分の計(諸葛亮孔明)」
「曹操(魏):孫権(呉):劉備(蜀)」
↓↑
と言い残し
韓信の三族も処刑された
↓↑
韓信の死後、
陳豨の討伐を終えて帰ってきた
劉邦は、
最初は韓信が死んだことに悲しんだが
韓信の最期の言葉を聞いて激怒し
蒯通を捕らえて殺そうとしたが
蒯通が堂々と抗弁し
命は助けられた
ーーーーー
・・・???・・・希望、トウ?・・・
あわレム・・・
・・・地質学的に「日本列島は沈没ではなく、隆起」・・・隆起した場所に人間は存在しないカモ・・・数億年後、化石で発見する奴がいるカモ・・・発見する存在は「進化した知的昆虫」、いや、ぶっ壊れても自己修理、自動修復する「AI(自己思考する知能的頭脳を有する動的物体)」カモ・・・大陸中国語の「机器人=智能机器人(ロボット・robot・人造人間)」って、「機器人」は判るとして、漢字構成からしても「机の器の人」は「誤訳(当て字誤用)」じゃぁないのか?・・・「机望の人」、「器望の人」・・・「希亡の人」、「希氓の人」・・・「氓=亡+民=𣱅・𦫋(亡+艮)・邙(亡+阝)」・・・「亡民・逃民・流民・移民」が「庶+民」のワケがない、?・・・そもそも「民」の漢字は「眼を潰された奴隷(眼を針で突き刺され視覚を奪われた人)」である・・・
「人間自体」も「不思議・摩訶不思議・何?」だけれど、問題は「自分自身の存在の?」である・・・「何=イ(人)+可(口丁)」って、ナニ?・・・「人」とは「口の丁(偶数・J・T)」・・・
「丁」≠「丅=カ=下」
↓↑
「丁(一+亅=チョウ)」・・・「亅(ケツ)=かぎ・はねぼう」
鉤・鈎・鍵
「丅(一+丨=カ)=下」・・・「丨(コン)=ぼう・棍棒」
棒
↓↑
「丁=助数詞」
和綴(と)じの書物の枚葉を数える
表裏合わせて一丁
豆腐を数える
料理・飲食物の一人前の単位
相撲・将棋など勝負の取組
手合わせなどの回数
鋤・鍬・墨・銃・艪(ロ)・三味線
など細長いものを数える
駕籠・人力車など乗り物を数える
「丁=テイ・チョウ・トウ」
一人前の男子・壮年の男
丁役・丁年
正丁・・・「よぼろ=膕」と同源
律令制で労働に使われた男子
朝廷の土木工事に使われた
壮丁・仕丁
召し使われる人
園丁・獄丁・使丁・馬丁・庖丁
十干の第四
ひのと(丁)+α
丁卯・ 丁未・ 丁亥
(冲-衝 冲-衝 冲-衝)
丁酉・ 丁丑・ 丁巳
丁夜
書物の紙一葉・表裏二頁(ページ)
落丁・乱丁
てあつい・ねんごろ
丁重・丁寧
物があたる音
丁丁(ちようちよう・とうとう)
偶数・丁半の丁
↓↑
灯火・提灯
汀(みぎわ)・汀州・汀線・長汀
訂正・改訂・校訂・増訂・補訂
亭
↓↑
丁=ひのと・テイ・チョウ
十干の4番目
陰陽五行説の火性の陰
ひのと=火の弟
ひのえ=丙の字
脚が張り出た台の形
芽が地上に出て
葉が張り出て広がった(丙=一内)形象
ならば
「丁」は地下で根が張った(丁=一亅)様子
「丅」は単なる
「上(丄)下(丅)」の位置を示す漢字
↓↑
「意識に於いてブル(bourgeois)もプロ(proletarian)も存在しない。世の中・・・私有財産制・・・なりたい願望はブル、なりたくない願望はプロ」。「あらゆる願望の選択」は需要供給の枠内で「自由」であり・・・「願望の成就」は「交換比率」による・・・
いずれも「己の存在に無自覚な奴はシアワセ」であるカナ・・・ナヤミナシ・・・「ジカク」とは他者との比較からのみ意識できる・・・
↓↑
「悩める知識人」 or 「行動人」・・・「ハムレット(葉務列訳)」・・・?
2017年=干支、「丁酉(庚・・辛)」・・・
「丁(ひのと・テイ・チョウ)」
↓↑
十干の4番目
陰陽五行説の火性の陰
「ひのと=火の弟」
「丁の字=釘(くぎ)=金+丁」
を形取ったもの
「丁=安定する
植物が成長し一定の大きさに達し
小満=二十四節気の第八
四月中(通常旧暦四月内)
太陽黄経が60度の時
5月21日ごろ
恒気法では
冬至から5/12年(約152.18日)後の
5月23日ごろ
丁=四番目の順位
学校の成績の「甲乙丙丁」の最下位
↓↑
西暦年の下一桁が
「七」の年が
「丁の年」となる
化合物命名法で
「ブタン・ブチル基」など
(豚 夢 斑(扶持)留の基・・・?
炭素を4つ含む
化合物や
官能基・・・?・・・色(艶)っぽい熟語だけれど
「官能=生物の諸器官の機能」で
functional group=機能の器官
に付けられる
「丁字形=丁の字の形をしたもの」
丁字路=交差点・十字路
丁字路その他二以上の道路が
交わる道路
丁字路=T字路
丁=博打(ばくち)で賽(さいころ)の目の偶数
偶数
書籍の表裏二ページ分の紙葉
折り丁の一折分
↓↑
丁抹=デンマーク
生きるか死ぬかそれが問題だ・・・
ハムレット(Hamlet)
(The Tragedy of Hamlet,
Prince of Denmark)
1600年~1602年頃に書かれた「戯曲」?
ウィリアム・シェイクスピアの悲劇
デンマークの王子
王位簒奪した
クローディアスの甥
前デンマーク王
ハムレットの息子
漢字熟語の「戯の曲」ってナンなんだか?
「脚本=足本=肢本」・・・?
↓↑
・・・アシタは「壬戌の日」、アサッテは「癸亥の日」だけれど・・・
本日十月一日は「酉=とり=鳥・隹・禽・鷄=トリ=訳理・採り・・・」が重なるけれど・・・
ーーーーー
2017年干支丁酉(庚・・辛)
0010月干支己酉(庚・・辛)
0001日干支辛酉(庚・・辛)子丑
0018時干支丁酉(庚・・辛)
ーーーーー
・・・
「愍=民+攵+心
ビン・ミン・あわれむ
かわいそうに思う
愍笑・愍然・哀愍
憐愍 (レンビン・レンミン)
気の毒に思う・同情する
「憐憫」と同意
人の不幸に細かい思いやりを示す
こまごまと心配する
うれえる
不愍(フビン)・憐愍(レンビン)
愍 (あわ)れむ
オノレのソンザイ・ミズカラのブン・・・
・・・「自分」って「ボクの分け前」、「ボクの取り分」って仕事もせずに取り分は無いか・・・「取分」って「取(耳又)の分(八刀)」・・・「耳に右手(又)を当て音を聴き捌(八)ける片名(刀)」?・・・「私の訳理文(わたし・ヨコシマなトリブン」か・・・「自」って「鼻の形象」らしいけれど、「ノ+目」で、「耳」は「のみ、だけ」の「限定・断定の助字」でもあるけれど・・・「耳の形象」なら「B」か「乃」、あるいは「阝」に思えるが、「耳」に似ている漢字は「亙(わたる)・互(たがい)」で、「梯子(はしご)・梯(かけはし)」だろう・・・
ーーーーー
「亙・異体字は亘・・・コウ=恒(恆)・亙=亘
きはまる・きはむ(極)・つらなる(連)
とほる(通)・ひろさ(袤)・ながさ(長)
のび(延)・ ひろがり(延袤)
わたる(竟)・物の此端より彼端に竟(ワタ)る
をはる(終)」
「二本の横線」と「欠けた月」の象形・月の朔望の形
「月の上端から下端までの弦」
「亙は竟(わたる)なり
二の中の「月=冃(頭巾)=冂+=」は「舟」の變體
舟の兩岸に竟(ワタ)るに象る
「𠄭」は古字(字源)」・・・
「𠄭=一+舟+一」 →両岸(一一)の間の舟
「顔=彦+頁」は額・両眉
両目(両眼)・両耳
鼻 (両穴)
顎
口 (両唇)
「額田王(万葉集)」
「額田女王、額田姫王(日本書紀)」・・・「鏡王の娘、妹」?
鏡=金+竟
「額田部姫王(薬師寺縁起)」
・・・「九年丁酉(ていいう)の十二月己巳(きし)」・・・
・・・「斉明七年(辛酉・661年)一月十四日」
「熟田津(にきたつ)に=熟田津尓(爾・耳)
船乗りせむと=船乗世武登
月待てば=月待者
潮もかなひぬ=潮毛可奈比沼
今は漕(こ)ぎ出でな=今者許藝乞菜
(万葉集 巻1・8)」
ーー↓↑ーー
661年5月
白村江の戦い第一派出発
1万余人
船舶170余隻
指揮官は
安曇比羅夫
狭井檳榔
朴市秦造田来津
豊璋王を護送する先遣隊
ーー↓↑ーー
武烈王=金春秋
(602年?
~
661年)
新羅の第29代の王
(在位、654年~661年)
姓は金
諱は春秋
父は第25代
真智王の子で
伊飡(二等官)の・・・伊の飡(のむ・くう・サン・ソン)
金龍春
(文興-葛文王と追封)・・・葛の文の王
母は第26代
真平王の長女
天明公主(文貞太后と追封)
実父は
金龍春の兄の
金龍樹
「旧唐書・新唐書」
には
真徳女王
の弟と記録
「三国史記・新羅本紀・太宗-武烈王紀-分注」
では誤りと指摘・・・
王妃は角干(一等官)の
金舒玄
の娘の
文明夫人
文姫
金庾信(三国史記・黄帝の子の少昊金天氏の子孫)
の妹・・・
ーー↓↑ーー
661年8月24日
斉明天皇七年七月二十四日)
~
皇極天皇(斉明天皇)
第35・37代天皇
死去
ーー↓↑ーー
白村江の戦い・・・敗戦
天智二年八月
(663年10月)
朝鮮半島の
白村江(錦江河口付近)で行われた
倭国・百済遺民の連合軍
と
唐・新羅連合軍との戦争
ーー↓↑ーー
壬申の乱
天武天皇(大海人皇子)
元年六月二十四日~七月二十三日
(ユリウス暦
672年7月24日~8月21日)
古代日本の内乱
ーー↓↑ーー
自分の「分」は
本来備わっている性質を意味する
「本分」の「分」・・・・?・・・本の分?
自らの力量をさす語・・・?
↓↑
「私自身」を意味する言葉
としても用いられ
最も古い
「自分」の 「一人称」の用法は
827年・・・干支は「丁未」
↓↑ 日本=天長四年
皇紀1487年
中国
唐=宝暦三年
↓↑ 大和元年・・・大和の元年?
の
「経国集(ケイコクシュウ)」らしい・・・
↓↑
「自分」とは?
反照代名詞・・・反照の代名詞?
↓↑ 一人称・二人称・三人称の
別に関係なく
実体そのものをさす
働きをする代名詞?
「反照=夕日に照り輝くこと・夕映え
ある物事の影響が具体的な形で
他のものの上に現れること」
「再帰代名詞=反照代名詞」
「おのれ・みずから・自分・自己
などは再帰代名詞」・・・
「前に示したモノと同じモノを
再びさし示す働きをもつ単語」
「日本語に人称代名詞は
存在しない説です」
↓↑ ・・・デスか?
話し手・聞き手・第三者
のいずれにも用いる
その人自身
古い典拠として
『摩訶止観』・・・止観=止は三昧、観は智慧・仏教瞑想法
隋代の仏教書・十巻・594年成立
智顗 (チギ) の教説を弟子の
灌頂 (カンジョウ) が筆録
をあげ
広義の仏教語・・・が「自分」?・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
「自分=自己・・・・・自我?
oneself(私)
自分の
one's own personal private
自分のためを図る
pursue one's own interests
自分の物にする
自分の私有物にする
in a one's best interests
~の利益のために
interest=興味、関心(事)
利息・利益・利権・利子
自分=自己
一人称として使用
主に関西圏では
二人称として使用
関西圏では
「自分」を二人称でも用いる
「自分=てめえ・おのれ」
「旧日本軍では一人称を
自分とすることが推奨された
自衛隊では
私を使用することが推奨・・・
一人称
↓↑
私(わたし)
私(わたくし)
自分(じぶん)
僕(ぼく)
俺(おれ)
儂、私(わし)
あたし
あたくし
アテクシ
あたい
わい、わて、あて
わだす、あだす、わす
内(うち)
己等(おいら)
俺ら(おら)
おい、おいどん
うら
わ、わー
ぼくちゃん、ぼくちん
おれっち
おりゃあ、ぼかぁ
わたしゃ、あたしゃ
わしゃあ、おらぁ
ミー
ビジネス文書で
当方(とうほう)
職業で
本官・小官
本職・小職
当職・弊職
愚僧(ぐそう)、拙僧、愚禿(ぐとく)
団体・組織
当○・弊○
無線で
当局(とうきょく)
こちら
古風な自称
我輩、吾輩、我が輩、吾が輩(わがはい)
某(それがし)
朕(チン)
麻呂・麿(まろ)
あ
我・吾(われ・わ)
余・予(よ)
小生(しょうせい)
吾人(ごじん)
愚生(ぐせい)
非才・不才・不佞(ひさい・ふさい・ふねい)
あっし
あちき
わっち
妾(わらわ)
拙者(せっしゃ)・拙僧(せっそう)
身ども(みども)
僕(やつがれ)、手前(てまえ)
此方(こなた)、此方人等(こちとら)
私め(わたしめ)(わたくしめ)
傲慢な自称
俺様(おれさま)
あたくし
一人称複数代名詞
〜達(たち)
〜共(ども)
〜等(ら)
我々(われわれ)
↓↑
あ
あれ
わ
われ
われわれ
われら
わん
わー
わ
わたくし
わたし
わっし
わし
わす
わい
わたい
わて
あて
わだす
あたくし
あたし
あっし
あたい
あだす
あちき
おのれ
おれ
おい
おれら
おいら
おら
うら
おれっち
おい
おいどん
その他
うち
僕
自分
麻呂(麿)・・・太安万(萬)侶
朕
余(餘)・・・磐余=神武
予(豫)・・・豫・預・予・與・輿
蜍=ヒキガエル=引き換える
=蟾蜍(センジョ)
拙者
某
本官
小官
本職
ミー
拙者
愚僧
身共
小生
愚生
手前
こちとら
わらわ
我輩
等々
ーーーーー
「自の分」
↓↑
自始至終=始はじめから終おわりまで
起点や出所を表す助字
「自今・自来」
「自」
口や手や足などを思った通りに動かせる人
我・私・自分・自身・自信
時間・場所を示す名詞に付いて
起点(始まり)を示す
自9時至12時、自後、自東京至京都
↓↑
「みずから」
「おのずから」
「独り(単独)で・自然」
「偶然・たまたま・まれに」
↓↑
「もしも・ひょっとすると・万が一」
「みずから=自ずから」
↓↑
「より」
「~から」(~自(よ)り来る)
「~でない限りは
~神であらざる自(よ)りは」
↓↑
「よる(基づく)・基づく所」
「用いる・用いて」
「率いる」
名のり
「おの・これ・さだ・よし・より」
↓↑
「自・・・ノ+目
鼻(自+田+サ)
臭(自+一+人)
自=はな(鼻)→畠=はたけ=畑・秦家・幡家
↓↑
自分=自(おの・みず)から分(わ)ける
小野・瑞 八+刀
各自
自我
自戒
自覚
自画
自賛
自己
自己撞着
自在
自作
自作
自演
自主
自信
自身
自責
自然
自尊
自尊心
自体
自治
自動
自働
自動車
自分
自暴
自棄
自問
自答
自由
自力
自立
独自
↓↑
自衛・自覚・自決・自己
自国・自主・自信・自宅
自治・自転・自分・自慢
自由・自縄自縛
各自・独自
↓↑
意気自如(イキジジョ)
心の持ち方が平静な様子
↓↑
怡然自得(イゼンジトク)
心が落ち着いていて、満ち足りていること
自分の心を理解し、喜び安らぐこと
怡然=喜び楽しむ様子
悩むことなく道理を理解する様子
自得=現在の自分に満足すること
自身の心の内側を自身で理解すること
↓↑
引決自裁(インケツジザイ)
自分で責任を取ること
責任を取って自殺すること
引決=自身で責任を取ること
引訣自裁(インケツジサイ)
↓↑
隠忍自重(インニンジチョウ)
怒りや苦しみなどをこらえ
軽はずみな行動をしない
そうすべきという戒め
隠忍=表に出さず耐え忍ぶこと
自重=行動を控えること
↓↑
円転自在(エンテンジザイ)
言葉や行動を思うように
淀みなく行われること
↓↑
鷹揚自若(オウヨウジジャク)
落ち着いていて
何事にも動揺しない様子。
鷹揚=余裕があり、大らかなこと
自若=落ち着いていて
慌てることがないこと
↓↑
改過自新(カイカジシン)
自分の過ちを認め改めて
心をいれかえ再出発すること
改過=自分の過ちを改めること
↓↑
活殺自在(カッサツジザイ)
他人を自分の好きなように使うこと
活殺=生かすことと殺すこと
↓↑
豁達自在(カッタツジザイ)
心が広く
小さなことにこだわらないこと
闊達=心が広いこと
闊達自在(カッタツジザイ)
↓↑
闊達自由(カッタツジユウ)
何かに縛られずに
心が広く細かいことに
こだわらないこと
↓↑
緩急自在(カンキュウジザイ)
物事を思いのままに操ること
緩急=程度が弱強
遅い、早いこと
↓↑
彊食自愛(キョウショクジアイ)
しっかりと食事をとって
健康に気遣うこと
彊食=無理にでも食事をすること
強食自愛(キョウショクジアイ)
↓↑
擒縦自在(キンショウジザイ)
自分の好きなように
人を処遇すること
擒=捕まえること
縦=逃がすこと
捕まえるのも
逃がすのも思いのまま
↓↑
君子自重(クンシジチョウ)・・・訓示字調?
学識があり
徳の備わった人格者は
自身の行動を慎んで
軽率な行動をしないこと
↓↑
見性自覚(ケンショウジカク)
自身の生まれつき持っている性質を悟ること
見性=自身の本質を見極めること
↓↑
言笑自若(ゲンショウジジャク)
何があっても決して慌てず
落ち着いていることのたとえ
言笑=喋り声と笑い声・談笑
自若=落ち着いていて慌てないこと
↓↑
膏火自煎(コウカジセン)
才能や財産があると
逆に災いを招くことのたとえ
膏=あぶら
煎=焼くや炒る
あぶらは燃えて辺りを照らすが
あぶら自体は燃え尽きてしまうこと
↓↑
山木自寇(サンボクジコウ)
山の木は我が身を損なう
財多命殆(ザイタメイタイ)
多くの財産を持っていると
盗賊などに命を狙われ危険
財産はほどほどがよい
「財多くして命殆うし」
↓↑
故歩自封(コホジフウ)
昔から続いている状態や
現在の状態に甘んじて
進歩しようとしないことのたとえ
故歩=もとからの歩き方
昔から続くしきたりのたとえ
自封=自分の意思で閉じこもること
↓↑
自然天然(シゼンテンネン)
自然、天然は人の手が加わっていない
あるがままの状態
↓↑
自然淘汰(シゼントウタ)
適したものだけが自然に選ばれ
生き残り
劣っているものは滅びていくこと
ダーウィンの進化論
淘汰=劣っているものを選び
取り除くこと
↓↑
出没自在(シュツボツジザイ)
自由に現れたり隠れたりすること
何の兆しもなく
突然現れたり隠れたりすること
自在に出没するために
所在がわからないこと
↓↑
逍遥自在(ショウヨウジザイ)
世間から離れて、自由に楽しむこと
逍遥=気分に任せて歩く
思うままに楽しむこと
↓↑
縦容自若(ショウヨウジジャク)
穏やかで落ち着いている様子
従容=ゆったりとしていて
落ち着いている様子
従容自若(ショウヨウジジャク)
↓↑
伸縮自在(シンシュクジザイ)
思うように伸ばしたり
縮めたりできること
物事を思うとおりに操れること
↓↑
神色自若(シンショクジジャク)
何があっても慌てずに落ち着いていること
神色=精神と顔色
↓↑
深造自得(シンゾウジトク)
自身の力だけで
学問を奥深くまで習得していること
深造=学問の奥深い境地に至ること
↓↑
自家撞着(ジカドウジャク)
同じ人の行動や言動が
前後で辻褄が合わないこと
自家=自分自身
撞着=辻褄があわないこと 矛盾していること
自家撞着(ジカドウチャク)
↓↑
自家撲滅(ジカボクメツ)
同じ人の言動や文章が
前と後で食い違っていること
自分自身を滅ぼすということ
↓↑
自家薬籠(ジカヤクロウ)
自分の使いたい時に
自由に使える物や技術
または人のこと 薬籠=薬箱のこと
自分の家にある薬箱の中の薬
必要なときに好きなように使える ↓↑
自画自賛(ジガジサン)
賛=絵画に添える詩文
一般的には
他人に書いてもらうものだが
自分の絵画に自分で賛を書くこと
自分で自分をほめるという意味
↓↑
自給自足(ジキュウジソク)
自分に必要なものを自分でまかない
十分に足りるようにすること
↓↑
自己暗示(ジコアンジ)
自分で自分に
特定の意識や理念を抱くように
繰り返し暗示をかけること
↓↑
自高自大(ジコウジダイ)
大きな態度をとって他人を見下すこと
↓↑
自己犠牲(ジコギセイ)
他人に尽くすために
自分の利益や欲望
命などを捨てること
犠牲=目的を果たすために
大事なものを捧げること
↓↑
自己欺瞞(ジコギマン)
自分の本心、良心を裏切り
心を偽ること
「欺=瞞=偽る」
↓↑
自己嫌厭(ジコケンエン)
自分で自分のことを嫌うこと
自己嫌悪(ジコケンオ)
↓↑
自己顕示(ジコケンジ)
自らの存在に注目させようとすること
自らの功績や成功を自慢すること
顕示=明確に示すこと
↓↑
自己韜晦(ジコトウカイ)
自身の才能や地位、本心などを
隠して表に出さないこと
韜晦=才能や学識などを隠す意味
↓↑
自己陶酔(ジコトウスイ)
自分自身の言葉や考えなどを
素晴らしいとして
自分自身に酔いしれること
↓↑
自己撞着(ジコドウチャク)
同じ人の行動や言動が
前後で食い違っていること
撞着=辻褄が合わないこと
矛盾していること
↓↑
自己弁護(ジコベンゴ)
自分の保身のために
都合のいい言い訳をすること
弁護=その人の利益になることを主張し
その人を守りかばうこと
↓↑
自己満足(ジコマンゾク)
自身の言動に対して
自身で不満なく満たされた
気持ちになること
満足=望んだとおりに事が進み
満たされた気持ちになること
他人から見れば満足する水準に
届いていなくても
自身が満足することをいう
↓↑
自己矛盾(ジコムジュン)
同じ人の考えや行動が前後で食い違い
つじつまが合わなくなること
↓↑
自今已後(ジコンイゴ)
現在から先
今から後
自今=「而今」や「爾今」
以後=「已後」とも書く
自今以後(ジコンイゴ)
↓↑
自業自得(ジゴウジトク)
自分が行ったことが
自分に返ってくること
悪い意味で使われる
自分の行動の善悪の業によって
苦楽の業を受けるという意味の
仏教の因果の法則を表す言葉
↓↑
自作自演(ジサクジエン)
自分で筋書きを作り
自分で演じること。
自分で歌を作り自分で歌うこと
被害者と加害者が
同一人物の
狂言誘拐や狂言強盗
成りすまし行為
↓↑
自作自受(ジサクジジュ)
自身の働いた悪事の結果
悪い報いを受けること
↓↑
自殺行為(ジサツコウイ)
行動の結果
自分の身を滅ぼすと
わかっていながらも
あえて行う愚かな行動のこと
自殺=自身の意思で自身の命を絶つこと
↓↑
自主独立(ジシュドクリツ)
他の人を頼らず
自分の意思で責任を持って物事を行うこと
↓↑
自受法楽(ジジュウホウラク)
法楽=仏教で仏を信じて
楽しんで善行積むこと
悟りの境地を自分自身で楽しむこと
↓↑
自浄意志(ジジョウイシ)
清らかな心を保つように努力すること
仏教の言葉で
仏道を究めるには悪行を働いてはならず
善行を積まなければならない
という教えのこと
「自ら意思を浄む」とも読む
↓↑
自浄作用(ジジョウサホウ)
川や海、大気などが流れている間に
自然と綺麗になる作用 組織など内にある悪い部分を
自らの力で改善すること
↓↑
自縄自縛(ジジョウジバク)
自身の縄で自身を縛る
自らの言動や心がけで
身動きが出来なくなり苦しむこと
↓↑
自存独立(ジソンドクリツ)
何者にも縛られることなく
誰からの助けを受けることなく 自分一人の力だけで存在していること
↓↑
自他不二(ジタフニ)
絶対的な平等のこと・・・?
仏教の考え方
自身と他人には区別などなく
自身を救うことと他人を救うことは
同じことであるという仏教の言葉
↓↑
自然法爾(ジネンホウニ)
浄土真宗で
如来の絶対的な他力に身を任せること
自然=外部からの影響ではなく
自ずからそうであること
法爾=法則のままやあるがままということ
全てのものは、自ずから
如来の知恵のあらわれで
真理にかなっているということ
↓↑
自負自賛(ジフジサン)
自分の行為を
すぐれていると思い込み
自分の行為を褒めること
自負=自分の才能を
すぐれていると思い込むこと
自賛=自分の行いを自分で褒めること
自負自讃(ジフジサン)
↓↑
自分勝手(ジブンかって)
自分の都合だけを考え
他の人の迷惑などを考えずに行動すること
勝手=自分の都合だけで行動すること
自分勝手(ジブンがって)
↓↑
自暴自棄(ジボウジキ)
やけになって、もうどうなってもいいと
将来の希望を捨てたり
投げやりな行動をすること
↓↑
自明之理(ジメイノリ)
説明する必要もないほど
当たり前の論理や道理のこと
自明=それ自身で
証明の必要がなく明らかなこと
↓↑
自問自答(ジモンジトウ)
自分自身に質問をしかけ
自分自身でその質問に答えること
↓↑
縦横自在(ジュウオウジザイ)
自分の思ったことを邪魔されることなく
思ったように出来ること
思い切りやりたいことをすること
縦横と自在は
どちらも何者からも邪魔されることなく
思うとおりに出来ること
↓↑
自由闊達(ジユウカッタツ)
のびのびとした広い心で
小事にこだわらないこと
自由=縛られることなく
のびのびしていること
↓↑
自由自在(ジユウジザイ)
自由、自在は
どちらも、邪魔されることなく
思い通りに出来るという意味
↓↑
自由放任(ジユウホウニン)
口を出したり、
考えを押し付けたりせずに
それぞれに思うままにやらせること
放任=物事の状況や人の行動などに
一切手を出さず
成り行きに任せること
経済に関し
企業や個人に対して
政府が統制や規制などの
干渉をしないこと
↓↑
自由奔放(ジユウホンポウ)
周りのことを気にすることなく
自分が思ったことそのままに行動する様子
規範や世間の常識にとらわれることなく
思いのままに物事を行うこと
↓↑
自由民権(ジユウミンケン)
人は自由であり
平等に政治へ参加する権利を
持っているという考え
民権=普通の人々が
政治に参加することのできる権利
↓↑
自力甦生(ジリキコウセイ)
他人を頼りにせず
自身の力だけで
生活を改めて正しく立ち直ること
更生=悪い状況からよい状態に戻ること
犯罪を犯した人
経営の傾いた起業が
他からの力を借りずに
立ち直ることなどをいう
自力更生(ジリキコウセイ)
↓↑
自利利他(ジリリタ)
自分一人だけで利益を得るのではなく
他の人にも利益を与えること
自身は修行して悟りを求め
他の人には仏法による救いを施すこと
自利=自身の利益
利他=他人の利益
↓↑
泰然自若(タイゼンジジャク)
心が落ち着いていて
冷静さを失うことがないこと
泰然=心に余裕があって
落ち着いている様子
↓↑
天然自然(テンネンシゼン)
↓↑
独立自尊(ドクリツジソン)
他人の力を借りず
自身の力だけで物事を行うことによって
自身の品格や尊厳を保つこと
独立=他人の力を借りずに
自身の力だけで生きていくこと
自尊=自身の尊厳や品格を落とすことなく
維持すること
↓↑
独立自存(ドクリツジソン)
何者にも縛られることなく
誰からの助けを受けることなく
自分一人の力だけで存在していること
独立=他からの助けを受けずに
一人きりなこと
自存=自分一人の力だけで生きていくこと
↓↑
反躬自省(ハンキュウジセイ)
自分で自分のことを反省すること
反躬=自分で自分のことを
振り返って考えること
自省=自分で自分に尋ねること
↓↑
反躬自問(ハンキュウジモン)
自分で自分のことを反省すること
反躬=自分で自分のことを
振り返って考えること
自問=自分で自分に尋ねること
↓↑
不羈自由(フキジユウ)
何者にも縛られず自由なこと
普通よりも
すぐれていた性質のために
束縛することができないこと
不羈=繋ぎ止めることができず
自由なこと
↓↑
変幻自在(ヘンゲンジザイ)
好きなように姿を現したり消したり
思い通りに姿を変えたりすること
変幻=幻のようにあっという間に
消えたり現れたりすること
自在=思うとおりに出来ること
↓↑
変法自彊(ヘンボウジキョウ)
法律や制度を新しくして国力を上げること
中国の清の時代
光諸帝からの支持を得て
康有為や梁啓超などが
日本の明治維新を手本に
立憲君主制を目指して
行った政治改革運動
保守派の
西大后を幽閉、暗殺しようとしたが
戊戌の政変で阻止された
変法自強(ヘンボウジキョウ)
↓↑
法爾自然(ホウニジネン)
浄土真宗で
如来の絶対的な他力に身を任せること
法爾=法則のままやあるがまま
自然=外部からの影響ではなく
自ずからそうであること
全てのものは、
自ずから如来の知恵のあらわれであり
真理にかなっているということ
↓↑
奔放自由(ホンポウジユウ)
周りのことを気にすることなく
自分が思ったことそのままに行動する様子
規範や世間の常識にとらわれることなく
思いのままに物事を行うこと
奔放=勢いがある様子から
常識などに縛られることなく
思うままに行動すること
↓↑
呆然自失(ボウゼンジシツ)
予想外のことに、気が抜け
我を忘れること
茫然=予想外のことに
気が抜けてぼんやりすること
自失=放心してぼんやりすること
茫然自失(ボウゼンジシツ)
↓↑
名詮自性(ミョウセンジショウ)
仏教語で
名がそのものの本質を表しているもの
本質に名が相応しいもののこと
名詮=その名に備わっている
自性=そのものの本質のこと
↓↑
民族自決(ミンゾクジケツ)
民族の集団は
それぞれに自らの意思に基づいて
政治体制や帰属を決める権利があり
他の民族や国家からの干渉を
認めるべきではないということ
ロシア革命時のレーニン
第一次世界大戦時の
アメリカのウィルソン大統領が
唱えた・・・?
↓↑
無為自然(ムイシゼン)
人の手を加えずに
あるがままにまかせること
無為=何もしない
自然=人の手が入っていない状態
↓↑
夜郎自大(ヤロウジダイ)
自分の力量も知らずに
偉そうに振舞うこと
夜郎=中国、漢代にあった国の名前
夜郎国の王が漢の大きさを知らず
漢国の使者に
自分の国の大きさを自慢し
夜郎国と漢国のどちらが
大きいか尋ねた故事から
井蛙之見(セイアのケン)
井底之蛙(セイテイのア)
尺沢之鯢(セイタクのゲイ)
用管窺天(ヨウカンキテン)
遼東之豕(リョウトウのいのこ)
↓↑
悠悠自適(ユウユウジテキ)
世間のうんざりするようなことから
離れて、思いのままのんびりと生活すること
悠悠=落ち着いていて
のんびりと余裕のある様子
自適=気分のままに楽しみながら
のんびりと暮らすこと 優遊自適(ユウユウジテキ)
優游自適(ユウユウジテキ)
↓↑
傭書自資(ヨウショジシ)
人に雇われて文書を書くことを仕事にし
生計を立てること
傭書=雇われて文書を書き写すこと
自資=自身の生計の糧にすること
↓↑
冷暖自知(レイダンジチ)
自分のことは他人から教わらなくても
自分自身で分かるということ
水の冷暖は飲んだ者が分かる
ーーーーー
・・・「カンジカタ」は個々人の範疇である・・・
ヤマトはクニのマホラバ・・・
・・・ブログ検索で調べてみた・・・「鼓・腹・撃・壌(コフクゲキジョウ)」・・・ボク的には四文字の漢字からは「平和」であると云う深読みが出来ない熟語である・・・個々の漢字構成を分解したら、理解出来るのか?・・・無理・・・「鼓(十豆十又)・腹(月复・肉复)・撃(車殳手)・壌(十一襄=㐮・のぼる・はらう・割りこむ・上に向ける・わきにはらいのける・間に割りこみ、わきから仕事をたすける・たすけてやりとげさせる)・・・「太平の世の形容・太平で安楽な生活を喜び楽しむさま・善政が行われ、人々が平和な生活を送るさま」、「満腹で腹つづみをうち、足で地面をたたいて拍子をとる意」、「世の中の太平を楽しむこと」、「鼓腹」は食べるものが十分にあり、満腹になった腹を楽器のように打ち鳴らすこと・・・満腹かドウかは?である。「壌」は土や地面のこと。「撃壌」は地面を叩いて拍子をとること・・・フラメンコのイメージ?は難しい。地団駄踏んで悔やしんでいる?・・・「古代中国の聖天使の尭帝は、世の中がうまく治まっているか気になり町の様子を見に行った。そこで、一人の老人が満腹になった腹を打ち鳴らし、地面を踏んで拍子をとりながら、世の中は平和で天子はいてもいなくても変わらないという意味の歌を歌っていた。人民が政治を行う者の力を意識せずに、満ち足りた生活が出来ていることが分かり、尭帝は安心したという故事から」・・・出典「帝王世紀・十八史略」・・・「コフクゲキジョウ=虚福激情」?・・・
「世の中の平和は
天子がいてもいなくても
期待できない」
のは事実だが、
「世の中の災難は
天子がいてもいなくても
変わらない」
だろう・・・?
「含哺鼓腹(ガンポコフク)=人々が豊かな生活をして、平和な世の中を楽しむこと」、「含哺」は口に食べ物を含むこと。「鼓腹」は腹鼓を打つこと。満腹になって満たされている様子から。「哺を含み腹を鼓す(荘子・馬蹄)」・・・
「哺=口に含んだ食物」、「慈烏反哺=親に恩を返すこと→烏(からす)に反哺(ハンポ)の 孝あり」ですか、「握髪吐哺」って人材獲得に余裕がが無いんだ・・・「食物を口に入れて養う・哺育・哺乳」・・・哺乳類かァ~・・・
本当は調べていたのは「平和」じゃぁ無くて「大和」の漢字熟語だった・・・
ーー↓↑ーー
7世紀後半~701年(大宝元年)
までの期間
国号を
「日本」と記録
↓↑
奈良時代中期
737年(天平九年)
令制国の「やまと」は
橘諸兄
政権下で
「大倭国」
から
「大養徳国」
へ改称
747年(天平十九年)
再び
「大倭国」へ戻された
757年(天平宝字元年八月十八日改元)
橘奈良麻呂の乱
直後に
「大倭国」~「大和国」
への変更が行われた・・・
初めて
「大和」の用字が現れた
後、「大倭」と「大和」の併用が見られ
「大和」が主流となっていった
↓↑
夜麻登・山跡(古事記)
倭・野麻登・椰麽等・夜麻苔(日本書紀)
山常・也麻等・夜末等・夜万登・八間跡(万葉集)
ーーーーー
大和(ダイワ・ダイカ)
唐の
文宗
の治世に使用された元号
827年旧2月~835年旧12月
大和
元年 2 3 4 5 6 7 8 9
827 828 829 830 831 832 833 834 835
丁未・戊申・己酉 庚戌・辛亥・壬子 癸丑・甲寅・乙卯
↓↑
文宗(ブンソウ)
唐朝
第十七代皇帝
穆宗の次男
敬宗の同年の異母弟
↓↑
在位期間
827年1月13日~840年2月10日
姓・諱 李涵→李昂
↓↑ 涵(ひたす)→昂(すばる)
涵=氵+函(凾)
ひたす・水中につける
うるおす・いれる・もちいる
水気を含ませる
涵養、滋養
函(凾)=物を入れておく器
直方体で蓋が付く
列車の車両
三味線を入れる物
↓↑ 三味線・三味線芸者
諡号 元聖昭献孝-皇帝
廟号 文宗
↓↑
元和四年十月十日
(809年11月20日)
~
開成五年一月四日
(840年2月10日)
↓↑
父 穆宗
母 貞献皇后
陵墓 章陵
年号 大和=827年~835年
開成=836年~840年
↓↑
初名は涵
昂と改名
初めは
江王に封冊
826年
敬宗が
劉克明によって殺害
劉克明と対立する宦官の
王守澄派により皇帝に擁立
実権は王守澄らが掌握し
文宗は傀儡に近い存在
831年
宰相の
宋申錫・・・宋の申(さる)の錫(すず・金易)
と共に
宦官の討滅を謀ったが失敗
835年
再び
李訓・・・・・・・・李(リ)の訓(クン)
「李=木+子=すもも=素桃・酢桃」
十八一了
らと共に宦官討滅
王守澄を自殺に追い込んだが
宦官の大量粛清が露見し
李訓は殺害
文宗は幽閉された
(甘露の変)・・・甘露の変・・・塩露?塩辛さ
しょっぱい=しおはゆし・しわはゆし
鹹(しおはゆ)し
↓↑
文宗は
実子の
荘恪太子永
蒋王宗倹
を相次いで失っていたため
亡兄の
敬宗の末子である
陳王の
李成美を
皇太子としていたが
甘露の変・・・唐の大和九年(835年)
文宗は李訓、鄭注と謀り
「宮苑に甘露が下った」
という偽の吉兆を告げ
仇士良ら宦官を集めて
一網打尽にする計画を立てたが
李訓が功をあせって露見し失敗
怒った
仇士良は
李訓一党や宦官の
反対勢力などを処刑
宦官誅殺未遂事件
以後、唐王朝の
宦官の権力掌握が続いた
↓↑
宦官の
仇士良・・・皇帝を傀儡とする方法を
↓↑ 仲間の宦官に弁じ
「天子の心を享楽に浸らせ
考える暇を与えない
天子は凡愚となって
すべてが我等(宦官)の
↓↑ 思うがままになる」と・・・
らにより
李成美
は殺害
文宗
の異母弟
潁王
李瀍
が立太子され
840年
幽閉の
文宗は
33歳で崩御
「周の赧王
漢の献帝
は強臣に制せられたに過ぎないが
朕は家奴(宦官)に制されている」
と嘆いた・・・
「飼い犬に手を咬まれる」・・・?
「飼い主に手を咬まれる」・・・?
「飼い猫に指を咬まれた」のは当然だけれど・・・
↓↑
妻妾
王徳妃
楊賢妃
↓↑
男子
魯王李永(荘恪太子)・・・魯の王の李の永
魯迅?
蒋王李宗倹・・・・・・・・蒋の王の李宗の倹
蒋介石?
ーーーーー
・・・???・・・「甘露=中国語訳は蜂蜜・日本語はハチミツ(蜂蜜)で蜜蜂の蜜を精製した食品・英語ではnectar 、sweetness-、honey」・・・「甘露 (高昌=5世紀~7世紀、ウイグル (維吾爾) 自治区の東部に位置するトゥルファン (吐魯番) 盆地地方に栄えた漢民族の植民国家・640年、唐に 滅ぼされた)」・・・
「豊=ホウ=蜂」・・・
「扶余 豊璋(フヨ ホウショウ・扶余豐璋)
百済最後の王、
義慈王(在位は641年~660年)
の王子
扶余豊璋 or 徐豊璋(日本書紀)
余豊璋 or 徐豊璋(三国史記)
余豊 or 徐豊 (旧唐書)」
「百済の王族
翹岐」を・・・・・・・・「翹の岐」
「豊璋」と同一人物とする説・・・
「翹(ギョウ)=堯+羽
あげる・鳥の尾羽のように高くかかげる
つまだてる・つま先だって背を高くする
特に秀でた人・特にすぐれているさま
ぬきんでる
翹企以待=首を長くして待つ・待望、渇望
翹足引領=爪先立ち首を伸ばす
待ちわびる・待ち望む
翹首=見上げる・ふり仰ぐ
首を長くして待ち望む
頭を上げる・もたげる・反り返る・たわむ
高く弧を描いてたつ雉(キジ)の尾羽」
「旱魃飢饉の時に
堯(尭)は弓の名人
羿(羽+廾)に九つの太陽を撃ちおとせと
命令。羿は九個の太陽を打ち落とした
堯(尭)は
中国神話の君主
姓は伊祁(イキ)
名は放勲(ホウクン)
陶
唐に封建され
陶唐氏とも
舜へ帝位を禅譲した」
↓↑
・・・「昆虫の翅(はね)・・・昆虫には、翅を飛行以外に使う・・・発音器官、前翅は左右対称でなく、ヤスリ状の器官でこすり合わせて発音する・・・
「鼓腹撃壌」って?・・・生きて行くことに帝王の権威、権力なんて、関係無い・・・
↓↑
日出而作
日入而息
鑿井而飲
耕田而食
帝力
何有於我哉
↓↑
ーーーーー
孝徳天皇(650年2月15日)
造営途中の難波宮で
白雉改元の契機、
白雉献上の儀式に
豊璋が出席
豊璋は人質ではあったが
太安万侶の一族
多蒋敷
の妹を
豊璋に娶わせ、
賓客扱い・・・同盟の「安全保障」だから?
660年
唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)
が
百済を滅ぼし
百済征服後
唐軍は大部分が引き上げ
1万の駐留軍が残った
で、
百済の
佐平
鬼室福信
らが百済を復興すべく反乱
中大兄皇子(天智天皇)
は百済復興支援を決定
都を
筑紫朝倉宮に移動
662年5月
豊璋に
安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津
らが率いる
兵5000、軍船170艘
を百済へ派遣
豊璋は約30年ぶりに帰国
豊璋と倭軍は
鬼室福信と合流
豊璋は百済王に推戴
鬼室福信との確執
663年6月
豊璋は鬼室福信を殺害
豊璋は
周留城に籠城し
倭国援軍を待ったが
8月13日
城兵を見捨てて脱出
倭国の援軍に合流
唐本国から
劉仁軌
率いる7000名が到着
8月27、28日
倭国水軍と
白村江(白江=白馬江)で衝突
倭国・百済連合軍大敗
豊璋は
高句麗に逃れたが
高句麗も内紛し
668年
唐に滅ぼされ
豊璋は
高句麗王族らとともに
唐の都に連行
高句麗王の
宝蔵王らは許され
唐の官爵を授けられたが
豊璋は許されず
嶺南地方に流刑
豊璋の弟
百済王
善光(徐禪廣)
といい、
渡来し倭国に滞在し
その子孫が
持統天皇から
百済王(くだらのこにきし)
の姓を賜って
百済の王統を伝えた
↓↑
『万葉集』巻一第五番、六番に
「軍王」
と称する人物が
舒明天皇の行幸に
供奉した際に作った和歌が収録
「軍王=こにきしのおおきみ」と訓じ
豊璋
ではないか・・・との説がある・・・?
百済の王族
「翹岐=豊璋=軍王=百済王」ならば、
日本で「養蜂」を試みた人物・・・
「百済の太子
扶余豊璋
が初めて
三輪山で
養蜂を試みたが失敗した
(日本書紀
皇極天皇二年(643年)・癸卯年」
↓↑
「是歳、
百済の太子
余豊、
蜜蜂の房四枚を以て、
三輪山に放ち養ふ。
而して終に蕃息らず
(皇極天皇二年是歳
是歳。
百済太子
余豊
以
蜜蜂房四枚、・・・ミツバチの巣=蜜房
「密(日曜)≠蜜(花蜜)」
密集 はち
秘密 虫(蟲)類が
親密 採種した
花の甘露
放養於三輪山。
而終不蕃息。)」
↓↑
「蜜蜂=ハチ目(膜翅目)
ミツバチ科(Apidae)
ミツバチ属(Apis アピス)
に属する昆虫の一群
花の蜜を加工して巣に蓄え蜂蜜とする」
オスバチ=「drone=怠け者」の意
「drone=ドローン=無線操縦の無人機
オス蜂・居候・ごくつぶし」
「はち=蜂(蠭)=bee・wasp」
「蜜蜂の化石=中新世(Miocene)
約2,300万年前~約500万年前
新生代第四の時代
新第三紀の第一の世」
↓↑
「舒明天皇三年(631年)」
631年は豊璋が人質としてきた年
「舒明天皇三年三月庚申朔
三月庚申朔。
百済王
義慈
入
王子
豊章
為
質。」
↓↑
温祚王 前18-28
多婁王 28-77
己婁王 77-128
蓋婁王 128-166
肖古王 166-214
仇首王 214-234・・・仇の首の王?
沙伴王 234
古尓王 234-286
責稽王 286-298
汾西王 298-304
比流王 304-344
契 王 344-346
近肖古王346-375・・・名は余句
近仇首王375-384・・・貴須王・近の仇の首の王
枕流王 384-385
辰斯王 385-392
阿莘王 392-405
腆支王 405-420
久尓辛王420-427
毗有王 427-455
蓋鹵王 455-475
文周王 475-477・・・?~477年・百済第22代の王
在位は475年~477年
蓋鹵王の子
「日本書紀」には汶洲王
「三国遺事・王暦」には文明王
という別名が記録
三斤王 477-479
東城王 479-501
武寧王 502-523
聖 王 523-554
威徳王 554-598
恵 王 598-599
法 王 599-600
武 王 600-641
義慈王 641-660
・・・・631~645~660~663~672
豊璋王 661-668
ーーーーー
・・・「豊璋王」・・・「豊後=ぶんご=文語」ならば「豊璋王=ブンショウオウ=文章往」・・・?・・・
麻本呂婆(まほろば)・・・古事記
「夜麻登波・・・・・・・やまとは
久爾能-麻本呂婆・・・ くにの-まほろば
多多那豆久・・・・・・たたなづく
阿袁加岐・・・・・・・あをかき
夜麻碁母禮流 ・・・・ やまこもれる
夜麻登志宇流波斯」・・やまとしうるはし
摩倍邏摩(まほらま・まへらま)・・・日本書紀
「夜麻苔波・・・・・・・やまとは
區珥能摩倍邏摩・・・・くにのまほらま
多々儺豆久・・・・・・たたなづく
阿烏伽枳・・・・・・・あをかき
夜麻許莽例屡・・・・・やまこもれる
夜麻苔之于屡破試」・・やまとしうるはし
麻保良・真保良(まほら)・・・万葉集
「久尓能麻保良叙」
(くにのまほらぞ)
「久尓能麻保良尓」
(くにのまほらに)
「國之真保良乎」
(くにのまほらに)
・・・國のマ「法螺=ほら=保良」・・・大法螺・・・?
奈良のマロ・・・恵美のオシカツ・・・
・・・ジュウでランシャ・・・なんか、調べているうちに・・・「サカのウエのクモ」・・・「橘-奈良麻呂(のラン)」、「藤原-恵美押勝(のラン)」・・・「立場の名」は「奈(いかん・いかんせん・いかんぞ・なんぞ・いかんとも(どうにも)・これ以上は奈何ともしがたし・これ以上はどうにもできない)・大体の場所や不明の位置を示す・どのあたり・どこ・疑問、反語の助字)」の「良の麻呂(わたくし)」・・・「エミで訓化通(おしかつ)」・・・「坂上石楯(さかのうえ の いわたて)」・・・ボクの脳ミソも混乱したハナシになって行くが・・・兎に角、文献を調べている研究者にはアタマがさがる・・・
でも、本当なのカナ・・・ブンケン・・・
紀元前660年2月11日
ーー↓↑ーー
神武元年=辛酉年春正月庚辰朔・先勝・土曜日
紀元前660年2月11日(グレオゴリ)
紀元前660年2月18日(ユリウス)
↓↑
BC660年 辛 酉(グレオゴリ)
002月 庚 寅
011日 庚 辰
BC660年 辛 酉(ユリウス)
002月 庚 寅
018日 庚 辰
↓↑
神武二年一月六日=紀元前659年2月06日
=紀元前659年2月13日・赤口・火曜日
↓↑
BC659年 壬 戌(グレオゴリ)
002月 壬 寅
006日 庚 辰
ーー↓↑ーー
時系列は
乙巳の変
645年7月13日(皇極天皇四年六月十二日)・大安・日曜日
645年 乙巳 代案・比庸備
007月 癸未
013日 戊申・寅卯=空亡
飛鳥板蓋宮で
中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我石川麻呂
佐伯子麻呂・葛城稚犬養網田
らが実行犯となり
蘇我入鹿を暗殺
翌日(14日・己酉)
蘇我蝦夷が自害
ーー↓↑ーー
大化の改新
646年(孝徳天皇二年=大化二年春正月甲子朔)
=西暦646年1月25日(グレオゴリ)
=西暦646年1月22日(ユリウス)
乙 巳
己 丑
甲 子
ーー↓↑ーー
白村江の敗北
663年10月(天智二年八月)
ーー↓↑ーー
壬申の乱
672年7月24日~8月21日
壬申・丁未・辛巳
(天武天皇元年六月二十四日~七月二十三日)
ーー↓↑ーー
長屋王の変
729年3月16日
(神亀六年二月十二日=天平一年二月十二日)
ーー↓↑ーー
橘奈良麻呂の乱
757年(天平宝字元年)七月四日
藤原仲麻呂の暗殺計画
ーー↓↑ーー
恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱
764年(天平宝字八年)九月十一日
西暦764年10月14日(グレオゴリ)
甲辰・甲戌・乙巳
西暦764年10月10日(ユリウス)
ーー↓↑ーー
平安京遷都
794年11月22日(延暦十三年十月二十二日)
11月22日=十月二十二日・・・?
甲戌・乙亥・辛酉
ーー↓↑ーー
紀元前660年2月11日
ーー↓↑ーー
神武元年=辛酉年春正月庚辰朔
天皇即帝位
於
橿原宮是
歳爲
天皇元年
磐余(いわれ)彦=神武天皇=彦火火出見(ひこほほでみ)
↓↑ 神倭伊波礼毘古命
狭野尊(さののみこと)
神武天皇七十六年三月十一日死没
丙子年辛卯月甲辰日
偏官・劫財・偏財
↓↑\↓↑\↓↑
↓↑ 辛酉年生-庚寅月生-庚辰日生・申酉
↓↑ 寅(己・丙・甲)
↓↑ 印綬・偏官・偏財
氏姓は
石村(いわれ)村主(すぐり)・・・?
↓↑ 石村の同姓の人物
↓↑ 石村検校
寛永十九(1642)年九月二十四日死没
京都室町時代末期 (16世紀末) の盲人の音楽家
文禄 (1592~96) 頃、琉球に渡り
↓↑ 胡弓を三味線に改良
石村近江(十一代)
?~1865年
↓↑ 江戸時代後期の三味線製作者
後に
坂上(さかがみ)忌寸(いみき)となる
↓↑ 作掛臥視- 意味記?
秦-忌寸-朝元?=左大臣橘卿、謔れて云はく
「歌を賦するに堪へずは
麝をもちてこれを贖へ」
麝=鹿+射→入鹿=いるか=海豚
ジャ・シャ
じゃこうじか
シカ科の哺乳動物
麝香・麝煤(ジャバイ)=麝墨(ジャボク)
↓↑ においのよい墨(すみ)・麝墨
石村(いわれ)村主(すぐり)は
鎮守府軍曹・・・石村の石楯?
官位は
従五位下
勲四等・・・・勲=かほる=香保留・薫・馨(声殳香)
出羽介・・・・出話(デワ)の介(すけ・カイ・ケ)
↓↑
父は石村高足・・・石村(いわれ)の
高(たか)の
足(あし・たり)
母は不詳
妻は紀多継・・・・・紀(キ)を多(おほ)く継(つ)ぐ
男子は坂上氏成
女子は坂上秋穂・・・秋穂=安芸(藝)補?
妻は多藤木姫・・・・多藤木姫=タトウキ=多唐記比?
男子は坂上身毛・・・身の毛・・・毛人=蝦夷人
↓↑
石村氏
三河国・・・三河=参河国(參河國)=三川国=水河國
=愛知県東半部
碧海郡に定着した・・・逢妻村(愛知県碧海郡)
阿乎美村・旭村(愛知県碧海郡)
古代木簡出土=鹿乗川流域遺跡群
漢系渡来氏族
仁徳朝に渡来した
阿智使主・・・・・・阿(おもねる)智(智慧)の使い主
に随い来日した者に
石村村主の祖にあたる人物・・・
後漢第七代皇帝
少帝懿・・・皇帝としての即位は認められていない
父は済北恵王・劉壽
第3代皇帝章帝の孫
第6代安帝の死後
皇后の閻氏によって擁立されたが
即位後200日ほどで病気により死去
後、宦官の
孫程たちにより閻氏一族は殺され
劉懿は皇帝の位を剥奪
王の礼をもって葬られた・・・
の後裔
阿智使主に随い来日した
石村古那・・・石村の古の那
を祖とし
石村(いわれ)の呼称は
大和国
磐余(いわれ)の地に
因むものとされる?・・・逆だろう・・・
↓↑
石村石楯
↓↑
天平宝字八年(764年)
藤原仲麻呂の乱
(恵美押勝の乱)
敗北した
恵美押勝と
その妻子3、4人が船で
琵琶湖上に逃れたのを捕らえ
これを斬り、
押勝の首を京に運んだ
石楯はこのとき軍士(一兵士)
大初位下から
従五位下に昇叙
天平神護元年(765年)正月
勲二等~六等までの乱の功賞の中で
石楯は
勲四等を与えられた
↓↑
四月二十六日
左京人
石村石楯・・・石村石楯
ら3人と、
参河国
碧海郡の人
従八位上
石村押縄・・・石村押縄
ら9人が
坂上忌寸の姓を賜与された
石楯が
三河国碧海郡の
石村氏と同族関係にあり
かつ自らは
左京の人であった・・・
↓↑
藤原仲麻呂の乱では
坂上苅田麻呂も功を立て
石村(村主)氏は
遠縁の
坂上氏の下に組み込まれ
姓を改めた・・・
↓↑
天平神護二年(766年)五月十日
百済文鏡・・・百済の文の鏡(金竟)=かがみ=鑑
竟=長時間の経過後=立+日+儿
おわる・ついに・わたる
今か今かと
期待、危惧したりした状態になるさま
色々な過程を経て実現したさま
とうとう、ヤッタ・・・畢竟・究竟・終竟
が
出羽守に任命された同日
石楯は
出羽介に任ぜられ
宝亀五年(774年)五月
中衛将監
宝亀十年(779年)五月一日
妻の紀朝臣多継
息子の坂上忌寸氏成・・・坂上の忌寸の氏の成
娘の秋穂
の三人が
故父石楯の厚恩に報じるために
大般若波羅蜜多経1部600巻を
写経して納めた
このうちの巻176が
唐招提寺に残り
跋語によってその
事情が伝わっている
石楯は
宝亀十年(779年)
までに没した・・・
ーー↓↑ーー
藤原仲麻呂
天平宝字二年(758年)八月
大炊王(淳仁天皇)即位
大保(右大臣)に任ぜられ
恵美押勝(藤原-恵美-朝臣-押勝)
の姓名を与えられ
天平宝字四年(760年)一月
史上初の
太師(太政大臣)になった
↓↑
藤原仲麻呂の乱
光明子が死去し
孝謙太上天皇が
道鏡を信任し
天平宝字六年(762年)六月
孝謙太上天皇は出家して尼になり
「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え
国家の大事と賞罰は自分が行う」
と宣言
天平宝字七年(763年)九月
孝謙太上天皇は
道鏡を少僧都に任じた
↓↑
押勝は
天平宝字八年(764年)九月
新設
「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」
に任じられ
諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定だが
600人の兵を動員するよう
大外記
高丘比良麻呂・・・高丘(コウキュウ)の比良(ひら)の麻呂
に命じ
軍事力で政権奪取を意図
太政官印の確保に成功
九月五日
仲麻呂は
船親王・・・船(親)王=知太政官事
舎人親王(崇道尽教皇帝)の子
官位は二品・信部卿
神亀4年(727年)
二世王の蔭位により
無位から従四位下に直叙
と謀議
池田親王は
夏頃より兵馬を集結
両親王ともに
仲麻呂が擁立した
淳仁天皇・・・淡路廃帝
諡号は明治時代に付けられた
名は大炊 (おおい) 王
舎人親王 (崇道尽敬皇帝) の第七皇子
母は皇太夫人、当麻山背
の兄弟
高丘比良麻呂
は後難を恐れ
孝謙太上天皇に動員計画を密告
陰陽師の
大津大浦
押勝の叛乱を知り
密告
和気王も反乱計画を伝えた
↓↑
九月十一日
孝謙太上天皇は
少納言
山村王を
淳仁天皇のいる中宮院に派遣
皇権の発動に必要な
鈴印(御璽と駅鈴)を回収させ
押勝は子息の
訓儒麻呂に・・・・・訓は儒の麻呂?
山村王
の帰路を襲撃させ
鈴印を奪回
孝謙太上天皇は
授刀少尉
坂上苅田麻呂
と
授刀将曹
牡鹿嶋足
を派遣
訓儒麻呂を射殺
恵美押勝は
中衛将監
矢田部老
を送ったが
授刀舎人
紀船守に射殺
孝謙太上天皇は勅し
押勝一族の官位を奪い
藤原の氏姓の剥奪
全財産の没収を宣言
三関の固関
その夜
仲麻呂は一族を率いて
平城京を脱出
宇治へ入り
仲麻呂は彼の地盤となっていた
近江国の国衙を目指した
孝謙太上天皇は
造東大寺司長官であった
吉備真備を召し
従三位に叙し
仲麻呂誅伐を命じ
討伐軍が仲麻呂の後を追った
真備(70歳)は
仲麻呂のため逆境にあったが
在唐中に得た
軍学知識を買われた
山背守
日下部子麻呂
と
衛門少尉
佐伯伊多智・・・佐伯の伊の多の智・・・いたち=大分?
の率いる官軍を先回りさせ
勢多橋を焼き
東山道への進路を塞いだ
仲麻呂は子息
辛加知(しかち・からかち・シンカチ)?
藤原仲麻呂の八男
母は陽候女王
(新田部親王の娘)=陽候氏は隋王朝の
煬帝の末裔
官位は従五位下・越前守
が国司になっている
越前国に入り再起をはかろうとし
琵琶湖の湖西を越前に向い北進
淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は
自派の元皇族中納言
氷上塩焼(新田部親王の子)
を同行し
「今帝」
と称して天皇に擁立
自分の息子たちに
親王の位階である
三品を与えた
奪取した太政官印を使って
太政官符を発給し、諸国に号令
孝謙太上天皇側は、
仲麻呂を討ち取った者に
恩賞を約束するとともに
北陸道諸国には
太政官印のある文書を
信用しないように通達
↓↑
官軍の
佐伯伊多智は
越前に馳せ急ぎ
事変を知らぬ
辛加知を斬り
授刀舎人
物部広成
らに
愛発関(近江と越前の国境の関所)
を固めさせ
仲麻呂軍の先発隊精兵数十人が
愛発関で敗れた
辛加知の死を知らない
仲麻呂は
愛発関を避け
舟で琵琶湖東岸に渡り
越前に入ろうとするが
逆風で舟が難破しそうになり断念
塩津に上陸し陸路
愛発関の突破をはかった
↓↑
佐伯伊多智が防戦し
仲麻呂軍を撃退
仲麻呂軍は退却し
三尾(近江国高島郡)の古城に籠もった
討伐軍は三尾を攻め
仲麻呂軍は応戦
九月十八日
討賊将軍に任ぜられた
備前守
藤原蔵下麻呂・・・蔵の下の麻呂
の援軍が到着し
海陸から激しく攻め
仲麻呂軍は敗北
仲麻呂は湖上に舟を出し
妻子とともに逃れようとするが
軍士
石村石楯・・・石村(いわれ)の石楯(いわたて)
に斬られ
一家も皆殺しにされた
氷上塩焼も殺され
仲麻呂の勢力は政界から一掃され
淳仁は廃位され
淡路国に流された
代わって
孝謙太上天皇が重祚し
孝謙・称徳天皇
・・・「孝謙=コウケン=後見(後付け・後から付け足すこと・理由を後付けする)」・・・「稱德=称徳=ショウトク=症訳句・背負う訳句」・・・「和気清麻呂」を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に改名させた・・・
↓↑
橘 奈良麻呂・・・・たちば-な-なら-まろ?
橘=キツ=吃・喫・桔・詰・吉・乞
養老七年(721年)?
~
天平勝宝九歳(757年)七月
左大臣
橘諸兄の子・・・橘の諸(諸々)の兄(蛙似)?
官位は正四位下・参議
贈正一位・太政大臣
二代目
橘氏長者
ーー↓↑ーー
カンジル・・・コンジャク物語・・・
・・・前回のつづきデス・・・「変( 變)=ヘン=偏・編・篇」と「乱(亂)=ラン=覧・蘭・欄・藍・濫・嵐・卵」・・・ボク自身が過去(1985年頃のキャノンのワードプロセッサ(Word processor)とNECの88コンピュータの時代)から何度も「蒸し返し繰り返し」してきたコトだが、「645(ムシゴロシ)」・・・今現在、再度と云うか、毎日、ブログを検索しては漢字を調べているけれど・・・スゴイね、時間の流れ・・・漢字辞典の字数の洪水と、その意味内容の緻密さの研究と、そのモニター表示機能・・・
「變=糸+言+糸+攵」と「亂=爫+マ+冂+ム+ヌ+乚」・・・
「亂=治むるなり(説文解字)・治むるなり(爾雅・釈詁)・治める・もつれる・乱れる・秩序を失う・造反・ふしだら・紛う・迷う・むやみに・昏い・誤る・渡る・水を横切る・濫と通じ、みだりに・爛(ただれる)を代用」・・・
「乱は亂の俗字(干禄字書)」・・・
「親鸞の鸞(ラン・糸+言+糸+鳥)」は「ランの同音異字」で、「鸞=鸞鳥 (ランチョウ) に同じ・中国で、天子の馬車の軛 (くびき) 、天子の旗などにつけた鈴・音を鸞鳥の鳴き声に擬した」・・・
「鸞=鳳凰の一種・神鳥・鶏に似て、鸞鳥、雌を和と曰ひ、雄を鸞と曰ふ(康煕字典・埤雅)」・・・お神輿の「鷄(鶏・雞)=奚+鳥=奚(爪幺一人)+鳥」・・・神輿に載せ、黄旛をハタメカセた「十三歳のトリ子の壱(壹・臺)與」だろう・・・黄幢=黄旛(黄幡)=物事に滞りがある時の結束の表示?・・・
占いでは「黄幢=彪尾=太陽のフレア(flare)=豹尾神(ヒョウビジン)→2011年7月7日~2017年9月7日」・・・「計都星の精」・・・「羅睺=黄幡」・・・
「天子が使うものの美称、天子の乗る輿、夫婦という意味」・・・
「鸞は神霊の精が鳥と化したもの
鸞は雄鳥
雌鳥は和」・・・
↓↑
「𤔔=みだれる」意味と「乱(舌+乚)」の「おさめる」意味は正反対だが混用され、乱れる意味で使用」?・・・・「武」も「矛(弋)+止」・・・兵器で戦う、刀(刃)を鞘に収めるの両義・・・「武=戈を止めて乱を静む」・・・
「𤔔=乱(みだ)れる」・・・
「𤔔」は「矞」に類似、類字だが・・・
「橘=木+矞」の「矞=矛+冏=イツ・イチ・シュツ・ジュチ
あな・あける・あなをあける」
「亂=𤔔(爫マ冂ムヌ)+L=治(おさ)める」
の意で、後に
「亂に𤔔の訓を加え、みだれる・おさめる」の「両義を生ず(字通)」・・・
「L(エル・L)→乚(イン)→乙(オツ)→Z(ゼット)」?・・・
「𤔔は糸巻きに巻いた糸の上下に手がある字で、乱れる意味。それに乙(乚・L)を加え、乱れた糸を整理するという字」・・・
「亂(乱)の声符の字に薍(𤔔七)」・・・
「亂=乱」ならば→「𤔔=舌」だろう・・・
「辞(舌辛)=辭(𤔔辛)=爫マ冂ムヌ辛(立十)=やめる・中外・ことば・ことわる・ジ」・・・
「覶=爫マ冂ムヌ見(目儿)=楽しげに見る・ラ」・・・
・・・ワープロの時代には「覶」の漢字は表示されなかった・・・今現在は「毎(女性が髪の手入れを必要とする事から常にを意味する)・每=毎・毎=每」、「ケ・ヶ」の「ノ一(かみさし)」の部分である・・・「ノ一=[f:id:naie:20161109171434j:image]」の部首漢字が表示されない・・・𠂉𠂉
ーー↓↑ーー
橘奈良麻呂
天平勝宝九歳(757年)七月
↓↑
橘奈良麻呂の乱
橘奈良麻呂が
藤原仲麻呂を滅ぼし
稱紱天皇(四十六代)
(養老二年・718年
~
神護景雲四年八月四日・770年8月28日)
の廃立を企てたが
密告により露見未遂
↓↑
父は橘諸兄
母は藤原不比等の娘の
多比能・・・多の比の能
室は
大原真人の明娘
子に
島田麻呂・清友・安麻呂・入居
・・・安麻呂?=太(多)安万侶・・・
↓↑
橘奈良麻呂の父は
左大臣
橘諸兄・・・橘(十八マ了ノ冂儿口)
たち ば な もろ え
絶ち 葉 名 母賂 重?
葛城王→橘諸兄
父は
大宰帥・美努王の子
母は
橘三千代(県犬養三千代
後に藤原不比等と再婚
光明子を産む
養老元年(717年)に従三位)
光明子(光明皇后
大宝元年(701年)
~
天平宝字4年6月7日(760年7月27日)
は異父妹
聖武天皇の治世に政権を担当
743年(天平十五年)
難波行幸中の
聖武天皇が病に倒れ
奈良麻呂・・・名等 麻呂
は
佐伯全成
↓↑・・・さえき の またなり
↓↑ 差益 全(又・亦・股・復)成
鸞=䜌(亦)+鳥
䜌=亦=また・エキ・ヤク
また、易、訳が「変」?
全成の同名異人
阿野 全成(あの ぜんじょう・ゼンセイ)
今若丸(幼名)→隆超→全成
僧侶
源義朝の七男
源義経の同母兄
源頼朝の異母弟
阿野氏の祖
通称は醍醐禅師、悪禅師
末裔に
↓↑「岩倉具視」の片腕
「玉松真弘=山本毅軒=玉松操」?
文化七年三月十七日
(1810年4月20日)
~
明治五年二月十五日
(1872年3月23日)
↓↑ が存在した・・・
に対し
小野東人
らと謀り
次期天皇に
黄文王
擁立計画を漏らす
738年(天平十年)
阿倍内親王が
皇太子になった時
橘奈良麻呂は
「皇嗣立てることなし」
と
阿倍内親王の立太子を否定・・・
↓↑
749年
(天平二十一年=天平感宝元年
=天平勝宝元年)
聖武天皇が譲位し
阿倍内親王
が
孝謙天皇=749年8月19日~758年9月7日
として即位
天皇の母の
光明皇太后に信任されていた
藤原仲麻呂が
皇太后のために新設された
紫微中台・・・749年に設置の令外官
↓↑ 皇后宮職を唐風に改称
皇太后の家政機関の体裁だが
光明皇太后の信任を得た
藤原仲麻呂指揮下の
政治・軍事機関
後に坤宮官に改称
長官は紫微令、後に紫微内相
・・・兎に角、大陸、半島の帰化人、渡来人の
名前がワンサカ、
役職名に並んで記録されている・・・
紫微斗数命=占いの一種
命占術
(生年月日時で宿命運を分析)
唐末~宋の時代
陳希夷が創始
北極星(太一・天皇大帝)
である紫微星を主とする
星々から
命運、運命(数)を
↓↑ 量る枡(斗)
↓↑ 「光明皇后=大宝元年(701年)
~
天平宝字四年六月七日(760年7月27 日)
奈良時代の聖武天皇の皇后
藤原不比等
と
県犬養橘三千代
の女子
聖武天皇の母の
藤原宮子は異母姉
諱は
安宿媛(あすかべひめ)・・・安の宿
通称は 安壊の関係は
宿曜経だが
空海帰国後?
光明子・・・・・・・・・・・光の明の子
藤三娘(トウサンジョウ)
尊号は
天平応真仁正皇太后
基王(夭折)の母
阿倍内親王の母」
彼女(光明皇后)は
王羲之が書した
楽毅論(ガッキロン)の臨書を書いた?
・・・なぜ、「楽毅論」なのか?
(楽毅=昌国君=望諸君
=燕王を援けた中山国の人物
毅然・毅勇・英毅・果毅・弘毅
剛毅・豪毅・沈毅・勇毅
楽の毅?
毅=豙+殳=立+豕+殳
䝘(豸殳)・𣪣(彐𧰨殳・彖殳)
𣫖(辛豕殳)・𣫚(立キ豕殳)
「紫微中台」が「天文観察の台」なら
↓↑ 彼女はよっぽど「星占い」が好きだった・・・
↓↑ 朝鮮、高句麗の古墳の中には
プラネタリームの様に
↓↑ 星座が描かれているモノもある
↓↑ 日本では鬼虎古墳・藤の木古墳
の長官(紫微令)に任命
藤原仲麻呂(恵美押勝)が
当初
孝謙天皇から寵愛され
橘諸兄親子の勢力は衰退
橘奈良麻呂は
十一月
孝謙天皇即位大嘗祭の時
佐伯全成
に再び謀反の計画を謀った
佐伯全成が謀反への参加を拒絶
755年(天平勝宝七年)
橘諸兄の従者
佐味宮守(さみ の みやもり)・・・佐の味の宮の守
から
橘諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したと密告
↓↑
756年(天平勝宝八年)二月
橘諸兄は辞職し二年後75歳で死去
四月
聖武上皇
不豫・・・天皇や貴人の病気・不例
「豫」は喜びごと・慶事
予戒令=浮浪者や無産者、集会の妨害行為
他人の業務に干渉する者の
取締を目的に制定された勅令
選挙妨害のタメにつくられた法令
警視総監、内務省北海道庁長官
官選の府県知事に
「予戒命令」を発する権限を与えた
1892年(明治二十五年)1月25日
公布、即日施行
1914年(大正三年)1月20日
勅令第4号によって廃止
の際
黄金を携えて陸奥より上京した
佐伯全成
に対して
三度謀反の計画を謀った
橘奈良麻呂は
大伴古麻呂を誘い
大伴、佐伯両氏族
をもって
黄文王
擁立を告げるが
佐伯、大伴両氏は
これを拒絶
↓↑
五月二日
聖武太上天皇崩御
太上天皇の遺言により
道祖王が立太子
757年(天平宝字元年)四月
道祖王が
孝謙天皇の不興を受けて廃され
藤原仲麻呂(恵美押勝)が推す
大炊王(淳仁天皇)
が立太子
ーーーーーー
佐伯全成
(?~天平勝宝九年七月四日
757年7月24日)
姓は宿禰
官位は従五位上
陸奥守
天平二十一年(749年)
陸奥守
百済王の
敬福
が黄金を発見
900両を聖武天皇に献上
東大寺の造営に聖武天皇は
元号を
天平から
天平感宝
に改め、
五月十一日
黄金発見の功労者
陸奥国の国司
が昇叙された際
佐伯全成
も従五位上に昇進
天平勝宝四年(752年)五月
百済王敬福が
常陸守に任ぜられると・・・常陸(ひたち・ジョウリク)
その後任として
佐伯全成は
陸奥守に任ぜられた・・・・陸奥(むつ・リクオウ)
四月九日
東大寺盧舎那仏像開眼供養で
久米舞舞頭を務めた
孝謙天皇が即位した
天平勝宝元年
(749年)十一月
佐伯全成は再び
橘奈良麻呂から謀反計画を諮られていたが
協力を拒絶
↓↑
天平勝宝八歳
(756年)四月
聖武上皇不予に際して
黄金を納めるため
陸奥より上京したところ、
橘奈良麻呂から
三度目の謀反計画を謀られる
大伴古麻呂とともに
佐伯・大伴両氏族を率いて
黄文王を擁立し
仲麻呂派を除くというもの
全成はこれを拒絶
↓↑
五月二日
聖武上皇が崩御
上皇の遺言により
孝謙天皇の皇太子には
道祖王が立てられた
だが
天平宝字元年(757年)三月
道祖王が
孝謙天皇の不興を受け
廃され
藤原仲麻呂が推す
大炊王(淳仁天皇)
が立太子された
↓↑
橘奈良麻呂派
と
藤原仲麻呂派
が対立
原因は
孝謙天皇の
母・光明皇后が藤原氏出身
孝謙天皇の寵愛を背景に
藤原仲麻呂が台頭
道祖王の廃太子にも
光明皇后(藤三娘・藤原不比等の娘)
と
藤原仲麻呂(藤原恵美押勝・・・同名異人は阿倍仲麻呂
父は藤原南家の
藤原武智麻呂の次男
母は阿倍貞媛
(阿倍貞吉の娘
or
阿倍真虎の娘)
が関与していた・・・
↓↑
天平勝宝九歳(757年)六月
大伴古麻呂が陸奥鎮守将軍
佐伯全成は陸奥鎮守副将軍
をそれぞれ兼任
藤原仲麻呂による事実上の左遷人事で
佐伯全成も
橘奈良麻呂派とみなされ
陸奥国に閉じ込めておくための人事
橘奈良麻呂自身も
兵部卿を解任され
右大弁に左遷
↓↑
年六月中旬以降
奈良麻呂派は奈良麻呂邸などで
反仲麻呂派の謀議を持つ
大伴古麻呂
や
小野東人
は謀議に参加
佐伯全成が参加していたかどうかは不明
六月二十八日
山背王が
孝謙天皇に対して
「奈良麻呂が兵をもって
仲麻呂邸を囲む」
旨を密告
七月二日
奈良麻呂らが
企んでいる謀反への参加を
小野東人
から呼びかけられたと
上道斐太都
が
藤原仲麻呂へ密告
仲麻呂は
中衛府の兵を動かして
前皇太子
道祖王の邸を包囲し
小野東人
らを捕らえて
左衛士府の獄に下した
(橘奈良麻呂の乱)
ーーーーー
結果は「多治比(タジヒ)」一族の潰滅(壊滅)・・・が多い(オホヒ)のだが・・・
タチバナのナラマロの結論は・・・つづく・・・
混乱=confusion・disorder・・・コンフユーズとデスオーダー?
・・・喧嘩と排除、粛清は近親の「兄弟、姉妹、従兄弟、従姉妹の血縁一族郎党」、「側近」から始まるが・・・いずれは「無差別」になっていく・・・
「橘奈良麻呂の乱」でダメージを受けたのは「多治比」氏、そして「大伴」氏・・・「多=おほ・おお=大=意冨」・・・「稲荷山古墳発掘の金錯銘鉄剣、乎獲居臣(ヲワケの臣)の上祖・意富比垝(意冨比垝)」・・・「意の富(冨)の比の垝(十一危)」、「土+危=土厃已・土厃㔾(卪・卩)・土勹厄」・・・「垝・姽・恑・洈・桅・祪・脆・蛫・跪・觤・詭・頠・䤥」・・・「冨=富」・・・混乱しないで整理出来る人間が存在するとは思えない・・・あるのは記録された「漢字文字」と「遺跡・意物」、そして伝承だが、確定できない「推論」、「推理・推究・推測・憶測・臆測」と「推量・推計・推定・推算・推察・推知・推断・予測・推度」・・・兎に角、記録された「歴史」、「人間諸関係」での「事実的出来ごと」は「不確かであるか、仮の根拠を設定して信じるか」である・・・いずれも「疑問・疑義」が残る・・・結論だけはハッキリしている・・・たとえ、「映像・録音」が残っていたとしても、生きている人間の認識に「確かなモノは存在しない」、と・・・
「物理学」でも確かなモノはない・・・「人間の認識」の限界である・・・「重力波」を云う前に「歪んだ空間」とはナニかの「意味概念」をハッキリさせろ・・・
だが・・・千葉県船橋市の「意富比神社(おおひじんじゃ)」?・・・「景行天皇四十年・日本武尊が東国平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照皇大御神を祀り祈願した場所」・・・意富比の古い読みは「おほひ」・・・中世から幕末までは一般に「船橋神明」と呼ばれたらしい・・・
「貞観五年(863)下総国意富比神・正五位下(日本三代実録)」
「明治十三年(1880)境内に政府公認の民間灯台建設」
「明治初期に新政府の政策として、
全国の神社の社格が決められ現市域唯一の県社となった」
ーー↓↑ーー
意富富杼王(おおほどのおおきみ)
意富本杼王(オホホドノミコ)
意富斗之地神(オオトノジのカミ)
意富斗能地神(オオトノジのカミ)
ーー↓↑ーー
意富富杼王・・・・イフフジョオウ?
(おおほどのおおきみ)
↓↑ ・・・・意=立+日+心
・・・・冨=富・・・冨は富の俗字
とむ・とみ・フ・フウ
「冖」、「宀」のワかウの相異
「丶無」、「丶有」の丶の有無
愛媛県に「冨士山(とみすやま)」
石川県の「冨樫氏(とがしし)」
↓↑ ・・・・杼=かい・ひ・シャトル(shuttle)
=十八予=織機の部品
緯(よこ)糸を通す用具
織物を織るときの
経糸(たていと)の間に
緯糸(よこいと)を通すのに
使われる道具
織機の筬(おさ)・筘・梭(ひ)
↓↑ かい・シャトル
古墳時代の王族
大郎子(おおいらつこ)
意富々杼王
意富富等王
大大迹王
とも記録
父は
稚渟毛二派皇子(応神天皇の皇子)
母は
河派仲彦王の女
弟 日売真若 比売
(おとひめまわかひめ
百師木伊呂弁とも)
同母妹の
忍坂大中姫
衣通姫
は
允恭天皇に入内
意富々杼王は
息長坂君(息長君・坂田君)
酒人君
三国君
筑紫
米多君(めたのきみ)
などの祖(古事記)
中 斯知 命
(なかしちのみこと)を妃として
乎非 王
(おいのおおきみ)
を儲け
その孫が
男大迹王=袁本杼王=継体天皇
(「上宮記・逸文」)
「意富富等
(オオホド=大ホド)」
という名は
「継体天皇」の諱
「男大迹(オホド=小ホド)」
と対応・・・
本来は別人の名で実際は
「大郎子」と称されていた・・・?
ーーーーー
天平勝宝九年七月二日
757年7月22日
↓↑
「橘(たちばな)奈良麻呂」の乱だった
・・・また跳んでしまった・・・
↓↑
小野東人(をの の あずまひと)
↓↑ ?~天平勝宝九年七月四日
(757年7月24日)
大徳冠、
小野妹子の後裔
造平城京司 次官、
小野広人の子
↓↑
天平十二年(740年)
「藤原広嗣の乱」に連座
十三年
伊豆三島に流刑
後、ゆるされて備前守・・・
↓↑ 「藤原広嗣の乱」を鎮圧したのは
聖武天皇が大将軍に任じた
「大 野 東 人・・・?
(おほの あずまひと)」
と
「副将軍の紀飯麻呂」
勅使は
「佐伯常人」
↓↑ 「阿倍-虫麻呂」→同名の「高橋-虫麻呂」もいた?
は
七月四日
奈良麻呂の謀反を証言した後に
首をつって自殺・・・
↓↑
垂仁天皇に
追い返された
円野姫が首を吊った地
↓↑
八幡宮
「相楽」の地名
第十一代
垂仁天皇の時代
四人の姉妹が
垂仁天皇に輿入れ
「円野比売命」が
醜女だったので
実家に戻され
姫が帰途に首を吊った
その地が
「懸木(さがりき)」
と呼ばれ
これが
「相楽(さがら)」になった(古事記)
姫を祀る
「島懸神社(島縣神社)」
がある
↓↑
橘奈良麻呂の乱では
謀反に無関係であった
反仲麻呂派の者も数多く捕らえられ
拷問の後に死亡したり
官位を剥奪され
流刑にされた・・・
多くは「多治比」一族・・・
「多(おほの)-治(おさめ)-比(くらべる)」?
ーーーーー
黄文王(きぶみおう)
?~天平宝字元年七月四日
(757年7月24日)
左大臣・長屋王の子
官位は従四位上・散位頭。
↓↑
天平元年(729年)
「長屋王の変」で
父・長屋王とともに
吉備内親王所生の
異母兄弟が死罪となったが
「藤原長娥子(藤原不比等の娘)」
所生の
黄文王らは
藤原不比等の外孫で
死は免れていた
↓↑
天平九年(737年)
「長屋王の変」の
黒幕であった
藤原四兄弟が疫病で没・・・
↓↑
黄文王(長屋王の子)
は
兄の
安宿王・・・天武天皇の孫、
↓↑ 長屋王の五男
臣籍降下後の氏姓は
「高階真人」
官位は正四位下・讃岐守
・・・あすか=安宿・飛鳥・明日香・朱鳥
光明子は「安宿=あすか・あすかべ」は
聖武天皇の夫人で
第一皇子として基皇子を産むが夭折
県犬養広刀自も聖武天皇の夫人で
聖武天皇の第二皇子として
安積(あさか)親王を産んだが
立太子は
光明子が産んだ
阿倍内親王となる
天平十六年(744年)閏一月十一日
難波宮に行幸の際、途中で脚気になり
恭仁京に引き返すが二日後の
閏一月十三日
十七歳で死去
↓↑ ・・・藤原仲麻呂に毒殺された・・・?
とともに
叙位を受け
十月
従五位下に叙爵
天平十一年(739年)
従四位下
天平十二年(740年)
従四位上
天平十三年(741年)
散位頭
↓↑
天平十七年(745年)
橘奈良麻呂
が謀反計画
同調者を集める際にしばしば
黄文王(長屋王の子)
を天皇に立てると発言
↓↑
天平二十年(748年)
元正上皇崩御
天平勝宝八年(756年)
聖武上皇崩御
で
装束司を務めた
↓↑
天平宝字元年(757年)
「橘奈良麻呂の乱」で
黄文王(長屋王の子・弟)
は
新帝候補の一人に擬せられ
橘奈良麻呂
の意を受けて
安宿王(長屋王の子・兄)
を欺し謀議に参加させ
七月四日
橘奈良麻呂
や
道祖(ふなど)王
↓↑ ・・・天武天皇の孫・一品
新田部親王の子
新田部親王は
天武天皇の第十皇子
孝徳天皇の皇太子となったが
廃太子
後
舎人親王の子
大炊王(おほひ)が立太子され
淳仁天皇として皇位に就いたが
廃帝(淡路)にされた
↓↑
↓↑ 「安倍内親王」???・・・同音異字漢字の「ア」
↓↑ 「阿倍内親王」は
↓↑ 「宝字称徳孝謙皇帝」で
↓↑ 「安」≠「阿」が異なる・・・?
伊勢斎宮
淳仁天皇の娘
母は不詳
元々は
「山於女王(やまのうえのじょおう)」
と呼ばれていたが
淳仁天皇即位後に
斎宮に卜定・・・占いで決定?と云うコト
内親王宣下により名を改めた
天平宝字八年十月九日(764年11月6日)
父の天皇廃位で退下
後
磯部王(長屋王の孫で高階氏の祖?)の妃
石見王(いわみおう)を産んだ・・・?
らと共に捕らえられ
黄文王(長屋王の子)
は
久奈多夫礼(くなたぶれ=愚かな者)
多夫礼(たぶれ=誑かす者)
と改名させられた後
杖で打たれ
獄死・・・
ーー↓↑ーー
橘奈良麻呂の乱の結果・・・
↓↑
橘氏 橘奈良麻呂 正四位下・参議 獄死
↓↑
皇族 安宿王 正四位下・讃岐守 妻子とともに
↓↑ 佐渡国へ流罪
皇族 黄文王 従四位上・散位頭 久奈多夫礼
↓↑ と改名、獄死
久奈多夫礼=くなたぶれ=愚かな者
↓↑
皇族 道祖王 元皇太子 麻度比と改名
獄死
麻度比=まどひ
(惑・眩・間藤・魔道?)
ーー↓↑ーー
藤原南家 藤原豊成 正二位・右大臣 大宰員外帥に左遷
(ふじわら の とよなり)
大宝四年(704年)
~
天平神護元年十一月二十七日
(766年1月12日)
左大臣・藤原武智麻呂の長男
従一位・右大臣
別名は
難波大臣
横佩大臣(よこはぎのおとど)
天平九年(737年)二月
正五位上
天然痘の猖獗・・・「猩(赤)獗」は
「猖(猛・甚・激)獗」の誤用
猩=オランウータン(orangutan)
葡萄牙語
オランゴタンゴ(orangotango)
希臘語
オラングタンゴス
(οραγκουταγκος)
オラングタン(oragkutan)
=濃い赤色
猩紅熱
猩猩(ショウジョウ)
によって
八月までに
父の左大臣・武智麻呂
藤原四兄弟が急死
藤原氏の氏上(藤氏長者の前身)
九月に従四位下
十二月に参議兼兵部卿
諸兄政権下の
天平十一年(739年)
正四位下
天平十五年(743年)
従三位・中納言
天平二十年(748年)
従二位
中衛大将
天平感宝元年(749年)四月
右大臣
橘諸兄とともに
左右の大臣として
太政官を主導
七月
↓↑
孝謙天皇即位
藤原豊成の
弟の
藤原仲麻呂が
参議から大納言に昇進し
紫微令と中衛大将を兼ね
権勢は
橘諸兄・藤原豊成を凌ぐ・・・
↓↑
天平勝宝八年(756年)
左大臣・橘諸兄が
讒言を理由に致仕し
藤原豊成(兄)
は太政官の首班
藤原仲麻呂(弟)
も大臣格の
紫微内相に就任
↓↑
天平勝宝九年(757年)三月
道祖王の皇太子が廃位
四月
皇嗣選定の協議
藤原豊成は
中納言・藤原永手
とともに
塩焼王・・・臣籍降下、氷上塩焼
↓↑ 天武天皇の孫
新田部親王の子
道祖(ふなど)王の兄
↓↑ 不破(ふわ)内親王の夫
を推す
藤原仲麻呂の私邸(田村第)に
居住していた
大炊王(淳仁天皇)が立太子され
五月に正二位に昇進するものの
七月の橘奈良麻呂の乱で
答本忠節・・・・・なぜ、「答の本の忠の節」?
から
謀反の企てに関する報告を
受けながら
孝謙天皇への奏上を行わず
謀反の露見後も
究明に努めなかった、とし
右大臣を罷免
大宰員外帥に落とされた
橘奈良麻呂と好を通じていた
「藤原豊成」の三男
「藤原乙縄」・・・・・・「乙の縄」?
も乱に与したとみなされ
日向掾に左遷
藤原豊成
は「病気」と称し
難波の別荘に籠った
大宰府行きは無期限延期状態
八年間の隠遁生活を送った
↓↑
天平宝字八年(764年)
仲麻呂が
道鏡
排斥に失敗して敗死すると
(藤原仲麻呂の乱)
橘奈良麻呂の乱
における罪状は
藤原仲麻呂による
偽りの中傷とみなされ
藤原豊成は罪を赦されて
従一位・右大臣として政権に復帰
天平神護元年(766年1月)
十一月二十七日薨去
享年62
最終官位は右大臣従一位
↓↑
藤原南家 藤原乙縄 正六位上 日向員外掾に左遷
(ふじわら の おとただ)
?~天応元年六月六日(781年7月1日)
名は弟縄とも・・・「乙=弟=乎訳=音」の名和?
藤原豊成の三男
官位は従四位上・参議
天平勝宝九年(757年)
橘奈良麻呂の乱
橘奈良麻呂と
親しかったことを理由に
乱に与したとして
日向員外掾に左遷(位階は正六位上)
父・豊成も右大臣を免職され
大宰員外帥に左遷
天平宝字八年(764年)十月
藤原仲麻呂の乱で
従五位下に叙爵して官界に復帰
称徳朝で
大蔵大輔・大判事を歴任し
神護景雲二年(768年)
従五位上
神護景雲四年(770年)
称徳天皇崩御後
三階昇進し従四位下
土佐守
美作守
と地方官に転じる
宝亀三年(772年)
弾正尹として京官に復し
宝亀九年(778年)
従四位上
宝亀十年(779年)
参議兼刑部卿と
光仁朝末に再び昇進
桓武天皇の即位後
天応元年(781年)六月六日
卒去
最終官位は
参議従四位上守刑部卿
ーー↓↑ーー
多治比氏 多治比広足 従三位・中納言 中納言を解任
(たじひ の ひろたり)
天武天皇十年(681年)
~
天平宝字四年一月二十一日(760年2月12日)
左大臣・多治比嶋の六男
従三位・中納言
天平十一年(739年)
兄の中納言・多治比広成が没し
一族の長となる
天平十二年(740年)
正五位上
天平十五年(743年)
従四位下
天平十九年(747年)
従四位上
天平二十年(748年)
正四位下・参議
刑部卿・兵部卿など
天平勝宝元年(749年)
孝謙天皇の即位で
正四位上・中納言
天平勝宝二年(750年)
従三位
天平勝宝年間末
左大臣・藤原豊成
と
紫微内相・藤原仲麻呂
に次いで、
太政官の第三位の席次
天平宝字元年(757年)
橘奈良麻呂の乱で
多治比犢養・礼万呂・鷹主
と複数の処罰者を出し
中納言の任を解かれた
天平宝字四年(760年)正月二十一日
薨去・享年80
最終官位は
散位従三位
ーー↓↑ーー
多治比氏 多治比国人 従四位下・遠江守 伊豆国へ流罪
(たじひ の くにひと)
中納言・多治比縣守の子
官位は従四位下・遠江守
天平八年(736年)
従五位下
天平十年(738年)
民部少輔
天平十八年(746年)
正五位下
天平勝宝元年(749年)
正五位上
天平勝宝三年(751年)
従四位下
大宰少弐・右大弁
天平宝字元年(757年)
橘奈良麻呂の乱時は
遠江守
策謀露見後に平城京に召喚
伊豆国への流罪
「万葉集」に
和歌作品四首
(長歌一首と短歌三首)採録
ーー↓↑ーー
多治比氏 多治比犢養 従五位上 獄死
(たじひ の こうしかい)
?~天平宝字元年七月四日
(757年7月24日)
大納言・多治比池守の子
官位は従五位上・遠江守
天平十三年(741年)
従五位下
天平十八年(746年)
左京亮
天平勝宝元年(749年)
孝謙天皇の即位後
式部少輔
天平勝宝四年(752年)
遠江守
天平勝宝六年(754年)
従五位上
天平宝字元年(757年)
兄弟の
多治比礼麻呂・鷹主
とともに
参議・橘奈良麻呂が主導する
策謀(紫微内相・藤原仲麻呂の殺害計画
天皇の廃立)
に参画
密告により策謀が露見
束縛され拷問で獄死
ーー↓↑ーー
多治比氏 多治比礼麻呂 獄死?
多治比氏 多治比鷹主 獄死?
ーー↓↑ーー
大伴氏
大伴古麻呂 正四位下・左大弁 獄死
天平十八年(746年)
河内守在任時
同国古市郡にて
尾張王が
「白い亀」を捕獲した旨を上申
瑞祥とされ
従六位以下の諸官が一階の昇叙を受けた
正六位以上は田租の免除された
孝謙朝で出雲守に左遷
天平勝宝八年(756年)
紫微令・藤原仲麻呂の誣告を受け
臣下の礼を失したとの理由で
内堅(天皇の身近に仕える少年)の
淡海三船と共に衛士府に拘禁
三日後に赦免
土佐守に遷されて任地に赴き
天平宝字元年(757年)
橘奈良麻呂の乱に連座し
そのまま任国である土佐国への流罪
宝亀元年(770年)
光仁天皇の即位後
罪を赦され本位である従四位上に復位
大和守に任ぜられる
宝亀二年(771年)
大嘗祭で
左大弁・佐伯今毛人
と共に南門を開く役を務め
この功労により正四位下に昇叙
宝亀六年(775年)
昔の事柄に詳しい老臣として
従三位に叙せられ公卿
宝亀八年(777年)八月十九日
薨去・享年83
最終官位は大和守従三
ーー↓↑ーー
大伴氏
大伴古慈斐 従四位上・土佐守 土佐国へ流罪
おおとも の こしび
持統九年(695年)
~
宝亀八年八月十九日(777年9月24日)
名は古慈備・祜信備・祜志備
とも
越前按察使・大伴祖父麻呂の子
官位は従三位・大和守
ーー↓↑ーー
大伴氏
大伴池主 式部少丞 獄死?
歌人
天平勝宝八年(756年)以降
式部少丞
三月の聖武上皇の河内国行幸に同行
馬国人邸で開かれたの家の宴に臨席
兵部大丞・大原今城作の和歌を伝読
十一月
大原今城を自邸に招いて酒宴
天平勝宝九年(757年)六月二十九日夕刻
太政官の建物の庭で行われた
反藤原仲麻呂派による反乱企ての
三度目の会合に
安宿王・黄文王・橘奈良麻呂
大伴古麻呂・多治比犢養・小野東人
多治比礼麻呂・多治比鷹主・大伴兄人
らと共に参加
七月二日夜に挙兵し
紫微内相・藤原仲麻呂を殺害し
孝謙天皇を廃位することを申し合わせたが
反乱計画が漏洩
小野東人により反乱の参加者が暴露
投獄され獄死
ーー↓↑ーー
大伴氏 大伴兄人 獄死?
ーー↓↑ーー
佐伯氏 佐伯全成 従五位上・陸奥守 自害
佐伯氏 佐伯大成 従五位下・信濃守 信濃国へ流罪
ーー↓↑ーー
賀茂氏 賀茂角足 正五位上・遠江守 乃呂志
と改名、獄死
氏は鴨とも
天平勝宝元年(749年)七月
孝謙天皇即位で正五位下に昇叙
八月に紫微中台が設置で
紫微令・藤原仲麻呂の側近とし
左兵衛率に加えて紫微大忠を兼ねる
天平勝宝九年(757年)五月
正五位上に昇叙
六月に遠江守として遷され
七月橘奈良麻呂の乱で
朝廷に召喚され尋問を受けた
佐伯古比奈が、
角足が軍事面での活動を
行っていたことを白状
勇武に優れた武人であった
高麗福信・奈貴王・坂上苅田麻呂
巨勢苗麻呂・牡鹿嶋足
について、反乱時に
敵側へ加勢することを抑止するため
額田部(大和郡山市額田部?)
自邸に招いて酒宴を開き
他の反乱者と協力して
田村宮の地図を作って指し示して
佐伯古比奈を反乱側に勧誘
七月四日
角足は反乱に加勢した人々ともに
捕縛され、反乱成功後の
皇嗣候補とされていた
黄文王(多夫礼と改名)
道祖王(麻度比と改名)
と並んで
乃呂志(のろま者)
と改姓させられた上
杖による拷問を受けて獄死
ーー↓↑ーー
小野氏 小野東人 従五位上・前備前守 獄死
ーー↓↑ーー
その他 答本忠節 外従五位下 獄死?
(とうほん ちゅうせつ)医師
忠節はこの計画について
右大臣・藤原豊成に報告
豊成からは謀反加担者に教戒を加え
仲麻呂を殺害したりしないよう
言い聞かせる旨の回答を得た
経緯を薬の処方を訪ねるために
忠節の元を訪れた
巨勢堺麻呂に話し
堺麻呂から
藤原仲麻呂に密告
謀反の動きを知りながら
通告しなかったとし
橘奈良麻呂らによる謀反の一味とされ
7月2日に仲麻呂の命令を受けた
高麗福信
に追われて
小野東人とともに追捕
左衛士府に拘禁
杖で打たれて獄死・・・
ーー↓↑ーー
その他 山田三井比売嶋 従五位下(故人)
山田三井宿禰
から
山田史・・・ヤマダのフミ・・・サンタのシ・・・
へ改姓
ーーーーー
・・・Santa Claus・・・纂多・簒多・散多・・・Santaの史実・・・?・・・
和珥(わに・カニ)=和邇=王仁・・・和爾・鰐・和仁→和人
・・・登場人物が余りにも多すぎて「演劇(ゑんゲキ)の主役(シュヤク=朱訳?→入朱=添削や訂正で文章に朱を入れること)・主人公(シュジンコウ=取訊稿・諏訊稿?)」がダレなのか、ナニなのか定まらないカンジ・・・「朱=牛(ノ一十)+八=あけ・あか・シュ=橙色に近い赤色・緋色=硫化水銀・紅・赤・辰砂・朱墨・朱筆の略・朱で和歌や俳句に点をつけること・朱で詩文を訂正すること・馬の毛色・blood‐stained(血塗(まみ)れ・血染め」・・・「朱訳→朱子学の翻訳?」・・・「朱(牛+八→捌)に交われば赤(あか・一+亦=亠+亦→もう一度・再び・重ねて・脇、腋の下)くなる」・・・
「意富比垝=おほびこ=大彦→一人立ノ彡」・・・「一(はじめ・イチ)の人(ひと・ジン・ニン)の立(たつ・リツ)ノ(の・ひく・ヘツ・ベツ・ヘチ・丿)の彡(刷毛、毛羽のあと・サン・セン)」・・・「彡の字は毛髪の飾りの紋様・偏旁の意符で模様や形象、装飾に関し、ひげ(須)のような長い毛に関する・毛飾の畫文」・・・
意富比垝=意の富を比べる垝(転がった石・落石)・・・「垝=十一が危(あぶ)ない」・・・
ーーーーー
崇神天皇十年九月九日
大彦命を
北陸・・・新潟県・富山県・石川県・福井県の4県
↓↑ 越後 越中 越前 越中北部
or
富山県・石川県・福井県の3県
高志道前・高志道中・高志道後の3国
分割された時の「越前国」の領域
現在の石川県、福井県の北部を含み
後の
↓↑ 敦賀郡、丹生郡、足羽郡、大野郡、坂井郡
江沼郡、加賀郡、羽咋郡、能登郡、鳳至郡
珠洲郡
の十一郡にわたる面積であった
↓↑ ↓↑
天平宝字八年(764年)
藤原仲麻呂(仲麿・仲丸)は
「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」で
再起の拠点とした
↓↑ ↓↑
朝倉義景
甲斐氏を圧迫し国内をほぼ統一し
斯波氏に代わって越前国守護になった
↓↑ 日下部宗高が
但馬国
養父郡
朝倉に住し、
朝倉氏を称した・・・
謀反で殺された室町幕府
第十三代将軍
足利義輝の弟である
足利義昭が落ち延びて来ると
第十一代当主
朝倉義景はこれを庇護
義景は浅井長政らと同盟
信長と戦って
1573年(天正元年)
に敗れて一乗谷を焼かれ
義景は自刃、朝倉氏は滅んだ
90年間一揆持ちだった加賀国
↓↑ ↓↑
柴田勝家
天正十一年(1583年)四月二十四日
北ノ庄城にて
お市とともに自害
辞世
「夏の夜の 夢路はかなき
跡の名を 雲井にあげよ
山郭公(やまほととぎす)」
菩提寺
福井県福井市の
西光寺
滋賀県
高島市の
↓↑ 幡岳寺
に派遣
東海に派遣される武渟川別
西道に派遣される吉備津彦命
丹波に派遣される丹波道主命
「四道将軍」(日本書紀)
崇神天皇九月二十七日
大彦命は
途中の
和珥(わに)坂・・・和珥(わに)=和邇=王仁
おに・・・鬼
あに・・・兄
カニ・・・蟹・可児・梶・楫・鍛冶
八尋熊鰐(やひろわに)・大鰐(わに)
鰐魚(わに)・一尋鰐(ひとひろわに)
(山背の平坂)で
不吉な歌を詠う少女に会って
引き返し
崇神天皇に謀反の報告
倭迹迹日百襲媛命
(孝霊天皇皇女=大彦命のおば)
の占いによって
第八代
孝元天皇の子
武埴安彦命=建波邇夜須毘古命=建波邇安王
埴=十一直(乚十目)=はに・ショク・ジキ
=ねばつち・ねんど・埴土・埴生
埴(はに)・埴瓮・埴猪口(へなちょこ)
肌理(きめ)細かい黄赤色の粘土
瓦・陶器・埴輪の原料
衣にすりつけて模様を表す染料
(大彦命の異母兄弟)
とその妻の
吾田媛
の謀反が発覚
五十狭芹彦命(吉備津彦命)が
吾田媛を
大彦命、
彦国葺=日子国夫玖命(ひこくにフクのミコト)
=彦訓服命・・・彦(ゲン)訓(クン)の複名
(第五代
孝昭天皇皇子の天足彦国押人命の
三世孫 or 四世孫で
和珥臣(和珥氏)の遠祖
垂仁天皇朝では五大夫の一人)
が
矢の射ち合いで
武埴安彦を
射ぬき鎮圧
後、四道将軍らは
崇神天皇十年十月二十二日に出発
崇神天皇十一年四月二十八日に平定報告
↓↑
建波邇安王(武埴安彦命)の鎮圧
四道将軍としての4人の派遣ではないが
崇神天皇の時
大毘古命(大彦命)は
高志道に
建沼河別命は
東方十二道に派遣
大毘古命
と
建沼河別命
が出会った地が
「相津」
↓↑
河内国皇別難波忌寸条(新撰姓氏録)
崇神天皇の時に
大彦命が蝦夷平定に向かった際
大彦命は
兎田墨坂(うだのすみさか・奈良県宇陀市榛原萩原)
で嬰児を拾って育て
「得彦(えひこ)宿禰」と名付けた(新撰姓氏録)
↓↑
埼玉県行田市
埼玉古墳群
稲荷山古墳出土の
鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)
銘文
↓↑
乎獲居臣
(をわけおみ)・・ヲカイ(乎甲斐→蝦夷)の臣
意富比垝
(おほひこ)・・・オホヒキ(太日置・多比企)
多加利
(たかり)の・・・タカリ(鷹里・高里)
足尼
(すくね)・・・・タリネ(多里禰・多利禰)
弖已加利獲居
(てよかりわけ)・テイカリカイ(弖→弓一猪狩甲斐→蝦夷)
多加披次獲居
(たかはしわけ)・タカハシカイ(高橋甲斐→蝦夷)
多沙鬼獲居
(たさきわけ)・・タサキカイ(多崎・太崎・田崎)甲斐→蝦夷
半弖比
(はてひ)・・・・ナカテヒ(中弖→弓一比)
加差披余
(かさはよ)・・・カサハレ(塙頗余)
獲加多支鹵
(わかたける)・・カガタシル(日加→加賀多子留)
↓↑ 鹵=しお・ロ・岩塩・鹵石
奪い取る・鹵獲
大型のたて(楯)
鹵簿(ロボ)=儀仗を備えた行幸、行啓の行列
↓↑ 「狼王ロボ
(Lobo, the King of Currumpaw)・1896年」
「白い(blanco・ブランカ)」は
スペイン語の女性形で
「雌の白狼」で・・・「雄狼のロボの妻」
アメリカの博物学者
アーネスト・トンプソン・シートンの物語
↓↑ 1896年=丙申
明治二十九年
6月15日-明治三陸大津波(死者2万名)
8月31日-陸羽地震発生、209名の死者出る
11月8日-「古事類苑」の刊行はじまる
↓↑ 8月27日-「宮沢賢治」、詩人・児童文学者
大王
斯鬼(しき)・・・シキ(磯城・敷島)・・・卑弥呼の宮?
の宮
オオヒコ
→タカリノスクネ
→テミカリワケ
→タカヒジワケ
→タサキワケ
→ハテヒ
→カサヒヨ
→オワケノオミ
↓↑
(表)
辛亥年七月中記
乎獲居-臣
上祖
名-意富-比垝
其児
多加利足-尼
其児
名-弖已加利獲-居
其児
名-多加披次獲-居
其児
名-多沙鬼獲-居
其児
名-半弖-比
(裏)
其児
名-加差披-余
其児
名-乎獲居-臣
世々為杖刀人-首
奉事来至今
獲-加多支鹵-大王
寺在-斯鬼宮時
吾-左治天下
令作此百練利刀
記吾-奉事根原也
↓↑
意富 -比垝(ヒキ)
多加利 -足尼(アニ)
弖已加利-獲居(カイ)
多加披次-獲居(カイ)
多沙鬼 -獲居(カイ)
半 -弖比(テヒ)
加差 -披余(ハレ・ワレ)
-乎獲(ヲケ・ヲカ)
↓↑
大彦命
(おおひこのみこと・おおびこのみこと)
「大彦命(日本書紀)」
「大毘古命(古事記)」
稲荷山古墳出土鉄剣の銘文の
「意富比垝」・・・?
↓↑
第八代孝元天皇の第一皇子
第十一代垂仁天皇の外祖父
阿倍臣(阿倍氏)など諸氏族の祖
御間城姫
垂仁天皇(第十一代)の生母
大彦命はその外祖父
↓↑
垝=やぶれる・だい・キ
dilapidated・ruined
荒廃した・くずれかかった
荒れ果てた
ラテン語の
「石(磐・岩=いし・いわ=違和・伊和・伊波・亥和)
が転(ころ)がり落ちる」の意
危=危(あぶ)ない・危(あや)うい
脅かす・危害を加える・滅ぶ・疑う
高い山・険しい・正しい・屋根
危=々+山・儿+山・陒
危ない・危うい・脅かす・危害を加える
滅ぶ・疑う
山などが高い・険しい
正しい・屋根
字形
形声声符は
「厃(キ)」
「厃は厂の上で人が跪(ひざまず)く様子」
「危=厃の下に人が跪(ひざまづ)く姿(㔾)」
「高きに在りて懼るるなり
厃に從ひ、
自ら卪(節)して之れを止む(説文解字・巻九)」
「卩(㔾、卪)を節(節制・節約)」と解釈・・・
↓↑
意富富杼王
(おおほどのおおきみ)
古墳時代の王族
大郎子(おおいらつこ)
意富々杼王
意富富等王
大大迹王
とも
父は
稚渟毛二派皇子(応神天皇の皇子)
母は
河派仲彦王の女
弟 日売真若 比売
(おとひめまわかひめ
百師木伊呂弁とも)
同母妹の
忍坂大中姫
衣通姫
は
允恭天皇に入内
↓↑
意富々杼王は
息長坂君(息長君・坂田君)
酒人君
三国君
筑紫
米多君(めたのきみ)
などの祖(古事記)
中斯知命
(なかしちのみこと)を妃として
乎非王
(おいのおおきみ)
を儲け
その孫が
男大迹王(袁本杼王)=継体天皇
(「上宮記・逸文」)
「意富富等
(オオホド=大ホド)」
という名は
「継体天皇」の諱
「男大迹(オホド=小ホド)」
と対応・・・
本来は別人の名で実際は
「大郎子」と称されていた・・・
「冨=富の俗字・とむ・とみ・フ・フウ」
愛媛県に「冨士山(とみすやま)」
石川県の「冨樫氏(とがしし)」
↓↑
意富本杼王(オホホドノミコ)
意富斗之地神(オオトノジのカミ)
意富斗能地神(オオトノジのカミ)
↓↑
使主(おみ)・・・臣(おみ)
↓↑
おみ(使主)
上代の姓(かばね)の一
渡来人氏族に多い
上代の敬称の一
人名の下に添えて用いた
「中臣(なかとみ)の
烏賊津(いかつ)の使主(おみ)」
↓↑
臣(おみ)
姓(かばね)の一
姓の中では
連(むらじ)と並んで高位置
古くは
使主とも表記
「使主」は敬称
卅七年春二月戊午朔
遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。
爰阿知使主等、渡 高麗国、欲達于吳。
則至高麗、更不知道路、乞知道者於高麗。
高麗王、
乃副久禮波・久 禮志二人爲導者、由是得通吳。
吳王於是、與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女。
↓↑
新田部皇女(にいたべのひめみこ)
?~文武天皇三年九月二十五日
(699年10月23日)
天智天皇の皇女
母は
橘娘(父は阿倍内麻呂)
同母の姉に
明日香皇女
699年
死亡
葬儀参列の勅
皇族・臣下、百官の人々が参列
父=天智天皇
母=阿倍橘娘(父は阿倍内麻呂)
姉=明日香皇女(忍壁皇子妃)
伯母=小足媛
従兄弟=有間皇子
夫=天武天皇
子=舎人親王
↓↑
橘娘(たちばなのいらつめ)
?~天武天皇十年二月二十九日
(681年)
阿倍倉梯麻呂(内麻呂)の娘
天智天皇の妃
明日香皇女
新田部皇女
を生む
姉妹に
小足媛(孝徳天皇の妃)
またの名は
「阿倍夫人」・・・
ーーーーー
相楽神社
京都府
木津川市
相楽清水
相楽の読み
さがら・さわら・さらく
そうらく・そうら
あいらく・あいら
相楽郡(そうらくぐん)
京都府
山城国の郡
京都府
木津川市
山城町
上狛(かみこま)と推定・・・
↓↑
氷羽州比売命=比婆須比売命=日葉酢媛
の娘が
↓↑
垂仁天皇に
追い返された
円野姫が首を吊った地
↓↑
八幡宮
「相楽」の地名
『古事記』
第十一代
垂仁天皇の時代
四人の姉妹が
垂仁天皇に輿入れ
円野比売命が
醜女だったので
実家に戻され
姫が帰途に首を吊った
その地が
「懸木(さがりき)」
と呼ばれ
これが
「相楽(さがら)」になった
この姫を祀る
「島懸神社(島縣神社)」
が境内社としてある
↓↑
「歌姫街道口に鎮座し
京・奈良を結ぶ街道の入口の
歌姫街道」の名は
雅楽寮から由来・・・
旧
相楽村(さがなかむら)
北ノ庄・大里・曽根山
の三区の
産土神
明治十年(1877年)
式内社に認定
御祭神は
誉田別命・足仲彦命・気長足姫命
の八幡神で
八幡神社・八幡宮と呼ばれていた
奈良時代
宇佐八幡宮を勧請
円野姫命を祀る島懸神社の他に
末社として、
同じ時期に輿入れした姉で
垂仁皇后となった
比波須姫命を祀る
松枝神社がある
姉妹である
歌凝姫命を祀る
清水谷神社がある
この姫も
円野姫命と同様
醜女として
垂仁天皇に追い返されたが
円野姫命のような
自殺(未遂?)などの逸話はない
子守神社
茅比売命を祀り
四姉妹最後の一人は
弟比売命・・・同一神?
豊八稲荷社もある
飛地境内として
近鐵山田川駅
西北方に
白山神社
がある・・・
↓↑
旦 波 比古多多須美知 宇斯 王
(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)
の娘たち
比婆須比売 命
(ひばすひめのみこと)
弟 比売命
(おとひめみこと)
歌 凝 比売 命
(うたこりひめのみこと)
円 野比売 命
(まとのひめのみこと)
↓↑
比婆須比売 命
(ひばすひめのみこと)
弟 比売命
(おとひめみこと)
その妹である
歌 凝 比売 命
(うたこりひめのみこと)
円 野比売 命
(まとのひめのみこと)
は、容姿が悪く醜く
実家に返した
↓↑
円野比売命
(まとのひめのみこと)
山代国の
相楽(さがらか)
京都府相楽郡
木津川市辺り
で
木の枝に首を吊ろうとしたので
その地を
懸木(さがりき)と言うようになり
地名が
相楽(さがら)となった
彼女が
弟国(おとくに)
京都府乙訓郡
長岡京市周辺に着いた時
深い淵に身を投じて死んだ
その地を
堕ち国(おちくに)といい
弟国(おとくに)となった
↓↑
比婆須比売命
(ヒバスヒメ)
弟比売命
(オトヒメ)
歌凝比売命
(ウタゴリヒメ)
円野比売命
(マトノヒメ)
ーーーーー
・・・
684(天武十三)年
姓制度
真人(まひと)
朝臣(あそみ)
宿禰(すくね)
忌寸(いみき=伊美吉)
道師(みちのし)
臣(おみ)
連(むらじ)
稲置(いなぎ)
↓↑
忌寸(いみき)
684年(天武天皇十三年)
八色の姓
上から4番目
直(あたえ)姓の国造
渡来人系の氏族に与えられた
↓↑
秦忌寸 朝元
左大臣 橘卿 謔れて云はく
「歌を賦するに堪へずは、麝をもちてこれを贖へ」
秦 忌寸 朝元
(はたのいみきてうぐわん)
弁正法師は俗姓を秦氏
性滑稽にして談論によし
少年にして出家、すこぶる玄学に洪にす
太宝年中、唐国に遣学す
時に
李隆基、竜潜の日に遇ふ
囲棊を善くするをもつて
しばしば賞遇せらる
子に朝慶・朝元あり
法師および慶
唐に在りて死す
元本朝に帰りて、仕えて大夫に至る
天平年中、入唐判官に拝せらる
大唐に到りて天子に見ゆ
天子その父をもつてのゆゑに特に
優詔して厚く賞賜す
本朝に還し至す
尋いで卒す
↓↑
朝元は
僧弁正の子
弁正の入唐中に生まれ
兄、朝慶とあり、
ふたり兄弟
母は中国の女性・・・
父の入唐
大宝二年(702)
後
父と兄が中国で亡くなり、
ひとり日本に連れられた
養老二年(718)
遣唐使の帰国の時・・・
『続日本紀』
養老三年(719)四月
「秦朝元に忌寸の姓を賜ふ」
朝元の日本帰国時は
14~15歳・・・
↓↑
養老五年(721)正月
「百僚の内より学業に優遊し
師範とあるに堪ふる者を擢して
特に賞賜を加へて後生を勧め励すべし」
として、
「医術の従六位下秦朝元」
が褒賞
朝元は医術の専門家
この時17~18歳
中国で医学を学んできた
天平二年(730)三月
諸蕃・異域、風俗同じからず
若し、訳語無くは、事を通すこと難けむ
仍て
粟田朝臣馬養
播磨直乙安
陽胡史真身
秦朝元
文元貞等
五人に仰せて
各弟子二人を取りて
漢語を習はしめむ
↓↑
天平五年(733)
遣唐使として再び中国に渡航
父、弁正が囲碁が強く若い頃の
玄宗皇帝とよく囲碁を打った
この時
朝元は玄宗に優遇された
帰国後
天平九年(737)十二月
「外従五位上秦忌寸朝元、図書頭」
天平十八年(746)三月
「外従五位上秦忌寸朝元、主計頭」
漢語、漢字は得意
意味をなさない漢字を並べた
万葉仮名で歌を詠むなど・・・どうでもヨカッタ
↓↑
秦 朝元(はた の あさもと)
奈良時代の官人
姓は忌寸
遣唐留学僧
弁正の子・・・・弁証の使?
兄は
秦朝慶
官位は外従五位上・主計頭
↓↑
僧弁正の子(懐風藻)
母は唐の女性・・・
兄に朝慶
『尊卑分脈』では
女子は
藤原綱手(広嗣の弟)に娶られ
菅継をもうけた
『公卿補任』は
藤原種継の母を
「従五位下-秦朝元之女」
なお秦氏は
秦の始皇帝の末裔・・・渡来系氏族
『日本書紀』によれば
応神天皇十四年
始皇帝の子孫
弓月君が百二十県の百姓を率いて来朝
絹・綿・糸などの生産従事の部民を従え
山背国
葛野郡に本拠を置いた
↓↑
父弁正は
702(大宝二)年の遣唐使に伴って入唐
在唐中に
朝慶・朝元
の二子をもうけ
父と兄は唐で死去
朝元は
718(養老二)年
遣唐使と共に帰朝
719(養老三)年四月
忌寸を賜姓
721(養老五)年一月
医術の師範として褒賞
従六位下
730(天平二)年三月
通訳養成の任を命じられ
弟子を与えられ
翌年一月
外従五位上に昇叙
733(天平五)年
第九次
遣唐使の判官として入唐
玄宗皇帝より父の縁故を以て
厚遇
735(天平七)年
帰国
外従五位上に昇叙
737(天平九)年
図書頭
746(天平十八)年一月
元正上皇の御在所での肆宴に参席
三月
主計頭
『懐風藻』
父、弁正の小伝が載り
朝元についても記述
↓↑
養老二年(718年)
第九次遣唐使の帰国とともに訪日
養老三年(719年)
忌寸姓を賜与
養老五年(721年)
模範とすべき者に対して褒賞
医術に優れるとして
吉宜らとともに
朝元
の名が挙げられている
天平二年(730年)
訳語の弟子二人に唐語を教える
天平三年(731年)
外従五位下
天平四年(732年)
多治比広成
を大使とする
第十次遣唐使節に
入唐判官
唐では父・弁正の縁故により
玄宗によって賞賜
天平六年(734年)
帰国
天平七年(735年)
入京
外従五位上
天平九年(737年)
図書頭
天平十八年(746年)
元正天皇の御所に
左大臣・橘諸兄らとともに参上
雪景色を和歌に詠むようにとの詔があった
他の出席者は和歌で応えたが
秦朝元だけは詠まなかったため
橘諸兄に
「麝香をもって贖え」
と言われ、黙り込んだ・・・
三月に主計頭に任ぜられた
↓↑
父=弁正
母=不詳
生母不詳の子女
男子=秦真成
男子=秦忍国
女子=藤原清成室
女子=藤原綱手室
↓↑
朝慶と朝元
717年(養老元)
第8次遣唐使に同行して入唐してきた
阿倍仲麻呂
を
弁正はその才能を愛し、親身になって世話
仲麻呂も弁正によった
日本に渡った
朝元は
父の俗姓を継いで
秦 忌 寸 朝 元
(はたのいみき・ちょうげん)
を名乗り朝廷に仕えた
魚養は、漢字の素養を讃えた
「朝野 魚養(あさの の なかい)」
官人・能書家
氏姓は忍海原連→朝野宿禰
官位は外従五位下・典薬頭
↓↑
・・・中国名「井真成」という遣唐留学生の墓誌発見・・・
「西安晩報」で報じた
39.5センチ四方の石
12行に171文字が刻
埋葬者は
姓を「井」
字を「真成」
という日本人の遣唐留学生
国命により入唐、学問を修め
正式な官僚として唐朝に仕えた
開元二十二年(734)正月某日
急病のため36歳で死去
万年県の川のほとりに埋葬
玄宗皇帝は死を悼み
尚衣奉御(尚衣局の責任者)の位を追贈
日本名は不明
↓↑
紀元717年
玄宗皇帝の開元五年
中国名「井真成」の夢・・・
在唐17年
天平五年(733)五月
遣唐使の一行が長安に入った
年の暮れに急病で倒れ
開元二十二年(734)正月
死亡
彼の葬儀には同期で入唐した
阿倍仲麻呂
第9回遣唐使の
大使
多治比広成(たじひのひろなり)
副使
中臣名代(なかとみのなしろ)
が参列したかも・・・
墓誌には
「形は異土に埋葬されたが、魂は故郷に帰ることを願う」
と
第9次遣唐使の一行は
10月帰国
彼らに同行し
下道真備
玄硃
理鏡
などが帰国
阿倍仲麻呂も帰国を願い出ていが
唐朝官吏、左補欠の要職
玄宗の信任が厚く、帰国は許されなかった
701年(大宝元二)
第7次遣唐使
学問僧に
弁正
俗姓は秦氏
渡来系氏族の子孫
唐に渡った後
皇太子時代の玄宗の厚遇を受け
碁を打って楽しんだ・・・
長安で、彼は唐の女性を愛し、還俗、結婚
2人の男子が生まれた
朝慶
朝元
717年(養老元)
第八次遣唐使に同行して入唐してきた
阿倍仲麻呂を
弁正はその才能を愛し
世話をし
仲麻呂も弁正を慕い
一家の者たちと親しくなった
長男の朝慶は13、4歳
次男の朝元は12歳ぐらい・・・
↓↑
在唐、十数年
弁正は
第8次遣唐使が帰国するとき
次男の
朝元を単身乗船させて日本に渡らせ
長男の朝慶は父とともに唐土に止まった
日本に渡った
朝元は父の俗姓を継いで
秦忌寸朝元(はたのいみき・ちょうげん)
を名乗り朝廷に仕えた
十六年後
733年(天平六)
第9次遣唐使が派遣
朝元は判官として随行
生まれ故郷に渡った
父母や兄との再会を果たした・・・
ーーーーー
・・・
土・士・・・「十+一」・・・「壱拾壹=イチ足イチ・・・
・・・「衆議院選挙」・・・「第48回衆議院議員総選挙(2017年10月22日に予定されている衆議院議員総選挙・9月28日、衆議院は第194臨時国会冒頭で解散された。理由は森友、加計、防衛省などの隠蔽問題追及回避?」・・・
解散名 「国難突破」解散?・・・「隠蔽」解散?
公示日 2017年10月10日
投票日 2017年10月22日
2017年 丁酉(庚・ ・辛)
0010月 庚戌(辛・丁・戊)
0022日 壬午(丙・ ・丁)・心
↓↑
a 1954/9/21=甲午/癸酉/庚辰・申酉=空・張・
k 1952/7/15=壬辰/丁未/壬戌・子丑=空・胃・三合丙
e 1964/5/31=甲辰/己巳/庚辰・申酉=空・虚・
改選数 465
「東尋坊(とうじんぼう)=福井県坂井市三国町安島に位置する崖」に訊いてみたい・・・過去→「現在」→未来・・・「現在」は存在論的には「存在」しない・・・「揆(キ)=扌(手)+癸=はかる・はかりごと・キ・揆度 (キタク)・やり方・全体的な過程や規模」・・・「扌=才」?・・・才能の「才」・・・「才知・才気・才におぼれる・才に走る・学識・才識」・・・「一揆=盟約・同盟」・・・
ーーーーー
第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
この憲法が国民に保障する基本的人権は、
侵すことのできない永久の権利として、
現在及び将来の国民に与へられる。
↓↑
第九十七条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、
人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、
これらの権利は、
過去幾多の試錬に堪へ、
現在及び将来の国民に対し、
侵すことのできない永久の権利として
信託されたものである。
↓↑
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の不断の努力によって、
これを保持しなければならない。
又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、
常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
↓↑
第十三条
すべて国民は、
個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。
・・・???・・・
ーー↓↑ーー
1471年(文明三)
吉崎へ下向した
蓮如は
親鸞以来の
血脈相承を根拠に
一宗独立を宣言
個別分散的な
浄土系諸門流の掌握を開始
蓮如教団は
世法的宗教観の否定を唱える門流をも内包
他宗派との間に鋭い緊張関係を生じた
一方
加賀守護勢力は十五世紀中期以降
幾度も
二手にわかれ支配権を争っていた
このような状況下
七十四~七十五年
一部守護勢
と
一向衆とは
国人層
百姓層
寺社勢力
をも糾合し
それぞれの
反対勢力打倒の
一揆(惣国一揆)をおこした
↓↑
一揆=揆(やり方・手段)を
ひとつにするという意味
共同体が意識と行動を一つにし
目的を達成しようとすること
↓↑
盟約、契約を結び
政治的共同体を結成し
集団及び、既成の支配体制に対する
武力行使を含む抵抗運動(体)
↓↑
武家が団結する意志や集団行動を表す言葉
易占の結果や意見が一致する意味
武力を行使する
「盟約に基づく政治的共同体」
↓↑
惣国一揆=惣国制(そうこくせい)とは
大名領主を仰がずに
在地領主権を守る為に
団結した国人衆(地侍)による
合議政治の統治形態
有力国人衆(地侍)の合議に拠る
自治は大名との軋轢を生み
更に惣に結集した民衆も参加
山城惣国一揆
伊賀惣国一揆
紀州惣国などに発展
大名領主が力を失った地域で
有力国人衆(地侍)が
「惣(そう)」と呼ばれる
合議に拠る自治共同体を形成した
守護や単一の国主を戴かず
一国内の
惣国=国人・土豪・地侍が結合した主体とし
検断や半済といった
国内の統治を自ら行う
一種の共和制
守護家の中から一揆の意向に忠実な者を
名目的な守護に擁立する場合もあった
惣村=百姓の自治的村落共同体
が
国人・土豪・地侍
を指導者としつつ
一国規模で結合し
守護を排除し
支配の主体となった
or
百姓・惣村との関連性は低く
一国内の
国人・土豪・地侍の総体である
惣国が守護に代わった
↓↑
対外的危機において
惣国を主体としつつも
百姓とも結びついて成立した
重層構造の組織
↓↑
郡中惣=戦国時代、国人・土豪・地侍
(在地領主)層が
地域の防衛と在地の支配のために
郡を単位として結成した
一揆的な結合組織
↓↑
郡中惣・三方・同名惣
それぞれ掟などの法律や訴訟制度を持ち
同名中や村落間の争いの発生
在地領主層と村落・百姓の争いの発生
入会や土地、用水を巡る訴訟が発生した場合に
それらの掟に基づいて解決を図った
甲賀郡
大和国宇陀郡
山城国乙訓郡
伊賀惣国一揆
山城国一揆
の組織も郡中惣と類似していた
ーー↓↑ーー
長享二年(1488年)六月九日
加賀本願寺門徒による一揆勃発
守護
富樫政親・・・富樫=とがし=訳臥詞?
↓↑ 富=とみ=止見=冨=登美・臣・外美
関守
富樫泰家(とがし やすいえ)=左衛門
「樫=木+堅=十八臣又十一」
↓↑
↓↑ 藤原北家、「魚名」流
藤原利仁(としひと)の末裔
藤原利仁は
「芋粥」を食べさせようと
京都から「敦賀の舘」へ連れ帰った・・・
↓↑ ↓↑
歌舞伎の→かぶき=掛部基(企記紀)?
富樫左衛門
勧進帳の代官
源義経の逃避行
武蔵坊弁慶と富樫のやりとり
安宅の関(あたかのせき)
石川県小松市の日本海側
↓↑ 安宅に守護、富樫氏が設けた関所
の籠る
高尾城(たこじょう)を攻め・・・タカオ=多寡尾?
政親は自刃
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)・・・比る咩
石川県
白山市
三宮町にある神社
式内社、加賀国一宮
旧社格は国幣中社(現在は本庁の別表神社)
全国に2,000社以上ある
白山神社の総本社
「白山(しらやま)さん
白山権現・加賀一の宮・白山本宮」
とも・・・白山=ハクサン=葉句纂?
↓↑
加賀国の一向一揆
1471年
蓮如(レンニョ)は
越前国吉崎
(よしざき・福井県あわら市)・・・あわら=粟原・芦原・蘆原
阿原・湶
に下向
北陸地方の
真宗(一向宗)の布教を開始
1474年から翌年にかけて
加賀の守護勢力の一部と一向宗徒は
反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)を形成
↓↑
1474年(文明六)~1580年(天正八)
加賀国(石川県)の一向衆徒らが
国内を支配運営
蓮如は
親鸞以来の
血脈相承を根拠に
一宗の独立を意図し
吉崎滞在中(1471~75)
分散的な
北陸の浄土系諸門流を吸収
1473年
加賀での公的認可を条件に
富樫政親(とがしまさちか)
の要請を受け
守護家の内紛に介入
翌年
高田
専修寺(せんじゅじ)派と結ぶ
富樫幸千代倒した(文明一揆)
1475年には政親と戦い
1488年
かわりの守護を擁立し
富樫政親を高尾城に滅ぼした(長享一揆)
文明一揆の時
富樫政親に協力した国人層は
連合組織
「郡」を結成
長享一揆の時
小地域ごとに結集した門末は
「組」を結成
「組」はやがて
一門(宗主庶子)の
「与力(よりき)組織」となった
↓↑
1506年、1521~23年
畿内、北陸の政争の影響を受け
数か国に及ぶ
一揆が発生(永正・大永)一揆
北陸の門末は
加賀一門の統制下にあったため
加賀の一揆は
越前、越中
など北陸一帯の一揆となった
↓↑
1510年代
本願寺一門は
「郡」の有力者を家人化
「郡」を一向宗の組織とし
続いて
坊主衆の一揆への参加を禁止
加賀の一揆組織
は俗的色彩を強く帯び
「郡」は
在地領主権を所領外の門末へも及ぼし
「組」は軍事的、財政的宗教役を担った
↓↑
1531年
新・旧宗主系親族団の内紛により
一門が没落(享禄錯乱・大小一揆)し
「郡」と「組」は本願寺に直属
(1546年以後金沢御坊)に従属
同一化を促進
越前、能登の門末を含む
「加賀」衆は
1555年、1564年
朝倉勢と
1570年代前半は
上杉勢と
以後は
織田勢と戦い続けた
「加賀」衆の
支配権とその境界線
ともに私的で
その安全性の保障は
戦い続けることによってのみ得られた
↓↑
1580年
金沢御坊の陥落とともに
加賀一揆は
織田軍により解体
↓↑
蓮如
文明六年(1474年)
~
文明七年(1475年)
吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在
親鸞以来の
血脈相承・・・血脈相承
(けちみゃくそうじょう)
仏教で法が
師から弟子へと相続されること
師から授けられるものは
本尊や教義・戒律
切紙などの奥義・秘伝の類
宝物など、
血脈相承における「法」とは
次代の師となるべき者の相続
本願寺派は
門主(門首、法主)の座が
親鸞の子孫に受け継がれること
伝灯相承(浄土真宗)
を根拠とし
北陸の
浄土系諸門を統合
↓↑
文明五年(1473年)・・・文の明のゴ(語)
富樫政親
の要請を受け
守護家の内紛に介入
翌年には
富樫幸千代
を倒した
蓮如はこれによって
守護の保護を受ける事を期待していたが
富樫政親は
本願寺門徒の勢いに不安を感じ
文明七年・・・文の明の七(漆)
門徒の弾圧を開始
蓮如は
吉崎御坊を退去
加賀の門徒は
富樫政親に追われて
越中に逃れた
↓↑
越中
砺波郡の
石黒光義が
富樫政親と結んで
門徒弾圧に出
文明十三年(1481年)・・・文の明、壱拾参
越中で一揆が発生
石黒光義が討ち取られる(越中一向一揆)
富樫政親は
加賀の一国支配の認知を目指し
九代将軍
足利義尚
による
六角高頼
遠征(鈎の陣)
に従軍したが
戦費の拡大により
国人層が反発
越中から帰還した
門徒とともに決起
長享二年(1488年)
代わりに
富樫泰高
を守護に擁立
富樫政親を
高尾城に滅ぼした(長享の一揆)
足利義尚は
一向一揆の討伐を検討
細川政元
の反対と
足利義尚
の死により
一向一揆討伐
と
六角高頼の
遠征は中止
以後
加賀に宗主代理の
一門衆
(松岡寺住持蓮綱
光教寺住持蓮誓
本泉寺住持蓮悟)
が在住し、
国人層から本願寺による
加賀支配に移行
↓↑
永正三年(1506年)
一向一揆を抑圧する周辺諸国への
進撃を行って失敗
(九頭竜川の戦い・般若野の戦い)
一門衆による統治に動揺
本願寺中央が
一門衆を抑圧しようとし
享禄四年(1531年)
大小一揆と呼ばれる内紛に発展
一門衆やこれに従った
国人衆が粛清
天文十五年(1546年)
尾山御坊(金沢御堂)が建設
それを拠点として
北陸全体に一向一揆を拡大
弘治元年(1555年)
↓↑
永禄七年(1564年)
に朝倉氏と
1570年代前半
に上杉謙信
その後は
織田信長と対立
↓↑
元亀三年(1572年)
杉浦玄任
を総大将とする
一揆勢が
上杉軍と数ヶ月に渡って激突
各地で上杉軍を破る
謙信率いる上杉本隊が到着
尻垂坂の戦いで一揆は大敗
↓↑
石山本願寺の降伏
尾山御坊の陥落
一揆は解体
↓↑
尾山御坊を攻略したのは
佐久間盛政
一揆を沈静化させたのは
前田利家・・・
ーーーーー
・・・???・・・橘奈良麻呂、藤原仲麻呂(恵美押勝)から随分と跳んできてしまった・・・
シャム猫・・・ウワサを信じちゃイケナイょッ!・・・軍鷄・闘鶏・・・
・・・「しのに」・・・「シノニム(synonym)」・・・「Syn」・・・「ホモニム(homonym)」・・・「一次同名(primary homonym)」・・・「二次同名(secondary homonym)」・・・「chamois(シャモア・ヨーロッパの高山域に分布するシャモア属のヤギ(山羊)に似たカモシカ(氈鹿・羚羊)・chamois cloth=窓や車を洗うために用いられる布)」・・・「シャモイ-ナポレオン」ってワイン?・・・「シャモ(軍鶏)=昔タイ王国を意味したシャム(暹羅)」に由来・・・「シャム猫」・・・「アイヌが日本人(倭人)を呼んだ語のシャモ(samo)」。アイヌ語の「シサム-ウタラ(sisam-utar)」・・・「シ=私・サム=側(近く)・ウタラ= 仲間」=「隣人」・・・「ウタラ」が隣人?ですか・・・「討蛇等」、「歌等・唄等・唱等」、「宇多等」かも・・・
以下は
「平安時代前期の天皇、宇多天皇の猫好きエピソードをまとめました」のブログ
https://matome.naver.jp/odai/2139027691598380601
と、
「黒猫愛でる宇多天皇」さんのブログ記事の「漢文記録」から抜粋添付・・・
https://noh-and-kyogen.com/yononaka/neko/uda.html
↓↑
「寛平元年(889年)二月六日。
朕閑時述猫消息曰。
驪猫一隻。大宰少貳源精秩満来朝所献於先帝。
愛其毛色之不類。餘猫猫皆淺黑色也。
此獨深黑如墨。爲其形容惡似韓盧。
長尺有五寸高六寸許。其屈也。小如秬粒。
其伸也。長如張弓。眼精晶熒如針芒之亂眩。
耳鋒直竪如匙上之不搖。其伏臥時。
團圓不見足尾。宛如堀中之玄璧。其行歩時。
寂寞不聞音聲。恰如雲上黑龍。性好道引暗合五禽。
常低頭尾著地。而曲聳背脊高二尺許。
毛色悅澤盖由是乎。亦能捕夜鼠捷於他猫。
先帝愛翫數日之後賜之于朕。朕撫養五年于今。
毎旦給之以乳粥。豈啻取材能翹捷。
誠因先帝所賜。雖微物殊有情於懐育耳。」
・・・読み下しは上の引用先のブログで読まれるコトをお勧めいたします・・・「くるねこ大和さん」のモノもマンガで面白く引用されていた・・・
↓↑
宇多天皇(うだてんのう)
貞観九年五月五日(867年6月10日)
~
承平元年七月十九日(931年 9月3日)
第五十九代天皇
在位、仁和三年八月二十六日・・・十一月十七日に即位
(887年9月17日)
~
寛平九年七月三日
(897年8月4日)
諱は定省(さだみ)
別称は寛平法皇・亭子院(テイジのイン)・・・綴字の音?
以前に「阿衡(アコウ)事件」を書き込んで・・・「赤穂(あこう)浪士=四十七士」に重ねたが・・・
↓↑
宇多天皇が即位し
左大弁
橘広相に命じて・・・橘(たちばな)と藤原の確執はヒツコイ?
二度目の詔勅を出し
「宜しく
阿衡(アコウ)の任をもって
卿の任とせよ」
との一文を
藤原基経に与えた
↓↑
「阿衡」は中国の
殷代の賢臣
伊尹が任じられた官名で
これを
橘広相は引用した
だが、
文章博士の
藤原佐世が
「阿衡は位貴くも、職掌なし
(地位は高いが職務を持たない)」
とイチャモンをつけ
藤原基経に告げ・・・基の経のツゲ=椄解・通解?
臍(へそ・𦜝・綣・毘)を曲げた
藤原基経は一切の政務を放棄
888年(仁和四年)四月・・・八八八・八百八拾八・捌捌捌
人和・訊和・盡和
「四=肆」・撚・解通
天皇は左大臣
源融・・・・・源(みなもと・ゲン)融(とおる・ユウ)
嵯峨天皇の十二男(第八皇子?)
河原左大臣
宇治の別荘はのちに平等院となった
源氏物語の光源氏のモデル
・・・融合・金融?
に命じて
「阿衡に職掌」がないかどうかを
諸博士に研究させたが
藤原基経を恐れ博士らは
藤原佐世と同じ立場で同調した
橘広相はこれに反駁するが
六月
天皇は詔勅を取り消し
橘広相を罷免したが
藤原基経は更に流刑を主張
そこを
讃岐守、
菅原道真・・・・漢学者・文人
菅原是善の子
母は伴氏
右大臣・従二位・大宰権帥・菅公
北野天満宮と大宰府天満宮の「天神さま」
藤原時平の天敵
飛梅は忠臣・雷神で呪った?
訳備得馬 等異訊
が仲介し、取り持って
藤原基経は怒りをおさめた・・・
ーー↓↑ーー
妄想、探究は・・・「同音異字・異音同義・別名・異名・同意語・同義語」・・・「重意和辞典」・・・「英和辞典」・・・
↓↑
「シノニム(synonym)」=同意語・別名
類語
synonymは類語を含む
省略して「Syn.」と表記
「しのに」=草木がぬれてなびくさま
心がしおれるさま
「生物の分類における同名(homonym)は
異なるタクソンに対して使用されている
同じ名前を指す」
「一次同名(primary homonym)
成立時に既に同じ属の種
亜種として
同じ名前をつけられた同名
二次同名(secondary homonym)
成立時には別の属に対して名付けられたため
同じ種小名・亜種小名でも問題はなかったが
その後それらの属がまとめられて
同じ属とされてしまったために
発生した同名
↓↑
「篠(しの)=イネ科タケ亜科の植物の
小形のものの総称
タケに比べ丈が低く
稈かんは細く
生長後も竹の子の皮が残る」
「しの=長さ35cm程度のワイヤー通しの道具
とび職専用具」
「篠=シノ=イネ科タケササ類の
小形の竹の総称
「しの=メダケの別称・イネ科の常緑竹・園芸植物」
「Pleioblastus simoni」
「しの(篠)=篠竹 (しのだけ) に同じ
篠笛(しのぶえ)の略
紡績の中間過程で
不純物の除かれた繊維を
長さをそろえて
太いひも状にしたもの
篠を束ねる篠竹を束ねたように
多量の雨が激しく降るさま
しのをたばねる・篠を突く
日本人苗字
しの=篠野・篠生・篠・凌・小竹
信野・信乃・信
史野・史乃
紫野・紫乃・柴生
志野・志乃・志埜・志農・志濃・志之
滋野・詩乃・滋埜
四野
示野
司野
士野
↓↑
「しのる=北海道方言・しのる(撓る)・長いものが自分の重みなどで)たわむ、まがる」・・・「毛虫・尺取り虫・蚯蚓(ミミズ)」・・・「バネ・クダ」・・・
ブログの英和辞典などで調べてみた・・・「アコーディオン」・・・「最初のフリーリード楽器は中国の笙で、息で空気を送り込み音を発生するようになっている。この笙のようなフリーリードによる発声の仕組みを18世紀にヨーロッパの旅行者が中国から持ち帰った」・・・「笙=竹+生」・・・
「1822年にドイツのフリードリッヒ・ブッシュマン (Friedrich Buschmann、1805年6月17日~1864年10月1日) が発明した簡素な蛇腹楽器、ハンド・エオリーネ(Hand-Aeoline)を最初のアコーディオンと見なす」・・・「葉務度-重嗚理意音」?・・・
「1829年5月23日にオーストリアのシリル・デミアン(Cyrillus Damian)が特許を取得したアコーディオンを起源とし、アコーディオンはデミアンによる命名で、和音を意味するaccordに器を意味するギリシャ語の接尾語を組み合わせたもの」・・・「出見案」、「和音=倭音」の「嗚孔出意音」?・・・「全音階(メジャースケールの7音)を持ち、単一のキーのみで演奏」・・・
「アコーディオン(accordion)=手風琴=英語 Accordion.独語 Akkordeon.仏語 Accordéon.伊語 Fisarmonica.鍵盤楽器・蛇腹楽器・気鳴楽器」・・・「コンサーティーナ (concertina)=アコーディオン族に属するフリーリード楽器・蛇腹楽器の一種・通常正六角形または正八角形の小型の手風琴」、「コンサー ティーナという名称は、演奏会(コンサート・concert)+女性形縮小辞(ina)を付け、愛称化したもの」・・・
ーーーーー
according to…によれば
according to me…は間違い
According to the Bible (the papers)…
…聖書[新聞]によれば…
…に従って…
according to
~によれば
~の言うところによれば
~に言わせると
according to…
依て・随って・従って
通り・次第・応じて・合わせて
according to…
に因り・に依り・に依る・に因る・に拠る
に因って・に依って・よれば・に照らして
依ると・に従い・と書いてある
上では・に拠れば・に依れば・に因れば
応じて・に依ると・に従って・に照らすと
according to…
に応じて・したがって
に照らして・…にしたがって
のとおりの
according to ...
いわく・曰く・宣わく・曰わく・・・磐句・岩句・石句
ーーーーー
as ~ as …
と同じくらい~
否定文では「…ほど~ではない」
He is as tall as his father.
彼は父親と同じくらいの身長がある。
He is almost as good at skiing as me.
彼は私と同じくらいスキーが上手い。
Walking has not been considered
as scientifically as it is now.
歩くことがこれまで
科学的に考えられたことはあまりなかった。
Finding what you want
on the Web should be
as easy as finding a book in the library.
ウェブ上で欲しいものを見つけることは
図書館で本を見つけるのと
同じくらい簡単であるべきだ。
You love him as much as you love me.
きみは私を愛するのと同じくらい彼を愛している。
I can't play the piano as well as her.
私は彼女ほど上手にピアノを弾けない。
I don't think
the cheese cake served
at the coffee shop is
as good as rumor says.・・・rumor(ルーマー)=噂(うわさ)
留有万蛙?
風聞・流言
風説・風評・陰口・ゴシップ
あの喫茶店のチーズケーキは、
噂ほどおいしくはないと思う。
↓↑
和語うわさ (噂)
蘭語ゲリュヒト(gerucht)
英語ルーマー (rumor)
独語ゲリュヒト(Gerücht)
仏語リュムール(rumeur)
伊語ヴォーチェ(voce)
↓↑
He doesn't hate her as much as he used to.
彼は以前ほど彼女を憎んではいない。
↓↑
原級比較(同等比較)は、
程度が「同じ」であることを表す
1つ目のasは「同じくらい」という副詞
2つ目のasは「~するのと比べて」という接続詞
否定文では、副詞のasが「so」になりやすい
倍数表現でも、as ~ as … を使う
↓↑
Jeff is not so tall as I.
または
Jeff is not as tall as I.
↓↑
The journey was not
so much hard as exciting.
旅路は困難というより
むしろ刺激的だった
「not so much ~as…」は
「~というより、むしろ…」
の意味
「~」や「…」には
形容詞だけでなく
名詞や節も入る
↓↑
Mario is not
so much plumber as adventurer.
マリオは、配管工というより冒険家だ
「~というより、むしろ…」
「as~as ever」(相変わらず)
↓↑
King Bowser Koopa was as strong as ever.
クッパ大王は相変わらず強かった
「as~as ever=相変わらず」
「~as ever」
最初の「as」なしで使われる
「not so much as~」(~さえしない)
Mario could not
so much as hurt Koopa.
マリオはクッパを
傷つける事さえできなかった
「not so much as~=~さえしない」
「not so much~as…
(~というより、むしろ…)」
と形が似ている
「as~as any…=どんな…にも劣らず~」
So, Mario is as tough as any guy.
そう、マリオは
どんな奴にも劣らない屈強な男
「as~as any…=どんな…にも劣らず~」
「as~as can be=最高に」
I’m as happy as can be!
You are as reliable as any guy!!
私、最高に幸せよ!
あなたって、最高に頼りになる人
「as~as can be=最高に(の)~」
「as good as it gets」
「as good as it gets=最高、または諦め」
I’ll never forget this time.
It’s as good as it gets.
僕はこの時を永遠に忘れない
最高の瞬間だ!
「as good as it gets=それがなり得るのと同じくらい」
「最高」
「get=成る」
「as ~ as can be」
This is not the ending
that I expected,
but this is as good as it gets.
これは、僕が望んでいた結末ではない
でも、可能な限り最善のものだ
これ以上の結末は望めない
As good as it gets
as~as
as~as … can(…にできるだけ~)
as~as can be(最高に~)
as~as any…(どんな…にも劣らず~・の中で一番)
as good as it gets(最高 or 諦め)
as good as~(~同然)
not so much~as …(~というより、むしろ…)
not so much as~(~さえしない)
as~as ever(相変わらず~)
So much for today!(今日はここまで)
「so much=~それだけ・余りにも多すぎ」
ーーーーー
alike=似ている・そっくりで
Men are all alike
alike in a lot of ways
be ~
多くの点でよく似ている
alike in every way
どこから見てもそっくり、うり二つ
alike sign
等号単語帳
as alike as two peas
うり二つ
とても、非常によく似て
エンドウの鞘の中の
二つの豆のようによく似ている
as like(alike)as two peas(in a pod)
exactly alike
be ~
うり二つ・寸分違わない・全く相等しい
look alike
そっくりである・よく似ていて紛らわしい
look-alike
よく似た人・そっくりさん・うり二つ・類似品
よく似た・そっくりな・類似の
look-alikes
look-alike contest
そっくりさん(物まね)コンテスト
look-alike drugs
類似薬剤・似ている薬
look-alike for
be ~
(人)にそっくり
look-alike rubber mask
そっくりのゴム製マスク
much alike
be ~
大同小異
nothing alike
全然似ていない
You two look nothing alike.
君たち二人は全然似ていません
My sister and I are nothing alike.
姉と私には共通項が全くない。
remain alike
似たままである
remarkably alike in appearance
be ~
外見が実によく似ている
sound-alike
物まね名人
有名な俳優や歌手の声や歌い方を
上手にまねる演技者
sound-alike name
発音が似ている名前単語帳
sound-alike words
似た発音の単語
work-alike
そっくり製品
celebrity look-alike contest
有名人[セレブ]
そっくりさんコンテスト
大会・コンクール
dressed exactly alike
be ~
そっくりの服装(格好)をしている
Elvis look-alike contest
エルビスそっくりさんコンテスト
Hemingway look-alike contest
ヘミングウェイそっくりさんコンテスト
Lincoln look-alike contest
リンカーンそっくりさんコンテスト
look exactly alike
非常によく似ている
look increasingly alike
ますます似ているように見える
look somewhat alike
多少(どことなく)~に似ている
perfect look-alike
生き写し、うり二つ
pretty much alike
be ~
非常によく似ている
A and B alike
AもBも同様に、ABともに
adults and children alike
子どもも大人も同じように
father son look-alike contest
父息子そっくりさんコンテスト
friend and foe alike
敵味方の区別なく(を問わずに)
grow to look alike
似てくる
have all alike in form
全ての~の形が似ている
look a lot alike
とてもよく似ている
look so much alike
that someone can't tell them apart
とてもよく似ているので
人には区別がつかない
look very much alike
非常によく似ている
make more alike
~をより均質化する
men and women alike
男女の差別なく・男女共に・男女を問わず
mother daughter look-alike contest
母娘そっくりさんコンテスト
old and young alike
老いも若きも・老若男女全ての人
old and young (alike)
people who are alike
似た者同士
poor and rich alike
貧富(階層)を問わず・誰もが
printing of look-alike
類似印刷物
share and share alike
平等(均等)に分配(負担)する・等分する
Since we're short on supplies,
we have to share and share alike.
備品が足りないので
等分に分けなければならない。
treat all people alike
全ての人々を平等に扱う
young and old alike
老いも若きも・老若男女全ての人
young and old (alike)
to be alike to someone
(to look like someone).
Comprehensive list of synonyms
for to look the same as
or similar to someone
or something,
by Macmillan Dictionary and Thesaurus.
...to look very much like someone or something
...to look
be completely
like a particular type of person ...
ーーーーー
synonym=シノニム
シノニム(synonym)=同意語・別名
同意語・類義語
・・・「シノニム=しのにむ」・・・
シャム猫・・・ウワサを信じちゃイケナイょッ!・・・軍鷄・闘鶏・・・
驪猫(レイビョウ・リビョウ)・・・
・・・綺麗=キレイ=亀齢・記例・紀例・・・「高句麗=紀元前37年~668年、中国東北部の南部から朝鮮半島北中部のツングース系民族による国家・最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした古代(北方)朝鮮の国名」・・・「高麗=918年~1392年、918年に王建(太祖)が 建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一・李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家」・・・「698年に建国した渤海の支配層が高句麗人であり、そのため渤海は高句麗の継承国で、北の渤海・南の新羅が鼎立した南北国時代から、高麗によってはじめて朝鮮は統一」・・・色々、論争があるらしい・・・
「伏聞 東海之外有三國 其名 馬韓·卞韓·辰韓 馬韓則高麗 卞韓則百濟 辰韓則新羅也(三国史記・高麗十七代、仁宗の命を受け金富軾らが作成・三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までの紀伝体の歴史書・朝鮮半島現存の最古の歴史書・1143年執筆開始~1145年完成・全五十巻)」・・・
ーーーーー
モモちゃんは隻眼の黒猫、ブブはモモが産んだ五匹の中の唯一の牡猫・・・宇多天皇(源定省・定省親王)・仁和三(887)年八月皇太子になると同時に践祚)・・・「黒猫賛歌」の裏事情・・・先帝(光孝天皇=時康・鷹狩りの復活、相撲の奨励・母は尊称皇太后班子)からの賜りモノ・・・???・・・「寛平の治=小農民を保護?」・・・
↓↑
寛平元年(889年)二月六日。
朕・・・朕=月+关=肉+关=舟+关
=渡し舟の象形・・・舟は上弦の月の形象
上に向かって物を押し上げる象形
舟を上流に向かって押し上げる時の
航跡の意味
しるし(標・標識・看板)
あと(跡・迹・蹟・址・痕)
关=丷+天=八+天・・・?
丷+夭=八+夭・・・?
夭=人の走(はし)る姿・走の初文
若いの義・「幼・妖」等と同系
「笑・優」等にも通じる・・・
关=門・ドア・窓・引き出しなどを閉める、閉ざす
閑時・・・・・ひま(暇)な時・・・隙・日馬・遑
述・・・・・・述=朮+辶=十+儿+ヽ+辶(辵)
辵=彡+龰(ト人)
=こえる・チャク
猫・・・・・・猫=犭+艹+田=ねこ・ビョウ
消息曰。・・・「動静・状況・事情・様子」+曰(いわく)
驪猫・・・・・驪=馬+麗+猫・・・麓(ふもと)=林+鹿
丽=(一+冂+丶)+(一+冂+丶)
丽≠林・・・鹿の角≒鹿の林
山麓(十八十八)≒山麗(丽=m)
ならば、18×2=36・・・三十六・参拾陸
馬の尾根(尻尾の根)=尻(m)?
高麗=コウライ・綺麗=キレイ
麗=丽+鹿・・・美丽(měilì・メィリ)
丽=牡鹿の角?
=うるわしい・美しい・きらびやか
麗人・華麗
魚麗(ギョレイ)=軍隊の陣形
古代兵法の陣形
楕円形の陣立てで
魚群が進む形
鸝=丽+鹿+鳥=黄鸝・ウグイス
=Chinese oriole
丽(麗)水=浙江省にある市名
うららか・おだやか・麗日
ならぶ・つらなる・麗沢
はなれる
鰻鱺=うなぎ・台湾泥鰌・雷魚
高句麗=古代(北方)朝鮮の国名
668年、唐新羅連合軍により滅亡
艶麗・華麗・秀麗・壮麗・端麗
豊麗・妖麗・流麗
麗(うら)ら・麗(うら)らか
麗(うるわ)しい
麗春花(ひなげし)
麗句(レイク)・麗姿(レイシ)
美辞麗句
麗質(レイシツ)・麗人(レイジン)
麗沢(レイタク)・麗筆(レイヒツ)
麗容(レイヨウ)・麗麗(レイレイ)しい
=くろうま・くろこま
黒毛色の馬=驪馬
くろい・ウマをならべる・リ・レイ
驪山(リザン)=陝西省の始皇帝を葬った所
玄宗と楊貴妃の華清宮の近辺
驪姫(リキ)=春秋時代
驪戎(リジュウ・レイニュウ)
渭水の南の戎族
渭水=甘粛省渭源県の西にある
鳥鼠山(鳥鼠同穴山)を
源流とし、黄河にそそぐ
渭水=助任川(すけとうがわ)
徳島県徳島市を流れる川
吉野川水系に含まれる
新町川の支流で
下流部は福島川とも呼ばれる
恵王五年(前672年)
晋の献公に討伐された驪戎の娘
驪姫と、その妹を得て
共に後宮入りさせ寵愛
驪姫は
当初、自らの境遇を嘆いていたが
贅沢な暮らしに慣れ
自分が悲しんだことを後悔した
献公との間に生まれた息子
奚斉の立太子を目論見
献公を操り、驪姫以外の女性が
生んだ
申生ら他の公子達を次々と抹殺
後に晋を継ぐ
重耳
と
夷吾の兄弟が晋から逃亡
(驪姫の乱)
政治的混乱を引き起こし、
晋の国力は低下した
献公が没して一ヵ月後、
献公の部下の
里克が反乱を起こし
驪姫は
奚斉や驪姫の妹一族共々殺害された
一隻。・・・いっせき(一隻)=船一そう・一対の物の片方
いっせきがん(一隻眼)=一つの目・隻眼
ものを見抜く特別な眼識・独特の批評眼
隻=隹+又=一羽の鳥の捕獲を表す
屏風など対になっている片方を数える数詞
六曲一隻=屏風を折りたたんだ時の
面を数える単位が「曲」
屏風を数える単位が「隻」
二隻一組の対になっている屏風を
数える単位が「双」
(対になった屏風の片方を
数える時は 「半双」=「一隻」)
「六曲一双」=六枚に折り畳むことの
できる屏風2組
屏風を折りたたんだ時の
面を数える単位が「曲」
屏風を数える単位が「隻」
二隻一組の対になっている
屏風を数える単位が「双」
(対になった屏風の片方を
数える時は「半双=一隻」)
「六曲一双」=六枚に
折り畳むことのできる屏風2組
「六曲一隻」=六枚に
折り畳むことのできる屏風1組
魚・鳥・矢などを数えるのに用いる数詞
大宰少貳・・・大宰府の次官・大宰大弐の下の位
筑前、肥前など
北九州地方の御家人・守護大名
源精・・・・源精(みなもと の くわし)
嵯峨源氏、大納言・源定の子
官位は従四位上・大和守
秩満・・・・律令制で、国司などの官職が任期満了
来・・・・・くる・ライ・come
cam(運動の方向を変える機械要素
カム-シャフト=cam-shaftの略)
朝所
献於
先帝。・・・先帝=センテイ=選定・撰綴?
愛・・・・・愛=いとしい=意図恣意(夷図示威)?
其
毛・・・・・・・毛=蝦夷
色之不類。・・・夷賂
餘・・・・餘=飠+余=餘(あま)り・余ったもの・残り
割算で割り切れない残った数、剰余数
猫猫・・・猫=犭+苗
描(扌苗)=えがく
錨(金苗)=いかり
瞄(目苗)=みつめる・狙う・凝視
貓(豸苗)=ねこ・貍の類
鶓(苗鳥)=鴯鶓(駝鳥に似る)・エミュー
媌(女苗)=みめよい・見目好い・眉目良い
緢(糸苗)=ヤク(犛・yak・Bos・牛巤)の
尾の細い毛
巤=たてがみ・レフ・リョウ
糸をぐるぐる巻きに結ぶ
ねこ・英語 キャット cat
独語 カッツェ Katze
仏語 シャ chat
伊語 ガット gatto
西班牙語 ガート gato
羅語 フェーレース feles
埃及語 マウ オッタ
バステト(猫の女神)
希語 アイルーロス
αἰέλουρος
アイエルーロス
αἰόλος(アイヨロス・素早い)
+
οὐρά(ウーラー・しっぽ=尻尾)
牡猫=γάτος(ガートス)
牝猫=γάτα(ガータ)
露語 コーシカ кошка
漢語 マオ 猫
マレー語 クチン kucing
蘭語 カット KAT
ポルトガル語 ガト gato
アラビア語 キット
韓語 ゴヤンイ
ゲール語 カーツィ cat
ヘブライ語 ハトゥール
カンボジア語 チュマー
チェコ語 コチカ kočka
エストニア語 カッシ kass
ペルシア語 ゴルベ
モンゴル語 モール муур
ルーマニア語 ピスィカ pisică
シンハラ語 プーサー
ネパール語 ビラロ
アイヌ語 チャペ チァベ chape
聖書のネコ アイルーロイ
エレミヤの手紙・第21節(第22節?)
シャム語 メーァウ Maew
皆
淺鄢色也。・・・淡い黄色の浅黄色(あさぎいろ)
別の色の
浅葱色(あさぎいろ)は、ごく薄い藍色
焉=正+丂+灬=正+ト+勹+灬
=于+是
金文で「正+鳥」
端正で美しい鳥
黄色の鳥
いづくんぞ・なんぞ・これ・ここに・エン
状態を表す形容の語
忽焉(コツエン)・終焉
句末に用いる助字
句末に置いて語調を整え
断定の意を表す語
訓読では読まないが
「我関せず焉」などの場合に読む
此獨・・・これ(この猫)だけは独特
深鄢・・・深いかな・・・深淵
如墨。・・墨の如し
爲
其形容
惡・・・・・日本語の「悪」=剽悍さや力強さを表す
亜+心=「つぐ・主たるものに次ぐ・次位の
準ずる」+心
似・・・・・にる・同じ
韓盧。・・・韓盧(カンロ)を馳せて
蹇兎(ケント)を逐う
(戦国策・秦策・下)
名犬に足の悪い兎を追わせる
韓盧を馳せて蹇兎を逐う
(かんろをはせてけんとをおう)
名犬に跛(びっこ)の兎を追わせる
転じて
強い者が弱い者に戦いを挑むこと
・・・韓=十+日+十+韋(なめしがわ)
盧=つぼ(壺)・黒い=くろい・ロ・ル
長尺有
五寸
高
六寸許。
其
屈也。
小如秬粒。・・・秬(くろきび・黒黍)粒(つぶ)
玄黍・玄稷
玄(高向玄理)=高向玄理
?~白雉五年(654年)
黒麻呂とも記される
渡来人の子孫
高向漢人(たかむこの あやひと)
推古十六(608)年
第二回の遣隋使
小野妹子に従って渡海した
遣隋使留学生
高向古足の子
姓は漢人、のち史
冠位は大錦上
吉備(吉備真備)
霊亀二(716) 年入唐留学生
天平七(735) 年帰朝
下道(しもつみち)朝臣
746(天平十八)年、吉備朝臣に改氏
名は真吉備にも作る
父は右衛士少尉下道国勝
母は楊貴(八木)氏・・・陽侯氏?
きび=記(紀)備・機微・機尾・驥尾
其伸也。
長如
張弓。
眼精晶熒・・・眼精晶熒=眼はきらきらと輝く
熒=𤇾+火
晶熒(ショウケイ・かすかな光
眼光の・晶熒→螢)
如
針芒之亂眩。・・・針芒=穀物の実の先端にある針状の突起
芒種・物の細く尖った先端
陽炎眩亂
尖った針のように眩しき揺らめき
耳鋒・・・耳の鋒は
直竪・・・真っ直ぐで竪い
如匙・・・匙のごとく
上之不搖。・・・揺らめかず
其
伏臥時。・・・降伏、伏字
臥床・臥竜
安臥・横臥・起臥・仰臥・病臥・行住坐臥
草臥 (くたび) れる
臥所 (ふしど)
臥薪嘗胆
團圓
不見
足尾。・・・・足尾・芦尾・蘆尾・足雄
宛
如
堀中之玄璧。・・・璧无瑕・意思是黑色的璧玉
其
行歩時。
寂寞
不聞
音聲。
恰
如
雲上鄢龍。
性
好道引
暗
合
五禽。
常
低頭尾著地。
而
曲聳背脊高二尺許。
毛色
絓
澤盖由是乎。
亦
能
捕夜鼠
捷
於他猫。
先帝
愛翫
數日之後
賜
之于朕。
朕
撫養
五年于今。
毎旦
給之
以乳粥。
豈
啻
取材
能
翹捷。・・・翹=あげる・つまだてる・ギョウ
捷=ぶんどる・奪い取る
戦争で奪い取った物
戦勝・戦捷
早・速・すばやい(捷疾)
近道(捷径)
さとい(敏・敏捷)
賢い・理解、判断が早い
感覚(目・耳・舌・鼻・皮膚)が鋭い
つづく(続)・肆=四
およぶ(及)
誠
因
先帝・・・先帝=センテイ=剪定・泉亭
所賜。
雖
微物
殊
有情・・・有情=ウジョウ=雨情・羽状・宇城
優諚・友情・鵜城
於
懐育耳。・・・カイイクジ=掛意意句字
ふところご=懐子=カイシ=・・・
親の懐に抱かれる幼な子
大事に育てられた子
世間知らずの子
箱入り娘
ーーーーー
・・・???・・・
「王建」・・・「王は建(たける)」・・・
・・・「王建」・・・「王は建(たける)」・・・「建=たける=健・剛・武・毅・猛・豪・雄・岳・健児・威・彪・長・尊・傑・丈・壮・武尊・丈瑠・武龍」・・・タクサン、存在する「タケル」・・・
ーーーーー
王建(オウ-ケン・ワン-ゴン)
ーー↓↑ーー
斉の
王建(田建)
戦国時代の
田斉の最後の王
(在位、紀元前265年~紀元前221年)
↓↑
前蜀の
王建
五代十国時代の
前蜀の創始者
高祖
847年~918年
(在位、903年~918年)
↓↑
北魏の
王建
軍人
↓↑
唐代の詩人
王建
↓↑
高麗の創始者
王建
字は
若天
諡号は
応運元明光烈大定睿徳章孝威穆神聖大王
太祖
877年~943年
(在位、919年~943年)
↓↑
三国時代の軍閥
公孫淵の臣
公孫淵が燕王を称すると
燕の相国となった
ーー↓↑ーー
王建(おうけん)
斉王建(田建)
中国、戦国時代の
田斉の最後の王
在位
紀元前265年~紀元前221年
田 建(でん けん)
斉の最後(第八代)の君主
王としては五代目
父は第七代の襄王
紀元前221年
秦の政(始皇帝)の攻撃を受け
戦わずして降伏
秦の中国統一は完成
田建は身柄を
共(河南省輝県)に移された
ーー↓↑ーー
王建 (前蜀)
五代十国時代の
前蜀の創始者
高祖
847年~918年
在位
903年~918年
ーー↓↑ーー
王建 (北魏)
中国、北魏の軍人
王建(オウケン)
十国
前蜀の初代皇帝
廟号は高祖
許州舞陽(河南省)に生まれ
若い頃は
屠殺や塩の密売に関わる無頼の徒
許州では
賊王八
と称されていた
黄巣の乱が発生すると
官軍に参加してその鎮圧で軍功
後、朝廷の実力派宦官である
田令孜
の仮子(養子)となり
僖宗が蜀に脱出する際の功績により
神策軍使
西川節度使
壁州節度使
などを歴任
↓↑
王建
文徳元年(888年)
永平節度使
大順二年(891年)
仮父を殺害し
成都を制圧
剣南西川藩鎮を滅亡させ
西川を根拠地に定め
四川全域をほぼ掌握
天復元年(901年)
鳳翔の岐王
李茂貞
より漢中を奪い
天復二年(902年)
山南西道を手に入れ
天復三年(903年)
蜀王に封ぜられる
天祐四年(907年)
唐が後梁に滅ぼされ
後梁の支配を嫌い
皇帝を称して
元号を
天復と改め
国号を
大蜀
と定めた
前蜀・・・
↓↑
塩や鉄を豊富に産出する地域
農業振興と水利事業を推し進め
与民休息の政策を実現
多くの文人が平和を求めて
前蜀に移動し
彼らを保護する
文化振興政策も実行したが
国内への監視で
尋事団と呼ばれる秘密警察で
不満分子を圧殺した・・・
ーー↓↑ーー
王建(オウケン)
北魏の軍人
本貫は
広寧郡
拓跋氏
の公主を妻に迎え
386年(登国元年)
外朝大人
和跋
ら
十三人とともに
迭典庶事をつとめ
計謀に参与
387年(登国二年)
道武帝が
濡源におもむくと
王建は
後燕の
慕容垂
のもとに使者
慕容垂は
王建の意気を認めた
王建、帰国後
左大夫
兄の
王回
とその子たちに
不法のことが多く
王建が実態をつぶさに報告し
王回父子は処刑
王建は
道武帝の征戦に従って
二十部あまりを撃破
劉衛辰との戦いに従軍し
戦功を挙げ
中部大人となった
395年(登国十年)
参合陂の戦い
に参加
戦勝の後
道武帝は捕虜とした
後燕の将士の処遇について
才能ある者を登用し
残りには
衣食を与えて帰郷させようとしたが
王建は殺害するよう進言
諸将がみな王建の意見に賛同し
道武帝は
任用しなかった
後燕の将士を穴埋めにした
396年(皇始元年)
王建は
後燕との戦いに参加
後燕の
広寧郡太守の
劉亢泥
を斬り
冠軍将軍の号を受けた
并州が平定され
道武帝が東方の
井陘に進出すると
王建は5万騎を率いて先鋒をつとめた
道武帝が常山に入ると
河北の諸郡は次々と
北魏に降り
後燕は
中山・鄴・信都
の3城を残すのみとなり
衛王
拓跋儀が鄴を
王建が信都を
おのおの5万の兵で攻撃
王建らは
六十日あまりも城を攻めたが
陥落させられず多くの死傷者を出した
道武帝が
中山から信都に向かうと
後燕の
冀州刺史の
慕容鳳
が夜間に城を抜け出し
信都は
北魏に降った
道武帝が鉅鹿に入ると
慕容宝
を
柏肆塢
で撃破し
中山を包囲
慕容宝
が城を捨てて
和龍に逃れ
中山の城内は混乱
東門が閉められていなかったので
道武帝はこれに乗じ
夜間に城に乗りこもうとしたが
王建が兵士による略奪を恐れ
夜明けを待つよう願い出
道武帝は入城を取りやめ
この夜のうちに
中山の城内では
慕容詳が主として擁立
混乱は収拾されて門は閉ざされた
道武帝は連日攻め立てたが
中山城は落ちなかった
人を巣車に乗せて
城内に投降を呼びかけさせたが
中山の人々は
参合陂で投降した兵士のような投降を拒否
道武帝はこれを聞いて
王建の顔面に唾を吐きかけた
中山が平定されると
王建は
濮陽公の爵位を受けた
398年(天興元年)
烏丸
の
庫傉官鳴が反乱
王建はこの乱を討って平定
太僕に転じ
真定公の爵位を受け
散騎常侍・冀青二州刺史
の任を加えられた
死去後
金陵に陪葬された
子に
王斤
王建の兄の
王豆居
の
即丘侯の爵位を嗣ぎ
淮南公・鎮西将軍となったが
不法のことが多く
太武帝のときに処刑
ーー↓↑ーー
王建 (唐)
唐代の詩人
ーー↓↑ーー
高麗の創始者
太祖
877年~943年
在位
919年~943年
ーー↓↑ーー
王建(おう けん)
?~830年?
唐の詩人
潁川(えいせん・河南省許昌市)の出身
字は仲初
775年(大暦十年)
進士に及第
ーー↓↑ーー
三国時代の
軍閥
公孫淵の臣
公孫淵が
燕王を称すると
燕の相国
公孫淵(こうそん えん)
?~景初二年(238年)八月二十三日
中国三国時代の武将
字は
文懿
祖父は
公孫度
父は
公孫康
叔父は
公孫恭
兄は
公孫晃
子は
公孫脩
遼東の地で自立し
燕王と称したが
魏の
司馬懿によって
追討され滅んだ
ーー↓↑ーー
西晋代に編纂された
史書『三国志』
では
西晋の
高祖
司馬懿の避諱により
字が省略
唐代に編纂された
史書『晋書』
では
唐の高祖
李淵の避諱により
公孫
文懿
と表記
ーーーーー
王建
中国
陝西省
京兆郡出身の
康叔の次男
康侯の
六十七代子孫の
康虎景の息子が
康忠で
息子は
伊帝健
宝甸
康宝育
の三人
康宝育は
姪の
康紱州を娶り娘の
康辰義をもうけ
康辰義と中国人とのあいだに生まれたのが
王帝建
↓↑
王帝建の父の中国人は
唐の皇族で
『編年通録(韓国語版)』
『高麗史節要』では粛宗
『編年綱目』では宣宗
父の中国人が新羅に来た時に
康宝育の娘の
康辰義との間に
王帝建が生まれた
王帝建は、
父を探しに唐に行くため
黄海を渡河していた途上
西海龍王の娘の
龍女(後の元昌王后)と出会い
王帝建は
西海龍王の娘の
龍女(後の元昌王后)の駙馬となる
『聖源録』によると
西海龍王の娘の
龍女(後の元昌王后)
というのは
中国平州出身の
頭恩坫角干の娘のこと
王帝建と西海龍王の娘の
龍女(後の元昌王后)との間に
息子の
王隆が生まれる
王隆は
松嶽(開城)を拠点に
半島西南の海岸部で貿易で財をなす豪族となる
王建は
新羅
憲康王三年(877年)一月三十一日
王隆
と
威粛王后(一説に智異山聖母)
との間に生まれた
↓↑
『高麗史』
康虎景は白頭山を越え
南側(開城)へ移住して来た
昔の高句麗の流民
高麗が高句麗の
後継国家であることの
王朝起源譚
王建は、朝鮮を統一するために
女真人から安定的に
馬を入手する必要があり
女真人の馬の貢納を促すために
高句麗の継承を標榜した
高句麗継承意識は高麗だけでなく
渤海人
や
女真人にも受け継がれた・・・
「国初以来の『北進政策』によって
高麗の領域は
鴨緑江下流域にまで北上
↓↑
龍の後裔説
王帝建は
西海龍王の娘の
龍女を妻に迎えて
王隆を生んだ
「聖源録」によると
王帝建の妻が
西海龍王の娘の龍女というのは
中国平州出身の
頭恩坫角干の娘
↓↑
歴史雑誌『東北史地』2007年第3号
933年
後唐の
明宗が
王建に送った
冊封詔書などを根拠に
王建は
中国・淮河流域から来た
漢人の末裔・・・
冊封詔書の
「卿(王建)は長淮の茂族」
という一節があり
史長楽は
「長淮は淮河流域を意味」
王建の本籍地が中国であるため
高麗は中国人が建国した・・・
「朱蒙が開国した地の
よい縁起を追ってその軍将になり
箕子が作った蕃国の形跡を
踏んで幸福と和楽を得る」
「王建の建国を
朱蒙の開国と
箕子の立国に
直接比喩したのは
朝鮮半島の歴史で二人に続いて
もう一人の中国出身統治者が生まれた」
↓↑
ヤク=牛巤・・・巤+α→蠟儠䝓臘鬣擸邋㲱獵鑞
ヤク=犛=未攵厂牛=犛・・・漦=涎子(よだれ)
↓↑
蝋=蠟=年をとること・年寄り
律令制で六一歳から六五歳まで
(後、六十歳~六十四歳まで)の者
臘 虎-膃肭 獣 猟 獲 取 締 法
(らっこおっとせいりょうかくとりしまりほう)
明治45年法律第21号)日本の法律
ーー↓↑ーー
「王建=キビ(黍・稷)」・・・吉備?
を意味する
土着固有語に漢字を当て字したもの?
ーー↓↑ーー
後高句麗を建国した
泰封王である
弓裔に従い
松嶽城主
鉄原太守を歴任し
西南海域の
水軍を統率して活躍
後高句麗は
新羅や後百済に対して優勢だった
王の
弓裔
は自らを
弥勒菩薩と自称し
仏教の神秘性を利用して権威を高め
弓裔が部下に対して
傲慢で乱暴な暴君になったため
918年
弓裔の部下
洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜智謙
らは
弓裔を追放し
易姓革命を起こして
王位を奪い
王建
を新たな指導者として擁立した
ーー↓↑ーー
王建
高麗建国の人物
太祖(在位918~943年)
936年に朝鮮を統一
新羅の末期に
反乱軍の首領
弓裔(きゅうえい)の部下
弓裔が地方政権を樹立すると
その首相格となった・・・
918年
王建は
松嶽郡に遷都
郡を開州に昇格
高麗の後継者を自称して
国号を高麗
年号を天授
と定め
920年
後百済に圧迫されていた
新羅の
景明王に信書を送り同盟を結ぶ
926年10月
後百済は
新羅の首都である
金城(慶州市)を占領
景哀王は自殺
後百済と一進一退の攻防
930年から
高麗は反撃
古昌郡で
後百済を大敗させた
933年
後唐に朝貢
王建は
高麗国王
に任じられた
934年
後百済は休戦を申し入れ
王建もその気になったが
老将の
庾黔弼
一人が反対
王建は庾黔弼の意見を採用
後百済軍を打ち破り
熊津(公州市)以北の地を手中に収めた
935年
後百済で王位継承による内紛
936年
初代王である
甄萱が高麗に投降
935年
新羅最後の王
敬順王(金傅)
が高麗に帰順
後百済の内紛に巧みに介入した
王建は
936年
朝鮮半島の統一
王建は
前王朝の
新羅の貴族や豪族の多くを家臣として加え
それらを
府・州・郡・県
に分けて地方をそれぞれ治めさせた
中央は三省六官
九寺にして
中央集権化を確立
ーー↓↑ーー
遼に滅ぼされた
渤海の遺民受け入れや植民に尽力
国内の復興と発展に努めた
中国の王朝に対して
五代の王朝に相次いで朝貢
冊封されることで友好関係
日本の朝廷に対しても
二度にわたって使者
友好と通商を求めたが
日本側は拒絶
ーー↓↑ーー
943年
67歳で死去
死の1ヶ月の前に4月
高麗の後代王たちが
必ず守らなければならない教訓として
「訓要十条」
を作り
側臣だった大匡の官職の
朴述熙
に伝えた
ーー↓↑ーー
仏教を崇尚
道先大師の
風水地理説によってだけ
寺を作る
王位継承は
特別な場合ではなければ
長子を先にする
中国の風習にむやみに従おうとせず
契丹は蛮族なので遠ざける
西京(平壌)は
我が国の支脈の根本で
王は年に100日以上ここにとどまる
仏に仕える
燃燈会と
山河の神に仕える
八関会をよく行う
臣下と民に対する
賞罰を公平にする
車嶺山脈以南(湖南地域、百済の故地)
の人々をあまり登用しない
臣下と軍人の給料は
むやみに増減せず
平安な時であればあるほど脆弱さを忘れない
王はいつも自らを磨き上げることに力を尽くす
この十戒は
皆「心の中に深くおさめること(中心蔵之)」
という君の字で結ばれており
後代の王たちは
後継者から後継者へと伝えて宝物にした
ーー↓↑ーー
旧百済の地域の者の登用を忌避したのは
後百済の内紛で
父子が対立したためであり
儒教道徳的には許されないものであった
この偏見は後まで継承され
全羅道差別
という地域差別問題となって残った
ーー↓↑ーー
『高麗史』
王建の死
太祖は
天受二十六年(943年)五月二十九日
病が重くなると
神徳殿に挙動して遺言を作る
ーー↓↑ーー
高麗
400年以上続いた
太祖は即位後
新羅や後百済の征服が未完了で
南方の備えが不安定だった状況下で
あえて
西京(平壌)も越えて直接北の国境地帯を巡察
高句麗の継承王朝とし
旧領を取り戻す北進政策の
拠点や財政源の確保
ーー↓↑ーー
訓要十条
太祖自身は
契丹(遼)に対して
敵対的な立場を表明
契丹が渤海を滅ぼした事に
激怒した太祖が
契丹から送られてきた
駱駝50匹を飢え死にするまで
開京の万夫橋にぶら下げ
その使臣30人を島に流して幽閉
ーー↓↑ーー
年表
901年 弓裔、国号を後高麗とし、自ら国王を称した。
干支=辛酉年
日本 昌泰四年、延喜元年
皇紀1561年
中国 唐 天復元年
南詔 中興五年
朝鮮 後百済 正開二年
日本の三代実録が完成
菅原道真が
右大臣から
大宰権帥に左遷
909年 弓裔、珍島を奪う
911年 弓裔、後高麗の国号を
泰封に改める
918年 弓裔の部下であった
王建、謀反
王建は自ら高麗人の末裔と称し
国号を高麗とし
都を開城に定めた
918年 後百済の
甄萱
が使節を送り和議を結んだ
924年 甄萱の子の
須弥強
が高麗の
曹物城を攻める
925年 後百済と高麗の間で和議が成立
人質を交換
930年 甄萱と王建、古昌郡瓶山麓で戦い
王建が勝利
933年 唐、高麗に使を遣わす
高麗、唐の正朔を奉じる(高麗史)
935年 新羅滅亡
新羅の
敬順王の娘が
王建の妻となる
936年 王建
一善郡一利川の戦いで
後百済を滅ぼし
朝鮮半島統一
942年 契丹が
高麗に使を遣わすが
その使を島に流す(高麗史)
ーーーーー
・・・???・・・
新燃岳大噴火・・・タヲリ(嶼)は尾根・鞍部・山の稜線
・・・「新燃岳大噴火(2300メートル)の火山灰の雲による災害」・・・「韓国岳~新燃岳~高千穂峰」・・・天孫降臨=邇邇藝命が高天原から日向国の高千穂峰の久士布流多気(くじふるたけ)へ真床追衾に包まって天降(あまくだ)った(今平訖葦原中國矣 故汝當依命下降而統之・此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也・古事記)・・・「王建」の「主訊」・・・「金弓裔(キンキュウエイ=緊急英・筋究嬴・禽求裔・金武扱瀛=第四〇代天武天皇・在位二年二月二十七日(673年3月20日)~朱鳥元年九月九日(686年10月1日)・大海人(おおあまの)皇子・和風諡号、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)」・・・「裔=エイ=嬴=瀛(おき)」・・・
「弓(ゆみ・キュウ)」の
「裔=衣+冏=すえ・エイ・遠い子孫・後裔・神裔・苗裔・末裔・余裔・血筋の末・子孫・遠い辺境・四裔・着物のすそ(裾)」・・・「種族の系統をひくと思われる人末々・後胤・苗裔・余胤・子孫・葉末・末ずえ・後昆・後葉・末孫・後裔・余裔・末末・末流・孫子」・・・
「弓(ゆみ・キュウ)=武器(飛び道具)の一・木や竹を撓(しな)らせて弦 (つる) を張り、その弾力を利用し、つがえた矢を飛ばすもの・矢を射ること・弓術・射術・曲がった形のもの」・・・
「撓=扌+堯・扌+垚+兀・扌+垚+一+儿=しなる・しわむ・たわむ・弯曲・棒や枝に力が加わって弓形に曲がる」・・・
堯(たかい・たかし)=尭(十艹兀)=ギョウ=
兀=たかい・コツ・ゴツ
高くつき出たさま
兀立=屹(キツ)
一所懸命・兀兀(こつこつ)
人(儿)があたま(一)を
つき出している
丌=(その・それ・だい・キ・ギ・ゴ)
は別の字
几=(つくえ・キ)
π=(pie・パイ)
夌(しのぐ・こえる・すたれる)=リョウ=凌(しのぐ)・錂(金の名)・稜(かど・すみ)・棱(角材)・陵(おか)・綾(あや)・蔆(ひし・水草)・崚(けわしい)・・・
「弓」の形状に類字する文字は「阝・B・β・ε・3・Э・(・〔・D・C」・・・「山の尾根などのタワンで低くなった所(凹・m・ω)・鞍部・たわ」、「あしひきの山の(窪み・たわ・たをり)にこの見ゆる天の白雲(万葉集・4122)=m・ω」・・・
「峯の縁語のタヲリ(嶼)は尾根・鞍部・山の稜線」・・・
「嫋(たを)やか=女+弱(コ+l+コ+l+羽
己+己+羽
弓+=+弓+=
弓+冫+弓+冫」
「冫=冰(氷)の原字」
「弱=二十歳・若い」
「嫋=たおやか・柔か・物柔らか・円い・柔らかい・静やか・穏便・閑やか・穏和・柔かい・軟らかい・穏やか・優しい・もの柔か・もの柔らか」・・・
「弱+α=溺・嫋・蒻・鰯・鶸(弱鳥)」・・・
「蒟蒻(こんにゃく)・搦(から)める・嫋(たお)やか)・嵶(たわ)む・鶸(ひわ)」・・・
「嵶(山+弱)=峠(とうげ)=たお・たわ=尾根」・・・
「強弱」・・・
「弖(て)=日本語の助詞・4つ弖爾遠波(てにをは)の弖(て)」・・・
「弖(弓+一)=氐(氏一)」で「氐が変形したもので国字」・・・「阿弖流為(アテルイ)」・・・「当てる意・宛てる意・中てる意・充てる意・當てる意」・・・
「草臥(くたびれる)」なぁ~ッ・・・苦旅麓留・・・句多尾(備・靡・毘・鸍・娓)例・・・
つかれたら、蕭(よもぎ=蓬・艾・蔞・蒿・蓬生)で「お灸」・・・
ーーーーー
金の弓の裔・・・裔=衣の冏(あな・穴・明り取り・窓)
弓裔(キュウエイ)
後三国時代の群雄のひとり
後高句麗の建国者
姓は金
僧号は善宗
隻眼であったことから
一目大王との別称
専制的な暴政
豪族たちとの対立が先鋭化し
918年の「易姓革命」で
侍中であり有力な部下であった
王建に追放された
↓↑
『三国史記』
新羅の
第・・・・・・・・第=竹+弟
四十七代国王・・・四拾七=壱拾壱=11
憲安王・・・・・・憲の安の王
或いは
四十八代・・・・・四拾八=壱拾弐=12
景文王・・・・・・景の文の王
の側室の子・・・
日官は王に・・・・日の官
「赤ん坊は
重午日・・・月の初めの午(うま・馬)の日
↓↑ 午(ご)と五(ご)の同音
毎月午(5)日を指す?
特に5月5日(端午)・・・単語・丹呉・丹後
反後・田子
ごがつ
語解通・漁丹治
十二支の寅を正月とする「夏暦」で
↓↑ 五月は午の月・午(ゴ)が(五)に通じ
陽数の重なりを重んじた
五月五日=端午の節句(夏至に近い)に
毒気を避けるため香りの高い菖蒲や蓬
種々の薬草を摘む習俗があった
日本古代の薬猟は
百済を経由して伝えられた
高句麗の宮廷で
三月三日に行われていた
鹿狩りの風習が併せて取り入れられ
推古朝の宮廷行事と成立した・・・
午=十二支の第七・時刻の正午
を
重五、重午、端陽?
旧暦五月は
伝染病や
↓↑ 「虫害」の悪月で邪気の月
に生まれただけではなく
出生時の空がおぼろだったことや
生まれたばかりなのに
歯が生えているところが
不吉である」
といい、王は弓裔を殺すように命令した・・・
兵は赤ん坊の弓裔を殺せず
宮殿の下に投げ捨てたが
下で乳母が転落する弓裔を助けたが
その際に乳母の指が目に刺さり
隻眼(片目・一つ目)になった
乳母は弓裔と都から遠くに逃亡し
貧窮のなかで実の母として弓裔を育てた・・・
弓裔が十歳頃
乳母は周囲と悶着を起こしてばかりいる
弓裔に
出生の秘密を告げ
「あなたは王室の子として生まれ
殺されるところだったのを気の毒に思った
それであなたを命をかけて育てたのに
あなたは毎日騒動を起こして
私に心配ばかり
懸(かけ・掛・縣・賭)ている
それが悲しい
あなたの正体が知られると
私たちは殺されるのですよ」
と言った
弓裔は泣きながら
「私が悪い
もう二度と
母上に心配をかけることはないだろう」
と言って家出した
世達寺(慶尚北道開豊郡)に入り
僧侶になって
善宗と称した
斎戒に行く途中で
↓↑
カラス(鴉・烏)が
くちばしに
くわえていたものを
彼の
托鉢の鉢の中に落とした
みると
「王」と記された象牙の札であった
これが
弓裔が一国の王となる
野望の契機となった・・・
↓↑
新羅は
均田制が乱れ、凶作が続き
各地で豪族たちが反乱
国土を分割しつつあった
891年
弓裔は
竹州(チュクジュ・安城市)
永同に拠点を持った盗賊の
魁帥
箕萱(キフォン)の部下になったが
箕萱・・・箕(み)=竹+其
↓↑ 萱(かや)・・・・伽耶
箕=選別用農具(農作業の手作業用具)
手箕(てみ)・ちりとり(塵取)
穀物の選別や運搬に使う農具
竹皮、藤皮、桜皮などを編んで
平らな容器状にし
周囲に竹や細木を結んで
U字状の縁をつけ穀物を入れて
両手で軽く煽(あお)ると
皮は吹き飛び、重い穀類が残る
竹箕は竹で主要な部分を
網代(あじろ)編み
笊(ざる)編みにしたモノ
箕造り、箕直しと呼ばれる
山窩(サンカ)などよって
供給され
山形県の
次年子(ずねんこ)
代(たらのきだい)、
東北地方には村中が
箕づくりを業としている所もあった
米を簸る箕
泉州上村より多く之を作り出す・・・
水簸(スイヒ)=砂金を分別採集に使用
↓↑ ↓↑
萱(忘れ草=食べれば、憂いを忘却
かや・ケン)
かや=蚊帳
=蘐・藼・萲・蕿・榧
萱=艹+宣
茅=艹+矛
茆=艹+卯
(すすき=芒・薄
ちがや=茅
すげ=菅・管
などの
屋根を葺(ふ)くのに
用いる草の総称)
↓↑ ↓↑
-うがや-ふきあえず
(日子波限建-鵜 草-葺 不合命(みこと・メイ)
彦波瀲 武-盧茲草-葺 不合尊(みこと・ソン)
-鸕鷀草-葺 不合尊(みこと)
附記不合 (見事・名・孫)
父は彦火火出見尊
母は豊玉姫
子供は
↓↑ 五瀬命・神日本磐余彦尊(神武天皇)
↓↑
は無礼であったので
元会・・・元の会
申煊・・・申の煊(暄と通用・煊赫(名声)赫々)
煊(暖かく広がる・ケン・カン)
らと結託し
その下を去り
892年
北原の
梁吉
(ヤンギル)
↓↑・・・梁(はり・リョウ)
↓↑ 梁=渉るが語源
渉猟の魚を捕る
魚を捕るしかけ
「簗(やな)」と同義
梁=樑
建築で柱の上に渡す横木
建(たける)を
築(きずく)
柱(命)の上に渡す
横(よこしま)の
木(き・ボク・モク・十八)
木造建築での
ハリの部材で
軸力が作用する
構造物の部材の種類
算盤の
1の珠と5の珠の間の横木
↓↑ ↓↑
大梁=開封の古名
梁書=リョウショ=良書
↓↑ ↓↑
魏が大梁に遷都したのちの国号
南北朝時代に
蕭衍(武帝)が建てた王朝
(502年~557年)
↓↑ ↓↑
後梁 (南朝)
南北朝時代に
蕭詧(宣帝)が建てた王朝
(554年~587年)
↓↑ ↓↑
隋末に
梁師都が建てた政権
(617年~628年)
↓↑ ↓↑
隋末に
蕭銑が建てた政権
(618年~621年)
↓↑ ↓↑
後梁
五代十国時代に
朱全忠が建てた王朝
(907年~923年)
↓↑ ↓↑
梁は
春秋時代の諸侯国の一
姓は嬴(エイ)
同族の
秦の
穆(やわらぐ・ボク・モク)公に
滅ぼされた
↓↑ ↓↑
梁吉 梁・・・高粱=蜀黍・唐黍
高粱酒=白酒 (パイチュー)
が
↓↑ 吉(十一口)
の部下になった
↓↑
完山州を拠点に
朝鮮西南部を支配した
甄萱・・・甄(すえ・ふるう・シン・ケン)
陶器をつくる職人=埴師
戦の陣形の見極め
甄=西十一瓦=鄄
鄄=西土の邑
甄=優劣、真偽などを鑑定する
審査する、見分ける
甄氏(シンシ)
183年(光和六年)一月二十六日
~
221年(黄初二年)八月四日
魏の初代皇帝
曹丕(文帝)の妻
諡号は
文昭皇后
甄(鄄)の萱(かや・セン)
の
後百済
都の慶州付近を維持する
新羅と
鼎立し
後三国時代
↓↑
893年
梁吉
の部下を従えて
酒泉(醴泉)・・・・・・・酒の泉
奈城(ネソン・寧越)・・・奈(奈何・如何)の城
などを攻略
江原道、京畿道、黄海一帯を攻略
多くの兵力を集め
半島中部地方で独自な勢力を形成
894年
溟州(江陵)
↓↑・・・溟=くらい・メイ
↓↑ 小雨が降って暗い
細かいぬか雨・小雨
溟濛
海・大海・あおうなばら
溟海・滄溟・南溟・北溟
須佐之男(素戔嗚)が
支配すべき世界は
母の國の「冥界」ではなく
↓↑ 「あおうなばら」の「溟海」
を占領
3500の兵を得て
14の部隊をつくった
弓裔・・・弓の裔=衣+冏(あきらか・窓・ケイ)
冏(冂+㕣)=冂+八+口
=冂+儿+口
は
自分自身に従う人々や
兵士と苦楽をともにし
戦利品の分配など
公平であったので
人望を得た
彼は自らを
世界が終わる日に
新しい世界へ導くという
「弥勒(みろく)」・・・見録?
であるとし
人々は
弓裔が自分たちを
救済してくれると信じ
独立勢力の指導者に推した
続いて
江原道・黄海道・京畿道一帯を攻略し
鉄円(鉄原)・・・鉄円=金を失う円(圓)?
を拠点に
独立国としての体制を整えていった
895年
梁吉
は自分の娘を
弓裔に嫁がせ
弓裔の急速な勢力の拡張に
黄海道西部の豪族たちが次々と投降
松嶽(開城)の豪族の
王建が投降
王建を
鉄原郡太守に任命
896年
王建に命じて
僧嶺・臨江の2県を
897年
仁物県・・・仁物を県・・・イ(人)二、物を懸ける?
を攻略
898年
国原(忠州)・清州(温陽)
など
30余州を陥落させ
半島中部を占拠する形勢となった
北原の
梁吉は
弓裔を倒そうとし攻撃したが
弓裔は梁吉の軍勢を打ち破った
↓↑
松嶽を拠点に勢力を拡大
901年
↓↑・・・干支=辛酉年
↓↑ 日本 昌泰四年
延喜元年
皇紀1561年
中国唐 天復元年
南詔 中興五年
朝鮮
後百済 正開二年
↓↑ ↓↑
日本三代実録が完成
菅原道真が
右大臣から大宰権帥に左遷
↓↑ ↓↑
昌泰の変(ショウタイのヘン)
901年(昌泰四年)一月
左大臣藤原時平の讒言により
醍醐天皇が
右大臣
菅原道真を
大宰員外帥として大宰府へ左遷
道真の子供や
右近衛中将源善
らを左遷または流罪にした
↓↑ ↓↑
901年2月18日
サービト・イブン・クッラ
(Thābit ibn Qurra)
826年~901年2月18日
アッバース朝時代
バグダードで活躍した
天文学者・数学者
ラテン語名は Thebit(テービト)
メソポタミア北部(現トルコ領)
ハッラーンに生まれた
当時のハッラーンは
ギリシア系文化の中心地
サービトの一族は
星辰崇拝者(偽サービア教徒)だった
成人後は両替商だった・・・
バグダードの「知恵の館」で学び
活動
アッバース朝のカリフ
ムゥタディドの治世に庇護を受け
宮仕えし、個人的な友人にもなった
サービトは
数学、天文学、占星術、魔術
工学、医学、哲学に通じ
母語はシリア語であったが
ギリシア語にも堪能
バグダードで翻訳家として活動し
ギリシア科学の文献を
アラビア語に翻訳した
アポロニオス
アルキメデス
エウクレイデス
プトレマイオス
などの著書がある
数論の分野で
友愛数の組を求める数式の発見者
『友愛数の定義についての書』
という著者の中で、公式を説明
代数問題を幾何的に解く価値に注目
『代数問題についての
正しい幾何学解』
という著書で
エウクレイデスの定理を用いて
方程式に幾何学上の証明を与えた
ピタゴラスの定理を
全ての三角形に適用できるように
図形を分割して一般化した
この他に
球面三角法
エウクレイデスの平行線公準の証明
アルキメデスの放物線の求積法
などを研究
天文学で
歳差運動を
分点の秤動で説明しようとする
「トレピダチオ説(trepidation)」 が
サービトに帰されると考えられている
ニコラウス・コペルニクスによれば
恒星年を非常に
精度よく求めた・・・
↓↑
曹 松(そう しょう)
830年?~901年?
詩人・字は夢徴・豫州の人
↓↑ 洪州の西山で隠遁生活を送った
弓裔は
自らを王を称し
後高句麗を建国
↓↑
弓裔は
904年
国号を
摩震
↓↑・・・摩=する・さする・こする・触れる
摩擦・摩滅・按摩 (あんま)
肩摩・減摩
揣摩 (シマ)=読心術
接触するほど近づく
迫る
摩天楼
摩訶 (まか) ・摩尼・護摩
の
震=(雨辰)=ふるえ
と改め
年号を
武泰
とし
都を
松嶽から
鉄原に移した
聖冊二年(906年)
↓↑・・・聖(ひじり)の冊の二の年?
↓↑ 丙寅年
日本 延喜六年
皇紀1566年
中国
唐 天祐三年
十国
呉 天祐三年(唐の元号)
南詔 安国四年
朝鮮
後高句麗 聖冊二年
↓↑ 後百 済 正開七年
後百済軍を
尚州の
沙火鎮で迎え討って勝利
聖冊六年(910年)
王建に
水軍を与え
西南海上に派遣し
以下は・・・跳びます・・・
ーー↓↑ーー
「秋、九月乙丑
晋の趙盾(チョウトン)、
其の君、夷皐(イコウ)を弑(シイ)す」
(春秋・宣公二年・前607)
「晋の夷皐(霊公)殺害を記録」
「董狐(トウコ)の筆」・・・
晋の趙穿(チョウセン)が
桃園に攻め入って
霊公を弑した
趙盾が趙穿の反乱を知った時
彼はまだ国境の山を越えていなかったので
そのまま晋に引き返した
すると、歴史官が
「趙盾がその君を弑した」
と記録して朝廷に報告
趙盾が
「事実と違っている」
と言うと
歴史官は
「あなたは晋の正卿です。
それなのに亡命しようとしたあなたは、
逃げても国境を越えられず、
戻ったのに
君主殺害の賊(趙穿)を
討伐しようともしませんでした
この責任は貴方になくて
誰にあると言うのですか」
と趙盾に迫った・・・
↓↑
趙穿は趙盾の従兄弟
霊公を攻めて殺したのは
趙穿で
歴史官は
「趙盾が君主(霊公)を弑殺した」
と記録
趙盾は抗議
趙穿の反乱があった時
趙盾はまだ国境を越えていなかった
国境を越えないで
そのまま帰国したのであるから
趙盾には
霊公殺害の犯人を捕らえるという
君臣の義がある
これに趙盾は反論できなかった
歴史官は
董狐という人物
孔子は趙盾の罪を隠すことなく記録した
董狐を「古(いにしえ)の良史なり」
と称えた。
「董狐の筆」は
事実を
忌憚なく直筆する良史の代名詞となった
だが董狐を称えただけではなく
趙盾にも
「古えの良大夫なり」
と賛辞
趙盾が
「事実を事実として記録する」
という歴史記録の鉄則を認めて
弑君の汚名を甘受したからである・・・
「惜しいかな、もしこのとき
趙盾がすでに国境を越えてしまっていたなら
この罪を免れていたであろうに」
と。国境を越えてしまえば
趙盾と霊公との間の
君臣関係はすでに消滅
趙盾が
非難されることもなかった・・・?
晋の霊公は
君主としては失格で
霊公は
国民に重税を課し
自ら贅沢三昧
残虐な性癖だった
趙盾は
霊公を諌めたが
改めようとしない
度々諌める趙盾を
暗殺者を仕向けて
趙盾を殺そうとした
不首尾に終わると
霊公は酒宴を設けて
趙盾を罠に陥れようと謀ったが
辛うじて難を逃れた趙盾は
宴席を脱出し国外亡命しようとした
趙盾が国境を越えてしまっていたなら
弑君の汚名を被ることもなかった
国境を越えなかった
歴史官の
董狐はこの事実に基づいて
「趙盾が君主を弑殺した」
と記録した・・・???・・・
実行犯の問題か?、責任者の問題か?・・・
従兄弟の
「趙穿」の立場はどうなのか?・・・
「辛酉革命」では・・・
「君臣関係」の枠では「君主臣従」・・・
ーー↓↑ーー
(弓裔は王建に命じ)
ーー↓↑ーー
珍島
皐夷島・・・皐(さつき・コウ)夷=高耳?
皐=高?
夷=耳?
「皐=白=十=」は俗字で
正字は「皋=白+一+人+十」
皐=さわ・さつき・コウ
異体字は皋
さわ(沢)・きし(岸)・水際・水辺
五月の異名・さつき
皐魚の泣(コウギョのキュウ)
親の死を嘆き悲しんで泣くたとえ
「夷皐=霊公」・・・
「皐夷の文字が上下逆位置」だけれど?
を攻略
錦城(羅州)を奪って
甄萱を牽制
弓裔の勢力は
南は公州
東北は甑城(安辺)
西北は黄海道・平安道
まで及んだ
↓↑
聖冊七年(911年)
国号を
泰封・・・泰(タイ)の封(フウ)
年号を
水徳萬歳・・・水の徳
萬の歳・・・太安萬(万)侶
と改元
自らを
弥勒菩薩と称し
長男を
青光菩薩・・・青光菩薩=多羅仏母・救度仏母
手に青い蓮の花を持つ菩薩?
東北大学大学院農学研究科
堀雅敏准教授の研究グループは
青色光を当てると
昆虫が死ぬことを発見・・・?
次男を
神光菩薩・・・神光菩薩=密教の道教神
華光大帝(馬霊官)?
と呼ばせた
弓裔には
粗暴なふるまいが多くなり
「高麗史・太祖(王建)」の項によると
弥勒観心法と称して
人々の本性を探り出すことに熱中し
三尺の鉄棒を熱して
拷問殺害を繰り返し
特に女性の不道徳を嫌って
多くの女性を処刑した
弓裔の横暴を諌めた
康王后も不倫を疑われて
陰部を熱した棒で貫かれ殺害され
二人の息子も殺された
その他
多くの臣下を殺し
人心を失った
政開五年(918年)
部下の
卜智謙・・・卜(占い)の智謙
申崇謙・・・申(サル・申す)の崇謙
洪儒・・・・洪(氵共)の儒
裴玄慶・・・裴(たちもとおる・ぶらつく)玄慶
裴=長い衣
裴世清=隋の煬帝の命令で
俀國(倭国)に訪れた使者
らが謀って
王建を王に推戴
王位から逐われ
弓裔は
逃亡する途中
飢えで
畑の作物を盗もうとして
村人に発見され
平康・・・平の康・・・北朝鮮
カンウォン (江原) 道の
南部にある町
で殺害された・・・「夷皐=霊公」を「弓裔」に重ねた?
↓↑
王后
王后康氏(?-915年)
弓裔によって殺害
子女
青光菩薩(?-915年)
弓裔によって殺害
神光菩薩(?-915年)
弓裔によって殺害
ーーーーー
942年
契丹が
高麗に使を遣わすが
その使を島に流す(高麗史)
ーーーーー
942年
干支=壬寅年
日本 天慶五年
皇紀1602年
中国
五代
後晋 天福七年
十国
南唐 昇元六年
呉越 天福七年(後晋の元号)
閩 永隆四年
南漢 大有十五年、光天元年
楚 天福七年(後晋の元号)
荊南 天福七年(後晋の元号)
後蜀 広政五年
遼 会同五年
于闐 同慶三十一年
誕生
源信 天台宗の僧(942~1017年)
藤原為光 公卿(~992年)
劉碭 十国・南漢の末代皇帝(942~980年)
死去
石敬瑭 十国・後晋の初代皇帝(942~892年)
劉龑 十国・南漢の初代皇帝(942~889年)
ーーーーー
・・・???・・・
918年の年表記事
死去
王建=五代十国時代の前蜀の初代皇帝(847年~)
弓裔=後高句麗の王 (857年?~)
蕭敵魯・・・蕭の敵の魯(魚日)・・・
遼の外戚
蕭胡母里の五世の孫
母は徳祖の妹
淳欽述律皇后は
敵魯の姉
耶律阿保機の側近
阿保機が即位すると
敵魯は弟の
蕭阿古只・・・蕭(ショウ・セウ・もの淋しい・疲れている
よもぎの一種
蕭艾・蕭蕭・蕭条・蕭然)
阿(阝可)の古(十口)の只(口八)
耶律釈魯・・・耶(耳阝)の律(彳聿)の
釈(解釈)の
魯(魚日)
耶律曷魯・・・耶(耳阝)の律(彳聿)の
曷(なんぞ・いずくんぞ)の
焉・烏・渠・胡・奈
魯(魚日)
らとともに
宿衛を統べた・・・宿(やど)を衛(まもる)
敵魯は
北府宰相に任じられ
官を世襲
耶律阿保機・・・阿(ア)の保(ホ)の機(キ)
が
奚と
劉守光を征討したとき
敵魯は海浜の地を経略
耶律阿保機の弟の
耶律剌葛・・・剌(刺殺)葛(かつらぎ)
らが乱を起こし
敗れて北方に潰走すると
敵魯は軽騎を率いて追撃
楡河
でその一党を撃破
剌葛を捕らえた
のちに西南夷を討った
918年3月
死去
ーーーーー
・・・???・・・
「鉢かづきヒメ」の由来・・・「初瀬山の長谷観音にちなんで付けられた初瀬姫」・・・
・・・「シンもえだけ=新燃岳=シンネンガク=信念覚=申念臥句」・・・「申=さる=猿・猨・猴・猱・沙流」、「さる=狙→狙撃・狙(ねら)い撃ち」、「然(さる)=肉(月・舟・タヽ)+犬+灬()」→「しかる・しかり・しかし・しかして・しからば・しかるに」・・・「然程(さほど)・然迄(さまで)・然様(さよう)・然様奈良(さようなら)・然(さ)りとて・然(しか)し・然々(しかじか)・然(しか)も・然(しか)り・然可(しかるべ)き・然諾(ゼンダク)」・・・「然=そのとォ~り・肯定や同意を示す語・然諾・当然・状態を表す形容詞のあとに添える語・厳然・突然・接続の助字・もえる→燃・啞然・已然・依然・隠然・果然・敢然・毅然・偶然・決然・厳然・公然・忽然・雑然・釈然・純然・整然・全然・騒然・泰然・断然・超然・天然・自然・同然・突然・漠然・判然・必然・憤然・平然・茫然・漫然・未然・猛然・悠然・翻然・本然」・・・「糸を撚(よ)る・撚糸」・・・「縄(なわ)を綯(な)う」・・・ワンサカあるのは自然だから・・・
「シンネンガク=新撚(捻・粘・禰武・音務)學」?・・・
「御鉢=火常峰」・・・
「鉢(ハチ・ハツ)=金+本=梵語pātra(ハッタラ)の音写、鉢多羅の略・仏道修行者の食器・僧尼が托鉢(乞食・コツジキ・コジキ=古事記)のときに所持する器(うつわ・キ)・応量器・鉢(ハチ・ハツ)の子・皿より深く碗 (ワン) より浅い、上部の開いた食器」、「鉢は出家者の最も基本的な所持物である六物(ろくもつ)の一つ・ハチの形、大きさ、材質、取扱方に細かい規定があった・概(おおむ)ね半球状で、材料は鉄」、「形状が似ているため頭蓋骨のことを鉢ともいう・頭の皿(脳天の平らな所)・日本の兜における頭頂部を覆う部分・処女(乙女)の女陰の異名を鉢、新鉢(あらばち)は処女(乙女)を指す」・・・「おとめ」・・・龍馬(坂本)の姉、お龍の小姑(こじゅうと)・・・
「鉢かづき姫」の名は、「初瀬山の長谷観音にちなんで付けられた初瀬姫」・・・「かづく=被く・かぶる」・・・
「鉢=盋=犮+皿」・・・「盋=㿽=八+丂+皿・兮+皿=小さな盆・口が開き底が平らな容器」・・・
「犮(走る犬)=ハツ=冹・坺・妭(女+犮=見目よい)・魃=(鬼+犮=日照り神)・𢇷・帗・拔(抜)・茇・柭・炦・祓・袚・翇・跋・軷・瞂・䳁(鳥+犮=水鳥の名、鴨に似て羽は五色)・鮁(魚+犮=さわら)・黻・髮(髪)」・・・「お祓い」・・・
「犮=ナ+乂+ヽ=犬+ノ=走る犬・除く」・・・
異字体は「𡗜=一+火」・・・「発火」・・・
類字は「龙=龍・竜・辰」・・・
類字は「友=ナ+又」・・・抜(ぬ)く・・・「抜擢・選抜」・・・
・・・「熊本」の「熊=能+灬」=「熋=能(ム月七七)+火=能(ム肉ヒヒ)+火」であるならば、「灬(烈)=火」・・・「羆(ひぐま)」・・・匕(牝)・ヒ(匙)・七(漆・7)・・・
ーーーーー
シンモエダケ=新燃岳=シンネンガク
↓↑
北緯31度54分34秒 東経130度53分11秒
高千穂峰・・・交撰保(補)法・・・
↓↑
御鉢(おはち・みはち)
九州南部に連なる
霧島山の
高千穂峰に付随する側火山
活火山
江戸時代以前は
「火常峰」・・・・ひのつねのみね?・カジョウホウ
と呼ばれていた
火口の形状が
飯櫃(めしびつ)に似て
「御鉢(おはち)」
とも呼ばれ
明治以降は
「御鉢」の呼称が一般的となった
火口内と西斜面は
鹿児島県
霧島市
北斜面は
宮崎県
小林市
南斜面は
宮崎県
都城市に属する
↓↑
火口壁の頂上付近は
絶壁
この上を通る登山道は
「馬の背越え」
と呼ばれている
「韓国(からくに)の見岳(からくにのみたけ)」・・・実際には山頂からは朝鮮半島を見ることはできない・・・地図上では「唐國=からくに=漢國」の「上海=申」・・・
北緯31度53分07秒・・・上海=申=北緯31度10分00秒
東経121度29分00
東経130度54分36秒
↓↑
火口東端
と
高千穂峰との間は
窪(くぼ)んでおり
馬の背のように見え
「背門丘(せとを)」
と名付けられている
背門丘は
天孫降臨の舞台であった・・・
海老野高原←韓国岳←獅子戸岳←新燃岳←中岳←高千穂河原←御鉢←高千穂峰←と縦走・・・
かつては
千里谷、
天河原
とも呼ばれていた
瀬多尾寺(霧島岑神社)があったが
噴火によってたびたび焼失
麓の
高千穂河原などへ移された
↓↑
霧島山
九州南部の
宮崎県と
鹿児島県県境付近に広がる
火山群の総称
霧島連山、霧島連峰、霧島山地、霧島火山群
とも呼ばれる
最高峰の
韓国岳(標高1,700m)
と
高千穂峰
の間や周辺に
山々が連なって山塊を成す
↓↑
高千穂峰
宮崎県
と
鹿児島県の
県境に位置する火山
霧島連峰の
第二峰
↓↑
霧島連峰の
第一峰である
韓国岳が
山塊中の
一峰であるのに比べ
高千穂峰は
都城盆地
平野部から
直接望まれ
都城盆地にしばしば発生する
雲海に対し山頂部が
島に見えることから
霧島の由来ともなった・・・
↓↑
山頂にある
青銅製の
天逆鉾が
霧島東神社の御神体
として崇められている
↓↑
ニニギノミコトが降臨したときに
峰に突き立てた
背門丘(セタオ・セトオ)
高千穂峰山頂
と
御鉢火口外縁東斜面
との間にある
鞍部
二つの峰をむすんだ
稜線上の凹所
に
霧島岑神社
(霧島山
中央
六所権現
・別当、瀬多尾寺)
が鎮座していたが
噴火により社殿が焼失
山麓の宮崎県側に
霧島東神社
狭野神社
鹿児島県側に
霧島神宮などに分社
霧島岑神社は
宮崎県小林市に遷座・・・
↓↑
坂本龍馬が
妻
お龍
とこの地を訪れ
天逆鉾を抜いたことが
竜馬の姉
乙女宛の書簡に残され
「日本初の新婚旅行」・・・
ーーーーー
・・・???・・・
猿=ましら・・・続日本紀に見える柿本朝臣「佐留」、歌人の「猿丸大夫」、上杉謙信の幼名「猿松」、前田利常の幼名「お猿」・・・日吉丸は豊臣秀吉の幼名・・・「猿」はラッパ、スパイ、間者、間諜・・・
軒猿(のきざる)=戦国時代の忍者
簷猿(のきざる)=軒下に猿のように潜んで
敵の内証を探る役
「日吉・庚申様・馬頭観音・猿田彦」
「厩猿(まやざる)」=厩に猿を飼う
「霧隠才蔵」
ーーー↓↑ーーー
霧島山(新燃岳)
平成二十九(2017)年・・・丁酉年
十月
十四日
十六時三十分
福岡管区気象台・鹿児島地方気象台発表
火口周辺警報(噴火警戒レベル3、入山規制)
新燃岳
活発な噴火活動
↓↑
享保噴火
1716~1717年・・・・1717年・干支=丁酉
↓↑ 日本 享保二年
皇紀2377年
中国
清 康熙五十六年
朝鮮
↓↑ 李氏朝鮮 粛宗四十三年
水蒸気爆発
マグマ水蒸気爆発
マグマ噴火
へ約1年半続いた
享保年間の活動
第1期(1716年4月10日,5月7日)
第2期(9月26日)
第3期(11月9日)
第4期(12月)
第5期(1717年2月)
第6期(3月~4月?)
第7期(9月6日)
に分けられ
第3期において
最大の人的経済的被害
死者5名、負傷者31名
神社・仏閣焼失、焼失家屋600余軒
牛馬405頭の
死
↓↑
1716年
4月10日 小規模な噴火
9月26日 山麓へ初めての降灰
3月11日(正徳6年2月18日)
大音響
水蒸気爆発
黒煙が高さ3,000m
新燃岳東方を流れる
高崎川で泥流発生・・・
11月9日(享保元年9月26日)
夜半から噴火
周囲に数ヶ所の火口が形成
火砕流発生
山林火災
負傷者は31名
焼死した牛馬は405頭
神社仏閣など600軒が焼失
石高で6万6000石の農業被害
宮崎県
高千穂町でも、
「霧島だけ」の火が見えた・・・
↓↑
1717年
2月7日~10日
(享保元年12月26日~29日)
噴火の繰り返し
霧島山東側の広範囲にわたって
火山灰が降下
2月13日
(享保2年1月3日)
朝9時頃
火砕流の発生を伴う大規模な噴火
死者1名、負傷者30名
焼死した牛馬420頭の被害
神社仏閣や農家など134棟が焼失
周囲の田畑は厚さ10~20cmの火山灰
農業被害は3万7000石
噴火降灰は
八丈島でも観察
霧島川では泥流が発生
下流部の田畑に被害
2月17日~21日
(1月7日~11日)
断続的に噴火
9月19日(8月15日)
享保噴火の中で最大規模の噴火
享保2年2月13日~享保5年頃
数千人が参加して
「砂上げ」
と呼ばれる農地復旧作業
↓↑
1721年に堆積物の
ラハール(火山泥流)発生
↓↑
1822年1月12日
(文政4年12月20日)
8合目付近に新しい4カ所の火口が形成
軽石や火砕流の噴出
↓↑
1959年(昭和34年)
2月13日
降灰を伴う小規模な水蒸気噴火
2月17日14時50分
爆発音と空振を伴って噴火
黒色の噴煙が上空4,000mに達した
数日間にわたって噴火を繰り返し
後、次第に終息
水蒸気爆発
新燃池の北西岸から火口壁を越えて
山腹に至る直線上に
約20個の小火口が形成
噴出した
噴石は1万t
火山灰は860万t
↓↑
1962年(昭和37年)8月30日
白黒色の噴煙が高さ300mに達した
↓↑
1983年(昭和58年)12月28日
群発地震
12月29日
火山性微動
ーーーーー
・・・「熋=熱の別字(集韻)」・・・
焦熱地獄=殺生・盗み・邪淫・飲酒・妄語・邪見
の罪を犯したものが落ちる
大鉢特摩処(だいはちとくましょ)
大焼処(だいしょうしょ)
龍旋処(りゅうせんじょ)
鉄钁処(てっかくしょ)
「平等受苦無力無救・火常熱沸・鋸葉水生
極利刀鬘・極熱沸水・多饒悪蛇」
の巨大な罪人を煮る「釜(かま)」
ーーーーー
・・・???・・・
クマのモト・・・
・・・「熊(くま・ユウ)」・・・九州熊本(肥後・隈元)・・・「球磨」、「久万」・・・「阿(くま・おもねる)」、「隅(くま・すみ)」、「嵎(くま)=山+禺(尾長猿・大頭で尾の長い猿・わかち・区別・区域・グ・グウ)」・・・「禺=甲+禸(冂ム)」・・・「禸=獣の足跡」・・・「ム=獣の足が地面を踏んだものの象形」・・・「ム」は「私(わたくし・シ)」の源字・・・ならば「禸=冂(さく・かこう・ケイ・キョウ・けいがまえ(冏構・冋構)、まきがまえ(牧構)、柵)+ム」は「囲われた中の私=捕虜・虜(とりこ)」・・・人質・・・
ーーーーー
熊=熋・・・「灬=火」
・・・「羆(ひぐま)=罒+ム+月(肉)+ヒ+ヒ+灬」
御池←双子石←高千穂峰←御鉢←古宮址(布留宮)←高千穂河原←
↓↑
熋=熱の別字(集韻)・・・熱=坴(十一八十一)+丸+灬
↓↑ 坴=高い土盛りをした場所
寄せ集まる
焦熱地獄=殺生・盗み・邪淫・飲酒・妄語・邪見
の罪を犯したものが落ちる
大鉢特摩処(だいはちとくましょ)
大焼処(だいしょうしょ)
龍旋処(りゅうせんじょ)
鉄钁処(てっかくしょ)
「平等受苦無力無救・火常熱沸・鋸葉水生
極利刀鬘・極熱沸水・多饒悪蛇」
の巨大な
罪人を・・・在任
煮る・・・・似る
釜・・・・・鎌・窯・竃・蒲
・・・蝦蟇(がま)蛙(かえる)
↓↑
大自在天(ダイジザイテン)
梵語、Maheśvara、マヘーシュヴァラ
音写 摩醯首羅(マケイシュラ)
ヒンドゥー教の
シヴァ神
仏教では
自在天外道の主神
↓↑
大聖歓喜自在天
他化自在天
と名称が似て混同
妻は
烏摩妃(パールヴァティー)・・・烏の摩の妃
↓↑
色界の頂にありて
三千世界の主
大自在天は・・・自在鉤(かぎ)=炉・竈(かまど)などの
上から下げつるし、鍋・釜(かま)
鉄瓶(壜・びん)などを掛けるかぎ
掛けたものの高さを自由に変えられる
自在は任意に調節可能
他化自在天と
名称が似ているので
混同される
他化自在天は
欲界の
六欲天の
最上位の
天の名称
大自在天は
色界>四禅天>五浄居天>色究竟天
に在す
天神の名称
↓↑
バラモン教(ヒンドゥー教)で
世界を創造し支配する最高神
サンスクリット語で
Īśvara(イーシュヴァラ・自在天)
という
シヴァ神の別名
仏教では
イーシュヴァラ
マヘーシュヴァラ
はそれぞれ
自在天
大自在天
と漢訳
異名は千以上ある・・・
↓↑
仏教で
シヴァ神と同じく
三目八臂で
白牛に乗り
外道(仏教以外)と
同様の神像で表現される
密教の曼荼羅などで
諸尊の一神
曼荼羅では
男女一対で表され
妃を
烏摩妃(うまひ)
という
また仏や菩薩の化身・・・
大自在天には
以下の2種類がある・・・
↓↑
毘舎闍摩醯首羅
(びしゃじゃ・まけいしゅら・Piśāca-maheśvara)
毘舎闍
(ピシャーチャ・Piśāca)
は鬼類の名前
摩醯首羅論師の祀る所で
二目八臂あって
白牛に乗り
色界に住す
密教ではこれを
大日如来の応現身
自在天は
種々の形を現じて
種々の名前を持つ
韋紐天、那羅延天、伊舎那天
など
「提婆涅槃論」
には20種の外道が説かれる・・・
毘舎闍摩醯首羅をもって
第15の
摩醯首羅論師
とし、
大般涅槃経19にも
六師外道の1人である
迦羅鳩駄迦旃延
(からくだかせんえん・パクダ・カッチャーヤナ)
がこれを宗旨
中古期以来から
シヴァ派のシヴァ神は
この大自在天にして
牛または
男根をもって神体を標識とする
浄居摩醯首羅
(じょうご・まけいしゅら)
菩薩が
第十地(菩薩の五十二位の50位目・法雲地)
から、まさに成仏せんとする時に
色界の頂である
五浄居天の上(色究竟天)において
大自在天子の勝報を現じ
勝妙の天形を以て仏位を紹ぐ灌頂を行う
菅原道真の
御霊(ごりょう)に
「天満大自在天神」の神号が追贈
御霊の威力を
大自在天に習合させたもの
↓↑
密教では妻の
烏摩妃(パールヴァティー)
と共に
降三世明王
に踏みつけられている
↓↑
仏説大自在天子因地経(北宋・施護訳)
によると
大自在天は崑崙山に
烏摩妃ととも住んでおり
遠い過去の仏の出世の時に
四人の修行者がいて発願し
それぞれが
梵天王、那羅延天、大自在天、仏世尊
になった・・・
彼の大自在天の所生を
此身甚だ希有なりとし、
彼は梵天より人間に下降して
寒林中の幻化という
餓鬼女と交わり、
自らその子になって生まれた・・・
↓↑
大自在天が生まれた時
鬼神衆や諸天梵天が集まり
彼を礼拝
梵天王は自らの
五つの頭の一つが醜悪であったため
取ることを願い
大自在天は
大鷹の身に変じてそれを摘去した
手に梵天の頭を持つ・・・
↓↑
大自在天は万物の生本たる義によって
シヴァ派の人々は
人間の男根を天神の神実として祀る
シヴァ神はリンガ(男根)を象徴とし
男根崇拝と結びついて崇められる
続高僧伝玄奘伝
西域記健駄羅国記
玄応音義25
大智度論5
同10
などの文献にもその痕跡・・・
↓↑
大自在天は
他化自在天
と混同される
そのためリンガ信仰と混交し
魔王が六欲天の他化自在天の最高位の主である
天魔である魔羅(マーラ, Māra)を指し
次第に転じて俗に
「男根」を魔羅、マラというようになった・・・
あるいは先に
女陰を
毘摩羅(Vimalā - ヴィマラー)
ということから
摩羅とは本来、
男女根の名称にて
邦語のマラは
サンスクリット語のままを伝えられなかったか、
あるいは日本の神である
天津摩羅命、大摩羅神
赤摩羅、天照眞良(正字は一の下に艮)建雄命
などに由来する・・・
↓↑
色界(しきかい・Skt:rūpa-dhātu)
三界の一
色天、色行天
ともいう
欲望を離れた清浄な物質の世界・・・?
無色界の下にあり
欲界の上にある
色界には四禅の
四地、初禅、第二禅、第三禅、第四禅
があり
これを過ぎると無色界に入る
天界28天に属し
色は物質の義
あるいは
変礙の義
↓↑
色界に住む天人は
食欲と淫欲を断じ
男女の区別がなく
光明を食とする・・・・光合成
しかし
情欲と色欲はある・・・
色界の諸天は
世間の禅定ならびに
上品の十善を修して
この報を感じる・・・
↓↑
大乗仏教(唯識派)
上座部と同じく
十八天とする
薩婆多部は
十六天
経部は
十七天
とするなど諸説・・・
↓↑
十八天
色究竟天=色究竟天
(しきくきょうてん、Skt:Akanistha
阿迦尼咤天=あかにたてん)等他
仏教の世界観の1つ
三界のうち
色界
及び
天上界における最高の天・・・
↓↑
三界は上から
無色界・色界・欲界
の3つの世界
色究竟天
は色界の最上位
「色」とは形体・物質のこと
色界は欲望から離れて
清らかな物質や肉体が存在する世界
この天より上は
肉体や物質が存在しない
無色界になり
形体を有する
天処の究る場所
で
色究竟天と呼ばれる・・・
↓↑
善見天
善現天
無熱天
無煩天
(ここから色究竟天までは浄居天と呼ばれ
寿命が尽きればそのまま仏と成る)
廣果天
無想天
(薩婆多・経の2部は、廣果天の中に摂す)
福生天
無雲天
遍照天
無量浄天
少浄天
光音天
無量光天
少光天
大梵天
梵輔天
梵衆天
↓↑
この18天を、四禅に振り分けると
↓↑
第四禅
色究竟天・善見天・善現天・無熱天
無煩天(これを五浄居天と称す)
と
廣果天・福生天・無雲天
第三禅
遍照天・無量浄天・少浄天
第二禅
光音天・無量光天・少光天
初禅
大梵天・梵輔天・梵衆天
ーーーーー
ひかり=光=輝き・明るさ・灯火・燭光=熊
↓↑
熊=能灬=ム月ヒヒ灬=六(陸)月の火日の灬(烈火)
↓↑ 月(肉)を除いた部分は
「ヒヒ=㠯(イ)」・・・?
ではないだろう・・・
「㠯=呂=背骨の繋がり」・・・横島の繋がり?
横島が土石流で
繋がった、接続した
干潮、引き潮で
シヲ(潮汐)
が退(曳)いて
繋がった、接続した
鹿に似た動物を意味
「能」は「賢い動物」?であったので
「賢い」の意を生じた
(説文解字=能 熊屬・足似鹿
従、肉㠯聲
能獸堅中、故稱賢能
而彊壯、稱能傑也
凡能之屬皆従能)
「能=匕(亀の足)・㠯は耜(すき)で
よく働くの意・手足を使ってよく働くこと」
能=能力・可能・全能・万能・不能・不可能
物事を成し遂げる力・はたらき
官能・機能・技能・効能・才能・多能・知能
本能・無能・有能
特定の技能、技術にタケテイルこと
能筆・能弁・芸能・一芸一能
能楽=猿楽・申楽・・・能面・演能
能登 (のと) 国・能州・加越能
↓↑
中国語圏の姓名
春秋戦国時代の
楚の君主の氏
↓↑
熊通(武王、?~前690年)楚の初代王
熊侶(荘王、?~前591年)楚の第6代の王・春秋五覇の一人
熊審(共王、前600年~前560年)第7代の王
熊囲(霊王、?~前529年)第10代の王
熊珍(昭王、?~前489年)第13代の王
曹熊 (? - ?)後漢末の人・曹操の六男
ーーーーー
・・・
彷徨うU・・・熊の本、何処さ・・・
・・・又又、迷路に・・・熊本県は明治時代に「白川県」と呼ばれていた・・・「球磨地方」・・・由来は「熊襲タケル」・・・高麗=こま=駒=狛=独楽・・・「熊埜御堂(くまのみどう)・熊野御堂(くまのみど・くまのみどう・ゆやみどう」は苗字・・・
苗字の読み???
六月一日=うりはり・うりわり
くさか・さいぐさ・ほずのみや・むりはり
むりわり・ろくがつついたち
六月一日宮=ほずみや
和久鬼毛=わくとも
ーーーーー
熊の本、何処さ・・・
↓↑
南北朝時代の
「菊池則隆」
に因むとする伝承
「隈元=隈本」との記録
慶長十二年(1607年)
加藤清正が
築城した時に
「熊本」と改められた
「隈=丘陵地・奥まった緩やかな丘
「隈=阝+畏」の字の
「畏(おそれる・かしこまる)」を嫌った
「来熊(ライユウ)」
「訪熊(ホウユウ)」
「帰熊(キユウ)」
「熊(ユウ)」
↓↑
「熊川(錦江)」→「熊=錦」
「錦江(クムガン)」の群山 沿岸部
↓↑
熊本県球磨郡錦町一武
錦中学校前(球磨郡錦町)
↓↑
「錦(にしき)=金+白+巾」の御旗?
「錦の御旗(にしきのみはた)」
天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗
錦旗(キンキ)
別名
菊章旗・日月旗
赤地の錦に
金色の日像
銀色の月像
を刺繍
描いたりした旗
(この日之御旗と月之御旗は二つ一組)
朝敵討伐の証として
天皇から官軍の大将に与えモノ
承久の乱(1221年・承久三年)
後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が
日本史上の錦旗の初見
天皇を頂点とする
「錦旗革命=大川周明の軍事クーデタ」
↓↑
二詞記の見葉他
二史記の見頗(皮+頁=ハ=把・嵌・歯)多
↓↑
錦江
(韓国の地名・クムガン)・・・クムガン?
熊川=クマガン?
白馬江=熊津江=Geum River
白村江(ハクソンコウ=ハクすきのえ)
白江之口(旧唐書)
(西暦663年)倭軍、壊滅
・・・鎮(金+真 眞)魂(二+ム+鬼)の場所
十+具=ヒ+目+乚+ハ
眞=直+ハ
七=7・漆
ヒ=牝・雌
匕=匙・匕首
比=比較
叱=叱責
化=化合
它=蛇
写真=写眞=シャシン=捨身(すてみ)
真実=眞実
皀=白+ヒ=かんばしい・さいかち・くろごめ
穀物の香り
キョウ・コウ・キュウ・ヒョク・ヒキ
↓↑
「白村江」=白江(ペンガン)=錦江(クムガン)が
黄海に流れ込む海辺を
白村江と呼んだ
白馬江(baeg-chon-gang)
錦江(クムガン)
白馬江(ペンマガン)
朝鮮半島南西部
忠清南道群山付近にある錦江河口
扶余の上流の
公州(熊川・熊津)からは
熊津江(ユジンガン)
↓↑
663年
白村江の戦い
天智天皇
二年八月二十七日
~
二年八月二十八日
ユリウス暦663年10月4日~10月5日
朝鮮半島
白村江(錦江近郊)での海戦
唐・新羅連合軍の勝利
倭・百済連合軍の敗北
↓↑
668年
唐の高句麗出兵
高句麗滅亡
↓↑
676年
新羅の半島統一
唐•新羅戦争
新羅が唐を朝鮮半島から追い出す
↓↑
則天武后が外戚の
長孫氏を追い
実権掌握
高宗は
武后廃立を
計画したが、失敗
高宗が
丹薬による中毒
眼病を患い、失明状態
武后が唐の実権を完全掌握
↓↑
683年
唐の高宗崩御
↓↑
690年
唐王朝は廃されて
則天武后
武周王朝樹立
↓↑
倭国の大王(オオキミ)
筑紫君
薩夜麻
が唐の捕虜(~671年)
降伏状態
唐は
賠償品
捕虜の返還条件をまとめて帰国
↓↑
大陸に対し
九州の
「倭国=阿毎王朝」が
畿内の
「日本国」
が国際(対唐)外交することに変った
新羅は「日本国」を承認(670年)
唐が「日本国」を承認するのは
8世紀に入ってから
↓↑
「旧唐書」に
「倭国伝」と「日本伝」があるが
「新唐書」には
「日本伝」のみの記録
↓↑
663年
朝鮮南西部
「白村江の戦」
唐・新羅
vs
倭国(九州王朝)・百済
二つの連合軍による
朝鮮半島の領域権益を巡る決戦
百済は滅亡
新羅による朝鮮半島統一
倭国(九州阿毎王朝)
北方の
高句麗と朝鮮半島で
その権益を巡って戦った
↓↑
「日本書紀・671年の条」
「筑紫君 薩夜麻=薩野馬とも表記
(ちくしのきみ
さちやま)
「天智紀・持統紀」に二度記録
天智十年(671年)十一月十日
對馬國司
遣使
於
筑紫 大宰府、言
「月生二日
沙門道久
筑紫君
薩野馬
韓嶋勝娑婆
布師首磐
四人、從唐來曰が唐から帰国した」
↓↑
「筑紫君」=「阿毎王朝の倭王」
「日出づる処の天子」=「オオキミ」
「開皇二十(600)年
倭王、
姓は阿毎、
字は多利思比孤、
阿輩雞(鶏)彌
と号す・・・」
↓↑
大和朝廷(畿内)からは
「筑紫君」=倭王(九州)であった・・・
↓↑
663年
白村江の戦争が終結
↓↑
671年
倭王(筑紫君-薩夜麻)
薩野馬(薩夜麻)=薩摩(さつま)?
が
唐から帰国した・・・
↓↑
八年間、唐王国に捕虜となっていた
↓↑
九州を管理統括するのは
「大和政権の太宰府の長官」・・・「筑紫君」
「倭国=九州=太宰府」
「東北(蝦夷)地方」の
統治代行した
「奥州鎮守府の長官」
と同じ
↓↑
天智十年(671年)十一月十日
十一月甲午朔癸卯(十日)
對馬國司、遣使於筑紫大宰府、
言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬
・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、
從唐來曰
『唐國使人
郭務悰
等六百人
送使
沙宅孫登
等一千四百人、
總合二千人
乘船卌七隻、
倶泊
於
比智嶋、
相謂之曰、
今吾輩人船數衆、
忽然到彼、
恐
彼防人
驚
駭射戰。
乃
遣
道久
等
預稍披陳
來朝之意。』」
↓↑
持統四年(690年)十月二十二日
詔軍丁
筑紫國上陽竎郡人
大伴部
博麻曰
「於
天豐財重日足姬天皇七年、
救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。
洎天命開別天皇三年、
土師連-富杼
氷連老
筑紫君-薩夜麻
弓削連-元寶兒、四人、
思欲奏聞唐人所計、
緣無衣粮、憂不能達。
於是、
博麻
謂
土師-富杼
等曰
『我欲共汝還向本朝。
緣無衣粮、
倶不能去。
願
賣我身以充衣食。』
富杼等、依博麻計、得通天朝。
汝獨淹滯他界、
於今
卅年矣。
朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。
故、賜
務大肆、
幷絁五匹
綿一十屯
布卅端
稻一千束
水田四町。
其水田、及至曾孫也。
免三族課役、以顯其功。」
↓↑
「筑紫君-薩夜麻」
らの帰国
唐人2000人
「進駐(日本書紀)」
戦勝国・新羅人
亡国の民・百済人
も「日本」に流れ込んだ・・・戦争難民?
↓↑
斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳~
↓↑ ↓↑ ↓↑
高句麗、百済、新羅が使を遣わして朝貢
蝦夷と隼人も衆を率いて内属し、朝献
有間皇子の変で
蘇我赤兄は
天皇の3つの失政を挙げた・・・?
大いに倉を建てて
民の財を積み集めた・・・戦争兵糧備蓄
長く溝を掘って
公糧を損費した・・・・・溝は防御濠
船に石を載せて
運び積んで丘にした・・・砦の石垣
↓↑
朝鮮半島の諸国と使者を交換
唐にも使者を派遣
蝦夷に
三度にわたって
阿倍比羅夫を海路の遠征で蝦夷地を平定
蝦夷地北海岸、樺太に存在した
粛慎に出兵勝利・・・粛慎≒高句麗・・・?
↓↑ ↓↑ ↓↑
斉明元年(655年)
7月11日
北の蝦夷99人・東の蝦夷95人
百済の調使150人を饗応
8月1日
河辺麻呂が大唐から帰国
10月13日
小墾田に宮の造営中止
冬、飛鳥板蓋宮が火災、
飛鳥川原宮に遷幸
↓↑
斉明二年(656年・63歳)
8月8日
高句麗が
大使
達沙
副使
伊利之
総計81人を遣わし
調を進める
9月
高句麗へ
大使
膳葉積
副使
坂合部磐鍬
以下の使を遣わす
飛鳥の岡本に宮造り開始
高句麗、百済、新羅
が使を遣わして調を進めたため
紺の幕を張って饗応
宮室が建ったので
遷幸し後
飛鳥岡本宮と名付けるが
岡本宮が火災に遭う
香久山の西から
石上山まで溝を掘り
舟で石を運んで
石垣を巡らせた
吉野宮を造営
多武峰に両槻宮を造営
土木工事、水溝工事は
後世に
「狂心の渠」
と揶揄された・・・なぜ、後世なのか?
西海使の
佐伯栲縄
吉士国勝
らが
百済より還って
鸚鵡を献上
↓↑
斉明三年(657年・64歳)
7月3日
覩貨邏国の
(とからのくに)?
↓↑ 吐噶喇列島(とかられっとう)
南西諸島の鹿児島県側の
↓↑ 薩南諸島に属する島嶼群
男2人・女4人が筑紫に漂着し、召す
7月15日
須弥山の像を飛鳥寺の西に造り
盂蘭盆会を行なった
暮に覩貨邏人を饗応
9月
有間皇子が狂を装い
牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛
天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと云う
使を新羅に遣って
僧の
智達
間人御厩
依網稚子
らを
新羅の使に付けて
大唐に送ってほしいと告げる
新羅が受け入れなかったので
智達らは帰国
↓↑
斉明四年(658年・65歳)
1月13日
左大臣
巨勢徳多
死去
4月
阿倍比羅夫
蝦夷に遠征
降伏した蝦夷の
恩荷を
渟代・津軽二郡の郡領に定め
有馬浜で
渡島の蝦夷を饗応
5月
皇孫の
建王が8歳で薨去
天皇は甚哀
7月4日
蝦夷二百余が朝献
常よりも厚く饗応し、
位階を授け、物を与える
7月
僧の
智通
智達
が勅を受けて
新羅の船に乗って
大唐国に行き
玄奘法師から
無性衆生義(法相宗)を受ける
10月15日
紀温湯に行く
11月5日
蘇我赤兄が
有間皇子の謀反を通報
11月11日
有間皇子を絞首刑
塩屋鯯肴
と
新田部米麻呂
を斬刑
沙門の
智喩が
指南車を作る
↓↑
斉明五年(659年・66歳)
1月3日
紀温湯から帰る
3月1日
吉野に行く
3月3日
近江の平浦に行幸
3月10日
吐火羅人が妻の
舎衛婦人と共に来る
3月17日
甘檮丘の東の川辺に
須弥山を造り
陸奥と越の蝦夷を饗応
3月
阿倍比羅夫に
蝦夷国を討たせる
阿倍は一つの場所に
飽田・渟代二郡の
蝦夷241人とその虜31人
津軽郡の蝦夷112人とその虜4人
胆振鉏の蝦夷20人を
集めて饗応し禄を与える
後方羊蹄に郡領を置く
粛慎と戦って帰り
虜49人を献じる
7月3日
坂合部石布
と
津守吉祥
を唐国に派遣
7月15日
群臣に詔し
京の内の寺に
盂蘭盆経を説かせ
七世の父母に報いさせる
↓↑
斉明六年(660年・67歳)
1月1日
高句麗の使者
賀取文
ら百人余が筑紫に到着
3月
阿倍比羅夫に
粛慎を討たせる
比羅夫は
大河のほとりで
粛慎に攻められた
渡島の
蝦夷に助けを求められる
比羅夫は粛慎を
幣賄弁島まで追って
彼らと戦い、これを破る
5月8日
賀取文
らが難波館に到着
5月
勅して
百の高座と
百の納袈裟を作り
仁王般若会を行う
皇太子(中大兄皇子)が
初めて漏刻を作る
阿倍比羅夫が
夷50人余りを献じる
石上池のほとりに
須弥山を作り
粛慎47人を饗応
国中の百姓が
訳もなく武器を持って道を往来・・・
7月16日
賀取文らが帰る
覩貨邏人の
乾豆波斯達阿が
帰国のための送使を求め
妻を留めて
数十人と西海の路に入る
7月
百済が唐と新羅により滅亡
9月5日
百済の
建率の某と
沙弥の覚従らが来日
鬼室福信が
百済復興のために戦っていることを伝える
10月
鬼室福信が
貴智らを遣わし
唐の俘百余人を献上し
援兵を求め
皇子の
扶余
豊璋
の帰国を願う
天皇は百済を助けるための出兵を命じ
礼を尽くして
豊璋の帰国を命じる
12月24日
軍器の準備のため難波宮へ行幸
↓↑
斉明七年(661年・68歳)
1月6日
西に向かって出航
1月8日
大伯海に至る
大田皇女が皇女を産み
大伯皇女と名付ける
1月14日
伊予の
熟田津の
石湯行宮に泊まる
3月25日
娜大津に着き
磐瀬行宮に居す
4月
百済の福信が
使を遣わして
王子の
糺解の帰国を求める
5月9日
朝倉
橘広庭宮に遷幸
5月23日
耽羅が初めて
王子の
阿波伎
らを遣わして貢献
7月24日
朝倉宮で
崩御・・・死亡
8月1日
皇太子が天皇の喪に付き添い
磐瀬宮に到着
10月7日
天皇の喪が帰りの海路に出航
10月23日
天皇の喪が難波津に着く
11月7日
飛鳥の川原で殯
9日まで発哀
↓↑ ↓↑ ↓↑
斉明五年(660年)
百済が
唐と新羅によって滅ぼされた
日本に滞在していた
百済王子
豊璋を百済に送り
百済を援けるため
難波に遷って武器と船舶を作らせ
瀬戸内海を西に渡り
筑紫の
朝倉宮に遷幸し戦争に備えた
↓↑
斉明六年(661年)、68歳
崩御死亡
中大兄皇子は即位せずに称制
朴市秦造田来津(造船責任者)
を司令官に任命
倭軍は朝鮮半島南部に上陸
↓↑
斉明七年(662年)、69歳
(日本書紀)・・・天豊財重日足姫天皇
↓↑
663年
白村江の戦いで
唐と新羅の連合軍に敗北
↓↑
高句麗
天智七年(668年)十月
唐将軍の
英公
によって滅ぼされた
↓↑
錦江 (韓国の地名・クムガン)・・・クムガン?
熊川=クマガン?
白馬江=熊津江=Geum River
白村江(ハクソンコウ=ハクすきのえ)
白江之口(旧唐書)
(西暦663年)倭軍、壊滅
・・・鎮(金+真 眞)魂(二+ム+鬼)の場所
ヒ= 十
写真=写眞=シャシン=捨身(すてみ)
「白村江」=白江(錦江)が
黄海に流れ込む海辺を
白村江と呼んだ
錦木・錦松台・錦水城
錦江 (四川省)
錦江 (韓国)
錦江(にしきの里)
錦江台
東錦洞(トングムドン)
西錦洞(ソグムドン)
韓国中部
忠清南道(チュンチョンナムド)
公州(コンジュ)
公山城(コンサンソン)
朝鮮三国時代
百済(ペッチェ)時代
に造られた城郭
百済
文周(ムンジュ)王
475年
に現在のソウルから首都を遷都
武寧王陵などの古墳群
熊津(ユウシン・ウンジン)
古代朝鮮の
百済・・・・・久多羅木
くたらき・くたらぎ・くだらぎ
倶利伽羅
くりから
言語同断
こくらだ・てくら・てくらた
てくらだ・てらく・てらくだ
言語道断
てくら
の古都
万葉仮名では
「久麻那利
(くまなり・こむなり)」
百済語で
「固麻那羅
(コマナル)」
熊川(錦江)のほとりの都市
現在の
忠清南道公州市
475年
高句麗の
長寿王が
百済の国都
漢城(ソウル)を陥落させ
百済の
蓋鹵王を処刑
南方に逃れていた
(新羅救援を求めに行っていた)
文周王が
即位し
首都を
熊津に移した
538年
後に
聖王が
南方の
泗沘(忠清南道扶余郡)へ遷都
63年間、百済の首都
新羅の統一の後
「熊川州→熊州」
という名称を経
高麗時代に
「公州」に改称
公州市には
「熊津洞」
という地名が残る
百済の熊津への遷都の記事
↓↑
『三国史記』
百済本紀
文周王即位年(475年)
十月条
↓↑
『三国遺事』
王暦
文周王条
「移都熊川」
↓↑
『日本書紀』
雄略天皇二十一年(477年)・・・477=肆陌七拾漆
春三月条
「天皇聞。
百済為高麗所破、
以
久麻那利
賜
汶洲王、
救興其国」
ーーーーー
・・・
クま・クみ・クむ・クめ・クも・・・同音異字漢字に変換・・・
・・・「大熊・小熊」・・・はウロツク、彷徨する、咆哮する・・・十二支の時間と方向で・・・北海道=蝦夷のクマは「アイヌ語でキムン-カムイ(kimun-kamuy)=山の神」・・・「キムン=金奴・金怒」?・・・「羆(ひぐま)=罷(罒+能)+灬=brown bear=ヒグマ(緋熊・樋熊・Ursus arctos=ウルスス・アルクトス」・・・あるくとす=歩く渡主?・・・「罷(まか・ヒ)る」・・・「能都・能登・能渡・能任」・・・「能登半島(北緯37度15分23.6秒)・鉢伏山・七尾湾」・・・「能登切籠(キリコ)祭り」・・・「巨大な切子灯籠」・・・「切子(切り子・きりこ・キリコ)=立方体の角を落としたもの・紙等で作られる仏前用、お盆向けの灯籠(灯篭)のこと。切子灯籠」・・・1647年(正保三年)の輪島住吉神社の祭礼定書にキリコの記録・・・「キリコ」は「樵(きこり)」のコトではないらしいけれど・・・原木を切り揃えて柱や板にするのも「切り子」だと思うけれど、「大工」じゃぁないらしい・・・「カットグラス」・・・
検索してみた・・・
「疫病が流行った時、桜井源五という人が京都の祇園社から牛頭天王を勧請して盛大な祭りをしたところ、大きな蜂が現れ人々を次々と刺し、蜂に刺された人は病気が治ったため、あの蜂は神様の化身にちがいないと感謝し、大きなキリコを作って「大泥棒ボー蜂やさいた」と囃したて町内を練り歩いたところ、悪疫は絶滅。これが宇出津でキリコ祭りのはじまり」・・・それよりも「こきりこ節(こっきりこ節)」はコトバが似ているけれど・・・
「富山県南砺市の五箇山地方(旧 東礪波郡平村、上平村、利賀村)に伝わる麦屋節とともに五箇山地方を代表する全国的に有名な古代民謡(古謡)」・・・
「こきりこ(筑子・小切り子)=日本の民謡、こきりこ節(こきりこ踊)などを歌って踊る際に用いる竹棒の民俗楽器。漢字では筑子、と表記され、中世にあって、大道芸の一種で、主に曲芸をおこなった放下(ほうか)が常時携帯していた楽器で(綾竹・あやだけ)とも云う」・・・
「放下(ホウカ)=大道芸のひとつ・田楽法師の伝統を受け継ぐ雑芸・投げおろす、捨てはなすの原義から派生したコトバで、鞠(まり・球→球磨=くま?)や、空中独楽(輪鼓=リュウゴ=地面で回さず空中で操作するコマの藝・細い糸をくびれの部分に挟み、糸を操作して独楽を回し、空中に投げたり受け取ったりする藝・デアボロ、ディアボロ(ジャグリング・Juggling)=玉や輪、ナイフ、刀などを巧みに投げたり受けとったりする芸能全般」、「お手玉」・・・
「キリスト教神秘主義で用いられる概念(Gelassenheit の訳語)?」・・・
「キリストへのゆだね」ならば、「イスラム教のザカート」も、歴史が古い釈迦の「捨身飼虎(シャシンシコ) 、月兎(ゲット)、自己犠牲、喜捨で他者を救うハナシの盗作」だろう・・・
それにしても地球の枠内での「弱肉強食=自然界の生態系の法則=食物連鎖の循環」が人間存在の究極の「原罪」なんだろう・・・
食物として「生きているモノを喰うコト」から人間は「喰わない存在」として解放されるのか?・・・
「知恵袋」の根源的問題に答えきれない回答者、「捨身飼虎」の問答は面白かったけれど・・・喰う存在を止めれば、すべて解決?
人間社会は喰える人、喰えない人のレベルで右往左往・・・
人間以外の動物は喰うか、喰われるか、それとも、喰いたくないか、喰われないのか状態で・・・イズレにしても、世代としての「命」を繋いでいくプロセス・・・
「ダーウインが来た」では「子熊」の敵は「雄熊」・・・ニュースでは「人間の子供が両親に殺されたり、無理心中されたり」・・・過去には敗戦前後の沖縄、満州、朝鮮からの引揚者は日常茶番に我が子を殺した・・・アルカスは母のカリストを寸前で・・・
ーーーーー
罷(まか)る=罒+能
朝廷、権力などの意向、命令を受けて
地方または他所へ移動させられること
罷=やめる
中止する・廃止する
罷買同盟
しりぞける(引き下がらせる・追い返す)
解雇する(罷免)
許す・釈放する
帰る
つかれる(疲)
疲れてやるきがなくなる(罷弊)
病気になる
にぶい・おろか(罷士)
弱い
きわまる(罷極)
まかる
退出する・去り帰る
来る
行く
ーーーーー
2017年 丁 酉(庚・ ・辛)鳥・鶏・禽
0010月 庚 戌(辛・丁・戊)犬・狗
0018日 戊 寅(己・丙・甲)虎・彪
↓↑
0019日 己 卯(甲・ ・乙)兎・菟・兔・莵
0020日 庚 辰(乙・癸・戊)龍
0021日 辛 巳(戊・庚・丙)蛇・它
ーーーーー
徳川家康・・・徳=彳+ナ+罒+心=悳
↓↑ 五徳=仁・義・礼・智・信
徳教=法家思想の法治や刑に
対抗する概念
恩賞必罰の「徳&刑」
父子天合=孝
君臣義合=忠
曲礼篇
父の過ちに子が「三度諫めて聞かざれば
号泣してこれに随う」
君の過ちに臣が「三度諫めて聞かざれば
これを逃(さ)る」
孝悌=年長者に対する崇敬
五行思想の循環論
土徳・木徳・金徳・火徳・水徳
功徳=仏教での「善なるおかえし(応報)」
卓越性・有能性
西洋的徳=知恵・忍耐・勇気・節制・正義
敬虔(ケイケン)=孝行心
謙遜という徳=直義は「乞食の心構え」
タペイノプロシューネー
タペイノフロシュネー
誇りを捨て、自分の間違いを認め
物事を正し、許しを求める
・・・その基準は何?・・・
へりくだった思い=Humility
・・・能ある鷹は爪を隠す・・・?
・・・爪=野心?・・・野心=善心?
タペイ ノプロシューネー?
「他兵(多兵)之負賂囚 値有」?
徳=アレテー=人間の持つ気質や能力が善なる
社会性、道徳性として発揮された
↓↑ 卓越性、有能性
天文十一年十二月二十六日
(1543年1月31日)
~
元和二年四月十七日
(1616年6月1日)
73歳没
改名 松平竹千代(幼名)
元信(初名)・元康→徳川家康
別名 郎三郎(輩行名=祖父と父から受け継いだ名前)
輩(やから・ともがら)=同類・仲間・連中
者ども・親類・親族・血族・一族郎党
先輩、後輩
尊称 大御所 (将軍引退後)
神君(死後)
神号 東照大権現
戒名 東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽
道和大居士
墓所 久能山東照宮
日光東照宮
大樹寺
高野山
幕府 江戸幕府 初代征夷大将軍
(在任1603年~1605年)
主君 今川義元→氏真→足利義昭→織田信長
→豊臣秀吉→秀頼
父 松平広忠
母 於大の方
兄弟 内藤信成?・樵臆恵最?・市場姫・・・市の場の姫(滸)
妻 正室 築山殿
継室 朝日姫
↓↑
樵暗恵最(ショウアン-エイサイ)・・・キコリのヤミの英哉
or
樵臆恵最(ショウオク-エイサイ)・・・キコリのオジケタ掲載
↓↑
樵(きこり・木樵)=木(十八)+焦(隹灬)
焦る=あせる=褪(衣退)せる=さめる
アセル=蛙(鴉・阿)施留
森林の樹木を
斧(おの)などにより伐採すること
それで生計を立てている者
樵夫(ショウフ)=杣夫(そまふ)→杣(木山)=拾八のサン
樵=こる・きこり・ショウ・セウ
暗=日+音(立+日)・・・日立=ひたち=常陸・常盤・罷たち?
くらい・アン
臆=月(肉・舟)+意(音+心=立+日+心)
おく=おじける・オク
心のうち
気後れする
おどおどする
胸臆・臆病・臆面
気おくれする
あれこれおしはかる
臆説・臆測・臆断
恵(慧)の最(日取・日耳又)
・・・忖度(ソンタク)?・・・
樵暗恵最=樵臆恵最
↓↑
岡崎城の城主
松平広忠
の子
徳川家康
の異母兄弟
生母は
大給松平家
松平乗正の娘(於久の方)
同母兄は
松平忠政(1541年?~1599年?)
初の法名は
穎新(エイシン)
・・・穎(エイ)=ヒ+禾+頁・・・英を代用
イネ科植物の花
小穂 (ショウスイ) の外側にある
葉状の2枚の小片
花を包むものを花穎、
小穂の付け根にあるものを
苞穎 (ホウエイ) という
稲の穂先
錐 (きり) の先
筆の穂先
鋭い才気・その奇才の人
or
恵新(ケイシン)
↓↑
天文十年(1541年)
「於大の方」の
岡崎城輿入れ
↓↑
松平広忠(家康の父)の
側室
「於久の方」は
長男
「勘六(忠政)」を連れ
化粧田である近郊の
桑谷村へと移り
恵最を産んだ
↓↑
家康と
同年同日同時刻に生まれた?
↓↑
樵臆恵最=生母は大給松平家
松平乗正の娘「於久の方」
松平広忠(家康の父親)
の側室に
松平忠政
と
恵最が産まれた
or
恵最の母は
松平乗正の娘「ひさ」?・・・於久
松平広忠の三男
恵最
↓↑
天文十一年十二月二十六日午前寅時頃誕生?
西暦1543年2月10日(グレゴリオ)?
節入り後(2月10日)は「癸卯年」?
西暦1543年1月31日(ユリウス)
↓↑ ↓↑
壬寅≠癸卯年壬寅月壬寅日壬寅時
先勝・水曜日
種子島にポルトガル人漂着、鉄砲伝来
ニコラウス・コペルニクス
「天球の回転について」発表
アンドレアス・ヴェサリウス
「人体の構造(人体の構造に関する七つの本)
Fabrica(ファブリカ)
(1)骨および関節・(2)筋肉・(3)血管系
(4)神経・(5)腹部諸器官・(6)心臓および肺
(7)脳
の7部」を発表
↓↑
天文十一年一月二十一日午前四時頃誕生?
天文11年1月21日
生年1542 壬寅(己・丙・甲)・・・1543? OR 1542?
生月0002 壬寅(己・丙・甲)
生日0015 壬寅(己・丙・甲)辰巳=空亡・先負・日曜日
生時0004 壬寅(己・丙・甲)
↓↑
元和二年四月十七日西暦
1616年5月22日(ユリウス)
↓↑
没年1616 丙辰(乙・癸・戊)(グレゴリオ)
没月0006 癸巳(戊・庚・丙)
没日0001 丁巳(戊・庚・丙)友引・水曜日
↓↑
恵最は
家康と同年同生・・・影武者?
於大の方の子で
家康と
双子の兄弟?・・・ヤマトタケルは
↓↑ 大碓・小碓(倭男具那・日本童男)の
双子の片割れ
小碓は大碓を廁で殺害し
筵(むしろ・エン)に包んで捨てた
筵=藁(わら)や藺草などの草で
編んだ敷物・菰(こも)とも
ござ(茣蓙)とも
畳の材料
乞食(桂小五郎)の必需品
熊曾(古事記)・・・・隼人
龍馬・お龍
熊襲(日本書紀)・・・隼人=宮廷の番人
大隈重信を襲う来島
↓↑ 球磨囎唹(筑前国風土記)
熊襲=頭(かしら)は
渠師(キョスイ)者=いさお
で二人
その下に小集団の
頭の梟師(タケル)がいる
クマソタケル(熊襲建、川上梟帥)
熊襲=熊(ユウ・くま)を
襲(かさねる)
肥国、言、建日向日豊久士比泥別。
熊曾国、言、建日別。
襲=龍+衣=古代の衣服の一
頭からかぶって
衣服の上を覆い
下は裾まで長く
垂れた衣(きぬ)
襲(かさねる)
襲の色目(かさねのいろめ)は
女房装束の
袿の重ね(五つ衣)に
用いられた襲色目の一覧
襲名(シュウメイ)
↓↑ 渠=みぞ・キョ・人工の水路
掘り割り
暗渠・河渠・函渠・溝渠
船渠=ドック(蘭 dok・英 dock)
かしら・首領
渠魁(キョカイ)・渠帥(キョスイ)
魁(さきがけ・カイ)=北斗七星
の柄杓の頭部をなす四つの星
その第一星・魁星・斗魁
↓↑大熊座(Big Dipper、Plough)の
杓の器の部分
天枢・天璇・天璣・天権の4つを魁
柄の部分
玉衡・開陽・揺光の3つを標、or杓
あわせて斗と一字でよぶ
α星(天魁星)
榎本武揚の蝦夷地、渡海の軍艦「開陽丸」は
「開陽星=ミザール(ミザル・Mizar)
武曲星=第6番目の星」
に由来・・・
↓↑ ↓↑
「リベカ(Rebekah, Rebecca)」は
「創世記(旧約)」のアラム人女性
(イサクの妻で
父はベトエル・兄はラバン)
双子の息子
「エサウ」と「ヤコブ」を産んだ
↓↑
「アポロン」と「アルテミス」
双子の兄妹or姉弟
「アルテミス」は山野の女神、
「熊」にされたのは
妖精「カリスト=カッリスト
(Callisto=最も美しい)」
関わりの深い女神・・・
妖精カリスト(大熊)と
息子アルカス(小熊)の悲劇
アルカス(Arkas)
↓↑ ↓↑
パンダ(熊猫)が
「シオンマオ (ションマオ)」
↓↑
熊 くま・ユウ・・・大熊座=Big Dipper=柄杓
↓↑ Plough=鋤・すき
英語 ベア bear
独語 ベーア Bär
仏語 ウルス ours
伊語 オルソ orso
西語 オッソ oso
西語 オソ oso
羅語 ウルスス ursus
希語 アルクトス
露語 ミドヴィエーチ=蜂蜜を食べるもの
瑞語 ビョーン björn
中語 シオン 熊(ユウ)
蘭語 ベール BEER
蒙語 バーヴガイ BAAVGAI
馬来語 ブルアン beruang
巴基斯坦語 リーチュ reech
羅馬尼語 ウルス urs
捏巴爾語 バァルー
「熊笹」は「隈笹」の誤字であるらしい・・・
↓↑ ↓↑
古代ローマ建国の
牝狼に乳(ルーマ)を
与えられ育てられ
キツツキ(啄木鳥)の
運ぶ食料(虫?)を
食べて生き延びた
ロームルス (Romulus) ・レムス (Remus)
↓↑
紀元前753年4月21日
753-660(辛酉)=93-60=33・・・己丑
753(己丑)~660(辛酉)
1己丑~~~ 33辛酉
754(戊子)~661(庚申)
↓↑
永禄五年(1562年)
家康は
今川義元から独立して
岡崎城に帰参
家康は
この母子に面会
↓↑
・・・松平広忠に離縁された母(於大)は
尾張国の領主
久松俊勝(ひさまつとしかつ)と再縁し
子供をもうけていた・・・
↓↑
「於久の方」は出家し
「妙淋」と称し
広忠の菩提寺の建立を家康に請い
広忠の名前を寺号とした
瑞雲山広忠寺を
桑谷村に建立し
恵最がその住職になった
「於久の方」が
天文十年(1541年)に
四十歳前後の記録・・・
「於久の方」が当時十五歳の広忠の側室とは無理?
可能、有り得る
・・・忠政・恵最兄弟は広忠の子としては不自然・・・
↓↑↓↑
苗字の読み方
六月一日=うりはり・うりわり・くさか
瓜破(うりわり)
日下(くさか)
=さいぐさ・むりはり
三枝(さいぐさ)
無理葉理(むりはり)=武利(理)梁(梁書)?
・・・ネジの日(比)?・・・「捻じ曲げる」・・・
螺旋・螺子・捩子・捻子・錑(金戻)・根子
六月一日宮=ほずみや
穂積(ほずみ)
八月一日=はっさく・ほずみ・ほそみ・やぶみ・わたぬき
八朔 穂積 細身 養父視 綿貫
八月朔日=はっさく・ほずみ・ほそみ・やぶみ・わたぬき
八作 補通視 細見 藪見 渡貫
臍見 矢文 倭脱
八月一日宮=ほずのみや
八月十五日=なかあき
八月三十一日=ほずのみや
八月晦日=はつみ・ほずみ
↓↑
わたぬき=四月一日
ーーーー
・・・???・・・
厥圖(欠図)・・・
・・・アレレレッ!・・・10月22日になっちまった・・・「クマ」にコダワッテ、再調査していたらトンデモナイ時間を喰ってしまった・・・選挙も決まったようだし・・・「白村江・白馬江・錦江・熊津」は本当の場所は何処だったんだか・・・「熊川(浦萕)→鎮海→泗川→昆陽→河東」・・・世界地図から日本が消えた(9月27日正午前)・・・(9月27日正午修正出現)・・・「(3:32 - 2017年10月13日)また日本が抜け落ちている、平昌五輪の広報世界地図。修正されたのに」・・・「2017年10月14日(00:15)復活」・・・???
地名の改竄、地名位置の改竄、名前の改竄、文章の改竄・・・物語の改竄、碑文、芸術品の偽物(レプリカ・replica)はあるが・・・
「闕字(ケツジ)=文書中に天子や貴人に関する文字が現れたとき、これに敬意を表すために、該当する用語の前に1字または2字分の空白を設けること」・・・「日本では中国の書式に倣って大宝律令で導入」・・・
「平出(ヘイシュツ)=平頭抄出=文書の文中に敬意を表すべき人物の文字が出てきたとき、これに敬意を表し、該当する用語を用いる際には改行を行って当該文字を行頭に置いて書き出すこと
」・・・
「闕画(ケッカク)=貴人の名を記す際に敬意を表して字画の一部を省略」・・・「字画」で、「絵画(モザイク・漆・絵具)の欠落部分」ではない・・・「絵の欠落する部分」としたら
蒔絵(まきえ)
彫漆(チョウシツ)
蒟醤(キンマ)
沈金(チンキン)
螺鈿(ラデン)
平文(ヒョウモン)
堆錦(ついきん)
彫金(チョウキン)
などだろう・・・
「避諱(ヒキ)=目上の者の諱(字)を用いることを忌避する中国、東アジアの漢字文化圏の慣習。二字名の場合にどちらか一字を忌避とし、欠字にする」・・・
闕字を全廃したのは「福沢諭吉」だったらしい・・・法的には「1872年に闕字の廃止令が出されたが、その後闕字の慣行は復活」・・・
「闕画=欠図」は「敬意」を表してのコトなんだか・・・???・・・
ーーーーー
熊津-都督-府(ユウシントトク-フ)
結う新 訳解く附
邑 新 都徳 符
唐が
百済を滅ぼした後
忠清南道
に相当する
百済旧域の管理を
目的に設置した植民地・・・
唐が
高句麗と
百済を滅ぼした後
唐の対外出先占領軍の機関組織・・・GHQ?
旧高句麗領を
安東-都護-府・・・都護-府
旧百済領を
熊津-都督-府・・・都督-府
新羅も藩属国から
鶏林州-都督-府・・都督-府
へ切り替え
半島全域を
羈縻州とした
羈縻政策(キビセイサク)
↓↑ ・・・羈=罒+革+馬
=手綱で繋ぎ留める・繋ないで自由を奪う
「おもがき」の転・馬具の一
おもがい・たづな・たび・つなぐ・キ・ハ
馬を繋ぎ止めるため、頭部から頬の部分にかけて
つけた組みひも・たづな(幉)
馬のくつわにつけて、操る綱
馬のおもがいのようにつなぐ
自由を拘束する。
馬の轡(くつわ)を
頭と首に繋ぎ止める組紐
おもづら
羈絆・不羈
馬で旅をする
羈客 (キカク) ・羈旅
↓↑ 縻=广+林+糸
=きづな・ミ・ビ
しなやかな牛の鼻綱
つなぎとめるひも・しばる
つなぐ・つなぎとめる
↓↑ やんわりと拘束する
羈縻政策(キビセイサク)
中国が周辺の
異民族を統御する政策呼称
中国の王朝は
周辺の異民族・諸国家に対し
政治的・軍事的・文化的な
従属関係をつくりあげ
領域化(内地化)
羈縻
冊封
などの形態を取った
領域化=支配地に内地と同じ州県を設置し
中央から官僚を送り
そこの住民を中国の国法下に置いて
直接支配
冊封=周辺民族・国家の首長に
王や侯といった中国の爵号を与え
形式的な君臣関係で
中国の支配秩序に組み込むんだ
↓↑
熊津(ゆうしん・ウンジン・くまづ)
・・・錦江(クムガン→くまガム)?
緯度 36度5分
百済の古都
万葉仮名で
久麻那利
(くまなり・こむなり)
百済語で
固麻那羅
(コマナル)
熊津=錦江=白馬川?
のほとりの都市
忠清南道
公州市・・・
475年
高句麗の
長寿王が
百済の国都
漢城(ソウル特別市)を陥落させ
百済
蓋鹵王
を処刑
後
文周王・・・文の周の王
が即位
首都を
熊津に遷都
後
聖王が
538年
泗沘(忠清南道扶余郡)
へ遷都
63年間、百済の首都
新羅の統一後
熊川州→熊州
高麗時代に公州と改称
公州市には
熊津洞という地名が残る
↓↑
『日本書紀』巻二十七・天智六年(六六七)
十一月丁巳朔乙丑
百濟鎭將
劉仁願
熊津-都督-府
熊山-縣令
上柱國
司馬法聰
等
を遣して、
大山下
境部連
石積
等を
筑紫-都督-府に送る
己巳に
司馬法聰
等を罷り歸る
小山下
伊吉
連
博徳
大乙下
笠臣諸石
爲
を以て送使とす。
↓↑
ーーーーー
「筑紫-都督-府」の所
筑紫太宰府
『続日本紀』巻一・文武四年(700)
六月庚辰
薩末比賣・・・薩末(さつま)比賣(ひめ)
久賣。
波豆。
衣-評督
衣-君縣。
助督
衣君
弖自美(てじみ)。
又
肝衝難波。
從
肥人
等
持兵。
剽劫・・・剽劫(ヒョウキョウ)=脅迫
覓(國)・・・ベツコク
覓=爫+見=まぐ・求める・捜す・尋ねる
國覓
神が鎮座すべきよい土地を探し求めること
天皇が都とすべきよい土地を探し求めること
(國)
使刑部-眞木
等。
於
是勅竺志(ちくし)惣領。
准犯决罸。
↓↑
ーーーーー
「都督」なければ
「評督」という言葉はない・・・?
・・・「都督」も「評督」も役職名?・・・
「倭の五王」は
「宋書」の記録に
「使持節-都督」
という
称号を要望し
与えられた
日本列島に
「都督」の役職名が存在・・・
その「都督」の下に「評督」がいた
「都督-府」
「日本書紀」に
「筑紫-都督-府」とある
「都督-府」は九州の地名
「日本書紀」巻二十七・天智六年(667)
十一月丁巳朔乙丑
百濟鎭將
劉仁願・・・・・・・劉仁願は
熊津-都督-府(に)
熊山-縣令
上柱國
司馬法聰
等を遣して、・・・・派遣して
大山下
境部連
石積
等を
「筑紫-都督-府」に送る
己巳に、
司馬法聰
等
罷り歸る。
小山下
伊吉
連
博徳
大乙下
笠
臣
諸石
を以て送使とす。
↓↑
原文
『日本書紀』巻二十七・天智六年
十一月丁巳朔乙丑。
百濟鎭將
劉仁願
遣
熊津-都督-府
熊山-縣令
上柱國
司馬法聰
等。
送
大山下
境部
連
石積
等
於・・・・・・「於」の有無?
筑紫-都督-府。
己巳。
司馬法聰
等
罷歸。
以
小山下
伊吉
連
博徳。
大乙下
笠
臣
諸石
爲
送使。
是月。
築倭國
高安城。
讃吉國
山田郡
屋嶋城。
對馬國
金田城。
↓↑
ーーーーー
「於」がないと
古い写本では
「大山下境部連石積
等の(を)
筑紫-都督-府に送る」
となる・・・
送った主語は誰か
「百濟鎭將
劉仁願」
である。
彼は百済に派遣された
「百濟鎭將」で
目的語は
「熊津-都督-府
熊山-縣令
上柱國
司馬法聰
等(に・へ)」。
彼らを
「筑紫-都督-府」へ遣わした
「於」がないと
「送大山下境部連石積
等
筑紫-都督-府」は、
「大山下境部連石積
等の
居た
筑紫都督府へ送る」
「筑紫-都督-府」へ送るとなる
↓↑
「劉仁願」が
「筑紫-都督-府」へ
「司馬法聰」を遣わした
「大山下境部連石積
等のいる
都督-府(筑紫-都督-府)」へ送った
↓↑
『日本書紀』巻二十七
天智四年(六六五)九月
庚午朔壬辰
唐國、
朝散大夫
沂州
司馬馬
上柱國
劉徳高
等を遣す。
(等は、
右戎衛郎將
上柱國。
百濟將軍
朝散大夫
上柱國
郭務悰(忄+宗)
を謂ふ。
凡て二百五十四人。
七月廿八日に對馬に至る。
九月廿日に筑紫に至る。
廿二日に表函を進る。)
・・・
坂合部
連
石積(境部連石積)
天智四年(665)「小山」 大唐派遣時の冠位
↓
天智六年(667)「大山下」 大唐派遣後の冠位
十二月戊戌朔辛亥
物を
劉徳高
等に賜ふ。
是月
劉徳高
等
罷り歸りぬ。
是歳
小錦守君
大石
等を
大唐に遣わすと、云々。
(等は、
小山 -坂合部連石積
大小乙-吉士岐彌
吉士針間
を謂いふ。
盖し唐の使人を送るか。)
↓↑
原文
『日本書紀』巻二十七天智六年
十一月丁巳朔乙丑。
百濟
鎭將
劉仁願
遣
熊津-都督-府
熊山-縣令
上柱國
司馬法聰
等。
送
大山下
境部連
石積
等
於
筑紫-都督-府。
↓↑
擐=扌+睘・・・環・還・寰
=つらぬく・カン・ゲン・ケン・セン
物の端から端まで
表から裏へ通す
始めから終わりまで方針や考えをつらぬく
↓↑
「宋書・倭国伝」
順帝
昇明二年
遣使上表曰
封國偏遠作藩于外
自昔祖禰
躬擐(扌+睘)甲冑
跋渉
山川
不遑寧
處
東征
毛人
五十五國
西服
衆夷
六十六國
渡
平
海北
九十五國
王道
融泰廓土遐畿累葉朝宗
不愆于歳
臣
雖
下愚忝胤
先緒驅
率所
統歸
崇天極道遥
百濟
裝治
船舫
而
句驪
無道圖
欲見呑掠抄邊隷虔劉
不已毎致稽滯
以失良風
雖曰進路
或通
或不臣亡
考
濟實忿寇讎壅塞天路
控弦百萬義聲感激方
欲大擧奄
喪父兄使
垂成之功
不獲一簣居在諒闇
不動兵甲
是以偃息
未捷至今欲
練甲治兵
申父兄之志義士
虎賁文武
效功白刃交前亦所
不顧
若以
帝徳覆
載摧
此彊敵
克靖方
難無替前功竊
自假開府儀
同三司
其餘咸
假授以勸忠節
詔除
武使持節都督
倭
新羅
任那
加羅
秦韓
慕韓
六國
諸軍事
安東大將軍倭王
ーーーーー
帰化人=亡命人
日本書紀・応神紀
応神七年条(396年)
高句麗人・百済人・任那人・新羅人
並来朝」
応神十四年条(403年)
弓月君
自
百済
来帰・・・百二十県民而帰化
応神二十年条(409年)
倭漢直祖
阿知使主
・・・
並率己之党類十七県
396年~約13年間
列島への地域的な集団亡命
高句麗好太王碑
好太王=広開土王
百済の討伐・・・
百済には
北の漢城百済
南の熊津百済
拠点
高句麗の戦闘は
北の漢城百済から開始
396年は
京畿湾を
舟で南下
熊津百済から侵攻滅亡
陸路北行して
漢城百済を攻撃
百済王に忠誠を誓わせ
平壌に帰還
戦闘の難を避け
王族集団が
九州に避難
半島の旧領地の
軍事権の承認を南朝に求め、南朝も承認
半島の旧領地の住民も
地域単位で
九州に移動
高句麗好太王の
熊津百済討伐で
新羅は解放され
高句麗寄りになる
ーーーーー
東京 (北緯35度68分)
水戸 (北緯35度44分・南端)
↓↑
群山市(北緯35度59分)は
錦江(クムガン)下流南岸に位置
北は
錦江を隔てて
忠清南道舒川郡と接し
西は黄海に面し
南は全羅北道金堤市
東は益山市に接する
黄海を隔てて対岸は
中国の
山東半島・・・
沖合に
古群山群島が所在
沿岸に
金堤市を経て
南の扶安郡にまで広がる
セマングム(干潟)がある
韓国最大級の干拓事業
ーーーーー
東国寺(トングクサ)
韓国全羅北道群山市
曹渓宗の寺院
敗戦以前
日本の曹洞宗に属し
登録文化財に登録されている
唯一の
日本式寺院
↓↑
1932年(昭和七年)9月25日
上樑(棟)式で、増改築
門柱に「昭和9年6月吉祥日」
境内整備を含め
「錦江寺」が完成した・・・
二世長岡玄鼎代
長岡玄鼎は
内田佛観と同郷で
錦江寺に鐘楼を建設
梵鐘は京都の名匠
高橋才治郎
の作
1933年(昭和8年)
長岡玄鼎急死
京城別院から
浅野哲禅が赴任し
錦江寺三世となる
1937年(昭和12年)
浅野哲禅転任により
木村久朗が四世に
1945年
敗戦で米軍に没収
1947年
韓国僧侶
南谷師が払下げを受けて寺を再開
東国寺と命名
1955年
仏教全羅北道宗務院に所属
1970年
大韓仏教曹渓宗
第二四区禅雲寺に登録
東国寺の
本尊・釈迦三尊仏像は
文禄・慶長の役
の時期の作品
ーーーーー
「炭峴(大田広域市西の峠)」
大邱広域市(北緯35度52分)
・・・・
「クマ(熊)」は何処か?・・・「熊の毛」は何色か?
・・・「クマ(熊)」は何処か?・・・熊の毛の色は何か?・・・「黒」 or 「褐色=ブラウン(brown)」、そして「白熊」が存在するから「白色」・・・パンダ(panda・猫熊≒熊猫・大熊猫・大猫熊)は「白黒」だが・・・パンダが発見される以前は「レッサーパンダ(小熊猫・小熊貓)=鼬(鼠+迪・いたち)科」の元々の名前だったらしい・・・猫=熊になったのは十二支上のネヅミとネコの北方位置の争いでネヅミ(鼠)がネコ(猫)を追いだしたコトになっているが「大猫熊」、「小熊貓」は北極星を周回する場所を得た、と云うコトか?・・・
イイズナ(飯綱)=イタチ科=コエゾイタチ(小蝦夷鼬?)
クズリ(貂熊・屈狸)=イタチ(鼬)科・・・スカンク・skunk?
ラッコ(海獺・猟虎
アイヌ語Rakko・英語Sea otter)
=イタチ科
カワウソ(川獺)亜科- ラッコ属
イタチ科で水棲に進化したのが
カワウソ(川獺)類(カワウソ亜科)
・・・カワウソ=川嘘・・・加話嘘・・・?
川流=かわる=変わ留・・・
河流=氵(水)+可+氵+㐬・・・
「毓=毎+㐬=そだつ・そだつ・そだてる・はぐくむ」=育
云(二ム・亠一ム)+川
川=ノ+礀+乚=爪?
↓↑
河(カ )=かわ・かは=流れる→変化する・化波=掛話
川(セン)=かわ・かは=流れる→変化する・加波=掛話
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元(もと)の水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」
は、何で「方丈記(はうぢやうき・ホウジョウキ)」のタイトルなんだか?・・・「題名は長明が日野山に一丈(約3m)四方の庵(いおり・アン)を造り住んだことによる」?・・・「方(かた・ホウ)の丈(たけ・ジョウ)の記(しるす・キ)」・・・「草庵=ソウアン=創案・草案・いほり=意織・伊織・衣織・居織・井折)」・・・
「丈=尺貫法の長さの単位・1891年(明治二十四年)100メートルを三十三丈と定めた・10尺=1丈は、曲尺 (かねじゃく) で約3.03メートル・鯨尺で約3.79メートル・たけ・長さ・丈の短い反物」・・・「歌舞伎俳優の芸名、男性などの名に付けて、敬意を表す・・・○○丈→太郎丈」・・・
「方丈記(建暦二年・1212年・三月成立・鴨長明・久寿二年(1155年)~建保四年閏六月十日(1216年7月26日)・法名は蓮胤・菊大夫」・・・「1922年(大正十一年)健康保険制定(企業雇用者の職域健康保険)」・・・
「建保四年閏六月十日」って?「鴨長明=かものチョウメイ=カモの長命」・・・「健保・建保=ケンポ=憲保」を標的にしていたのカモ・・・公聴=コウチョウ=広聴・・・
↓↑
1935年(昭和十年)
農家・自営業者の地域保険
埼玉県越ヶ谷町(越谷市)の
一般住民を対象とした
地域健康保険制度
「越ヶ谷順正会」を発足
↓↑
1938年(昭和十三年)
政府レベルで
国民健康保険法(旧法)が創設
↓↑
越谷市は・・・・・・・・武蔵野・・・埼玉県南東部
「越ヶ谷順正会」を
「国民健康保険の発祥」
国民健康保険法施行10周年を記念し
1948年(昭和二十三年)
「越ヶ谷順正会」を顕彰する
「相扶共済の碑」が
越谷市役所の敷地内に立てられた・・・
「荒川(あらかわ)は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ河川・山形県および新潟県を流れる河川」だが、北海道から沖縄まで河川の名前で、およそ二十八も存在している「荒川」で、由来そのものが台風、豪雨で「洪水・氾濫」の繰り返しの河川だったんだろう・・・モチロン、九州にも「荒川」・・・
↓↑
荒川 (佐賀県)=佐賀県
武雄市を流れる
松浦川水系
川古川支流
荒川 (熊本県)=熊本県
天草市を流れる
内野川水系
荒川 (いちき串木野市)=鹿児島県
いちき串木野市を流れる
荒川川
荒川 (屋久島)=鹿児島県
熊毛郡
屋久島町を流れる
安房川水系
↓↑
「猫=ねこ=貓=根子(コンシ・ねっこ)・根古(コンコ・ねふる)・根来(ねごろ・コンライ)」・・・
「根子岳(北緯32度53分・東経131度08分」は熊本県阿蘇郡高森町にある山で阿蘇五岳の一で、宮町と宮地町の境をなす東峰、天狗峰、西峰から成る山だが・・・同名異山の「根子岳(北緯36度32分・東経138度23分)=四阿山カルデラの南東縁、四阿山山頂から北西」は、長野県上田市菅平高原と須坂市の境にある山である・・・
「パンダ」の由来はネパール語で「ポンヤ=竹」、「パンジャ(panja)=手の平(五指を含む)」・・・
ーーーーー
「白河法皇」が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いた・・・「賀茂河の水」とは、古来氾濫を繰り返す暴れ川・・・
↓↑
白河天皇
第七十二代天皇
在位
延久四年十二月八日(1073年1月18日)
~
応徳三年十一月二十六日(1087年1月3日)
諱を貞仁(さだひと)
父は後三条天皇の第一皇子
母は藤原公成の娘で
藤原能信の養女、藤原茂子
↓↑
後白河天皇
第七十七代天皇
大治二年九月十一日(1127年10月18日)
~
建久三年三月十三日(1192年4月26日)
在位
久寿二年七月二十四日(1155年8月23日)
~
保元三年八月十一日(1158年9月5日)
父は鳥羽天皇の第四子
母は藤原璋子
諱は雅仁(まさひと)
日本国第一之大天狗
ーー↓↑ーー
・・・白川・白河、結構、けダら毛、ネコ灰だらけ・・・
↓↑
白川 (熊本県)=熊本県中北部を流れる本流河川
白川 (渡島)=北海道茅部郡森町・尾白内川水系河川
白川 (上川)=北海道上川郡・上川町・石狩川水系河川
山形県山形市・最上川水系
馬見ヶ崎川の別称
最上白川=山形県最上郡最上町・最上川水系
最上小国川支流
置賜白川=山形県長井市・西置賜郡
飯豊町最上川水系河川
榛名白川=群馬県高崎市・北群馬郡
榛東村・利根川水系
烏川支流河川
赤城白川=群馬県前橋市・利根川水系
桃ノ木川支流河川
白川=長野県木曽郡
木曽町・木曽川水系
西野川支流の河川
白川=長野県・木曽郡王滝村
木曽川水系
王滝川支流河川
白川=長野県・木曽郡王滝村
木曽川水系
濁沢川支流河川
白川=長野県・諏訪郡・富士見町
富士川水系河川
白川=岐阜県・揖斐郡・揖斐川町
木曽川水系
坂内川支流河川
白川=岐阜県・中津川市・加茂郡白川町・東白川村
木曽川水系
飛騨川支流河川
白川=静岡県賀茂郡西伊豆町
仁科川水系河川
白川=愛知県豊川市を流れる
音羽川水系河川
白川=愛知県春日井市
庄内川水系
内津川支流河川
白川=滋賀県大津市・京都府・京都市・左京区
淀川水系
鴨川支流河川
白川=兵庫県・神戸市・須磨区
明石川水系
伊川支流河川
白川=福岡県・京都郡・苅田町
長峡川水系
小波瀬川支流河川
白川=宮崎県・えびの市
川内川水系河川
白川川=高知県・土佐市
仁淀川水系
波介川支流河川
白川川=佐賀県・西松浦郡・有田町
有田川水系河川
白川川=長崎県・長崎市
多以良川水系
二股川支流河川
白川川=鹿児島県・伊佐市・姶良郡・湧水町
川内川水系河川
ーー↓↑ーー
白川村
白河村=茨城県・東茨城郡・白河村(小美玉市)
白川=北海道札幌市南区にある地名
白河の関=福島県白河市にあった関所
白河・白川=福島県南部の地域
白河市、東白川郡、西白河郡
白川=群馬県高崎市箕郷町
白河=東京都江東区
白川町=岐阜県加茂郡の白川流域の町
白川=岐阜県大野郡・白川村・白川郷
白川=愛知県名古屋市中区
旧栄区白川町・白川公園・白川出入口
白河=白川=京都府京都市左京区
北白川、
岡崎周辺の旧地名
平安時代後期に
洛南の鳥羽と共に院政の中枢
白河(洛外)
白川通=京都府京都市の南北の通りの一
白川・白川台=兵庫県神戸市須磨区
白河区=台湾台南市の市轄区
白河県=中国陝西省安康市の県・・・安の康
白川町=台湾嘉義市
白川郡=福島県にあった郡
白河郡=福島県にあった郡
白川郡 (黄海南道)=朝鮮国・黄海南道の郡
白河鎮
白河郷=(九寨溝県
=中国四川省
アバ・チベット族
チャン族
自治州
九寨溝県の郷
白河郷=屏辺ミャオ族自治県
中国雲南省紅河
ハニ族イ族
自治州
屏辺ミャオ族
自治県の郷
白河藩=陸奥国
白河(福島県白河市)
周辺を領有した藩
白河の関は、
鼠ヶ関(ねずがせき)=念珠関・・・鼠=子=了+一=終始
越後国と出羽国の国境にあった関所
古代には蝦夷地との境界地点
都岐沙羅柵 (つきさらのき) が置 かれた
トキサラサク
解記(紀)沙良詐句・・・持統天皇(書紀)?
勿来関(なこそのせき)=菊田関・・・記句多籍・規矩他昔
「なこそ=な来そ」=「来るなかれ」
「な~そ」=強意の禁止
とともに、 奥州三関の一つ
「六国史」
白河の初出は
718年(養老二年)五月二日
陸奥国から
「白河」など五郡を分割し
石背国を設置・・・石背国(いわせのくに=云わ施の句似)
セキハイコク
施記葉意古句
728年(神亀五年)四月十一日
多賀城を
陸奥国支配の本拠地とし
白河軍団の新設を許可
769年(神護景雲三年)三月十三日
陸奥国
大国造
道嶋
宿祢
嶋足
の申請によって
功績者への賜姓付与
白河郡では
丈部某・・・・・・丈(たけ・ジョウ)部(べ・ブ)の
某(なにがし・ボウ)=甘+木
と
大伴部某
がそれぞれ
阿部陸奥臣
および
阿部会津臣
を授かった
780年(宝亀十一年)十二月二十二日
陸奥
鎮守府
副将軍
百済王・・・・・・・・百済の王・・・敵は新羅だが?
俊哲・・・・・・・・・俊(イム八夂)の哲(折口)
俊(すぐれる)・唆(そそのかす)
が賊に囲まれ
「白河」の神など
十一神に祈ったところ
これを突破できたとして
弊社に加えることを許可
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源頼朝が・・・源氏は新羅を名前に有する者がいるのは
清和天皇自体が
新羅系の血統?・・・じゃなくても
立場、思想上の親派(sympathizer)?
シンパ・共鳴者・支持者・同情者・同調者
賛同者・・・恩義を受けてもシンパになる?
源義光(新羅三郎・館三郎)が
新羅神社(新羅善神堂
智証大師円珍の建立
円珍は
讃岐國
金倉郷で誕生
俗姓は和気(分・別)
字は遠塵
弘法大師空海(佐伯真魚)の甥
仁寿三年(853年)
「新羅商人」の船で入唐
途中で暴風で台湾に漂着)
で
元服し「新羅三郎」と名乗った・・・?
河内源氏の2代目棟梁の
源頼義の三男
源義光(新羅三郎・新羅神社)
母は平直方の女・・・「平」の直方?
兄に
源義家(八幡太郎・宇佐神社)
源義綱(賀茂次郎・加茂神社)
武門の棟梁の祖?
第五十六代・清和天皇
嘉祥三年三月二十五日(850年5月10日)
~
元慶四年十二月四日(881年1月7日)
在位
天安二年十一月七日(858年12月15日)
貞観十八年十一月二十九日
(876年12月18日)
諱は惟仁(これひと)
水尾天皇ともいう
文徳天皇の第四皇子
母は太政大臣の
藤原良房(太政大臣・後に摂政)の娘、明子
生後8か月で皇太子
八歳で即位
二十七歳で譲位
第六皇子
貞純親王の子の
経基王の子孫、末裔が
源頼朝・足利尊氏
「将軍」とは?・・・征討侵攻駐留の
軍事的支配権を有する司令官
GHQ=連合国軍最高司令官総司令部
General Headquarters
進駐軍による軍事行政権力機関の
最高司令官である
「征夷大将軍」だが、
大陸中国王朝に求め、
もらった
「将軍」の称号とは?
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「421年・讃=安東将軍倭国王」
「438年・珍=自称
使持節都督
倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓
六国諸軍事、
安東大将軍倭国王
安東=
宋の文帝、
珍を
安東将軍倭国王、とする
珍はまた、
倭隋ら十三人を
平西・征虜・冠軍・輔国将軍
の称号を求め、許される」
「443年・済=宋の文帝、安東将軍倭国王」
「451年・済=宋の文帝、
使持節都督
倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
六国諸軍事を加号」
「安東将軍」はもとのまま
七月、
「安東大将軍」に進号
「462年・興=宋の孝武帝、
済の世子の興を
安東将軍倭国王」
「477年・興=興没、弟の武立つ
武は自ら
使持節都督
倭・百済・新羅・任那
加羅・秦韓・慕韓
七国諸軍事安東大将軍倭国王と称」
「478年・武=自ら
開府儀同三司
と称し、叙正を求める
順帝、
使持節都督
倭・新羅・任那
加羅・秦韓・慕韓
六国諸軍事
安東大将軍倭王」
「479年・武=南斉の高帝、王朝樹立に伴い、
倭王の武を
鎮東大将軍(征東将軍)に進号」
「502年・武=四月、
梁の武帝、王朝樹立に伴い、
倭王武を
征東大将軍に進号」
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奥州藤原氏を滅ぼす
奥州合戦の際に
頼朝が
白河に達した時に
梶原景季に歌を詠むよう命じると
「秋風に草木の露をば払わせて
君が越ゆれば関守も無し」・・・訓を請えれば籍取も無し?
と詠んだ
「白河関」の廃止後、遺構は失われ
位置も不明だったが
1800年(寛政十二年)
白河藩主
松平定信
が文献考証を行い
白河神社の建つ場所が
「白河の関」跡であると論じた・・・
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「天武天皇の皇子高市親王の子孫で高階峯緒に連なる正四位下尾張守高階為遠の女が「白河院尾張」を号した」・・・「尾張」って?名古屋・・・
「尾張の小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち・生年不詳~天武天皇元年(672年7月or 8月)。姓は連・672年の壬申の乱で尾張国司守として大海人皇子(天武天皇)に味方したが、内乱終結後に自殺した人物」・・・この自殺も謎らしいが・・・ワナにハメられた・・・
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「白川・白河」はあっても、
「黒川・黒河・玄川」はどうか・・・石炭産業の勃興時からである、と思いキャ、それ以前から結構ワンサカあるな、もちろん、「熊本県阿蘇の黒川温泉(瓜を盗んだ男の身代地蔵の首から温泉)」をはじめ、「黒川=北海道・余市郡・余市町を流れる余市川水系準用河川」等々・・・
「小熊秀雄(おぐま ひでお・1901年9月9日~1940年11月20日)=詩人・小説家・漫画原作者・画家・筆名、小熊 愁吉(おぐま しゅうきち)、黒珊瑚(くろさんご)、旭太郎(あさひ たろう)・旭太郎名義で原作を担当した漫画『火星探検(大城のぼる作画・1940年)』は、日本SF漫画の先駆」、「北海道小樽市稲穂町に生まれる・幼少期を稚内市・秋田・樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業」・・・なんか、ブログ記事に添付された彼の写真、トンデル・・・
「大城のぼる」のマンガは幼稚園(保育園)の女の先生の家でボクが初めて見たマンガだった・・・
ソウ云えば、名古屋に「黒川駅」があったけ、ナッ、名古屋市北区城見通3丁目・・・
日本に築城された各々の城の色は「白黒」に分かれているいるようだが・・・
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「熊の本」
「肥後」=ヒゴ=蜚語・卑語・飛語
蜚=あぶらむし(油虫)・とぶ・ヒ
蜚蠊=ごきぶり・・・ムシに非ず?
ごきかぶり(御器噛)
鄙語=田舎びた言葉
比護・庇護
籤=くじ・かずとり・セン
竹を細く割って削ったもの
籠や提灯の骨などに使う竹ひご
流言蜚語=事実とは異なる伝聞
根拠のない噂(うわさ)
デマ=ドイツ語 Demagogie
英語 demarcation
fake news
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「白川・坪井川」
・・・熊本にある川の地名由来
白川=白川・白河
白川(はくせん・ペチョン)
白河(はくが)
坪井川=熊本県熊本市を流れる河川
改寄町付近に源を発し南流
有明海の島原湾に注ぐ
「あんたがたどこさ」の手鞠唄の
「せんば川」は
船場町を流れる坪井川のコト
坪=十一平
壺井栄って?「二十四の瞳」=12人?
大改修以前
熊本の
白川と坪井川
熊本市役所付近で
合流し下通を貫いて
白川に流れていた
流路に変更したのは
加藤清正
熊本城築城の際、
坪井川と
阿蘇からの
火山灰を含んだ
・・・白砂の火山灰=シラス(白砂・白州)
九州南部一帯に厚い地層として
分布する細粒の軽石や火山灰
鮮新世~更新世の火山活動による噴出物
白川
が合流する様を見て
流路を分け
城に近い
坪井川を内堀に
遠い
白川を外堀とする
河川改修をした
下流にある
再合流地点に
石塘を築き
両河川を河口まで分流した
下流の地域を
氾濫から防ぐ設計だった
熊本4大河川改修
白川、坪井川の付替、
緑川の鵜の瀬堰、
球磨川の遥拝堰、
菊池川に於ける
各種改修の結果
穀倉地帯が生まれた
熊本平野・八代平野・玉名平野
干拓と堤防の整備で
海岸に近い地域にも
畑作地域が生まれた
白川水系の主に
熊本平野への
灌漑事業
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文禄元年(1592年)
文禄・慶長の役
朝鮮出兵
慶長二年(1597年)
慶長の役で
加藤清正は
左軍の先鋒となった
小西行長に対し
右軍の先鋒となった
再び朝鮮に
渡海する際
小西行長は
明・朝鮮軍側に
加藤清正の上陸予想地点を
密かに知らせた・・・?
李舜臣はこれを罠だとし出撃せず
清正への攻撃はしなかった・・・
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清正が
肥後国を治めていたのは
天正十五年(1587年)
~
慶長十六年(1611年)
朝鮮出兵等もあって
熊本に居住していた期間は
15年程度
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