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美声を「美唄(口+貝)」だなんって・・・カラス貝

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 ・・・7/17/19:50・・・「海の声」・・・「島津亜矢」さん、何を歌っても「美唄」な歌唱力・・・アイヌ語の「ピパィ=カラス貝の川」、「ピパオマナィ=カラス貝・ある・川)」、「ピパオィ=カラス貝・多い・所」・・・「マリア・カラス(Maria Callas, ギリシア語: Μαρία Κάλλας, 1923年12月2日~1977年9月16日)」・・・「美しい(うつくしい)のギリシャ語、カロス・カラス=καλος ・ギリシャ語」・・・美声を「美唄(口+貝)」だなんって、漢字を当てた命名者はギリシャ語も堪能だったカモ・・・
 1923年12月2日   ~1977年9月16日)
 癸亥(戊・甲・壬)⇔丁巳(戊・庚・丙)
 癸亥(戊・甲・壬)⇔己酉(庚・ ・辛)
 己酉(庚・ ・辛)⇔丙子(壬・ ・癸)
  寅卯=空亡
ーーーーー
 「朝三暮四」って?・・・「トランプ・17日、2016年の米大統領選にロシアが介入したとする米情報機関の捜査結果を受け入れると述べた。ロシアのプーチン大統領と行った16日の記者会見では、米情報機関よりプーチン氏を信じるような発言をしたが、言い間違いだったと釈明。共和党など足元から批判を受け、わずか1日で発言を軌道修正」・・・?・・・コロコロと変わるが、ウソの上塗り、言い訳の「某国政府」よりはマヒか?・・・マシ・・・
 「トランプはホワイトハウスで議会幹部と会談。当初は非公開の予定だったが、急遽、冒頭部分を公開」し、「米情報機関を全面的に信頼している」と強調。「2016年の選挙にロシアが介入したという情報機関の結論を受け入れる」と語った・・・
 トランプとプーチン
 フィンランドの首都
 ヘルシンキで
 16日に会談
 会談後の記者会見で米露の関係改善をアピール
 敵はロシアではなく、ナトウ・・・
 米大統領選への介入を否定するプーチンに
 トランプは異議を唱えず
 米国の情報機関(CIA)よりも
 ロシアの主張を信じる・・・?
 イラク情報は「捏造されたインテリジェンス=偽情報」・・・
 ・・・戦争仕掛け目的で(味方に?)流す謀略情報・・・
 「意図的な偽の情報=謀略情報・流言飛語・デマ・流言・流言蜚語」
  で
 「誤った情報・誤報」ではない「fake news=がせねた」・・・
 「誤報」ならば後で言い訳出来るのか?
 「フェイク (Fake)・偽物」・・・「米国大統領選に関する「ロシア疑惑」を捜査してきた米国の特別検察官は7月13日、ロシア軍の情報機関要員12人を新たに起訴した。いずれも、2016年の米国大統領選キャンペーンに不正に介入したという罪状」・・・
 「政治的な目的で、意図的に流す扇動的かつ虚偽の情報」・・・
 「Demagogi・demagogy・Demagogie」・・・
 にせもの・模造品・まやかし・・・
 フェイクファー(fake fur)=合成繊維を使った模造毛皮
 アメリカンフットボールで、意図しているプレーや動作を
 相手に見破られないように行うトリックプレー・・・
 ジャズの即興演奏・・・ad lib・・・?
ーーーーー
 遺跡が残されるのは
 水害での土砂に埋もれる
 噴火での火砕流、熔岩、火山灰で埋もれる
 地層や年輪からも当時の現実、実情が「推測」が出来る・・・
 リュウグウの採石から宇宙の歴史が推測出来る・・・?
 ↓↑
 ・・・事実は銘文文字の中にも埋もれる・・・?
 ・・・オモイもコトバの音中にもウズもれる・・・?
 ↓↑
 安康天皇が、
 大草香(大日下)皇子の遺子の
 眉輪(目弱)王に暗殺
 大泊瀬(長谷)皇子は、
 兄弟や
 従兄弟を殺害し、
 雄略天皇に就任
 ↓↑
 父の
 市辺押磐皇子・・・市(亠巾)の辺(あたり)の押磐(磐を押す)
          亠の巾=音のハバ
 を殺された
 億計、・・・億(人の意)を計る
 弘計・・・・弘(弓のム)を計る
        ・・・ム=私・よこしま・曲がった腕、肘の形象
 の兄弟の皇子は、
 日下部連使主と
 息子の
 日下部
 吾田彦・・・・・・・吾(我・私)田(狩・田圃)彦(比古)
 に連れられて、
 丹波の・・・・・・・丹羽・丹葉・丹場・但馬・萱場
           足んば?
          =京都府中部と兵庫県中東部に相当
           兵庫県中東部の市
           日本海側斜面と瀬戸内海側斜面を分け
           氷上(ひかみ)地区の
           石生(いそう)は日本で一番低い分水界
           太平洋に注ぐ加古川と
           日本海に注ぐ竹田川
          (下流で由良川に合流)の源流域
 与謝郡に逃げ、
 更に
 志染(しじみ)の
 石室から、
 志染の天領に向かった
 日下部連使主は、
 荷物を焼却し、
 綱を切って馬を逃がし、
 志染の石室で縊死
 二皇子(億計・弘計)と
 日下部吾田彦は、
 身分を隠し、
 志染
 天領の長の
 忍海部造-細目
 (おしぬみべのみやつこ-ほそめ)
 の屋敷で、
 牛馬の世話などの
 使用人になっていた
 細目の屋敷の新築祝いで
 新嘗祭の供物を集めに来ていた
 播磨国司の
 伊予
 来目部-小楯・・・来目=くめ=久米=組め=来米=くるめ=久留米
 (いよの
  くめべ-おだて)も、
 この宴に招かれ
 小楯は、
 兄弟に踊れと命じ
 弟王は、
 舞い歌いながら
 身分を明かした
 驚いた小楯は、
 2人(億計・弘計)を
 大和に連れてもどった
 弟が即位して
 顕宗天皇になり、
 兄もその後、即位
 仁腎天皇になった
 小楯は、
 その功績により、
 吉備臣(きびのおみ)を副官とする
 山守部の長官に任命され、
 山部連(やまべのむらじ)
 を名乗った
 (記紀・播磨風土記・先代旧事本紀)
 ↓↑
 第十六代
 仁徳天皇は、・・・大雀命(おほさざきのみこと・古事記)
          大鷦鷯尊(おほさざきのみこと・書記)
          大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)
          皇后=磐之媛
 日下部一族を
 大草香(日下)皇子
 と
 草香(日下)幡梭姫皇女
 の近侍に定めた
 皇后の近侍の
 日下部が
 二皇子(億計・弘計)を逃がした
 ↓↑
 丹後国風土記によると
 浦島太郎伝説が・・・書いたのは「高橋虫麻呂」
                 高橋=膳部(かしわでべ)
           膳臣(かしわでのおみ)=孝元天皇の皇子
           大彦命(おほひこのみこと)
           阿倍臣の祖の孫
           磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)が
           バンロクリクガンメイ
           景行天皇に堅魚(かつお)と蛤(はまぐり)を
           調進、嘉賞
           膳部の統領に任命されたのが起源
 丹波与謝郡にあり、
 日下部はその子孫・・・
 ↓↑
 日下部連使主は逃亡の際、
 この縁故を頼った
 日下部は、
 第九代
 開化天皇の子、・・・開化=文明開化=明治?
           孝元天皇七年~開化天皇六十年四月九日)
           孝元=十一ノ一了二儿
           和風諡号
           稚日本根子彦   大日日・・・ネコ=猫
          (わかやまとねこひこおおひひ)
           若 倭  根子日子大 毘毘命 
 彦坐命・・・・・・・ひこ=彦根・肥後?
 (ひこいますのみこと)
 の子孫
 彦坐命の子に
 四道将軍の一人、
 丹波道主命
 彦坐命は、
 丹波に縁
 日子坐王
 (ひこいますのきみ)
 (丹後風土記)
 ↓↑
 日下部は、
 日向の
 海部と関係・・・
 浦島太郎・・・・億計(おほけ)=大石尊(おほしのみこと)
                =意富祁王
                =意祁命
         大脚(おほし)・大為(おほす)
         字は嶋郎(しまのいらつこ)=浦島太郎
 ↓↑
 において、
 海亀が・・・・・・潜水艦?・鉄甲船・亀甲船(キッコウセン)?
 若狭湾にいる・・・
 ↓↑
 日向の・・・福岡の朝倉市に日向石の地名あり
              日向土(ボラ土)=軽石・・・珂瑠
              軽 皇子・・・孝徳天皇
              軽 =軽戦車
              珂瑠皇子・・・文武天皇
              珂瑠=白瑪瑙
 日下部が
 丹波・・・・越前に朝倉氏
 までやって来た・・・逆は越前の日下部が朝倉へ・・・来た?
 縄文時代から日本列島内の交易は遠近頻繁だった・・・
 ↓↑        
 弘計(をおけ)=来目稚子(くめのわくご)=袁祁王
         袁祁之石巣別命・袁奚
            石巣別=砕石の採石の場所
         ・・・イシス=石州・・・石出・岩手
            イシス=エジプトの女神・オシリスの妻
                ホルスの母
            頤使す=イシす=頤指す・頤使す
         来目皇子(くめのみこ)
         ?~推古天皇十一年二月四日(603年3月25日)
         久米王とも
         父は用明天皇
         母は穴穂部間人皇女
         聖徳太子は同母兄
 億計(おほけ)=大石尊(おほしのみこと)=意富祁王
         意祁命・大脚(おほし)・大為(おほす)
         字は嶋郎(しまのいらつこ)
 ↓↑
  ・・・朝倉⇔日下部庄・・・朝倉市=福岡⇔長門(穴戸⇔宍戸?)
   越前朝倉氏
   但馬国を拠点とした豪族
   越前国を拠点とし
   戦国大名となった
   本姓  日下部氏・・・日下部
   家祖  朝倉宗高
   種別  武家
   出身地 但馬国 養父郡 朝倉
   根拠地 但馬国
   越前国
   著名人物
   朝倉孝景
   朝倉宗滴
   朝倉義景
   支流、分家
   八木氏(武家)
   越前 朝倉氏(武家)
   土佐 朝倉氏(武家)
   溝江氏(武家)
   ↓↑
   朝倉市=福岡県の中南部
   筑後地域に位置する市
 日下部は
 彦坐命の子孫・・・
 ↓↑

 ↓↑
 日下部は、
 上総(かずさ)、大和、播磨、日向
 など大和朝廷と関係の深い地域に居住
 ↓↑
 孝徳天皇
 第三十六代天皇
 在位期間
 645年7月12日~654年11月24日
 元号 大化
 白雉
 先代 皇極天皇
 次代 斉明天皇(皇極天皇重祚)
 誕生 596年
 崩御 654年11月24日
 陵所 大阪磯長陵(大坂磯長陵)
 諱 軽(かる)
 別称 天万豊日天皇
 父親 茅渟王
 母親 吉備姫王
 皇后 間人皇女
 子女 有間皇子
 皇居 難波宮
 ↓↑
 敏達天皇の孫
 押坂彦人大兄皇子の
 王子
 茅渟王の長男
 ↓↑
 母は
 欽明天皇の孫で
 桜井皇子の王女、吉備姫王
 皇極天皇(斉明天皇)の
 同母弟
 ↓↑
 天智天皇(中大兄皇子)
 間人皇女
 天武天皇(大海人皇子)
 の叔父
 ↓↑
 姪の間人皇女は皇后
 ↓↑
 阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の
 小足媛を妃とし
 有間皇子を儲けた
 ↓↑
 蘇我倉山田石川麻呂の娘の
 乳娘(ちのいらつめ)を妃とした
 ↓↑
 大化四年(648年)
 新羅が使を遣わして調を貢じた。
 磐舟柵を治めて蝦夷に備え
 越と信濃の民を選んで
 初めて柵戸を置いた
 ↓↑
 大化五年(649年)
 高向玄理
 釈僧旻
 に命じて
 八省百官を置いた
 3月17日
 阿倍倉梯麻呂が死亡
 天皇は
 朱雀門に出て哀哭し、嘆いた
 3月24日
 蘇我日向が・・・・なぜ、日向なのか?
 皇太子(中大兄)に
 蘇我倉山田石川麻呂を讒言
 天皇が軍兵を起こし、
 石川麻呂は逃げた
 3月25日
 蘇我倉山田石川麻呂が自殺
 3月26日
 追討軍が
 蘇我倉山田石川麻呂の首を斬った
 4月20日
 巨勢徳陀古を左大臣
 大伴長徳を右大臣
 5月1日
 三輪色夫
 掃部角麻呂
 を新羅に遣わした
 新羅が
 金多遂・・・・・・・・・金の多を遂(とげる)?
 を遣わして人質にした
 大化六年(650年)
 2月9日
 穴戸国司の
 草壁醜経・・・・・・・・草壁の醜経(くさかべ の しこぶ)
                醜経(酉鬼糸又十一)
 が白い雉を献じた
 白雉元年(650年)
 2月15日
 白雉を観る儀式を行い、
   しろきじ=代記事(生地・木地・喜字・起辞・奇事)?
 大赦し、
 白雉(ハクチ・しろきじ)と改元
 穴戸国・・・長門国一帯の古名
 に鷹(ヨウ・たか)を
 放つことを禁じ
 同国の調(税)を3年間免除・・・
 4月
 新羅が使を遣わして調を貢いだ
 10月
 宮地にするために
 墓を壊されたり
 家を遷されたりした人に物を与え
 荒田井比羅夫・・・・・・荒田井の比羅夫?
 に宮の堺の標を建てさせた。
 山口大口
 が詔を受けて千仏の像を刻んだ
 安芸国に
 百済舶2隻を造らせた・・・百済舶?・・・なぜ、百済の船なのか?
 ↓↑
 粟田細目
 推古天皇十九年(611)大和(奈良県)
 菟田野(うだの)でおこなわれた
 薬猟(くすりがり=鹿狩りの角を薬とする)の責任者
 粟田細目
 「息長足日広額天皇
  (おきながたらしひろぬか の すめらみこと=舒明天皇)の
  喪(みも)を発(おこ)す・・・
  小徳粟田臣細目(あはた の おみ ほそめ)
  軽皇子に代(かは)りて誄(しのびごとまう)す」
 細目(ほそめ・サイモク)は、
 播磨風土記では、
 「伊等尾(いとみ)」となっている・・・伊=等=尾
                    意図は尾張?
 新羅から連れて来られた・・・?
 製鉄鍛冶職人達が
 大和に住み、
 それが
 全国に散らばって技術を伝えた
 忍海部もその一
 細目の館跡がある
 木幡の近くの
 帝釈山には、
 水銀を含有する
 赤土(丹)がある
 ↓↑
 億計・弘計
 二皇子の父の
 市辺忍歯別王、
 叔母の
 飯豊青皇女
 (いいどよあおのひめみこ)
 の
 母の
 黒姫が葛城氏
 ↓↑
 神功皇后の治世に
 葛城氏始祖の
 葛城襲津彦
 (かずらきのそつひこ)
 が新羅から連れ帰った捕虜に
 忍海漢人(おしみのあやひと)=新羅人?
 も含まれ
 これらの人々を
 葛城氏の領土の一部に住まわせていた
 飯豊青皇女は、
 この忍海漢人の居住地にある
 角刺宮・・・・・・・・・・・つのさし
 (つぬさしのみや)に住み、
 忍海郎女
 (おしぬみのいらつめ)
 とも呼ばれた
 ↓↑
 市辺忍歯別王(いちのへのおしはのみこ)の妻(荑媛)
 二皇子(億計=おけ・ 弘計=をけ)の
 母(荑媛)
 ↓↑
 蟻臣(ありのおみ)・・・蟻=中ム義(羊我)
 葦田宿禰(あしだのすくね)の子
 娘は荑媛(はえひめ)で
 市辺押磐(いちのべのおしはの)皇子の妃
 億計(おけ)王(第24代・仁賢天皇)
         在位・仁賢天皇元年1月5日~同11年8月8日
 弘計(おけ)王(第23代・顕宗天皇)
         在位・顕宗天皇元年1月1日~同3年4月25日
 をふくむ3男2女を生んだ
 ↓↑
 弘計(をおけ)=来目稚子(くめのわくご)=袁祁王
         袁祁之石巣別命・袁奚
 億計(おほけ)=大石尊(おほしのみこと)=意富祁王
         意祁命・大脚(おほし)・大為(おほす)
         字は嶋郎(しまのいらつこ)
 ↓↑
 荑媛(はえひめ・ハエ=荑=艹+夷=つばな・テイ・ダイ・イ)
              出たばかりの芽・稗(ヒエ)の類
              蕪荑・臭蕪荑・白蕪荑・基原はニレ科
              Ulmaceae のチョウセンニレ(朝鮮楡)
              異体字=苐・𦯔
 別人の荑媛
 和珥河内(わにの-かわち)の娘・・・和邇・鰐・王仁
 継体天皇元年(507)天皇の妃
 1皇子2皇女を生む
 ↓↑
  蠅伊呂泥 & 蠅伊呂杼の姉妹
  蝿 伊呂泥
 (ハエイロネ)
 別名
  意富夜麻登久邇阿札比売
 (オホヤマトクニアレヒメ)
 ↓↑
 絙某弟(はえいろど・蠅伊呂杼)
     絙=糸+亘
       くみひも・カン・ガン・コウ
       ゆるい・緩む・組みひも・印綬(インジュ)
       大縄・太い綱
       異体字は「絚・縇・𦀞・緪・縆」
       亘=わたる・およぶ・コウ・セン
         端から端まで及ぶ・渡る
        「亘古(コウコ)」
        「亘(セン)」と「亙(コウ)」は別字
        「亘=めぐる(巡る・廻る)」
        「亙=わたる(渡る・渉る)」
         の意であるが、しばしば混用される
 ↓↑  某=甘+木・・・あまき・アマキ
          ・・・アマイキ=阿毎記⇔阿毎王朝の記録?
                  阿毎王朝記=隋書
袁奚=弘計=来目稚子=袁祁
            袁祁之石巣別命
           『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國
            開皇二十年
            倭王姓 阿毎
            字 多利思比孤
            號 阿輩雞彌・・・阿輩雞彌⇔袁奚
                       雞=奚+隹
            遣使詣闕。上令所司訪其風俗。
 ↓↑  某=不定称の人代名詞・名を知らない人
       それとは定めない人
       名をわざとぼかしていう場合などに用いる
 ↓↑    なにがし・ボウ     
 第七代
 孝霊天皇(コウレイテンノウ・孝靈天皇)
 妃
 絙某弟(はえいろど・蠅伊呂杼)は
 絙某姉(はえいろね・蠅伊呂泥)の妹
    (ハエイロネ・別名=意富夜麻登久邇阿札比売)
 子は
 彦狭島命(ひこさしまのみこと・日子寤間命)
 針間の
 牛鹿臣の祖(記)
 子は
 稚武彦命(わかたけひこのみこと・若日子建吉備津日子命)
 吉備臣の祖(紀)
 吉備下道臣
 笠臣の祖(記)
 ハエ(蝿)姫も葛城氏
 孝元天皇(八代)の時代
 姉の子の
 吉備津彦と
 蝿伊呂杼(ハエイロド)の子の
 若日子建吉備津日子命
 (ワカヒコタケキビツヒコノミコト)
 が吉備へ遠征に行く・・・
 ↓↑
 億計・弘計
 の
 二皇子は、
 葛城氏を通して
 忍海部と縁がある・・・
 志染(しじみ)の
 石室の近くの
 押部谷は、
 忍海部に由来し・・・屯倉(みやけ・直轄領)だった
 志染(三木市)
 押部谷(神戸市北区)
 ↓↑
 星川皇子の父は
 雄略天皇
 母は
 吉備臣出身
 雄略天皇の皇子
 白髪皇子(清寧天皇)の母は
 葛城氏
ーーーーー
 顕宗紀・・・父の市辺押磐皇子は
       雄略天皇に殺害され
       日下の志々見(志染)を頼った
          志染=しじみ=蜆・志々見=志士を見よ
       皇太子の億計皇子ではな
       皇子の弘計が天皇位に就く
 三年(487年)
 月神と日神が人に懸かって
 阿閇臣事代に語り・・・阿閇=アヘ=阿倍・阿部・阿武⇔阿毎
 月神を壱岐県主の
 遠祖・押見宿禰に祀らせ
 日神を対馬の下県直に祀らせる
 紀ノ生磐(大磐)宿禰が
 任那で専横
 百済国人300を殺す
 天皇崩御
 古事記では在位八年
 御陵
 片岡之石高坏岡上・・・
 ↓↑ 
 穴穗天皇三年十月
 天皇父
 市邊押磐皇子
 及
 帳內
 佐伯部仲子、
 於
 蚊屋野、
 爲
 大泊瀬天皇
 見殺、因埋同穴。
 於是、
 天皇與億計王、
 聞父見射、
 恐懼
 皆逃亡自匿。
 帳內
 日下部連使主
 (使主、日下部連之名也。使主、此云於瀰)
 與
 吾田彦、使主之子也、
 竊奉
 天皇與億計王、
 避難
 於
 丹波国余社郡。
 使主、
 遂
 改名字曰
 田疾來、
 尚恐見誅、
 從茲遁
 入
 播磨縮見山石室
 而自經死。
 天皇、
 尚不識使主所之、
 勸兄億計王、
 向
 播磨国赤石郡、
 倶改字曰
 丹波小子、
 就仕
 於縮見屯倉首。
 (縮見屯倉首、忍海部造細目也。)
 吾田彦、至此不離、
 固執臣禮。
 ↓↑
 穴穂天皇(安康天皇)即位三年十月
 顕宗天皇の父の
 市辺押磐皇子と
 帳内(トネリ)の
 佐伯部仲子(サエキベノナカチコ)は
 蚊屋野(カヤノ)で
 大泊瀬天皇(雄略天皇)に殺された
 それで同じ穴に埋められた
 顕宗天皇と
 億計王(オケノキミ=仁賢天皇)は
 父が射殺されたと聞き
 恐怖で、皆、逃亡して匿(カク)れた
 帳内(トネリ)の
 日下部連使主(クサカベノオミ)
 と
 吾田彦(アタヒコ)
 (使主(オミ)は
  日下部連の名前で
  使主は於瀰(オミ))
 吾田彦は
 使主の子供・・・日下部吾田彦
 ↓↑
 は密かに
 顕宗天皇と
 億計王(仁賢天皇)を奉じ
 難(ワザワイ=雄略天皇に殺される危険)
 を避け
 丹波国の
 余社郡(ヨザノコオリ=丹後国与謝郡)へと行った
 使主は
 遂には苗字を改め
 田疾来(タトク)とし
 尚、誅殺されることを恐れ
 播磨の
 縮見山(シジミノヤマ)の
 石室(イワヤ)に隠遁し
 首をくくって死んだ
 天皇は
 使主の居場所を分からず
 兄の億計王と
 播磨国の
 赤石郡(アカシノコオリ)に向かい
 ふたりとも
 字(ミナ=名前)を改め
 丹波小子(タニワノワラワ)とした
 縮見屯倉首(シジミノミヤケノオビト)に仕えていた
 縮見屯倉首は
 忍海部造細目(オシヌミベノミヤツコホソメ)
 吾田彦はここまで離れることもなく
 かたくなに従い
 臣としての礼を尽くした
 ↓↑
 日下部連使主
 日子坐王の子孫
 次に
 沙本毘古王(サホビコノミコ)は
 日下部連(クサカベノムラジ)
 甲斐国造(カヒノクニノミヤツコ)の祖(ヤ)なり
 (古事記)
 ↓↑
 日下部連の祖先の
 沙本毘古王(サホビコノミコ)は
 妹の
 沙本毘売命と
 垂仁天皇を
 暗殺しようとし誅殺
 ↓↑ 
 日下部
 仁徳天皇の息子の一人
 「大日下王(古事記)」
 「大草香皇子(日本書紀)」
 「大草香皇子」の名を冠した集団が
 「大日下部」
 ↓↑
 大草香皇子の母親は
 「日向出身の
  髪長毘売」
 「沙本毘古王」も
 日向の関係者
ーーーーー
 ・・・???・・・


鬼室 福信・・・ナゼ、鬼の室の福の信なのか?・・・鬼道

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 ・・・前回、「マリア・カラス(Maria Callas, ギリシア語: Μαρία Κάλλας, 1923年12月2日~1977年9月16日)」さんの「命式」を書き込んで、北海道(北加伊道・蝦夷地)の「美唄市」の地名をアイヌ語の「ピパィ=カラス貝の川」、「ピパオマナィ=カラス貝・ある・川)」、「ピパオィ=カラス貝・多い・所」・・・「美しい(うつくしい)=カロス・カラス=καλος ・ギリシャ語」と漢字の美声を「美唄(口+貝)」が重なった、だなんって・・・???・・・「マリア・カラス」はニューヨーク生まれだった・・・日本時間では「1923年12月3日」かも・・・
 北緯40度42分46秒 西経74度00分22秒
 2018年07月19日 10時06分 (日本)
 2018年07月18日 21時04分 (紐育)
 ↓↑
 マリア・カラス
 出生名 Sophia Cecelia Kalos
 本名は
 Maria Anna Sofia Cecilia Kalogeropoulos
 ニューヨーク市(New York City)生まれ
 生誕 1923年12月2日
 死没 1977年9月16日(53歳没)
 フランス パリ
ーーーーー
 1923年12月2日   ~1977年9月16日)
 癸亥(戊・甲・壬)⇔丁巳(戊・庚・丙)
 癸亥(戊・甲・壬)⇔己酉(庚・ ・辛)
 己酉(庚・ ・辛)⇔丙子(壬・ ・癸)
  寅卯=空亡
 ↓↑
 ニューヨークとの時差は-14時間
 1923年12月3日   ~1977年9月16日)…54
 癸亥(戊・甲・壬)⇔丁巳(戊・庚・丙)
 癸亥(戊・甲・壬)⇔己酉(庚・ ・辛)
 庚戌(辛・丁・戊)⇔丙子(壬・ ・癸)
 魁罡(庚辰・庚戌・壬辰・戊戌)
  ↓↑
  寅卯=空亡 大運 戊辰(乙・癸・戊)偏印
ーーーーー

ーーーーー
 官職名
 日向守
 ↓↑
 安倍黒麻呂 761年(天平宝字5年)頃
 藤原広嗣の乱における
 広嗣捕縛(740年(天平12年)の功をひくもの・・・
 ↓↑
 大津大浦、天平神護元年(765年)任官、左遷人事
 生年不詳 - 宝亀6年5月17日(775年6月19日)
 奈良時代の陰陽家
 姓は連、次いで宿禰、のち連
 官位は従四位上・陰陽頭
 ↓↑
 大津氏(大津造、大津連)
 摂津国を根拠とする一族
 氏の名は
 難波大津の名称に因む
 一説では毛野氏の一族とされ
 和銅七年(714年)
 大津意毗登
 が占術を用い
 還俗を許され叙爵
 代々陰陽家を務めた
 藤原仲麻呂に信頼され
 事の吉兆を占っていた
 大浦は仲麻呂の意向が
 反逆の謀計に及んでいることを知り
 災いが自身に降りかかることを恐れ
 朝廷に密告
 天平宝字8年(764年)9月
 藤原仲麻呂の乱
 正七位上から従四位上へ一挙に10階昇進
 連姓から宿禰姓への改姓を許され
 左兵衛佐兼美作守に任ぜられた
 ↓↑
 天平神護元年(765年)3月
 藤原仲麻呂の乱で功績のあった
 和気王と共に功田を与えられた
 同年8月
 和気王の謀反が発生
 和気王と親しく交際して連座
 兵部大輔から
 日向守に左遷
 位封を剥奪
 姓も連に戻された
 神護景雲元年(767年)
 日向員外介の官職を解任の上
 所持する天文や陰陽などの書物も没収
 宝亀元年(770年)
 罪を赦されて帰京
 宝亀二年(771年)陰陽頭に任ぜられ
 宝亀五年(775年)
 安芸守を兼ねた
 宝亀六年(775年)5月17日
 卒去
 最終官位は従四位上陰陽頭兼安芸守
 ↓↑
 大江 玉淵(おおえ の たまふち)
 大江音人の子・・・音の人?
 大江朝綱の父
 歌人の遊女・白女を女(むすめ。養女)とした
 ↓↑
 兵部少丞などを経
 仁和二年(886年)
 従五位下に叙され
 式部大丞から
 日向守に転じた
 息子の
 朝綱の参議任官について記した
 『公卿補任』
 天暦七年(953年)条に
 朝綱を「従四位下玉淵男」と記録
 従四位下に叙されていた・・・
 ↓↑
 大江 音人(おおえ の おとんど・おとひと)
 弘仁二年(811年)~元慶元年11月3日(877年12月15日)
 貴族・学者
 備中権介
 大枝本主の嫡男
 大枝諸上の孫
 官位は従三位・参議
 江相公と号
 ↓↑
 百済俊哲
 宝亀六年(775年)
 鎮守将軍
 大伴駿河麻呂らに従って
 陸奥国で叛乱を起こし
 桃生城に
 侵攻した夷俘を鎮圧・服従させ
 百済俊哲は
 勲六等の叙勲を受ける
 宝亀九年(778年)
 蝦夷征討に軍功
 勲五等に叙せられた
 宝亀十一年(780年)3月
 宝亀の乱
 従五位下
 4月
 従五位上と昇進し
 6月には反乱鎮圧のために
 鎮守将軍
 藤原小黒麻呂の配下として
 陸奥鎮守副将軍に任ぜられた
 12月に陸奥国の桃生・白河などの
 郡の神
 十一社を官幣社に加えるように
 朝廷に申請、許可
 天応元年(781年)
 正五位上
 勲四等の叙勲
 ↓↑
 延暦六年(787年)
 日向権介に左遷
 延暦九年(790年)
 赦免され入京を許される
 免罪の理由
 武官としての才が惜しまれ
 百済王氏を
 外戚とする詔が出され
 同氏への待遇の上昇のため・・・
 延暦十年(791年)正月
 蝦夷征討を目的に
 坂上田村麻呂
 とともに東海道に派遣
 下野守に任ぜられ
 征夷副使
 陸奥鎮守将軍
 を兼ねた
 延暦十四年(795年)8月7日
 卒去
 最終官位は
 従四位下
 陸奥鎮守将軍兼下野守
 ↓↑
 日向掾・権掾
 藤原乙縄
 757年(天平宝字元年)
 任官、左遷人事
 ↓↑
 武家官位としての
 日向守
 ↓↑
 江戸時代以前
 蒲池武久
 三好長逸
 飯森盛春
 明智光秀 1575年(天正三年)任官
 ↓↑
 江戸時代
 水野家宗家(備後福山藩・下総結城藩藩主)
 水野勝成:初代藩主
 鬼日向=水野勝成・・・
 ↓↑
 日向介・権介
 伊勢
 亀山藩
 石川家
 石川総純:第三代藩主
 石川総博:第四代藩主
 石川総紀:第八代藩主
 石川成之:第十一代藩主
ーー↓↑ーー
 「杉田伯元」は
 『青地林宗』と共に幕府の翻訳係となった・・・
 『青地林宗』の娘は
 「高野長英」の「妻」・・・
ーー↓↑ーー
 「まくらことば=真蔵言葉・磨句・言葉」
 が
 「麻倉言葉(朝倉子渡場=越前一乗谷)」
 なら
 「朝倉氏(景長)」・・・朝倉景長・・・越前朝倉の血統?
 は
 「享保六年」に
 「白石」の息子
 「明卿」に娘を嫁がせた
 「婿筋」である。
 「白石」の娘
 「べん(宝永三年生)」は
 「享保八年」に
 「書院番士」の
 「石谷清寅」に嫁いだ・・・
ーー↓↑ーー
 備中国
 猿掛山城の城下は、
 草壁(くさかべ)庄と言う場所
 備中国 草壁庄 猿掛山城跡・・・
 備前長船勝光、宗光の片手打ちの
 合作刀
 その茎(なかご)に
 「備中 草壁」と文字・・・
 ↓↑
 日向正宗=相州正宗作の短刀
      所持した
      水野日向守勝成の官銘に因み
      日向正宗と呼ばれ
      紀州徳川家に伝来・・・
      保管先 三井記念美術館
 日向(堅田)正宗
 長八寸二分の短刀
 石田治部少輔所持
 水野日向守、分捕
   ↓↑
 石田三成が所持し
 三成から妹婿の
 豊後国府内城(荷揚城)主
 福原長堯へ譲られ
 大垣城攻防、落城の際
 長堯から
 水野勝成(鬼日向)が分捕った・・・短刀
 ↓↑
 朝倉市(あさくらし)
 福岡県の中南部、筑後地域に位置
 福岡県の中央部、福岡市の南東約40km、
 久留米市・・・来目皇子
 の北東約20kmに位置
 ↓↑
 隣接している市町村
 福岡県
 久留米市
 うきは市
    的邑(いくはのむら)
       →生葉郡→浮羽郡→うきは市と変遷
 嘉麻市
 朝倉郡筑前町・東峰村
 三井郡大刀洗町
 大分県
 日田市
 ↓↑
 鎌倉時代
 1203年(建仁三年)
 原田種雄(たねかつ)
 が幕府より
 秋月庄を賜り
 秋月城を築城
 以降
 原田氏は
 秋月氏を名乗り
 以後
 十七代にわたって統治
 1587年(天正十五年)
 豊臣秀吉の軍勢に敗れ
 秋月氏は
 日向国
 高鍋に移封
 ↓↑
 江戸時代
 1623年(元和九年)
 福岡藩を統治していた
 黒田長政の遺言により
 長政の三男
 黒田長興
 が秋月に五万石で分封され
 秋月藩が成立
 以後は
 黒田氏による統治
 廃藩置県により
 秋月県が誕生
 県庁所在地となったが
 福岡県に統合
 1876年10月24日
 熊本藩で起きた
 神風連の乱に呼応し
 10月27日
 秋月の乱
 ↓↑
 朝倉橘広庭宮
 (あさくらのたちばなのひろにわのみや)
 斉明天皇が営んだ宮殿
 ↓↑
 斉明天皇は
 百済救援の為
 中大兄皇子(天智天皇)
 大海人皇子(天武天皇)?
 ら文武百官を従えて
 難波の港から海路
 筑紫に向かい
 661(斉明七年)年1月14日
 四国の
 石湯行宮に到着
 3月25日
 博多
 娜大津(なのおおつ=福岡市南区)に至り
 磐瀬行宮(いわせのかりみや)に坐し
 5月9日
 朝倉橘広庭宮に遷られた
 滞在75日
 7月24日
 御年68歳で崩御
 ↓↑
 難波の宮
 →伊予の石湯(いわゆ)行宮
 →筑紫の磐瀬(いわせ)行宮
 →朝倉橘広庭(あさくらのたちばなのひろにわ)宮
 ↓↑
 「是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨喪儀、衆皆嗟怪」
          鬼室福新・・・?
 ↓↑
  鬼室 福信・・・ナゼ、鬼の室の福の信なのか?
 (キシツ フクシン・?~663年)・・・医者?
 ↓↑
 百済の王族・将軍
 義慈王の父である
 第三十代
 武王(余璋)の甥
 官位は
 恩率(三品官)
 佐平(一品官)
 鬼室氏の祖
 ↓↑
 死没
 2か月後
 白村江の戦い(663年)
 で倭国と百済の連合軍が大敗
 ↓↑
 鬼室福信=扶余福信
 ↓↑
 義慈王時代
 660年
 唐と新羅の連合軍によって
 百済滅亡後
 旧臣らを糾合して抵抗運動を続け
 百済の故都である
 泗沘城(忠清南道-扶余郡)の奪還を試みた
 義慈王の王子であった
 余豊璋
 は
 倭国との同盟の人質で倭国に滞留
 鬼室福信ら遺臣は
 百済復興の旗印として
 豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求めた
 ↓↑
 斉明天皇・中大兄皇子は了承し
 百済復興を支援することとし
 翌年正月には
 斉明天皇自ら、筑紫へ遠征
 ↓↑
 『百済本紀』
 『旧唐書百済伝』
 『三国史記』28巻百済本紀
 『旧唐書』199巻上百済伝
 では
 豊璋は
 662年5月に入国
 鬼室福信は
 王を迎えに出て
 国政をみな委ねた
 倭国は
 鬼室福信あてに軍需物資を送り
 鬼室福信も
 唐人の捕虜
 続守言・・・続け守る言(ことば)
 らを倭国に送った
 7月
 扶余豊(扶余豊璋)は
 鬼室福信が
 自分を殺そうとしていると疑い
 鬼室福信を殺した
 ↓↑
 『日本書紀』
 663年6月
 百済王
 豊璋は
 鬼室福信の謀反を疑って捕らえ
 その掌を穿って革紐で縛り
 諸臣に対して
 福信を斬るべきかと問い
 達率(二品官)の
 徳執得は
 「これは悪逆人であるから
  放しおくわけにはいかない」
 と答え
 鬼室福信は
 執得に唾して罵った
 王は
 鬼室福信を斬らせ
 その首を
 塩漬けにした・・・塩漬けにされたのは「高橋景保」も?
 ↓↑
 鬼室福信の近親者
   ↓↑
 鬼室集斯は
 天智四(665年)年二月
 (即位元年起算よると天智十年正月)
 鬼室福信の功績で
 小錦下の位階を与えられ
 百済の民男女四百余名と
 近江国
 神前郡に住居を与えた
 天智八年(669年)
 男女七百余名とともに
 近江国蒲生郡に移住
 ↓↑
 鬼室福信は
 660年
 黒歯常之
 僧道琛(どうちん)
 等とともに
 任存城(大興)で挙兵
 旧都
 泗沘(しひ)城(扶余)奪回を図った
 同年
 日本の朝廷へ救援軍の派遣
 人質の王子
 豊璋の送還を要請
 661年8~9月
 救援軍が派遣
 豊璋と軍需物資は
 周留城(錦江下流域)に拠った
 鬼室福信のもとへ送り届けられた
   ↓↑
 鬼室集信(キシツ シュウシン)
 百済の官吏
 鬼室福信の一族
 鬼室集斯(キシツ シュウシ)
 らとともに来日
 近江(滋賀県)
 蒲生(がもう)郡に居住・・・
 医薬に精通し
 天智天皇十年(671年)
 大山下(ダイセンゲ)の位を賜った
 ↓↑
 続守言(ショク-シュゲン)
 渡来人
 唐人
 百済と唐・新羅との戦闘で百済軍に捕らえられ
 天智天皇二年(663)ごろに日本に連行
 中国語教授の音博士として活動
 持統天皇から銀、田などをあたえられた
 ↓↑
 7世紀後半来日した中国人
 斎明六(660)年
 百済滅亡後
 唐、新羅に抵抗する
 百済の遺臣
 鬼室福信の捕虜となり
 日本に
 連行、献上された
 『日本書紀・斎明七年条』
 鬼室福信が捕虜とした
 続守言
 らが筑紫に至った
 天智二(663)年条
 福信が
 唐の俘虜
 続守言を上送したと記録
 彼は
 朝廷に仕え
 持統三(689)年
 稲を賜り
 音博士として
 中国語の発音を教授し
 五年に銀
 六年に水田
 を賜った
 ↓↑
 薩弘恪(サツ-コウカク)
 斉明朝に
 日本におくられた唐人
 音博士
 続守言(ショク-シュゲン)
 とともに
 持統天皇三689)年、五、六年に賞されている
 文武天皇四年
 大宝律令撰定の功で禄をあたえられた
 ↓↑
 持統三(689)年六月
 薩弘恪は
 唐人の
 続守言と共に稲を賜った
 同五年九月
 ふたりは銀二十両を賜った
 翌年十二月
 水田四町を与えられた
 刑部親王(忍壁皇子)
 藤原不比等
 らと共に
 大宝律令の編纂
 令の選定終了に伴い
 文武四(700)年六月
 禄を賜って
 位階は勤大壱
 ↓↑
 「朝倉山」は
 恵蘇八幡宮の東方に位置する
 麻底良山(まてらさん)のこと
 ↓↑
 雄略天皇の泊瀬朝倉宮
 第二十一代
 雄略天皇の宮跡
 万葉集
 開巻第一の歌が有名
 脇本付近は発掘調査で建物遺構も出土
 ↓↑ 
 福岡県
 朝倉市
 三連水車のある町
 1878年(明治十一年)
 行政区画として発足した郡域に
 日向石村
 ↓↑
 豊臣秀吉の九州征伐に伴う戦の結果
 秀吉に敗れた
 秋月種実は
 日向高鍋3万石に領地替え
 ↓↑
  日向石(旧上秋月村)
 ↓↑
 秋月城下町
 鎌倉時代(1203年)
 原田(秋月)種雄
 がこの地に配されてから
 戦国末に
 秋月種実・種長父子が
 秀吉によって
 日向高鍋に移されるまで
 16代約400年間
 秋月氏の本拠地
 ↓↑
 多奈神社
 朝倉郡
 上秋月村
 大字
 日向石・・・「日向の石」は「朝倉」にあった・・・
 字田中河原
 金刀比羅神社
 朝倉郡
 上秋月村
 大字
 日向石
 ↓↑
 甘木山
 安長寺
ーーーーー

ーーーーー
 ・・・・???・・・

蓼食う虫も好き好き

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 ・・・「ブラック・イズ・ビューティフル(Black is Beautiful・黒って素敵・黒って素晴しい・黒は最高・黒はイカスゼ・黒はスゴイ・美しい)」?・・・「Black is Crows(Ravens)」、「Black is 」・・・「ブラック・インディアン、アメリコ・ライベリアン、アフリカ系ラテンアメリカ人、アフリカ系アメリカ人(African-American)は、アメリカ合衆国民のうち、アフリカ出身の黒人(ネグロイド)もしくはその子孫」・・・Black is Beautiful・・・「漆黒の美」・・・

 「Black is sad; unhappy; sorrowful(嘆き悲しむ); mournful(哀れな)」・・・
 「ススを混ぜた黒い漆の上に更に純粋な漆を塗り重ねられていた」
 「細かい炭素の粉末を混ぜた漆」
 「漆黒=七黒」の「漆器=japan」・・・黒光りって?・・・
 「朱塗りの漆器が、長年使われ
  下地の黒が浮かび上がってきたものを
  根来(ねごろ)」・・・
 「東大寺に伝わる根来の盆」
      ・・・根来=ねごろ⇒ニグロ=ネグロ=Negro
   ネグロイド(Negroid)=ニガー(nigger)差別用語
   「切支丹国より、黒坊主参り候・年齢は26歳~27歳ほど
    十人力の剛力、牛のように黒き身体(信長公記)」
   「太田牛一末裔の・・・ナンで「太の田の牛の一」なのか?
    加賀-大田家に伝わった自筆本の写し」に
   「黒人・弥助(彌+助)が
    ↓↑ ・・・彌(弓爾)+助(且力)
       且(かつ・シャ・ショ)=其の上に・ながら、つつ
       ↓↑
       まづ(先)・しばらく(姑)・未定の意をあらはす
       よし・たとへ・仮設(假設)の辭
       また、はた、すら
       それでも矢張り、然るになほ
       まさに…す(先づ マサニと讀み、 スと返し讀む)
       將に同じ
    ↓↑「苟且(かりそめ)」
       と(與)・此処に・殆んど
        次且(シシヨ)は、しさる貌、進まず=趑趄
       しく(薦)
       祭に牲を載する臺、まないた、俎の古字
       多き貌
       陰曆、六月の異名
       シヨ・ソ
       へだつ(阻)
       恭謹の貌
       ソ
    ↓↑ ゆく(往)=徂
    弥助は
    私宅と腰刀を与えられ
    時には道具持ちをしていた」の記録・・・
  ↓↑  ↓↑   
 「黒瑪瑙=オニキス(Onyx)=瑪瑙で平行な縞のあるもの
      ギリシア語の爪(Onyxis)に由来」
 「黒瑪瑙=ブラックオニキス(black onyx)」
 「黒瑪瑙、白瑪瑙はカメオの材料
 「表面に浮き彫りを施したものをカメオ(cameo)
     沈め彫りを施したものをインタリオ
     カメオ(cameo)と・・・「亀尾」?
     インタリオ(Intaglio)を
     まとめて
     カメオ(cameo)と呼ぶ」
 黒曜石(obsidian・オブシディアン)=「黒曜石」の反射?・・・
 「アブシィディィアン(ヌ)」・・・「阿武私意出意異案?」・・・
 輝き=かがやき=耀き・・・加賀焼き?
           ・・・「九谷焼」と、「大樋焼」
  ↓↑  ↓↑
 「ブライトネス brightness.
  オレオ材料ール aureole.
  ダズル dazzle.
  グリント glint.
  グリッター glitter.
  グロー glow.
  ラスター luster.
  レイ ray.
  シーン sheen.
  スパークル sparkle.」・・・
 「Shine like a obsidian(luster black stone)」・・・
 「luster(lʌ'stər・ラァスタァ(ル)」
 「北海道地方
  東部に
  遠軽町
  白滝黒曜石原産地、
  西部に
  赤石川黒曜石原産地・・・「朱は、辰砂・丹
               加熱した漆に朱を混ぜる」
  がある。
 例文
 Hokkaido region: Obsidian is produced in Shirataki,
  Engaru-cho in the east of Hokkaido
   and in Akaishikawa in the west of Hokkaido.」
  ↓↑
 美しい・ご立派・・・ギリシャ語=カロス(καλος)=カラス=(ómorfos)・・・
 ギリシア語「ωραίος (el) 男性 (oraíos), όμορφος (el) 男性 (ómorfos)」・・・
 スロヴァキア語「krásny 男性・krásna 女性・krásne 中性」・・・
ーーーーー
 黒艶のカラス
 「からす=烏=鴉」は「くろい」
 「からす=烏=鴉」は「かしこい」
 「からす=烏=鴉」は「かんがえる」
  ↓↑
 英語・・・・・・クロウ(crow)・・・黒鵜・黒兎・苦労
             九郎義経(源氏=ゲンジ=言字・玄事)
                  カラス(鴉・烏)天狗
         レイヴン(raven)
         ルク=ルック(rook)・・・ロック(rock)磐
                      ロック(lock)錠
         ジャクドー=ジャックドー(jackdaw)
 ギリシャ語・・・コラキ(κοράκι・koraki)
         コローネー(κορωυη)
 オランダ語・・・クラーイ(kraai)・・・暗ぁい
 韓語・・・・・・カマグィ・・・・・竃灰・釜喰・鎌句意
                  釜次郎(榎本)・鎌足(中臣)
 中国語・・・・・ウーヤー・ウヤ(烏鴉)
 ドイツ語・・・・ラーベ(Rabe)
         クレーエ(Krähe)・・・暮れぇえ
 フランス語・・・フルー(freux)・シュカ(choucas)
         コルボー(corbeau)・コルネイユ(corneille)
 イタリア語・・・コルヴォ(corvo)
 ラテン語・・・・コルウス(corus)⇔児(子)留碓(臼)=小碓
ーーーーー
 アフリカン・アメリカン
 民族的回帰運動でもある
    ・・・ルーツ(Roots)は
    アレックス・ヘイリー原作の小説『ルーツ』
   (Roots: The Saga of an American Family)
    発祥(起源、由来、原点)・先祖(祖先)・故郷(出身地)
 「ブラック・パワー」
 を提起した黒人たちは、
 「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」
 をスローガンに掲げ、
 人種的存在(?)を
      ・・・黒人の王は同胞の黒人を奴隷として売った
         どんな人種も同胞、家族構成員を奴隷として売った
         飢饉で日本東北では妻子、娘を売った
         自分自身を借金の肩代わりとして奴隷として売った
         秀吉は
         葡萄牙(ポルトガル)奴隷商人に激怒した?
         安寿、厨子王、そして姉弟の母は
         人買いに拉致誘拐され
         山椒大夫に売り飛ばされた
        「マリア・ルス(Maria Luz)号事件
         明治五年(1872年)
         日本の横浜港に停泊中の
         マリア・ルス号(ペルー船籍)内の
         清国人苦力を奴隷であるとして
         日本政府が解放した」 
ー↓↑ー明治五年(1872年)ー↓↑ー
 外務卿(外務大臣)
 副島種臣は
 人道主義と
 日本の主権独立を主張し
 神奈川県権令(県副知事)
 大江卓
 に清国人救助を命じ
 大江の指揮で
 林権典事
 と
 法律顧問の
 米国人ジョージ・ウォーレス・ヒル
 らによって
 マリア・ルス船内に
 清国人230人を発見し
 清国人救出のため法手続きを決定
 ↓↑
 出航許可を申請していた
 マリア・ルスは
 旧暦7月4日
 横浜港からの出航停止を命じられたが
 ポルトガル領事をはじめとした
 数国から抗議の申し入れがあり
 7月20日
 ポルトガルとイタリア領事
 傍聴のもとで
 ヘレロ船長の裁判が行われた
 ↓↑
 清国人奴隷解放
 ↓↑
 船長側弁護人イギリス人
 フレデリック・ヴィクター・ディキンズは
 仮にこの船が奴隷船として
 奴隷を載せていようが、いまいが
 マカオ及び清国海上で行われた犯罪は
 日本政府の所轄ではない
 買奴は、
 万国公法にあたる
 海賊行為にあたらない上に、
 日本でも禁止していないではないか
 奴隷運搬船の出航停止について速やかに解除し
 日本側に
 出航停止中の保証金を要求する
 との意見書を提出
 ↓↑
 マリア・ルスの船長は訴追され
 神奈川県庁に設置された
 大江卓を裁判長とする
 特設裁判所は
 7月27日(8月30日)の判決で
 港内での乗客虐待に対する
 厳重処罰として
 清国人の解放を条件に
 マリア・ルスの出航許可を与えた
 しかし、船長は判決を不服とし
 清国人の
 「移民契約」履行請求の訴えを起こし
 清国人をマリア・ルスに戻すよう主張
 これに対し
 2度目の裁判で
 移民契約の内容は奴隷契約であり
 人道に反するものであるから
 無効であるとして却下
 清国人は解放され
 9月13日(10月15日)に帰国
 清国政府は
 日本の友情的行動への謝意を表明
 翌年2月
 ペルー政府は
 海軍大臣ガルシャを訪日させ
 マリア・ルス問題に対して
 謝罪と損害賠償を
 日本政府に要求
 両国間で仲裁契約が結ばれ
 両国同意のもとで
 第三国のロシア帝国による
 国際仲裁裁判が開催
 ロシア皇帝
 アレクサンドル2世により
 サンクトペテルブルクで
 国際仲裁裁判開催
 日本側代表として全権公使の
 榎本武揚が出席
 1875年(明治八年)6月
 法廷は
 「日本側の措置は一般国際法にも条約にも
  違反せず妥当なものである」
 とする判決
 ペルー側の要求を退けた
 旧暦7月20日に大江が下した判決は
 有名になり
 「奴隷解放事件」と呼ばれた
 ↓↑
 船長側の
 フレデリック・ヴィクター・ディキンズ弁護士の意見書は
 芸娼妓の見直しに繋がり
 同年10月の芸娼妓解放令に至る・・・
ー↓↑ーー↓↑ー
 第二次世界大戦終結後も
 白人から否定され、・・・洗脳・刷り込み
 自らも否定してきた・・・自虐・現状諦念?⇔神の慈悲、他力本願?
 黒人の人種的特徴を
 「黒人らしさ」
 として逆に強調し、
 彼らの
 民族的アイデンティティーを・・・民族的≠人種的
 主張する
 表現のひとつとして
 アフロヘアーという
 髪型も生み出した・・・清王朝の辮髪の暴力的強制は
           「民族としての同化」か?・・・
           「国民としての公平化」か?
 彼ら黒人は
 キリスト教から
 イスラム教へ
 改宗したほか、・・・なぜ、「イスラム」だったのか?
           男性社会(家父長)維持なのか?
           食えない女性(未亡人・寡婦)の
           一夫多妻システムは
           現実救済だったのか?
 自らを
 「ブラック(黒人)」
 と自称し、
 これを現在の黒人たちの一般的な自称とした・・・?
ー↓↑ーー↓↑ー
 2018年7月18日
 「ヨハネスブルクAFP時事
  オバマ前米大統領は17日
  南アフリカの
  ヨハネスブルクで演説し、
  世の中に
 「恐怖と恨みの政治」
        ・・・人類史で
          「恐怖と恨みの無い時代」は無かった?
 が広がっていると警告
 トランプ米大統領について
 直接的な言及はなかったが
 気候変動や
 移民問題などを話題に取り上げ
 暗に批判した」
  ↓↑
 南アの
 故ネルソン・マンデラ元大統領の
 生誕100年を記念する集会で演説
 オバマ氏は集まった1万人以上の聴衆を前に
 「私たちは今、・・・・・・昔も今も、だろう・・・
  奇妙で不確かな時代にいる
  少しの間、一歩下がって、
  物事を大局的に見ることが役に立つかもしれない」
 と訴えた。
 移民問題に関しては
 「国境が問題だと主張するのは
  間違いではないが・・・間違いだろう・・・
  だからといって
  人種や信仰に
  基づいた政策を
  取る理由にはならない」
 と強調
 メキシコ国境の壁建設や
 移民への強硬策を暗に批判した
 トランプ氏が
 懐疑的な気候変動について
 「ほぼ全ての科学者が認めている」
 と指摘した(2018/07/18-07:31)・・・
ーーーーー
 以下も以上も検索ページから添付し「?」にイチャモン・・
 ・・・侵略者か・・・難民の移動か・・・?
 盾津(たてつ)
 孔舎衛坂(くさえのざか)・・・くさかざか(孔舎衙坂)
      ・・・「衛(エイ・エ)」ではなく
         「衙(ガ・カ)」・・・孔舎衙(くさか)
          衙=彳+吾+亍
            つかさ・まいる・あつまる
            ゲ・ゴ・ガ・ギョ
            天子のいる所・宮城
            衙内・衙兵・兵営・役所・衙府・衙門
            「衙門(ガモン)」
            戦ひ合わす
            郡衙(ぐんが)=地方の役所
 大阪府
 中河内郡
 孔舎衛村・・・「衛(エイ・エ)」は「まもる」・衛兵・自衛
        「攻められた」、だから「守衛・防衛」した
 大字
 日下〔東大阪市日下〕の山麓地帯から
 草香山の北部を越える坂道・・・
  ↓↑
 若御毛沼命(神武天皇)
 と
 那賀須泥彦の
 日下の戦い
 難波の生駒山地の西側の
 潟湖岸に上陸した若御毛沼命(神武天皇)
 盾津にかっては飛行場
 那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)の防衛・自衛
 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ命
          若御毛沼命・神武天皇)
 と
 五瀬命(イツセ命)の上陸侵攻・侵略
 「盾」を持って進撃
 その土地を名付けて盾津(タテツ)
       日下の蓼津(タデツ)
 「盾」を持って進撃とは、相手が弓矢を射って防戦した
  ↓↑
 盾(たて・ジュン・楯・shield)・・・矛盾
    ・・・イージス(Aegis, Egis)=女神アテナが用いる
         防具「アイギス」
 蓼=艹+翏(羽𠆢彡)
      ・・・㐱=シン
           髮の稠(しげ)る
           彡に従ひ、人に従ふ
           詩に曰く、㐱髮(シンパツ)雲の如し
         𠆢=ひとやね・ひとがしら・mǒu
         彡=毛羽・刷毛痕・爪痕
 ↓↑ 翏=the sound of the wind,
       to soar(ソァー)
       飛ぶ・鳥が高く飛ぶさま
       The eagle soared into the sky.
       ワシは空に舞い上がった=飛鳥・飛翔
       Ibis(アイビス・朱鷺・鴇)
       or
       Grosbeak(グロォゥスビィーク
       カル・シメ・アトリ科の
       嘴が大きな円錐形の
       鳥の総称・斑鳩)
↓↑ were dipping and soaring.
 蓼(たで・リョウ・リョウ・リク
    ・ペルシカリア節・Persicaria) の総称
  タデ科タデ属の植物の総称
  イヌタデ・ハナタデ・ オオケタデ・サクラタデ
  特に、葉を和風香辛料とするヤナギタデ・・・草加・草香
  蓼食う虫も好き好き
  ↓↑
 日下貝塚遺跡
 神武天皇聖蹟
 盾津 顕彰碑
 善根寺春日神社
 足立氏の屋敷跡
  ↓↑
 磐余彦(若御毛沼命・神武天皇)が上陸した
 「白肩(しらかた)の津」は
 「盾津(たてつ)」と呼ばれるようになった
  ↓↑
 神武天皇
 聖蹟
 盾津
 顕彰碑 (東大阪市日下町7丁目に所在)
 「神武天皇
  戌午年三月
  皇軍ヲ率イテ
  青雲
  白肩津
  二至リ給ヒ
  翌四月
  孔舎衛坂二
  戦ハセラレ・・・」
  ↓↑
 「近鉄石切駅
    石切四光地蔵堂
    石切劔箭(つるぎや)神社上之社
   旧生駒トンネル入り口近くの
   旧孔舎衛坂(くさえざか)駅から
    丹波神社、大龍寺、旧河澄家
    原始蓮・稲田桃栽培地
    日下貝塚遺跡
    神武天皇聖蹟盾津顕彰碑
    善根寺春日神社
    足立氏屋敷跡
  ↓↑
 古代大阪湾の東端の
 日下・石切地域周辺は
 縄文時代の
 日下貝塚遺跡
 鬼虎川遺跡・・・弥生時代中期の銅鐸・銅釧・異形青銅器
         銅剣・銅戈の鋳型や、鉄鑿・鉄鏃が出土
         縄文時代晩期末のものと思われる
         土偶(小型の立体的な体部)が1点出土
         頭部(人面)のみ
 などの遺跡
  ↓↑
 尾根道をとおる
 雄略天皇の
 日下直越のルート
  ↓↑
 古代には
 河内国
 河内郡
 日下郷に含まれ
 一帯は
 河内湖の
 草香江(日下江)とよばれる入江で
 生駒山から北にのびる山系
 盾津(たてつ)と曰ふ、今
 蓼津(たでつ)と云へるは訛れるなり
  ↓↑
 隣接自治体
 大阪府
 中河内郡
 石切町、盾津町、英田村
 北河内郡
 四条町
 奈良県
 生駒郡
 生駒町
 孔舎衙村役場
 大阪府
 中河内郡
 孔舎衙村
 大字
 日下
 孔舎衙村(くさかむら)は
 大阪府中河内郡にあった村で
 東大阪市の北東端にあたる
  ↓↑
 日根市村(ひねいちむら)
 1889年(明治22年)4月1日
 町村制の施行により
 河内郡日下村・善根寺村・布市村・河内屋南新田
 の区域をもって
 日根市村が発足
 1896年(明治29年)4月1日
 所属郡が中河内郡に変更
 1912年(大正元年)10月1日
 日根市村を改称し
 孔舎衙村
 となる
 1955年(昭和30年)1月11日
 枚岡町・縄手町・石切町
 と合併して
 枚岡市が発足
 同日
 孔舎衙村
 廃止
ーーーーー
 神武天皇=狭野命〈さののみこと〉
 神武天皇
 庚午年~神武天皇76年3月11日)
 初代天皇
 在位
 神武天皇元年1月1日~神武天皇76年3月11日
 和風諡号
 神日本磐余彦天皇
 (かむやまといわれびこのすめらみこと・日本書紀)
 神倭伊波礼毘古命
 (かむやまといわれびこのみこと・古事記)
 狭野尊(さののみこと・幼名)
 彦火火出見(ひこほほでみ・諱)
  ↓↑
 狭野神社
 鎮座地
 宮崎県
 西諸県郡
 高原町
 蒲牟田117
 由緒等
 主祭神
 神日本磐余彦天皇(幼名:狭野尊)
 相殿
 吾平津姫命
 天津彦火瓊瓊杵尊
 木花開耶姫命
 彦火火出見尊
 豊玉姫命
 鵜葺草葺不合尊
 玉依姫命
  ↓↑
 狭野弟上娘子
 (さの の おとかみおとめ)
 狭野茅上娘子
 (さの の ちがみおとめ)
 は万葉集の女性歌人
 夫は天平朝に
 越前国に流罪となった
 中臣宅守(天平十三年赦免)
 宅守との贈答歌が
 『万葉集』巻十五にある・・・
  ↓↑
ーーーーー
 福山藩とは
 「備後・深津郡・十一万石」
  (びんご)
      ↓  深津郡
      ↓   ↓      十一万石」
      ↓   ↓      ↓
      ↓  シンシングン  ジュウイチマンゴク
      ↓  身心訓云    重  位置 萬語句→太安萬侶
      ↓   ↓      ↓        多夜須満路
      ↓  ふかず     たりはじめよろずいし
      ↓  附加事     足 肇  夜路図意思  
   便  語→ビゴ
        ↓                卑
        備互=(毘・美・火・日・薇・微・・彌
            鼻・琵・媚・眉・梶=尾語(弥)
      ↓
     (古・景・山・曜・苑・光・ 呼・腔・琶・態・毛・取)
      ↓
   毘(田+比)・琵(王+王+比)琶(王+王+巴)・眉(巴+目)
   梶(木+尾)→きび→黍・機微・驥尾・記備→吉備
         →かじ=化字・加地
   張(弓+長)→弓矢の長、伴う鞆(とも)
革+丙→カクヘイ→(改)革兵
                 ↓
               かわ ひのえ→化話の比の江
               渦輪 ヒ(匙・七)の柄→天体図の目数
                  七→牝・雌・♀(金星記号)
メス→手術用執刀小刀
       ↓
 「西(酉)=長崎=諌早=七赤・金星・少女」
九星学=鬼(気)門遁甲
             七→北斗七星
 「宝永七年(1710年・庚寅)」
     ↓
  ホウエイシチネン→訪英志知念・訪英(七年=漆年→失念)
 「水野家」から
 「阿部(正邦)家」の領地となったところで、
     ↓
     正邦=セイホウ→西方・栖鳳・正方・制法
     ただしくに→忠国→正鵠
     ただすくに→糺(糾・質)す句似(句字・句辞)
 江戸城の詰め所は
 「帝鑑の間」
     ↓
     帝の
     鑑(かがみ・加々見・加賀見・各務)=歴史の
       鑑(金+監)→近刊・金柑・金管・金冠
     間(カン→巻・奸・姦・翰)
(あいだ→合拿)
(ま→眞・間・磨・魔・摩)
     間(門+日)→もんひ→文比・聞比・悶彼・問秘
 岡山県
 笠岡市→「笠」の音ヨミは「リュウ」
     「横島」がある・・・
 阿蘇山、熊本、玉名、ヨコシマに
 登場したのは
 「阿毎王朝(隋書の煬帝の随処)」と
          ↓
        「卷八十一 列傳第四十六 東夷俀國」
        「大業三年(607年丁卯)」
         皇帝(煬帝=楊広)激怒
         「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言
 「裴世清」、
 「小野妹子=蘇因高→素咽喉→音声、発声の本(もと)」
    子供に「毛人・広人」
    ↓    ↓  ↓
    ↓    蝦夷・煬帝=楊広は文帝楊堅の次男、名は広
    ↓          母は独孤伽羅
    ↓          王子時代は北方の「晋王」
    ↓          腹心に「楊素」と「張衡」
  「日本書紀(巻第弐拾弐・22)」には、
  「十五年…秋 七月戊申朔庚戌
  大禮
  小野臣妹子(冠位大徳冠)→中国の冠位十二階の大禮(示+豊)
  (蘇因高)
  の
  遣於大唐
  以
  鞍作福利、・・・鞍(革安)作の福利・・・福利厚生?
          鞍作=鞍作 止利(鳥)
          鞍作=鞍作 太郎=蘇我入鹿=林太郎
          鞍作=鞍作の子供=イマヌエル・カント
             馬具職人の四男
             1764年
            『美と崇高との感情性に関する観察』出版 
          鞍作 =皮安作・かわやすつくる
          臓(月蔵)カワヤス作=秦河安(秦河勝)
          虫を「常世神」として崇める集団を討伐
  為通事」
    ↓
  開皇二十年(600年・庚申・推古天皇八年)
  倭王
  姓
  阿毎→アマイ・アブ→阿武・アベ→阿部
            則天武后  阿毎王朝(肥後・阿蘇山麓)
               俀王姓阿毎  字 多利思北孤
                  アマイ 號 阿輩雞彌
                  アマイ   阿波(安房・安和)
                        の君・掲備  
  字
  多利思(北)比孤
  號
  阿輩雞(鷄)彌・・・雞=鶏=鵻・・・推古?
  遣使詣闕。
  上令所司
  訪其風俗。
  使者言
  倭王
  以天為兄⇔兄=億計天皇・大石尊・意祁命・仁賢天皇
           意富祁王(おほけのみこ)
           諱は大脚(おおし)・・・?
  以日為弟⇔弟=弘計天皇・来目稚子・袁祁之石巣別命・顕宗天皇
           袁祁王(をけのみこ)・・・?
  天
  未明時出
  聽政
  跏趺坐
  日出
  便停理務
  云委我弟。
  高祖曰
  「此太無義理」・・・此(これ)、
            太(おほの)に
            義の理が無い?
  於是
  訓令・・・訓(倭語・和語・日本語)での令
       令=いいつけ・命じる
         のり・きまり・おきて
      訓令=上級行政機関が
          下級行政機関の権限行使について
          指揮、命令
       令=おさ・長官・よい・りっぱな
         他人の親族に対する敬称
         令室・令嬢
  改之。・・・之を改(あらためる)
  王妻
  號
  雞(鷄)彌
  後宮
  有
  女六七百人。
  名
  太子為
  利歌彌多弗利。
ーーーーー
 「推古天皇、五年(607年丁卯)
     鞍作福利と隋王朝、大唐に渡る」
     ↓
     鞍作太郎=蘇我蝦夷の子、蘇我入鹿
     鞍作止利(鳥)は「司馬達等」の孫、
    「鞍部多須奈」の子
     子供は「福利・人足・眞枝」
     法隆寺の釈迦三尊像を制作。
     制作様式は
     杏仁形の眼
     アルカイックスマイルの微笑
              ↓
    「仁」とは種子(シュシ)
         趣旨・主旨・諏詞・修史・終始
         ↓
         ↓三輪氏の祖→三輪山の祭神は「蛇」
         たね→意富多-多泥古(古事記)
       大田-田根子(日本書紀)
       大直-禰子(大神神社大和一宮、
             真清田神社尾張一宮)
       大田-田根子
(兵庫県美方(みかた)郡
            多他神社  観方
                  (美方郡は
明治に出来た郡名
太  安萬侶
       おほ たた ねこ
       意富 多多 泥古→意は富で多音の呼
       いとみタタ ねコ
       意斗見 多、他音呼→多=(夕+夕)
                    夕暮れ・黄昏
       いとみタタ どろ     いにしへ
       意図見、タのタ、太の度路、異西辺
               汰・うず→渦
              杏  仁形の眼
              ↓
              キョウニン→漢語音
      「杏(あんず)、杏子」の種
       あんにん→唐語音
      「銀杏・アーモンド」の種(禾重)
       喘息の治療薬→苦み強い「苦杏仁」
       薬膳、嗜好食品→苦み弱の「甜杏仁」
      「杏仁」=アンジン
         三浦按 針=ウイリアム・アダムス
 「日出処天子」とは、
 「聖徳太子」らしいのだが・・・?
 ・・・別名、異称もどっさり、多くある。「十二個」も・・・?
    ↓
 「厩戸皇子」、
  厩(キュウ)=厂(がんだれ)+既(艮の牙)→うまやど→午宿
    九・球  Lの逆字・元誰 キ・昏の解  宇摩夜斗
 「厩戸王」、
   戸(とだれ・と・へ・コ)=一+尸(屍・シ・形代→潟代)
     頭誰  都 辺 胡  肇   史 示華場音 兄弟
                位地  視 氏 臣  ↓
来目皇子・組め往時・往事
   真人=大海人皇子 久米・久留米・包め
 「上宮王」、
  上(うえ・かみ・ジョウ)
  上=ト(うらなう・ボク)+一(壱・イチ・はじめ)
      占う 
  馬宿宮
 「豊聡耳」、
  豊(とよ・ホウ)=曲(くせ・よこしま・くま・キョク)
           +     横島・邪 熊  極
           豆(まめ・トウ・ズ)
            間女 島  頭
 「上宮之厩戸豊聡耳命」
聡(さとし・ソウ)=耳+ハ+ム+心
        訓    双   字 葉 務 個々賂
 「法主王」、
法(のり・おきて・きまり・ノリ)=氵+十+一+ム→ノリ=海苔
       沖出  記眞理     水 足  武 典・憲・法
 「豊耳聡聖」、
聖(ひじり・セイ)=耳+口+王
       比字理 姓   時 候 追
 「徳豊聡耳法大王」
  徳(トク)=彳+ナ+罒+心=悳=直(ナ目L)+心→L=乙
    解   行 人 編  名阿見  個々賂
 「上宮太子聖徳皇」、
太(うず・おほ・タイ)=一+人+ゝ
     太秦 尾補 他意・対 壱の人は天・点・店・転
                     手務→織姫
 「厩戸豊聰耳聖徳法王」
耳=みみ・ジ
        みみ→見観・身診・実味・巳未・三視
            壬看→水野(美津濃)の看護
           ジ→辞・字・時・児・時・地・璽・次・自
 そして、
 「阿部」である・・・そして、「阿部正邦」である・・・
 「阿部の姓」→「阿部御主人」の祖、
「日本書紀」には元「布施」であった、とある。
 ・・・「乞食(こじき)」や「坊主」に
   施すコトを「布施」と言うが、
   犬に「伏せ」と命令コトバや、
   漢字に「ルビ」を「附せ」と言うことは
カタ仮名や平仮名である。
  「病気」になった時は「臥せ」である。
ーーーーー
 ・・・???・・・

高木の神を兼寛・・・脚気(かっけ・beriberi)の撲滅で海防

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 ・・・「日本史上の名前の変?」・・・「稗田阿礼(退きの卑の伝・蛙例、鴉令?)」、「太安萬侶」、「都怒我阿羅斯等=つぬがあらしと=都怒賀阿羅斯止」、「現人神=あらひとがみ=荒人神」、「磐鹿六鴈=いわかむつかり・磐史化睦掛理?」、「本牟智和気命=ほむちわけのみこと=品牟都和気命=ホムツワケノミコト=誉津別命(ホムツワケノミコト)」、「誉田別尊=ほむたわけのみこと=誉田別命=大鞆和気命(おおともわけのみこと)=応神天皇」、「筑紫磐井=つくしのいわい=竺紫君石井(つくしのきみいわい)」、「豊聡耳=上宮之厩戸豊聡耳命=法主王=豊聡耳聖=徳豊聡耳法大王=上宮太子聖徳皇=厩戸豊聰耳聖徳法王=上宮厩戸=厩戸皇太子」、「小野妹子=蘇因高」、「筑紫君薩夜麻(さやま・さちやま・さつやま)」、「土師富杼(はじのほど・恥の程)」、「鬼室福信」、「守 大石(もり の おおいわ)」、「阿部(布施)御主人」、「答本 忠節(トウホンチュウセツ)」、「阿部仲麻呂=朝衡=チョウコウ=晁衡」、「佐伯真魚」、「源順」、「紀貫之」、天皇の「大倭根子(ねこ)」、「多利思北(比)孤」、「阿輩雞彌」、「闘鶏国造」・・・ひよっこ・・・にわとり・・・ひよどり・・・復活の卵・・・
 「鶏口となるも牛後となるなかれ」
 「鶏頭牛尾」・・・日本語熟語に替えたモノ?・・・「竜頭蛇尾」
 「寧為鶏口無為牛後(寧ろ鶏口と為るも牛後と為る無かれ)」
  (史記・蘇秦伝)
 戦国時代、秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙
 蘇秦が
 秦王に他の六国と同盟を結ぶ連衡策
 不採用され
 燕王らに合従策(六国が連合して秦と対決する策)を説いた
ーーーーー
 「祝詞(のりと・シュクシ)」
  及び
 「寿詞(よごと・ジュシ)」・・・
 「大倭根子天皇」・・・
 「根子」は、山城根子・浪速根子の類から、大田々根子
  に到るまで、ある地方の、
  神人の最高位に居る者の意味・・・
 「祝詞(のりと)
  と
  寿詞(よごと)とは、相互関係にある・・・
  根本は神よりのりくだすことばである・・・
  よごとは、臣従を誓ふ者が
  其氏族の守護霊を捧げて
  長者の齢を祝福する意味の詞であつた
  だから、
  寿詞ヨゴトは、
  実は
  齢詞ヨゴトである」・・・
 ↓↑
 「あきつみかみ
  あめのしたしろしめす
     大倭根 子(ネコ)天皇」
       コンシ=懇志・今史・今詞
       コンス=公司・艮州
       コンス=艮州・坤州
       コンズ=混亠(音)
       ね こ=猫・根っ子
       根=十一艮
         子=一了(始終)・了一(終始)
 「持統天皇の和風諡号
  高天原   廣 野姫  天皇
 (たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
  大 倭  根子-天之 廣野 日女尊
 (おほやまとネコあめのひろのひめのみこと)」
 「十二月二十六日
  大内山陵(天武天皇陵)に
  太上天皇合葬」
 ↓↑
 七  代 孝霊天皇 大日本根子(ネコ)彦-太瓊尊
 八  代 孝元天皇 大日本根子(ネコ)彦-国牽尊
 九  代 開化天皇 稚日本根子(ネコ)彦-大日日尊
 二十二代 清寧天皇 白髪武広国押
           -稚日本根子(ネコ)天皇
ーーーーー
 ・・・
 「先づ
  彦五瀬命を生みたまふ。
  次に稲飯命。
  次に三毛入野命。
  次に狭野尊
   (サノノミコト)。
  亦は神日本磐余彦尊
   (カムヤマトイワレヒコノミコト)
  と号す。
  狭野と所称すは、是、年少なくまします時の号なり。
  後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有す。
  故、復号を加へて、
    神 日本  磐 余 彦  尊
   (カムヤマト イワレ ヒコノミコト)
 と曰す」 
 ↓↑
 狭野神社
 第五代
 孝昭天皇の時代
 神武天皇が誕生した地
 (高千穂峰の麓の皇子原)に創建
 数度の霧島山の噴火により社殿焼失
 遷座の繰り返し
 慶長十五年(1610年)
 現在地に遷座
 薩摩藩主島津氏の崇敬で
 社殿改築・社領の寄進
 明治六年
 県社に列格
 大正四年
 官幣大社宮崎神宮の別宮に指定
 ↓↑ ↓↑
 1898年からは
 高木兼寛・・・高木 兼寛(たかき かねひろ)
 ↓↑     嘉永二年九月十五日(1849年10月30日)
        ~
        大正九年(1920年)4月13日
        海軍軍人
        最終階級は海軍軍医総監(少将相当)
        医学博士・「ビタミンの父」
        男爵
        東京慈恵会医科大学の創設者
 ↓↑    「脚気(かっけ・beriberi)」の撲滅に尽力
           脚気=ビタミンB1不足で発症
           本症は多発神経炎、浮腫(むくみ)
           心不全(脚気心、脚気衝心)を三徴とする
       「江戸患い」=脚気での病状
 ↓↑    高木神=『日本書紀』で「高皇産霊尊」
           『古事記』で「高御産巣日神
                 (たかみむすびのかみ)」
            と記録
       葦原中津国平定・天孫降臨の際には
       高木神(たかぎのかみ)という名で登場・・・
 ↓↑   「高木兼寛」は「高木神」になった・・・???・・・
 が宮崎神宮の大造営と同時に
 神武天皇ゆかりの
 狭野神社の社殿の改修
 第二次大戦後
 独立神社
 昭和51年(1976年)
 神社本庁の別表神社に列格
 霧島六社権現
 霧島神宮、東霧島神社
 狭野神社
 霧島東神社、霧島岑神社
 夷守神社は
 霧島岑神社へ合祀・・・夷守?
 ↓↑
 夷守=ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)
 3世紀~4世紀頃の
 邪馬台国の国境を守備する軍事的
 長の名称
 後に地名、駅名、神社名等
 ヒナモリの「モリ (守)」はカバネ・・・
 ↓↑
 夷守=ヒナモリ・北九州や東北にあって
    朝鮮や蝦夷の防衛に当たる者
     ↓↑
    標高300m内外の
    シラスや礫(れき)層の台地
    南部は霧島火山群
    北部は九州山地
    東と西は丘陵性の山地が
    都城盆地、加久藤(かくとう)盆地との境界
    古くは
    夷守(ひなもり)といわれた辺境守備の地
    延喜式に
    夷守駅の名が記録
    近世は薩摩藩に属し
    島津氏は地頭を置いて管轄
 ↓↑
 『魏志倭人伝』に
 邪馬台国に属する北九州の
 対馬国、一支国、奴国、
 不弥国の
 副官に
 「卑奴母離(ヒナモリ)」と記録
 ↓↑
 日守(ひもり)神社
 ↓↑
 『和名抄』
 越後国頸城郡に
 「夷守郷」を収め
 現在は
 新潟県妙高市に「美守(ひだもり)」
 新潟県上越市には
 美守村が存在・・・
 美濃国厚見郡(現在の岐阜県岐阜市茜部本郷)に
 比奈守(ひなもり)神社
 3~4世紀頃
 飛騨(ひだ)人に対する守備隊が駐屯した・・・
 卑奴母離
 は役職名
ーーーーー
 狭=狹
 狭=犭+夹=犭+夾=狭
   せまい・せばめる・せばまる・キョウ(ケフ)
   間隔や範囲がせまい
   狭隘 (キョウアイ)・狭軌・狭義
   狭窄 (キョウサク) ・狭小
   心にゆとりがない
   狭量・偏狭
   狭霧(さぎり)・狭山 (さやま)・狭間 (はざま) 
 ↓↑
 狭=犭+夹=犭+夾=狭
 狭域・広狭・狭隘・狭量・狭霧・手狭・狭小
 狭間・狭窄・狭軌・狭義・狭視野・狭帯域
 狭端体・狭心症・狭鼻猿類・血管狭窄・視野狭窄
 狭軌鉄道
 cramped・narrow・contract・tight
 窮屈な・狭い・契約
 ↓↑
 夾(キョウ)=人が両脇に人をかかえている形
       ものを挟む
 ↓↑
 「挟=旧字体は挾」
    夾=はさむ・ さしはさむ・キョウ
      さしはさむ
      夾撃
      挟=はさまる・まじる・夾雑
        たすける・夾輔(キョウホ)
        夾撃(キョウゲキ)・夾纈(キョウケチ)

 えなが=柄長=巧み鳥
     エナガ(柄長、学名:Aegithalos caudatus)
     スズメ目エナガ科エナガ属
     エナガ科は世界で7種類
     コウライシマエナガ(高麗島柄長)
     島柄長は北海道、サハリンに分布
ーーーーー
 狭
 犭+夹
 犭+二+丷+人
 犭+一+一+丷+人
 犬=犭(いぬ・けものへん)
ーーーーー
 狭筵(さむしろ)
 源氏物語関係の文献にしばしば現れる
 源氏物語の「巻名」
 「狭筵・狭席」など
 仮名表記の場合も多い
 宇治十帖に含まれる巻の異名、並びの巻・・・
 巣守や桜人等と同様に
 現行の54帖に含まれない・・・
 外伝的な巻の一つ・・・
ーーーーー
 「狭・峡・挟」は印刷文字で
 「狹・峽・挾」
 「狭・峡・挟」の字体で書いた・・・書体文字
 ↓↑
 峡=峽
 挟=挾
 狭=狹
ーーーーー
 アジサイ
 『万葉集』では
 「味狭藍(あじさい)」
 「安治佐為(あじさい)」
 「阿豆佐為(あじさい・和名類聚抄)」
 「七変化」、「八仙花」とも
 ↓↑
 漢字表記の
 「紫陽花」は
 詩人白居易が
 別の花に付けた名・・・
 源順がかん違いでこの漢字をあてた・・・?
 「紫陽花の
  八重咲く如
  やつ代・・・・八代・八津城・奴白?
  にをいませ・・匂いませ・丹負いませ・尼追いませ
         荷負いませ・尼甥ませ・弐追いませ
  わが背子・・・背子は背反の子?・・・橘奈良麻呂の変?
                    橘諸兄の子の乱?
  見つつ思はむ(しのはむ)
 (橘諸兄 万葉集巻20 4448)」
 橘諸兄
 初名は葛城王(葛木王)
 臣籍降下して
 橘宿禰
 のち
 橘朝臣姓
 敏達天皇の後裔
 大宰帥・美努王の子
 母は
 県犬養・橘三千代・・・・後に藤原不比等と結婚
 光明子(光明皇后)は
 異父妹
ーーーーー
 答本 忠節(とうほん ちゅうせつ)?・・・虎の巻き・あんちょこ
 ↓↑              「安直(アンチョク)」が変化
 ?~天平勝宝九年七月4日?(757年7月24日)
 医師・位階は外従五位下
 ↓↑
 天平勝宝九年(757年)六月
 忠節は
 紫微内相
 藤原仲麻呂
 に対する謀反計画へ
 大伴古麻呂が加担し
 小野東人を勧誘したことを知り
 忠節はこの計画について
 右大臣
 藤原豊成に報告
 豊成からは
 謀反加担者に教戒を加えて
 仲麻呂を殺害したりしない旨の回答を得た
 この経緯を薬の処方を訪ねるために
 忠節の元を訪れた
 巨勢堺麻呂に話したところ
 堺麻呂から
 藤原仲麻呂に密告
 謀反の動きを知りながら
 通告しなかったとして
 橘奈良麻呂らによる謀反の一味とみなされ
 7月2日に
 仲麻呂の命令を受けた
 高麗福信
 に追われて
 小野東人とともに追捕され
 左衛士府に拘禁
 ・・・獄死・・・(橘奈良麻呂の乱)
ーーーーー
 ・・・???・・・

コマをマワス・・・唐獅子牡丹・・・牛にひかれて善光寺

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 ・・・「狛犬(こまいぬ)」・・・「高句麗・高麗」・・・高句麗、高麗からの帰化人・・・「狛犬」の起源、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いた。古代エジプトやメソポタミア、ギリシャでの神域を守るライオンの像・・・スフィンクス・・・
 「胡摩犬(こまいぬ)」
 狛=貊
   貊=ツングース系民族
   貊や高句麗の訓読み「こま」は
  「蓋馬国」の転化・・・
   中国の古書注に
  「東海駒驪、扶餘、馯貊之屬」
   云々とあり
  『集韻』には「駒驪、國名」とあり
  「駒」=子馬・・・
 犬について
 隼人の狗吠
 隼人は熊襲と同族
 熊襲の国が狗奴国であった・・・
 「こま(駒)=子馬」
 日向隼人の駒は評判
 「狛」=狼の如く善く駆ける羊
     土狛



ーーーーー
 高句麗
 別名を貊(はく)
 日本語で
 「高麗」=こま=「貊(狛)」
 百済(くだら)・新羅(しらぎ)・高麗(こま)
 高句麗(句驪)
 『漢書(地理誌)』
 「玄菟・楽浪郡は武帝の時においた(前107年)
  みな朝鮮・濊貊・句驪の蛮夷の地である」
 玄菟郡の首県
 高句驪、上殷台、西蓋馬
 驪は麗と同音で
 漢人の蔑視による表現・・・?
 白鳥庫吉は
 「高」と「句麗」に分解し
 「句麗はコル(城)」、「高はコ(大きい)」
 原義は「大城」
 李丙蝱は
 「高はスリ(神聖な・首位の)」で
 「首邑」、「上邑」の意味とした・・・
 高句麗=貊族
 8世紀
 突厥で造られたオルホン碑文には
 「ボクリ(bökli)」という東方の国
 ボクリが高句麗
 「貊句麗」・・・
 「貊の国」・・・
 「貊」という種族は
 周代から中国の史料に登場
 なお、高句麗は『南斉書』「高麗伝」に
 「高麗」という国名で表記
 隋唐代の史書でも「高麗」と表記
 520年
 正式名が「高句麗王」から「高麗王」となった
 梁の冊封が最初
 高句麗が意識的に高麗へと改名
 国号の字数を二字に揃えた・・・
ーーーーー
 「鶏鳴狗盗(ケイメイクトウ)」
 「狐白裘(コハクキュウ)」=裘は動物の毛を外側にした毛皮の衣
               狐白裘は狐のワキの下の毛を
               集めて作られた裘
               狐裘は黄色であるが
               狐白裘は白色の珍品
  と
 「孟嘗君(モウショウクン)」・・・望史和得の訓?
  孟(子皿・たける)は
    君(尹口・インコウ)を
   嘗(なめる)・・・?・・・臥薪嘗胆・・・
  田文(デンブン)・・・氏=田、諱(忌み名)=文
  伝聞           田=狩猟地域
 ↓↑
 「アヌビス(Anubis・エジプト語ラテン文字転写=inpu・古代ギリシア語=Ἄνουβις (Ánūbis)」・・・
 ↓↑
  阿之美州(美作)・阿之尾州(尾張)・阿之備州(吉備)
 ↓↑
 「エジプト神話の冥界の神・リコポリスの守護神」
 「聖地の主人(nb-ta- djsr)」
 「自らの山に居る者(tpi-dju=f)」
 「ミイラを布で包む者(imiut)」
 などの異名、別名・・・
 ミイラ作りの監督官
 医学の神
 瞬足な足で魂魄(霊魂)を冥界に運ぶ
 天秤で死者の罪を量る
 犬またはジャッカルが
 墓場の死者を守っている神・・・
 ジャッカル・ジャコール
 胡狼・Jackal・犴(カン)、野犴(ヤカン)

 アヌビス⇔ジャッカル⇔フォックス
 きつね・狐・キツネ・・・
 木常=キツネ=記通音⇔フォックス(fox)
    「ずる賢い(sly)」
    「鶏が好物・雄ギツネは dog fox
          雌ギツネは vixen,bitch fox
          子ギツネは cub  



    「ひどく変色している=be badly foxed」?
 20世紀フォックス(20th Century Fox)
 20世紀フォックス映画(Twentieth Century Fox Film Corporation)
 (William Fox・出生名=Fried Vilmos)・・・フックス(Fuchs)
 ハンガリー系アメリカ人
 1879年1月1日~   1952年5月2日?   1952年5月8日?
 戊寅(己・丙・甲)⇔壬辰(乙・癸・戊)
 甲子(壬・ ・癸)⇔乙巳(戊・庚・丙)
 甲申(己・壬・庚)⇔戊申(己・壬・庚)⇔甲寅(己・丙・甲)
  午未=空亡
 フックス(Fuchs、Fucks、Fuks、Fux、Hooks)
 ヨーロッパ系の姓・Fuchs はドイツ語でキツネを意味
 装甲兵員輸送車=軍用運搬車両
 ↓↑
 ハイエナ(Hyenas)


ーーーーー
 642年
 百済国内で政変・・・?
 「百済義慈王(武王の嫡男)」により
 「百済武王(王妃は沙宅王后)」が潰され・・・?・・・
 その息子である
 「翹岐王」が島流しになり
 日本亡命・・・
 ↓↑
 百済 武王
 武王(580年?~641年)
 百済の
 第30代の王(在位は600年~641年)
 第29代法王の子
 諱は璋
 『三国遺事』王暦に
 武康、献丙の別名
 『隋書』に
 余璋の名
 武王=璋=武康=献丙=余璋
 ↓↑
 義慈王(599年~660年)
 百済の第31代
 最後の王(在位は641年~660年)
 諱は義慈
 『旧唐書』などには「扶余義慈」
 第30代の武王の嫡男
 母は不詳
 (新羅の真平王の娘=善花公主
  百済貴族出身=沙宅王后)という説・・・
 ↓↑
 百済王 善光(くだらのこにきし ぜんこう)
 ?~持統天皇七年(693年)正月
 百済王族
 名は
 禅広王=余禅広
 百済の
 第31代国王
 義慈王の子
 冠位は
 正広肆、贈正広参
 「本田善光(ほんだよしみつ、本多善光とも)」
 が
 善光寺如来を
 信濃国に持ってきた・・・?
 科野国(信濃国)伊那郡若麻績里に住んだ
 「伊呂波字類抄」では
 若麻績東人(わかをみ の あずまんど)とも称される
 子に本田善佐
 ↓↑
 欽明天皇十三年(552年、一説に538年)
 百済の聖王(聖明王)が献上した
 天竺の月蓋長者造仏の阿弥陀如来像が
 疫病流行のために
 物部氏によって
 難波の堀江(大阪or奈良県明日香村)に捨てられた
 推古天皇八年(600年)
 本田善光がそこを通りかかると
 阿弥陀如来像が水中から出現して背に乗った・・・
 信濃国に戻り家に安置し
 後に
 信濃国
 水内郡
 芋井郷(長野市)
 に移座し、如来堂を建立して祀った・・・
 ↓↑
 王子の豊璋王
 と
 禅広王(善光王)
 は
 人質として倭国に滞在
ーーーーー
 ひなもり・・・卑奴母離・夷守・・・防人(さきもり)
        雛 母離?・・・
        隋書俀国伝
        夷人(倭人)
     ・・・夷人 不知 里數 但計以日
     ・・・倭奴=俀奴
     隋書俀国伝=倭国伝
     俀⇔イ+妥(爫+女)
     イは妥(おだやか・やすらか・ダ・タ)
     妥協・妥結・妥当
     妥=ダ・タ
     拿・多・太・他・田・足・手
     拿=合+手=拏(本字・女又手)
     手を合わせ
     つかむ・つかまえる
     ナ・ダ・ナア
     とらえる・つかむ・ひく
     拿獲(ダカク)・拿捕(ダホ)
     ↓↑
    都於 邪靡堆 則魏志 所謂 邪馬臺者也
    古云去 樂浪郡境 及 帶方郡
    並 一萬二千里 在 會稽之東 與 儋耳相近
     ↓↑
    開皇二十年
    俀王
    姓
    阿毎
   (あまい)
    字
    多利思北孤
   (たりしほこ)
    號
    阿輩雞彌・・・闘鶏国造
   (あわけいみ)(つげのくにのみやつこ)
      雞     鶏=鷄=雞=にわとり・ケイ
    ↓↑        ↓↑
           大和国北東部を支配した国造
           都祁国造・都下国造とも
           祖先は神八井耳命で神武天皇の皇子
           綏靖天皇の兄
           弟に皇位を譲り
           神祇の奉斎者
      ↓↑  「闘鶏」氏
           姓は直(あたい)
           允恭朝に
           忍坂大中姫皇后に不敬があったため
      ↓↑   稲置姓に落とされた
           大和国山辺郡都祁
          (奈良県奈良市の旧都祁村近辺)
           本拠は坐摩神社(大阪市中央区)
           都祁水分神社
           祭神は
           速秋津比古命・大国御魂命
           天之水分神・国之水分神
           子孫
          「闘鶏大山主(仁徳朝の国造)」
           氷室の氷を初めて御所に献上し
           氷室の管理者となった 
           闘鶏御田=猪名部御田?
             ・・・猪名部⇔「犭(犬・獣)の者」
                   の「名の部」?
           雄略朝の大工・とび(鳶)の達人
           楼閣上を飛行するがごとく走った
     ↓↑    伊尼翼(冀?)=いなき=稲置?
    遣使詣闕
    上令所司訪其風俗 使者言
    俀王
    以天為兄
    以日為弟
    天未明時
    出
    聽
    政跏趺坐
    日
    出便停理務
    云
    委
    我弟
    高祖曰 此 大 無義理 於是 訓令 改之
    ↓↑
    王妻
    號
    雞彌(けいび)
    後宮有女六七百人
    名
    太子
    為
    利歌彌(りかみ)・・・カガうたび・・・足利
    多弗利(たふり)・・・おほブリ・・・・夷振り
    無
    城郭・・・
    有
    軍尼一百二十人・・・・イクサのアマ(海人・海部)
    猶 中国 牧宰(ボクサイ)古代官職・国司の別称
    八十戸置
    一伊尼翼(イニヨク・イニョク)
    如今里長也
    十伊尼翼
    屬一軍尼(クニ)
    ・・・
    無文字 唯刻木 結繩
    ・・・木に何を刻んだのか?
    ・・・
    又東
    至
    秦王國
    其人 同 於華夏 以為 夷洲
    疑不能明也
     ↓↑ ↓↑
        また東の秦王国に至る
        その人は華夏(中国)の
        夷洲と同じだが
        はっきりしたことはわからない
     ↓↑ ↓↑
        また東して秦王国に至る
        その華夏に同じ
        以て夷洲となすも疑うらくは
        明らかにする能わざるなり
     ↓↑ ↓↑
        疑不能明也
        疑=匕+矢+龴+疋
          匕+矢+龴+乛+ト+人
          うたがう・あやしむ・ためらう・しりごみする
          迷う・とまどう
        不能明也=明らかに出来ず(不可能)
        華夏≠夷州=台湾(タイワン・臺灣・台灣)?
        文明国≠夷州=未開で夷国・・・攘夷の対象
                 蝦夷  尊王攘夷
        「礼記」王制篇に
        「東方のことを夷という。夷とは根本の意である」
        大業四年(608)中国から裴世清が派遣
        林郎裴清=裴世清の見聞録・・・?
    ↓↑ ↓↑
    俀王
    遣小徳
    阿輩臺(あわたい)
    従數百人設儀仗鳴皷角來迎
    後十日又遣大禮
    哥多毗(うたび)
    従二百餘騎郊勞 既至彼都
ーーーーー
 魏志倭人伝
 『三国志』中の「魏書」第30巻
 「烏丸 鮮卑 東夷伝 倭人条」の略称
 …始度一海千餘里、至對馬國、
  其大官曰 卑狗・・・・・彦=比古・毘古?
  副曰   卑奴母離・・・夷守・防人?
       ひぬもり
       雛 守
ーーーーー
 鵯=卑+鳥・「鵯越(ひよどりごえ)」、「鵯崎(ときざき)」
   異体字、鹎・𨿵・𪂃
   簡体字、鹎
 鵯=ひよ・ひよどり・ヒ・ヒツ
   鵯鶋(ヒッキョ)」は、鳥の名
   カラス科の鳥
   ひよどり・ひよ・ヒヨドリ科の鳥
ーーーーー 
 ひなまつり・・・・鶵・卑の奴(女又)からの母離れ
 雛祭り・雛祭・・・鶏の雛
 旧暦の三月三日
 「桃の節句」
 江戸時代
 九月九日
 「重陽の節句」
 雛人形をもう一度飾る
 「後(のち)の節供」
 香川県
 三豊市
 仁尾町では、雛祭りは行わず、八朔に雛人形を飾る
 戦国時代に仁尾城が落城したのが
 旧暦3月3日
 兵庫県
 たの市
 御津町
 室津地区
 ひな祭りを旧暦8月1日
 戦国時代の永禄九年一月十一日(1566年2月1日)
 室山城主
 浦上政宗の次男
 清宗
 と
 小寺職隆の娘との間で挙げた祝言(結婚式)の夜
 龍野城主
 赤松政秀の急襲を受けて
 政宗は清宗もろとも戦死し、花嫁も亡くなり
 室山城は落城
 室津の人々は非業の死を遂げた花嫁の鎮魂のために
 3月3日ではなく、半年遅れの
 八朔に雛祭りを延期し
 町おこしの一環の「八朔のひな祭り」として復活
 ↓↑ ↓↑
 「雛祭り」
 雛祭り=「ひなあそび」
     平安時代
     川へ紙で作った人形を流す
    「流し雛=上巳の節句(穢れ払い)」
     として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」
     江戸時代
     女子の「人形遊び」と
     節物の「節句の儀式」が合体
     3月の節句の祓に雛祭りを行うようになったのは
     安土桃山時代の
     天正年間以降・・・
     ↓↑
     江戸時代初期
     「立雛」
     「坐り雛(寛永雛)」が作られ
      男女一対の内裏雛を飾るだけの物
      人形に身代りさせるという
      祭礼的意味合いが強くなり
      武家子女など
      身分の高い女性の嫁入り道具の家財になった
      時代が下ると人形は精巧さを増し
      十二単の装束を着せた「元禄雛」
      大型の「享保雛」などが作られた
      金箔張りの屏風の前に
      内裏の人形を並べた
      享保年間から
      江戸幕府が倹約政策のとり
      大型の雛人形が一時禁止
      『御触書宝暦集成』十五では大きさも制限
      規制を逆手に取り
     「芥子雛」と呼ばれる精巧な
      小さな雛人形が流行した
ーーーーー
 ・・・???・・・
 「羈縻(キビ)政策が適用された地域を羈縻州
  羈縻州の長官は
  唐に対しては一地方官吏で
  部族内部から見れば
  王または首長
  一般に冊封と対比されているが
  歴史的には
  冊封と対立しておこなわれたのではない・・・平行、同時
  羈縻の羈は馬の手綱
     縻は牛の鼻綱のことをさす」
 ・・・羈縻=キビ=吉備・驥尾・紀尾・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

笠=竹の立つ・石=いし・いわ=医師・遺志・磐・違和

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 ・・・TVの「ひるおび」で「サギ被害」を見た・・・???・・・「人間」って都合がイイ・・・
 2018/7/26/21:00~2018/7/27/1:16~
 月の左側に4点の光源、光っている物体はナニ?!・・・

 7月28日の明け方
 西の空に沈む満月の皆既月食
 15年ぶりに大接近中の火星・・・アレって・・・「火星」・・・UFO・・・?
ーーーーーー
 鷺(さぎ)・・・詐欺・詐偽
 大田原市(栃木県北東部に位置
      旧那須郡・松尾芭蕉「奥の細道」と縁が深い
      琵琶池石器遺跡
      長者ヶ平縄文遺跡
      那須国造碑=永昌元年己丑四月
     「永昌」は唐の年号・・・?
      日本元号は
      日本の元号は
      686年に天武天皇の崩御により
      701年の
      大宝まで停止されていた・・・?
      大宝以前
      大化(645年 - 650年)
      白雉(650年 - 654年)
      1年だけ
      朱鳥(686年)
      などの年号が存在
      686年→687年→688年→689年→690年
      →691年~701年・・・十一年間
      元号制度は断絶状態
     「大宝(大寶)元年=701年」
      の改元により元号使用は再開
      大寶元年=701年~大寶四年=704年
      ~慶雲(ケイウン・キョウウン)
      和銅元年前の704年~708年
      天皇は文武天皇、元明天皇
     「慶雲」=夕空に現れ瑞兆の雲、蚊柱
      大宝二年(702年)
      持統天皇崩御、葬儀後の
      大宝四年(704年)
      藤原京において瑞兆
      改元
      ↓↑
      永昌元年(唐年号?・689年?)
      持統天皇三年
      永昌元年=天授元年(689)十一月を
      載初元年正月
      十二月・正月を
      それぞれ臘月・一月とした
      12月=臘月(ロウゲツ)の由来
      臘=肉巤=ロウ=腊=肉昔・月昔
      巤=鼡=ねずみ=鼠=巤
      獵蠟
      邋=「邋邋」は、旗が揺れるさま
      ひるがえるさま
      折る・くじく・進んで行く
      臘月=冬至の後
      第三の戌(いぬ)の日に行う祭り
      猟の獲物を先祖百神に供える祭り
      臘祭の意
      大晦日
      僧の修行の年数
     「戒臘・夏臘 (げろう) ・法臘」
      年功による地位や身分
      魚、豚肉、鳥肉等の干物や薫製
      ・・・蜜蝋・・・
     「蝋」は「蠟」の略字
      文武四 (700) 年に建立された
      石碑 (那須国造碑 )
     「延宝四年(1676年)」に
      水戸領内で
      僧  円順・・・・・つぶらの川の頁
      庄屋 大金重貞・・・大の金の重さを貞める
      らによって発見
      1683年(天和三)
      徳川光圀に知られ
      これを御神体として
     「元禄四年 (1691年)」
      笠石神社を
      徳川光圀が創建
      ↓↑
      那須直葦提 (なすのあたいいで)
      の事績を息子の
      意志麻呂
  ・・・「イシ(おし)まろ」?
         意冨(おほ)
         意斯麻呂
         (おしまろ)
         らが顕彰
         それを御神石とし
         笠石神社の神体とした
         笠=竹の立つ
         石=いし・いわ=医師・遺志・磐・違和
         頤使=人をあごで使う
ーーーーー
 那須国造碑・・・那須国造碑 拓本
 原文は

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%9B%BD%E9%80%A0%E7%A2%91


 ()内は欠字の当字・・・?
 永昌元年(己)丑四月
 飛鳥浄御(原宮那須国)造
 追大壹
 (那)(須)(直)  韋提
  (な  すの あたい いで)
 評(督)被賜
 (歳)次(庚)子年
 (正)月
 二壬子日
 辰(節殄)
 故
 意斯麻(呂等)
 立(碑)銘偲云尓
 仰惟(殞)公廣
 (氏尊胤国)
 家棟(梁)
 一世之中重
 被(貳)(照)
 一命之期連見再甦
 (砕)骨挑髄
 (豈)報前恩是以
 曾子之家
 无有(嬌)子
 仲(尼)之門
 无有罵者行孝之子
 不改其語銘
 夏尭心澄神(照乾)
 六月
 童子
 意香助(坤)
 作(徒)之大合言(喩)
 字故無翼長飛无根更固
ーー↓↑ーー
  八行十九字詰め、全文一五二文字
ーー↓↑ーー
 永昌元年己丑四月
 飛鳥浄御原大宮に
 那須国造で
 追大壹の・・・追(おい・ツイ)の大(おほ)の壹(ひとつ・イチ)
       「追大壹=685年に施行された官位制にあるもの」
       「辺境地方の長官の官位」
 那須直韋提は
 評督を賜はれり。
 歳は
 庚子に次る年の
 正月
 二壬子の日
 辰節に殄れり
 故に
 意斯麻呂ら、
 碑銘を立て、
 偲びて尓か云ふ。
 仰ぎ惟るに
 殞公は、
 廣氏の尊胤にして
 国家の棟梁なり。
 一世之中に重ねて貳照せられ
 一命之期に連ねて再甦せらる。
 砕骨挑髄するも、
 豈に前恩に報いん。
 是を以て
 曾子の家に
 嬌子有ること无く、
 仲尼の門に
 罵者有ること无し。
 行孝の子は
 其の語を改めず
 銘夏尭心、澄神照乾。
 六月童子、意香助坤。
 作徒之大、合言喩字。
 故に、
 翼無くして長飛し
 根无くして更に固まんと。
ーーーーー
 鷺(さぎ)・・・詐欺・詐偽
 大田原市
 の
 八年ぐらい前から
 棲み着き、定住したサギ、およそ300羽・・・

 『手にすくう水もなし』の飢饉災害の荒地
 ↓↑
 医者・医師
 本草・・・・本草書、薬物についての学問
       薬物についての知識をまとめた書
       薬物についての研究は本草書を中心にして行われ
       その成果はこれらの書のなかに蓄積された
       (神農本草書)
       「神農本草経」、「本草綱目」
 医=匚(匸)+矢(𠂉一人)
 醫者
 醫=医+殳(几又)+酉
   函+矢+机+右手+樽
    鏃=矢尻=メス(mes)=執刀小刀(短刀)
    匚+矢=醫の略字
     ↓↑
    「医=悪霊を祓う矢を置く匸(隠された場所)を表す」
       はこがまえ(匚)+矢
 医=いやす・くすし(薬師)・イ
   醫
   軍医(グンイ)・侍医(ジイ)・獣医( ジュウイ)
   主治医(シュジイ)・女医(ジョイ)・典医(テンイ)
   巫医(フイ)・名医(メイイ)
    ↓↑
   メス(mes)=外科手術や解剖に用いられる鋭利な刃物
          オランダ語の mes(ナイフの意)
          スカルペル (scalpel)
          ランセット (lancet)
ーーーーー
 翹岐(ギョウキ)・・・翹=堯+羽
 ↓↑ 尭=堯(たかい・ギョウ)
    尭=十+艹+兀
    堯=土+土+土+兀
    翹=あげる・つまだてる・のびあがる
    すぐれる・抜きん出る
    翹企・翹首・翹翹・翹材
    連翹・翹首・翹楚・翹望・翹揺
 ↓↑ 岐=山+支
    ちまた・わかれる
    本道から枝分かれの道
    幾筋にも分かれ道
    岐路・多岐・分岐
    みち
    隠岐・岐阜
    岐の神(クナド・くなど、くなと -のかみ)
    古より牛馬守護の神、豊穣の神
    禊、魔除け、厄除け、道中安全の神
    疫病・災害などの悪神・悪霊が
 ↓↑ 聚落に入るのを防ぐ神
 百済(くだら・朝鮮)の王族
 義慈王の甥(おい)、
 または子
 ↓↑
 642年
 義慈王は
 異母弟の
 翹岐と
 その母妹女子4人を含んだ
 高名人士40人を島に放逐
 ↓↑
 皇極天皇元年(642)
 義慈王の母の死にともない
 島流し
 ↓↑

 同年来日し
 大使として参内
 蘇我蝦夷
   ・・・「豊浦大臣(とゆらのおおおみ)」
   蝦夷の父   
   蘇我馬子の別名は「島大臣」
   家が飛鳥川のほとりにあり
   庭中の小池に小島があった
   ことから
  「島大臣 (しまのおおおみ)」 ともいわれた
   牡丹の『島大臣』?
   蘇我蝦夷は
  『上宮聖徳法王帝説』では
  「蘇我豊浦毛人」
   蘇我入鹿は「鞍作太郎」
 の邸宅にまねかれた
 百済大井
 (大阪府河内
 長野市?)に移住
  ・・・長野市⇔長野県・善光寺?
  百済王善光?
  名は禅広王・余禅広
  百済の第31代国王・義慈王の子
  天武天皇四年(675年)
  元旦の儀で
  新羅の
  仕丁らと並んで
  薬・珍物を献上
 ↓↑
 大和王朝は
 翹岐(ギョウキ)
 と
 百済の
 大佐平
 智積(チシャク)
 ↓↑・・・智積院=京都市東山区
   真言宗智山派総本山の寺院
   山号を五百佛山(いおぶさん)
   寺号を根来寺(ねごろじ)
   本尊は金剛界大日如来
   開基は
  「玄宥(げんゆう)」
   享禄二年(1529年)
   ~
   慶長十年十月四日(1605年11月14日)
   真言宗の僧
   下野国吹上城主
   膝付又太郎の子
   十八歳
   根来山で修学、南都・園城寺・比叡山で
 ↓↑諸宗の教学を学んだ・・・
 ら百済族に乗っ取られた・・・?
 ↓↑
 舒明と百済武王の崩御年が同じ・・・舒明=百済武王?
 ↓↑
 武 王=舒 明
 武王妃=宝皇女(皇極、斉明)
 義慈王=軽皇子(孝徳)
 翹 岐=中大兄
 智 積=中臣鎌足
 ↓↑ 
 641年、舒明崩御。武王の死没
 642年、皇后(皇極天皇)の
     天 豊 財  重日  足  姫即位
    (あめとよたからいかしひたらしひめ)
     蘇我蝦夷大臣
     蘇我入鹿が国政
     ↓↑
     百済の使者が来倭
    「大佐平
     智積
     と
     国王(百済武王)の母が亡くなり
     弟王子に当たる子の
     翹岐
     や
     同母妹の女子4人など
     40人あまりが島流しになった」
     と伝えた
     ↓↑
     高句麗の使者がやってきて
    「去年(641)の6月、弟王子が亡くなり
     秋9月
     大臣
     伊梨柯須弥(いりかすみ)が
           入里化諏実
        ・・・伊の梨の柯の須の弥
           イ尹禾刀十八 木可彡頁弓爾
           医員退当拾葉知帰化跡頁旧備
     大王(武王)を殺し
     弟王子の子(義慈王⇔擬似王)を王とした」
     と伝えた。
     ↓↑
     蘇我蝦夷は
     高句麗と
     百済の客(翹岐を含む)を
     難波で饗応
     翹岐は従者をつれて
     帝に拝謁したり
     蘇我蝦夷の自宅に招かれ
     騎射を見物し、
     馬や鉄などをもらう
     ↓↑
     天皇が
     百済の使者
     大佐平
     智積
     を饗応
     智積は
     翹岐とともに
     相撲を見物
     宴会のあと
     翹岐の家に行き
     門前で拝礼
 643年、筑紫の太宰府から早馬で
    「百済国王の子
     翹岐弟王子が
     調使と共に到着」
     という知らせ
     ↓↑
     中大兄の父親が
    「田村皇子=舒明天皇」とされているのは・・・?
     ↓↑
     斉明天皇・・・「差異名」天皇?・・・皇極
      と
     舒明天皇・・・「鋤名・汝名・助命」天皇?・・・除名
     の
     子供=天智・間人・天武の父親
     ↓↑
     「田村=デンソン=伝噂」?・・・鶏鳴狗(犬句)盗
         ・・・田文=靖郭君田嬰者、宣王之庶弟也
               封於薛。有子曰文。
              =号為、孟嘗君
     中大兄が
    「耽羅(タムラ、済州島)」からやって来た・・・?
        虎視眈々・耽溺
     ↓↑
 583年、百済より招いた
    「達率日羅」
     達率(率いて達する)日羅(日本)=???
     ↓↑
 義慈王=上宮法王
        厩戸皇子(聖徳太子)=用明天皇の皇子
        聖徳太子伝記の写本の一
       「上宮聖徳法王帝説」=記紀以前の古い史料
     の後継者争いで
     山背大兄王・・・皇極天皇二年十一月十一日死没
     ↓↑     (643年12月30日)
           厩戸豊聰耳聖徳法王、聖王の児
           厩戸皇子(聖徳太子)の子
           母は蘇我馬子の娘
           刀自古郎女(とじこ の いらつめ)
           大臣・蘇我入鹿と従兄弟
          (上宮聖徳法王帝説)
           山背大兄王死後死後
           6日後 辛卯辰時
           大狛法師=大化元年(645年)8月8日
      ↓↑   ↓↑   孝徳天皇の「大化僧尼の詔」により
                十師に選ばれたうちの1人
                (とたりののりのし
           ↓↑    仏教界の最高指導層)
           が
           斑鳩寺にいた
           山背大兄王の息子
          「弓削王」を殺した
      ↓↑   ↓↑
           道鏡
           文武天皇四年(700年)
           ~
           宝亀三年四月七日(772年5月13日)
           俗姓は弓削氏(弓削連)
           弓削櫛麻呂の子
           義淵の弟子
           本貫は河内国志紀郡弓削(大阪府八尾市)
     ↓↑    女帝・称徳天皇の法王
     に敗れ
     百済に渡った
     もと
     高句麗王子=軽皇子・・・???・・・
 ↓↑
 応神天皇時代
 七姓の
 漢人が帰化
 高向村主(すぐり)
 高向史(ふびと)
 が挙げられている
 (新撰姓氏録)
 応神は
 高向村主
 を
 阿智王
 と名のらせ
 高市郡檜隈・・・・・・・檜隈寺=奈良県高市郡明日香村
 (たけちぐんひのくま) にあった渡来系氏族、東漢氏の氏寺
 に居住地を与えた    中世には道興寺とも称した
 ↓↑          檜隈寺跡=於美阿志(おみあし)神社
             十三重石塔
             阿智使主神=応神天皇時代の漢人系渡来人
             東漢氏の祖・阿智使主、阿知王、阿知吉師
             機織を伝えた
        「朱鳥元年(686年)八月条
         檜隈寺、軽寺、大窪寺・・・軽寺?
 ↓↑      に各百戸を封ず。三十年を限る(日本書紀)」
 「阿智王」は後漢帝の子孫(大蔵系図)
 後漢
 献帝〜石秋王〜○〜阿智王〜阿多部王・・・
 阿多部王=高貴王と号
      来日し
      茅渟王の娘と結婚
      坂上、大蔵、蔵内
      の三子をなした・・・
 「高貴王」・・・阿多部王=高貴王=高尊王は、霊帝の子孫
         代々、医博士、鍼博士、典薬頭
         など医家を数多く輩出
 は大臣に任じられ
  妻は
 「斉明天皇」だった・・・?
 ↓↑
 「斉明天皇」の最初の夫は
 「高向王⇔高貴王」・・・?
 孝徳朝の国博士=「高向玄理」・・・
 「高向玄理」=「高向史玄理」
 「高貴王=高向王=高向玄理」・・・???
 ↓↑
 玄理=後漢「献帝」の子孫・・・「献=南の犬」
                「玄理=くろいコトわり」
    天武天皇の母親も中国人・・・?
    天武天皇=「漢皇子」・・・?
 ↓↑
 西-突厥-可汗・達頭
   ・・・トルコ系の遊牧民
      552年に突厥帝国を建設?・・・552年(仏教伝来)
      583年に?・・・・・・・・・・538年(仏教伝来)
           ・・・・・・・・・・583年
       日羅(にちら)?~583年12月
       6世紀朝鮮半島の百済王に仕えた日本人(?)
       父は
       火(肥後国)葦北(葦北郡と八代市)国造
       刑部-靭部-阿利斯登(ゆげいべのありしと)
       阿利斯登(ありしと)は
       宣化天皇の代に
       朝鮮半島に渡海した
       大伴金村に仕えた九州出身の武人
       日羅は
       百済王の
       威徳王から
       二位達率(ダッソツ)の官位を与えられ
       倭系百済官僚となった
       敏達天皇の要請により
       583年日本に帰国
       阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた
       朝鮮半島に対する政策を奏上
       人民を安んじ富ましめ国力を充実し
       船を連ねて威を示す
       百済が九州に領土拡大を謀っているので
       防御を固め欺かれぬようにすべきこと
       等の
       百済に不利な内容で
       同年12月
       百済人によって難波で暗殺された
       物部贄子
       と
       大伴糠手子により
       小郡の西畔丘に埋葬
       後に
       葦北に移葬された・・・
 ↓↑   ↓↑
      隋の分断策で東西に分裂
      東突厥は唐の支配下
 ↓↑   ↓↑
      682年自立し第二帝国を築く・・・682年(天武天皇十一年)
      東突厥は
 ↓↑   744年東トルキスタン(イリ地方)を根拠地とする
      ウイグルに滅ぼされた・・・744年(天平十六年)
 ↓↑   ウイグル=回鶻=廻紇=畏兀児=維吾爾
 西-突厥-可汗・達頭は
 隋と敵対する
 高句麗と連合・・・
 妻と娘を
 高句麗の
 嬰陽王に差し出した・・・
 その
 「娘」=宝皇女(斉明天皇)?・・・差異名天皇?
 「妻」は
 嬰陽王との間に男の子を儲けた
 これが
 「軽皇子(孝徳)」・・・???
 ↓↑
 百済「武王」は
 前百済王の
 「法王(達頭、上宮法王)」
     ・・・上宮法王≠厩戸皇子(聖徳太子)?
 から譲位された人物
 ↓↑
 玄理は
 632年に
 倭国で
 高表仁
 の接待
 630年
 漢皇子は九歳
 641年
 淵蓋蘇文=20歳時の「漢皇子」・・・?
 淵(エン・ふち)
 蓋(ガイ・かさ)
 蘇(ソ・よみがえる)
 文(ブン・あや・ふみ)
 は
 栄留王を殺し
 宝蔵王を立てた
 ↓↑ ・・・宝蔵王は高句麗最後の王
    高句麗の第28代・最後の王(在位:642年~668年)
    姓は高、諱は臧、または寶臧
    先代の栄留王の弟の
    大陽王の子
    642年に
    栄留王を弑逆した
    淵蓋蘇文によって
    王位に即けられた
 ↓↑
 淵蓋蘇文
 中国の史書で
 唐の高祖
 「李淵」と同じ
 「淵」の字を用いるのをはばかり
 「泉蓋蘇文(せんがいそぶん)」
  or
 「蓋金(こうきん)」
 と記録
 ↓↑
 「淵蓋蘇文」は
 高句麗では
 「イリ・ガ・ス・ム」と発音・・・イリ=淵=ふち
 「伊梨・柯・須・弥
 (イリ・カ・ス・ミ)」
 と記録・・・
 ↓↑
 淵蓋蘇文は、「淵」が姓で「蓋蘇文」が名
 ↓↑     淵(ふち・エン)=河川の流水が緩やかで
        深みのある場所
        川の深み、淀み
        対語は瀬(せ)・渕は俗字
        水を深くたたえている所・海淵・深淵
        物事の出てくる根源・淵源
 ↓↑     物の多く集まる所・淵藪(エンソウ)
 孝徳天皇(軽皇子)は
 大化元年
 中大兄を皇太子
 阿倍内麻呂を左大臣
 蘇我倉山田麻呂を右大臣
 中臣鎌足を内臣
 僧旻
 と
 高向玄理
 を国博士
 舒明の娘
 間人皇女を皇后
 ↓↑
 義慈王=孝徳の・・・?
 蘇我氏への復讐・・・?
 ↓↑
 孝徳天皇=軽皇子は
 上宮法王(聖徳太子)
 によって
 次期倭王候補とされながら
 蘇我馬子が上宮法王(聖徳太子)を暗殺・・・???
 蘇我馬子の子・・・馬子=島大臣
 山背大兄王・・・?
 に王位を横取りされた・・・
 ↓↑
 645年12月
 孝徳天皇の都
 難波
 長柄・・・「柄長」の上下(左右)の配置が逆字
 豊碕    ↓↑

       ↓↑ 
   エナガ(柄長、学名:Aegithalos caudatus)
   スズメ目エナガ科エナガ属の鳥類の一種
   エナガ科は世界で七種類が知られる・・・
   カラ類=四十雀(シジュウカラ)を
       始めとする山野の小鳥類の総称
   長い尾をもつカラ類で
   和名は
   極端に長い尾(全長14 cmに対して尾の長さが7-8 cm)を
   柄の長い柄杓に例えた
   江戸時代
  「柄長柄杓(えながひしゃく)」
  「柄柄杓(えびしゃく)」
  「尾長柄杓(おながひしゃく)」
  「柄長鳥(えながどり)」
   などとも
  「コウライ-シマ-エナガ(高麗-島-柄長)」
   高 麗 -島 -柄長
   ・・・???・・・ナゼ?・・・高麗-島-柄長
 ↓↑
 660年
 唐の
 蘇定方が・・・蘇の定の方・・・蘇我を定める方法?
 百済を滅ぼしたとき立てた
 『唐平百済碑(660年)』に
 「其の
  王義慈、及び、太子隆、
  外王と自称する
  孝などを捕獲した」・・・「孝」?・・・孝徳天皇?
 と記録
 「其の王義慈」=「百済・義慈王」・・・「擬似・疑似・擬餌」王?
 「太子隆」=「武王の子」・・・伝承
 「翹岐(中大兄)」の異母兄・・・?
 「武王の子」でありながら
 「義慈王」に従っていたのは
 「武王」の後継者は
 「宝皇女の子・翹岐」・・・?
 「外王と自称する孝」は
 「軽皇子が百済において儲けた子供」・・・
 「631年
  日本に送った
  豊璋の弟」
 中国の史料『冊府元亀(さっぷげんき)』には
 「孝」は「小王孝」とある・・・
 ↓↑
 「隆」
 「孝」
 唐に捕獲されたとき
 「孝」が自称した
 「外王」とは
 「倭王」・・・
 650年
 百済に帰国した
 義慈王と入れ替わりに
 「孝」が来倭し
 白雉年間の
 孝徳天皇として即位した・・・?
 『新唐書』には
 「650年に孝徳天皇が即位して
  白雉に改元した」・・・白雉=しろきじ・ハクチ=白記事・白地
 とある
 ↓↑
 大化年間の孝徳=義慈王・・・?
 白雉年間の孝徳=小王孝・・・?
 ↓↑
 孝徳天皇=義慈王・・・?
 息子の
 宝蔵王=高句麗王は
 自ら百済と倭王を兼任・・・?
 ↓↑
 難波長柄
 に孤立させられた
 孝徳天皇は
 息子の
 「孝」だった・・・??
 ↓↑
 義慈王が百済に帰国し
 唐の太宗が亡くなり
 百済への侵攻が一時停止
 「孝」は
 その直後に
 倭国に送り込まれ
 巨勢徳陀が彼を補佐・・・
 巨勢徳陀は
 651年
 新羅からの使者が
 唐風の衣装を着てきたことに
 激怒、追い返してしまい
 (唐・新羅)VS(高句麗・百済・日本)
 ↓↑
 孝徳天皇の歌
 ↓↑
 鉗着け・・・
 我が飼う駒は・・・駒=馬+句
 引き出せず
 我が飼う駒を
 人見つらむか・・・誰かがみているカモ
          ているだろう・たであろう
 ↓↑
 鉗(かなき)=金+甘(あまい⇔阿毎)
     ・・・金柑=キンカン・ミカン科キンカン属
           の常緑低木の総称
           別名キンキツ(金橘)
          ・・・金の橘(たちばな)
 鉗(かなき)=馬が逃げないように首にはめておく木
 「馬」=「間人皇后」
 「人見つらむか」の「人」=「中大兄」?
 「孝徳天皇」は息子の「孝」・・・
 ↓↑
 孝、泰、隆、演、豊璋、勇(百済王善光)
 の6人の王子
 ほか、庶子41人
 孝=孝徳天皇
 ↓↑
 654年
 孝徳崩御
 「孝」の百済への撤退・・・
 唐の高宗が極東への政治介入を再開
 孝徳の「臨終」の際に
 中大兄、斉明上皇、間人皇后、大海人皇子、公卿
 らが見舞った
 藤原鎌足が
 紫冠と封戸を授けられた
 鎌足は
 義慈王の家臣であると同時に
 大海人
 ら倭国側との仲介役となって
 「孝」の撤退決議への
 大海人からの恩賞・・・
 ↓↑
 654年
 新羅
 武烈王(金春秋)が即位
 ↓↑
 豊璋
 は
 662年
 鬼室福信に百済王として帰国を要請
 倭国で養蜂に失敗
 ↓↑
 豊璋
 義慈王=軽皇子だった頃に
 倭国で生まれ
 母の身分もあまり高くなく
 鬼室福信に百済に呼び戻され・・・
 百済、再(差異?)滅亡・・・?
ーーーーー
 ・・・以上は全部、「高句麗」の説がボクが調べてきた
 色々なモノ(文字)と重なって面白かったので
 「草原から来た天皇3」の
http://toshihak.lolipop.jp/sohgen/index.html
 「実は古代史ほど、
  論理と想像の力で、
  誰でも「新説」を唱えることができる
  ジャンルはない・・・「ジャンルではない」・・・?
  ということだけでも
  感じ取っていただければ
  サイワイである。(2009年8月)」
 の原文を参考、参照にして部分添付・・・
 ボクの妄想もチョッと「?」と添付・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
 「ジャンルはない(無い)」のか?
 「ジャンルはアル(有る)」のか?・・・

対+「象・照・称」・大+「賞・将・笑・小・証・商」・代+「償」

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 ・・・「大輝丸事件」・・・「火星(Mars )の時代」・・・Red Planet(レッド・プラネット・赤い惑星)・・・「マーウォルス(マウォルス、Māvors)・マーメルス(マメルス、Māmers)」・・・「グラディーウゥス(グラディウス、Gradīvus、進軍する者という異称)」・・・「アレース=アーレース(ΑΡΗΣ、Arēs、Ἄρης, Ārēs)」・・・聖樹は「トネリコ(梣)=木+山+今?」・・・「和名の由来は、本種の樹皮に付着しているイボタロウムシ(イボタ蝋=虫白蝋・水蝋蝋)が分泌する蝋物質(イボタロウ:いぼた蝋)にあり、動きの悪くなった敷居の溝にこの白蝋を塗って滑りを良くすることから「戸に塗る木(ト-ニ-ヌル-キ)」とされたのが、やがて転訛して「トネリコ」と発音・樹皮は民間薬で止瀉薬や結膜炎時の洗浄剤」・・・???・・・舎人子?・・・「イボタロウカイガラムシ、イボタロウカタカイガラムシ」・・・疣・肬・・・異母太郎・揖保太郎・・・
 揖=ゆずる・あつまる・へりくだる・あつまる・あつめる・ユウ・シュウ・会釈・胸の前に両手を組み合わせて行う礼法・一揖・揖譲・揖揖・・・
 揖=扌+咠=手+口+耳=ユウ(イフ)・笏(しゃく)を持ち、上体をやや前に傾けてする礼・中国の昔の礼の一・両手を胸の前で組み、これを上下したり前にすすめたりする礼・・・葺(ふき)・茸(きのこ)・・・
 「儋耳(タンジ)・珠厓(シュガイ)」=海南島
 「夷洲(イシュウ)」=台湾
  ↓↑  ↓↑
 「粤(エツ)の地は
  牽牛・婺女(ブジョ)の分野
  今の
  蒼梧・鬱林・合甫・交阯・九真・南海・日南
  の諸郡は、みなその分野として粤(エツ)の地
  ・・・
    粤=ノ+囗+米+丂
      異体字は𠿋・𦉿
      粵ここに・ああ・エツ・オチ・発語の語・嘆息の声
  合甫郡の
  徐聞県より
  南方海上に出れば
  大きい島があり
  東西南北千里四方で
  武帝の元封元年(前110)
  これを略取して
  儋耳(タンジ)・珠厓(シュガイ)
  の二郡を置いた
  民はみな布を服ているが
  ひとえの夜着のようであり
  真ん中に穴を穿って頭を出していた
  男子は農耕し
  禾稲(イネ)・紵麻(チョマ)を種え
  女子は桑蚕・機織・紡績をした
  馬と虎がおらず
  民に牛・羊・豕(ブタ)・鶏・犬の五畜あり
  山に麈(シュ)・麖(ケイ)が多くいた
      シュもケイも大鹿
  武器は矛・盾・刀・木弓弩・竹矢、骨鏃があった
  郡県となった当初より
  吏卒の中国人に
  侵害されることが多かったため
  その民はおおむね数年に一度叛乱した
  元帝(前48~前33)
  この地を放棄した
  (『漢書』地理志下粤)」
  ↓↑
 咠=ささやく(囁く)・そしる(謗る・誹る)・シュウ・ユウ
  ↓↑
 「カイガラムシ(介殻虫・Coccoidea)
  カメムシ目ヨコバイ亜目腹吻群カイガラムシ上科に
  分類される昆虫の総称
  果樹や鑑賞樹木の重要な害虫
  いくつかの種で
  分泌する体被覆物質や
  体内に蓄積される色素が重要な
  経済資源ともなっている分類群」・・・
 「ルビーロウ-カイ-ガラムシ」・・・?
 ルビー=紅玉 (birthstone)・真紅色・・・ルビ(ruby)
 カイ=甲斐(X)・回・解・海・歌意・・・?

 「1945年、九州大学の
  安松京三は、
  九州大学農学部植物園で
  月桂樹(ゲッケイジュ)の枝に寄生した
  ルビーロウカイガラムシを採集し
  ガラス管に入れておいたところ
  トビコバチ科の新種の
  寄生バチが出てきたのを発見
  1954年
  石井悌と連名の論文で新種記載
  ルビーアカヤドリコバチ・・・紅玉赤宿小蜂?
  (Anicetus beneficus Ishii & Yasumatsu)
  と命名された」・・・
  ↓↑
 安松京三(Yasumatsu・アンショウ キョウゾウ)
         ・・・安=宀+女
            松=十+八+八+ム
            京=亠+口+亅+八
            三=参
 と
 石井 悌(Ishii)・・・「磐井・岩井」の「悌=忄+弟」
    悌=したがう・やわらぐ・やすらか・テイ・ダイ
      年長者に従順なこと・孝悌
      兄弟の仲がよいこと・悌友
      兄や目上の者に素直につかえること
      やわらぎ楽しむこと・豈悌(ガイテイ)
  ↓↑
 ルビーアカ-ヤドリ-コバチ

 2018/7/29/22:30
 「アレース=マルス=戦いの神・・・阿(蛙)例重素(諏)
  神なのに
  人間のディオメーデースに敗北・・・神に勝ったのは
                ヤコブ=イスラエル(旧約聖書)
           イスラエル(神と戦う者という意味)
  (アテーナー女神がディオメーデースを支援)
       ・・・芦名・葦名・蘆名・蘆品・足名?
  ヘーラクレースからは半殺し
  巨人の兄弟アローアダイ(オートスとエピアルテース)
  により
  青銅の壺の中に
  13か月間幽閉された
  アレースの好戦的な神格が
  ギリシア人には不評・・・
  主にギリシアの蛮地であるトラーキアで崇拝・・・」
  ・・・「トラキア」・・・虎起(来)鴉・・・虎は香良洲から来る?
 「神々の中では嫌われ
  愛人のアプロディーテー(ヴィーナス)や従者と子供達
  そして彼が引き起こした
  戦争が冥界の住人(死者)を増やすことから
  冥界の王・ハーデースとは関係が深い」・・・
 「アンタレス(Antares)
  さそり座α星・火星に似たもの(ギリシア語)」を意味する
 「"Άντάρης"」に由来・・・

ーーーーー
 1922年(大正11年)・・・弐拾弐・拾壱
 ↓↑・・・1922年=千九百弐拾弐=千玖珀念仁
      大正11年=タイショウ十一ネン
          =対象・対照・対称・大賞・大将・大笑
        ・・・大小・代償・大証・代将・大商
           十一念・撚
 ↓↑
 大輝丸事件(だいきまるじけん)・・・一の人の光の軍
 日本の「海賊」による・・・「海賊」?
 外国人殺害事件
 「尼港(ニコライエフスク )事件の復讐」
 ↓↑ ・・・シベリア出兵中の
    日本軍隊と
    ソビエト・パルチザンとの間の紛争事件
    1920年2月
    アムール川河口の
    ニコライエフスク (尼港) を
    占領中の日本軍は
 ↓↑ ソビエト・パルチザンの攻撃を受け降伏

 ↓↑ 将兵および居留民は捕虜
    パルチザン側は
    351名の日本将兵、副領事を含む
    383名の日本居留民を殺害
    市内を焼払って逃亡
    ソビエト政府は
    事件責任者を死刑に処し
    事件には無関係との態度をとった
    日本政府は交渉すべき
    相手方政府が存在しないことを理由に
    北樺太・サガレン州の主要地点を保障占領
    日本軍は
    1922年10月まで
    4年2ヵ月とどまり
    北サハリン占領は
    1925年5月まで続き
    日ソ基本条約附属公文において
 ↓↑ ↓↑
    ソビエト政府が
    日本政府に遺憾の意を表明
    6月24日
    シベリアから日本が撤兵を声明
    日本側も保障占領を解除し解決・・・
    10月25日
    シベリアからの樺太北部を除いて日本軍が撤兵を完了
    12月27日
    鳳翔(ホウシヤウ)
    日本海軍初の航空母艦・世界初の新造空母
    12月30日
    ソビエト連邦成立
 ↓↑
 大正11年(1922年)
 大正 9年(1920年)の
 「尼港(ニコライエフスク )事件の復讐」
 の名のもとに
 江連(えづれ)力一郎
 らが
 ロシア船を次々と拿捕して
 積み荷を略奪
 ロシア人12人、中国人4人、朝鮮人1人を殺害
 ↓↑
 2年前の
 大正9年(1920年)
 ロシア沿海州の都市
 ニコライエフスク (尼港)が
 パルチザン(ロシア赤軍?)の襲撃を受け
 多数の市民が虐殺
 多数の婦女子を含む
 在留
 日本人700人が巻き込まれて全滅
 女性への残虐な殺害
 日本社会は反露感情に沸き立った
 ↓↑
 1922年(大正11年)10月9日~10月22日、23日
 大輝丸事件(だいきまるじけん)
 事件の経過
 ↓↑
 首謀者
 江連(えづれ)力一郎(当時34歳)は・・・江連力一郎?
 茨城県
 結城町出身
 海城中学卒
 明治大学中退
 のちに
 陸軍に入隊し軍曹
 彼は柔道、剣道、合気道など各武術をきわめ
 段位は合計で30段
 ↓↑
 尼港での
 惨劇に悲憤慷慨し
 復讐を決意
 軍部や実業家から
 潤沢な資金を回収し
 決行の機会をうかがった
 神戸西之宮の
 相沢汽船会社所有の
 船・大輝丸740トンを用意し
 「オホーツク海に砂金採取に行く」
 と称して乗組員を募集
 呼びかけに
 人夫、失業者、学生など
 60人が集まった
 9月26日
 北海道・小樽を出航
 10月1日
 樺太北部の
 アレクサンドロフスク・サハリンスキーに入港
 江連は乗組員全員を船の甲板に整列させ
 ピストルを誇示しつつ檄を飛ばす
 ↓↑
 「オホーツクでの砂金回収60貫は
  流氷による航海不能により見送ることにする。
  そこで我らは進路を変え、
  アムール川河口の
  ニコライエフスク (尼港)に向かう。
  諸君らもよく知るはずの尼港だ!」
 ↓↑
 10月9日
 ニコライエフスク (尼港)に入港
 沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪
 北樺太の
 ポコピー、デスカストリー付近で
 帆船1隻および多量の海産物や油類を略奪
 同時にロシア人船長以下12人
 および先の発動機船の乗組員4人を
 大輝丸の船員室に監禁
 ↓↑
 10月22日、23日
 捕虜17人全員を甲板に引き出すや
 命乞いを聞き入れることもなく
 ピストルと日本刀を使い分けて殺害
 小樽に帰港し
 略奪品を荷揚げし、
 各乗組員に150円ずつの分配をし
 厳重な口止めを約束させて解散
 ↓↑
 事件後、乗組員だった
 田中三木蔵
 菊池種松
 が、自首し事件が発覚
 「兵站」として使用していた
 稚内の倉庫から
 大量の武器弾薬が発見
 江連は直ちに全国に指名手配
 江連は
 情婦の「生首お梅」
 参謀格の
 石川房吉を引き連れ
 札幌郡下手稲村の
 温泉旅館・光風館に逗留
 同年12月13日
 警官隊の急襲を受け
 抵抗することもなく縛についた
 江連は取調べの席でも法廷においても
 「ニコライエフスク (尼港)事件で
  殺害された日本人の霊をなぐさめるため
  天にかわって正義の剣をとり
  懲罰をこころみた」
 旨弁明
 3年間、未決であったが
 大正14年(1925年)2月27日
 懲役12年の刑に処せられた
 他の乗組員34人には
 懲役12年から
 罰金500円までの有罪判決が下った
 ↓↑
 江連はのちに数度にわたる特赦
 昭和8年(1933年)に出獄
 翌9年
 マリー・ローザンヌ号
 金塊引揚事件に関与し再び捕らえられるが無罪
 後に満蒙開拓団に加わった・・・
 消息は不明
 心形刀流杖術・・・心形(シンケイ)⇔神経・唇形
          刀流(トウリュウ)⇔逗留・東流・当流
          杖術(ジョウジュツ)⇔上述
 を学んでいた江連は獄中で
 ステッキ術の指南書を著し
 現在でも復刻版が刊行
 未決のままであった二人の乗組員のうち、
 一人は戦後見つかって
 執行猶予つきの有罪判決
 他は
 事件発生から
 45年後の1967年2月28日
 東京地裁は時効完成による免訴の判決
 ↓↑
 日露戦争中に
 北海道国後島海岸にて
 沈んだロシア軍用船
 「アンナ・ローザンヌ号」
 から金貨2500万ドルを引き上げると騙って
 1万6千人あまりから
 36万円(当時)を集めた詐欺事件
 資金集めのため設立された後援会には
 会長・有馬聡頼子爵
 理事長・三輪光儀陸軍少将
 をはじめ名士が多数名を連ねていた・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・「拉致誘拐被害者」を「救済・救出」出来るか・・・「救済・救出」出来なかったとしたら・・・

提灯!?・・・「お猿のかごや」

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 ・・・「音」か、「意」か?・・・「音」も、「意」もか?・・・闇夜に提灯・・・猿田彦は「邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来た」、「猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ=猿女君・自分を送り届けるように頼んだ」・・・「猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神(古事記)、猿田彦命(日本書紀)と表記」・・・猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざかの海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂(底度久=テイトク・御魂)」、猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂(都夫多都御魂)」、泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂(阿和佐久御魂)」という三柱の神が生まれた。この時に海中で溺れた際に生じた泡の三柱の神は阿射加神社(あざかじんじゃ)に鎮座・・・
 猿田彦神の3つの御魂
 底度久御魂(テイトク-オンコン)・・・・提督・貞徳・帝徳・禎徳
 都夫多都御魂(トフタト-オンコン)・・・「塗布・土風・問ふ」他訳
 阿和佐久御魂(アワサク-オンコン)・・・「阿波・安房」裂く
ーーーーー
 明治十年=1877年・・・千捌百漆拾漆・・・十八(おはこ)・喜寿(キジュ)
 火星(Mars・マールス・マーズ・Άρης=アレース)



 ・・・提灯!?・・・「お猿のかごや」は「山上武夫(大正6年=1917年2月8日~1987年11月2日)作詞、海沼實(明治42年=1909年1月31日~1971年6月13日)作曲による昭和13年=1939年12月にビクターレコード、歌手、尾村まさこの童謡として発売」・・・
ーーーーー
 「提=扌+是」督の「音今」
    提供(貞鏡・貞享)・提督(底度久)
 ↓↑
 「貞享」=江戸前期、霊元天皇・東山天皇の時の年号
      1684年2月21日~1688年9月30日
      天和の後、元禄の前
     「永貞吉、王用享于帝、吉
     (永貞なれば吉、王用って帝に享す、吉)」
      貞享暦(じょうきょうれき)は
      唐代の
      長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)
      天安三年(859年)に
      渤海使がもたらし、それまでの
      大衍暦・五紀暦に代わり用いられた
      暦博士
      大春日真野麻呂の強い推挙による
      長慶宣明暦
      に変えて
      渋川 春海が
      貞享暦を作成
      日本初の国産暦
      和暦として改元
      幼名は六蔵
      諱は都翁(つつち)
      字は春海、順正
      通称は助左衛門
      号は新蘆
      姓は安井から保井、渋川と改姓
      将軍は
      第五代
      徳川綱吉=犬公方=「能狂」
 「貞鏡」=初代
      双龍斎 貞鏡
     (そうりゅうさい ていきょう)
      講談師
      本名は中村貞之助
      寛政十一年(1799年)
      ~
      安政二年九月二日(1855年10月12日)
      享年57
      初代錦城斎典山の門下
      隻眼だったために同じ隻眼の
      伊達政宗の法名の
     「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」
      に因んで貞山と号した
      得意演目は「伊達評定」
 ↓↑
 那須 与一=系図上は那須氏二代当主
       一般的に宗隆
       家督を相続した後は
       資隆と名乗った
 ↓↑
 追大壹の・・・追(おい・ツイ)の大(おほ)の壹(ひとつ・イチ)
       「追大壹=685年に施行された官位制にあるもの」
       「辺境地方の長官の官位」
 笠石神社=那須国造碑(なすのくにのみやっこのひ)
      下野那須国造の那須直韋提(なすあたいいで)が
      評督(こうりのかみ)
      に任命
      石碑が
      西暦700年に建てられ
      栃木県の
      大田原市の
      碑は
      那須直韋提の子
      意斯麻呂(おしまろ)
      が建てた
 ↓↑
 700年(文武四年)に没した
  那須直韋提(なすのあたいいで) の頌徳碑
 ↓↑
  那須  直   韋提
  (なす の あたい いで)
  は
  評督
  を賜はれり
 ↓↑
  意斯麻呂
 (おしまろ)
  ら
  碑銘を立て
 ↓↑
 提=扌+是(日疋)・・・疋=乛(オウ)+ト+人
   さげる・ひっさげる
   テイ・ダイ・チョウ・・・提灯(チョウチン)
   手にさげて持つ・提琴・提携
   差し出す・持ち出す
   提案・提起・提供・提言・提示・提出・提唱・前提
   先に立って引き連れる
   提督(テイトク)
   梵語の音訳字(ダイ)
 ↓↑
   さげる・ひっさげる・持つ・手にさげて持つ
   かかげる・かかげて示す・差し出す
   ひきいる・ひきつれる
 ↓↑
 地名
 提(ひさげ)・菩提(ぼだい)・千提寺(せんだいじ)
 提興屋(ひさげこうや)・求菩提(くぼて)
   ↓↑
   招提 (しょうだい) ・菩提 (ぼだい)
   提灯 (ちょうちん) ・提子 (ひさげ) 
   招提・前提・提案・提起・提議・提供・提琴
   提携・提言・提示・提出・提唱・提訴・提題
   提灯・提督・提婆・提瓶・提要・提論・提喩
   提撕・提腕・菩提・孩提・闡提・提子・提ぐ
   ↓↑
 後生菩提(ごしょうぼだい)
 耳提面命(じていめんめい)
 上求菩提(じょうぐぼだい)
 提綱挈領(ていこうけつりょう)
 提耳面命(ていじめんめい)
 発菩提心(ほつぼだいしん)
 煩悩菩提(ぼんのうぼだい)
 無上菩提(むじょうぼだい)
 ↓↑
 傘と提灯は戻らぬつもりで貸せ
 (かさとちょうちんはもどらぬつもりでかせ)
 暮れぬ先の提灯(くれぬさきのちょうちん)
 提灯に釣り鐘(ちょうちんにつりがね)
   釣り合わないこと、比較にならないことのたとえ
   提灯と釣り鐘は形は似ているが重さがまるで違う
 提灯持ち(ちょうちんもち)
 提灯持ち川へはまる(ちょうちんもちかわへはまる)
   人を導くべき人が、先に失敗してしまうことのたとえ
   提灯を持って先導する人が、
   自分の足元が暗いため川に落ちてしまう
 提灯持ちは先に立て(ちょうちんもちはさきにたて)
 月夜に提灯(つきよにちょうちん)
   不必要なことのたとえ
   月夜に提灯は必要ないことから
  「月夜に提灯夏火鉢」
 月夜に提灯も外聞(つきよにちょうちんもがいぶん)
   実際は不必要なことでも、
   世間体のためにしなければならないたとえ
   月夜に提灯をともすような無駄なことも、
   世間体のために必要なこともある
 手鍋提げても(てなべさげても)
   好きな男と夫婦になれるなら、
   どんな苦労もいとわないということ
 盗人の提灯持ち(ぬすびとのちょうちんもち)
   悪人の手先となって、手助けをすること
   「提灯持ち」は、
   人の手先になって、その人をほめ従う者
 闇夜の提灯(やみよのちょうちん)
   ひどく困っている時に、
   頼りになるものに出会うことのたとえ
   「闇夜の灯火」
ーーーーー
 淡路(タンジ)→種子(タネジ)→丹児(タンジ)
 ↓↑         ↓↑
 海南島は       ↓↑
 前漢時代から「儋耳(タンジ)・珠崖(シュガイ)」
 ↓↑
 儋耳や
 儋=儋=亻+袪=擔・担
   になう・にたい・こがめ(小甕⇔小亀?)・タン・セン・ゼン
   異体字は擔・担
   担(儋、擔)
   担ぐ、担う
   担(擔) - 東アジアの荷物や重さの単位
   延喜式では人ひとりが担ぐ荷物の量
   中国語圏の尺貫法では100斤
   袪=厃+儿+言
     ヂァン・しつこくものを言う様子
 ↓↑
 筋の通らない無責任な言葉・うわごとを譫語(センゴ)といいます。
 譫(セン)=たわごと
       筋の通らない無責任な言葉
       うわごと・譫語(センゴ)
   鼈甲=ベッコウ=別項・別稿
 ↓↑
 古代中国で
 夷洲(イシュウ)=「台湾」
 海南島=「儋耳(タンジ)・珠崖(シュガイ)」
 秦の始皇帝時代の地域=象郡・・・?
 『漢書・地理志』
 合甫郡
 徐聞県
 大きい島=海南島
 『後漢書・郡国志』
 徐聞県
 ↓↑
 呉の孫権が
 赤烏五年(242)
 将軍-聶友
 校尉-陸凱
 を遣はし兵三萬を率いて
 朱崖・儋耳(海南島)を討っ
 ↓↑
 隋統一王朝
 海南島に
 珠崖(シュガイ)郡
 十県・12670戸(『隋書・地理志』)
 ↓↑
 南朝-梁
 崖州(ガイシュウ)
 『旧唐書』
 崖州
 四県、1110戸・・・1110・壱千壱百壱拾
ーーーーー
 ・・・拾壱&壱拾・壱足・・・

 ↓↑
 土偶
 霧ヶ峰
 八ヶ岳
 中信高原
 長野県
 茅野市
 諏訪市
 諏訪郡
 下諏訪町
 小県郡
 長和町
 にまたがる火山
 ↓↑
 八ヶ岳縄文道
 棚畑遺跡
 八ヶ岳縄文王国の
 国宝土偶
 「縄文のビーナス」
 の出土地
 『棚畑遺跡』
 ↓↑
 「仮面の女神」
 の出土地
 『中ッ原遺跡』
 ↓↑
 茅野市米沢埴原田
 棚畑遺跡
 縄文時代中期(約5,000年前)~後期前半(4,000年前)
 縄文時代の住居址が149箇所発掘
 ↓↑
 「黒曜石」流通の交易・交流の拠点
 環状集落が南北2箇所にある
 双環状の遺跡
ーーーーー
 ・・・


真逆=まさか=眞砂化=麻紗化・雅化・真佐加・真下?

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 ・・・今日(8/2)は月が半月、火星はボクのカスミ目の視覚能力によって燃え残りのコークス、熔岩石が宙に浮いて、その塊まりの四点からオレンジ色の光が漏れ出ているように見える・・・「真逆=まさか=眞砂化=麻紗化・雅化・真佐加・真下」・・・「真砂土(まさつち・まさど・Decomposed granite)とは、花崗岩が風化してできた砂」・・・「崗(山+岡)=おか・コウ・上部が平らでかたく高い台地」・・・単に真砂(まさご)とも・・・「細かい砂・まなご・いさご・浜の真砂の数ほどもある事例・まさごじ(真砂路)・真砂を敷いた道・真砂の中の道」・・・
 歌舞伎
 河竹黙阿弥の作・・・黙(だまって)阿(おもねる)弥(彌・弓+爾・や・あまねし・ひさしい・わたる・つくろう・いよいよ・いや・ビ・ミ)・・・「つくろう(繕う)」・・・武(たけ=竹・建・猛・長・茸・岳・嶽・他家)内宿禰・・・
 「木阿弥」を「黙阿弥」と書くのは誤り?・・・「阿=曲がったところ=曲がる」・・・アヤマリではない・・・
 「筒井順昭の病死を隠すために、子の筒井順慶が成人するまで、声の似ていた木阿弥という男を寝所に寝かせて外来者を欺き、順慶が成人するや筒井順昭の喪を公表し、木阿弥は再びもとの身分にもどされた」・・・「元の木阿弥」・・・「本の目編み」・・・
 『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)』
  浜松屋の場での弁天の見顕し
 「弁天小僧が武家娘に変装し強請(ゆすり)」をする
 「浜松屋見世先の場(はままつやみせさきのば)」
  ↓↑
 「雪の下浜松屋の場」
 「白浪五人男
  弁天小僧-菊之助の台詞(セリフ)」・・・
  ↓↑
 「知らざあ
  言って聞かせやしょう
  浜の真砂
  と
  五右衛門が
  歌に残せし・・・石川五右衛門が秀吉に
          釜ゆでの刑に処せられる時に
          歌った辞世の句
         「石川や
          浜の真砂は尽きるとも
          世に盗人の種は尽きまじ」
  盗人の
  種は尽きねえ・・タネ(禾重・種子・太根・多根)は無限?   
  七里ヶ浜・・・・鎌倉の海浜・シチ理懸ハマ?
  その白浪の・・・白浪=支那で盗人・・・新羅?
  夜働き・・・・・盗賊・夜勤=やきん=冶金・野禽・矢琴
  以前を言やあ
  江ノ島で
  年季勤めの
  稚児が淵・・・・江ノ島の渕の名、昔、稚児の白菊が投身自殺
          鎌倉相承院の稚児=相模江の島神社の小姓
          白菊が建長寺の自休というお坊さんに恋をし
          かなわぬ恋と知って投身自殺
          それを知った自休も身投げした
         「江の島物語」・稚児が淵=知語臥附字?
  百味講で・・・・頼母子   
  散らす・・・・・チラス
  蒔き銭を・・・・神仏、神社、神宮への参詣者が
          蒔き米のかわりにまく銭
          棟上げなどの際、施工主が祝いとして
          参列者にまく銭
          多くは鳩目銭(はとのめせん)を用いた
          乞食などに投げ与える銭・・・こじき=古事記
          巻き撰?
  あてに
  小皿の・・・・・こざら・ショウベイ
  一文字・・・・一文子(博打)
  百が二百と・・・・百済が「二百済」?
  賽銭の・・・・・・賽銭=サイセン=再選・・・
  くすね銭せえ段々に・・・クスネル
  悪事はのぼる
  上の宮・・・・江の島の中津宮・江ノ島中央の山の上
  岩本院で・・・岩本院=ガンポンイン=元本韻=磐本韻
  講中の
  枕捜しも・・・枕もとに置いてある金品を盗み取ること
         その盗み人
         邯鄲師(かんたんし)=旅館で、寝ている客の
                   金品を盗む者
        「邯鄲の夢」の故事
         李泌作の『枕中記』の「盧生(ロセイ)の夢」
         「人の栄枯盛衰は儚(はかなし・ボウ・モウ)」
  度重なり
  お手長講と・・・盗癖
  札付きに・・・・常習犯
  とうとう
  島を・・・・・・島=しま=縞・志摩・四万・揣摩
  追い出され
  それから
  若衆の
  美人局(つつもたせ)・・・夫婦が共謀し行う恐喝、詐欺行為
      筒(つぼ・つつ・トウ)は
      いかさまサイコロ博打で使う細工した筒
      丁半博打でサイコロに細工をすること使うことば
      中国の元の頃、娼妓を妾と偽って少年などをあざむいた犯罪
  ここやかしこの
  寺島で・・・・・「寺島」=菊五郎家の苗字
           寺島=ジトウ=持統・地頭・自答・字問・字答
  小耳に聞いた
  爺さん(音羽屋・とっつあん)の・・・七代目の菊五郎
      おとわや=おとはや=音葉也
  似ぬ
  声色(こわいろ)で・・・俳優のせりふ回しの声や口調をまねること
              他人の物まねをする事
              古く元禄年間 (1688~1704) に始る
  こゆすり・・・・・強請り
  たかり・・・・・・タカリ・集り・炊かり・焚かり・倬り?
  名せえ(さえ)
  ゆかりの
  弁天小僧・・・弁(わきまえる)天(あま)の小僧
         建久三年(1190年)
         北条時政が子孫繁栄を願いこの地に参籠
         満願の夜に弁財天が現れ願いを聞き入れた後
         龍となり鱗を3つ残していった(太平記)
         弁財天の使いとして白龍王
  菊之助たぁ・・・菊、之、助
  俺がことだぁ」
  ↓↑
  菊=艹(くさかんむり)+匊(すくう・キク)
      日 下夢無理    救う・規矩
  菊=キク=鞠=革+匊(すくう・キク)
    鞠=革+匊(すくう・キク)
    まり・やしなう・とりしらべる・かがむ・キク
    まり・けまり・やしなう・そだてる・おさない
    ただす・とりしらべる・かがむ・身をかがめる
ーーーーー
  韋=なめしがわ・イ・「韦」の字旁「韋」・・・「韦=韋」?
         ↓↑
 ・・・「かき」と「こけら」との関係は「歌舞伎の台本・脚本」の「書き」と「歌舞伎座・演劇小屋・劇場」の小屋掛けの屋根を葺く柾(まさ)・・・柾(まさ)は国字・・・
 「まさ・まさめ・木目がまっすぐに通ったもの・まさき・ニシキギ科の常緑低木」・・・「筋目がよく通って削ぎやすく、水に強い材木」
 「鱗ら・コケら・木屑・破片・こけら(木屑)・こけら(苔ら)・こけら(鱗)・,こけらいた・こけらおとし・こけらずし・こけらぶき・板葺(いたぶき)・木材の薄板(杮板)で屋根を葺くこと」・・・「木っ端」、「木片」・・・「木の欠片(かけら・ケッペン)」・・・
         ・・・柿落し・柿葺落=こけらぶきおとし?
          木𠂔
         「柿(かき・シ)」
         「柿=木+亠+巾」
         「杮=木+十+冂=柹(古字)=枾(本字)」
          と
         「杮(こけら・ハイ)」 
         「肺」の右側は本来、
         「肉+市(こけら)」と同じ形
          ↓↑
          柿(かき)=木+市(亠+巾・いち・シ)
                 座頭市・十市
                 姉(あね・シ)=姊
          かき=杮=柹(木𠂔)=枾=𣐈=シ
          ↓↑
          杮(こけら)=木+十+儿=木+巿(ひざかけ・ハイ)
            沛公(ハイコウ・劉邦・沛県の亭長)
            肺病(ハイビョウ・ハイケッカク・肺結核)
          ↓↑      ↓↑
          徐福=ジョフク=徐巿(ジョフツ)
          徐福(別名 徐市)
                 巿=市=膝掛と帯
                   芾・𢂷
          出身地
          斉の国 琅邪(山東省)
          江蘇省連雲港市かん楡(ゆい)県・・・贛楡区
                 1167年(大定七年)
              懐仁県~金朝により贛楡県と改称
          金山郷で
          徐阜村(徐福=徐市村)発見・・・阜=市
         (古来は琅邪郡)
          職業
          方士(呪術・祈祷・薬剤・占星術・天文学)
             錬金術師
   韋=そむく
   毛を取り去って柔らかくした動物の皮
   韋=ぐるぐるまわる意
     足の速いと俗伝の韋駄天
     緯(よこいと・イ)
     竹簡の書物の綴じ糸
 「韋」字は「違」の本字で
 背きあう・背反・両足の交互の歩調・交互の歩調の両足
 字形
 圍は
 背いた足の象形の
 「舛」と
 囲いの象形の
 「囗」の合体
 守衛が城壁の周囲を巡回している意味
 ↓↑
 韋=毛をとりさって柔らかくなめした動物のかわ
   なめしがわのように柔らかい
   しなやか。そむく・行き違い
   とりかこむ・めぐらす・まわりにめぐらした囲い
   違・圍・衛・緯・偉・葦・諱
 韋+α=韓・韜・韞・韌・𩎒・䪏・𩎓・𩎔・𩎕・𩎖・𩎗・䪐
 「石の韋」=イワノカワ・ヒトツバ
 「藜杖韋帯(レイジョウイタイ)」
  きわめて質素なことの例え
 「藜杖」はアカザの茎で作った杖
      軽いので老人が用いる
 「韋」はなめし皮=韦
     藜の杖となめし皮の帯は共に粗末な物の形容
 「韋編三絶(イヘンサンゼツ)」
     一冊の書物を
     なめし革の紐が何度も切れるほど
     繰り返し繰り返し読むこと
     読書や学問に熱心なことのたとえ
 ↓↑
 「韓」=から・カン
     いげた(井桁)・井戸の枠
     中国、戦国時代の国名「韓」
     朝鮮の三韓=馬韓・弁韓・辰韓・・・金官加羅国
     韓=𠦝+韋
       異体字は「韩」・・・𠦝(十日十)+韦
 ↓↑
 三韓=馬韓・弁韓・辰韓
 金官国=駕洛国・金官加羅・任那加羅
     (韓国慶尚南道金海市)に有った
      前身は『三国志』の
     「狗邪韓国」
ーー↓↑ーー
 田代島のネコ・・・・マリリン・ほくろ
 田代島=たしろじま・宮城県石巻市に属す島
     三陸海岸南端を構成する
     牡鹿半島の先端近くの仙台湾(石巻湾)内にある島
     江戸時代は流刑地
ーーーーー
 ・・・???・・・

「自スイ」からカイホウされるヒ・・・

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 ・・・「オデッセイ(odyssey・長期間の冒険、知的探求・原題: The Martian)」・・・生きて帰還する・・・何処に?・・・「イリ」・・・「相撲」、「首相夫人」、「モリカケ」・・・「アメリカン-フットボール」・・・今度は「アマチュア-ボクシング会長」・・・「文部省-事務次官」・・・ヤァッ!!、日本の政治屋っていうか、接待してもらうことは市民生活の「日常文化」、「おもてなし=客や大切な人への気遣いや心配り・心のこもった待遇・お+持て成し・饗応・供応」・・・「うらてあり=台所・調理場・庫裏(くり)・かまど(竈)場=穀物や食料品などを加熱調理する際に火を囲うための調理器、竃(かまど・釜戸)設備のある部屋・御勝手」?・・・「おもて=表・面」+「なし=為し・成し・生し・無し」、「うらて=裏手」+「あり=有り」?・・・モチロン、市民社会の「イデオロギーの私物化」も「階級身分文化」のウチ・・・ボクも接待される側の「身分」になりたいモノだが・・・組織的な権力機構の序列の最下層で生きているらしいから「自炊」で充分か・・・「自スイ」からカイホウされるヒはメデタイだろうナッ?・・・


 「炊」って?・・・
 炊=火+欠=火+丿+乛+人
  =異体字は「𣣛」
  =炊は火に息をふきかけ・・・
       欠=あくび・ケツ・カク=欠伸・・・
         欠片(かけら)     
       欠=缺=缶(午凵)+夬(ユ人)
  =空気を送って火の勢いを得て食物を煮炊きすること
       欠唇・欠損・欠員・欠陥・欠如
       欠点・欠乏・残欠・不可欠
       欠けている所・補欠
   ↓↑
   吹=口+欠=ふく・スイ・・・吹奏楽団
   次=冫+欠=氷+欠・・・・・・次点・目次・次第
   欣=斤+欠
     よろこぶ・キン・ゴン・コン
   ↓↑   
   欸・欹・欧・歌・款・歓・歛
   欷・欺・歙・歔・欣・欽
   欠=缺=ある物体の穴からでる空気(気体)の音
   歇・歉・次・歠・歃・歎・歟
   欲=谷+欠・・・欲望・私欲・欲求
   資・・・資質・資本・資源
   姿・・・姿態
   恣・・・恣意
   諮・・・諮問
   茨・・・茨城・茨木
   盗=次+皿=ぬすむ・トウ・・・盗賊
 ↓↑   ↓↑
 炊=たく・かしぐ・スイ
   めしをたく・煮たきをする
   炊事・雑炊・一炊 (イッスイ)
   自炊(ジスイ)・晨炊(シンスイ)・雑炊(ゾウスイ)・・・
   炊ぐ(かし-ぐ)・炊煙ん(スイエン)
   炊臼の夢(スイキュウのゆめ)
   炊金
   饌玉(スイキンセンギョク)
   炊爨(スイサン)
   炊事(スイジ)
   炊飯(スイハン)
   炊(た)く
   い・かし・かしぎ・とぎ・とぐ
   一炊之夢(イッスイのゆめ)
   栄華之夢(エイガのゆめ)
   邯鄲之夢(カンタンのゆめ)
   黄粱之夢(コウリョウのゆめ)
   盧生之夢(ロセイのゆめ)
ーーーーー
 推古天皇(スイコ-テンコウ)・・・ふるきをおす-天工・転向・転校
 ↓↑   ↓↑
 欽明天皇十五年(554年)・・・欽=金+欠
 ~
 推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
 『古事記』は(三十七年戊子・三月十五日)
 第三十三代天皇
 在位
 崇峻天皇五年十二月八日(593年1月15日)
 ~
 推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
 最初の女帝(女性天皇)
 諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ・ガクデンブ)
 ↓↑   ↓↑
 和風諡号は
  豊 御食 炊   屋姫 尊
 (とよみけ かしき やひめのみこと)
  豊 御食 炊   屋比売 命
       炊   屋姫  尊
ーーーーーー
  大陸では
 「男子は氏
  女子は姓
  を称した」・・・?
 ↓↑
 推古天皇(すいこてんのう)
 欽明天皇十五年(554年)
 ~
 推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
 『古事記』は(三十七年戊子・三月十五日)
 第三十三代天皇・・・サン拾サン
 在位
 崇峻天皇五年十二月八日(593年1月15日)
 ~
 推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
 最初の女帝(女性天皇)
 諱は額田部皇女・・・・・額(客の頁)田(た・デン)の部?
  (ぬかたべのひめみこ)
 和風諡号は
  豊  御食 炊   屋 姫 尊
 (とよ みけ かしき や ひめのみこと)
  豊  御食 炊   屋 比売 命
        炊   屋 姫  尊
 ↓↑
 三輪 逆(みわ の さかう)
  ・・・ナンで「逆(さからう・さかさ)」?
      纂話(三話・参話・讃和)は逆?・・・編纂の倭は逆?
 姓は君・・・姓(女+生)は君(尹+口)=クン=訓?
 三輪特牛(矢口)の子・・・特(牛+寺)の牛(𠂉+十)
 敏達天皇(びだつてんのう)・別名、「他田天皇」?ナゼ、タダ?
 (渟中倉太珠敷尊=沼名倉太珠敷命)
 (ぬなくらのふとたましきのみこと)
 の寵臣
 ↓↑
 敏達天皇十四年(585年)六月
 蘇我馬子が
 敏達天皇に仏法を許され
 仏舎を造り、仏像を迎えて供養した際に
 三輪 逆は
 物部守屋
 中臣磐余と寺塔を焼き
 仏像を廃棄しようと謀ったが
 蘇我馬子に拒まれた
 同年八月
 敏達天皇が崩御し
 殯宮で葬儀
 三輪 逆は
 「朝廷を荒らさぬよう
  鏡のように浄めて平らかに治まるよう
  臣は仕えます」
 と誄を読み
 隼人を集めて殯庭を警護
 ↓↑
 用明天皇元年(586年)五月
 穴穂部皇子は
 炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)
 を犯さんと欲して、殯宮に押し入ろうとした
 「三輪逆」は
 兵衛を集めて宮門を閉じて侵入を拒んだ
 穴穂部皇子は
 七度開門を呼ばまわったが
 三輪逆は入れなかった
 穴穂部皇子は激怒
 大臣の蘇我馬子
 と
 大連の物部守屋
 に
 三輪逆は不遜であると言った
 馬子と守屋はこれに同意
 穴穂部皇子は
 物部守屋とともに兵を率いて
 磐余の池辺を囲んだ
 三輪逆は
 三輪山に逃れ
 その日の夜に山を出て
 炊屋姫の後宮(海石榴市宮)へ隠れた
 逆の一族の
 三輪白堤と
 三輪横山が
 三輪逆の居場所を密告
 穴穂部皇子は
 守屋に遣いを出して
 三輪逆と2人の子供を殺すことを命じた
 物部守屋は三輪逆を討つべく兵を率いて
 海石榴(つばき)・・・海石榴(カイセキリュウ)
          ・海の石の榴(ざくろ)=根は駆虫薬
 市宮へ向かった
 穴穂部皇子も
 物部守屋と合流すべく自邸を出たが
 蘇我馬子が
 「王者は刑人に近づくべきではない」
 と諫言して止めた
 穴穂部皇子と馬子が待っていると
 守屋が帰ってきて
 三輪逆を斬ったことを報告
 (穴穂部皇子が自ら射殺・・・)
 馬子は「天下の乱は近い」と嘆き
 守屋は「汝のような小臣の知るところではない」
 と言った・・・
 ↓↑
 三輪逆は敏達天皇に信任され
 内外のことを悉く委ねられていた
 このため
 炊屋姫と馬子は
 穴穂部皇子を深く恨むようになった
 後
 穴穂部皇子と物部守屋は
 蘇我馬子によって滅ぼされた
 ↓↑
 穴穂部皇子(あなほべのみこ)
 ?~用明天皇二年六月七日(587年7月17日)
 欽明天皇の皇子
 聖徳太子の叔父
 物部守屋と結託したが
 蘇我馬子に殺された
 ↓↑
 欽明天皇の皇子
 母は
 蘇我稲目の娘
 小姉君
 異母兄に
 敏達天皇・用明天皇
 同母姉に
 穴穂部間人皇女(用明天皇妃・聖徳太子生母)
 同母弟に崇峻天皇
 ↓↑
 穴穂部皇子は皇位を望み
 敏達天皇十四年(585年)八月
 兄・敏達天皇が崩御し
 同年九月
 大臣・蘇我馬子の推す
 大兄皇子(用明天皇)が即位
 これに対抗し
 大連・物部守屋と結んだ
ーーーーー
 中臣 勝海
 (なかとみ の かつみ)
 生年未詳~用明天皇二年(587年)四月
 中臣勝海は
 蘇我氏の家来(太子伝暦には太子舎人)
 迹見赤檮によって殺された
 ↓↑
 姓は連
 出自は不明
 父は中臣鎌子・・・中臣鎌足とは別人?
  ・中臣磐余・・・磐余?・・・神武天皇
   磐余は黒田の子
   常盤の弟に伊礼波とあり
   同一人物の可能性・・・
  ・中臣真人・・・天武天皇?
 の諸説がある
 大夫(まえつきみ:議政官)の地位にあった。
 中臣氏は舒明期の中臣御気から鎌足まで記録が無い
 ↓↑
  ・中臣-宮地-連-鳥麿呂
 長屋王の謀叛を密告し
 無位から外五位に取り立てたれ
 後に長屋皇の家臣に殺された
 ↓↑
 中臣氏は
  ・中臣黒田
  ・中臣塩屋連?・・・中臣枚夫?
  ・中臣鯯(コノシロ)=塩屋連(魚制)魚(コノシロ)
     堺部鯯魚(コノシロ)
     幼魚=ママカリ・つなし
   有間皇子に味方し
   鎌足と敵対し殺された
  ・中臣鯯より始まる
  ・中臣黒田から3代目
  ・中臣御気
 子が
  ・中臣鎌足・・・?
 ↓↑
 敏達天皇十四年(585年)三月
 物部守屋と共に
 疫病流行の原因が
 蘇我氏の仏教信仰のせいと奏上
 用明天皇二年(587年)四月
 天皇が病床で仏教に帰依する旨を詔し
 群臣にこのことを協議するように命じた
 守屋と共に詔に反対し
 後
 守屋の挙兵に呼応し
 自宅に兵を集め
 押坂彦人大兄皇子の像
 と
 竹田皇子の像を作り呪詛
 が、反乱計画の不成功を知って
 彦人大兄に帰服
 皇子の宮に行ったが
 迹見赤檮(迹見首赤檮)に殺された
 ↓↑
 迹見赤檮(迹見-首-赤檮)
 (とびのいちい・とみのいちい)
  首(おびと)
 物部守屋の反乱
 合戦で
 迹見赤檮は
 秦河勝とともに
 物部守屋を
 直接弓で射止めた

 赤檮(イチイ)=イチイガシの別称
    イチイ科の常緑針葉高木、園芸植物、薬用植物
ーーーーー
 系図によると
 勝海には
 中臣若子
 中臣古多比
 中臣贄古
 の三子があり
 古多比からは
 中臣宮処氏(中臣宮処氏連)が
 贄古からは
 中臣大家氏(中臣大家連)が出た
ーーーーー
 菟道貝蛸(うじのカイダコ)皇女
 大中臣安遊麻呂(おおなかとみのアユまろ)・・・鮎
 中臣烏賊津連(なかとみのイカつのむらじ)
 粟田入鹿(あわたイルカ)・・・・・・海豚
 道公宇奈岐(みちのきみのウナギ)・・鰻
 加茂小鮒(かものをブナ)
 堺部鯯魚(コノシロ)・・・・鯯魚(コノシロ)
 紀鯖麻呂(きのサバまろ)
 大豆鯛麻呂(おおまめタイまろ)
 尾張須受枳(おわりのスズキ)・・・鱸
 粟凡鱒麻呂(あわおおしのマスまろ)
ーーーーー


ーーーーー
 イシク・クル
 (ウイグル語:Ysyk-Köl
  キルギス語:Ысык-Көл
  ロシア語: Иссык-Куль)
 天山山脈の北
 キルギスの北西に在る内陸湖
 イシク湖、イシククル湖、イスィククリ湖などとも表記
 同国最大の面積をもつ
 イシク・クル州に位置しており
 この湖の北岸はイシク・クル地区と呼ばれている
 ↓↑
 古称は
 熱海(呉音:ねつかい、漢音:ぜつかい)
 唐代の詩人
 岑参は
 「側聞陰山胡児語、西頭熱海水如煮
  海上衆鳥不敢飛、中有鯉魚長且肥」
 と詠んでいる
 ↓↑
 イシク・クルの湖底
 多数の遺跡が水没している
 湖畔の砂浜には陶器など
 湖底遺跡から流れ着いたものが打ち寄せ
 なぜ遺跡が存在するかは未だに謎
 遺跡は1つではなく
 様々な時代の遺跡が水没している事が判明
 烏孫の
 赤谷城が有る
 ↓↑
 湖には少なくとも16世紀頃までは島が有り
 更にその島には城が存在していた
 ↓↑
 イシク湖には旧ソ連時代から魚雷の試験場があった
 ↓↑       ↓↑
 イリ=Ili, ile  ↓↑
    イリ地方・イリ川・イリ
    カザフ自治州・グルジャ市の別名
    韓国全羅北道の地名 (Iri)=裡里市
 ↓↑
 イリ・カザフ自治州
 中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部に位置する
 カザフ族の副省級自治州
 グルジャ市(伊寧市)を州都とし
 全国で唯一
 タルバガタイ(塔城)、アルタイ(阿勒泰)
 の2地区を管轄する地区級行政単位
 ↓↑
 民族構成は
 カザフ族が25.5%
 漢族が45.2%
 ウイグル族が15.9%
 を占める
 自治区の中心部は
 天山山脈
 ボロホロ山脈
 (天山山脈の支脈)に挟まれた
 イリ盆地(イリ川上流部)
 ↓↑
 唐代には
 突厥旧属カルルク部の地
 後に
 カラハン王朝の領土
 1124年
 契丹貴族
 耶律大石が
 イリのカルルク部を臣服させて西遼を樹立
 1211年
 カルルク部はモンゴル帝国の支配下に入り
 チャガタイ・ハン国に分封
 1677年
 オイラト・モンゴルの
 ジュンガル部が南下して新疆に入り
 イリ地方をその中心とした
 1755年
 清朝は
 ジュンガル部との数十年にわたる戦いの後
 イリを征服し
 1762年
 イリ将軍を置いた
 イリ将軍が駐在した
 恵元城は新疆の政治、軍事の中心ともなった
 新中国成立後
 1954年
 イリ・カザフ自治州が成立
 ↓↑
 1949年10月1日
 中華人民共和国新疆省イリ専区が成立
 ↓↑
 中華人民共和国 新疆ウイグル自治区
 伊犁哈薩克自治州
 ↓↑
 漢代、シルクロードの北に位置し
 烏孫国の領土となり、
 西域都護府の指揮に帰した
 その後
 西突厥に属すと同時に
 唐の北庭都護府に臣従
 南宋時は西遼、元代には
 チャガタイ・ハン国
 清初には
 ジュンガル部に属した
 ↓↑
 乾隆年間に
 清朝がジュンガルを征服すると
 グルジャは
 イリ将軍の管轄下の新疆の一部となった
 1871年
 ヤクブ・ベクが
 東トルキスタンに侵攻し
 カシュガルで独立を宣言し
 ロシア帝国は
 グルジャ(固勒扎)すなわち
 寧遠城を占領して
 イリ地方を併合
 清朝は
 1881年
 ロシアとの間でイリ条約を締結し、イリ地方を回復
 光緒年間の
 1884年
 新疆省が設置され、県制が施行されると
 グルジャは
 寧遠県となった
 中華民国成立後の
 1913年に
 伊寧県へ改称
 ↓↑
 1944年
 ウイグル人、カザフ人などの
 テュルク系住民の間で独立運動が起こり
 ソ連の支援の下で
 東トルキスタン共和国が設立
 グルジャは
 1949年に
 同政権が
 中華人民共和国へ合流するまで
 同政権の首都となっていた
 ↓↑
 1952年
 グルジャ市(伊寧市)が
 伊寧県から分離され
 1954年にイリ・カザフ自治州が設置されると
 グルジャはその首府となった
 ↓↑
 東トルキスタン共和国
 1944年
 グルジャ市内で起きた
 ウイグル人の武装蜂起に
 タルバガタイ、アルタイのカザフ人ゲリラ勢力が合流し
 中華民国からの独立と東トルキスタン共和国の成立を宣言
 同政権は
 中国国民党の新疆省政府と対立し
 ソ連の支援の下で
 1949年まで独立を維持
 国共内戦を終結させた
 中国共産党とソ連の協議により
 1949年8月
 中華人民共和国に合流
 9月
 省政府の国民党勢力も中華人民共和国への服属を表明
 東トルキスタンは
 中国共産党の統治下に置かれた
 ↓↑
 この後
 国境に近い
 イリ・カザフ自治州は
 ロシア、ソ連からの影響を受け
 中ソ対立が激しくなった
 1960年代には
 約6万人の
 イリ・カザフ自治州在住の
 ウイグル人
 カザフ人
 の農牧民がソ連へと脱出

 グルジャは
 東トルキスタン独立運動が活発な地方の1つ
 1997年2月
 大規模な騒動では、デモ隊が暴徒化
 漢民族などの一般庶民に攻撃し
 数人の死者と数百人の負傷者が出た
ーーーーー
 ・・・???・・・

スゴイねッ、各々がたの生き方・・・

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 ・・・スゴイねッ、「研ナオコ」の生き方・・・すごいねッ!!「大谷」が「11本」・・・すごいねッ!熱中症でバッタ、」バッタとヤられている!・・・すごいねッ!!熱波の日々、名古屋で40度・・・夏の避暑地は火星がイイかも・・・すごいねッ!!過去の高校野球第99回目までの試合のエピソード・・・
 スゴイねッ、国家高級官僚と企業を取り持つ「仲介人=a mediator・周旋人=agent・middleman・broker・intermediary・a go-between」?・・・
 「コンサルタント(management consultant)」って?・・・私腹高級官僚と贈収賄で生活費を稼ぎ出すんだ・・・
 「コンサルタント consultant(専門的相談を受ける職業)」?・・・「consult=誰かに情報や助言を求めたり、決断をする前に誰かの意見や許可を求めたりする意味」・・・
 「consultant(コンサルタント)=相談役・顧問」?・・・裏口入学だけじゃなく、宇宙飛行士の裏口斡旋?・・・
 スゴイねッ、「豆腐馬鹿=ミスター豆腐」・・・
 スゴイねッ、「バトミントン日本選手」・・・
 やったねッ、「日本ハム」が勝った・・・
ーーーーー
 ・・・

ツバメのボランティア・・・?

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 ・・・月曜日、8/6/21:30・・・外に出て南東の夜空に火星を確認してきた・・・ボクのカスミ眼には相変わらず橙色の光源が一つの物体から四点の穴から輝き漏れているように視える・・・それにしてもデッカく視える・・・昨日はハムもコンサも負け、今日は旭川も北照も、負けた・・・大谷さん、打った・・・明日、立秋は、「二十四節気の第十三。七月節(旧暦6月後半から7月前半)。定気法では太陽黄経が135度のときで8月7日ごろ」・・・アキが(弖爾乎波・てにをは・で・に・を・は)タツって??・・・「安芸・亜紀」・・・「助詞・接続詞・言葉のつじつまを意味する言葉のこと。「は」、「を」、「が」、「も」、「に」など、語句と語句との間に使用し、単語同士の関連性を示したり、意味を加える言葉」・・・俗に「てにをは(弖爾乎波・天爾遠波)」か「てにはを(弖爾波乎)」と呼ばれる(Wikipedia)・・・
 「他言語との接続詞、後置詞」・・・高知市(史・氏・師・士)・・・土佐のサカモト某のコト・・・???
ーーーーー
 「星の王子さま」が、大人の利害関係で「トラブル」なんッて?
 「審議が終わるまで、このお知らせを除去しないでください。
 (以下、著作権侵害の可能性がある箇所を取り除いた内容を
  暫定的に表示します。Wikipedia)」
 ・・・???
 ・・・「星(リュウグウ)の皇子(はやぶさ2)さま」・・・「ミズの無い星」って?・・・「乙姫さまも魚たちもイナイ」?
  ↓↑
 「星の王子様(アントワーヌ・サン=テグジュペリ・1943年出版)」
 か
 「幸福な王子(The Happy Prince・アイルランド出身の文人オスカー・ワイルドによる子供向けの短編小説・この小説が初出する短編集 The Happy Prince and Other Tales の通称・1888年に初版」
 か・・・
 「夜空の星の所有権を主張し、その数の勘定に日々を費やす実業家」・・・ヤッパ、「The Happy Prince」の事情だ。相棒は「はやぶさ」じゃぁなく、越冬「つばめ(燕・鷰・鳦・乙鳥)」じゃぁなく・・・皇子に尽くして、皇子の財産を剥ぎ取っては貧しい人々に運搬し、「南方のエジプトへの渡りの時期を逃し、寒さに凍え死んだツバメ」だョッ・・・?
 「ツバメは
  皇子の
  剣に装飾されていたルビーを
  病気の子供とその母親に
  両目のサファイアを
  飢えた若い劇作家と
  幼いマッチ売りの少女に
  配送
  ツバメは
  エジプトに渡る事を中止
  街に残り街中を飛び回り
  両目をなくしメクラになった皇子に
  街の人々の暮らしを報告
  皇子はまだたくさんいる不幸な人々に
  自分の体の
  金箔を剥がし
  分け与えてと頼む
  冬が訪れ
  皇子はみすぼらしい姿
  ツバメは体力を失い
  最後の力を振り絞って
  皇子にキスをし彼の足元に落下し
  息をひきとり
  そして
  皇子の鉛の心臓は
  音を立て二つに割れた・・・
  王子の像は
  柱から取り外され
  溶鉱炉で溶かされたが
  鉛の心臓だけは溶けず
  ツバメと一緒に
  ゴミ溜めに捨てられてしまった・・・
  神に命じられた天使は
  ゴミ溜めから
  皇子の鉛の心臓
  と
  死んだツバメを
  神のもとに持ってきた・・・
  ↓↑
  ・・・「鉛の心臓」は鉄砲の弾丸、「ツバメの身体」は焼き鳥・・・真っ逆・・・真、佐賀のハナシ・・・か?・・・そんなァ~

「越冬=エットウ=越島・越当・曰等・説問う」つばめ?

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 ・・・「遠州つばめ返し」?・・・「越冬つばめ」・・・「ツバメのウタ」・・・卑弥呼・・・西暦170年?~西暦247年or西暦248年・・・

ーーーー
 燕国・燕州
 「燕」=中国河北省北部(北京周辺)に位置
     青銅器時代の都市国家
     東周期に領域国家に発展し
     河北省北部全体を指す
     歴史的にこの地域に建てられた
     国名、地方名、行政区名
     農耕定住地域の華北と
     牧畜の満州・内モンゴルの媒介地域
     河北省そのものの雅称
  ↓↑     ↓↑  
 「燕 (春秋・紀元前1100年ごろ~紀元前222年)」
     周により封建された都市国家から
    春秋時代~戦国時代にかけて領域国家
    七雄の一
    陳勝・呉広の乱
    ↓↑
    秦末期
    韓広
    が擁立されて名乗った燕
   (紀元前209年~紀元前207年)
    ↓↑
    臧荼・楚漢戦争
    燕の武将
    臧荼が
    秦末の動乱で
    西楚の覇王となった
    項羽に封建された
    燕国
   (紀元前206年~紀元前202年)
    ↓↑
    盧綰
    前漢初期
    劉邦と同郷の盟友の
    盧綰が
    臧荼に替えて諸侯王として
    封建された燕国
   (紀元前202年~紀元前195年)
    ↓↑
 公孫氏 (遼東)
 三国時代
 公孫淵
 が魏からの自立を企てて名乗った
 燕(236年~238年)
 ↓↑
 五胡十六国時代
 鮮卑の
 慕容部が
 満州・内モンゴルから
 河北省北部に当たる地域に建国
 ↓↑
 前燕(337年~370年)
 五胡十六国時代
 慕容皝の建国
 ↓↑
 後燕(384年~409年)
 五胡十六国時代
 慕容垂の建国
 ↓↑
 西燕(384年~394年)
 五胡十六国時代
 慕容泓の建国
 ↓↑
 南燕(398年 - 410年)
 五胡十六国時代
 慕容徳の建国
 ↓↑
 北燕(409年~435年)
 五胡十六国時代
 馮跋の建国
 ↓↑
 燕 (安史の乱・756年~759年or763年)
 唐代に
 平盧節度使
 范陽節度使を兼ねた
 安禄山
 が満州・内モンゴルの
 遊牧民を背景に
 「安史の乱」で建国
 ↓↑
 桀燕(911年~914年)
 五代十国時代
 劉仁恭(息子の劉守光)が
 河朔三鎮の勢力を背景に建国
ーーーーー
 燕(紀元前1100年頃~紀元前222年)
 周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国
 春秋十二列国の一
 戦国七雄の一
 河北省北部、北京周辺を支配
 首都は薊(ケイ・北京)
 燕都・薊城の遺蹟は北京市房山区に所在
 ↓↑ 
 燕の始祖
 周建国の元勲
 召公奭(召の公である奭の意・ショウコウセキ
     奭=大+百+百)
 姞姓の伯爵
 河南省の
 「南燕国」に対して
 「北燕」とも
 当時は
 「燕」ではなく
 「匽」と記録
 召公の一族は
 山東半島の
 「奄(魯の近隣)」に封じられ
 成王の時(禄父の乱の鎮圧後?)
 北京近辺に移った
 国名を燕といった
 (奄=匽=燕=エン)
 この時、現地にあった
 韓侯国が入れ替わりに
 陝西省に移った
 燕に残った
 韓の旧住民は
 多く「韓氏」を名乗った
 西周時代
 燕の東方(遼寧省朝陽市喀喇沁左翼自治旗)に
 「箕侯」という都市国家があり
 「燕」の属国であったが
 春秋時代を待たずに
 北方遊牧民に滅ぼされ
 燕に亡命した住民が多かった・・・
 春秋時代以降
 燕の士大夫層に
 「韓」や「箕」を「氏」とする者がみられる・・・
ーーーーー
 春秋時代
 北方の
 山戎に攻められた際
 君主・荘公は
 隣国の覇者
 斉の
 桓公に援軍を乞い
 山戎軍を撃退
 (紀元前664年/紀元前663年)
 後
 荘公は
 桓公に感謝の意を表するために
 斉まで
 桓公の軍を送って
 その際に軍は
 燕と斉の国境を越えて
 斉国内に入ってしまった
 自国まで軍を見送らせることができる者は
 天子(周王)しかおらず
 時の名宰相
 管仲に指摘された
 桓公は
 一部自領を切り取って
 燕に授けた・・・
 ↓↑
 戦国時代
 紀元前334年
 『史記』蘇秦列伝
 「東に
  朝鮮・遼東
  北に林胡・楼煩
  西に雲中・九原
  南に呼沱・易水
  がある」
  紀元前323年
  王(左飛)を名乗る
  第2代の王の
  噲は
  宰相の
  子之を盲信し
  堯舜に倣うと言って禅譲し
  騒乱状態
  (紀元前315年)
  翌年
  斉(田斉)が付けこみ
  兵を出して侵攻
  全土を併合
  ↓↑
  紀元前313年
  公子職が
  子之を倒し
  斉軍も撤退し
  公子職は
  昭王となった
  ↓↑
 昭王は
 斉を憎み
 復讐を誓った
 昭王は人材を集めることを
 郭隗に尋ね
 郭隗は
 「死んだ馬の骨を買う」の故事を喩え
 「まず私を優遇してください
  さすれば
  郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから
  もっと優れた人物は
  もっと優遇してくれるに違いないと思って
  人材が集まってきます」
 と答えた
 昭王はこれを容れ
 郭隗を師と仰ぎ
 特別に宮殿を造って郭隗に与えた
 「まず隗より始めよ」・・・
 燕には名将
 楽毅
 蘇秦の弟
 蘇代
 など人材が集まり
 これらを使い
 昭王は
 燕の改革・再建を進めた。
 ↓↑
 将軍の
 秦開を派遣し
 北方遊牧民族の
 東胡を討つ
 新領土に
 郡県制をしき
 上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東
 の5郡を設置
 秦開に
 造陽から襄平までの
 東西二千里にわたる
 「燕の長城」を築かせた(魏略)
 秦開はさらに
 満潘汗(平安北道博川)に至って
 朝鮮との境を定めた
 ↓↑ 
 燕は
 斉包囲網を形成し
 紀元前285年/紀元前284年
 楽毅率いる5ヶ国連合軍50万が
 斉軍20万を撃破
 楽毅は
 斉の首都
 臨淄を陥落させ
 莒(キョ)と即墨を除く
 斉の都市を尽く占領
 燕は「朝鮮」を更に討って
 朝鮮半島北部も領有
 南部の「真番」を略属させ
 所々に要塞を築き官吏を派遣
 以後約5年間
 燕は
 河北省
 遼寧省
 朝鮮半島
 山東半島
 を併合
 『山海経』の
 「鉅燕(巨大な燕)」
 「全燕(完全な燕)」・・・
 ↓↑
 昭王が死に
 子の
 恵王が即位
 楽毅を疑って
 趙に走らせ
 紀元前279年
 占領していた斉は
 田単によって取り返され
 山東半島の領土は失った
 ↓↑
 後は
 秦が強勢となり
 斉や趙に対抗するために
 秦と結んだ
 紀元前228年
 趙が秦によって滅ぼされ
 燕は秦と国境を接し
 太子丹は
 秦王政に
 刺客
 荊軻を送ったが失敗
 (荊軻に同行した
  秦舞陽は
  秦開の孫)
 秦王
 政は
 燕は攻め首都を陥落(紀元前226年)
 太子丹は殺され
 燕王喜は遼東に逃れた
 紀元前222年
 秦の将軍
 王賁に攻められ王が捕虜となり
 燕は滅亡
 督亢の地(燕の本土)は
 秦の広陽郡となり
 昭王が置いた
 5郡と合わせて
 秦の統治下では6郡となった
 朝鮮半島の
 燕の諸要塞は
 「上鄣」と「下鄣」の2ヶ所にまとめられ
 遼東郡に属することになり
 官吏を派遣して治められた
 ↓↑
 秦末漢初
 紀元前209年
 趙にいた
 武臣から派遣されてきた
 将軍
 韓広
 が現地の燕人らに推戴されて
 燕王となって自立
 紀元前206年
 項羽の封建により
 臧荼が燕王に立てられ
 燕王だった
 韓広は
 遼東王に遷された
 臧荼は
 韓広を攻め
 遼東を併合
 燕全体の王となった
 朝鮮半島は放置
 燕王
 臧荼は
 紀元前204年に
 韓信に帰順
 紀元前202年に
 群雄諸王らとともに
 劉邦に
 皇帝の尊号を奉った
 後、反乱を起こし臧荼は処刑
 代わって
 盧綰が燕王に封建された
 紀元前195年
 盧綰は
 匈奴に亡命
 燕国は廃され郡県となった
ーーーーー
 倭との関係
 『山海経』海内北経に
 「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」
 倭は燕の属国
 ↓↑
 燕の姓は姞(女+吉)
 ↓↑
 倭の位置
 後の玄菟郡の
 「蓋馬(西蓋馬県、蓋馬大山)」
 遼東半島の
 「蓋平(遼寧省営口市)」
 鉅燕を『史記』の「全燕」と同じとみて
 山東半島の「蓋(現在の山東省淄博市沂源県)」
 朝鮮半島江原道の
 「濊(ワイ)」
 馬韓の「乾馬(全羅南道益山)」
 ↓↑ ↓↑
 『山海経』海内北経
 「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」
ーーーーー
 公孫氏(コウソンシ)
 三国時代
 2世紀後半
 後漢の地方官だった
 公孫度が
 「黄巾の乱」=黄巾之乱・後漢末期の西暦184年(中平一年)
        太平道の教祖張角を指導者とする信者が
        各地で起こした農民反乱
 以来の混乱に乗じ
 遼東地方に
 半独立政権を樹立
 ↓↑
 領土は朝鮮半島中西部の
 帯方郡を境に
 南は韓と接し
 東北は高句麗
 西北は烏丸・鮮卑
 と接する
 遼東以北の地は
 中華圏の北東端
 漢・魏王朝からは絶域
 公孫氏の勢力圏を
 確立
 公孫康の時代以後
 韓や倭は
 帯方郡に帰属した・・・帯(たらし)の方(かた)の郡(こおり)?
 ↓↑
 189年
 公孫度
 後漢により
 遼東太守に任命
 後
 後漢から自立
 朝鮮半島の北端である
 楽浪郡
 山東半島まで勢力を伸張
 ↓↑
 204年
 公孫度の嫡子
 公孫康
 が
 楽浪郡の南に
 帯方郡を設置
 韓や倭を勢力下に置く
 ↓↑
 曹操により
 公孫康は
 後漢に服属し
 左将軍の官位を授けられた
 後継には弟である
 公孫恭が立った
 ↓↑
 228年
 公孫康の子
 公孫淵
 が謀叛し
 叔父から位を奪う
 当時、後漢が崩壊し
 魏・呉・蜀
 の三国に分立・・・
 ↓↑
 公孫淵(コウソンエン)・・・淵=エン=円・延・猿・鉛・艶・燕
 は
 自領と隣接する
 魏に臣従
 一方で
 呉と同盟工作
 ↓↑
 236年
 魏の皇帝
 曹叡
 から上洛を求められ
 公孫淵
 は魏に反旗
 燕王を称した
 ↓↑
 翌237年
 年号を
 紹漢・・・紹=つぐ・うけつぐ・とりもつ・ひきあわせる・ショウ
        紹介・紹述・介紹・継紹
 と定め
 支配体制を確立
 近隣部族に
 印璽を与えるなどして
 魏を刺激し
 軍事衝突は決定的となる
 ↓↑
 公孫淵
 魏の
 幽州刺史の軍勢を退けた
 ↓↑
 238年
 太尉
 司馬懿・・・司馬懿=シバイ=芝居・芝井・四倍・司馬意
 の討伐を受け
 国都
 襄平
 を包囲され降伏
 一族ともども処刑され
 公孫氏の勢力は消滅・・・全滅?
 「遼隧(リョウスイ)の戦い」・・・
 ↓↑
 公孫恭
 は魏への忠義を貫いたとして
 処刑されなかったが
 子がおらず
 公孫恭の死により
 公孫度の子孫は滅亡・・・滅亡?・・・残党は倭国へ天孫降臨?
 ↓↑
 『新撰姓氏録』は
 「常世連(とこよのむらじ)」なる
 ↓↑・・・常 世 連=赤染氏・・・常世連
     『続日本紀』
      天平十九年(747)八月
      正六位上
      赤染造広足(あかぞめのつくり・ひろたり)
      赤染高麻呂ら九人に
      常世連(とこよのむらじ)の姓を賜ふ」
      天平勝宝二年(750)九月
      正六位上
      赤染造広足
      赤染高麻呂
      ら二十四人に
      常世連(とこよのむらじ)の姓を賜ふ」
      宝亀八年(777)四月
      右京の人従六位
      赤染国持ら四人
      河内大県(かわちのおおあがた)郡の人
      赤染人足ら十三人
      遠江国蓁原(はいばら)郡の人
      従八位下
      赤染長浜
      因幡国八上郡の人
      外従六位
      赤染帯縄・・・帯(たらし)の縄(なわ)
          ・・・帯刀・刀帯=たてわき?
      ら十九人に
 ↓↑   姓を常世連(とこよのむらじ)と賜ふ」
 大陸から日本へ土着した
 帰化人の氏族について
 公孫淵
 の
 末裔であると記述・・・
 ↓↑
 系譜
 公孫延
 ↓↑
 公孫度
 ↓↑
 公孫康
 ↓↑
 公孫晃
ーーーーー
 オオヤケ(公=八ム)の
 孫(孑=ボウフラの系)
 系統・体系・家系
 糸すじのようにつながるもの・次々につながった関係
 系図・系統・系譜・系列・家系・山系・水系
 直系・同系・母系・傍系
 組織立ったまとまり・大系・体系
 (分散しないように紐・縄・リボンで)結ぶ、締める 
 ・・・???
 ・・・236年~238年(景初二年)
 「遼隧の戦い(遼寧省-鞍山市-海城市)」
 太尉
 司馬懿
 の討伐を受け
 国都
 襄平に包囲され降伏
 一族ともども処刑
 公孫氏
 の勢力は消滅・・・???・・・倭国へ逃亡?
 ↓↑
 景初二年(238年)12月
 卑弥呼、
 初めて難升米らを
 魏に派遣
 魏から
 親魏倭王の
 仮の金印と
 銅鏡100枚を与えられた
 ↓↑
 正始元年(240年)
 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ
 詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた
 ↓↑
 正始四年(243年)12月
 倭王は大夫の
 伊聲耆
 掖邪狗
 ら八人を復遣使として魏に派遣
 掖邪狗らは
 率善中郎将の印綬を受けた
 ↓↑
 正始六年(245年)
 難升米に黄幢を授与
 ↓↑
 正始八年(247年)
 倭は
 載斯
 烏越
 らを
 帯方郡に派遣
 狗奴国との戦いを報告
 魏は
 張政を倭に派遣
 難升米に
 詔書、黄幢を授与
 ↓↑
 ?- 卑弥呼が死に、墓が作られた
 男王が立つが、国が混乱し
 互いに誅殺しあい千人余が死んだ
 卑弥呼の宗女「壹與」を
 十三歳で王に立て
 国を鎮定
 倭の女王
 壹與は
 掖邪狗
 ら20人に
 張政の帰還を送らせ
 掖邪狗らはそのまま都に向かい
 男女の
 生口30人と
 白珠5000孔
 青大句珠2枚
 異文の雑錦20匹を貢いだ
 ↓↑
 『後漢書』
 建武中元二年(57年)
 倭奴国が金印を授与される
 ↓↑
 永初元年(107年)
 倭国王の
 帥升が
 安帝に拝謁を願う
 ↓↑
 桓帝と霊帝の間(146年~189年)
 倭国大乱
 ↓↑
 189年前後?
 名を卑彌呼
 年増だが嫁がず
 神鬼道に仕え
 妖術を以て大衆を惑わす
 ↓↑
 『晋書』
 泰始二年(266年)
 倭の遣使が入貢
 邪馬台国からの最後の入貢
 ↓↑
 『三国史記』
 新羅本紀
 173年
 倭の女王卑弥呼が新羅に使者を派遣
 193年
 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った
 208年
 倭軍が新羅を攻め
 新羅は
 伊伐飡の
 「利音」を派遣して防いだ?・・・「利音」
 232年
 倭軍が新羅に侵入
 王都
 金城を包囲
 新羅王自ら出陣し
 倭軍は逃走
 新羅は軽騎兵を派遣して追撃
 倭兵の死体と捕虜は
 合わせて千人
 287年
 倭軍が新羅に攻め入り
 一礼部(地名、場所は不明)を
 襲撃して火攻めにした
 倭軍は
 新羅兵千人を捕虜にした
 ↓↑
 『三国史記』
 于老列伝
 233年
 倭軍が新羅の東方から攻め入った
 新羅の
 伊飡の
 于老が沙道(地名)で倭軍と戦った
 于老は火計をもって
 倭軍の船を焼き
 倭兵は溺れて全滅
 249年
 倭国使臣が
 新羅の
 舒弗邯の
 于老を殺した
 ↓↑
 『梁書』
 光和年間(178年~184年)
 倭国の内乱
 卑彌呼、女性を共立して王とした
 正始年間(240年~249年)
 卑弥呼、死亡
 ↓↑
 『隋書』
 桓帝
 と
 霊帝の間
(146年~189年)
 倭国大乱
 189年前後?
 卑彌呼、女性
 鬼道を以て
 よく大衆を魅惑
 国人は王として共立
 ↓↑
 『北史』
 光和年間(178年~184年)
  倭国の内乱
 184年前後?
 卑彌呼、女性が
 よく鬼道を以て衆を惑わし
 国人は王に共立
 ↓↑
 日本列島、
 皆既日食
 247年3月24日日没
 248年9月 5日日出
ーーーーー
 ・・・???・・・
 公孫氏は後漢の時代より遼東に移り住み、勢力を強めた
 歴代の王朝は遼東を絶域とし
 周辺異民族との流通交易を行わなかった
 公孫氏は
 後漢末期の戦乱、三国鼎立後
 各国は国益と隣国への牽制も兼ね
 辺境部族と交流を持ちかけるようになった・・・
 ↓↑
 呉は
 遼東に
 周賀を送り込もうと謀るが
 魏の
 田豫に敗れ
 遼東公孫氏の
 公孫淵は
 孫権に使節を送り
 呉に恭順を示すふりをしながら
 呉の使者を襲撃
 その首を魏に送り
 魏の
 曹叡より
 楽浪公と専断権を得た
 ↓↑
 公孫淵の裏切りに
 孫権は公孫淵討伐軍を派遣しようとするが
 臣下の
 薛綜から
 公孫淵の支配地を得ても利益が無い事
 海洋遠征は危険である事
 兵士の脚気で兵を失う不利益を上訴
 断念した(三国志・薛綜伝)
 ↓↑
 237年
 孫権は
 高句麗と通じ
 遼東へ親征を行おうとし
 魏は
 毌丘倹を派遣し
 これと対陣
 毌丘倹が
 鮮卑の軍を動かし
 遼東に駐屯
 孫権は親征を断念
 魏は
 公孫淵に対し上洛を命じたが
 公孫淵はこれを拒否
 挙兵して
 遼隧で
 毌丘倹を撃退
 ↓↑
 同年
 公孫淵は
 燕王を称し
 年号を紹漢とし
 独立を宣言
 周辺部族を掌握し
 玉璽を与え
 魏との国境をめぐり抗戦継続
 ↓↑
 遼隧の戦い
 238年
 曹叡は
 司馬懿に4万余の兵を与え
 公孫淵征伐を命じた
 公孫淵も
 卑衍
 楊祚
 らに数万の軍を与えて
 遼隧に派遣
 司馬懿が遼東に到着すると
 卑衍が攻撃したが
 司馬懿は
 胡遵らを派遣し
 卑衍を破った
 ↓↑
 ・・・「卑」が「衍=はびこる・あふれる・蔓衍(マンエン)・しく・ひろげる・ひろがる・衍義・敷衍・あまり・余分な・衍字・衍文・ 類 羨(セン)・ひろい・おおきい・大衍(タイエン)・ 敷衍(フエン)・墳衍(フンエン)・蔓衍(マンエン)・衍義(エンギ)・衍字( エンジ)」・・・?
 ↓↑
 公孫淵は
 遼隧に数十里
 (三国志には二十里、晋書には六・七十里ほどと記録)
 の塹壕を掘り
 司馬懿の軍を迎え撃った
 遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固と見た司馬懿は
 東南に退却したとみせかけ
 国都の襄平に侵攻
 公孫淵は
 遼隧の軍を撤退させ
 都の守備に当たらせたが
 防戦一方となり敗退を繰り返し
 司馬懿に襄平を包囲される
 ↓↑
 長雨の時期
 兵糧が底を突き
 公孫淵は
 人質を出して和睦しようと画策
 司馬懿はこれを許さず
 公孫淵を捕え、処刑
 公孫淵の子
 公孫脩
 をはじめとする一族も討たれ
 遼東の公孫氏は滅亡
 ↓↑
 戦後
 司馬懿はこの地に
 魏へ反抗する勢力が再び生まれぬよう
 当地の15歳以上の男子を皆殺しにし
 夥しい数の亡骸で京観を作った・・・
 ↓↑
 公孫淵は
 呉の
 孫権に謝罪し
 援軍を求め
 239年
 孫権は援軍として
 羊衜
 鄭冑
 孫怡
 を派遣
 魏の
 曹叡が死去し
 魏は遼東への配慮を欠き
 羊衜らが
 遼東の
 牧羊城(旅順口)で
 魏の
 張持
 高慮
 らを破って
 その男女を捕虜として帰国
 ↓↑
 238年
 遼東公孫氏が滅亡し
 倭国が魏に使節を派遣
 ↓↑
 公孫氏が
 遼東で消滅したことで
 倭国は
 中国大陸の
 文化に直接触れることが
 可能になった・・・
 遼東公孫氏を滅ぼした
 魏は、
 完全に遼東半島を支配
 更に
 高句麗と
 国境を巡って衝突
 244年
 魏は
 毌丘倹
 を派遣し
 高句麗を侵攻
 遼隧の戦い
 で司馬氏は
 魏の軍権を掌握
 後に国権の強化を目論む
 曹爽との政争に繋がっていく
ーーーーー
 極東の
 国際情勢
  57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
 107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
 146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
 189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
 190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、中遼の二郡とし
      自らの太守を置く
      また、山東半島に営州刺史を置き
      「遼東侯・平州牧」と号した
      「公孫度」の子、「康」が継ぎ、
      「度」の弟、「恭」が「永寧郷侯」
      となり、
      「康」は西暦196~220年まで
      楽浪郡を分けて
      帯方郡を置いた
 220年 後漢滅亡
      魏王・「曹丕」、「献帝」を廃し
      魏の「文帝」となる
 221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる
 229年 「孫権」、呉の「大帝」となる
      「公孫康」の子、「淵」が「魏王」から「遼東太守」、
      「車騎将軍」の爵号を授く
 232年 呉の「孫権」、「淵」に「燕王」の爵位を与える
 233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣
      「淵」はこの使者を殺し、
      その首を「魏」に差しだし、
      「楽浪公」の爵位を得る
 235年 高句麗王、「位宮=第11代、東川王
      姓は高、諱は憂位居、幼名は郊彘・東壌王」
      呉から「単・」の爵号を受く
      姓は位・名は宮
      高句麗の王、伊夷模(イイモ)と妾の子
      呉の孫権が遼東の
      公孫淵に
      使者を送り
      公孫淵に殺されたとき
      逃げてきた呉の人間を保護し呉に送り返した
      238年
      魏の
      司馬懿が公孫淵を討伐したとき
      魏に加担
      242年
      西安平に進入し略奪
      幽州刺史の
      毋丘倹に撃退され
      都の丸都を破壊され逃亡
      (魏書・東夷伝、毋丘倹伝、呉書・呉主伝)
 237年 「魏」は幽州刺史の
      「毋丘倹」を将軍にし「淵」軍と戦い敗北

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・238年 六月、「卑弥呼」、大夫「難升米」を「魏」におくる
 ・     ↓
 ・     八月、「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に
・ 「淵」軍敗北、戦死
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 239年 帯方郡・太守「弓遵」が「韓」族に攻められ戦死。
「韓」滅亡
 244年 「魏」は幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし、
高句麗軍を壊滅さす
      帯方郡太守「王頎」、
塞曹掾史
「張政」を「倭国」に派遣

 この「年表」に記されている「人名」と「官名」、「地名」の漢字とその「音」に注意すれば「古事記」が何を示唆しているか明かである。
 更に「238年」の「六月」と「八月」・・・ワズカ、「二カ月間」・・・。
 「卑弥呼」の「倭」は、少なくても「六月」までは「もと『燕』に属」さざるを得なかったハズである・・・?
 何故なら
 「公孫淵=燕」は
 「237年」には「呉」と同盟、あるいは册封関係にあり、
 敵対する
 「魏」の「幽州刺史」の
 「毋丘倹」を将軍とする軍隊と戦い、勝利し、
 翌年の
 「238年の八月」に
 「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北し、
 戦死したのである。
 時間的な流れでいえば、
 「倭」は「八月」までは
 「呉」と深い関係にあった
 「公孫淵=燕」に「属」していたハズだ・・・
 もちろん、状況的に、直接的にも
 「倭」は「呉」と深い関係にあったのだ。
 すると、
 「238年『六月』」、
 この『六月』に
 「卑弥呼」が
 大夫
 「難升米」を「魏」に送る 、
 と云うことはどういうことなのであるか。
 朝鮮半島はいまだ
 この年の『八月』まで「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・
 どのような経路でいけたのか?・・・
 どのような目論見で「難升米」を「魏」におくったのか?
 「卑弥呼」は「邪馬台国」をまもるため、
 「呉=燕」の配下にありながらも
 二股をかけざるを得なかったのだ。
 あるいは
 「公孫淵=燕王」の「対魏戦略」に
 「卑弥呼」は乗せられたのである。
 あるいは「呉」そのものと「縁籍」であった。
 そして、
 『八月』、
 「公孫淵=燕」は
 「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・
 『十二月』、
 「卑弥呼」は
 「魏王=明帝」から
 詔と「親魏倭王」としての
 「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらっている。

 238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
 244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
 245年(正始6年)「倭王」   が派遣・魏へ使
 247年(正始8年)「邪馬台国」と「狗奴国」の交戦
            卑弥呼の死亡
           「邪馬台国で男王」立つが「内乱」
           「宗女・壱與」が「十三才で女王」となる
 238年から六年後、
 244年に
 「高句麗王=位宮」も敗北した。
 朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?・・・
 当然、「倭」へ、である・・・。
 そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は
 「魏」の
 「張政」に担ぎ上げられた
 「壱与」に権力交替したのである。
 「狗奴国との対立」や
 「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・
 すなわち、この部分に於いても
 「陳寿」は
 「使役=シエキ=使訳(?)」の報告すべてが
 正しいわけがあるまい、と言っているのだ。  
 「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的である。
 同音異字なら「芝居」で、しかも「芝居」は日本語であるから・・・。
 ・・・この『六月』の「卑弥呼」に対する「魏」の答えは・・・
 「卑弥呼」の排除である。
 243年は「宗主国」である「魏の帯方郡太守」が
 「倭へ使者」を派遣してきたのである。
 その後の
 「壱与」の権力交替は「帯方郡使」としての
 「張政=魏」の策謀による
 「淵=燕=呉」親派の「卑弥呼」の「縊殺・絞殺」
 あるいは
 「溺殺」によるものである・・・?
 「張政」と「壱与」の「告喩」としての「卑弥呼」に対する侵攻は朝鮮半島、博多「伊都」、そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし、「長崎」、「諌早」、「熊本・宇土・横島」とその勢力を浸透させて「卑弥呼」を殺害したのだ・・・
 その後、「壱与」は「宇佐」に東遷し、権力の基盤を「大分」に置いた。だが、「卑弥呼」の親派勢力は長崎「諌早」、「天草諸島」、「熊本・横島」にその勢力を有していたハズである・・・。
 結論的に九州は「魏」の配下に入ったが、
 「二人の女王」の勢力は
 「遼東半島」、「山東半島」、「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓」の亡命者、血縁者を抱え、
 「太陽の烏=卑弥呼=長崎・諌早=左目=天照大御神」と
 「月の卯=壱与=大分・宇佐=右目=宇受女=豊受大神」
 に分裂=磐余(イワレ)=大分していたのだ。
 もちろん、
 「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」は
 「博多・伊都=須佐之男」であるハズだ。
 その後、
 「卑弥呼」の勢力は何処へ移動して行ったのか?
 広島の「呉」、「吉備」、四国の「土佐」、「紀伊」、「奈良」、山陰の「越」へ・・・「尾張」、「美濃」へ。
 「壱与」の勢力は何処へ?
 四国の「愛媛=讃岐=サ貫」、「阿波」、山陰の「出雲」へ。
 ↓↑
 日本列島=「弓状の周囲」を一周しながら、
 「二つの勢力」は「斑点」のように
 「縄文人=蝦夷」の地へと分散、移民して行った。
 特に「卑弥呼」の勢力は
 「縄文人=蝦夷」と血縁的にも強く結び付いていったハズである
 ↓↑
 帯方郡(たいほう-ぐん)は
 204年~313年の
 109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する)。
 楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。
 帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあった
 ↓↑
 後漢の末、
 中平六年(189年)に
 中国東北部の
 遼東太守となった
 公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、
 後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、
 現在の平壌付近から
 漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた。
 その後を継いだ嫡子
 公孫康は、
 建安九年(204年)
 楽浪郡十八城の南半
 屯有県(黄海北道黄州か)以南を割くとともに
 南方の土着勢力韓・濊族を討ち
 併せて帯方郡として
 「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」
 という朝鮮半島南半の統治体制を築く。
 郡治とは、
 その周囲の数十県(城)の
 軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、
 個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。
 公孫康はほどなく
 魏の曹操に恭順し、その推薦によって
 後漢の
 献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、
 帯方郡も後漢の郡として追認された。
 ↓↑
 公孫康の死後、
 その子の
 公孫淵が幼いために
 公孫康の実弟
 公孫恭が後を継ぎ、
 後漢の献帝から
 禅譲を受けた
 魏朝の文帝(曹操の子・曹丕)により
 車騎将軍・襄平侯に封じられた。
 しかし
 太和二年(228年)
 成長した
 公孫康の子の
 公孫淵は
 叔父の
 公孫恭の位を奪い取り
 魏の曹叡(明帝)からの承認も取りつけて
 揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。
 公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、
 魏朝の仇敵である
 呉の孫権との同盟を画策し、
 最終的には、
 魏から受けた
 大司馬・楽浪公の地位を不足とし、
 景初元年(237年)
 反旗を翻して独立を宣言。
 遼東の襄平城で
 燕王を自称するにいたる。
 帯方郡も
 楽浪郡もそのまま燕に属した。
 ↓↑
 翌年(238年)
 魏の太尉
 司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ
 長期の兵糧攻めにあって
 公孫淵とその子
 公孫脩は滅びる。
 これまで
 帯方郡は「後漢─魏─燕」と、
 形式的にはその所属に変遷があったが、
 実質的は一貫して
 公孫氏の領有下にあり
 韓や倭といった
 東夷からの朝貢は
 公孫氏が受け取っていた・・・
 ↓↑
 魏の直轄経営
 襄平城の攻城戦の最中
 魏は
 劉繒と
 鮮于嗣をそれぞれ
 帯方太守、楽浪太守に任じ、
 両者を密かに海路で
 山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣。
 帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。
 帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。
 太守・劉繒は、
 周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは邑長の印綬を賜与し、
 魏との冊封関係を改めて結び直した。
 邪馬台国・卑弥呼も
 景初二年六月
 (238年・『魏志倭人伝』の記述は誤りで
  景初三年が正しいとする説も?)
 この新生・帯方郡の地へ
 朝貢使の難升米を派遣した
 このとき太守は
 劉夏であったが
 彼は郡の官吏を付けて
 後漢の都・洛陽まで
 難升米の一行を送らせた。
 ↓↑
 正始元年(240年)
 新太守、
 弓遵は
 魏の詔書・金印紫綬を配下の
 梯儁に持たせて
 卑弥呼のもとへ送った。
 ところがこの弓遵は、
 同六年(245年)に嶺東へ遠征し
 東濊を討った後、
 それまで帯方郡が所管していた
 辰韓八国を
 楽浪郡へ編入することになり、
 その決定を現地に伝えた際、
 通訳が誤訳を犯し
 韓族を激怒させ
 郡内の韓族が
 帯方郡の
 崎離営を襲った。
 これを
 弓遵と
 楽浪太守の
 劉茂が兵を興して討ち、
 魏軍は韓族を滅亡させたが
 弓遵は戦死
 ↓↑
 同八年(247年)
 弓遵から引き継いだ太守
 王頎は、
 倭の使者から
 邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受け
 自ら上洛して官の決裁を仰ぐが
 魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく
 魏の少帝の
 詔書と黄幢を携えた
 塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の
 張政が派遣された。
 ↓↑
 歴代太守の記録
 戦死した
 弓遵の例を除き
 外交官としての
 非軍事的活動が主である
 その頻繁な人事異動には(8年間で4人の太守)
 帯方郡の軍閥化を防ぎ
 第2の
 公孫氏を生まぬようにするための
 魏の基本方針・・・?
 ↓↑
 帯方郡の滅亡
 泰始元年(265年)
 魏の重臣であった
 司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が
 魏の曹奐(元帝)から禅譲を受けて
 晋朝(西晋)を興すが、
 永康元年(300年)
 身内の八王の乱で混迷状態
 この時代、
 帯方郡に属する県は
 帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥
 の7県であった(『晋書地理志』)
 ↓↑
 建興元年(313年)
 遼東へ進出した
 高句麗が南下して
 楽浪郡を占領
 朝鮮半島南半に孤立した
 帯方郡は
 晋の手を離れ情報も途絶した。
 元の帯方郡や楽浪郡南部に残された
 漢人の政権や都市は
 東晋を奉じて
 5世紀初頭までの存続が確認
 が、
 5世紀前半には
 百済によって征服され
 5世紀後半に
 高句麗が百済を駆逐して支配下へ置いた。
 ↓↑
 倭との関係
 帯方郡の滅亡後も地理的概念として帯方の名は残った
 広開土王碑文によると
 404年
 倭から百済征伐の形で北侵
 帯方界(旧帯方郡の境界?)に進入し
 高句麗と戦って
 無数の将兵を失った・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

コーン・コーン・・・きつね・・・

$
0
0

 ・・・気儘(気侭)にコトバと文字に混乱・・・コンフューズ(confuse)・・・ダレかが?「You have me confused with someone else.」・・・唐黍(とうきび・corn)?・・浮遊厨(柚子)?・・・「コーン. cone(koun・コウン)・円錐・錐(きり)・道路や工事現場などの規制や区分けを目的として置かれる円錐形の物・ロードコーン(Road cones)=パイロン(Pylons)」・・・
 「三角帽子」・・・アイスクリームのコーンか?・・・
 ・・・荒唐無稽・・・唐が荒廃し、会稽(会計)すること無し・・・塊茎、快慶、海景・・・?・・・運慶・・・
ーーーーー
 唐黍・・・唐=から=漢・韓・加羅・空・殻・蚊等・化螺
 漢国?・・・カンコク? or からくに?
 漢=氵+𦰩(カン)
   汉(簡体字)・漢(旧字体, 繁体字)
       ・・・又(右手・また)=𦰩(乾・渇・干)・・・?
          又=叉=交叉=こうさ=考査・黄沙・黄砂・交差
                 甲佐・公差
   おとこ・から・よこしま・カン
   漢水・漢口・漢中・漢江=長江の最大の支流
   天の河
   雲漢・星漢
   おとこ
   悪漢・凶漢・暴漢・痴漢=チカン=置換・知館
   中国王朝の名
   漢=乾く
     火などで炙(あぶ)った動物の革
     水の流れない乾いた川=天の川
     𦰩(カン)=渇く・乾く・炙(あぶ)る
     𦰩+α=漢・嘆・難・灘・儺・・・
         難しいが「𦰩+隹」?・・・焼き鳥?
         堇(キン)=日照り・饉と通じて飢饉
           𦰩は日照りの神
           𦰩は巫祝で巫祝を焼く字・・・亀甲、甲骨文字
          (説文解字・巻十三)
           火矢の意=鳥を火矢で射る儀式や呪い
     𦰩=艹+口+夫(二人)・草加(日下・久坂)の
                口は仁(丹)の人?
                浦嶋(嶼・揣摩)子=高橋虫麻呂?
                島の児(子)=武寧王・蘇我蝦夷?
 漢の国号・・・紀元前206年~220年
 皇帝であった
 劉氏の姓と密接に結びつき
 前漢・後漢の両漢王朝以後も
 劉姓の王朝によってたびたび使われた
 劉姓の王朝において
 「漢」を号しなかったものは
 匈奴系の
 夏
 と
 南朝の宋のみ
 漢中市=漢中盆地にほぼ一致
 漢中郡=古代中国に存在した郡
     後に漢中は
     郡の役所が置かれた
     南鄭(陝西省漢中市)
     一帯の名称
     劉邦が興した
     漢王朝や、「漢民族」、「漢字」
     などの名称の由来となる地名
 漢中郡
 古くは
 梁州に属し
 後には独立した国家になった
 戦国時代に
 秦に併合・・・秦=𡗗+禾
     ・・・𡗗(mǒu)=三+人=ダイ、だいかんむり、だいかしら
 紀元前325年
 漢中郡と命名され
 南鄭県に
 郡治(郡の役所、及びその所在地)が設置
 一時楚に奪われるが
 紀元前312年に回復
 秦滅亡後
 劉邦が漢中の地に封じられた
 漢中で
 韓信を見出し
 劉邦は「漢王(漢中王)」を名乗り
 帝位に就き
 国号を「漢」とした
 前漢代
 益州に属し
 西城、旬陽、南鄭、褒中、房陵、安陽
 城固、沔陽、鍚、武陵、上庸、長利
 の12県を治めた
 ↓↓
 韓国
 韓=𠦝+韋
   𠦝+韦・・・「キ+𠃌」・「丰+亅」
   から・いげた(井桁)・カン
   韋(なめしがわ)+幹(カン)
   異体字は韩・𡋶・㙔・𩏑
   乾いて丈夫な板、強い、強大
   古代朝鮮の国名・三韓
   李氏朝鮮の国名
   中国戦国時代の国名
   魏(ギ)・趙(チョウ)とともに
   晋(シン)から分立し
   河南・山西両省の一部を領土とした
   後に
   秦(シン)に滅ぼされた
   戦国七雄の一(前403年-前230年)
   朝鮮半島南部の
   部族(馬韓・辰韓・弁韓)
   朝鮮半島の古代
   三国(新羅・百済・高句麗
   李氏朝鮮(1897年~1910年)
ーーーーー
   韓=𠦝+韋
     呂不韋=呂 不韋(リョ フイ)
         ?~紀元前235年
     戦国時代の秦の政治家
     荘襄王を王位につける事に尽力
     秦で権勢
     荘襄王により
     文信侯(ブンシンコウ)・・・・文信侯=書記長?
     に封じられた
     始皇帝の実の父親との説も・・・
ーーーーー
 ↓↓      ↓↓
 呂 不韋・・・・・呂(せぼね)は 不韋(なめさず)?
 出身地は二説
 衛の濮陽(戦国策)
 or
 韓の陽翟(史記)
 商人の子
 各国を渡り歩き
 商売で富を築いた
 ↓↓
 趙の人質となっていた
 秦の公子
 異人(後に子楚と改称・秦の荘襄王)
 を
 「これ奇貨なり。居くべし
  (これは、掘り出し物だ。手元におくべきだ)」
 と
 陽翟に帰った呂不韋は父と相談し
 将来のために「異人(子楚・荘襄王)」
 に投資することにし
 呂不韋は再び趙に赴き
 公子の「異人(子楚・荘襄王)」と会見
 ↓↓
 異人は
 秦王、昭襄王の太子
 安国君(孝文王)の子とはいえ
 20人以上の兄弟が居た
 生母の夏氏が既に父からの寵愛を失ってい
 母国にとっては惜しくない人質
 趙との関係が悪化
 趙での異人の待遇は悪く
 生活費にも事欠くほどであった
 ↓↓
 呂不韋は
 異人に金を渡し
 趙の社交界で名を売る事を指導し
 自身は秦に入って
 安国君の寵姫
 華陽夫人の元へ行った
 呂不韋は
 華陽夫人に
 異人は賢明で
 華陽夫人のことを
 実の母親のように
 慕って日々を送っていると吹き込んだ
 さらに華陽夫人の姉にも会って
 自身の財宝の一部を贈って彼女を動かし
 この姉を通じて異人を
 華陽夫人の養子とさせ
 安国君の世子とするよう説いた
 華陽夫人は
 安国君に寵愛されていたが未だ子が無く
 この話に乗り
 安国君もこの話を承諾し
 異人を自分の世子に立てる事に決めた
 ↓↓
 趙に帰った
 呂不韋が
 異人にこの吉報をもたらし
 異人は呂不韋を後見とした
 異人はこのとき
 養母となった
 華陽夫人が
 楚の出身だったので
 名を子楚と改めた
 ↓↓
 呂不韋は
 趙の芸妓(趙姫)を寵愛していたが
 子楚は女を子楚に譲った
 彼女は既に
 呂不韋の子を身籠っていたが
 子楚にはこれを隠し通し
 生まれた子は
 子楚の子とした
 これが
 政(始皇帝)・・・
 『史記』に記録・・・
 ↓↓
 秦の宰相
 紀元前252年
 秦で高齢の
 昭襄王が在位55年で逝去
 次男の
 孝文王が立つと
 子楚は秦に送り返され
 太子となった
 孝文王が50代で逝去し
 太子の子楚が即位し
 荘襄王となった
 呂不韋は丞相(相邦)となり
 文信侯と号し
 洛陽の10万戸を領地として授けられた
 呂不韋は秦の丞相として権勢を振るった
 ↓↓
 紀元前246年
 荘襄王が若くして死に
 太子の
 政が王となった
 呂不韋は
 仲父(尊称)の称号を授けられた
 ↓↓
 一字千金
 この時期
 孟嘗君
 信陵君
 などが食客を集めて天下の名声を得ていた
 呂不韋は
 3000人の食客を集め
 呂不韋家の召使は1万
 この客の中に
 李斯がおり
 その才能を見込んで王に推挙
 更に客の知識を集めて
 『呂氏春秋』と言う書物を作った
 (思想的には中立で百科事典のような書物)・・・?
 呂不韋はこの書物を自慢し
 市の真ん中にこれを置いて
 「一字でも
  減らすか
  増やすか
  出来る者には
  千金を与える」
 と触れ回った・・・
 ↓↓
 「以呂氏春秋
  布咸陽市門
  縣千金其上
  延諸侯游士賓客
  有能筯損一字者
  予千金
   『史記(巻八五 呂不韋列伝)』
 呂不韋は
 政の生母である太后と密通・・・?
 ↓↓
 荘襄王の死後
 太后からの誘いで
 太后は
 呂不韋の元愛人
 今や国母となった太后との
 不義密通を
 危険と感じた呂不韋は
 嫪毐(ロウアイ)
 という巨根の男を太后に紹介し
 男性の入れぬ後宮へ
 宦官に偽装して送り込んだ
 嫪毐は息子を2人生んだ・・・
 ↓↓
 後の嫪毐は
 太后の寵愛を背景に
 長信侯に封じられた
 太后との密通が発覚すると
 嫪毐は
 政へ謀反するが、すぐに鎮圧、車裂きの刑で誅殺
 太后と嫪毐の2人の息子も処刑
 呂不韋へも波及し処刑されるところだったが
 功績を重んじた政によって
 丞相職の罷免と蟄居に減刑
 ↓↓
 呂不韋は蟄居後も客との交流を止めず
 諸国での名声も高かく
 紀元前236年
 客や諸国と謀って反乱を危惧した
 政からの詰問状を受け
 蜀地域への流刑を追加
 翌年
 呂不韋は服毒自殺
 ↓↓
 劉邦の妻
 呂雉(呂后)は
 呂不韋の一族だったと
 郭沫若
 佐竹靖彦
 らは示唆・・・
 三国時代に
 呂不韋の名に因んだ
 永昌郡
 不韋県
 出身で
 蜀漢に仕えた豪族の
 呂凱は
 呂不韋の後裔(『三国志(蜀書呂凱伝)』)
ーーーーー
 ↓↓
 帯方郡の滅亡
 泰始元年(265年)・・・泰始⇔秦始(皇帝)
          泰=𡗗+氺⇔秦=𡗗+禾
              泰≠秦
 魏の重臣であった
 司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が
 魏の
 曹奐(元帝)から
 禅譲を受けて
 晋朝(西晋)を興す
 永康元年(300年)
 身内の
 八王の乱で
 混迷状態
 帯方郡に属する県は
 帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥
 の七県であった(『晋書地理志』)
 ↓↓
 建興元年(313年)
 遼東へ進出した
 高句麗が南下して楽浪郡を占領
 朝鮮半島南半に孤立した
 帯方郡は
 晋の手を離れ情報も途絶
 元の
 帯方郡や楽浪郡南部に残された
 漢人の政権や都市は
 東晋を奉じて5世紀初頭までの存続
 5世紀前半
 百済によって征服
 5世紀後半
 高句麗が百済を駆逐
 ↓↓
 倭
 帯方郡の滅亡後
 404年
 倭から百済征伐の形で北侵し
 帯方界(帯方郡の境界)に進入し
 高句麗と戦ったが敗北
ーーーーー
 燕国・・・常世の国・・・常陸=ひたち=日立
   ・・・常盤・日常・常識・尋常(小学校)
 ↓↓
 常世の国へ渡航
 少彦名神
 御毛沼命
 田道間守
 が
 「常世の国」に渡った・・・
 浦島子(浦島太郎)の伝承も、常世の国
 ↓↓
 田道間守
 『古事記』
 垂仁天皇が
 多遲麻毛理に
 時じくの香の木の実
 『日本書紀』
 垂仁天皇が
 田道間守を常世国に遣わし
 「非時香菓」を求めさせたが
 その間に天皇は崩御
 「非時」は、時を定めずということから
 「いつでも香りを放つ木の実」
 「今の橘なり」
 橘は葉が常緑で
 「永遠性・永続性」の象徴
 「非時香菓」は不老不死の霊薬
 ↓↓
 浦嶋子
 『万葉集(巻九・1740)』
 高橋虫麻呂作
 浦嶋子
 を詠んだ歌で
 浦島子が漁に出て
 七日帰らず海を漕いで
 常世に至り
 海若(わたつみ)の
 神の宮に
 神の乙女とともに住んだ
 神の宮では老いも死にもせず
 永世にわたって生きることができた
 浦嶋子は帰郷し
 自分の家が既に無くなっていることを知って
 開けてはならぬ
 玉笥を開けて老人になる
 『日本書紀(雄略天皇二十二年)』
 『丹後国風土記』逸文
 にも同様の話
 海中の「蓬莱山」に至った・・・
 ↓↓
 高橋(連) 虫麻呂(たかはし の むしまろ)
ーーーーー
 𡗗=大+二・・・三+人・二+大・一+夫=𡗗
 実=宀+𡗗
   み・みのる・まことに・げに・シツ・ジ゙チ・ジツ
   實𡪲实𡾍・・・宀+三+人・宀+二+大・宀+𡗗=実
          宀+毌+目+八=實
   備蓄充満
   詰まった中身
   誠に、本当に、事実を強調する言葉
 㤗=心+𡗗・・・
   タイ・・・泰𣳾・・・三+人+心・二+大+㣺・𡗗+小+丶=㤗
   大きくゆったり・安らかな
   驕る、高慢で自分勝手
   贅沢なさま
   甚だしい、非常に、極めて
   あまりにも~過ぎる
   「太、太」は「泰」の略字
 春=日+𡗗・・・
   はる・シュン
   旾萅𦸬𣊨𣈤𣇸㫩𣆊・・・三+人+日・二+大+日・一+夫+日=春
   四季(春夏秋冬)の第一
   陰暦一月から三月・草木が芽生える季節
   瑞々しい・生気に満ちているさま
   男女間の情欲
 泰=水+𡗗・・・
   タイ
   泰・・・三+人+氺・二+大+氺・一+夫+冫+く・𡗗+水=泰
   ゆったり・安らかな
   驕る、高慢で自分勝手なさま
   贅沢なさま
   甚だしい
 𥘿=示+𡗗・・・
   はた・シン・ジン
   秦𥠼𥢮𣜈𥣠・・・三+人+示・二+大+示・一+夫+示
           𡗗+示・二+大+二+小・𡗗+一+𡭕=𥘿=秦
   周代後期の戦国時代(前475年~前221年)
   に諸国を統一して建った王朝
   五胡十六国時代の国名
   前秦・後秦・西秦
   中国陕西省の別称
 秦=禾+𡗗・・・
   はた・シン、ジン
   𥘿𥠼𥢮𣜈𥣠・・・三+人+禾・二+大+禾=秦=𥘿
   周代後期の戦国時代(前475年~前221年)
   に諸国を統一して建った王朝
   五胡十六国時代の国名
   前秦・後秦・西秦
   中国陕西省の別称
 舂=臼+𡗗・・・
   つく・ショウ・シュ
   㫪𣇃𦥴𦦓𦥽・・・三+人+臼・二+大+臼・一+夫+臼
           𡗗+臼・𡗗+E+ヨ=舂
   穀物を臼などに入れて搗(つ)く
   撞(つ)く、突く
 𧉾=虫+𡗗・・・
   うごめく・シュン
       ・・・三+人+虫・二+大+中+ム
          一+夫+虫・𡗗+口+I+ム
          𡗗+虫=𧉾
   𧉾=蠢
ーーーーー
 ・・・荒唐無稽・・・
 荒唐=根拠がなく、取り留めのないこと
 無稽=考え方に根拠がなく出鱈目なこと
 「荒唐之言」+「無稽の言」
 「荘周その風を聞きてこれを悦び
  謬悠の説、荒唐の言、端崖の無きの辞を以てす
 (荘子はその説を学んで共鳴し
  実情を伴わない広遠な説
  判断できない根拠のない説
  糸口がとらえられない言葉を使って述べた・荘子)」
 「無稽の言は聴くこと勿れ
 (根拠のない話には耳を傾けるべきではない・書経)」
ーーーーー
 ・・・???・・・

妄誕無稽・無稽之言・無稽之談・・・

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 ・・・雨がシトシト、ユリの花がワンサカ、ムクゲ(木槿・ Hibiscus・木波知須(きはちす)・きらひ物・嫌ひ花)も満開だったが雨でショボクなっている。槿=ムクゲ=尨毛・無垢化?・・・毎年咲く「紫陽花(あじさい)」が未だに葉っぱだけで、ドウシタンダロウ?・・・一日、「上原 ひろみ(Hiromi Uehara)さんのジャズ・ピアノを「youtube」・・・「滑稽=すぐれた表現で、是非を言いくるめること」≠≠「滑稽=くだらなくてみっともない様子」・・・ジャズってドッチの音なんだか?・・・ピアノと抱き合って鍵盤を叩き、愛撫しながら悶え、恍惚に耽溺・・・「シリアス(serious)」で、「ファニィ(funny・humorous・comical・滑稽=コッケイ=酷刑」・・・苦しいそう?・・・バイオリストの「川井」さんや、「寺井」さんも・・・同じように奏でた音のトルネード(tornado)の真空の中・・・?
ーーーーー
 1979年3月26日
 己 未(丁・乙・己)
 丁 卯(甲・ ・乙)
 干合(乙・甲)
   三合乙
 壬 辰(乙・癸・戊)
   午未=空亡
 干合丁壬・合支卯・・・化木格?
ーーーーー
 「酷(酉+告)刑(开+刂)」・・・「トリが告げる开(とりい)の刂(かたな)」・・・「开=閉じているものを開ける、開く・开一下窗户换换空气=窓を開けて空気を入れ換える・你把窗户开开=窓を開けなさい・抽屉开不开了」・・・
 「开=開」・・・「鳥居」は「开=開」・・・?
 「开=開く・あく・あける・开锁=錠を開ける
    切り開く・開削する・开水田=水田を開拓
    くっついている物がバラバラになる
    離れる=扣儿开了=ボタンが外れた
        开线=縫目がほどける
    氷がとける・解凍する
    軍が出発する
    機械類が作動する(させる)・運転
    开本(kāiběn)=印刷物の判型の大きさ
            全紙の何分の1かを示す」・・・
 ・・・「开本(kāiběn)=カイベン=快便・快弁」って?

 酉(ユウ)=とり=鳥(チョウ)=禽(キン)=鶏(ケイ)
   ・・・十二支・「アルタイル(Altair・飛んでいる鷲・
          急降下する鷲・アラビア語)」
          アルタイル=鷲座α星
          わし座(鷲座、Aquila)で
          最も明るい恒星で全天21の1等星の1つ
          ガニュメデス(ギリシャ神話の美少年の給仕)
     アイヌ語「ウナルベクサ=ノチウ(川を渡す老婆の星)」
          七夕の彦星=牽牛星(けんぎゅうせい)
     比古保之(ひこぼし)=以奴加比保之(いぬかいぼし)」
   子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥
                     酉は十番目干支

 鳥居(とりい)=二本の柱の上に笠木(かさぎ)
         二層の水平材とする場合に
         上層の笠木に接して島木(しまぎ)を渡す
         その下に貫(ぬき)を入れて
         柱を固定したのが一般的な鳥居の構造
         「木鳥居」
         「石鳥居」
         銅板で全体を葺いた鳥居を
         「銅鳥居・金鳥居(かなどりい)」
         などが一般的
 神社などにおいて
 神域と
 人間が住む俗界を区画するもの(結界)
 神域への入口で「門」
 屋根のない門という意味で
 「於上不葺御門(うえふかずのみかど)」
 中国の「華表」の訳を鳥居
 華表(カヒョウ)は中国の伝統建築様式の「標柱」

 ↓↑
 「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)=鶏」
  に因み、神前に鶏の止まり木を置いた
  開き戸の上部横木の全て鴨居(かもい)と称する
 鴨居=かもい=神居=神威(カムイ)・・・鳥居
 「会稽東冶の東」・・・「計其道里、當在會稽、東冶之東」、「計-其道里-當-在-會稽-東冶(治)之東」・・・北緯約33度・・・
ーーーーー
 稽=禾+尤+旨(ヒ日)
 𥡴=禾+尤+㫖(上日)
   モットも
   とどまる・かんがえる
   引きとめる・とどまる・ケイ
   稽留
   かんがえる
   稽古・滑稽・不稽・無稽
   頭を地につける・稽首
   くらべる・比較する・計る・数える
   至る・やってくる
   稽=禾+尤+旨
     禾+尢+丶+旨
     禾+尤+匕+日
     禾+尢+丶+匕+日
   稽の
   異体字は「𥡴=禾+尤+㫖」
 ↓↑
 くらべてかんがえる・稽古
 とどまる・とどめる・とどこおる
 稽留
 ぬかずく・頭を地につけて敬礼する
 稽首
 滑稽(コッケイ)・無稽(ムケイ)
 不稽 ・無稽
 さえぎる・稽留
 かんがえる(考)・稽古・滑稽
 ↓↑
 禾=ノ十八
 尤=尢+ヽ
   もっとも・すぐれる・とがめる・ユウ
   そのとおり・ただし
   ことなる・すぐれている・とりわけ
   尤異・尤物
   とがめる・非難する
   无耻之尤
   拔其尤=ずば抜けたものをより抜く
   同類の中で、特にすぐれたもの
   美しい女性・美女・美人
   尤物=多くの中ですぐれたもの・逸物・逸品
      すぐれて美しい女・美女
 旨=うまい・上手
 㫖=「旨、 或ひは𣅀に作る」とある異体字
 ↓↑
 稽える=かんがえる・物事を突き詰め考える
     稽淹(ケイエン)・とどめること・とどまること
     稽緩(ケイカン)・とどこおって、ぐずぐずすること
     稽古=学問・武術・芸能など諸芸を習うこと
     荒唐=漢字の意味と無関係で、状態を表す
        「漢字の擬態語」・・・?
 ↓↑
 「稽」の四字熟語
 架空無稽(カクウムケイ)
 「架空」と「無稽」はどちらも根拠のない、でたらめなこと
 ↓↑
 会稽之恥(カイケイノハジ)
 野卑滑稽(ヤヒコッケイ)
 妄誕無稽(モウタンムケイ)
 無稽之談(ムケイノダン)
 無稽之言(ムケイノゲン)
 無稽荒唐(ムケイコウトウ)
 再拝稽首(サイハイケイシュ)
 滑稽之雄(コッケイノユウ)
 滑稽洒脱(コッケイシャダツ)
 ↓↑
 会稽之恥(カイケイノハジ)
 架空無稽(カクウムケイ)
 稽古之力(ケイコのちから)
 ↓↑
 厥角稽首(ケッカクケイシュ)
 最も礼儀正しく、心のこもった敬礼をすること
 「厥角」と「稽首」はどちらも地面に頭を着けてする礼のこと
 ↓↑
 荒唐不稽(コウトウフケイ)
 荒唐無稽(コウトウムケイ)
 ↓↑
 滑稽洒脱(コッケイシャダツ)
 文章や話が機知に富んでいて、俗気がなく洗練されていること
 「滑稽」は弁舌が上手く、思うように出来ること
 「洒脱」はさっぱりとしていて洗練されていること
 ↓↑
 滑稽之雄(コッケイノユウ)
 次々と様々な知恵が出てくる賢い人
 「滑稽」はすぐれた表現で、是非を言いくるめること
 ↓↑
 再拝稽首(サイハイケイシュ)
 ↓↑
 北面稽首(ホクメンケイシュ)
 最もすぐれた挨拶の方法のこと
 「北面」は北の方角を向いて座ること
 玉座は南を向いているので
 それに向き合って北を向いて座るので
 臣下の座る場所
 「稽首」は地面に当たるまで頭を下げて礼をすること
 ↓↑
 無稽荒唐(ムケイコウトウ)
 無稽之言(ムケイノゲン)
 無稽之談(ムケイノダン)
 妄誕無稽(モウタンムケイ)
 ↓↑
 野卑滑稽(ヤヒコッケイ)
 下品でばかばかしくてくだらないこと
 「野卑」は品がなく卑しい様子
 「滑稽」はくだらなくてみっともない様子
 ↓↑
 野鄙滑稽(ヤヒコッケイ)
 下品でばかばかしくてくだらないこと
 「野鄙」は品がなく卑しい様子
 「滑稽」はくだらなくてみっともない様子
ーーーーー
 ・・・???・・・


雷鳥・サンダーバード・雷霆・雷艇=乙型魚雷艇

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 ・・・「トリ(酉=樽=たる)」のナカミを醸(かも)したエタノール含有飲料で「カミの世界」で酩酊・・・妄想・・・酔っている世界が「カミの世界」・・・樽酒で虎か彪(豹)、そして翼ある「禽(とら)」になれるモノはサイワイなり・・・
ーーーーー
 カミナリ鳥(サンダーバード・Thunderbird)
 雷鳥(Lagopus muta)は
 キジ目キジ科・・・雉=キジ=記事・生地・木地・奇事・喜字・起辞
 ライチョウ属・・・雷鳥=鶆鳥=來朝・来庁=来聴
            =雷長=ライチョウ
            =雷霆(ライテイ・かみなり・いかずち)
             雷霆=ゼウスの武器・雷帝
             雷艇=乙型魚雷艇
               (おつがたぎょらいてい)
                は日本海軍の魚雷艇
                含む「隼艇」
 ↓↑         水雷艇(torpedo boat)




 ↓↑
 トーテムポール(totem pole)
 北アメリカインデアンの
 北西沿岸部に住む彼らが生活空間に立てた
 柱状の木の彫刻標識
 崇拝の対象としての偶像ではなく
 宗教的なものではない
 トーテムポールは
 ハウスポスト(家柱)で
 家の中の屋根を支える柱・・・?
 家柱(house post)
 クワキウトル族の
 カミナリ鳥(サンダーバード)の
 デザインが著名・・・ライチョウ(雷鳥、Lagopus muta)
 ↓↑      クワックワカワックゥ族(クワキウトル族?)
         の
         カミナリ鳥とシャチ・・・?
         江戸時代初期に中国の明から渡来した
         高泉性潡が
        『鶆(らい)』を著した名称も使用
         長野県の諏訪地域や上伊那地域では
 ↓↑     「岩鳥」と呼ばれ
         1813年(文化十年)
         小原文英による『白山紀行』の写生図で
        「雷鳥・鶆鳥」の両方を記録
         富山県で「閑古鳥」
         木曽の御嶽山で
 ↓↑     「御鳥」の記録
         1907年(明治四十年)
         日本のライチョウに
         学名Lagopus muta japonicaが付けられた
         1916~18年(大正五~七年)
         百科事典『広文庫』で
        「雷鳥に鶆に作るは誤
         本邦の神鳥にして支那になし」と記載
         日本のライチョウは
         江戸時代までは信仰の対象
         明治時代に一時乱獲
         1910年(明治四十三年)
         捕獲禁止
         1923年(大正十二年)
         史蹟名勝天然紀念物保存法で
 ↓↑      天然記念物に指定され現在に至る
 ↓↑      ↓↑
 ↓↑      雷神はゼウスだが
 ↓↑      殷(イン)は雷鳴だが
         殷=さかん・おおい・ゆたか・にぎやか
         殷賑(インシン)・殷盛
         ねんごろ・深い
         殷勤(インギン)・殷憂
         なりひびく・音の強く響くさま
         殷殷・殷雷
         中国王朝の名
         あかい・赤黒い色
 ↓↑      殷紅(アンコウ)・朱殷(シュアン)
 家屋柱(house frontal post)
 入り口柱(entrance pole)
 家族の長の家系をあらわす紋章
 家屋柱の最下部に楕円形の穴を開け
 出入り口とした「入り口柱」
 ↓↑
 記念柱(memorial pole)
 墓標柱 (grave marker, grave post)
 墓棺柱(mortuary post)
 彫刻柱の一部が棺桶としてされる
 墓棺柱はハイダ族の形式として単柱式と双柱式がある
 ↓↑
 はずかしめの柱(shame pole, discredit pole)
 トリンギット族の特定の個人、グループに対して
 義務履行を請求する彫刻柱
 ↓↑
 領域柱(territorial marker)
 歓迎者像(welcome figure)
 招待客を歓迎する
 催事(ポトラッチ)で一時的に立てられる
 ↓↑
 ワカシュ語族の
 クワキウトル族のトーテムポールは
 伝説の鳥
 サンダーバード(雷鳥?)の彫刻や
 多色(黒、赤、白、青、緑、黄色など)を使う
ーーーーー
 「鳴女という名の雉(キジ)を遣わす」
 「河の
  雁(カリ・がん)を死者に食事をささげ持つ役とし、
  鷺(サギ)を掃除をする役とし、
  翡翠(カワセミ・しょうびん・そにどり)を食事を作る役とし、
  雀(スズメ・さざき)を米をつく女とし、
  雉(キジ)を泣き女として役を定め、
       八日八晩にぎやかに死者を弔った」
 「天鳥船神(アマノトリフネ)」・・・船に酔う、って?
ーーーーー
 酒に酔う・・・
 酔=酉+卆(九+十)
   よう・スイ
   旧字は醉=酉+卒(亠+人+人+十)
   酒や乗り物などによう・酔眼・酔態
   薬物によって感覚を失う・麻酔
   心を奪われる・熱中する・心酔
   酒に酔う
   酔漢・酔眼・酔客・酔態・酔余・宿酔・泥酔・微酔・乱酔
   意識をなくする・麻酔
   心を奪われる・心酔・陶酔
   馬酔木 (あしび・あせび)=ツツジ科アセビ属の常緑低木
   アセビ属=japonica=日本の Pieris(ピエリス)
   ギリシャ神話の詩の女神達 Pierisの名前から
   別称はムーサ(ミューズ・ミューゼス)


   マケドニアの王
   ピーエロスと
   パイオニアの
   エウイッペの間に生まれた9人の娘の総称
   ムーサと同一視される
   ピーエリスを描いた神話原典は
   古代ローマの詩人
   オウィディウスによる
  『変身物語』が有名
   自信と傲慢を持つ
   ピーエリス九姉妹は
   ムーサの長姉
   カリオペーに歌勝負を挑んで
   負けて
   カササギ(かささぎ)という鳥に姿を変えられた
   九姉妹の名前
   コリームバス(Colymbas)
   インクス(Iynx)
   ケンクリス(Cenchris)
   シーサー(Cissa)
   クロリス(Chloris)
   アチャラディス(Acalanthis)
   ネーサー(Nessa)
   ピーポー(Pipo)
   ドラコンティス(Dracontis)

   ハルモニア・・・カドモスとハルモニアー
   ハルモニアー
  (古希: Ἁρμονία, Harmoniā, ラテン語: Harmonia)
   調和(ハーモニー)の女神
   アレースと
   アプロディーテーの娘
   テーバイの始祖
   カドモス・・・テーバイの創建者
          青銅の発見者
          フェニキア文字の配列を変更し
          ボイオーティア地方に伝えた
   と結婚し子供を生んだが
   子供たちは不幸な死に方をし
   神の呪いがこれ以上
   テーバイに降りかからないようにと
   カドモスと連れ添い
   テーバイを出て放浪の旅に出た
   カドモスが蛇に変化する際
   ずっと抱き続け
   最後には自らも蛇に変じた
   その後二人は
   エーリュシオンの野に住む
   カドモスとの結婚式の際に
   祝いの品としてもらった
   首飾りと婚礼衣装は
   テーバイ王家に代々受け継がれ
   それぞれ
   テーバイ攻めの七将
   エピゴノイ
   にて買収工作に利用された
ーーーーー
 酒=氵+酉(西一・兀冂二)
   酉=とり・みのる・なが・ユウ
     ひよみのとり・こよみのとり・とりへん
     康熙字典214部首で164番目に置かれる
     (5画の18番目、酉集の18番目)
     「酒を盛った器(大漢和辞典・11巻)」
     酒壜・酒瓶
     酒が成熟する
     とり、とりへん、さけのとり、ひよみのり
 酒=氵+西+一
   さけ・さか・き・シュウ・シュ
 酉+α
 酊・酐・酒・配・酏・酎・酌・酑・酖・酘・酚・酕
 酞・酗・酝・酜・酓・酛・酙・酔・酢・酦・酤・酣
 酥・酡・酠・酟・酬・酱・酪・酩・酮・酰・酯・酧
 酫・酭・酨・酲・酵・酷・酹・酶・酿・酺・酾・酸
 酴・酽・酻・酼・酳・醇・醋・醌・醂・醁・醅・醄
 醊・醉・醃・醆・醈・醏・醀
 ↓↑
 醊=酉+叕
   酉+双+双・・・・・・綴=糸+双+双
   酉+双+又+又
   酉+又+又+双
   まつる・テツ・テチ・チイ
   地に酒を注いで神々や死者を祭る
   神々を祭壇に並べて設け、次々と祭る
ーーーーー
 ・・・???・・・綴り方教室・・・
 醊=祀(政・祭)り方教室・・・酒次第・・・バッカス・・・

・・・逝≠行・・・藤の本の理の稀・・・サイワイなり

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 ・・・雷鳥(ライチョウ)と鯱(シャチ)・・・三輪山=御諸山(みもろやま)・美和山・三諸岳(みもろだけ)、大神神社(おおみわじんじゃ)・・・阿蘇山は三重(三輪)の外輪、内輪、噴火口・・・の活火山・・・?・・・カルデラ・・・珂瑠の出羅・・・?

 「トーテムポール(totem pole)
 北アメリカインデアンの
 北西沿岸部に住む彼らが
 生活空間に立てた
 柱状の
 木の彫刻標識
 崇拝の対象としての偶像ではなく
 宗教的なものではない」・・・
 ・・・「崇拝偶像」ではなくても「宗教的なモノ」だろう・・・
 「標野=しめの=示野」の「標(しるべ)の木々or竹々の竿・旗・旗竿」は漢字一文字では「桓」である・・・
ーーーーー
 桓=めぐらす・カン
   宿場の標識
   ぐるぐる巡るさま
   武勇が優れたさま=桓桓たる武王
   桓表=漢代、駅や宿場のまわりに立てた鳥居のような木の柱
      鳥居・盤桓
      宿場の印として周りにたてた木
      周りに巡らせた木
      元気あふれるさま
      武勇のあるさま
      「狟」に当てた用法
      ぐるぐる巡るさま
      桓桓=武勇が優れたさま・桓桓たる武王
      桓表(カンピョウ)・・・かんぴょう=干瓢・乾瓢
                  千成瓢箪
      漢代、駅や宿場のまわりに立てた
      鳥居のような木の柱
      盤桓(バンカン)=あちらこちら歩きまわること
               徘徊すること
               「広い庭を盤桓する」
               先に進まずにとどまること
 桓=棺を墓穴におろすために四すみに立てる柱
   めぐる・めぐらす
   木+亘=桓・垣・垣根
       恒
       亙音の変化セン・ カン・コウ
       亘エン・垣カン・桓コウ
 桓=しるしとして立てた木・まわりにめぐらした木
   いさましいさま・ぐるぐるめぐるさま・桓表
 桓=木+亘
   異体字は 楦・𣒯
   桓因(カンイン)は檀君神話の帝釈天
   三桓(サンカン)・盤桓(バンカン)
 桓=木+亘
   樹木と、物の旋回・巡回・巡らす状態
ーーーーー
 篠芽=しのめ・「篠芽竹」の略
    遅く生え、青くて味の苦い竹の子
    (和名抄)
    篠芽竹(しのめだけ)
    ヤダケの別名・・・矢竹・・・矢立
ーーーーー
 標野=しめの
    皇室や貴人が占有し
    一般の者の立ち入りを禁じた野
    禁野(キンヤ)
    狩り場などに用いた
     ↓↑
    「あかねさす
     紫野行き
     標野行き
     野守は見ずや
     君が袖振る」〈万・二〇〉
     ↓↑
    第三十八葉(巻1・20 - 21)
    茜草さす
    紫野行き
    標野行き
    野守は見ずや
    君が 袖 振る
     ↓↑
    紫草(むらさき)の
    にほへる
    妹を 憎くあらば
    人妻ゆゑに
    われ恋ひめやも
     ↓↑
 「標野(しめの)の語源」
  額田王の万葉歌1-20が初出
  歌の読者が
 「標」の原義から「禁野」と誤解した・・・?
  ↓↑
 「茜草指
  武良前野逝・・・武良前野-逝・・・逝=死
  標野行・・・・・・・標野-行・・・逝≠行
  野守者
  不見哉
  君之
  袖布流」
  ↓↑  
  額田王は
  横野を標野と書き誤った・・・?
  ・・・ならば、「横野」は「横島」だろう・・・?
  「下関市横野町は
   古代、北東から南西に伸びる砂洲で
   その先端が
   村崎ノ鼻である」・・・「村崎=むらさき=武良前=紫草」?
   ↓↑
   しめの =標野(ヒョウヤ)
   しめなわ=標縄・注連縄・七五三縄
        境界
        領域の出入り禁止を示す縄張り
        神事において神聖な場所を画するために用い縄張り
        新年に門口に魔除けのために張った
        藁(わら)縄を左縒(よ)りにない
        藁の尻を三・五・七筋と
        順にはみ出させて垂らし
        間に紙の四手(しで)を下げる
        しめ(注連・占め・締め・絞め・染め・閉め・〆る)
        すめ-る=済める
        すべ-る=統べる・総べる
   ↓↑   ↓↑
 標=しるべ・しるし・ヒョウ・ヘウ
   目じるし・目標・標識・標柱
   朝廷の公事(くじ)のとき
   百官の席次を定めた
   しるしの
  「白木」・・・白記・・・?・・・新羅
         白文=葉区分・・・
         漢文本文だけで
         注釈、
         句読点・返り点・送り仮名
         などのついていない漢文
        「白字」に同じ
   ↓↑
   標識・標準・標的・標本・指標・商標
   道標・浮標・墓標・目標・門標
   標札=ヒョウサツ=表札
   標語・標示・標榜
   名のり
   えだ・かた・こずえ・しな・すえ・たか・ひで
   標縄(しめなわ)
   澪標(みおつくし)
   標飾(しめかざり)
   道標(みちしるべ)
   ↓↑
 禁野=キンヤ
    天皇の狩り場として、一般人の狩猟を禁じた野
    標野(しめの)
    大和の宇陀野、河内の交野(かたの)など
   ↓↑
 あかね(茜・アカネ)さす
       ・・・紫にかかる枕詞・・・筑紫に懸かる?
          紫=此れはイト(伊都・意図・糸=シ)?
            此=止+七(ヒ・匕・牝)
              イトにトドメる匕(七ヒ)
 万葉名で
 「茜、茜草、赤根、安可根」と記録
       ・・・安可根
       安=やすらか・アン・落ち着いている・心配がない
         安住・安泰・安堵
         安価
         たやすい・簡単
         安易・安直
         たのしむ・甘んじる
           ・・・アマンジる・・・阿毎ム地留?
              海人ム字留?海女ム字留?
           阿蘇山=「高、中、烏帽子、杵島、根子」岳
         安逸=安佚=気楽に過ごすこと
            何もせずに、ぶらぶらと遊び暮らすこと
            佚=イ+失(𠂉一人)・カミさしの始めの人
         おく・すえる
         安置
         いずくんぞ・疑問・反語の助字

 アカネが登場する歌は13種
 すべてが
 「紫・日・月・照る・昼・君」にかかる枕詞
 纁(糸+熏・そひ・そび)=薄い赤色
   イトをイブス・・・伊都を慰撫す?
   ↓↑
 標野=一般人の立ち入りが禁じられた土地
    額田王の相手である大海人皇子の御料地
 野守=御料地を守っている警備人
    or
    天智天皇・・・?
 君 =女性が男性を呼ぶときに使った
 袖振=愛情を示したり、悲しみを表すしぐさ
   ↓↑

 禁野(キンヤ)
 宗教的聖地の山陵・墓山・寺社
 墾田予定地
 狩猟地・牧・杣(そま)・御厨(みくりや)
 などは原則からはずされる場合もあり
 狩猟・薬猟地は
 古くから一定の季節に
 標(しめ)を張り
 囲い込んで標野(しめの)とし
 他の民業を妨げない範囲で
 猟物
 や
 薬草
 を採獲する慣行があった
 禁野は7世紀後半以降
 「公私共利の原則」を法的に確立していく際に
 標野を皇室猟野とした・・・
   ↓↑
 結界(ケッカイ)
 標野(しめの)は禁野であり結界地
 標結(しめゆ)う
 結界することを意味するが
 これは「印を結ぶ意」であって
 かならずしも界を結ぶ意ではない・・・?
   ↓↑
 茜草指
 武良前野逝
 標  野行
    野守者不見哉
    君之袖布流・・・訓之素出振る?
   ↓↑
 額田王(ぬかだのおおきみ)
 斉明朝~持統朝の代表的な万葉歌人
 大海人皇子(天武天皇)の妃
 十市皇女の母
 後
 天智天皇の妾
 ↓↑
 額田王の作品
 秋の野のみ草刈り
 葺き宿れりし
 宇治の宮処の
 仮廬し思ほゆ --『万葉集』巻一(7)
 ↓↑
 熟田津に
 船乗りせむと
 月待てば
 潮もかなひぬ
 今は漕ぎ出でな --『万葉集』巻一(8)
 ↓↑
 熱田津爾
 船乘世武登
 月待者
 潮毛可奈比沼
 今者許藝乞菜
 ↓↑
 熟田津=道後温泉・当時は海港
 ↓↑
 三輪山を
 しかも隠すか
 雲だにも
 心あらなも
 隠さふべしや --『万葉集』巻一(18)
 天智六年(667)
 近江大津宮遷都に際し
 飛鳥京を去る折の歌
 ↓↑
 あかねさす 紫 野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
 茜草 指  武良前野逝 標野行 野守者不見哉君之袖布流
 ↓↑
 天智七年(668)五月五日
 天智天皇の
 蒲生野行幸における歌
 ↓↑
 君待つと
 わが恋ひをれば
 わが屋戸のすだれ動かし
 秋の風吹く--『万葉集』巻四(488)・巻八(1606)
 君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 天皇
 遊猟
 蒲生野時
 額田王 作歌
 茜草指 武良前野逝  標野     行
 茜さす 紫野  行き 標野(しめの)行き
 ↓↑
 野守者不見哉 君之袖布流
 野守は見ずや 君が袖振る
 ↓↑
 紫草(むらさき)の
 匂へる妹(いも)を
 憎くあらば
 人妻故に
 我恋ひめやも(大海人皇子)
ーーーーー
 ・・・???・・・三角関係・・・
 三角関係の面積=底辺×高さ÷2=S=1/2bc sinA・・・
 n角形の内角の和=180×(n-2)
 凸 n 角形は「n - 2」個の三角形に分割される
 S = √s(s - a)(s - b)(s - c)
   s =1/2(a+b+c)
 ・・・???・・・

477年 宋・昇明一年 興(武) 十一月・七支問う?

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 ・・・旧のお盆(月遅れのお盆) 8月13日~16日・・・「盆入りの8月13日の夕方に先祖の霊が迷わないように迎え火を焚き、盆明けの8月16日の夕方に送り火を焚いて先祖の霊を見送る」・・・「盆=分(八刀)+皿=皿の上のモノを分ける」・・・「逝く=ゆく=行く・往く(往復)」・・・ 「逝く=辶+折=二度と帰らない世界へイクこと、イったまま帰らないこと・死ぬ・二度と帰らない世界へイク・行ったきり帰らない」・・・「お盆=逝った人の往復」って?・・・魂魄の現世帰還・・・「カネが無くても阿波踊り」は「タマシイのお迎え」・・・
 お盆、終わった
 日本人の
 戦争、負けて終わった・・・
 ↓↑    ↓↑
 昭和二十年(1945)八月十五日
 乙酉(庚・ ・辛)
 甲申(己・壬・庚)
 丙辰(乙・癸・戊)
 ↓↑    ↓↑
 神武天皇が即位日(紀元前660年2月11日)
 今生天皇最期の平成三十年
 お盆、終わった
 ↓↑
 「往くなり(説文解字・巻二)」
 「逝、往くなり(方言)」
 「逝、秦晉の語なり(方言)」
 ↓↑
 往=彳+王(古体は「㞷(屮王)」、「主」ではない?)
     王=人が手足を広げる様で?、足をすすめるの意?・
 ↓↑    ↓↑
       西周金文の象形文字は
      「七支刀(しちしとう)=六又鉾(むつまちほこ)」
       にみえる
      『泰□四年五月十六日丙午正陽
       造百練□七支刀
       □辟百兵 宜供供侯王 □□□□作』
      『先世来未有此刀   
       百済□世□奇生聖音
       故為倭王[二/日]造 伝示□世』
 ↓↑    ↓↑
       晋(西晋)の 泰始四年(268年)?
 ↓↑    ↓↑
       秦■四年
百済の蓋鹵王が
       宋に遣使457年に鎮東大将軍に任ぜられた
      468年の宋年号=泰始四年(468年)?
      468年6月8日
      戊申(己・壬・庚)
      戊午(丙・ ・丁)
      丙午(丙・ ・丁)
 ↓↑    ↓↑ 
         百済王=蓋鹵王
       百済の世子=武寧王=斯摩王
 ↓↑    ↓↑ ↓↑    ↓↑
              太和(泰和)四年(369年)?
              百済の独自年・・・???
 ↓↑    ↓↑ ↓↑    ↓↑
      「泰始四年(268年)五月十六日」=「丙午」
          西暦268年5月8日=「丙午」
          戊子(壬・ ・癸)
          丁巳(戊・庚・丙)
          丙午(丙・ ・丁)
       臺與の時代=壹與(235年+13+α)=248年+α
      『晋書』起居註に
       秦始二年(266年)
       倭の女王の使者が朝貢
       150年後の
       義熙九年(413年)
       倭王讃の朝貢(倭の五王)
 ↓↑    ↓↑              
      「泰和四年(369年)
       百済王の太子
       奇生聖音が
       倭王旨のために
       七支刀を造った
       この世にも珍しい刀を献上するので
       末永く保存して欲しい」
 ↓↑    ↓↑
       奇生聖音=近仇首=貴須は同一人物・・・?
       倭王-旨(うまし・シ)
       広開土(こうかいど)王=好太王(こうたいおう)
       國岡上廣開土境平安好太王=永楽大王
       (374年~412年)は高句麗の第19代王
       日(ひ・か・ニチ・ジツ)・・・曰(いわく・エツ)
       十(とお・と・そ・たり・ジュウ・ジツ・ジフ)
       大王
       斯麻(しま)=武寧(ぶねい)王
       獲加多支鹵(わかたける)大王
 ↓↑    ↓↑
 倭の五王
 ↓↑    ↓↑
 「讃」→履中天皇? 仁徳天皇? 応神天皇?
 「珍」→反正天皇? 仁徳天皇?
 「済」→允恭天皇
 「興」→安康天皇
 「武」→雄略天皇
 ↓↑    ↓↑
 413年 東晋 義熙九年
    讃
    東晋・安帝に貢物を献ずる
  (『晋書』安帝紀・『太平御覧』)
 ↓↑    ↓↑
 421年 宋  永初二年
    讃
    宋・武帝に朝献し除授の詔
    安東将軍倭国王
  (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 425年 宋  元嘉二年
    讃
司馬の曹達を遣わし
    宋の文帝に貢物を献ずる
  (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 430年 宋 元嘉七年
    讃
    1月
    宋に使いを遣わし、貢物を献ずる
   (『宋書』文帝紀)
 ↓↑    ↓↑
 438年 宋 元嘉十五年
    珍
倭王讃没し、弟珍立つ
    宋に朝献し、自ら
   「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓
    六国諸軍事安東大将軍倭国王」
    と称し、正式の任命を求める
   (『宋書』夷蛮伝)
    4月
    宋文帝
    珍を
    安東将軍倭国王とする
   (『宋書』文帝紀)
    珍は
    倭隋ら13人を
    平西・征虜・冠軍・輔国将軍
    にされんことを求め許される
   (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 443年 宋 元嘉二十年
    済
    宋・文帝に朝献し
    安東将軍倭国王とされる
   (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 451年 宋 元嘉二十八年
    済
宋朝・文帝から
   「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
    六国諸軍事」を加号される
    安東将軍はもとのまま
   (『宋書』倭国伝)
    7月
    安東大将軍に進号する
   (『宋書』文帝紀)
    上った23人は、
    宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる
   (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 460年 宋 大明四年
    済
    12月
    孝武帝へ遣使して貢物を献ずる
 ↓↑    ↓↑
 462年 宋 大明六年
    興
    3月
    宋・孝武帝
    済の世子の
    興を安東将軍倭国王とする
   (『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
 ↓↑    ↓↑


 477年 宋  昇明一年
興(武)
11月
    遣使して貢物を献ずる
  (『宋書』順帝紀)
    興没し、弟の武立つ
    武は自ら
   「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
    七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する
  (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 478年 宋  昇明二年

上表して、自ら
    開府儀同三司と称し、叙正を求める
    順帝、
    武を
   「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
    六国諸軍事安東大将軍倭王」とする
  (『宋書』順帝紀・「武」と明記した初め)
 ↓↑    ↓↑
 479年 南斉 建元二年

  南斉の高帝、王朝樹立に伴い、
    倭王の武を
    鎮東大将軍(征東将軍)に進号
  (『南斉書』倭国伝)
 ↓↑    ↓↑
 502年 梁  天監一年
  武
4月
    梁の武帝、王朝樹立に伴い
    倭王武を
    征東大将軍に進号
  (『梁書』武帝紀)
ーーーーー
 「標」の原義から「禁野」と誤解した・・・?
 「標」の原義は「墓標」ではないのか・・・?
 ↓↑    ↓↑   
   ゆく・いく・いぬ・すすむ
   往還・往診・往路・・・往来・往復
   むかし・いにしえ・以前に・かつて
   已往(イオウ)・既往・古往
   のち・あと・おり
   以往・往往
   已往(イオウ)・帰往(キオウ)
   既往(キオウ)・古往(コオウ)
   往来・往復・・・往き来(いきき)
 ↓↑    ↓↑
 往還(オウカン)・往古(オウコ)
 往古来今(オウコライコン)
 往歳(オウサイ)
 往事渺茫として都(すべ)て夢に似たり
 往時(オウジ)・往生(オウジョウ)
 往生素懐(オウジョウソカイ)
 往生際(オウジョウぎわ)
 往昔(オウセキ)・往年(オウネン)
 往訪(オウホウ)
 往亡日(オウモウニチ)
 往きがけの駄賃
 往き大名の帰り乞食
 往く者は追わず
 右往左往
 以往
 ↓↑    ↓↑
 逝=辶+折(扌斤)・・・扌(手・て・シュ)
             斤(おの・キン・コン)
   辵+折(扌斤)
   辵 (ちゃく・しんにょう・しんにゅう・しにょう)
   ゆく・いく・セイ・セツ・テツ
   去る・人が死ぬ・die・death
   ある人を敬って死をいう言葉
   逝水・逝去・長逝
   永逝(エイセイ)・遠逝(エンセイ)
   急逝(キュウセイ)・夭逝(ヨウセイ)
   逝水(セイスイ)=流れ去る水
 逝=死
   いく・立ち去って帰らない
   死ぬことを婉曲にいう語
 逝=辶+折(おる・セイ・セツ・テツ)
   通仮字は筮・噬
   異体字は䠠・遞・遰・递・遆・𨒾
       𨓝・𨓠・𨔄・𨔛・𨕑・𨘬
   逝の部首は辵
 折+α・・・誓・哲
ーーーーー
 天智天皇
 ↓↑
 誕生 626年
 崩御 672年1月7日
 ↓↑
 天智天皇七年(668年) 新羅の文武王の代に使節を送った
 天智天皇九年(670年) 新羅の文武王の代に使節を送った
 ↓↑
 在位期間
 天智七年(668年2月20日)~672年1月7日
 ↓↑
 舒明天皇の第2皇子
 叔父・孝徳天皇(軽皇子)の皇太子
 先代 斉明天皇(皇極天皇重祚)
 次代 弘文天皇(大友皇子)
 ↓↑
 皇后・倭姫王(やまとひめのおおきみ)=古人大兄皇子の娘
 夫人・道君-伊羅都売(いらつめ)=道君氏の娘
    第七皇子=志貴(しき・施基)皇子
        (春日宮天皇=後に親王=光仁天皇の父)
 采女・宅子娘(やかこのいらつめ)=伊賀国造某の娘?
    第一皇子=友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)
 ↓↑
 誕生 626年
 崩御 672年1月7日
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 天智十一年十二月三日(672年1月7日)
 近江大津宮で崩御
 ↓↑
 近江大津宮
 斉明天皇六年(660年)
 と
 天智天皇十年(671年)
 に漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせた
 ↓↑
 天智天皇の蒲生野行幸は
 天智七年(668)五月五日
 ↓↑
 「茜草指
  武良前野逝・・・武良前野-逝・・・逝=死
  標野行・・・・・・・標野-行・・・逝≠行
  野守者
  不見哉
  君之
  袖布流」・・・・袖振る=相手の霊魂を招き寄せる呪術?
 「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも」
 ↓↑
 「額田王が
  大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく
  宴などでおおやけに披露した歌と思われる
 (宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道)」
 ↓↑
 「才女の額田王がからかいかけた
  どう少なく見積もっても、
  この時すでに
  四十歳になろうとしている
  額田王に対して
  天武もさるもの
  『にほへる妹』などと、しっぺい返しをした
 ↓↑
 天智天皇の大殯(おおあらき)の時の歌
 ↓↑
 「かからむと
  かねて知りせば
  大御船(おほみふね)泊
  はてし泊に
  標結(しめゆ)はましを(万2-151)」

 大殯 殯(あらき)の尊敬語
    埋葬までの間
    天皇の遺体を柩におさめて安置しておくこと
 ↓↑
 吉野の宮に幸いでませる時
 弓削皇子の額田王に贈り与ふる歌一首
 ↓↑
 「古(いにしへ)に
  恋ふる鳥かも
  弓絃葉(ゆづるは)の
  御井(みゐ)の上より
  鳴き渡りゆく」
 ↓↑
 額田王の和こたへ奉る歌一首 倭京より進入(たてまつ)る
 ↓↑
 「古に
  恋ふらむ鳥は
  霍公鳥(ほととぎす)
  けだしや鳴きし
  我が思へるごと(万2-112)」
 ↓↑
 遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は
 ほととぎす
 もしかすると
 鳴いたかも
 私が昔を偲んでおりますように
 ↓↑
 吉野の宮に幸せる時
 持統天皇の吉野行幸
 持統四年(690)~同八年頃
 弓削皇子は二十代
 額田王は六十代
 倭京=飛鳥京
 霍公鳥=過去を偲んで
     悲しげに鳴く鳥・・・霍公鳥≠雷鳥
                 霍≠雷
           霍=にわか・つる・カク
             はやい・すみやか
             霍乱(カクラン)・霍然=カクゼン=確然
             霍然=突然・急に・いきなり
             確然=確固
     ホトトギス=不如帰・杜鵑=時鳥
     一度帝位を退いたのち
     復位を望んだ
     蜀の望帝が
     その志を果たせず
     死して「ほととぎす」と化し
     往時を偲んで昼夜分かたず鳴いた
     中国の故事
   「我が思へるごと」は
    西本願寺本などの原文に
   「吾戀流碁騰」とあり
   「あがこふるごと」と訓む説も・・・
 ↓↑
 「古に恋ふる鳥かも」
 (昔を懐かしがる鳥なのでしょうね)
  と暗に
  額田王を鳥に喩えて詠んだ
  弓削皇子の歌に対し
  中国の故事を踏まえて
  婉曲に「その通りです」と答えた歌・・・
 ↓↑
 668年
 ↓↑
 干支
 戊辰年
 日本
 天智天皇七年668年
 皇紀1328年
 中国
 唐
 乾封三年、総章元年
 ↓↑ 
 東ローマ皇帝コンスタンス2世が暗殺
 ↓↑
 10月
 唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)
 が
 高句麗を滅ぼす(唐の高句麗出兵)
 唐が平壌に安東都護府を設置
 日本
 1月
 近江令を制定
 2月20日(天智天皇七年一月三日)
 天智天皇即位式 
 4月10日(天智天皇七年二月二十三日)
 大海人皇子が立太子
 6月19日(天智天皇七年五月五日)
 近江蒲生野にて薬猟
 大海人皇子と額田王の相聞歌
 9月
 新羅使、調を貢進する
 新羅の僧が
 草薙剣(天叢雲剣)を
 国外に持ち出そうとする
 草薙剣盗難事件
 ↓↑
 誕生
 行基、奈良時代の僧(~749年)
 ユスティニアノス2世
 東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝最後の皇帝(~711年)
 ↓↑
 死去
 7月15日
 コンスタンス2世
 東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝(630年~) 
 智儼、中国華厳宗の第二祖とされる僧(602年~)
 ブラーマグプタ、インドの数学者、天文学者(598年~)
ーーーーー
 ↓↑
 秋の田の
 かりほの庵の苫をあらみ
 わが衣手は露にぬれつつ
 ↓↑
「屋根を葺いている苫が粗いので
 私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」
 ↓↑
 香具山は
 畝火雄々(を愛)しと
 耳梨と
 相争ひき
 神代よりかくなるらし
 古へもしかなれこそ
 うつせみも嬬(妻)を争ふらしき
 ↓↑
 「高山波
  雲根火雄男志等
  耳梨與
  相諍競伎
  神代従如此尓有良之
  古昔母然尓有許曽
  虚蝉毛
  嬬乎
  相挌良思吉」
ーーーーー
 ・・・???・・・

やもり・いもり・トカゲ=ト化解?・訳卦解・戸影

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 ・・・幾度も、何度も同じような繰り返し・・・何ら証拠となるモノも実証する根拠もない・・・でも巨大化したスピノサウルスの化石は存在する・・・「ゾウの3倍の大きさの哺乳類、3階建てのビルよりも高い恐竜」・・・「アルゼンチノサウルス(学名:Argentinosaurus)」・・・「スピノサウルス Spinosaurus は、中生代白亜紀前期から後期(約1億1200万 - 約9,700万年前)の現アフリカ大陸北部に生息していた獣脚類(肉食恐竜)。属名は「棘トカゲ」」・・・蜥蜴なんだ・・・「蜥=中+ム+木+斤」+「蜴=中+ム+日+勿」・・・

 とかげ=トカゲ=ト化解?・・・
 戸影・・・物の怪(忄・心の又の十の一)=異体字は恠(忄・心に在る)・・・「忄=リッシンベン=立身の弁」・・・出世・・・
 ↓↑
 易=日+勿(勹+ノノ・彡+𠃌)・・・「𠃌(コン)」?
      刁刁(ちょうちょう・蝶々)・・・喋々・間諜
      風がそよそよと吹く  
      かすかな風が吹くさま
      刁=一文字で「悪い・狡(ずるい)・動く・揺れる」
                狡黠(コウカツ)・狡猾・狡知
                狡=獣+亠(音)+八+乂(乄)
      羽=习+习・・・翼=习+习+異(田共)
      刁鴨(あいがも)
      刁・・・习=習・・・𠃌+冫+𠃌+冫=羽
             冫(ニスイ)=冰(氷)=こおり・ヒョウ
               似素意・爾諏意   呼緒理・彪・標
      勿=ノ+𠃌+ノノ
 昜=日+一+勿・日+丂+ノノ・・・万+ノノ⇔場・陽・煬(煬帝)
 易≠昜
 勿+α
 物・吻・刎・忽・惚・舓・笏
           舓=なめる・ねぶる・シ・ジ
            =なめる・嘗・舐
             臥薪嘗胆
 刎・芴・忽・昒・歾・䀛
 「勿=吹流しのついた旗」=「㫃=旗竿につけた吹流しがなびくさま」
 勿の
 異体字、「𣃦」
 禁止、否定の語
 はた、吹流し
 弓筈の音・・・弓の弦を弾(はじ)く音
 払う、土はね
 無きなり、莫きなり
 禁止、否定の意味は仮借・・・?
 ・・・「仮借」ではなく、「勿」は
    「指物・標記・標章・墓標・進入禁止の標示の物=幡・旗」
 物=「旗の名前(周代、役人=大夫や士が用いた)」
   「見る・占う」=観えない風の動き方向を知る道具(吹流し)
          =観えない音の音階を知る道具(弦楽器)
   「死ぬ」=「物故」・物にカエル
   「尤物」=すぐれたモノ・美しい女性
        「尤=すぐれる・ユウ」・・・ナ乚丶・一儿ヽ
        「无=ない・ブ・ム」・・・・二儿・チ乚
        「旡=つくす・つきる・つまる・いきつまる
           むせる・キ・ケ=既」
        「兂=かんざし・シン=簪・篸=櫛・髪梳
                   𠂉・コーム ( comb) 」
        「牙=きば・ガ」
 物=牛(𠂉十)+勿(勹ノノ)
    「𠂉十=牛の二本の角」に
    「勹ノノ=張った糸弦」を掻き鳴らす「楽器・竪琴」?
 ↓↑
 勿は吹流しのついた旗の象形
 民衆を集める合図、
     信号に使う・・・壱與、張政、黄幡⇔邪馬台国・帯方郡
 勿々(早々)の意味
 遽(には・俄)かなること
 突然・不意
 ↓↑
 勿論 
 勹(つつみがまえ,つつみがまえ)+ノノ(ノノ字点)
   モチ・ブツ・なかれ
   禁止をあらわす
 勿の読み方
 勿=モチ・ブツ・なかれ
 勿来関(なこそのせき)
 「蝦夷(えぞ・えみし・カイ)
 来(きた・ライ)る
 勿(ナカ)れ」
 「浪越(なみこえ)」とも
 福島県南部、茨城県との
 県境にあった奈良時代以来の関所
 海沿いに
 常陸(ひたち)国から陸奥(むつ)国への入口
 白河・念珠(ネズ)とともに奥州三関の一
 はじめは
 「菊多(キクタ)の関」と呼ばれ
 古代末は白河関の異称
 場所は
 いわき(磐木)市
 勿来の九面(ココヅラ)付近
 源義家
 吹く風を なこその関と 思へども
 道もせに 散る 山桜かな
 ↓↑
 勿来・勿吉・四勿・勿怪・勿れ・勿体
 勿論
 勿忘草・勿体顔・事勿れ・勿来の関
 驚く勿れ・勿体無し
 勿忘草色・・・忘れな草
 事勿れ主義・勿体を付ける
 君死にたまふこと勿れ
 己に如(し)かざる者を友とする勿れ
 過ちては改むるに憚(はばか)ること勿れ
 己の欲せざるところは人に施す勿れ
 過ちては則ち改むるに憚(はばか)ること勿れ
 ↓↑

ーーーーー
 往=彳+王(古体は「㞷(屮+王)」≠「主」)
 ↓↑  屮=凵+丿≠屮=凵+礀
     屮=サ・芽生え
       艸木の初生なり・・・艸=屮+屮
       礀の出でて枝莖の有る形
       艸=屮+屮・・・・屮+凵=出
     屮=左払いの屮
      =左・左手の古字
      古文に或いは艸字を以て為す
      讀みて徹(テツ)の若し?・・・徹底
      凡そ屮の屬は皆な屮に従ふ
      尹彤の說なり(説文解字)
      若芽がわずかにあらわれる形(字通)
     屮の類字、部分構成文字
     屮、𡳾
     屯・㞢
     屰
     㞣
     𡴫
    「㞷(屮+王)の
     王=人が手足を広げる様で
       足をすすめるの意」?・・・
       ・・・「㞷=山ノ王」の王は
      「王(一+ 十+ 一)=111=壱壱壱」だろう・・・
       ・・・壹陌壹拾壱(壹)=始め邑の百、拾う壹(與)
      「屮」の      
       西周金文の象形文字は
      「七支刀(しちしとう)=六又鉾(むつまちほこ)」
       に似る・・・「屮≒丰」?
 ↓↑
 義熙九年(413年)
      倭王讃の朝貢(倭の五王の始め)
  熙=ひかる・かがやく・キ・・・康煕字典の「煕」
    光熙・光が行きわたる・ひろまる・ひろめる・ひろい
    熙隆
    「煕」は正字、「熈」は異体字
    名のり
    おき・さと・てる・のり・ひろ・ひろし・ひろむ・よし
  熙=かわく・かわかす
    光る・光り輝く
    広い・広まる・広める
    興す
    やわらぐ・楽しむ・やわらぎ楽しむ・喜ぶ・喜び笑う
    ああ(感嘆の言葉・嬉々=キキとして)
ーーーーー
 往生素懐=仏教に帰依し
      現世を去って極楽浄土に
      生まれ変わりたいという
      平素からの願い
      往生=現世を去って、極楽浄土に生まれ変わること
      素懐=平素からの思い、願い
ーーーーー
 天智天皇の蒲生野行幸
 天智七年(668)五月五日
 天智天皇
 ↓↑
 誕生 626年
 崩御 672年1月7日
 ↓↑
 天智天皇七年(668年)
 新羅の      日本の
 文武王の代に・・・文武天皇(683~707)
 ↓↑       第四二代天皇(在位697~707)
          名は珂瑠(かる)
          天武・持統天皇の孫
          草壁皇子の第一皇子
          母は元明天皇
          大宝律令を制定
 ↓↑・・・ナゼ、新羅の「文武王」なのか?
ー↓↑ーーーー
 ↓↑  「文武」王⇔金春秋⇔天智・天武・持統⇔「文武」天皇
 ↓↑   ↓↑ 文武天皇(683~707)
 ↓↑   ↓↑ ↓↑  ↓↑ ↓↑    ↓↑
      文武王(626年~681年7月21日・旧暦7月1日)
      新羅、第30代の王(在位:661年~681年)
      姓は金
      諱は法敏
      武烈王(金春秋)の長子
      母は角干(1等官)の
      金舒玄の娘(金庾信の妹)の
      文明夫人
      王妃は
      波珍飡(4等官)の
      金善品(真智王の弟の金仇輪の子)の
      娘の
      慈儀王后
      661年6月
      武烈王(金春秋)が死去し王位に就く
      在位中に高句麗を滅ぼし
      唐の勢力を朝鮮半島から駆逐し
 ↓↑   半島統一・・・
ー↓↑ーーーー
 ↓↑ 唐が高句麗に出兵し始めた頃の
    661年6月
    武烈王(金春秋)が死去
    文武王(金法敏)が即位
    唐から高句麗討伐軍に呼応することを求められ
    文武王は
    金庾信らに命じ
    唐軍のいる平壌で支援をする構えを保った
    高句麗は唐の攻撃に耐え
    唐軍は食糧を受け取ると戦いを収めて帰国
    662年
    唐から
    開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王に冊封
    663年5月
    百済の
    鬼室福信らが
    王族の
    扶余豊璋を倭国から迎え
    百済復興の大規模な反乱
    百済・倭国vs唐・新羅
    白村江の戦い
    倭国の水軍壊滅
    百済再興絶望
    666年4月
    唐に対し高句麗討伐の出兵要請
    唐は
    李勣を
    遼東道行軍大縈管に任命し
    高句麗攻撃開始
    668年
    新羅は唐軍に合流し
    平壌の長安城を攻め
    同年9月21日に
    高句麗を滅ぼす
    金庾信を遇するために
    最高官位である
    大角干の上に
    太大角干の位を設けて与え
    すべての貴族に
    官位一等の昇進を賜った
    恩賞は新羅の中央貴族の私兵層へは与えられず
    地方豪族や
    百済・高句麗から投降した官・将を取り立て
    王の直接の支配の及ぶ
    軍事力の育成に努め
    新羅の王権の拡大に寄与
 ↓↑ 百済・高句麗を滅ぼした後
    663年4月
    新羅は
    鶏林州都督府とされ・・・鶏の林の州
    文武王自身も
    鶏林州大都督に任じられていた
    唐は
    百済の故地に熊津都督府・・・熊の津の都
    高句麗の故地には
    安東都護府・・・安の東の都
    を設置し
    遺臣を用いて統治させるという
    羈縻政策
     ・・・羈=おもがい・たづな・キ
          手綱でつなぎとめる・つないで自由を奪う
          羈絆 (キハン)・不羈・馬で旅をする
          の
          縻=つな・つなぐ・きずな・ミ・ビ
    を用いようとした
    高句麗の
    宝蔵王の庶子である
    安勝が残存勢力とともに
    新羅に亡命してきたので
    金馬渚(全羅北道益山市)に住まわせ
    670年8月
    高句麗王として封じた
    新羅の送使が随行する形で
    高句麗をして
    倭国へ朝貢させ
    674年9月
    安勝を
    報徳王として再封し
    旧高句麗に対する
    新羅の宗主権を誇示
 ↓↑
    唐はこれを叱責したが
    新羅は
    旧百済領域の支配をめぐって
    唐と対抗姿勢をとり
    671年
    泗沘の占領
    所夫里州の設置
    旧百済領域を奪取
   (唐・新羅戦争)
    674年1月
    唐の
    高宗からは官爵を削られ
    宿衛として留まっていた
    王弟の
    金仁問を
    新羅王に代えようとするとともに
    劉仁軌
    らが新羅討伐に出兵準備
    文武王は
    675年2月
    謝罪使を派遣
    その後も小規模な戦闘を繰り返し
    676年11月
    白江河口部の
    伎伐浦(忠清北道舒川郡長項)で
    唐軍に大打撃を与えた
    唐は
    熊津都督府・安東都護府
    を
    遼東地方に引き上げ
    朝鮮半島から唐の勢力は引き上げた
 ↓↑
    文武王は
    百済・高句麗の遺民を取り込み
    新羅の身分制度を再編
    新羅の身分制度は
    首都金城(慶州市)を中心とする京位と
         地方豪族を序列化する外位との
         二本立てであったが
    674年には外位を廃止して京位に一本化した
    前年(673年)に
    百済から帰属してきたものを
    新羅の官制に取り込んだが
    百済での官制の序列に従って
    新羅官制の序列に組み入れ
    両者の連続性を継承させた
    高句麗移民に対して
    安勝を保護し
    高句麗王
    次いで
    報徳王として
    新羅の配下に冊封
    680年
    文武王の妹を
    安勝に降嫁させ
    新羅・高句麗の王家の結合を図り
    旧の三国が一体となるように努め
 ↓↑
    在位21年
    681年7月1日
    死去
    文武王と諡された
    王自身の遺詔で
    新羅では初めての
    火葬された王となり
    骨壷は日本海の浜辺の
    大石の上に葬られた
   「海中王陵」である
    王は護国の大龍に化身し
    この大石を
   「大王岩」といった
    王のために
    感恩寺(慶尚北道慶州市陽北面)が建てられた
    感恩寺に伝わる書物には
    文武王が
    倭兵を鎮圧するために
    この寺を建てようとしたが
    完成する前に亡くなり
   「神文王」の
    二年(682年)に完成・・・
 ↓↑
    神文王七年(687年)
    新羅の祖廟の祭祀として
    神文王にとっては
    父   文武王
    祖父  武烈王
    曽祖父 文興葛文王(金龍春)
    高祖父 真平王
    太祖大王(金氏王統の始祖、13代味鄒尼師今)
    の五廟の制度が整備
    682年
    慶州
    四天王寺に
    文武王の業績を称えた
    文武王陵碑が建立
    文武王は
   「匈奴の末裔」と記録・・・
ー↓↑ーーーー
 天智天皇七年(668年)
 新羅の
 文武王の代に
 使節を送った・・・???ナゼ・・・新羅へ
 ↓↑ ↓↑
 九月 草薙剣(天叢雲剣)盗難事件
 ↓↑ ↓↑
 「是歳。沙門
     道行
     盗
     草薙剣・・・・・ナゼ、草薙剣の剣なのか?
     逃向新羅。・・・ナゼ、新羅の僧なのか?
     而中路風雨。
     荒迷而帰」
 ↓↑ ↓↑
  事件十八(拾捌・足捌)年後の
 「戊寅に・・・・戊寅=つちのえのトラ      ・ボイン
           =土 の兄の虎(彪・禽・録)・母音
            十一(通知)の阿仁・阿児の捕等?
  天皇の病を占ふに
  草薙剣に祟れり。即日に、
  尾張国の熱田社に送り置く。
  (『日本書紀』朱鳥元年(686)六月戊寅条)」
 ・・・「日本武尊」は
    「伊吹山(「五十葺山・膽吹山・伊服阜能山」)」
     へ登る時に
    「草薙剣(天叢雲剣)」を
    「尾張」の
    「宮簀媛(書紀)=美夜受比売(古事記)
    (ミヤズヒメ=尾張国造の乎止与命(オトヨ)の娘
     乎止与(オトヨ)命は
     天火明命(アメノホアカリ)の子孫
     建稲種命の妹」
     に預け素手で・・・
    「宮簀媛(宀呂竹責ヒメ)=美夜受比売」は
     日本武尊(ヤマトタケル)の
     東征の帰路、尾張滞在の際に娶った女性
    ・・・尾張は敵地との緩衝地帯だが
    ・・・高句麗・女真・金・・・
      (蝦夷
       粛慎(シュクシン・みしはせ・あしはせ
       中国東北地方・沿海地方の
       挹婁(ユウロウ)、勿吉(モッキツ)
       靺鞨(マッカツ)、女真(ジョシン)
       ツングース系狩猟民族)
       の混在居住地だった・・・?・・・
       だが多分、
      「古事記の物語」は「九州-有明海」の
      「諫早湾(泉水海)」を囲む
      「長崎」「佐賀」「熊本」「鹿児島」など
      の伝承出来事と重なり、
      「福岡」、「大分」、「宮崎」などにかさなり・・・
      本州山陰、山陽、四国、
      東海、関東、東北と重なっていく・・・
     兎に角、「日本武尊(ヤマトタケル)」は
    ・・・「宮簀媛(宀呂竹責ヒメ)=美夜受比売」に
    ハメラれ、謀られた・・・
   「草薙神剣の有無」は彼女によって
   「武装解除」された「捕虜のハナシ」・・・?
ーーーーー
 自其國越科野國、
 乃言向科野之坂藭而、
 還來尾張國、
 入坐先日所期
 美夜受比賣之許。
 於是、獻大御食之時、
 其美夜受比賣、
 捧大御酒盞以獻。
 爾美夜受比賣、
 其於-意須比-之  其於-おすひ(襲=上着)-の
 襴意須      襴(ひとえ・ラン)に
          おす(襲=上着)の裾に
 (比三字以音)・・ランイス
 著月經。     月経(ツキのさわり)
          著(つ)きたり…いちじるしく
 故見其月經、   その月経を見て
 御歌曰、     御歌にいわく

 比佐迦多能    ひさかたの(久方の)
          比べ方、酒(サカ)多の
 阿米能迦具夜麻  天の香具山
 斗迦麻邇     鋭喧(とかま)に?
 佐和多流久毘   さ渡る鵠(クビ)?
 比波煩曾     弱細(ヒハボソ)?
 多和夜賀比那袁  撓(タワ)や?
          腕(ガヒナ)を?
 麻迦牟登波    枕かむとは?
 阿禮波須禮杼   我(アレ)はすれど?
 佐泥牟登波    さ寝むとは?
 阿禮波意母閇杼  我(アレ)は思へど?
 那賀祁勢流    何が著(ケ)せる?
 意須比能須蘇爾  襲(オスヒ)の裾(スソ)に?
 都紀多知邇祁理  月立ちにけり?

 爾美夜受比賣、答御歌曰、
 多迦比迦流    高光る
 比能美古     日の御子
 夜須美斯志    やすみしし
 和賀意富岐美   我が大君
 阿良多麻能    あらたまの
 登斯賀岐布禮婆  年が来経れば
 阿良多麻能    あらたまの
 都紀波岐閇由久  月は来経行く
 宇倍那      諾(ウベ)な
 宇倍那宇倍那   諾(ウベ)な諾(ウベ)な
 岐美麻知賀多爾  君待ちがたに
 和賀祁勢流    我が著せる
 意須比能須蘇爾  襲(オスヒ)の裾に
 都紀多多那牟余  月立たなむよ
 ・・・???・・・
 故爾御合而、   かれ、ここに御合しまし
 以其
 御刀之草那藝劒、 その御刀の草那芸剣(クサナギノツルギ)を
 置其       そこに置き
 美夜受比賣之許而、その美夜受比売(ミヤズヒメ)の許
 取
 伊服岐能山之藭  伊服岐(イブキ)の山の神を取りに
 幸行。      幸行しき
ーーーーー
 ↓↑ ↓↑
 「草薙神剣者。尤是天璽。自日本武尊催旋之年。
  留任尾張熱田社。外賊偸逃。不能出境」
  『古語拾遺(大同二年・807年)』」
 ↓↑ ↓↑
  朱鳥元年(686年)六月十日条・・・686年⇔668年?
  天武天皇が病
  占いで草薙剣による祟り
  剣を尾張国の
  熱田社(愛知県名古屋市の熱田神宮)に送り置いた
 ↓↑ ↓↑
  大阪府大阪市の地名「放出(はなてん)」
  道行が神罰を怖れ
  草薙剣を「放り出した」ことが地名由来
  同地の
  阿遅速雄神社の伝承
  鳥栖八剱社(名古屋市南区鳥栖)の社伝
  和銅元年(708年)
  道行が熱田神宮の草薙剣を盗み去った際
  元明天皇に知られるのを恐れ
  新しく神剣が作られ
  熱田神宮別宮の
  八剣宮に奉納された・・・
 ↓↑  ↓↑ ↓↑
  遠賀川の物部氏関連神社群の「古物神社」
 「古物神社は八幡宮」で
 そこに「布留御魂神社と剣神社」が合祀・・・?
 福岡県鞍手郡中山の剣岳には昔、草薙剣があった
 剣岳の山頂には八剱神社の上宮
 ↓↑ ↓↑
 天智天皇九年(670年) 新羅の文武王の代に使節を送った
 ↓↑
 在位期間
 天智七年(668年2月20日)〜672年1月7日
 ↓↑
 「茜草指
  武良前野逝・・・武良前野-逝・・・逝=死
  標野行・・・・・・・標野-行・・・逝≠行
  野守(のもり)者・・・
 ↓↑   野守(やもり=ヤモリ=守宮・家守・矢守
            ↓↑  病もり(守)・・・看病人?
            ↓↑
     ニホンヤモリ(日本守宮、Gekko japonicus)
     爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ属のトカゲ(蜥蜴)の一種
 ↓↑   単に「ヤモリ」と呼称する

     モリ(守)=3世紀から6世紀ごろの
     古代日本の地域的、海運的首長につけられた
     語尾名称のひとつ
  ↓↑
  不見哉・・・・・フケンヤ
  君之・・・・・・訓(クン)詩(シ)?
  袖布流」・・・・袖振る=相手の霊魂を招き寄せる呪術?
          袖布流=湯部振る・喩分部振る?
          ソデふる・・・素(訴・蘇)出訃留・・・「訃=言+卜」?
                「卜」は「仆(ばったり倒れる)」の原字
                 人の死の知らせ・訃報・訃音
  ↓↑
  紫の       紫草能
  にほへる妹を   保敝類妹乎
  憎くあらば    尓苦久有者
  人妻故に     人嬬故尓
  吾恋ひ     吾戀---目八方
  め       目(推量を表す助動詞の已然形)?・・・~だろうか
  や       八(反語を表す係助詞)?・・・・・・・・いや~ない
  も       方(詠嘆を表す係助詞)?・・・・・・・・なぁ
  ・・・???・・・この「日本語訳」は?であるカナ・・・「目線は八方」・・・
  反転・倒置で解釈・・・?
  「め」は推量の助動詞「む」の已然形
  「やも」は反語の終助詞「どうして~するだろうか、そんなことはしない」
 ・・・いい加減な目八方であるカナ・・・
 ↓↑
 野守=のもり=謡曲、五番目物・世阿弥作
    春日野を行く旅僧が老人から
    野守の鏡の故事を聞き
    鬼神の奇瑞 (キズイ) を見る・・・?
 ↓↑
 野守草=植物名・ハギ(萩)の異名・・・長州藩、萩、松下村塾
 ↓↑
 野守(のもり)の鏡(かがみ・金立日儿)=鑑・加賀見・各務
     =大和国 春日の里を訪れた山伏(やまぶし・ワキ)・・・
              山伏(サンフク・耶麻を伏せる)?
      そこへ現れた
      野守の老翁(前シテ)は
      この野にある溜まり水が
     「野守の鏡」と呼ばれていることを教え
      そして「真実の野守の鏡」とは
      この水ではなく
     「鬼神のもつ明鏡」のことだと明かす
      この溜まり水が
      和歌の世界で
     「野守の鏡」と呼ばれるに至った故事を語る
     「山伏」は
      その「真実の鏡」にも関心を示すが
      老翁は
     「鬼神の鏡は
      世にも恐ろしい物なので人には見せられない」
      と告げると、野中の塚に姿を消してしまう
     「山伏」が
     「真実の鏡(鑑=歴史?)」
      を拝すべく一心に祈っていると
      塚の中から鏡をたずさえた
      鬼神(後シテ)が出現し・・・鬼神=卑弥呼の神?
      鬼神は、大宇宙のすみずみまでを
      明鏡に映し出し
      この世界の諸相を見せる・・・
 ???・・・だからナニ?・・・
 ↓↑
 野守(のもり・ヤモリ・ヤシュ)
         ・・・野手(野球の)
            野趣=自然のままの・素朴で田舎っぽい
 ↓↑            野性的・ワイルドな・
 ヤモリ=やもり=守宮・家守・矢守・病もり・・・?
 ニホンヤモリ(日本守宮、Gekko japonicus)
 爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ属に分類される
 蜥蜴(トカゲ)の一種・単にヤモリと呼称
 ↓↑
 民家やその周辺に生息
 動物食で
 昆虫やクモ、ワラジムシなどの
 陸生の節足動物を食べている
 天敵は猫等の哺乳類の他、鳥類、ヘビ、爬虫類
 夜行性で、昼間は壁の隙間等で休む
 獲物目当てに灯火の周りに現れる
 トカゲやカナヘビ同様
 驚いたり敵に捕まりそうになると
 尾を自切する
 切れた尾は分離後10分程度非常に複雑な動きをする
 尾は再生されるが
 元の尾と再生尾とでは視認できる程度の違いがある
 冬になると壁の隙間や縁の下等で冬眠
 繁殖形態は卵生
 5月から9月にかけて1-3回に分けて
 1度に2個ずつの粘着質に覆われた卵を木や壁面に産みつける
 卵は1ヶ月半から2ヶ月程度で孵化
 家の内外の害虫を捕食し
 虫害から家を守るとされ
 「守宮(家守)」と書かれ
 似た名の
 「イモリ(井守)」とともに親しまれてきた
 ↓↑
 アカハライモリ(Cynops pyrrhogaster)
 有尾目イモリ科イモリ属に分類される
 両生類の一種
 略してアカハラ
 イモリと呼ぶ
 別名
 ニホンイモリ(日本井守、日本蠑螈)
 和名の「井守」
 野井戸の中にも生息するので
 「井戸を守る」に由来
 水田に生息することから
 「田(井田)を守る」との意味に由来・・・
 ヤモリは爬虫類
 イモリは両生類・変態動物
 イモリの黒焼き=ほれ薬
 大陸中国の
 ヤモリの黒焼き
 が
 日本では
 イモリの黒焼きになった・・・
 蠑螈=いもり・エイゲン=イモリ=井守
    イモリ科の両生類
    日本特産で池や井戸にすむ
    形はトカゲに似る
    体は黒褐色で腹は赤い
    アカハラとも
    井戸のなかにすむことから
    有尾目イモリ科の両生類
    日本の固有種
    体長約10センチ
    背面は黒褐色で斑点
    腹面全体が赤い
    イモリは
    池や井戸など水のあるところを守る・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

「平成最後の百姓一揆」・・・負けたね、安藤昌益さん

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 ・・・「第百回全国高校野球選手権記念大会・高校野球・甲子園決勝 大阪桐蔭13―2金足農」・・・「平成最後の百姓一揆」・・・「百姓一揆」で「百姓」が結果、勝利した歴史はないし、「日本の百姓一揆」は政治支配体制の変革でも、権力奪取でもなく、支配階級に対する「嘆願・請願」で終わった・・・もちろん、暴動、騒動だから「百姓」の「一揆」の敗北は前提でもあった・・・搾取対象の「百姓」をスベテ抹殺するわけにはいかないから、扇動者だけを殺した・・・
 例外は支配者をオン出し、追放し、地域自治を「国人政治」とした「くに」があったらしいのだが・・・これって「忍びのクニ」?・・・
 「山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明十七年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った」・・・ナンで、「文明十七年」で、「八年間の自治(ジチ)」なんだか?・・・字知・事知・時知・耳知・・・?
 「国人が起こした一揆=国人一揆」、「惣国一揆=惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣(そう)」・・・「惣=物+心=共同組織」・・・なるほど、ザ、わぁーるど・・・
 「桐蔭=瑞鳥の鳳凰が桐の葉の陰で休み、力を蓄える・・・花札で桐に鳳凰(yahoo・知恵袋)」・・・「松陰」のモジリ?じゃないんだ・・・
 「金足=秋田市金足(かなあし)追分の三叉路=江戸時代末は、なにもない砂丘のふもとで、羽州街道と男鹿街道の追分」・・・
 秋田は「古事記の登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=登美毘古(トミビコ)の兄弟、安日彦(アビヒコ)⇔阿比毘古(安日王・阿比古・阿彦⇔居多神社)」、「安日彦=長髄彦の兄、彼と共に青森県の弘前に逃れたとも、単独で津軽地方に流されたとも」・・・
 が逃げてきた場所だから・・・
 「金足=キンソク=禁足・禁則⇔藤原(中臣)鎌足(鎌子)⇔榎本武揚(釜次郎)」のモジリじゃないのか?・・・いずれも「百=もも」・・・桃尻(木兆尸九)の百済・・・?
 以上も以下もぜェ~んぶ、原文は「wikipedia」・・・イチャモンの「・・・」と「・・・モジ」はボクのカンジたカンソウ・・・
ーーーーー
 賛助金を「年貢」
 金足農業の快進撃を
 「平成最後の百姓一揆」
 とたとえる人が続出・・・
 平成最後の百姓一揆
 ↓↑
 実際の「最後の百姓一揆」
 1875年(明治八年)に起きた
 伊勢暴動や
 1876年
 九州における西南戦争下の諸一揆
 ↓↑
 1875年の伊勢暴動(いせぼうどう)
 や翌年の九州における
 西南戦争下の諸一揆が最後の百姓一揆
 以降の農民闘争・民衆運動は
 自由民権運動や小作騒動へと受け継がれた・・・
 ↓↑
 平成最後の百姓一揆タグ誕生
 なまはげも泣かされる感動
 勝ちすぎて宿泊費不足→金不足農業高校・寄付する→「年貢納める」(振込先は秋田なまはげ農協)
 吉田投手母「(鍛えすぎてしゃがむ度に破ける)」
 ↓↑ ↓↑
 「1918年夏の米騒動
  の残っている
  証言・資料に現れている
  最も早い時点での行動は
  東水橋町の
  女性
  陸仲仕たち20数人によって
  7月上旬から始められた
  移出米商
  高松への積出停止の要求の行動
  『米騒動の研究』(全5巻)」
 ↓↑
 1918年米騒動
 1918年(大正七年)に日本で発生した
 コメの価格急騰に伴う
 暴動事件、米騒動
 ↓↑
 肉や魚などの摂取が少なかった当時
 日本人の食生活は穀物類が主体
 特に肉体労働者は激務のため
 1日に1升(1.8リットル)もの米を消費・・・
 米価の高騰は
 家計を圧迫し
 人々の生活を困窮させた
 ↓↑
 富山県中新川郡東水橋町(富山市)
 1918年(大正七年)
 「7月上旬」から、
 「二十五六人」の
 「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ
  積出し停止要求に日参する」
 行動が始まっている
 ↓↑
 7月22日の昼
 富山市中長江町ほかで
 富豪浅田家の
 施米にもれた
 細民200名
 (「杖にすがった
   むさ苦しい婆さん達もあれば
   子供の手を曳いた女房連も」)
 が市役所に押し掛けた
 (7月23日『北陸政報』)
 記事には、
 「昨今の米高が
  如何に細民をして
  生活難に陥らしめているが窺われる」
 と記している
 同日夜間
 富山県下新川郡魚津町の魚津港には
 北海道への米の輸送を行うため
 「伊吹丸」・・・・息吹山、伊吹山・・・白猪の神⇔ヤマトタケル
 が寄航していたという
 この時は巡回中の
 警官の説諭によって解散させられたが
 住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた
 荷積みを行っていたのは
 十二銀行(北陸銀行)であった
 同年7月24日、25日の
 『北陸タイムズ』で
 それぞれ
 「二十日未明同海岸に於いて
  女房共
  四十六人集合し
  役場へ押し寄せんとせしを
  いち早く
  魚津警察署に於いて探知し」
 「二十日未明海岸に集合せしを
  警察署がいち早く探知し
  解散せしめ」
 と魚津の動きが
 20日未明(19日夜間)から
 起きていたと報じている
 8月9日の
 『高岡新報』は
 「魚津町にては、
  米積み込みの為
  客月一八日
  汽船伊吹丸寄港に際し
  細民婦女の一揆が起こり
  狼煙を上げたる」
 と、
 魚津でも 
 7月18日以来
 一揆が起きていることを記している
 その頃
 東水橋町、富山市、魚津町以外にも
 東岩瀬町(28日)
 滑川町、泊町(31日)等
 富山県内での救助要請や
 米の廉売を要望する人数はさらに増加し
 各地で動きが起きていた
 ↓↑
 翌月8月3日
 当時の
 中新川郡西水橋町(富山市)で
 200名弱の町民が集結し
 米問屋や資産家に対し
 米の移出を停止し
 販売するよう嘆願した
 ↓↑
 8月6日
 東水橋町
 滑川町の住民も巻き込み
 1,000名を超える事態となった
 住民らは
 米の移出を実力行使で阻止し
 当時1升
 40銭から50銭の相場だった米を
 35銭で販売させた
 ↓↑
 大阪堂島の米市場の記録
 1918年(大正7年)
 1月に1石15円だった米価は
 6月には20円を超え
 7月17日には30円を超えた
 (当時の一般社会人の
  月収が18円~25円)
 7月末~8月初めにかけて
 各地の取引所で立会い中止が相次ぎ
 地方からの米の出回りが減じ
 8月7日
 白米小売相場は
 1升50銭に暴騰
 ↓↑
 地主や商人は米を
 米穀投機へ回すようになり
 次第に売り惜しみや買い占めが発生
 仲小路廉農商務大臣は
 1917年(大正六年)9月1日に
 「暴利取締令」を出し
 米・鉄・石炭・綿・紙・染料・薬品
 の買い占めや売り惜しみを禁止した
 無効果
 口語の動詞
 「ぼる・ぼられる・ぼったくる
 (暴る、暴られる、暴ったくる)」
 は、「暴利取締令」の「暴利」に由来
 ↓↑
 1918年(大正七年)4月
 「外米管理令」が公布
 三井物産
 鈴木商店
 など指定七社による
 外国米の大量輸入が実施
 が、米価引下げには至らなかった
 ↓↑
 寺内内閣
 1918年(大正七年)8月2日
 シベリア出兵を宣言
 この宣言は
 流通業者や商人などが
 戦争特需における
 物資高騰を狙い
 売り惜しみを加速させた
 神戸米会所の相場で
 7月2日に1升34銭3厘
 8月1日に  40銭5厘
8月9日に 60銭8厘
 前後して
 富山県でのコメ騒動が発生
 シベリア出兵と米騒動の因果関係・・・
 ↓↑
 第一次世界大戦による好景気
 1918年(大正7年)
 伊勢の
 福寅一派の
 相場師の買いあおりにより
 米穀取引所における
 期米相場は
 50円(1石当たり)に迫り
 小売価格も
 1升30銭~50銭を超す
 ↓↑
 1918年(大正七年)
 8月1日
 1石35円を超え
 同5日には40円を超え
  9日には50円を超えた
 8月10日
 京都市と名古屋市を皮切りに
 全国の主要都市で米騒動が発生
 8月12日
 鈴木商店が
 大阪朝日新聞により
 米の買い占めを行っている
 悪徳業者である
 (米一石一円の手数料をとっている)
 との捏造造記事?を書かれ
 焼き打ちに遭った
 米騒動は
 移出の取り止め
 安売りの哀願から始まり
 次第に
 寄付の強要
 打ちこわし
 に発展
 10日夜
 名古屋鶴舞公園で
 米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂
 約20,000人の群集が集結
 京都で
 柳原町(京都市下京区の崇仁地区)
 で騒動が始まり
 米問屋を打ち壊すなどして
 1升30銭での販売を強要
 ↓↑
 東京市
 8月10日
 宮武外骨を発起人とし
 山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による
 野外演説会を
 日比谷公園で
 8月13日に開催する広告
 警察が禁止の決定
 当日には
 約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった
 200人の警官が包囲する中で行われた
 即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れ
 怒号と興奮
 警官との衝突に発展し
 暴徒となった群衆は3派に分かれ
 派出所や商業施設への投石
 電車や自動車の破壊
 吉原遊郭への襲撃・放火
 浅草方面に向かった一派は
 翌14日に
 浅草・本庄近辺の米商に押し寄せ
 暴力的な廉売交渉
 8月15日
 軍が出動し
 16日
 暴動は鎮圧され
 総計299人が検挙
 「値下げを強要すれば安く米が手に入る」
 8月17日頃から
 都市部から町や農村へ
 8月20日までにほぼ全国へ波及
 騒動は
 米問屋から炭坑へと
 9月12日
 三池炭坑の騒動終了まで
 50日間を数えた
 ↓↑
 8月17日以降
 米騒動は
 山口県や北九州の
 炭坑騒動へ飛び火
 山口県沖の山炭坑
 福岡県峰地炭坑など
 炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化
 沖の山炭坑の騒動
 住民を加え数千人規模の騒動に発展
 米問屋、屋敷の打ち毀し
 遊郭への放火などが起こった
 出動した軍隊に対し
 ダイナマイトで対抗するなど(陸軍のねつ造?)
 死者13名を数える惨事
 陸軍が発砲理由とした
 坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は
 陸軍が発砲を正当化するために
 ねつ造したコメントを
 『大阪朝日新聞』(大正7年8月23日付)
 などが取材なしに
 記事化した・・・ 
 ↓↑
 一連の騒動は最終的に
 1道3府37県の
 計369か所
 参加者は数百万人
 出動した軍隊は
 3府23県
 10万人以上が投入
 呉市では
 海軍陸戦隊が出動
 民衆と対峙する中
 銃剣で刺されたことによる死者が2名
 検挙人員は
 25,000人を超え
 8253名が検事処分を受けた
 7786名が起訴され
 第一審で
 無期懲役が12名
 10年以上の有期刑が59名
 一部民衆を扇動したとして
 和歌山県で2名が死刑判決
 ↓↑
 米騒動での刑事処分者
 8185人
 被差別部落からはそのうちの1割の処分者
 部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では
 3割から4割が被差別部落民
 女性の検挙者35人のうち34人が部落民
 ↓↑
 1920年(大正九年)
 原内閣は
 部落改善費5万円を計上
 部落改善のための最初の国庫支出を行った
 内務省は省内に
 社会局を設置
 府県などの地方庁にも社会課を設けた
 ↓↑
 呉市
 水兵が騒動に参加し検挙
 一部の地域では制止すべき
 警官が暴動を黙認
 ↓↑
 8月13日
 政府は
 1000万円の国費を
 米価対策資金として支出する事を発表
 各都道府県に向けて米の安売りを実施させた
 騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から
 8月28日にはこの指令を撤回
 安売りを打ち切った
 発表時の4割程度の支出に留まり
 米価格の下落には至らず
 1918年(大正七年)末
 米騒動当時の価格まで上昇
 国民の実質収入増加によって
 騒動が再発することはなかった
 ↓↑
 全国
 中等学校
 優勝
 野球大会の中止
 この騒動は
 全国中等学校優勝野球大会
 (全国高等学校野球選手権大会)
 に影響
 ↓↑
 8月11日
 神戸市で始まった騒動により
 当時の会場だった
 鳴尾球場に程近い
 鈴木商店で焼き打ち事件が発生
 ↓↑
 8月14日
 開催予定だった
 第4回
 全国中等学校
 優勝
 野球大会は
 一旦延期
 その後も
 治安改善の見通しが立たず
 8月16日に大会の中止が決定
 ↓↑
 米騒動の影響で
 寺内内閣の退陣を求め
 寺内は体調不良もあり
 8月31日に
 山縣有朋に辞意を告げ
 9月21日に正式に辞表を提出
 ↓↑
 山縣は西園寺公望に組閣を命じたが
 西園寺はこれを固辞し
 原敬を推薦
 9月27日
 原に組閣が命じられ
 日本で初の
 本格的な政党内閣
 原内閣が誕生
 爵位を持たない
 衆議院議員を首相とする
 初の内閣
 民衆からは
 「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された
ーーーーー
 ・・・???・・・

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