Quantcast
Channel: gooブログはじめました!キリヤ
Viewing all 2191 articles
Browse latest View live

タイガ(Тайга́)・・・ロシア語でシベリア地方の針葉樹林

$
0
0
 前回の書き忘れモノ・・・
 タイガ(Тайга́)
 ロシア語でシベリア地方の針葉樹林
 ユーラシア大陸
 北アメリカ大陸の北部(亜寒帯)に
 発達する
 針葉樹林の純林
 閉鎖林ではなく
 ツンドラ(永久凍土)への
 移行帯である樹高の低い疎林
 高緯度地域の針葉樹林帯という意味も包含
 北方林 (Boreal forest) と同義・・・
 ↓↑

 ・・・「カンシ」に「在寅」は存在しない・・・
 ・・・丙寅・戊寅・庚寅・壬寅・甲寅・・・
 ・・・孤児だった「タイガーマスク(tiger-mask)」は
    覆面レスラーの正義のヒト・・・慈善家・・・?
 ・・・アイツは「伊達直人」なのか・・・?
 ・・・1969年・・・「豈海布(アニメ)」化・・・?
 ↓↑ ↓↑
 ・・・『伊達家御曹司』=金策(キムチャク) =『畑中理』・・・?
            (1903年8月14日~1951年1月30日)
    1903年8月14日~        大運⇔1951年1月30日
    癸卯(甲 乙)印綬・比肩帝旺⇔乙卯⇔庚寅
    庚申(戊壬庚)偏官・偏財 絶⇔劫財⇔己丑
    甲戌(辛丁戊)  ・正官 養⇔  ⇔庚午
     申酉空亡
    庚午(丙 丁)偏官・食神 死⇔  ⇔壬午
 ↓↑
 タイガー(英語 tiger)
 ティーガー(独語 tiger)
 ティーガー戦車
 ドイツ陸軍 (国防軍)の戦車
 ティグリス河
 ティグリス(Τίγρις・希臘語・tiger・Tigris)
 Tigra(古代の波斯語・エラム語のTigra)
ーーーーー
 虎に翼『韓非子(難勢)』=為虎添翼・・・天武天皇(大海人皇子)
 ↓↑
 虎を野に放つ『後漢書(馬援伝)』・・・天武天皇(大海人皇子)
 ↓↑
 虎の尾を踏む=虎の鬣を捻る『易経(履卦)』・・・勧進帳
               弁慶・義経・安宅の関
 ↓↑
 虎穴に入らずんば虎子を得ず『後漢書(班超伝)』
            ・・・班(彪・あや)を超る伝
 ↓↑
 虎視眈々『易経(頤)』・・・古史(故事・古字・誇示)端端
         頤=𦣝+頁
           𦣝=頤の原字
              異体字「𦣞・𩠡」
           搾乳できる大きな二つの乳
           臣(𦣞・目・見張る)と𦣝は別字・・・類字?
          「姫=姬(旧字体)」
           頁 (おおがい・いちのかい)
           イ
           あご
           おとがい
           やしなう
           したあご(下顎)
           やしない育てる
           あごで使う・あごで指図する
           頤使・頤指(イシ)
           減らず口
           哄笑(コウショウ)=共に爆笑する
            頤=あご=腮・顋・齶・腭・顎
 ↓↑
 前門の虎、後門の狼『評史(趙弼)』・・・弼(すけ)≠粥(かゆ)
                  井伊直弼    芋粥
 ↓↑
 虎を養って虎に噛まる=飼い犬に手を噛まれる
 ↓↑
 虎になる=泥酔・四つん這であばれる
      女房言葉で酒(おささ)
     「笹に虎は付きもの」=酔漢=大虎
 ↓↑
 虎の子渡し=生計が苦しく四苦八苦すること
 虎が3匹の子を生むと、そのうちの1匹は必ず
 獰猛な「彪(とら・あや・ヒョウ・豹)」になって
 親が目を離した隙に他の2匹を喰ってしまう
 虎の親子が川を渡る際に3往復半の手間を要した
 ↓↑
 『癸辛雑識(周密撰・続集下)』
    ・・・周密
    紹定五年(1232)~大徳二年(1298)
    南宋末の文学者
    済南 (山東省) の人
    字は公謹
    号は嘯翁・草窓・四水潜夫
    景定二年 (1261)
    馬光祖の幕僚
    臨安府の官を歴任
    義烏 (浙江省) の知事となったとき
    南宋滅亡
    以後、元王朝には仕えず
    湖州で文人生活
    曾祖父の代から
    蓄積された膨大な蔵書による広い学識
    南宋の首都
    臨安の風俗を記した
   『武林旧事・十巻』
   『癸辛雑識・斉東野語・雲烟過眼録』著書
    宋末を代表する書画詩作作家
    南宋詞の選集
   『絶妙好詞』の編者
    詞集
   『蘋州漁笛譜』『草窓詞』
 ↓↑
 苛政は虎よりも猛し『礼記(檀弓)』
        ・・・例記・段求(臼=碓)
 ↓↑
 虎の威を借る狐『戦国策(楚策)』
      ・・・撰語句索・素索(蘇索)
 ↓↑
 張子の虎
 ↓↑
 虎は千里往って千里還る『荀子(勧学)』
 ↓↑
 虎は死して皮を留め、人は死して名を残す
 ↓↑
 『王彦章画像記(欧陽脩)』・・・王の彦の章
 ↓↑
 虎の子
 虎の巻『六韜(虎韜)』・・・おまる=御虎子・便座
 ↓↑
 タイガーズ-アイ(虎目石)
 レッドタイガーズ-アイ(赤虎目石)
 ↓↑
 敔(ギョ)=吾+攵=虎型打楽器
   木製打楽器・伏した虎の形で、背に27の刻み目
   竹のささらでこすって音を出す
   奏楽を止める合図用
 ↓↑
 虎拳=虎>老婆>鉄砲(和藤内or加藤清正)>虎
    という三すくみで勝負がつく拳遊び
 ↓↑
 戦時中の
 千人針で・・・ツンドラの針葉樹のタイガ・・・?
 虎の刺繍
 ↓↑
 甲子園なのに「虎=とら=寅」 
 丙寅・戊寅・庚寅・壬寅・甲寅
ーーーーー
 ・・・???・・・甲子園・・・野球球児の祭典・・・

瓜子姫・・・天邪鬼の誘拐目的・・・ナニ?

$
0
0
 けしからん=けしからず・・・消し(芥子・罌粟・家司・家子)絡む・・・?
       形容詞「異(け)し」の未然形に
       打ち消しの助動詞「ず」がついた語
      「 ず」の連用形「ぬ」の
       終止法
      「けしからぬ」と変化し
      「けしからん」となった
      「怪しからん・異しからん」
       憤慨、怒りの
      「理屈や道理に外れ、不埒で、ゆるせん」
      「不届き千万」
      「邪(よこしま)な奴で、不埒である」
      「非常識で許し難い」
      図々しい・厚顔無恥・・・
      文の在の寅(1953年1月24日~)
      文の喜の相(1945年3月03日~)
      「不作死就不会死」
 ↓↑    ↓↑
      乙酉(庚 辛)偏財・比肩建禄⇔辛未⇔己亥・偏印
      戊寅(戊丙甲)印綬・正財 胎⇔比肩⇔壬申・食神
      辛未(丁乙己)  ・偏印 衰⇔  ⇔辛卯・比肩
       戌亥
      甲午(丙 丁)正財・偏官 病⇔  ⇔甲午・正財
 ↓↑    ↓↑
      無礼・不敬・横柄・傲慢・理不尽
 ↓↑    ↓↑
      rude(ルゥードゥ)
      ・・・留得烏(鵜)同?
      impolite(インパァラァィトゥ)
        ・・・韻 葉蛙等相 当?
      discourteous (デスコォー(ル)トゥス)
      impertinent(インパァー(ル)タァナァントゥ)
      insolent(インサァラァントゥ)
      impudent(インピュゥドゥントゥ)
 ↓↑    ↓↑
      outrageous(アウト レヂぉす)
      disgraceful(ディィスグレェィスファル)
      shocking(シャキィン(グ)・ショク)
 ↓↑      ↓↑    
       懸念、疑念・・・不可解(深界・深海
               不可甲斐・不可歌意)?
       異様・奇怪
      「異(け)し=異常」
      「怪(あや・け)し=不思議」
     「芥子(ケシ)=鴉片・阿片・ヘロイン」
 ↓↑     ↓↑
       異様・奇怪
       賞賛や感動の・・・???
      「感服、感心」
      「尋常でない・素晴らしい」
      「け-し-から-ん
       け=化・懸(戯⇔戯曲)・嘉・卦
        し=詞・詩・史・誌・志・市・私」
          から=カラ・空・漢・唐・加羅・辛・殻
            む=厶・謀・夢・無・武・務
 ↓↑      ↓↑
 ウリ(瓜・賣・宇理)
 ナル(生・為・鳴・成・奈留)
 ナラ(楢・平城・奈良・名等)
 マル(丸・圓・円・團・団
    真留・眞瑠・馬留・目留・萬留・瑪瑠
    麻呂・虎子)・・・・太安萬侶
    馬屡・・・屢=尸+婁=しばしば
         屡=尸+娄=尸+米+女
               屎=くそ=糞(米+異)=大便
                     米の異化⇔大便⇔代弁
               尿=ゆばり=小便・小水
         屡・屡々・屢次・屢述
         루=己+T=often
         婁=娄(ル・ロウ)・・・蔞・寠(窶)
         ↓↑↓       よもぎ・やつれ
         米=口+十+中
           串+一
           申+口・・・?
           毌+中・・・?
         米 (こめ・こめへん)
         婁県
         上海市に存在した県
         松江区の一部
         1656年(順治十三年)
         清朝により設置
         婁=たたら星・・・雞婁鼓
        挹婁
       「魏志挹婁伝」
        在 夫餘 東北千餘里
        濱 大海 南與 北沃沮 接
        未知 其北所極
        ・・・
        其人不潔 作 溷(厠)在中央
        人圍其表居
        ・・・
        自漢已來 臣屬夫餘
        ・・・
        其國 便乗船 寇盗
        鄰國(北沃沮) 患之
 ↓↑      ↓↑
 婁=娄
   米=十+丷+八
     ベイ・マイ・メ
     こめ
     メートル(M・m)
     よね・稲の実
     脱穀した穀物の実
     「亜米利加(アメリカ)
 ↓↑     ↓↑
      演=氵+寅・・・サンズイのトラ・水のトラ
        氵+宀+一+由+八(捌)
        水・氵・氺(みず・さんずい・したみず)
        エン
        おこなう
        のべる
        述べる・説く・述べ広げる・押し広める
        流れる・水が流れる・長い距離を流れる
        おこなう・人前で芸を行う
        演技・演舞・演劇・演奏・演説
        実習する・実地に行う
       「自作自演」
        被害者と加害者が
        同一人物の狂言誘拐や狂言強盗
        成りすまし行為
       「二の舞を演じる」
        前の人と同じ失敗をしてしまう
       「二の舞」は舞楽で
        安摩という滑稽な舞の次に
        それを真似る舞のこと
ーーーーー
 ・・・???・・・
 「くる病(独語Rachitis・佝僂病・痀瘻病)
  ビタミンD欠乏や代謝異常により生じる骨の石灰化障害
  ギリシャ語の背骨=rhakhisに由来」
 ・・・「ノートルダム・ド・パリ・(Notre-Dame de Paris)」・・・
     ヴィクトル・ユーゴーの小説
    『ノートルダムのせむし男』・1831年出版
 ↓↑      ↓↑
 傴僂(せむし・クル)・・・
 くる病
 佝=イ+句
   コウ・ク
   せむし
   foolish・stopped over
 痀=疒+句
   ク・グ・ウ
   せむし
   crouch・hunchback
 瘻=疒+婁
   ロウ・ル
   せむし・かさ・できもの
   fistula
 軁=身+婁
   ロウ・ル
   せむし
 駝=馬+它
   タ・ダ
   せむし
   hunchback・load
 駞=馬++𠂉+也
   ダ・タ
   せむし
   camel
 ↓↑
 ・・・施(ほどこす・施設)・迤(ななめ・斜・斜視)・・・
 火、水の癲癇・・・巫女・覡(かんなぎ)=神巫・・・神凪
                  ・・・神奈木・神無木
 ↓↑
 「巫(かんなぎ、古くは清音でかむなき)
  神の依り代、または神の憑依
  神との交信をする行為
  その役割を務める人
  巫(フ・みこ・かんなぎ)
  南方熊楠は
 『巫女(いちこ)に関することども』で
  神社に仕える巫女を「かんなぎ」
  歩き巫女の類を「みこ」とする
 (by wikipedia.org/wiki)」
 ↓↑
 「神なぎ(神和ぎ・神薙ぎ・神凪)とも表記」
 ↓↑
 背虫(せむし)・・・施無視・世無私・競無死・・・
 蝉=蟬=せみ・せび=cicada (スケイダ・シカーダ)・・・
   セミ科の昆虫の総称
   「蟬脱」
   うつくしい・つづく・つらなる
   空蟬( うつせみ)・寒蟬(カンセン)・残蟬(ザンセン)
   秋蟬(シュウゼン)・鳴蟬(メイセン)
    蟬のぬけ殻
    空蝉・空蟬・虚蝉・虚蟬=うつしおみ(現人)・うつそみ
   この世の人・生きている人間・現世人
   魂が抜け去った気ぬけな虚脱状態・・・
   巫女の憑依(癲癇)後の状態?
 ↓↑ ↓↑
   「空蝉の身をかへてける木の下に
    なほ
    人がらの
    なつかしきかな・源氏・空蟬」
  ・・・虚蝉
     源氏物語の巻名・第三帖
     伊予介の後妻
     継子である
     紀伊守の邸で
     方違(かたたが)えに来た
     光源氏に身を許すが
     その後は自省し
     源氏の愛を拒み続ける
     夫の死後出家・・・
 ↓↑
 「打蝉(うつせみ)と
  思ひし妹が
  たまかぎる
  ほのかにだにも
  見えなく思へば
  万葉二・二一〇」
 ↓↑
 「宇都世美(ウツセミ)は
  恋を繁みと
  春まけて
  思ひ繁けば
  万葉一九・四一八五」
 ↓↑
 「空蝉のからは
  木ごとにとどむれど
  たまのゆくへを
  みぬぞかなしき
  古今(905‐914)物名・四四八・よみ人しらず」
 ↓↑ ↓↑
 セミ=不完全変態
    卵→幼虫→成虫
 成虫は夏に出現
 春ゼミは春
 朝鮮ケナガニイニイは秋
 鳴く時間帯
 ニイニイゼミは一日中
 クマゼミ
 ミンミンゼミは午前中
 アブラゼミ
 ツクツクボウシは午後
 ヒグラシは朝夕
 ニイニイゼミは
 街灯の明るい所で夜でも鳴く・・・
 セミの尿
 捕えるのに失敗すると
 逃げざまに「尿」をヒッカケル・・・
 セミの尿はほとんどが水
 寿命
 成虫の生存期間
 1~2週間
 研究では
 1か月程度
 幼虫の地下生活期間
 3~17年(アブラゼミは6年)
 幼虫の
 地下生活のうちに
 数回(アブラゼミは4回)の脱皮
 菌類(冬虫夏草)に冒されて死ぬ幼虫もいる
 若い幼虫は全身が白く
 目は退化
 終齢幼虫になると体が褐色になり
 大きな白い複眼ができる・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・せみ=施見・背観・・・?・・・背虫の殻・・・
 「糶実(せみ)⇔糴実(せみ)」・・・?
 糶=出+䊮(から・殻・チョウ、テキ=𥣞=穀物)
   出+米+翟(きじ)=せり
   「穀を出だすなり」、穀を売り出すこと
   売り米=米を貯蔵しておいて
       機を見て売りに出すこと
       その米のことである・・・投機的な米相場のセリ
       競(せ)りのこと(糶り=せり=競)
   糴=入+䊮(テキ)=米を買い入れる
   買い米(よね)で、「糶」と対字
 ↓↑ ↓↑
  翟=羽(はね)+隹
        隹=尾の短い鳥の総称
   タク
   テキ
   雉(きじ)・尾の長い雉
    雉の尾羽・舞楽に用いる
    雉の羽で飾った衣服
    中国の北方の異民族の名
ーーーーー
 ・・・てき・・・キジ・・・記字・紀事・・・
 「雉も鳴かずば撃たれまい」
 無用の発言で自ら災害を招くこと
 「loose lips sink ships」=余計なおしゃべりは災いを呼ぶ
 「no zuo no die」=「作」の中国語の発音「zuo」が英語音訳
 「不作死就不会死」=余計なことをしなければ、酷い目に合わなくて済んだ
 ・・・
 「青山に
  鵺は鳴きぬ
  さ野つ鳥
  雉はとよむ
  庭つ鳥
  鶏は鳴く
  古事記上巻歌謡二」
 ↓↑ ↓↑
 「あおやまに
  ぬえ は なきぬ
  さのつとり
  きじはとよむ
  にわつとり
  にわとりはなく」
 ↓↑ ↓↑
 「阿遠夜麻邇・・・和の厭、拠る真似
  あをやまに
  奴延波那伎奴・・怒の厭、端の義の怒
  ぬえはなきぬ
  佐怒都登理・・・佐渡の宮子の禽
  さぬつとり
  岐藝斯波登與牟・紀の解意の詞の葉、与えム
  きぎしはとよむ
  爾波都登理・・・字葉図採り
  にはつとり
  迦祁波那久・・・書け葉の名の句
  かけはなく
  宇禮多久母・・・得例、他の句を摸す
  うれたくも
  那久那留登理加・奈(奈何)、名の句を留め、採り加える
  なくなるとりか」
 ↓↑ ↓↑
 ・・・?・・・?・・・

 雉子(きじ・きし)と鷲(和詞)、雉子と鷹(多寡)・・・?
       吉士・姓(かばね)、氏の一
       吉志・吉師・企師・吉師・貴志・岸
       渡来人の称号
       姓、氏名となった
       日鷹吉士・難波吉士・調(つき)吉士・三宅吉士
       百済、新羅、唐へ使者として派遣された
       吉志舞=平安時代、大嘗会で
           安倍氏がつかさどって奏した舞
           貞観元年(859)十一月十九日
          「安倍氏吉志舞(三代実録)」
           吉志舞=新羅の服属儀礼を芸能化したモノ

 「桃(百)太郎+犬+猿+雉」・・・・・倭+百済
 (桃を食べたお爺さんお婆さんが若返り桃太郎を出産)
 (犬や鳥、猿が「家来」になったのは明治時代から)
  vs 白村江の海戦(天智二年八月・663 年10月)
 「虎の褌(憤怒史)の鬼(記紀)」・・唐(高宗)+新羅
           おに=わに=あに
           王仁・王爾=新羅・秦羅・和邇・・・?
 大和⇔百済支援と新羅・高句麗遠征(討伐・退治)・・・?
 則天武后(高宗の唐)⇔新羅支援と百済遠征(討伐)・高句麗東征・・・?

 ↓↑
 媚娘→武照(武曌)
 ↓↑
 武周朝「建圀」・諱は「照(曌)」・・・
 ↓↑
 武徳七年 一月二十三日(624年2月17日)
 ~
 神龍元年十一月二十六日(705年12月16日)
 甲申(戊壬庚)比肩・偏官 絶⇔乙巳
 丙寅(戊丙甲)食神・比肩建禄⇔戊子
 甲午(丙己丁)  ・正財 死⇔壬寅
  辰巳
 庚午(丙己丁)偏官・正財 死⇔丙午
 ↓↑
 在位期間 690年10月16日~705年2月22日
 ↓↑
 永徽六年十月二十日(655年11月23日)
 武照を立后
 ↓↑
 垂簾政治
 側近
 狄仁傑・姚崇・宋璟・張説
 姚崇と宋璟は
 後に玄宗の下で朝政を行い
 開元の治
 ↓↑
 顕慶五年(660年)
 新羅の請願で百済討伐、百済を滅ぼした
 倭国・旧百済連合軍
 ↓↑
 663年(龍朔三年・癸亥)
 10月5日(天智天皇二年八月二十八日)
 日本、百済敗戦
 ↓↑
 663年(龍朔三年・癸亥)
 10月13日(天智天皇二年九月七日)
 百済が降伏、人民が日本へ逃亡
 唐が単于都護府を雲中に設置
 劉仁軌率いる唐軍+新羅=白村江の戦い
 ↓↑
 668年(乾封三年、総章元年・戊辰)
 唐、高句麗出兵し滅ぼす
 唐、平壌に安東都護府を設置
 ↓↑
 営州都督
 趙文翽の暴政により
 契丹が反乱し河北へ侵攻
 遼東・遼西は悪化・・・
 ↓↑
 9月 - 新羅使、日本に調を貢進・・・?
 新羅の僧が
 草薙剣(天叢雲剣)を
 国外に持ち出そうとする・・・?
ーーーーー
 ・・・瓜子姫・・・ウリから産まれた瓜子姫・・・天邪鬼の誘拐目的?
   「瓜姫(うりひめ)」
   「瓜子織姫(うりこおりひめ)」
   「瓜姫子(うりひめこ)」
 ・・・姫に成りすまし天邪鬼が輿入れ
 ・・・木に吊るされた姫(殺された姫の骨から化生した小鳥)が
    天邪鬼を告発・・・?・・・海人の横嶋のオニ(あに・わに)・・・

韓国夫人 武順(武則天の姉)・・・韓国の夫人・武に順・・・???

$
0
0
 沙和地(素名和地)、海人(阿每訊)の武の后・・・
 照=曌(明+空)=媚娘=女+眉+女+良
 武曌(明+空)・・・暗(日+音)+空⇔闇夜⇔日食・日蝕
 ↓↑

 則天武后
  ・・・厠顛武行(武孝・武考)?
  厠=厂+貝(目ハ)+刂
   =かわや=はばかり=便所
   =手水(ちょうず)
   =東司(トウス)=西浄(セイチン)
   =トイレット (toilet)
  顛=顚=傎=テン
  顛=真+頁
   十+具+頁
   十+目+一+八+頁
 顚=眞+頁
   七+目+乚+八
 傎=イ+眞
   亻+ヒ+具
   亻+ヒ+目+乚+八
   真・眞
   頁(おおがい・いちのかい
     ケツ・ページ)
   テン
   いただき
   くつがえる
   たおれる
   いただき・頭のてっぺん
   物のてっぺん・山の頂上
   はじめ・はじまり・もと
   くつがえる・ひっくりかえる
   たおれる・たおす・つまずく
   おちる・転がりおちる
   正気を失っている・正常ではない
   顛末・天頂
   武の行・・・十一月初旬
   皇后になった武照は
   厠に監禁されていた・・・?
   王氏(前皇后)
   と
   蕭氏(前淑妃)
   を棍杖で百叩きに処し処刑・・・本当カナ・・・?

 ↓↑
 637年
 太宗の後宮に入り
 才人(二十七世婦の一つ・正五品)
 太宗死後
 女性の道士(坤道)となり
 道教寺院(道観)で修行・・・?
 ↓↑      ↓↑
 かわや づめ=厠詰め
 せっちんづめ=雪隠(厠)詰
        将棋で相手の王将を
        盤の隅に追い込んで詰めること
        逃げ場のない所へ追い詰めること
        雪隠(厠)責め・・・仕置き

ーー↓↑ーー
 おしっこ=古語「しと」
 ↓↑  「ゆばり・ゆまり(湯放)」
     粗相の語源は「麁相」・・・
     失禁=オランダ語
       「lekheid(漏れ)」の訳語
        蘭方医が考案
     おしっこ=pee(ピー)・urine(ユリン)
          wee(ウィ)
          piss(ピス)・Don’t piss me off!
     うんこ =poo(プー)・Shit(シット)
          stool(ストゥール)
          Bowel Movement(バウルムーブメント)
          feces(フィーシーズ)
          excrement(エクスクレメント)
 ↓↑        Bullshit(ブーシッ)
 stool(ストゥール)
 stool(スツール)
 背もたれと肘掛けのない椅子
 通例3~4本の脚が付いている
 ひじ掛け・背のない腰掛け
 踏み台・ひざつき台・足台(footstool)
 《園芸》親木・親株・親株から出る若枝
 狩猟で使うおとりの留まり木
 おとり
 トイレ・腰掛け式便器
 ↓↑
 stool pigeon
 椅子の鳩
 密告者・スパイ・犯罪組織のおとり
 An informer or spy.
 情報提供者、スパイ
 木の根元や切株
 ↓↑
 「首まき」
 comforter
 muffler
 neckerchief
 ↓↑
 襟巻き(えりまき)
 首巻き(くびまき)
 マフラー(muffler)
 首の周囲に巻く
 細長い長方形をした厚手の布で、防寒具
 カシミヤの襟巻き
 襟巻きを巻く人
 スカーフ(scarf)
 ↓↑
 首巻
 muffler
 scarf
 肩掛け
 shawl
 stole
 ストール(stole)=肩掛け
 ↓↑
 スティール (steal,steel,steele)
 steal(盗む)
 ↓↑
 steel
 鋼 (steel)=鉄の合金
 スチール線・スチール呼線
 配管内にケーブルを通す場合に使用する通線工具
 スティール・ギター
 still
 スチル写真 (still)
 写真・静止画・・・
 stall=売店・露店・屋台
 ストール
 stalls・stalling・stalled
 ↓↑
 stall=畜舎の1頭用の仕切り
     家畜小屋・馬屋・牛舎
     競馬のスターティングゲート
     トイレ・シャワーなどの1人用個室
 ↓↑
 stall=時間を稼ぐために決断を遅らせる
     何らかの行動をとるのを先に延ばす
 ↓↑
 stall=売店・露店・屋台
     馬・牛を入れる馬屋のひと仕切

ーー↓↑ーー
 則天武后・・・「悪女」だったのか・・・?
 ↓↑
 帝位を継いだ高宗の
 皇后
 王氏
 と
 蕭淑妃
 が対立
 皇后が
 高宗に
 武照の入宮を推薦
 武照は
 昭儀(九嬪の一つ、正二品)として
 後宮に入宮
 ↓↑
 永徽六年(655年)六月
 高宗は武照を
 昭儀から新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとし
 宰相の
 韓瑗
 と
 来済の反対
 ↓↑
 同年
 永徽六年(655年)
 中書舎人の
 李義府
 などの側近が
 皇后廃立
 と
 武照擁立の意図を揣摩
 許敬宗
 崔義玄
 袁公瑜
 らの大臣が結託し
 高宗に
 武照立后の上奏文を送った
 高宗は
 王皇后を廃し
 武照を皇后に立てることを
 重臣に下問
 ↓↑
 太宗の
 皇后
 長孫氏の兄で
 高宗の伯父
 長孫無忌
 褚遂良
 于志寧
 李勣
 の4人
 下問に
 長孫無忌
 褚遂良
 は反対
 于志寧は賛成も反対も言わず
 李勣が
 皇后の廃立を容認
 ↓↑
 永徽六年(655年)
 10月13日(11月16日)
 高宗は詔書で
 「陰謀下毒」の罪
 により
 王皇后
 蕭淑妃
 2名を庶民に落とし投獄
 親族は官位剥奪し
 嶺南への流罪を宣告
 7日後
 詔書を発布で
 武照を立后
 諫言した
 褚遂良を
 潭州都督へ左遷
 ↓↑
 潭=氵(水)+覃・・・譚=言+覃
   氵+覀+早
   氵+覀+日+十
     襾・西・覀=ア
    (おおいかんむり・にし・かなめかしら)
   タン
   ふち
   水を深くたたえた所
   潭水・深潭・碧潭
   底深いさま
   潭潭
   タン・ジン・シン・イン
   みぎわ・ふち・ふかい
   水辺・岸・ほとり
 ↓↑
 永徽六年(655年)
 十一月初旬
 皇后になった武照は
 監禁されていた
 王氏(前皇后)
 と
 蕭氏(前淑妃)
 を棍杖で百叩きに処し
 処刑

 ↓↑
 トイレ=雪隠=セッチン
     雪=「雨(丅・冂・::)+彐(彑・∃・⺕)」+「隠す」
          丅(カ)=下(した・ゲ)の
               冂(囲いの穴)を
               ::(水)を濯いで隠す
       「雨=あめ・雨水・::(上水で下水に流す)」
       「彐・彑・∃・⺕=いのこがしら・ケイ・ブタの頭
                (彑頭)、いのこがしら(豕頭)
                手を意味する「⺕」・・・鳥の爪の形象
                鷲摑みの「手=指+爪」、「熊手」
                フォーク=fork・ホーク=hawk
                フォーク=folk folk song・
          フォルクス(ドイツ語 Volks)=国民、大衆の
       「雪=白い有紀」を隠す?・・・接沈をカクス?
 ↓↑      ↓↑
 唐の
 雪竇(セッチョウ)禅師が
 霊隠寺の厠をつかさどった故事?
 唐の禅師
 雪峰義存が厠を掃除して大悟した故事?
 ↓↑
 「ちょっと花を摘みに」
 フランス貴族女性の用足し隠語
 ↓↑
 尿瓶(しびん)
 尿を受けるための瓶状の容器
 尿筒(しとづつ)=完筒・環筒(かんづつ)
 ↓↑

 おまる(御虎子)
 「お 」は接頭語
 「まる」は
 大小便をする動詞
 「まる=放る」
 「御虎子」の当字は「糞便」の丸、渦巻き形象・・・
 「おまる」=木製の浅い桶で小判形
 小判を「虎(とら)の子」・・・?
 ↓↑
 小判の流通は
 慶長六年(1601年)
 徳川家康が
 後藤家に命じて鋳造させた
 慶長小判
 万延元年(1860年)
 万延小判まで10種発行
 ↓↑
 天正十六年 (1588年)
 豊臣秀吉が
 後藤徳乗に命じて鋳造させた
 天正大判
 ↓↑
 金=原子番号79の元素
      第11族元素に属する金属元素
   こがね・くがね
 ↓↑ ↓↑
 武川鎮軍閥(ブセンチングンバツ)
 中国南北朝時代の
 西魏
 北周
 隋・唐
 の支配層を形成していた集団
 関隴集団とも・・・
 ↓↑
 武川鎮は「王気」が聚まる所
 (趙翼の著『二十二史箚記』)
 ↓↑
 「関隴集団」
 貴族集団=論証
 (陳寅恪の『唐代政治史述論稿(1944年)』
 ↓↑
 武川鎮
 北魏前期の首都
 「平城」
 を北の
 柔然から防衛役割の6つの鎮の一
 北魏では
 各国境に
 匈奴・鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)
 鎮将を置き、当地の軍政を行わせ、防衛を行っていた
 他の地域の鎮は
 北魏の中央集権化が進むと共に廃止
 六鎮のみはそのまま残され
 鎮民たちは
 選民として特別待遇を受けてた
 ↓↑
 北魏の漢化政策で
 六鎮の地位は下落
 孝文帝により
 洛陽遷都で
 六鎮はほとんど
 流刑地になった
 六鎮の者たちは不満を抱き
 六鎮の乱を起こし
 北魏全体を混乱させた
 ↓↑
 乱は
 爾朱栄
 が収めたが
 北魏の混乱は
 軍閥割拠状態となった・・・
 ↓↑
 戦乱を勝ち抜いたのが
 六鎮の一
 懐朔鎮出身
 高歓
 武川鎮出身
 宇文泰
 それぞれ皇帝を擁立し
 北魏は
 高 歓の東魏
 宇文泰の西魏(陝西省・甘粛省)
 に分裂
 武川鎮軍閥=関隴集団(関隴貴族集団)とも
 関=関中(陝西省)
 隴=隴西(甘粛省南東部)
 ↓↑
 宇文泰は
 東魏に対抗するために
 府兵制を創始
 軍を
 十二大将軍・八柱国
 をその指揮官とした
 大将軍・柱国には
 武川鎮出身者を就け
 西魏
 北周
 の支配者集団となった
 北周末期より貴族化が進み
 軍閥と呼ぶのはふさわしくないので、
 関隴集団と呼ぶ・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
ーー↓↑ーー
 武氏の出身・・・天武天皇の縁戚・・・?
 ↓↑
 父の
 武士彠(ぶしかく)・・・武士のハカリ?
    ・・・彠=尋+蒦(艹+隻)
           蒦=艹+隻
             艹+隹+又
    カク
    はかる・指で長さを測る
    手でとらえる・手に持つ
       彠=クワク・ワク・カク・キャク・ヤク
        はかる・ものさし・のり    
 は
 山西省の
 商人(材木商)で
 隋の煬帝
 唐の高祖
 に仕えた役人
 ↓↑ ↓↑
 武士彠(ブシャク)
 ↓↑
 577年~635年
 字は
 信明
 本貫・・・本を貫く
 は
 并州・・・并(併立・併合)の州
 文水県・・文の水を懸ける
 財産家の
 武華の子・・・武の華の子?
 ↓↑
 隋末に鷹揚府隊正
 唐公
 李淵が
 太原留守となると
 士彠は行軍司鎧参軍
 劉弘基
 長孫順徳
 が
 李淵の命を受けて兵を集め
 副留守の
 王威・・・・王の威(おどす・たけし・威嚇)
         威=戊+一+女・・・権威
 高君雅・・・高の君の雅(からす)・・・加羅州
 らが
 その意図を疑ったが
 士彠は
 「唐公の客である」と誤魔化した
 司兵参軍の
 田徳平・・・田の徳(悳)の平(たいら)
 が募兵の状況を
 王威に訴えようとすると
 士彠は
 田徳平を脅して
 報告を止めさせた
 ↓↑
 李淵が起兵
 士彠は大将軍府鎧曹参軍
 長安の平定に参加した功績により
 光禄大夫となり
 太原郡公・・・太の原の郡の公
 に封ぜられた
 ↓↑
 士彠は
 工部尚書に累進
 応国公に封ぜられ
 利州都督
 荊州都督を歴任
 635年死去
 礼部尚書の位を贈
 諡は「定」・・・さだむ・・・サダム・フセイン?
 ↓↑
 永徽年間
 士彠の次女の
 武照が皇后に上ると
 并州都督・司徒の位を追贈
 周国公に追封
 ↓↑
 咸亨年間
 太尉・太子太師
 の位を加えられ
 太原郡王に追封
 ↓↑
 武照が朝政をみるようになると
 士彠は
 忠孝太皇と追尊
 崇先府が建てられて、属官が置かれ
 五代にさかのぼって
 王位を追贈
 ↓↑
 武周が建てられると
 東都に
 武氏七廟が建てられ
 帝に追冊
 ↓↑
 先天年間・・・睿宗-李旦の治世の元号
        712年~713年・・・古事記(712年)
 士彠の
 帝号が削られ
 太原王とされ
 武氏七廟も廃止された
 ↓↑
 士彠は
 相里氏・・・ 相の里
 を妻とし
 武元慶
 武元爽
 の二男をもうけた
 ↓↑
 後
 楊氏(栄国夫人、楊達の娘)
 を後妻とし
 三女をもうけた
 長女は
 賀蘭越石・・・加賀・和蘭(阿蘭陀)
        越前・越中・越後・石川・・・?
 の夫人となり
 韓国夫人・・・「韓国」の夫人・・・?
 に封ぜられた
 次女の
 武照は
 高宗の皇后、帝位に上った
 三女は
 郭孝慎の夫人・・・「郭務悰」の縁戚・・・?
 ↓↑
 兄に
 武士棱
 武士譲
 武士逸
 がおり
 兄の
 武士譲の子として
 武懐亮(惟良)
 武懐道
 武懐運(弘度)
 ら
 ↓↑ ↓↑
 則天武后
 14歳
 太宗の後宮に入り
 武照・・・「武を照らす持統(字問う)天皇」
 と称す
 ↓↑
 太宗の死後
 尼になったが
 還俗し
 太宗の息子の
 高宗の後宮に入った
 ↓↑
 高宗の皇后となり
 後
 高宗が病弱で・・・???
 「垂簾の政」を執政
 ↓↑
 高宗と
 皇后
 武氏(則天武后)は
 竜門に
 毘盧舎那仏
 の
 大仏造営を発願
 武后は自らの
 脂粉銭(お化粧代)
 二万貫を寄付
 大仏の顔は
 武后に似せて造られた
 ↓↑
 則天武后
 唐の高宗の皇后
 664年に実権を握る・・・
 ↓↑
 唐書・麟徳暦(儀鳳暦)
 665年・・・日蝕
 為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕
 志彙編七 p.2024
ーー↓↑ーー↓↑
 正始八年春二月朔
 西暦247年3月24日の日食
 ・・・???・・・
 天文律暦志にのる日食限の記述の変遷
 ↓↑
 宋書・景初暦
 237年
 入交限数以上者、朔則交會、望則月蝕。
 志彙編六 p.1696
 ↓↑
 隋書・皇極暦
 未施行(604年)
 交限以上者月食、月在[裏]者日食
 志彙編六 p.1957
 ↓↑
 唐書・戊寅元暦
 619年
 交限巳上、望則月食、其朔在内道者、朔則日蝕
 志彙編七 p.1986
 ↓↑
 唐書・麟徳暦(儀鳳暦)
 665年
 為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕
 志彙編七 p.2024
 ↓↑
 唐書・大衍暦
 728年
 望入蝕限、則月食、朔入蝕限、月在陰暦則日蝕
 志彙編七 p.2024
 (古代日食計算における陽暦法の発見)
 by http://www.wagoyomi.info/youreki.html
ーー↓↑ーー↓↑
 夏の第4代
 仲康の時代
 天文官の
 羲氏・・・・・魏志?
 と
 和氏・・・・・倭史・和史?
 が酒色に溺れ
 天文観測をさぼり
 日蝕の予報を出さず
 暦を乱し死罪になった
ーー↓↑ーー↓↑
 53年、158年、247年年、248年
 の4回の皆既日食
ーー↓↑ーー↓↑
 郭 守敬(かく しゅけい)・・・郭・・・郭務悰
 1231年~1316年
 元朝に仕えた
 天文学者、暦学者、水利事業家
 字は若思
 邢台(河北省)出身
 中国暦法の
 「授時暦」を作成
 ↓↑ ↓↑
 ・・・663年は
   「白村江海戦」勝利
 ↓↑ ↓↑
    劉仁軌=(リュウジンキ)
    602年~685年3月2日
    字は正則・楽城文献公・汴州尉氏県の人
    武徳年間
    息州参軍、陳倉尉
    折衝都尉の
    魯寧なる者が横暴で、これを鞭打って殺害
    太宗に詰問されると
   「私が辱められたために殺しました」
    と答え太宗に気に入られ
    咸陽の丞に任ぜられた
    給事中にまで昇るが
    権臣の
    李義府に憎まれ
    青州刺史に左遷
    顕慶五年(660年)
    遼東征伐で
    漕運に失敗した罪を着せられ
    59歳にして一兵卒に落とされ
    蘇定方率いる唐軍が
    百済の都泗沘城を攻め
    配下の
    劉仁願が
    義慈王を捕らえ、百済を滅亡させる
    翌、龍朔元(661年)
    百済の遺臣
    鬼室福信・・・鬼の室の福の信
    らが
    泗沘城の奪還を試み
    劉仁願
    を包囲
    劉仁軌
    は自ら志願し
    検校帯方州刺史を拝して援軍に赴く
    龍朔三年(663年)9月
    百済残党を支援する
    倭の水軍を
    白村江で迎撃
    400余隻の軍船を焼き払って大勝
    百済故地の諸城を平定
    屯田を営み庶民を安心させた
 ↓↑ ↓↑
    麟徳二年(665年)
    高宗が泰山で封禅
    新羅・百済・耽羅・倭
    四国の首領を率いて参加
    大司憲を拝し
    右相兼検校太子左中護に進み
    楽城県男に封ぜられた
    総章元年(668年)
    熊津道
    安撫大使
    兼
    浿江道総管
    李勣に従って
    高句麗平定
    金紫光禄大夫を拝し
    太子左庶子同中書門下三品に進んだ
    咸亨五年(674年・上元元年)
    鶏林道大総管に任ぜられ
    新羅の
    文武王
    を討って(唐・新羅戦争)大勝
    翌年
    左僕射となって朝政に参画
    嗣聖二年一月二十二日(685年3月2日)
    文昌左相同鳳閣鸞台三品
    として在職中に死亡・享年84
    死後
    開府儀同三司并州大都督を贈られ
    高宗の陵墓である
    乾陵に陪葬
    子息
    劉滔
    劉濬
 ↓↑ ↓↑
    劉仁願・・・理由の訊を願う・・・?
 ↓↑ ↓↑
    劉仁願=字は士元・彫陰大斌の人
   「蘇定方」・・・ヨミガエル定の方
               (情報・定法)
    の部下
    百済平定に従軍
    660年(顕慶五年・斉明天皇六年)9月3日
    蘇定方より唐兵1万を預けられ
    武烈王(金春秋)
    の子の
    金仁泰
    の率いる
    新羅兵七千とともに
    百済の
    泗沘城に留鎮
    9月23日
    百済残存兵の急襲に遭い
    外柵まで侵入されたが
    内柵は防衛
    新羅の
    武烈王(金春秋)
    が出陣し
    泗沘南方の柵城を攻撃し
    劉仁願
    らを救援
 ↓↑ ↓↑
    百済残存勢力に悩まされ
    唐本国より派遣された
    帯方刺史
    劉仁軌
    の援軍に助けられた
    この間
    李義府(614年~666年)=李猫?
        瀛州饒陽県の人
        兼修国史・弘文館学士
    に
    劉仁軌
    を殺害するよう打診され
    劉仁願はこれを拒絶・・・???
 ↓↑ ↓↑
    ・・・?
   「李義府」は
    武后と確執
    武后派の
    李勣
    らと対立
    高宗を担ぎ出し
    保身を図ったが
    663年
    唐政を著しく失墜させたと糾弾
    崔州・・・崔=山+隹
           サイ・スイ
           たかい
           まじわる・まじりあう
           いりみだれる
    に配流
    666年死亡・享年53
   「笑いに刀を隠す」
    義府の人柄と行いを言い表したもの
    上辺は柔らかいのに物を害するので
   「李猫」とも・・・
 ↓↑ ↓↑
    663年(龍朔三年、天智天皇二年)9月
    白村江の戦いで
    劉仁軌と別行動
    孫仁師
    新羅の
    文武王とともに陸軍を率いて
    百済州
    柔城を陥落させた
    後
    劉仁軌は
    百済を鎮守したが
    劉仁願は帰国し
    高宗に劉仁軌の功績を報告
    上官儀によって
    劉仁軌
    と共に君子と賞賛
 ↓↑ ↓↑
    後
    劉仁願は
    百済鎮将とし
    熊津都督府に再度来鎮
    664年(麟徳元年)2月
    百済の元太子
    隆・・・
    と
    新羅の王弟
    金仁問・・・金の尋問?
    との
    和親誓盟に立ち会った
    同年(天智天皇三年)5月
    郭務悰・・・
    らを派遣
    667年(乾封二年、天智天皇六年)
    熊津都督府
    熊山(ユウセン)県令
    上柱国
    司馬法聡を派遣し
    坂合部磐積
    らを
    筑紫の大宰府に送還・・・
 ↓↑ ↓↑
   『新唐書』高麗伝
   『資治通鑑』(唐紀17)の
    668年(総章元年)8月条
    卑列道(江原道安辺郡安辺)摠官
    右威衛将軍
    劉仁願は
    李勣による
    高句麗征討戦で
    兵を逗留させたため
    唐に召し返され
    姚州(雲南省)に流罪にされた・・・
 ↓↑ ↓↑
   『三国史記』「新羅本紀(文武王8年条)」
    平壌戦の年(668年)の6月22日
    劉仁願が
    高句麗の
    漢城ほか2郡12城を落とした旨を
    知らせる使者を
    新羅王に派遣し
    王は返礼の使者を立てて祝賀
    「白村江の戦い」まで
    唐兵1万に新羅は衣食を供給し
    劉仁願にはその恩義に報いた
   「新羅本紀」
    文武王十一年条
    新羅王は
    薛仁貴
    への返書の中で
    劉仁願以下兵士に至るまで
    骨皮は漢地(唐)のものだとしても
    血肉は新羅のものであると記す・・・
    その後の
    劉仁願の消息は不明
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 690年に国号を周に改める
 武周
 鳳凰や赤雀などの瑞祥で
 国号を
 「唐」から「周」に改め
 聖神皇帝と称し
 武氏一族を王とした
 ↓↑
 705年死亡
 国号は唐に復された
 ↓↑
 中宗の時
 皇后
 韋后
 が政治を乱し
 則天武后と併せて
 「武韋の禍」
 ↓↑
 高宗の死後
 実子の
 中宗
 睿宗
 を相次いで廃帝
 ↓↑
 690年
 武照は
 皇帝に即位
 聖神皇帝と称し
 国号を周(武周)に改め
 都を
 洛陽として神都と改称
 中国史上、唯一の女帝
 (在位690~705年)
     ・・・705年・乙巳
 ↓↑   ↓↑  ↓↑   ↓↑
     安禄山誕生、大燕国皇帝(~757年)
     不空金剛誕生、密教開祖(~ 774年)
     2月
     張柬之
     らのクーデター
     中宗が復位、唐朝が復活
     日本
     遣新羅使帰還・・・新羅・・・倭国の敵?
    (大使=幡文通)・・・幡の文の通?
     新羅貢調使来朝・・新羅・・・倭国の敵?
    (大使=金儒吉
     副使=金今古)・・・金の今と古?
 ↓↑   ↓↑
     12月16日(神龍元年11月26日)
     武則天(則天武后)死去
 ↓↑   ↓↑
ーーーーー
 正始八年春二月朔
 西暦247年3月24日の日食・・・卑弥呼⇔天照大神の岩戸隠れ
 ・・・???・・・
 天文律暦志に載る日食限の記述の変遷
 ↓↑
 宋書・景初暦
 237年
 入交限数以上者、朔則交會、望則月蝕。
 志彙編六 p.1696
 ↓↑
 隋書・皇極暦
 未施行(604年)
 交限以上者月食、月在[裏]者日食
 志彙編六 p.1957
 ↓↑
 唐書・戊寅元暦
 619年
 交限巳上、望則月食、其朔在内道者、朔則日蝕
 志彙編七 p.1986
 ↓↑
 唐書・麟徳暦(儀鳳暦)
 665年・・・六百六拾五=陸百陸足後?
 為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕
 志彙編七 p.2024
 ↓↑
 唐書・大衍暦
 728年
 望入蝕限、則月食、朔入蝕限、月在陰暦則日蝕
 志彙編七 p.2024
 (古代日食計算における陽暦法の発見)
 by http://www.wagoyomi.info/youreki.html
ーー↓↑ーー↓↑
 夏の第4代
 仲康の時代
 天文官の
 羲氏・・・魏史・・・委(禾女)ねる鬼(おに)の史
 と
 和氏・・・倭史・・・イの禾の女の歴史・・・イは委任された史
 が酒色に溺れ
 天文観測をさぼり
 日蝕の予報を出さず
 暦を乱し死罪になった
 ↓↑
 53年
 158年
 247年3月24日の日食・・・卑弥呼⇔天照大神の岩戸隠れ?
 248年
 の4回の皆既日食
 ↓↑   ↓↑
 武周革命・・・武を周(まわす・まわり)
 漢字を創作
 仏教を崇敬
 官寺を
 大雲寺として保護
 龍門石窟寺院の建造
 ↓↑
 畜類の殺生
 魚の捕獲を禁止
 ↓↑
 「武韋の禍」
 705年以後
 中宗の皇后の
 韋后(イコウ)が
 武后にならって実権を握ろうとし
 710年に
 娘の
 安楽公主と謀って
 中宗を毒殺
 「武后と韋后」の実権を握って
 政治が混乱
 ↓↑
 712年・・・干支=壬子
        和銅五年
        712年3月9日(和銅五年一月二十八日)
        古事記が元明天皇に献上
        唐
        景雲三年、太極元年、延和元年、先天元年・・・?
 中宗の兄の
 睿宗(武后に廃位)の子の
 隆基(玄宗)が
 韋后と安楽公主らを殺害し
 父の
 睿宗を復位させ
 隆基(玄宗)は
 父から譲位されて
 皇帝となった
ーー↓↑ ↓↑ーー
 高宗
 唐の第3代皇帝(在位649~683)
 太宗の第9子
 母は
 鮮卑の
 拓跋氏
 長孫無忌の
 妹の
 長孫皇后=文徳皇后
 ↓↑
 本名は李治
 字は為善
 ↓↑
 第2代
 太宗の第9子
 長兄
 承乾太子が廃され
 外戚
 長孫無忌の後援で
 太子となり
 22歳で即位
 ↓↑
 則天武后を
 新たな皇后とし
 則天武后の一派が以後は要職に就き
 褚遂良は左遷
 長孫無忌を失脚、自殺させた・・・
 ↓↑
 永徽律令
 律疏
 の撰定
 『五経正義』の頒行など
 法律制度の仕上げをなし
 泰山に封禅を行い
 高句麗征服を実現
 ↓↑
 33歳
 「風疾」or「風眩」・・・
 を発病
 以後
 政務一切を
 武后(則天武后)の処断にゆだねた
 ↓↑
 西突厥を大破し滅亡させ
 アラル海にいたる西域を支配下
 新羅と結んで
 高句麗・百済
 を滅ぼす・・・
 ↓↑
 664年
 則天武后の専制に不満を抱き
 高宗は
 彼女が道士を宮中に入れて
 呪いをしていることを理由に廃そうとしたが
 則天武后に計画が漏れ
 高宗に協力していた
 上官儀が処刑
 以後
 高宗は
 国政を
 則天武后により決裁されるようになった
 高宗と則天武后を並べて
 「二聖」と呼ぶ
 674年
 則天武后の発意で
 高宗を「天帝(天皇)」
 則天武后を「天后」
 と呼ぶように改められた
 ↓↑
 高宗の後継者
 最初の皇太子
 李忠は廃され
 次の
 李弘は謎の急死
 次の
 李賢は則天武后に廃され
 高宗崩御の翌年に自殺させられた
 この際
 李賢を何とか許そうと
 高宗は動いたが
 則天武后の意により
 李顕が皇太子になった
 ↓↑
 晩年の高宗は病気が進行
 683年崩御・享年56
 跡を
 李顕が中宗として継いだ
 ↓↑
 663年
 「白村江の戦い」で
 日本・百済連合軍に勝利
 668年
 高句麗を滅ぼす
 新羅を除く
 朝鮮半島を支配下に置いた
 676年
 朝鮮半島から撤退
 ↓↑
 宗室
 ↓↑
 后妃
 王皇后
 則天武后
 蕭淑妃
 徐婕妤(唐太宗賢妃徐恵の妹)
 劉宮人
 鄭宮人
 楊宮人
 ↓↑
 韓国夫人 武順(武則天の姉)
   ・・・韓国の夫人・武に順・・・???
 ↓↑
 魏国夫人 賀蘭氏(武順の娘)
   ・・・魏(委+鬼)の夫人
          武に順の女・・・???
         女=むすめ・おんな=音名
 ↓↑
 男子
 燕王 李忠
 原悼王 李孝
 沢王 李上金
 許王 李素節
 代王 李弘(義宗孝敬皇帝)
 潞王 李賢(章懐太子)
 中宗 李顕
 睿宗 李旦
 ↓↑
 女子
 義陽公主
 高安公主
 安定公主
 太平公主
ーーーーー
 ・・・???・・・

「ダメのルール」or 「国家間の守秘義務」・・・?

$
0
0
 ・・・ゴカイ・カンチガイ・オモイコミ・・・恣意的・・・
 往生する「人間」に善人、悪人は存在せず
 生きている「動物・植物」にも善悪で
 生活、生存しているモノはない・・・
 ・・・好き嫌いで存在している・・・???
 人間社会にのみ「善悪」が
 「ダメのルール」として存在するらしい・・・?
  ↓↑
 日韓秘密軍事情報保護協定(GSOMIA・ジーソミア)
 日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA・ジーソミア)
 General Security of Military Information Agreement, =GSOMIA
 General Security Of Military Information Agreement
 軍事情報包括保護協定
 国家間の守秘義務・・・?・・・守られたレキシはナイ・・・?
 「原則は自分にはあてはめない」・・・「原則は他人のモノ」・・・
ーーーーー
 ???・・・「ジーソミア」・・・
 ・・・「爺・示威・自慰・次位・辞意」・・・「素見合・曽観蛙」?
 ・・・「事彙・辞彙・字彙」・・・「ソミア」・・・?
  ↓↑
 G・SO・MI・A
 ・・・「音階」・・・?
 五声   宮    商   角   徴         羽 変宮
 七声   宮    商   角       変徴  徴 羽 変宮
 西洋音階 ド    レ   ミ   ファ  ファ♯  ソ ラ シ

 中国式表記   C   D    E    F   G   A  B
 十二律   黄鐘   太簇  姑洗  仲呂  林鐘 南呂  応鐘
  ↓↑    ↓↑
       黄鐘(コウショウ)
       太簇(タイソウ)
       姑洗(コセン)
       仲呂(チュウリョ)
       林鐘(リンショウ)
       南呂(ナンリョ)
       応鐘(オウショウ)
  ↓↑
 英米式表記 C (スィー)D (ディー)E (イー)F (エフ)G (ジー)A (エイ)B (ビー)
 ↓↑
 ドイツ式表記 C(ツェー) D(デー) E(エー) F (エフ)G(ゲー) A(アー) H(ハー)
        Cis    Dis  Eis   Fis   Gis  Ais   His
        Ces    Des   Es    Fes  Ges    As   B
  ↓↑
 イタリア式表記 Do(ド)  Re(レ) Mi(ミ)  Fa(ファ)Sol(ソ) La(ラ) Si(シ)
  ↓↑
 フランス式表記 Ut (Do) Re   M   Fa  Sol   La   Si
  ↓↑
 スペイン式表記 Do   Re   Mi  Fa   Sol   La   Si
  ↓↑ ↓↑

異体字「傮・㯥・曺・𣌼・𣊛・𣍘・漕・𠑤・𤅍」・・・ α+曹・・・?

$
0
0
 2019年8月28日・・・キネンビ
 己亥・壬申・丁酉・・・土の猪・水の猨・火の鶏・・・?
 ↓↑
 フネをコグひと・・・漕ぐ?・・・
 ・・・嘘を扱(こ)く・・・嘘を放(こ)く・・・四五句ヒト・・・
 ・・・ヲトコとオンナの間にはフカくてクロいカワがある・・・?
 ↓↑
 ダウ船(dhow)・・・妥甕?・・・雫雨?
 14世紀半ば以後
 三角帆・四角帆・中国船
 アラビア海やインド洋西海域で
 大型船一般を
 「ダウ・ザウ・ザウゥ」と呼んだ
 16~17世紀以後ヨーロッパに伝わり
 インド洋近海での
 アラブ型三角帆の
 木造帆船と一般化した

 ↓↑
 ドーニー(ディベヒ語Dhoni)
 モルディブで使用されている
 大三角帆やエンジンを持つ多目的帆船
 ↓↑
 ガレー船・・・臥例?
 ↓↑
 クナール(knaar・knarr・knorr・knorr)・・・句名蛙留?
 9世紀のヴァイキング船・・・売金具?・・・葉意、禁句?

 ゴクスタ船(Gokstad ship)・・・語句素多?
 ゴクスタ農地の古墳で発見された9世紀後期のヴァイキング船
 ↓↑
 ガレー船(galley・ポルトガル語gale)
 人力で櫂(かい・オール)を漕いで進む軍艦
 古代に出現
 地中海やバルト海で
 19世紀初頭まで使用
 ↓↑
 コグ船(cogs、cog-built vessels)?
 ↓↑

 ↓↑
 次期法務部長官内定・・・?
 文在寅の側近
 チョグク(曺国・54歳)
 不正・疑惑
 ↓↑
 曺=曹=一+曲+日・・・始のヨコシマのイワク?
  =  𤰔+日
  =  亩+日
  =同義字「司・吏」
  異体字「傮・㯥・曺・𣌼・𣊛・𣍘・漕・𠑤・𤅍」
     α+曹
      漕(こ)ぐ=こぐ=扱ぐ
      船艚(倉)
      地層
      槽(おけ・桶・棺桶・肥桶・風呂桶)
      贈(おく・贈答)る
 ↓↑   ↓↑
      遭遇=遭遇する・偶々遭う
      encounter(問題・不運・危険・反対などに)
      encounter(敵に)
 ↓↑   ↓↑
      曹禺=本名は萬家宝
         清華大学でギリシア悲劇を専攻
        (1910年9月24日~1996年12月13日)
         中国の劇作家
 ↓↑   ↓↑
      槽=集めたものを入れる容器
      糟(かす)=穀物を集め
            醸して酒の元にする
            酵母
      艚=集めたものを運ぶ舟
       「䑩艚=古代の軍船」
 ↓↑  ↓↑
  一層・二層
  尼僧・僧侶・・・曹洞宗
  壱艘・一艚
  曽我(蘇我)
  曾禰・曽根
  味噌・會津
 ↓↑  ↓↑
  曹洞宗
  中国の禅宗
  五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の一
  日本の禅宗
 (曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の一
  本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)
 ↓↑  ↓↑
 曺=一+日+丨+日
   異体字「𣍘=東+東+日」
   曰(いわく・ひらび)
   ソウ・ゾウ
   つかさ
   ともがら
   つかさ・役人・役所
   ともがら・やから・なかま
   へや・役所の部局

 ↓↑  ↓↑
 曺国(チョ・グク・1965年4月6日~)  2019
 乙巳(戊庚丙)正財・偏印 長生⇔大運⇔己亥
 庚辰(乙癸戊)比肩・正財  養⇔甲戌⇔壬申
 庚寅(戊丙甲)  ・偏印  絶⇔  ⇔丁酉
  午未空亡午未
 壬午(丙己丁)食神・偏官 沐浴⇔
 ↓↑  ↓↑
 甲戌・・・大運冲戊
 己亥・・・年冲戊
 壬申・・・日冲戊
 丁酉・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・記念日・・・


痩せ我慢・・・アイは蜃気楼、真夏の逃げ水、走水・・・

$
0
0
 ・・・「バラの名前」は荊(茨・棘)記・・・井原西鶴?
 幼い頃、おふくろが
 「無け無し(なけなし)」の
 お金で買ってくれた
 「三輪車」・・・
 ・・・「三輪」って「みわ・みえ?」
          ・・・「み」+「あ・い・う・え・お」
    「サンわ」、「みつわ」
    「サンジュウ」ともヨムけれど・・・?
 以下、ブログ検索(wikipedia.org/wiki/大和三山・etc)で調べたモノの添付と
 ボクの「・・・?」・・・
 ↓↑
 大和三山(やまとさんざん)
 奈良県(旧・大和国)の奈良盆地南部、飛鳥周辺(橿原市)に
 そびえる三体の山々の総称・・・
 天香久山(あまのかぐやま・あめのかぐやま)
 畝傍山(うねびやま)
 耳成山(みみなしやま)・・・耳(みみ・ジ・ニ)
     ・・・耳梨・耳無・耳為・耳生・・・
     耳=~のみ・~だけ
       たったソレ-ノミ
       たったソレ-ダケ
       限定や強調を表す助字
       配分の過小、分量の過少・寡少な勢力
       ・・・歌唱の力・仮称としてコトバ・河床=川底
 ↓↑
 『古事記・日本書紀』で
 御諸山(みもろやま)、 美和山、三諸岳(みもろだけ)
 ↓↑
 1871年(明治四年)
 神社が奈良県にあてた
 口上書に
 「神ノ山とは三輪山を指す」
 という記述があり
 大神神社の・・・大神(オオミワ)
 神体山として
 三輪山が正式に記録された最初の記録
 ↓↑
  天香久山(あまのかぐやま・あめのかぐやま)
  畝傍山(うねびやま)
  耳成山(みみなしやま)
 ↓↑
 「香具山は
  畝火(うねび)ををしと
  耳成(みみなし)と
  相あらそひき
  神代より
  かくにあるらし
  古昔(いにしへ)も
  然(しか)にあれこそ
  うつせみも
  嬬(つま)を
  あらそふらしき」
 (中大兄皇子、巻1-13)
 中大兄皇子・・・中(駐・注・註・宙・なか=名化)
         大兄(大径・台形・大計・多掲・替系・他意系)
 と    >額田王・・・三角関係?
 大海人皇子・・・大(おほし・ダイ・タイ)
         海人(海女・天・雨・海部・阿毎・阿倍・阿部)
 という説・・・
 ↓↑
 鉄道唱歌(全5集・334番)・37番・・・鉄=金+失(𠂉一人)
 「桜井
  いでて
  わが汽車は
  畝傍(うねび)
  耳無(みみなし)
  香山(かぐやま)の
  鼎(かなえ)に
  似たる
  三山(みつやま)を
  前後に見つゝ
  今ぞ、ゆく」
 桜井線(万葉まほろば線)の
 車窓から見える大和三山の歌
 ↓↑
 大阪の出版社
 「昇文館」を主宰する
 市田元蔵・・・市(いち・シ)
        田(た・だ・デン)
        元(はじめ・もと・ゲン)
        蔵(くら・ゾウ)
 が企画
 大和田建樹
 に作詞
 多梅稚
 と
 上眞行(うえ・さねみち)
 に作曲
 を依頼し
 「鉄道唱歌」が誕生
 「昇文館」経営状態悪化
 1900年(庚子
 ↓↑   明治三十三年・・・参拾参
     皇紀2560年
     清王朝
     光緒二十五年十二月一日・・・弐拾伍
     ~
     光緒二十六年十一月十日・・・弐拾陸
     朝鮮
     大韓帝国
 ↓↑   光武四年・・・光の武の肆のトシ・ネン)
 5月10日
 第1集東海道篇を発売したが
 印刷部数は
 3,000部で
 ほとんど売れなく
 「昇文館」は倒産・・・
 「鉄道唱歌」の版権を
 大阪の
 楽器店(三木楽器)の
 三木佐助
 が買収
 江戸時代
 「往来物」と呼ばれる
 「宿場町」を覚える歌
 鉄道開業後に
 「レールエ節」
 と呼ばれる鉄道沿線を紹介する歌が存在し
 鉄道路線網の沿線を歌った
 書籍の販売・・・
 第1集東海道篇
 1900年
 『地理教育 鉄道唱歌 第一集』
 の
 タイトルで
 三木が再出版
 楽団を乗せた列車を走らせ
 広告戦略効果で大流行
 年末までに第5集までが発表
 詞はいずれも
 大和田建樹・・・大和(やまと)の
         田(た・だ・デン)の
         建(たける・たてる・ケン)の
         樹(き・ジュ)・・・?
 により
 曲は・・・曲(よこしま・まがり・キョク)
 第1集・第2集が
 多梅稚・・・多(おほの・たい・タタ)
       梅(うめ・十八𠂉毋)
       稚(おさない・いといけない・チ)
 上眞行・・・上(うえ・かみ・ジョウ)
       眞(ま・まこと・シン)
       行(いく・ギョウ・コウ)
    ・・・行灯(アンドン・行燈)
 第3集が
 多梅稚
 田村虎蔵・・・田(た・だ・かる・デン)
        村(むら・十八寸)
        虎(とら・コ)
        蔵(くら・ゾウ)
 (奥好義・・・奥(おく・オウ)
        好(すき・コウ・女子)
        義(よし・ギ)
  が
  作曲締め切りに間に合わず
  多梅稚の曲で穴埋め)
 第4集が
 納所辨次郎・・・納(おさめる・糸内)
         所(ところ・戸斤)
         辨(わきまえる・わける
           辛刂辛・弁)
         次(つぎ・冫欠)
         郎(やっこ・良阝・白𧘇阝)
 吉田信太・・・吉(よし・キツ・キチ)
        田(た・だ・かる・デン)
        信(まこと・シン)
        太(おほの・おおい・タイ)
 第5集は
 多梅稚が
 2種といった
 各曲に
 2つずつつけられ
 「鉄道唱歌」書籍の形式で販売
 第1集~第3集
 第5集の曲の1つであった
 多梅稚の曲が
 抒情的な上眞行の曲よりも
 「ヨナ抜き音階」・・・日本固有の・音階(五音音階)
 「四七抜き音階」とも表記
      主音(ド)から
      四つ目のファと
      七つ目のシがない
     (ドレミソラ)
      ヨナ抜き長音階 C, D, E, G, A, C
    呂音階、Cメジャーペンタトニックと同じ
      ヨナ抜き短音階 A, B, C, E, F, A
    陰音階の主音をAに変更
      民謡・童謡は
      ラ(陽音階)かレ(律音階)で終わる曲が多い
 の
 ピョンコ節でメロディーが覚えやすく
 テンポも旅情がそそられ
 広く歌われるようになって
 他の方の曲は
 ほとんど歌われなくなってしまった
 多梅稚
 の作曲に依らない第4集も
 この曲で歌われた
 テンポ良く聞こえるのは
 歌詞が
 7音、5音、7音、5音、7音、5音、7音、5音
 となっているが要因の一つ・・・
 ↓↑
 異説
 最初から三木の企画の説
 無名の一青年の詞を買い取り
 大和田が補筆したとの説・・・
 ↓↑
 「鉄道唱歌」書籍は
 大正初期までの20年間に
 総計2000万部を売った・・・
 ↓↑
 タイトルに「地理教育」と付けられ
 音楽教育の一環として
 歌による知識の習得という方針があり
 本歌の発表直後から
 全国各地で郷土版が多く製作され
 膨大な詞の中に沿線の
 地理や歴史
 民話や伝説
 名産品
 の紹介を織り込んで
 人気となった・・・
 ↓↑
 大和田建樹の直筆書は
 埼玉県さいたま市の
 鉄道博物館に所蔵・・・
 ↓↑
 三輪山
 663年
 「白村江の戦い」敗北
 近江(おうみ⇔合う見・会う見・相見・淡海)
 「大津宮」遷都するとき
 額田王が詠んだ歌が有名・・・歌の本意は?
 額田王 下近江國時 作歌
 ↓↑
 味酒(ウマサケ)
 三輪の山
 あをによし・・・青=あお=白・・・白馬=青馬・・・?
 ↓↑       青馬=白馬・・・白=新羅
           「白馬 (あおうま) の節会」の略
         濃い青みを帯びた黒馬・青毛の馬
         淡青色や淡灰色の馬・あおごま
        「水鳥の鴨の
         羽色の
         白馬を・・・新羅(斯盧)の馬
         今日見る人は
         限りなしといふ」
        〈万・四四九四〉
         年初の節会(せちえ)の「引き馬」とする「白馬」
 ↓↑              または「葦毛(あしげ)の馬」
 奈良の山の
 山の際(マ)に
 い隠るまで 道の隈(クマ)・・・隈本=くまもと=熊本・肥国
 い積もるまでに
 「つばら」・・・委曲=詳(つばら)・」詳しい・十分だ・存分だ
 にも
 見つつ行かむを
 しばしばも
 見放けむ山を
 心なく
 雲の 隠さふべしや
 ↓↑
 反歌
 「三輪山を
  しかも隠すか
  雲だにも
  こころあらなむ
  隠さふべしや」
 (万葉集巻1‐18)
 ↓↑
 右二首歌
 山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく
 都を近江國に遷す時に
 三輪山を御覧(ミソナハ)す御歌なり、といふ
 ↓↑
 日本書紀に曰はく
 六年
 丙寅の春の
 三月辛酉の朔(ツキタチ)の
 己卯に
 都を近江に遷す
 ・・・近江遷都反対、放火・・・
 「大物主(大國主?)=新羅(斯盧・秦・隋王朝残党)」
  の鎮座する「三輪山」を捨てる・・・
 ↓↑
 三輪山を
 ナゼ、しかも、このように隠すのか
 雲・・・・出雲・伯耆(箒)・・・?
 だけでも
 心意があってほしい
  隠すべきではない
 ↓↑
 山上憶良
 万葉歌人
 粟田氏の支族
 山上臣の出
 大宝元年(701)
 第七次遣唐使の少録に無位にて任命
 同四年頃
 大唐にて本郷を憶う歌(1-63)を詠む
 和銅七年(714)正月
 従五位下
 霊亀二年(716)四月
 伯耆守
 養老五年(721)
 首皇子(聖武天皇)の侍講に任命
 「類聚歌林」の編纂
 神亀三年(726)
 筑前守に任命、筑紫に下る
 大伴旅人が大宰府に着任
 旅人とともに
 筑紫歌壇を形成
 天平三年末~四年頃、上京
 「子等を思ふ歌」
 「貧窮問答歌」
 「沈痾自哀文」
 ↓↑
 「阿蘇山」は「三重の輪=噴火口+内輪+外輪」
 外輪山と数個の中央火口丘から成り
 外輪山は南北25km、東西18kmに及び
 面積380km2の
 広大な
 カルデラ地形(鍋型)を形成
 中央火口丘群の
 根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳
 の5峰の総称を指すこともある・・・
 ↓↑
 三輪車・・・三つの車輪を持つ乗り物の総称
       トライシクル(英: tricycle)
       トライク(英: trike)
       スリーホイーラー(英: three wheeler)

 日本語では、単に「三輪車」という場合は
       幼児用の乗用玩具
       実用的な自転車は「三輪自転車」
       モーターサイクルは「トライク」
       自動車に近いものは「三輪自動車」
 ↓↑ 
 三輪車の車輪
 車両中心に対して
 左右対称の二等辺三角形に配置
 左右対称に配置されたものは
 前輪が一つのデルタタイプ(delta)
 後輪が一つのオタマジャクシタイプ
      (タッドポールタイプ・tadpole)
 に分けられる

 Tricycleの語源は
 ラテン語の
 「3(tri)」+「輪(cyclus)」に由来
    トリ + ワ
    鶏  + 倭
    鳥  + 和
    酉  + 話
    取  + 把握=掴=扌+国=摑=扌+國
              扌+囗+玉
              扌+囗+王+丶
              カク
              つかむ
              うつ・たたく・手でたたく
              手の指を曲げて、その中に握る
            摑=扌+國
              扌+囗+或
              扌+囗+戈+口+一
 ↓↑
 記録の最初は
 1828年
 三輪馬車・ペダル・蒸気機関・内燃機関
 などと共に発達し
 「trike(トライク)」
 という略称の使用は1883年
 ↓↑
 大人用ペダル式三輪車
 1868年から存在
 ↓↑
 幼児用三輪車
 デルタタイプ
 ペダル、駆動、ステアリングは前輪
 ↓↑
 保護者が立った姿勢のまま
 車体を押して移動させるための
 棒状のハンドルを取り付けたモノ
 ハンドルを介して
 保護者が舵取りを行える
 玩具としての用途と
 乳母車に似た用途を兼ねている
ーーーーー
 ・・・・???・
 ・・サンリン・・・
 サンリン=山林・三厘・産燐・蚕綸・散禀・惨隣・簒倫
      斬林・・・鳥居耀蔵⇔遠山金四郎
      纂臨・散霖・慚凛・・・?
      張作霖・・・霖=ながあめ・三日以上降り続く雨
      吝嗇
 ↓↑
 禀=㐭+示
   亠+回+示
   亠+囗+口+示
 稟=㐭+禾・・・檁=建物で屋根などを受ける横木・桁(けた)
   亠+回+禾
   亠+囗+口+禾
   ヒン
   リン
   うける
   こめぐら
   ふち
   もうす
   受ける・授かる・上から下に与える
   扶持・俸給・俸給としての穀物
   生まれつき・天からさずかった性質
   天稟(てんぴん)
   申す・申し上げる
   こめぐら・食糧
 ↓↑
 綸=糸+侖
   糸+亼+冂+卄
   糸+人+一+冂+卄
   糸+亼+冂+一+丨+丨
   糸+人+一+冂+一+丨+丨
   カン
   リン
   いと
   おさめる
   糸・太い糸・釣り糸
   弦楽器に用いる糸
   治める・つかさどる
   おびひも・青色のおびひも
   天子のことば・天子の命令
 ↓↑
 凛=冫+禀
   冫+㐭+示
   冫+亠+回+示
   冫+亠+囗+口+示
 凜=冫+稟
   冫+㐭+禾
   冫+亠+回+禾
   冫+亠+囗+口+禾
   リン
   さむい
   すさまじい
   さむい・きびしく寒い
   身がひきしまるような寒さ
   すさまじい・りりしいさま
   身がひきしまったさま
 ↓↑
 逃げ水(にげみず・inferior mirage・road mirage)
 風がなく晴れた暑い日に
 アスファルトの道路などで
 遠くに水があるように見える現象
 「地鏡」とも
 近づいてもその場所に水はなく
 さらに遠くに見え、水が逃げていくように見える
 ↓↑
 渇望
 喉の渇き
 渇水⇔洪水・豪雨・氾濫・・・銅鐸の謎・・・地震・津波
 ↓↑
 吝=文+口
   亠+乂+口
    リン
    おしむ
    けち
    しわい
    やぶさか
    しわい・やぶさか
    物惜しみする・けちけちする
    悔やむ・残念に思う・悔やみ
    しぶる・しかねる
    思い切りがわるい・未練がましいさま
    はじ・はじる・恥辱
    いやし・いやしい
    貪吝刻薄
    貪欲吝嗇・・・嗇⇔薔薇
       薔=ショウ
         ショク
         ソウ
         ばら
         みずたで=水蓼
         バラ科の植物の名
         薔薇(ショウビ・ばら)
         みずたで・タデ科の一年草
         茨・荊・棘(いばら)の
        「い」が抜けた語
         イバラ=うばら・うまら・むばら
         イバラもバラもカラタチも
         棘のある落葉低木の総称
         カラタチ、バラ、サルトリイバラ
         などの藪(やぶ)状に繁茂するもの
         荊棘 (ケイキョク)
         英語の「briar・thorn」などと同意
         地名の茨木(いばらき)
            茨城(いばらき)
            原木(ばらき)
            などは同語源
         イバラ(スペイン語: Ibarra)
         エクアドル北部
         インバブーラ県の県都
         正式名称
         サン・ミゲル・デ・イバラ
        (San Miguel de Ibarra)
         インバブーラ火山の麓
         タハンド川の左岸に位置
         首都キトから約70km北東に位置
         ヘラドス・デ・パイラ
        (手作りのアイスクリームや
         シャーベットのようなお菓子)は
         約500年前にイバラ周辺の先住民が
         インバブーラ火山の
         雪や氷を用いて発明
         7月16日に「伝道者」
        (スペイン語
         El Pregon エル・プレゴン)
         パレードと
        「処女カルメン」
       ・・・朱いバラを咥えた
          カルメン
 ↓↑    ↓↑   ↓↑
      第1幕でカルメン
     「ハバネラ(Habanera)」
     「恋は野の鳥
(仏 L'amour est un oiseau rebelle)」
 ↓↑    ↓↑   ↓↑
    1)恋は気紛れな鳥ってネッ
     アンタの網なんかにゃ
     ヒッかからない
     声をかけても振り向かないから
     無駄だって
     アンタなんかは
     願い下げでオコトワリ
  2)どうもしゃァしない
     脅しても、頼んでも
  お喋りな奴か
   無口な奴なら
  アタイのこのみは
    寡黙なオトコ
   オトコの甘い言葉なんかにゃ興味ナシ
3)  ジタン女の情熱を
 だれがしばれるもんか
 アンタがアタイに気がない振りをするなら
 アンタにカマって、て、かも
 アタイに気があるなら
 ご用心
4)静寂(シジマ)な鳥も慌てふためいて
 翼をはばたき、真っ青な空に突き刺さる
 愛は蜃気楼、真夏の逃げ水、走水
 アンタが渇望するなら
  ・・・水はそこにあるハズだけれど
   5)アンタの周りで
 舞い上がって去っていく
    気紛れな女の街風(つむじかぜ)
 アンタとアタイの鬼ごっこ
 アンタから逃れ
    アタイが捕まり
 アンタが逃れれば
 アタイが捕まえる
 ↓↑    ↓↑   ↓↑
        (スペイン語
         Virgen del Carmen
         ビルヘン・デル・カルメン)
         パレードが
         9月の最終週末に
        「湖祭」
        (スペイン語
         Fiesta de los Lagos
         フィエスタ・デ・ロス・ラゴス)
         が開催
        座標:北緯0度21分45.64秒
           西経78度07分50.40秒
        愛称: 白の都市
 ↓↑    ↓↑   ↓↑
 サラサーテ
 カルメン幻想曲
 ・・・「カルメンの歌」って・・・?
 「Kコクジンの手前勝手」な立場・・・?
 「・・・思想」・・・「我侭」な立場らしい・・・?


畝(うね)・・・鰐(ワニの)鼻先の筋・・・和邇・倭爾・王仁・話似?

$
0
0
 前回の重複ごと・・・かきたし・・・
 ↓↑
 畝=亩+久
   亠+田+久
   亠+囗+十+𠂉+人・・・亠(音・鍋蓋)
             囗(囲まれた領域)
             十(四方・拾う・足)
             𠂉(かみさし・髪挿し・櫛)
             人(ひと)
   ホ
   ボウ
   うね
   せ
   うね・畑のうね
   土地の面積の単位
   田畑の面積の単位
   畝(せ・ほ)
   尺貫法の土地の面積の単位
   日本の畝(せ)と区別するため
   中国の畝を「ムー」と呼ぶ・・・厶ゥ
   畑の土壌の水捌(は)け
 ↓↑
 畝(うね)
 畑で何本も間隔を空け
 細長く直線状に土を盛り上げた所
 英語では
 hilling
 hill(ヒル)・・・小山・丘
 ↓↑    ・・・丘丘=阜阜=岐阜
   ・・・比留・蛭・蒜・肥留・放
      晝・昼・干・晌・簸
      晌=中国の田畑の広さの単位
      簸=竹+其+皮
        竹+卄+一+一+一+八+皮
        竹+一+丨+丨+一+一+一+八+皮
        ハ
        あおる
        ひる
        箕(み)であおり
        穀物中の
        塵芥(ごみ)や
        糠(ぬか)を取り除く
        あお(煽)りたてる・あげる
 ↓↑      おだてる(煽)・そそのかす(唆す)
 道や波が畝る(曲がる)などの動詞
 長葱・玉葱・葱(ねぎ)など
 塊根を作物とする畑の畝(山型)
 ↓↑
 畑の畝、畦(うね・あぜ)・・・畔・阿瀬・安瀬
 作物を生育させるために土を盛り上げた所
 土の水はけが悪い場合
 作物が塊根、塊茎である場合(ジャガイモなど)
 強力な茎をもつ作物を生育する場合(リーキなど)
 リーキ(leek)=地中海沿岸原産の野菜・リークとも
 西洋ネギ・ニラネギ・西洋ニラネギなど
 フランス語名のポワロー (poireau)・・・ホームズの助手?
 イタリア語名のポッロ (porro)
 その他の場合(チコリーなど)
 チコリー(chicory)=キク科の多年生野菜
 青い花を付けるものが多い
 和名はキクニガナ(菊苦菜)
 漢名は菊苣
 ↓↑
 鰐(ワニの)鼻先の筋・・・和邇・倭爾・王仁・話似
 長須鯨(ながすクジラ)科の・・・
 髭鯨(ひげクジラ)の腹部の筋を畝と呼ぶ
 ヒゲクジラの腹部の畝は
 餌を海水ごと飲み込むときに
 蛇腹のように広がる
 ↓↑
 日本の畝(せ)
 単純に歩(坪)の倍量単位
 30歩
 10畝を1反(段)
 ↓↑
 亩 是中国市制 土地面积单位
 一亩等于六十平方丈
 大约666.667平方米
 十五亩 等于一公顷
 选取60平方丈是因为
 中国古代的计数方法
 ↓↑
 量詞 ムー(地積単位)
 一亩=1ヘクタールの15分の1,6.6667アール
    ≒市亩⇒公亩
 ↓↑
 亩=亠+田・・・亩⇔宙
   繁体字「畝・畂・畆・畮・𤰜・𤱈」
   異体字「畝」
 ↓↑
 古事記 で「畝火」
 日本書紀で「畝傍」
 奈良県
 橿原市
 畝傍山の周辺
 ↓↑
 畝傍山(うねびやま)
 奈良盆地南部に位置する山
 「畝火山」
 「雲根火山」
 「宇禰縻夜摩」・・・
 ↓↑ ↓↑
   禰=示+爾・・・禰
   ↓↑ 礻+爾
     示+一+八+冂+丨+㸚
     礻+一+八+冂+丨+㸚
     デイ
     ネ
     かたしろ
     みたまや
     父のおたまや・みたまや・父親の霊廟
     かたしろ・戦争に持っていく位牌
     禰衡一覧
     記憶力が極めてよいことのたとえ
     後漢の「禰衡」は
    「蔡ヨウ」の碑文を
     一度しか見ていないにも関わらず
     欠けてわからなかった二文字以外
     すべて書き表したという故事から。
    『後漢書(禰衡伝)』
 ↓↑ ↓↑
   彌=弓+爾
     弓+一+八+冂+丨+㸚
     弓+一+八+冂+丨+爻+爻
     弓+一+八+冂+丨+爻+㐅+乂
     弓+一+八+冂+丨+㐅+乂+爻
     弓+一+八+冂+丨+㐅+乂+㐅+乂
     ビ
     ミ
     や
     あまねし
     いや
     いよいよ
     つくろう
     ひさしい
     わたる
     久しい・遠い
     亘(わ)たる
     月日を経る・時間が経過する
     わたる・あまねし・広く行きわたる
     つくろう・おぎなう
     ほころびを縫ってつくろう
     いよいよ・ますます
     いや・いよいよ・さらに
     や・弥生(やよい)
 ↓↑   ↓↑
 とも記され
 「慈明寺山」
 「御峯山」などとも・・・
 ↓↑
 畆=亩+ム
   亠+田+ム(私)
 ↓↑
 畒=亩+人
   亠+田+人
   亠+囗+十+人
 ↓↑
 畞=亠+田+丨+久
 ↓↑
 㽗=田+人
 ↓↑
 畮=田+毎・・・亩
   田+𠂉+母
 ↓↑
 高山波=香具山は
 雲根火=畝傍・・・・筋骨隆々の形象・心象          
 雄男志=をおし・・・雄々しい男の志
 等=と・・・・・・・対等・同等
 耳梨=耳梨・・・・・みみなし・・・耳を塞ぐ
 與=と(与)・・・・あたえよ、と
 相諍競伎=相あらそいき
        ・・・諍=いさかう+競伎
             言い争う+競伎
 神代従   =神代より
 如此尓有良之=斯(か)くなるらし
 古昔母   =古昔(いにしへ)も
 然尓有許曽 =しかなれこそ
 虚蝉毛   =うつせみも
 嬬乎    =嬬(つま)を
 相<挌>良思吉=相(挌)争うらしき
 ↓↑
 反歌
 14
 高山与=香具山と・・・高山=香具山(コウグ)
 耳梨山与=耳梨山と・・耳梨=耳成(阝B)=耳無・聾鳴
 相之時=あひし時
 立見尓来之=立ちて見に来し
 伊奈美國波良=印南国原⇔兵庫県南部の
             加古川
             明石川二流域にまたがる野(原)
             溜め池が多い⇔用水池・灌漑池?
     伊波 =いなみ・いわ=「否み・居並み」
     伊奈美=稲靡・稲尾・稲美・稲葉
         イナば・イナび・イナぶ
         イナべ・イナぼ
 15
 渡津海乃 =わたつみの
 豊旗雲尓 =とよはたくもに
 伊理比紗之=いりひさし
 今夜乃月夜=こよひのつくよ
 清明己曽 =さやにてりこそ
ーーー↓↑ーーー
 記紀では、
 「畝火山・雲根火山・宇禰縻夜摩・御峯山」
 などと表記
 「慈明寺山」とも
ーーー↓↑ーーー
 畝傍=うねび=畝火 - Gooブログ
 blog.goo.ne.jp/.../・・・キャッシュ
 ↓↑
 御祭神:気長足姫命、豊受比賣命、表筒男命
 ↓↑
 境内社:高良神社・・・高句麗・高麗
     八幡神社・・・新羅・斯蘆(しろ・サロ)・白
     厳島神社・・・平家・波斯・赤
     春日神社・・・藤原・百済
     埴安彦命神社
     大山祇命神社・原住蝦夷
     祓戸大神
 由緒:飛鳥・奈良時代からの伝承
 大同元年(806)
 「新抄勅格符鈔」
 に神封一戸を寄せられたとあるのが最初・・・
 貞観元年(859)
 正五位下
 延喜の制で
 明神大社として
 官幣及び祈雨の幣に預かった
 「三代実録」に
 延喜式祝詞に皇室の御料林守護の為
 山麓に山神の霊を祀ると
 大山祇命を御祭神としていた・・・
 文安三年(1446)
 「五郡神社誌」に
 畝傍山口神社
 在久米郷
 畝火山の西山尾
 天正三年(1575)
 畝傍山古図
 山頂に社殿
 この間に山頂へ遷座
 口碑に当時の豪族
 越智氏が
 貝吹山に築城の際
 真北に神社を見下ろすことを恐れ
 山頂に遷座した・・・
 「大和名所図絵」
 畝傍山腹
 今山頂に遷す祭る所
 神功皇后にてまします
 畝傍明神となづく
 当神社の御祭神
 神功皇后が朝鮮出兵の際
 応神天皇を
 ご安産になられたとの記紀の伝承により
 「安産の守神」として信仰・・・
 主神
 大山祇命を境内社に祀り
 本殿に
 気長足姫命・・・卑弥呼・神功皇后
 豊受姫命・・・・壱
 表筒男命・・・・上筒之男神
 (うわつつの
  おのみこと)=神仏習合で住吉三神
         薬師如来 (底筒之男神)深瀬
         阿弥陀如来(中筒之男神)中瀬
         大日如来 (上筒之男神)浅瀬
 の三神を奉祀した
 神功皇后
 自ら兵を率いて新羅へ出航し
 戦わずして
 新羅、高麗、百済の三韓を従わせた
 ↓↑
 景行→成務   →仲哀
   →倭男具那・→仲哀(足仲彦・帯中日子)
   「日本武尊・倭建命」
         →神功皇后
         →応神
          誉田天皇
          誉田別尊
          誉田別天皇
          胎中天皇
          品陀和気命
          大鞆和気命
          品太天皇
          凡牟都和希王
 ↓↑       ↓↑
         蚊田(応神天皇紀
         筑後国御井郡賀駄郷
         筑前国怡土郡長野村蚊田)で誕生
         仲哀天皇が崩御して
         十月十日後の誕生で
         胎中天皇の異名
         異母兄たちが叛乱を起こしたが
 ↓↑       神功皇后に鎮圧された
 神社名も
 畝傍坐山口神社
 畝火明神
 畝火山神功社
 大鳥山
 などと呼ばれ
 明治に入って
 旧郷社
 「畝火山口神社」と定められ
 俗に
 「お峯山」と呼ばれた
 社殿は
 昭和15年
 皇紀2600年祭
 橿原神宮・神武天皇陵を
 見下し
 神威をけがすということで
 当局の命により
 山頂から遷座した
 ↓↑
 式内社で、旧社格は県社
 延喜式祝詞に記される
 大和国内の
 山口社6社
 (飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無)の1社
 祈雨神祭八十五座の1つ
  気長足姫命(神功皇后)
  豊受比売命
  表筒男命
  を祀り
  安産の神として信仰
 本来の祭神は
  大山祇命
  大山祇命は
  末社・大山祇命神社に祀られている 
 文献の初見
 『新抄格勅符抄』
 大同元年(806年)
 神封一戸を寄せるという記述
 『日本三代実録』
 貞観元年(859年)正月二十七日条
 正五位下の神階
 同年九月八日
 祈雨のための奉幣使が遣わされた
 延喜式神名帳で
 「大和国高市郡
  畝火山口坐神社」
 と記載
 大社に列格、月次・新嘗の奉幣に預ると記録
 畝傍山西麓にあり
 文安三年(1446年)
 『五郡神社記』に
 「畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾」
 とあるが
 天正年間の地図には
 畝傍山頂に記されており
 文安から天正までの間に
 山麓から山頂に遷された・・・
 江戸時代に
 「畝火明・畝火山神功社」
 とも
 昭和15年(1940年)
 畝傍山東麓の橿原神宮で
 大拡張工事で
 畝傍山西麓(現在地)に遷座
 郷社から県社に昇格
 特殊神事として
 「埴土神事」
 大阪の住吉大社で
 祈年祭(2月)
 新嘗祭(11月)
 に用いる土器を作るための土を
 畝傍山頂で取る神事である
 (by Wikipedia)
ーーーーー
 ・・・???・・・

維廉=「イレン」が「William」?・・・挿れん・炒れん・意聯・・・?

$
0
0
 1564年9月24日⇔「William(維廉)」⇔1564年4月26日
 ↓↑
 「蜘蛛の巣城」の顛末・・・維廉-沙吉比亜&維廉-(三浦)按針・・・
 ↓↑
 『マクベス(Macbeth)』・・・幕辺子?

 1606年頃・・・1600年=関ヶ原の戦い
        ウイリアム・アダムス
       (William Adams
        1564年9月24日~1620年5月16日
           (元和六年四月二十四日)
       (三浦按針)
 ↓↑     ↓↑   
 甲子(壬 癸)正官・偏財 絶⇔庚申・傷官
 壬申(戊壬庚)正財・傷官沐浴⇔辛巳・食神
 己丑(癸辛己)  ・比肩 墓⇔壬戌・正財
  午未空亡
 庚午(丙己丁)傷官・偏印建禄⇔丙午
 ↓↑ ↓↑
 1596年大運
 3月(31歳)丙子 印綬
 ↓↑
 1600年大運
 3月(36歳)庚辰 傷官
 ↓↑ ↓↑
 1598年  戊戌 劫財
 6月(33歳)戊午 劫財
 24日   乙巳 偏官・・・船団ロッテルダム港出航
 ↓↑ ↓↑
 1600年  庚子 傷官
 4月   庚辰 傷官
 29日   庚申 傷官・・・リーフデ号日本大分漂着
 (慶長五年三月十六日)
 ↓↑ ↓↑
 1600年  庚子 傷官
 10月   丙戌 印綬
 21日   乙卯 偏官・・・関ヶ原の戦い
 (慶長五年九月十五日)
 ↓↑
 1606年大運
 3月(41歳)丁丑 偏印
 ↓↑
 1616年大運
 3月(51歳)戊寅 劫財
 ↓↑
 1626年大運
 3月(61歳)己卯 比肩
 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑

 ウィリアム=William
      =維廉・・・「イレン」が「William」?
       ・・・「wi=ウィ」の「ウ」が聞き取れなかったのか?
       維新・明治維新・昭和維新
       維=糸+隹
       イ
       これい
       つなぐ
       支える・しばる・結ぶ・たもつ
       つな・大づな・物をつりさげる綱
       すじ・糸
      「これ」と読み
       あとに続く語を「強調」する
 ↓↑   ↓↑  ↓↑   ↓↑
        廉=广+兼
 ↓↑   ↓↑  ↓↑ 广(まだれ)+兼(かねる・ケン)
          レン
          いさぎよい
          かど
          やすい
          いさぎよい・行いが正しい
          心が清い
          かど・すみ・境目
          やすい・価格が安い・廉価
          かど
          問題として取り上げるべき事項
          理由となる事柄
       「廉頗負荊(レンパフケン)」
        心の底から謝罪すること
        「廉頗」は人の名前
        「負荊」は
       「茨(いばら・棘)の杖」で打たれる
        罪を背負うこと
       「肉袒負荊.=肉袒して荊を負う」
       「専断偏頗」
       「贔屓偏頗」
           頗=皮+頁
            ハ
            かたよる
            すこぶる
            かたよる・かたむく
            不公平・公平でない
            よこしま
            いささか・すこし
            すこぶる・たいへん
            かなり・非常に
 ↓↑   ↓↑      専断偏頗
     寡廉鮮恥(カレンセンチ)・・・厚顔無恥
         悪意で恥知らず
         寡・鮮=少ない・・・?
           稀・僅少・・・微量?
           アザヤカが飛んだ・・・
           字 埜化・痣八家・悝野香・鮮八家?
          朝鮮⇔朝が鮮(稀・僅・微)
           鮮卑(せんぴ・Xiānbēi)
           遊牧民族
           五胡の一
           2世紀中ごろ
           匈奴滅亡後に全モンゴルを支配
           檀石槐
           後漢末期の鮮卑族の大人
           投鹿侯の子
           和連の父
           魁頭
           扶羅韓
           歩度根
           騫曼
           らの祖父
           泄帰泥の曾祖父
           支配領土を
           東・中・西の3部に分けた
           後は諸部族に分裂
           五胡十六国時代
           慕容 (ぼよう) 氏(燕)
           乞伏 (きっぷく) 氏(秦)
           禿髪 (とくはつ) 氏(涼)
           らが華北に建国
           386年
           拓跋 (たくばつ) 氏が
 ↓↑   ↓↑     北魏を建て華北を統一
    頑廉懦立(ガンレンダリツ)
       「伯夷の風を聞く者は
        頑夫も志を立つる有り
       (孟子・万章・下)」
    清廉潔白(セイレンケッパク)
    大法小廉(タイホウショウレン)
    廉恥功名(レンチコウミョウ)
    廉頗負荊(レンパフケン)
       (史記・廉頗藺相如伝)
 ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑
 シェイクスピア=沙吉比亜
        =舌克斯畢
        =世幾須比亜
 によって書かれた戯曲
 勇猛果敢だが
 小心な一面もある
 将軍マクベスが
 妻と謀って主君を暗殺し
 王位を簒奪
 内面・外面の重圧に耐えきれず
 錯乱して暴政を行い
 貴族や王子らの復讐に倒れる
 実在の
 スコットランド王
 マクベス
 (在位1040年–1057年)
 がモデル・・・
 ↓↑

 『マクベス』
 (ファースト・フォリオに収録)
 推定執筆年代は
 1606年頃
 ↓↑

 ダンカン
 スコットランド王
 マクベスを重用していたが
 マクベスに暗殺される
 ↓↑
 在位 1034年~1040年
 別号 ストラスクライド王
 ダンカン1世(Duncan I)
 1001年~1040年8月14日
 スコットランド王
 在位:1034年~1040年)
 マルカム2世の長女
 ベソックと
 アサル領主で
 ダンケルド大修道院長
 クリナンの間に生まれた
 ↓↑
 1018年
 スコットランド(Scotland)
 アルバ(Alba)
 カレドニア(Caledonia)
 の南側
 ブリトン人の
 ストラスクライド王国
 の王位を継承
 1034年
 祖父マルカム2世の死去により
 ダンカン1世となり
 ストラスクライドとあわせて
 スコットランドと
 ほぼ同じ領域を手中にした
 ↓↑
 1039年
 イングランド北部
 ダラムへの侵攻が失敗し
 重臣たちの信望を失い
 1040年
 従弟の
 マクベスに殺害された
 ↓↑
 1054年
 ダンカン1世の息子
 マルカム王子(Malcolm Canmore)
 を王位に戻そうと
 ノーサンブリアの
 シーワード(Siward、マルカム王子の叔父)
 の挑戦を
 マクベスは受けた
 ↓↑
 1057年
 スコットランド北部
 アバディーン地方の
 Lumphananの戦い
 で
 マクベスは
 マルカム王子に殺された
 マルカム王子は
 マルカム3世として
 スコットランド王となった
 ↓↑
 バノックバーンの戦い
 アザミ(薊)の花の棘で
 イングランドの
 エドワード2世を退けた・・・
 チョウセンアザミ(朝鮮薊)
 アザミを
 カルドンに改良し
 さらに改良して
 アーティチョークになった・・・媚薬効果
 ↓↑
 マルコムの
 曾祖父
 マルコム2世は
 先住の
 ピクト族
 と
 スコッツ族
 の部族対立の
 スコットランドを統一
 ↓↑
 伝統的な
 母系相続
 と
 タニストリーという
 王の孫まで
 王位継承候補者制度を無視し
 直系の長子相続に切替えようとしていた
 ↓↑
 しかし
 男子は生まれず
 マルコム2世は
 王座が
 前王ケニス3世
 の血統や長子以外に
 相続されることを危惧し
 長女ベソックの長子
 孫の
 ダンカン
 に
 スコットランド王位(ハイ・キング)
 を継承させた
 1034年11月25日
 マルコム2世は
 ダンディーの
 北グラームズで死亡
 反マルコム派による暗殺・・・
 ケニス3世はじめ
 多数の王位継承権者を抹殺していた
 ↓↑
 マクベスは
 ハイランド
 中北部マリの大領主
 マクベスは従兄弟の
 ダンカン王の下で将軍
 ダンカンは
 ハイランド
 南部アサルの大領主
 双方拮抗の勢力
 ↓↑
 ダンカンは
 1039年
 ノーザンブリアの要衝
 ダラムの攻略戦で敗北
 重臣たちの信頼を落とし
 1040年
 また戦を起こした
 ↓↑
 スコットランドの
 北部オークニー諸島の領主
 ノルウェーの
 ソーフィン伯の領土
 カイスネスを略奪しようと
 水軍と陸軍を北に向けた
 ↓↑
 ペントランド湾の海戦
 ダンカン王の
 水軍は敗北
 ↓↑
 ダンカン王の下では
 スコットランド軍は
 壊滅し
 国民は戦費の負担に疲弊するすると
 マクベスは
 ソーフィン伯と会談
 マクベス
 と
 ソーフィン伯
 は異父兄弟
 ↓↑
 ダンカン王が
 伝統的な
 タニストリーの制度
 によって
 戴冠したのではないとする
 王族不満の代弁者
 ↓↑
 1040年8月14日
 バーグヘッドから
 逃走する
 ダンカン王を
 マクベスは
 エルギン郊外
 スパイニーで捕獲
 鍛冶屋の小屋で殺害・・・
ーーーーー
 ダンカン・・・
 ???・・・「鍛冶屋の小屋」で殺された・・・?
    ・・・「化字也の胡埜」?
    鍛冶屋=smith・black-smith
    white-smith・gold-smith・silver-smith・copper-smith
    smith=スミス=炭(墨)守(司)=black-smith?
  埜(や)=林+土
       木+木+十+一
       十+八+十+八+十+一
   異体字「野・壄・㙒」
   ヤ
   ショ
   の
   いなかや
   いやしい(卑しい)
   野原・広大な平地、大地
   町外れ・郊外・田舎
   朝廷や政府に対して、民間・在野
   飾り気のない・ありのままの
   田舎びた・下品な
   区域・領域・範囲・分野
   荒っぽい・勝手な・野暮な
   動植物が自然であるさま・野生の
   うとい・未開の・文化が開けていない
   いなかや・別荘
   沃野千里=広大な肥えた平地
  「里」は距離の単位
  「千里」は非常に長い距離
  「沃埜千里(史記・留侯世家)」とも
 ↓↑  ↓↑
 ウィリアム・シェイクスピア=沙吉比亜=沙翁
 (William Shakespeare)  =舌克斯畢=世幾須比亜
 1564年4月26日(洗礼日)
        ~
              1616年4月23日
              (グレゴリオ暦5月3日)
 甲子(壬 癸)偏官・偏財 胎⇔丙辰
 戊辰(乙癸戊)比肩・正官冠帯⇔壬辰
 戊午(丙己丁)  ・偏印帝旺⇔戊寅
  子丑空亡
 戊午(丙己丁)比肩・偏印帝旺⇔戊午
 ↓↑
 井原 西鶴(いはら さいかく)
 寛永十九年(1642年?月?日)
 ~
 元禄六年八月十日(1693年9月9日)
 本名は平山藤五?
 別号は鶴永・二万翁・西鵬
 句風は「阿蘭陀流(オランダりゅう)」
 「雀の千こゑ鶴の一声」
 ↓↑
 ???・・・「鍛冶屋の小屋」・・・?
 ↓↑
 「鞍作」・・・「鞍作止利(鳥)」・・・
 ↓↑
 「イマヌエル・カント(坎徳・韓図)」・・・馬具職人の四男
  1755年春
 『天界の一般的自然史と理論』刊行
 ↓↑
 「蘇我入鹿」・・・鞍作太郎=林大臣・・・記紀大臣?
 ↓↑
 ・・・断「韓(新羅・百済)=辰韓・馬韓」・・・
 ・・・・「弁(辯・辮・辨)韓=倭」の国策・・・?
 ↓↑
 近松 門左衛門
 承応二年
 〈1653年〉
 ~
 享保9年11月22日
 〈1725年1月6日〉
 本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)
 号
 平安堂
 巣林子(そうりんし)
 不移山人(ふいさんじん)
 家紋は「丸に一文字」
 浄瑠璃、歌舞伎の戯曲作家
 「日本のシェークスピア」・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
 「心中天の網島」・「曽根崎心中」・「国性爺合戦」・・・「冥途の飛脚」・・・
 「八右衛門を物事を表面的にとらえ
  相手の態度次第でどうにでも変ってゆくような人間」
 であり、
 「無責任な放言もする」のだという解釈(藤野義雄)・・・?
 (by wikipedia.org/wiki/冥途の飛脚)
 ・・・


賊魁、秀吉は 尾張州中村郷の人・嘉靖十五年・丙申(1536)年生まれ

$
0
0
 ???⇔惺+窩⇔こじき⇔姜+沆⇔隠晦曲折・・・贋作
 ↓↑
 曖昧糢糊(アイマイモコ)・・・贋(雁貝)+作(イ乍)
 曖=日+愛           贗(鴈・かり・ガン) 
   日+爫+冖+心+夂
   アイ
   おおう
   かげる
   くらい
   ・・・どうして「日+愛」が
          「くらい=暗い・昏い・晦い・儚い」
          になるんだか?
   ぼんやりくらい
   はっきりしない
   おおう・かくす・さえぎる
 ↓↑
 昧=日+未・・・ 未=ミ・ビ
 ↓↑ ↓↑       いまだ
           ひつじ(未)
           まだ
           十二支の八番目
           方位は南南西
           時刻は午後二時、前後の二時間
           動物は羊(ひつじ)
           ヒツジ(羊、綿羊、学名 Ovis aries)
           ウシ科ヤギ亜科の
           鯨偶蹄目
           角をもち
           食肉、羊毛のために家畜化されている
           1875年(明治八年)
           外国人ル・ジャンドルが
           軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き
           大久保利通によって下総に牧羊場が新設
 ↓↑ ↓↑      ↓↑
         「いまだ~ず」と読み
         「まだ~ない・まだ~していない」の意
         「いまだし」と読み
         「まだである・まだです」の意
         「いまだしや」と読み
 ↓↑ ↓↑     「まだであるか」の意
 昧=日+‡+八
   日+一+木
   日+十+十+八
   マイ
   バイ
   くらい
   くらい・光がわずかでくらい
   くらい・おろか・物事を知らない
   戯作三昧
   無知蒙昧
   無知愚昧
 ↓↑
 糢=米+莫
   米+艹+旲
   米+艹+日+大
   ボ
   モ
   かた
   のっとる
   模糊(もこ)=あいまいでぼんやりしたさま
 ↓↑
 糊=䊀+月
   米+胡
   米+古+月
   米+古+月
   米+十+口+月
   米+十+口+月
 ↓↑
 藤原惺窩(ふじわら せいか)・・・
 ↓↑ 惺=忄+星・・・心の星・・・?
     ・・・立身の辨の保志・・・?
     忄+日+生
     セイ
     さとる
     しずか
     さとる・はっきりとわかる
     しずか・心が落ち着いている
    窩=穴+咼
      穴+冎+口
      宀+八+咼
      宀+八+冎+口
      カ
      あな
      いわや
      かくす
      かくまう
      むろ
      あな・いわや・むろ
      くぼみ
      眼窩(ガンカ)
      ・・・「頑・顔・岩・岸・丸・元・雁・願・含・ガン」化
           雁(がん・かり・異字は鴈)
      すみか・身をかくすところ
 ↓↑    物をかくす・かくまう
 ↓↑    贋作=にせもの=贋物
 戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者
 家名の冷泉を名乗らず
 中国式に本姓の
 藤原および籐(とう)を公称
 ↓↑
 生誕 永禄4年1月24日(1561年2月8日)
 死没 元和5年9月12日(1619年10月19日)
      大運1616年9月(55歳)~乙未・比肩
 庚申(戊壬庚)正官・印綬 胎⇔己未
 己丑(癸辛己)偏財・偏官 衰⇔甲戌
 乙酉(庚 辛)  ・正官 絶⇔壬辰
  午未空亡
 壬午(丙 丁)印綬・傷官長生⇔丙午
 ↓↑
 改名 粛(諱)
 別名 惺窩・北肉山人・柴立子
    広胖窩(号)
    歛 夫(字)
 ↓↑
 姜沆(きょうこう・カン・ハン・Gang Hang)
 1567年6月23日(明暦:隆慶元年5月17日)
 ~
 1618年6月27日(明暦:万暦46年5月6日)
         大運1615年12月庚子劫財
 丁卯(甲 乙)偏官・偏財 絶⇔戊午
 乙巳(戊庚丙)偏財・正官 死⇔戊午
 辛未(丁乙己)  ・偏印 衰⇔癸巳
  戌亥空亡
 甲午(丙 丁)正財・偏官 病⇔戊午
 ↓↑
 朝鮮李氏王朝中期の官人
 字は
 太初(テチョ)・・・太(おほの)初(はじめ)?
 号は
 睡隠(スウン)・・・睡(ねむる・いねむり)隠(かくす)
                    証拠隠滅
 1593年
 朝鮮王朝の文科に合格
 1597年
 慶長の役(丁酉再乱)
 刑曹佐郎の要職
 全羅道で
 明の将軍
 楊元への食糧輸送任務に従事
 日本軍の進撃によって
 全羅道戦線が崩壊し
 一族で避難中に
 鳴梁海戦後に
 黄海沿岸へ進出していた
 藤堂高虎
 の水軍により捕虜とされ
 海路日本へ移送された
  ↓↑
 日本で
 伊予国大洲に拘留
 のち伏見に移送
 藤原惺窩
 と交流
 約3年にわたる
 俘虜生活の見聞(日本制度や情勢)は
 『看羊録』にまとめられた
 ↓↑
 1600年(慶長五年)四月
 伏見を立ち
 対馬を経由して
 朝鮮に帰国
 再び仕官はしなかった
 ↓↑
 『看羊録』
 日本で見聞したこと
 日本の内情や国土の特徴
 諸大名の情勢などを細かく記録
 朝鮮王朝に対する
 提言集的な側面が強い・・・?
 ↓↑
 『看羊録(かんようろく)』
 日本の内情を秘密裏に
 本国政府に報告した文集
 1598年
 豊臣秀吉の
 朝鮮出兵時に捕虜
 京都伏見に幽閉
 京都相国寺の
 藤原惺窩
 との対話や
 京都方広寺の
 耳塚
 のことなどを記録にとどめ
 1600年
 帰国した姜沆は
 みずからを罪人として
 この文集を
 「巾車(きんしや)録」
  ・・・巾(はば・頭巾)の
     車(くるま)の
     録(金+录・金+彐+氺)?
 と題したが
 門人が
 漢の
 蘇武・・・蘇(よみがえる)の武(たける)

 ↓↑    蘇武(ソブ)
      紀元前140年頃?~紀元前60年
      前漢時代の人・字は子卿
      父は衛尉の蘇建
      子は蘇元・蘇通国
      兄は蘇嘉
      杜陵(陝西省)の人
      字は子卿(しけい)
      武帝に仕え(前100)中郎将として
      匈奴に使節として行き
      19年間抑留
      その間
      降伏をせまられたが節義をまげず
      拒否し、
      片足を斬られ
      北海(バイカル湖)のほとりの
      荒野に追放されて
      羊を飼わされ・・・「看羊録」
      雁(がん)の足に
      便りを結んで故国に送り
      苦難の抑留生活

 ↓↑    ↓↑
      昭帝が即位し
      匈奴との講和が成立し
      帰国
 ↓↑   典属国・・・
 ↓↑   に拝せられた
 ↓↑   典属国=秦、前漢の官職名
      降伏した周辺異民族を掌る
      属官には
      九訳令がいた
      武帝元狩三年
      匈奴の
      昆邪王が降伏すると
      属国を増設
      都尉、丞、候、千人の官を置いた
      成帝河平元年
      大鴻臚に統合
 ↓↑   典属国廃止・・・
 の節義(セツギ)・・・説戯(戲・魏・記・紀)?
 になぞらえて
 「看羊(カンヨウ)録」・・・観葉・官用・韓用?
 と名付け後世に伝えた
 ↓↑

 見聞中の様々な情動を
 漢詩にしている
 「日本はどんな才能
  どんな物であっても必ず
  天下一を掲げる
  壁塗り
  屋根ふき
  などにも天下一の肩書が付けば
  多額の金銀が投じられるのは普通だ」
 と綴った・・・
 ↓↑
 「看羊録」
 1597年
 「慶長の役」の際に捕らわれた
 李氏朝鮮の官人
 姜沆(カンコウ)
 によって書かれた
 大洲
 ・・・愛媛県の大洲市
    愛媛県の南予地方に位置
    伊予の小京都
    と呼ばれ
    肱(ひじ)川(かわ・セン)・・・比字化話?
    の流域にある
    大洲城を中心の城下町
    北緯33度30分22.6秒
    東経132度32分40.3秒
    大洲(おおず)地方
    縄文、弥生時代の
    田合(たごう)遺跡
    巨石が崇拝される
    高山メンヒル
    市内50数箇所に
    巨石や巨石群が構築
    大化の改新(645年後)
    伊予国宇和郡に属し
    866年
    喜多郡となった
    矢野郷・久米郷・新屋(にいや)郷
    (倭名類聚抄)
    大洲肱川三大鵜飼・・・鵜飼⇔鸕飼?
               ・・・鸕野讃良=持統天皇
                    讃岐・愛媛県=伊豫
        長良川鵜飼(岐阜県岐阜市)
        肱川鵜飼(愛媛県大州市)
        三隈川(大分県日田市)
    源平の合戦
    1185年
    河野通信(みちのぶ)が
    比志城(ひじじょう)に立てこもり
    平氏を退けた(予章記)
    鎌倉時代
    伊予国守護
    宇都宮豊房が
    1330年着任から240年近く支配
    大津地蔵嶽(じぞうがだけ)に城を築いた
    後
    大野直之、小早川隆景、戸田勝隆
    らが城主となった
    1595年
    豊臣秀吉の重臣
    藤堂高虎が
    板島(宇和島)から
    大津(大洲)に入り
    1609年
    淡路国州本城から
    脇坂安治に引き継ぐ・・・
    1617年
    加藤貞泰(さだやす)が
    米子から大津へ転封
    明治維新まで12代、250年余り
    大洲は加藤氏の治政
 ↓↑ ↓↑
    日本の陽明学の祖
    儒学者
    中江藤樹も十歳のとき
    加藤貞泰とともに大洲に移り
    二十七歳まで大洲で暮らし
    門人たちに「大学」を教えた・・・
    勤王藩として
    慶応四年(1868年)
    鳥羽・伏見の戦い
    に参陣
    坂本龍馬が運用した
    蒸気船
    いろは丸
    大洲藩の所有で
    海援隊に貸与していた・・・
 ↓↑ ↓↑
    大洲藩出身の
    武田斐三郎
    江戸時代末期の学者
    北海道函館市の
    「五稜郭」の設計を担当
    洋式兵術の指導的役割を担った
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
   「大須=大洲」文庫・・・大須観音
       岐阜⇒名古屋
 で監禁
 大坂、伏見へと移され
 抑留生活を続け
 見聞した
 日本の情勢や風俗についての詳細な記録
 ↓↑
 姜沆(カンコウ・キョコウ)
 韓国読みは「カンハン」
 (1567~1618)
 ↓↑
 李氏朝鮮
 儒家の生まれ
 朝鮮の
 科挙試験に合格
 赴任先で
 日本軍に追い詰められ
 李舜臣の軍勢に合流する予定のところを
 藤堂高虎
 に捕らわれ捕虜となった
 ↓↑
 姜沆(カンコウ)
 三十歳
 身なりの良さから日本に連行
 その際に
 彼の子供
 「竜」
 と
 「愛生」
 は海に投げ捨てられ溺死させられた
 ↓↑
 連行された
 大洲(愛媛県大洲市)
 に着くと
 攫われた朝鮮人が千余人
 ↓↑
 日本の僧侶が筆談によって素性を訊くと
 日本ではまだ知られていない
 朱子学者であることが分かり
 藤原惺窩
 (江戸朱子学の祖・林羅山の師
  藤原定家の12代目の子孫)
 らが、彼の教えを請い
 江戸幕府の思想的となった・・・
 ↓↑
 姜沆(カンコウ)
 自分の節度を曲げず
 日本語の勉強も一切しなかった
 1600年
 釈放され朝鮮に帰国
 ↓↑
 「看羊録」
 秀吉に対する罵詈雑言が並べ立てられ
 中国の故事が連発
 日本人に対する憎悪と蔑視の本・・・
 ↓↑
 日本は「倭」
 日本人は「倭奴(ウェノム)」
 秀吉は「賊魁」
 日本の地理、歴史、文化、信仰
    各大名の出自、食邑、性格
 等の記録
 後
 徳川吉宗のころの
 朝鮮通信使が
 「看羊録」
 が江戸の町で売られているのを見て
 「賊の偵察に行った本を
  賊に読まれては意味がないではないか」・・・
 ・・・贋作・・・
 ↓↑
 「賊魁秀吉は
  尾張州中村郷の人である
  嘉靖丙申年に生まれた
  容貌が醜く
  身体も短小
  容貌が猿のようであった・・・
  生まれたとき
  右手が六本指であった
  成長するに及び
  『人はみな五本指である
   六本の指に何の必要があろう』
  と言って、刀で斬り落としてしまった」・・・?
  ルイス・フロイスも
 「秀吉多指症説」と記録・・・
 ↓↑
 「賊魁秀吉は
  尾張州中村郷の人である
  嘉靖丙申年に生まれた
  容貌が醜く
  身体も短小
  容貌が猿のようであった・・・
  生まれたとき
  右手が六本指であった
  成長するに及び
  『人はみな五本指である
   六本の指に何の必要があろう』
  と言って、刀で斬り落としてしまった」・・・?
  ルイス・フロイスも
 「秀吉多指症説」と記録・・・
  ↓↑
  「秀吉多指症説」は
 島津 義弘(しまづ よしひろ)の記録にも・・・
 天文四年七月二十三日(1535年8月21日)
 島津貴久の次男
 戦国大名
 島津義久の弟
 島津氏の第十七代当主
 島津氏十八代当主
 島津忠恒(家久)の父
 剃髪して
 「惟新斎」と号し・・・惟新⇔維新・・・惟⇔維・・・
 「惟新公(いしんこう)」と敬称で呼ばれた
 戦国(安土桃山)時代の屈指の猛将で
 「鬼島津」とも・・・
 ↓↑
 姜沆(カンコウ)
 1600年二月
 釈放され、朝鮮に帰国
 「関ヶ原」以前
 姜沆が朝鮮に帰国する直前
 藤原惺窩が
 小早川秀明と対面し
 「内府(家康)は、やがて明年には再挙し
  朝鮮を侵そうとしている」
 と聞いて
 諸大名との対立を回避し
 和議を結んだ場合
 大名たちの兵力を削ぐ目的で
 朝鮮に兵を送る可能性があると指摘・・・
ーー↓↑ーー
 中国の姜(キョウ)姓
 「神農氏の母が
  姜水に住んでいたので
  姜氏が発生」
 平民と峻別するため
 帝の神農は姜
    舜は姚
 のような血族の祖を示す標識として名のった
 ↓↑
 朝鮮の姜姜(カン)
 姜(カン)
 チンギス汗
 韓国の韓と同じ
 「上に立つ、尊大な」の原義
 ↓↑
 「姜姓は中国で最も古く
  祖先は中国古代の神話によれば
  有益な薬草を試し調べ
  農耕を庶民に教えた神農
  あるいは
  漢民族共通の祖と言われる
  黄帝
  と争って敗れた
  非漢民族の代表者
  炎帝
  発祥
  中国のはるか西北方の
  天山北路
  チベット系の羌(キョウ)族」
 「中国の先史社会にあって
  姜姓
  姫姓
  は最も有力な姓で
  姜姓の始祖である炎帝は
  姜水(岐水)の水源にある
  高い山(陜西省岐山)に天上から降臨し
  その子孫は下流の平原に出て
  農業を営むようになった」とあり。
 ↓↑
 『中国姓氏考 そのルーツをさぐる』
  女性始祖の出産した場所によって得た姓
 「姚」
 「姜」
 「姜、神農は姜水に居り、
  因りて以て姓となす(『説文解字』)」
 「炎帝の母
  女登(ジョトウ)華陽に遊び
  陽に感じて
  炎帝を
  姜水に生む(『帝王世紀』)」
 ↓↑
 『中国姓氏事典(姜(キョウ))』
 「上古
  炎帝神農氏が
  姜水(岐水=陜西省岐山県西部に源発)
  のほとりで長じたためこの姓が生まれた
  周代
  斉に姜姓を名乗るものがいた」
 「姓氏起源分類一覧」の
 「帝王あるいは諸侯の領地名
  又はそれと関連する
  邑名、河川名、山名等から転用したもの」
  に
 「姜」あり
ーーーーー
 ・・・???・・・姜=羊+女・・・
 羊=ひつじ=未・・・日辻・燈辻・・・
 街灯問題?・・・・
 「チョ・グク」・・・父為娘隠・・・

容貌魁偉=『後漢書(郭太伝)』・・・「郭の太の伝」=郭務悰&太安万侶

$
0
0
 シマの大臣・・・揣摩・志万・・・の太尽(他意訊)・・・
 ↓↑
 「I MY ME」・・・「私は(が)・私の・私に」・・・私=厶
 ↓↑
 曖=日+愛
   日+爫+冖+心+夂
   ・・・日=囗+一
      爫=爪
      冖=ワ
      心=㣺=忄
      夂=攵=𠂉+乂
   アイ
   おおう
   かげる
   くらい
   くらい
   ぼんやりくらい
   はっきりしない
   おおう・かくす・さえぎる

 ↓↑
 鯨偶蹄目
 偶蹄目(ウシ目)
 と
 鯨目(クジラ目)
 クジラ目とカバからなる系統
 からなる
 ↓↑
 愛=爫+冖+心+夂
   㤅=旡+心
   爱=爫+冖+友
    アイ
    いとしい
    うい
    おしむ
    かなしい
    まな
    めでる
    いとおしむ・いとしむ
    いつくしむ・かわいがる
    かわいがって大切にする
    めでる・好む・味わい楽しむ
    おしむ・おしんで大切にする
    いとしい・いとおしい
    かわいらしい・かわいらしく思う
    まな
    とてもかわいがっている
    とても大切に育てている
    愛屋及烏(アイオクキュウウ)=溺愛・盲愛
    愛及屋烏(アイキュウオクウ)=
    愛月撤灯(アイゲツテットウ)=月を愛して灯を撤す
    愛財如命(アイザイジョメイ)=財産を命と同等に扱って大切にする
    愛多憎至(アイタゾウシ)=愛や恩を多くもらいすぎると
              憎しみやねたみを生む
    愛多憎生(アイタゾウセイ)=愛多ければ憎しみ生ず
    愛別離苦(アイベツリク)=
    愛楊葉児(アイヨウヨウニ)=浅い知識のままで
               真理を追究しようとしないこと
    屋烏之愛(オクウのアイ)=溺愛、盲愛
    甘棠之愛(カントウのアイ)=すぐれた為政者を人々が慕う気持ち
               甘棠=林檎の木
    強食自愛(キョウショクジアイ)=
    彊食自愛(キョウショクジアイ)=
    敬天愛人(ケイテンアイジン)=
    兼愛交利(ケンアイコウリ)=全ての人を愛して
               互いに利益を与え合うこと
               兼愛=全ての人を愛する意
               墨子が儒教の
              「仁愛」を差別愛と批判して唱えた思想
              「交利」はお互いに利益を与え合うこ
               出典 『墨子(兼愛・中)』
    兼愛無私(ケンアイムシ)=
    三千寵愛(サンゼンチョウアイ)=玄宗皇帝の三千人の美女の寵愛を
                 楊貴妃が独り占め
    三千寵愛(サンゼンのチョウアイ)=
    舐犢之愛(シトクのアイ)=親が自身の子を溺愛すること
    相思相愛(ソウシソウアイ)=
    尊尚親愛(ソンショウシンアイ)=
    忠君愛国(チュウクンアイコク)=
    寵愛一身(チョウアイイッシン)=三千の寵愛一身に在り
    氾愛兼利(ハンアイケンリ)=全ての人々を平等に愛すること
    汎愛博施(ハンアイハクシ)=
    冰炭相愛(ヒョウタンソウアイ)=
    氷炭相愛(ヒョウタンソウアイ)=
    墨子兼愛(ボクシケンアイ)=
    和顔愛語(ワガンアイゴ)=
    和顔愛語(ワゲンアイゴ)=
    男は度胸、女は愛嬌・・・
 ↓↑
 昧=日+未
   日+一+木
   マイ
   バイ
   くらい
   くらい・光がわずかでくらい
   くらい・おろか・物事を知らない
   戯作三昧
   無知蒙昧 
   無知愚昧
 糢=米+莫
   米+艹+旲
   米+艹+日+大
   ボ
   モ
   かた
   のっとる
   模糊(もこ)=あいまいでぼんやりしたさま
 ↓↑
 糊=䊀+月・・・糊=のり=ノリの同音のスベテ
   米+胡・・・・・・ 胡=えびす=恵比寿
              貊=豸+百
                豸+一+白
              貃=豸+白
              貉=豸+各
                熊に似た猛獣の名
                静かであるさま
              貊=ゑびす
                蛭子・蛯子=ひるこ
                夷・戎・狄・羌・蕃・蛮・蠻
      ・・・「蛭子・蛯子=ひるこ」の死は半島利権の放棄?
   米+古+月
   米+古+月
   米+十+口+月
   米+十+口+月
 ↓↑
 未=一+木・・・未艶=ミタイ=御體・みたい・見鯛
            御他意=聖母マリア
         鼠移=イエス・キリスト
         子丑寅卯辰巳午未⇔申酉戌亥⇔子
         1 2 3 4 5 6 7 8  9 101112⇔13
           一二三四五六 七八九十
    ミ
    ビ
    いまだ
    ひつじ
    まだ
    ひつじ
    十二支の八番目
    方位で南南西
    時刻で午後二時、前後の二時間
    動物で羊(ひつじ)
   「いまだ~ず」と読み
   「まだ~ない」
   「まだ~していない」
   「いまだし」と読み
   「まだである」
   「まだです」の意
   「いまだしや」と読み
   「まだであるか」の意
   地名
   丁未(ていみ)
   伯太町-未明
  (はくたちょう-ほのか)
   東城町帝釈未渡
  (とうじょうちょう-たいしゃく-みど)
 ↓↑

 ヒツジ(羊、綿羊、学名 Ovis aries)
 ウシ科ヤギ亜科の
 鯨偶蹄目
 角をもち
 食肉、羊毛のために家畜化されている
 1875年(明治八年)
 外国人ル・ジャンドルが
 軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き
 大久保利通によって下総に牧羊場が新設
 ↓↑
 ‡=double dagger
   二重短剣符・ダブルダガー
   ‡;脚注などの参照符として用いる
 †=短剣符、剣標、ダガー、オベリスク
   その変形の
   ‡=二重短剣符、二重剣標
     ダブルダガー、ダブルオベリスク
 ↓↑
 バイアス(bias)=偏り、かさ上げ、斜め
 布目に対して,斜めに裁つこと
  「偏り、偏見、傾向、 斜め、先入観」
 語源は「傾斜」
abiiabi2
 ↓↑
 島津 義弘(しまづ よしひろ)
 天文四年七月二十三日(1535年8月21日)
 ↓↑
 島津貴久の次男
 戦国大名
 島津義久の弟
 島津氏の第十七代当主
 島津氏十八代当主
 島津忠恒(家久)の父
 剃髪して
 「惟新斎」と号し
 「惟新公(いしんこう)」と敬称で呼ばれた
 戦国(安土桃山)時代の屈指の猛将で
 「鬼島津」とも・・・
 ↓↑
 天正二十年(1592年)
 ~文禄の役
 慶長二年(1597年)
 ~慶長の役
 朝鮮渡海戦
 ↓↑
 文禄の役
 四番隊に所属
 1万人の軍役
 国元で
 「梅北一揆」
 軍役動員が渋滞
 ↓↑
 義弘は
 大隅国栗野の居城を
 23騎で出立
 肥前国
 名護屋に期日までに着到
 国許の
 義久らから送られてくるはずの
 軍勢・軍船が延引
 島津軍勢は遅陣
 後
 島津軍勢は
 四番隊を率いる毛利吉成の後を追って
 江原道に展開
 和平交渉中の
 文禄二年(1593年)九月
 朝鮮滞陣中に嫡男の
 久保を病気で失った
 慶長二年(1597年)七月
 藤堂高虎らの水軍と連携し
 朝鮮水軍を挟み撃ち
 敵将
 元均
 を討ち取った(漆川梁海戦)
 八月
 南原城の戦い
 諸将との全州会議に参加した後
 忠清道の
 扶余まで一旦北上し
 井邑経由で
 全羅道の海南まで南下
 十月末より
 泗川守備
 慶長三年(1598年)九月
 泗川の戦い
 董一元
 率いる
 明・朝鮮の
 大軍
 (島津報告20万人
  『宣祖実録』十月十二日条
   中路明軍2万6,800人及び
     朝鮮軍2,215人の計2万9,015人)
 を7,000人の寡兵で打ち破り
 島津家文書『征韓録』で
 敵兵3万8,717人を討ち取った記載
 徳川家康もこの戦果を
 「前代未聞の大勝利」と評した
 朝鮮からの撤退決定
 朝鮮の役における
 最後の海戦となった
 十一月
 露梁海戦
 立花宗茂らともに
 順天城に孤立した
 小西行長軍救出の為に出撃
 明・朝鮮水軍の待ち伏せによって後退
 明水軍の副将
 鄧子龍
 朝鮮水軍の主将
 李舜臣
 を戦死させ戦果を上げ
 海上封鎖が解け
 小西軍は退却に成功
 作戦目的達成
 島津家は加増
 朝鮮の役で
 義弘は
 「鬼石曼子(グイシーマンズ)」
 と朝鮮・明軍から恐れられていた・・・
 ↓↑
 関ヶ原の戦い
 慶長三年(1598年)
 秀吉死後
 慶長四年(1599年)
 義弘の子
 忠恒
 によって家老の
 伊集院忠棟が殺害され
 忠棟の嫡男
 伊集院忠真が反乱(庄内の乱)
 島津氏内部で
 薩摩本国の反豊臣的な兄
 義久
 と
 親豊臣、中立に立つ
 義弘
 の間で、家臣団の分裂
 義弘に
 本国の島津軍を動かす決定権がなく
 関ヶ原の戦い前後で
 義弘が率いたのは
 大坂にあった少数の兵だけ
 義弘はこの時
 参勤で上京していた甥の
 島津豊久らと合流し
 豊久が国許に要請した軍勢などを
 指揮下に組み入れた
 ↓↑
 慶長五年(1600年)
 徳川家康が
 上杉景勝を討つために軍を起し(会津征伐)
 義弘は家康から援軍要請を受け
 1,000の軍勢を率い
 家康の家臣である
 鳥居元忠が籠城する
 伏見城の援軍に馳せ参じた
 元忠が家康から
 義弘に援軍要請したことを聞いていないと
 入城を拒否し
 西軍総勢4万人の中で孤立した
 義弘は当初の意志を翻して
 西軍への参戦を決意
 ↓↑
 家康が上杉征伐のために出陣し
 慶長五年(1600年)七月十五日
 義弘は
 上杉景勝に対して
 「毛利輝元・宇喜多秀家・前田玄以
  増田長盛・長束正家・小西行長
  大谷吉継・石田三成
  らが「秀頼様御為」であるので
  上杉景勝に味方する
  そして、それに私も加わる。
  仔細は石田三成より連絡があると存します」
 という書状を送って
 西軍の首謀者の一人として
 毛利・石田らと共に
 反家康の動きに参加していた
 ↓↑
 伏見城攻めで奮戦
 後
 濃州垂井の陣所まで進出し
 義弘が率いていた兵数は
 1000人ほどで
 義弘が国許の家老の
 本田正親に宛てた書状で
 援軍を求め
 新納旅庵・伊勢貞成・相良長泰
 大田吉兵衛・後醍院喜兵衛・長寿院盛淳
 らを始めとした
 譜代衆と有志・志願者の
 390人ほどの兵が国許から上京、合流
 ↓↑
 九月十五日(10月21日)
 関ヶ原の戦い
 島津隊は3,000余で
 松平・井伊隊と交戦
 三成の家臣
 八十島助左衛門が三成の使者として
 義弘に援軍を要請したが
 「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼した」
 ため
 義弘や甥の
 島津豊久は無礼であると激怒し
 て追い返した・・・
 ↓↑
 関ヶ原の戦い
 14時頃
 小早川秀秋の寝返り
 石田三成隊
 小西行長隊
 宇喜多秀家隊
 らが総崩れとなり敗走
 島津隊(300)は退路を遮断され
 敵中に孤立
 敗走する
 宇喜多隊
 小西隊の残兵が
 島津隊内に入り込もうとするのを
 銃口を向けて追い払い
 自軍の秩序を守る一方で
 正面の伊勢街道からの撤退を目指し
 前方の敵の大軍の中を突破を決意
 島津軍は先陣を
 豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘
 で突撃開始
 島津隊は東軍の前衛部隊である
 福島正則隊を突破
 正則は島津軍への無理な追走を禁じたが
 福島正之は追撃し
 豊久と激戦を繰り広げた
 後、
 島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進
 伊勢街道をひたすら南下
 井伊直政、本多忠勝、松平忠吉
 らが追撃
 追撃隊の大将だった
 伊井直政は重傷を負い
 松平忠吉も負傷したが
 島津軍を徳川軍は追撃し続けた
 ↓↑
 足止め隊戦法
 甥・豊久
 義弘の家老
 長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり
 多くの将兵も犠牲になった
 家康から追撃中止の命で
 義弘自身はかろうじて敵中突破に成功
 大和
 三輪山
 平等寺に逃げ込んで
 十一月二十八日まで
 七十日間滞在後
 帰国
 義弘主従は
 平等寺社侶たちからの援助によって
 難波の港より薩摩へと帰還
 その際に
 義弘は
 摂津国住吉に逃れていた妻を救出
 立花宗茂らと合流
 共に海路から薩摩に帰還
 生きて薩摩に戻ったのは
 300人のうち80数名
 一方で
 川上忠兄を家康の陣に
 伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し
 撤退の挨拶を行わせた
 退却戦は
 「島津の退き口」
 と呼ばれ全国に名を轟かせた
 ↓↑
 島津家の存続
 薩摩に戻った義弘は
 徳川に対する武備を国境で固め
 一方で
 徳川との和平交渉
 義弘は
 和平交渉の仲介を
 関ヶ原で重傷を負わせた
 井伊直政に依頼
 直政は徳川・島津の講和のために奔走
 福島正則の尽力もあった
 一方で
 近衛前久が
 家康との仲介に当たった・・・
 ↓↑
 慶長五年九月三十日(1600年11月5日)
 当主出頭要請を拒み
 軍備を増強し続ける島津家の態度に
 怒った家康は
 九州諸大名に島津討伐軍を号令
 黒田、加藤、鍋島勢
 を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせるが
 家康は攻撃を命令できず膠着
 関ヶ原に主力を送らなかった
 島津家には1万を越す兵力が健在で
 苦戦すれば
 家康に不満を持つ
 外様大名が再び反旗を翻す恐れがあった
 島津家に圧力をかけていた最中
 薩摩沖で幕府が国家運営で行っていた
 明との貿易船2隻が襲われ沈められ
 黒幕は島津家とされて
 武力で島津家を潰せば
 旧臣や敗残兵が
 海賊集団を結成し
 貿易による経済的基盤の
 徳川家に対する脅しをかけた
 家康は
 十一月十二日(12月17日)
 島津討伐軍撤退を命令
 慶長七年(1602年)
 家康は島津本領安堵を決定
 島津氏に対する本領の安堵
 忠恒への家督譲渡が無事承認・・・
 ↓↑
 後
 大隅の
 加治木に隠居
 元和五年七月二十一日(1619年8月30日)
 死去・享年85(満83歳没)
 十三名の家臣が殉死
 辞世の歌
 「天地(あめつち)の
  開けぬ先の 我なれば
  生くるにもなし
  死するにもなし」
 「春秋の 花も紅葉も 留まらず
  人も空しき 関路なりけり」
 原文は
 by wikipedia.org/wiki/島津
ーーーーー
 ・・・???・・・日柱に「庚辰」「庚戌」「戊戌」「壬辰」・・・
 魁罡=かいごう=会合・改号・解合・海豪・皆合・・・?
  罡=罒+正
   罒+一+止
   コウ
   ゴウ
   強い・かたくて強い
   岡(おか)
  「天罡(テンコウ)」
   星の名
   北斗七星の柄に当たる部分
 ↓↑ ↓↑
 魁=鬼+斗
   魁梧奇偉(かいごきい)
   人よりも一回り大きな体格のこと。
  「魁梧」は大きくて立派な体格
  「奇偉」はきわめて立派なこと
   出典『史記(留候世家・賛)』
   ↓↑
   魁塁之士(かいるいのし)
   立派な体格をした人のこと
  「魁塁」は他よりすぐれてたくましいこと
   出典『漢書(飽宣伝)』
 ↓↑ ↓↑
   容貌魁偉(ようぼうかいい)
   顔つきや体格が大きくて逞しく
   堂々としている様子
  「魁偉」は立派で大きい体格のこと
   出典『後漢書(郭太伝)』
          ・・・「郭の太の伝」?
          郭務悰
          太安万侶
 ↓↑ ↓↑
  魁罡殺=戊辰・戊戌
      庚辰・庚戌
      壬辰・壬戌
 ↓↑      ↓↑
 「戌=河魁」+「辰=天罡」=「魁罡」
 ・・・???・・・天羅地網 ・・・
ーーーーー
 ???・・・「日本書紀、古事記」の謎の人物・・・主魁・首魁?

玉葱(onion)オトコ・・・鬼怨オトコ・・・司法卿無念・・・

$
0
0
 ・・・恩着せがましいって・・・アンタだろう・・・
 ・・・他人のために復讐(仕返し)・・・?
 ・・・自己保身のタメだろう・・・KKK・・・?
 「物質存在の条件」・・・有=存=在=或・・・?
 「生命の条件」・・・・?
 「生物の条件」・・・・?
 「人類の条件」・・・・?
 「人間の条件」・・・・?
 「オンナの条件」・・・?
 「オトコの条件」・・・?
 ↓↑
 宋果・・・ソウか?・・・緒口(いとぐち)はソウなんだ?
   ・・・宋=宀+木・・・宇宙の十(拾・足)の八(捌)
        う=鵜(鸕)+記紀
            鸕野讚良
      果=田(かり・デン)+木
          借り・傳(伝)・記紀
 ソウカ(ソウクワ=総鍬?蘇鵜鋤?)・・・草加(日下)・総花?
 漢幷州・・・幷=幷=干+干
       異体字「并」
       「竝(並)・倂(併)」
             併合・併呑
       ヒョウ(ヒャゥ)
       ヘイ(ヘィ)
       あわせる・ならぶ
 刺史(シシ・地方巡回観察官→地方治所観察官)
 ↓↑ 前漢
    武帝が紀元前106年
    全国に十三州を設置し
    同時に設置した監察官
    州の監察官や行政長官
    郡大守を監察する刺史を置いて
    各地を巡回させ郡大守を指導
    紀元前8年
    成帝の時代に刺史は
    郡大守と同等の二千石の奉給に
    引き上げられ
    名称も
   「州-牧」と改められた
    牧の行政権は
    郡を越えて州管轄になり
    牧は州内の各郡県の内政に
    直接干渉できるようになる
    地方官になった・・・
 ↓↑
 「宋果」
 字は仲乙(仲文)・・・仲(人は中)の乙(弟)
 扶風郡の人
 《後漢書・郭太伝》・・・郭は太の伝?
 ↓↑
 「宋果」は
 軽はずみで荒々しい性質で
 他人のために
 復讐(仕返し)してやるのが好きだった
 ↓↑
 「郭太」から
 義について諭され
 懺悔感服し、叩頭して謝罪
 三公の役所から招かれ
 侍御史・幷州刺史
 となって
 彼の赴任先をよく治めた
 《後漢書・郭太伝》
 ↓↑
 郭 泰(カク タイ)
 128年~169年
 後漢代の儒者
 字は林宗
 太原郡
 界休県の人
 八顧の一人
 ↓↑
 後漢書
 編者の
 范曄
 ↓↑・・范曄
    字は蔚宗
    先祖は南陽郡順陽県(河南省南陽市淅川県)
    会稽郡山陰県(浙江省紹興市柯橋区)にて出生
   「言以足志、文以足言。不言誰知其志。
    言之無文、行而不遠(春秋左氏伝・襄公二十五年)」
 ↓↑  ↓↑
    司馬遷は散文体
    班固はそれを詩風の韻文体
   「述」と称した
    范曄は
   「述」を
   「賛」に改めた
   「述」や「賛」は史書の体例となり
    巻ごとに一つ書かれるようになった
    事柄が多い巻は要約され
    内容が空虚な巻は
    誇張された
    文章となってしまった
    形式と内実が乖離し
    詳細さと簡略さが符合していない
    人の善悪や
    歴史上の褒貶を知ろうとするうえで
    この形式を利用する必要もない・・・
 ↓↑
 賛=㚘+貝
   夫+夫+貝
   夫+二+人+貝
   二+人+夫+貝
   夫+一+一+人+貝
   二+人+二+人+貝
   一+一+人+夫+貝
   二+人+一+一+人+貝
   一+一+人+二+人+貝
   一+一+人+一+一+人+貝
   サン
   たすける
   たたえる
   ほめる
   まみえる・会見する・お目にかかる
   たすける・力をそえる
   みちびく・引く
   すすめる
   たたえる・ほめる
   文体のひとつ
   人をほめたたえる文章
   賛辞
 ↓↑
 が父の諱を避けて
 「郭太」
 「郭林宗」
 と表記
 ↓↑
 「後漢書・郭太伝」
 郭太のことを
 「身長八尺、容貌魁偉」と形容
 「後漢書巻六十八郭符許列傳第五十八」
 ↓↑
 危言覈論
 (キゲンカクロン)
 正しいと思う主張について
 激しく議論を戦わせること
 「危言」は自身の身が
 危険な状況になることを気にかけず
 自分の考えをはっきりと言うこと
 「覈論」は激しく論じること
 出典『後漢書(郭太伝)』
 『後漢書・郭太伝』に
 「身長八尺、容貌魁偉なり」
ーーーーー

 魁=北斗七星の第1星
   魁偉(クワイヰ)
   「後漢書・郭太伝・容貌魁偉」
   顔やからだが
   人並はずれて大きく立派なさま
   魁岸(カイガン)
   ↓↑
 かい(魁)
    かしら・頭領
    さきがけ・先鞭
    北斗七星の第1星
 ↓↑
 かい‐い(魁偉)ヰ
 「後漢書・郭太伝・容貌魁偉」
 顔や身体が人並はずれて大きく立派なさま
 ↓↑
 かい‐がん(魁岸)
 容貌の偉大なさま
 ↓↑
 かい‐けつ(魁傑)
 容貌・才幹のすぐれていること・すぐれた人物
 かい‐ご(魁梧)
 かい‐ご(魁梧)
 体が大きくて立派なこと・魁偉
 かい‐しゅ(魁首)
 かい‐しゅ(魁首)
 かしら・長・首魁
 かい‐すい(魁帥)
 かい‐すい(魁帥)
 賊徒などの長
 かいすいえん‐やき(魁翠園焼)
 御庭焼の一
 嘉永(1848~1854)の頃
 美濃
 高須藩主
 松平義建が
 江戸角筈(つのはず)の下屋敷
 魁翠園で焼かせた陶磁器・角筈御庭焼
 ↓↑
 かい‐せい(魁星)
 かい‐せい(魁星)
 北斗七星の第1星=北斗七星(Big Dipper、Plough)
 ↓↑        おおぐま座の腰から尻尾を構成する
          7つの明るい恒星で象られる星列
          北斗・北斗星・七つの星・七曜の星
          柄杓の形をして
         「斗」の名が付けられている
          日本では
          四三の星・七剣星
          3等星であるδ星を除く
          6星は全て2等星

          柄杓の器の部分を作る
          天枢、天璇、天璣、天権
          4つを
          魁(カイ)
          柄の部分を作る
          玉衡、開陽、揺光
          3つを
          標、杓(ヒョウ)
          あわせて
         「斗」と一字でよぶことも
          神祇伯家行事傳に
          北斗七星の名前とし
 ↓↑       「魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」
 魁・・・α星(天魁星)
 二十八宿の
 奎星(ケイセイ)と混同され
 文運をつかさどるとされた
 科挙の試験で
 進士首席合格者・状元・魁選
 さき‐がけ(先駆け・先駈け・魁)
 さき‐がけ(先駆け・先駈け・魁)
 衆に先立って敵中に攻め入ること
 物事のはじめとなること
 特に、同類の中で先になること
 さき‐が・ける
 (先駆ける・先駈ける・魁ける)
 他に先立って進む
 他よりも先に物事をする
 ひと‐ごのかみ(魁帥・首長)
 (人ひと兄このかみの意)
 上代における一群の人の長
 首魁〈神武紀訓注〉
 魁=カイ〈クヮイ〉(漢)
   さきがけ
   (名)いさお・つとむ
   さきがけ・まっさき・第一番目
   かしら
   首領・首魁・巨魁・渠魁
   花魁(おいらん)
   大きくてすぐれている
   魁偉・魁傑
ーーーーー
 郭泰・・・郭=廓・曲輪・・・郭務悰・・・ダレ?
 (by Wikipedia)
 郭泰(カクタイ・128年~169年)
 後漢代の儒者
 字は林宗
 太原郡
 界休県の人
 名儒を数え上げた八顧の一人
 ↓↑
 「後漢書」の
 編者の
 范曄(ハンヨウ・398年~445年)
      魏晋南北朝時代の
      南朝宋の政治家・文学者・歴史家
     『後漢書』の作者
      字は蔚宗
      先祖は南陽郡順陽県
     (河南省南陽市淅川県)の出身
      会稽郡山陰県
     (浙江省紹興市柯橋区)出生
 ↓↑
 が父の諱を避けて
 「郭太・郭林宗」・・・カクタイ・・・化句臨想?
 と表記
 ↓↑
 范曄・・・范=艹+氾
 ↓↑      艹+氵+㔾
        ハン
        いがた
        かた
        のり
        草の名
        虫の名・蜂
        鋳型・鋳造の型
        のり・法則・規範
      曄=日+華
        異体字「曅」
        ヨウ
        あきらか
        かがやく
        さかん
        かがやく・あきらか・ひかりかがやく
 ↓↑      さかんなさま
 范曄(ハンヨウ・398年~445年)
 士族生まれ
 祖先の
 范晷は
 西晋の雍州刺史
 曾祖父の
 范汪は
 東晋の安北将軍・徐兗二州刺史・武興県侯
 祖父の
 范寧は
 臨淮郡太守・豫章郡太守
 父の
 范泰は
 宋の侍中・光禄大夫
 死後は
 車騎将軍を追贈
 范汪は
 「博覧強記にして、道理に通ず」
 『尚書大事』20巻・『范東陽方』105巻
 などを著
 范寧は
 『春秋穀梁伝集解』12巻を著し
 范泰も『古今善言』24巻を著した
 范曄には
 兄の
 范昂、范暠、范晏
 末弟の
 范広淵
 がいた
 ↓↑
 范曄(ハンヨウ・398年~445年)
 無神論者
 『後漢書』の中で
 人に諂う仏を猛烈に非難
 神の不滅
 因果応報
 の説法を否定
 仏教を信じる後漢の
 桓帝を風刺
 天命論にも反対
 「天道の性命、聖人の難言之
  況して乃ち憶測を僅かに隠す
  猖狂無妄之福
  宗親の汚滅を
  觖一切の功を以て哉!」
 『後漢書・張衡伝』で
  大量に、古代の予言書を引用して
  史実や論証を述べることに
  張衡が反対した話を収録
  陰陽の禁忌についての
  誤った論を論破・・・
 ↓↑
 屈伯彦
 の学問を学び、三年でこれを修め
 墳籍(古代聖賢の手による経籍)に通じ
 談論を善くし、その発音は美しかった
 洛陽に遊学
 賈彪
 と共に
 太学の冠とされた
 当時河南尹だった
 李膺は・・・膺=䧹+月・・・贋・雁(鴈)・鷹
         广+倠+月
         广+亻+隹+月
 郭泰を大いに奇とし
 親善を結んだ
 郭泰の名は洛陽に拡散
 司徒の
 黄瓊が招聘し
 太常の
 趙典が
 有道に推挙したが、応じなかった
 党錮の禍で名士達が被害を受けたが
 郭泰
 と
 袁閎だけが禍を免れた
 ↓↑
 建寧元年(168年)
 陳蕃
 竇武
 が宦官との抗争に敗れて害され
 建寧二年(169年)春、家で死去・享年42
 ↓↑
 斗と筲
 容積を量る器
 小さな単位を測る程度の小さな人間
ーーーーー
 郭-皇后(カク-コウゴウ)
 ?~景元四年(263年)
 三国時代の
 魏の
 曹叡(明帝)の
 二番目の皇后
 諡号は明元皇后
 涼州西平郡の出身
 父は郭満
 母は杜氏
 叔父は郭立
 従弟は郭徳・郭建
 ↓↑
 一ヶ月後
 曹叡は死去
 曹芳(斉王)は即位後
 郭氏を尊んで
 皇太后とし
 永寧宮と称した
 ↓↑
 郭皇后
 郭聖通
 後漢の
 光武帝の最初の皇后
 文徳皇后郭氏
 魏の文帝
 曹丕の皇后・明元皇后郭氏
 魏の明帝曹叡の皇后・懿安郭皇后
 唐の憲宗の皇后・章穆皇后
 北宋の真宗の皇后・郭皇后 (宋仁宗)
 ↓↑
 郭皇后
 河右の豪族の娘
 西平郡において叛乱が起こり
 連座して後宮に没収
 黄初七年(226年)
 曹叡の即位後
 寵愛され夫人(妃の位の一、皇后に次ぐ)
 景初二年(238年)十二月
 曹叡の病が篤くなると
 皇后に冊立
 一ヶ月後曹叡は死去
 曹芳(斉王)は即位後
 郭氏を尊んで
 皇太后とし、永寧宮と称した
 ↓↑
 少帝
 曹芳の時代
 当初は
 曹爽
 司馬懿
 やその息子たちが実権を握り
 皇太后自身には権限がなかった・・・
 正始十年(249年)
 司馬懿が
 曹爽にクーデターを起こし
 曹爽・曹芳
 らが墓参に出かけた留守に
 皇太后の支持を取り付け
 正当化・・・
 ↓↑
 毌丘倹
 鍾会
 など反逆者たちは
 皇太后の命と称して叛乱を起こした
 司馬師が
 曹芳を廃したときも
 名目は皇太后の令を理由としていた・・・
 ↓↑
 曹芳の廃位後
 後継者を決定するとき
 司馬師が
 曹據を推したのに対し
 皇太后は
 曹髦を推した
 皇太后と司馬師は対立したが
 皇太后の主張が通り
 曹髦(高貴郷侯)が即位・・・
 ↓↑
 諸葛誕の反乱
 皇太后と曹髦らが親征する形で
 司馬昭に奉戴され反乱を鎮圧
 曹髦は、専権を極める
 司馬昭を排除しようとして失敗
 司馬昭の側近である
 賈充の部下
 成済に殺された
 司馬昭は皇太后の令と称し
 「帝が皇太后を害しようとしたため殺害された」
 と理由を付け
 司馬昭が
 曹髦
 を庶民の格式で葬ろうとすると
 司馬孚は反対し
 皇太后に上奏し
 王の格式で葬る許可を取り付け行わせた
 景元四年(263年)十二月に死去
 景元五年(264年)二月
 曹叡の高平陵の西に埋葬された
 ↓↑
 拳拳服膺
 人から教わった事や言葉などを
 決して忘れることなく
 常に心に留めて大切にすること
 「拳拳」は
 丁寧に両手で捧げるように持つこと
 「服膺」は
 胸に付けるということから
 心に留めるという意
 出典『中庸(八)』
 銘肌鏤骨(メイキルコツ)
 銘心鏤骨(メイシンルコツ)
ーーーーー
 ・・・???・・・メイキルコツ(明記留兀)・・・兀?
 兀⇔π(パイ・pie)・・・π
 円周率=円の周長の、直径に対する比率=π=3.14159 26535・・・
 (π=ペリメトロス・ペリペレイア)
 半径 R の円周の長さ
 半径 r の円板の面積=πr²
 ↓↑
 アルキメデスは
 正96角形を用いて
 半径 r の球の体積=4/3πr³
 ↓↑
 この球の表面積=4πr²
 その球の大円による切り口の面積の4倍
 祖沖之(五世紀、中国)
 小数点以下第6位まで弾き出した
 ・・・無駄な「あんき」・・・嫌いだけれど・・・
 ・・・思考、構成と判断の原材料・・・
 あんき=安藝=安徽=暗鬼=安危=諳記=暗記・・・闇に記すって?


「屁理屈・法螺吹き」のコトバの補強・・・

$
0
0
 ・・・「もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)」って?
     モノの泡 例・・・bubble(バブル)の膨張破壊、崩壊
       「阿波・安房」の例・・・
               レイ=lei=ハワイ語「Leiは愛しい人
                  絆・親愛・首にかける花輪」の意

  ククイの実・・・「苦悔の身」・・・アロハ、ッ?
 ・・・諸行無常(巴:sabbe saṅkhārā aniccā)
    この世の現実存在(森羅万象)は
    すべて、すがたも本質も
    常に流動(循環)変化するものであり
    一瞬といえども
    存在は同一性を保持することができない・・・
    と、認識思考するのは生きている「人間の脳ミソ」・・・
   「諸行」とは・・・言(ことば)の十一の日は云い歩く?
    ↓↑         言葉を 拾う始めのヒの行(アン)
            説法者の安行・・・生知安行?
      ・・・諸=言+者(もの・は・シャ)
         行=彳(テキ・少し歩む
           +  彳+亍=少し歩いて立ち止まる)
           亍(チョク
               とどまる・たちどまる
               すこし歩く・狭い歩幅で歩く)
           彳+一+丁
           ギョウ・・・行間・行政・行幸・行事
           コウ・・・・銀行
           アン・・・行灯・行燈
           いく・ゆく
           おこなう
           しぬ
           みち
           やる
           ゆく・いく・歩く・進む・めぐる
           動かす・やる・ゆかせる
           行為・行動
           おこなう・する・なす
           みち・道路・みちのり
           ゆくゆく・歩きながら
           みちすがら・ゆきゆきて
           たび・旅行・航行・孝行
           経る・経過する・巡(めぐ)る
           行書
           おこない・ふるまい・よいおこない
           ならび・行列・文字列・行間
           みせ・商店・仲介所・行商
    ↓↑      兄弟の順序
    因縁によって起こる
    この世の
    現象(サンカーラ)・・・太陽の光彩?・・・色
    を指し
   「無常」とは
    一切は常に変化し・・・一切合財=一切合切=全部?
    ↓↑          合財袋・信玄袋・明治歩兵の背嚢
               背負い行李(桑折)
          ランドセル=オランダのランセル(ransel)の訛った語
          高野長英の『三兵答古知幾( 1850年)⇔戦争論』
          に「担筪(らんとるす)=背負い鞄(カバン)」
         「school satchel・school bag」
          リュックサック
         (独 Rucksack・蘭 rugzak・英 rucksack・背に負う袋)
          モッコ
          畚(もっこ・ふご)=縄、竹、蔓(つる)などを
                    網状に編んだ運搬用具
          おんぶもっこ・子守帯
        「行嚢(コウノウ)」=郵袋 (ユウタイ) の旧称(郵便袋)
    ↓↑    「巾着袋=外交行嚢(外交封印袋)」
          笈(おい・キュウ・キフ
            おいずる・ふみばこ)
          背に負う物
          修験者、山伏などが
          仏具・衣服・食器などを
          収めて背に負う箱
          笈
          本を入れて背負う箱
          荷物や書籍を入れて背負う竹製の箱
         「書笈・負笈(フキュウ)」
          箱笈・板笈
          箱笈は内部が上下2段に仕切られ
          上段に五仏を安置
          下段に念珠,香合,法具を納める
          扉には鍍金した金具を打ったり
          木彫で花や鳥を表わし
          彩漆 (いろうるし) で彩色し
          鎌倉彫の装飾を施したものも
          正先達の負うものを縁笈
          初心者の負うものを横笈

          板笈
          背負子(しよいこ)を改良
          枠を組んで板をはり
          背板に品物を縛りつけて檀板でしめ
          反対側に背負い紐をつけたもの
          箱笈
          縦長の四角い箱に短い4本足をつけたもの
          行脚僧(あんぎゃそう)
          修験者(しゅげんじゃ)
          などが旅をするときに背負って用いた
    ↓↑
    不変のものはない(アニッチャ)という意・・・?
             豈 土 哉?
            ・・・土=戊己=十+一=拾う始め(初・肇)
 ・・・ソウですか・・・
 ・・・執拗に「郭=享+阝=亠+口+了+一+阝」を調べる・・・執着
          享=うける・あたる・あてはまる・かなう
         星亨(ほし・とおる)=刺客、伊庭想太郎に暗殺
         嘉永三年四月八日(1850年5月19日)
         ~
         明治三十四年(1901年)6月21日
 ↓↑      ↓↑
         庚戌(辛丁戊)比肩・偏印 衰⇔辛丑
         辛巳(戊庚丙)劫財・比肩長生⇔甲午
         庚午(丙 丁)  ・印綬沐浴⇔庚午
          戌亥空亡   大運1896年5月⇔丙戌・偏官
         壬午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔甲申
 ↓↑       ↓↑
         江戸築地の小田原町(東京都中央区築地)
         左官屋の子
         維新後に横浜税関長
         渡英して弁護士資格を取得
         明治十五年(1882年)
         自由党に入り
        「自由新聞」により藩閥政府を批判
         明治十六年(1883年)
         福島事件で
         河野広中を弁護
         明治十七年(1884年)
         官吏侮辱罪に問われ
         明治二十年(1887年)
         保安条例発布で東京を追われた
         明治二十一年(1888年)
         出版条例違反で入獄
         明治二十五年(1892年)
         第2回総選挙で当選
         衆議院議長
         第4次伊藤内閣で
         逓信相
         東京市疑獄事件で辞職
         明治三十四年
        (1901年)6月2日午後3時過ぎ
         東京市議会議長であった時
         収賄などの噂?で
 ↓↑       伊庭想太郎に刺殺・・・
 郭文貴・・・?・・・ダレ?
 ↓↑
 「ニュースの解説」って?
 「タマネギ談釈」か?「法螺吹きダンシャク」か?
 Kuk Cho・・・?・・・ダレ・・・
 プチブル社会主義者の妄想と現実・・・?
 ↓↑
 「ニュース(news・報道・情報)=new+s」
  ・・・「ニューズ(英)・ヌーズ(北米)」
      語源=方角の「北東西南」の
     「North、East、West、South」
      の頭文字だという意は誤解
      知らせ・情報・変わったこと
      消息・便り・噂(うわさ)・風聞
 ↓↑    ↓↑
     nouvelles(仏)
    ヌーベルバーグ(仏語 Nouvelle Vague)
            仏=イ+ム=佛=イ+弗
                ム(よこしま)=弗(ドル)
    1950年代後半~1960年代前半
    フランス
    商業映画に束縛されず
    自由な映画制作を行なった
    若手グループの映画
   「新しい波」の意
    ヌーヴェルヴァーグ
   (フランス語 Nouvelle Vague)
    ヌーベルバーグ
    ヌーヴェル・ヴァーグ
    とも
    ゴダール(Jean-Luc Godard)
    ハンス・リュカス(Hans Lucas)
   『勝手にしやがれ
   (A bout de souffle・Breathless1959年)』
 ↓↑    ↓↑
    庚午(丙 丁)正財・比肩建禄⇔己亥 食神
    丁亥(戊甲壬)比肩・正官 胎
    丁亥(戊甲壬)  ・正官 胎
     午未空亡    1952年6月 庚寅 正財
    丙午(丙 丁)劫財・比肩建禄
 ↓↑    ↓↑
      neues(独)
      novedades(西班牙)
      novita(伊)・・・ノビタ⇔伸太?
 ↓↑    ↓↑
      ニュースアナリスト(news analyst)
      announce
      アナウンス・伝える・知らせる
      ニュースや案内などの告知・御布令
      情報伝達
      公表・発表・・・周知
      announcement
      アナウンスをする
      告示・告知・予告・公告
      make an announcement
      アナウンスを繰り返す
      repeat an announcement
      アナウンスメントゥ
      announcement
      アナウンス効果
      announcement effect.
      ニュース解説者
      announcement
 ↓↑
 の
 「解説(commentary・explanation)
     synopsis・summary(梗概・要約)」
  ・・・news commentary
  ・・・news commentator
  ・・・解説委員(news commentary)
 って、ナニ・・・?・・・事実の説明者・・・屁理屈者?
 ・・・「事実に説明」が必要らしい・・・ナゼ?
 ・・・「状況、事態の発端、過程、結果
     現実、事実の因果関係の
     是非、真偽、真贋の可否を
     自分の脳味噌のコトバで判断
     理解出来ない」から・・・
     ・・・Vocaboly(ボキャボリー・語彙)不足
     ・・・言語文法の理解力不足
 で、売文、売言の
 ・・・「屁理屈・法螺吹き」のコトバの補強が必要・・・?
 他にも・・・「unveil・reveal」・・・「暴く」がアル・・・?
 ↓↑
 by ja.wikipedia.org/wiki/
 ↓↑
 ロバート・クオック
 (Robert Kuok Hock Nien
  郭鶴年・・・郭(くるわ)の鶴(つる)の年(とし)
 (カクカクネン)
  1923年10月6日~)
  マレーシアのクオック・グループ
  香港のケリー・プロパティー
  郭一族は東昇公司時代に
  ジョホールの
  スルタン・イブラヒム
  親密な関係を築き
  後も
  スルタン・イブラヒムの孫
  がPPBの総務部長兼取締役
  トゥンク・オスマン(Tunku Osman Ahmad)
  がプランギ社(Pelangi Bhd.)の会長
  アジアの
  製糖業・・・・・砂糖(サトウ)・・・甘いサトウ・・・
  に影響力を有す・・・あまいザイバツらしい・・・
 ↓↑
 郭淮
 ↓↑
 by Wikipedia
 郭 淮(カクワイ・? ~255年)
 後漢末期から三国時代の
 武将・政治家
 魏に仕えた
 『三国志・魏志「満田牽の郭伝」』
   ・・・魏志「満・田・牽・郭・伝」
 字は伯済・・・百済?
 并州太原郡・・・并の州の太の原の郡
 郭淮の一族
 晋代にはそれぞれ高官
 小説『三国志演義』では
 自分で射た矢を
 ↓↑
 姜維・・・姜維(キョウイ・かんい?)
 ↓↑    建安七年(202年)
      ~
       景元五年一月十八日(264年3月3日)
      魏・蜀漢に仕えた
      字は伯約
      涼州
      天水郡
      冀県の出身
      父は姜冏
      妻は柳氏
 ↓↑    子孫に唐の姜恪
 姜維・・・
 に射返され落命(『三国志演義』)
 ↓↑
 祖父は郭全
 父は 郭縕
 弟は 郭配(賈充・裴秀の妻の父)・郭鎮
 子は 郭統
 孫は 郭正
 甥は 郭奕
 姪は 郭槐(賈南風の母)
 ↓↑
 建安年間(196年~220年)・・・建(たける)を
                 安(やすんじる)
 孝廉・・・孝(十一の了と一)の
      廉(廉価・かど=理由・・・事件のカド
        取り上げるべき事項・理由となる事柄)
 で推挙され
 平原の丞
 曹丕
 が五官将になると
 郭淮
 は召し出され
 門下賊曹
 に加えられたが
 間もなく
 曹操へ付き
 漢中征伐に随行
 漢中制圧後
 夏侯淵の司馬
 としてその地に残り
 劉備に備えた
 劉備軍侵攻の際は病気で不参戦
 219年
 定軍山の戦い
 夏侯淵が討たれると
 郭淮
 は混乱する兵士を取りまとめ
 杜襲
 と協力して
 張郃
 に司令官を代行させ
 劉備の侵攻を防いだ
 曹操は漢中に到着し
 張郃・・・・・・・・張=弓+長
 ↓↑         郃=合+阝
             亼+口+阝
             人+一+口+阝
             コウ
          「郃陽」=陝西省県名
 ↓↑         陝西省を流れる川の名
 に仮節し
 漢中駐留軍の司令官とした上で
 郭淮
 をその司馬に任じた
 ↓↑
 220年
 曹丕
 が王位につき
 郭淮
 は関内侯の爵位を与えられ
 鎮西長史(曹真の長史)に転任
 征羌護軍も兼任し
 張郃・楊秋を監督
 賊を討伐し
 関中に平和
 民衆を安んじた
 ↓↑
 同年
 曹丕(文帝)が
 帝位に就く祝賀に出向いたが
 途上で病気に罹り
 彼が参内した頃には祝宴が行われ
 曹丕は彼を咎めた
 古の例を取って非難する曹丕に対し
 郭淮はそれを逆手にとって弁明
 曹丕に気に入られ
 仮の雍州刺史に任命され
 5年後に正式な雍州刺史となった
 羌族らの反乱を鎮圧し
 降伏者が訪れてきた
 予め相手の親族関係などを
 調査してから面会し
 ↓↑
 228年・・・・・・・干支=戊申
           神功皇后摂政二十八年
           皇紀888年
           魏 : 太和二年
           蜀 : 建興六年
           呉 : 黄武七年
         高句麗 : 東川王二年
         新羅 :  奈解王三十三年
         百済 :  仇首王十五年
 蜀漢軍が祁山に侵攻
 郭淮は
 上邽に馳せ還った
 諸葛亮は
 街亭に
 馬謖を派遣し
 列柳に
 高翔を駐屯させたが
 張郃が馬謖を
 郭淮が高翔を攻め
 これを破った(街亭の戦い)
 隴西郡の
 羌族を
 枹罕で破り
 建威将軍に任命
 ↓↑
 229年
 蜀の
 陳式が武都・陰平を攻撃
 迎撃したが
 諸葛亮自ら
 建威に出陣してきたため敗れ
 両郡を奪われた(諸葛亮伝)
 ↓↑
 230年
 蜀の
 魏延が
 羌中に侵攻
 費耀と迎撃に出たが
 陽谿で敗れた(魏延伝)
 ↓↑
 231年
 諸葛亮が
 鹵城に攻め
 曹真
 に代わって指揮官となった
 司馬懿の下
 戴陵や費耀とともに
 上邽で
 諸葛亮を迎撃したが敗れた
 (「諸葛亮伝・漢晋春秋」)
 羌族を手懐け兵糧を提供させ
 揚武将軍に任命
 ↓↑
 234年
 斜谷に攻めてきた
 諸葛亮は
 蘭坑で屯田を始めた
 長安方面への攻撃計画を見破り
 迎撃して防衛に貢献
 諸葛亮が西方に軍を進めると
 陽遂が攻撃されると予想し
 これを防いだ
 ↓↑
 238年・・・・・
 蜀の
 廖化が守善羌侯の宕蕈を攻撃
 王贇・游奕に廖化を挟撃させた
 郭淮の上奏を受け
 曹叡(明帝)は
 「軍隊の配置は分離を避けるもの」
 として急ぎ詔勅を下したが
 届く前に
 王贇・游奕は廖化に敗れた(「明帝紀」)
 ↓↑
 240年・・・正始元年(240年)
       帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ
       詔書、印綬を奉じ
       倭王に拝受させた
 蜀の
 姜維が隴西に侵攻
 これを防いだ
 羌族の
 迷当を攻撃
 氐族3000余部を降参させ
 関中に強制移住させた
 左将軍に昇進
 涼州の
 休屠胡である
 梁元碧が
 雍州に帰順
 郭淮は
 安定郡高平に移住させることを要請
 彼らのために
 西州都尉の職を設置するよう取り計らった
 後に前将軍へ転任となったが
 州の宰領は元通り執り行なった
 ↓↑
 244年・・・正始四年(243年)12月
       倭王は大夫の伊聲耆
       掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣
       掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた
       正始六年(245年)
       難升米に黄幢を授与
       正始八年(247年)
       倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣
       狗奴国との戦いを報告
       魏は張政を倭に派遣し
       難升米に詔書、黄幢を授与
 曹爽
 が蜀征伐の軍を起こす
 郭淮
 も夏侯玄の下で先鋒として従軍
 形勢不利で
 郭淮は味方の軍を脱出させ
 大敗させずに済んだ(興勢の役)
 帰還後、仮節された
 ↓↑
 247年~248年・・・卑弥呼(生年不明?242年~248年)
 ↓↑      
 姜維
 と
 廖化
 は
 蛾遮塞
 治無戴
 といった
 羌族と手を結び
 魏に侵攻
 諸将が
 郭淮の
 軍を分けて
 廖化を攻めるべきという判断に反対
 郭淮はそれらの反対を退け廖化を攻撃
 夏侯覇を
 姜維に当たらせた
 結果
 郭淮の読み通り
 姜維は廖化を救援し
 そのまま敗走
 都郷侯に昇進した。
 ↓↑
 249年・・・・・・卑弥呼(生年不明?~242年~248年)
 夏侯玄に代わって
 征西将軍・都督雍涼州諸軍事
 対蜀軍戦線の総司令官
 不仲だった
 夏侯覇は不安を覚え
 蜀に亡命(「諸夏侯曹伝・魏略」)
 陳泰と協力し
 蜀の
 句安らを降参させた
 ↓↑
 250年
 車騎将軍・儀同三司に昇進
 都督雍涼諸軍事を兼務
 陽曲侯に封じられ
 子が亭侯に採り立てられた
 ↓↑
 251年
 王淩が
 皇帝廃立を目論んで
 司馬懿に討伐され
 自害(王淩の乱)
 郭淮の妻が王淩の妹で
 妻は罪人として
 中央に赴くよう要請
 郭淮の配下や周辺の部族長が
 挙って郭淮の下へ押し寄せ
 助命を嘆願したが
 郭淮は聞き入れなかった
 妻が雍州を離れることになった際
 子供たちが額から血を流すほどに
 叩頭して請願したため
 郭淮はそれを見過ごすに忍びず
 妻を取り返した
 司馬懿に言上し
 司馬懿はその言を受け
 彼らの罪を不問とした(『世語』)
 ↓↑
 255年
 死去
 大将軍を追贈
 貞侯と諡された
 子が跡を継いだ
 郭淮の一族は
 晋代にはそれぞれ高官に昇った・・・
ーーーーー
 郭淮 (カクワイ)
 妻は王夫人で王凌の妹
 王允の姪にあたる女性
 郭淮との間に5人の男子を儲けた
 後に王凌はクーデターを画策し
 自殺
 弟に郭配、郭鎮、郭亮
 甥たちも含めた
 郭一族は
 魏晋に栄達
ーーーーー
 郭解の子孫
 郭解は一族皆殺しにされたはずであるが
 子孫を名乗る者が後漢書に立伝
 ↓↑
 郭 伋・・・「イ+ 伋」、汲、級、吸、扱
 字を細侯
 郭解が移住した茂陵の人
 郭解の玄孫(孫の孫)
 父の
 郭梵は蜀郡太守
 ↓↑
 郭 伋
 字を細侯
 郭解が移住した
 茂陵の人
 郭解の玄孫(孫の孫)
 父の
 郭梵は蜀郡太守
 ↓↑
 郭 伋
 前漢哀帝・平帝の間
 三度遷って
 漁陽都尉・・・現在の北京市、天津市、河北省の一部に相当
 ↓↑
 王莽
 新王朝時
 上谷の太守
 并州牧に遷った
 (漁陽・上谷は隣接
  匈奴・烏桓と境を接し
  侵略が多く統治の難しい場所
  并州は漁陽らが含まれる
  幽州の隣であり
  異民族に悩まされていた州)
 ↓↑
 新王朝が滅び
 更始帝
 更始帝は
 郭伋を召して
 左馮翊に任命し
 民を鎮撫させた
 ↓↑
 更始帝が破れ
 光武帝が即位
 雍州牧として
 異民族と境を接する
 涼州へ赴任し
 呼び戻され
 尚書令に任命され度々諌争した
 ↓↑
 建武四年(28年・戊子)・・・建武
               後漢の光武帝劉秀の
               最初の元号
 中山太守
 建武五年(29年・己丑)
 漁陽太守に遷った
 ↓↑
 郭伋は信賞必罰を徹底
 盗賊の首領を次々と誅した
 ↓↑
 匈奴に対し
 兵と馬を整備し
 攻守の計略を徹底した
 在職五年間で人口は倍になった
 ↓↑
 建武九年(33年・癸巳)
 潁川郡で盗賊が多発
 郭伋が太守として赴任
 ↓↑
 郭伋
 潁川郡に到着し
 群盗の罪を赦すと言い招き寄せ
 赦しを乞うた群盗を
 郭伋はみな帰農させた
 ↓↑
 郭伋は勝手に群盗を赦したことを
 光武帝が咎めることは無かった
 ↓↑
 郭伋の名は
 江南まで及び
 昔赴任した
 幽州冀州からも続々と
 盗賊が降服
 ↓↑
 建武十一年(35年・乙未)
 光武帝に従わない
 盧芳が北方を占拠し
 再度
 郭伋を并州牧とし対抗させ
 光武帝は
 盧芳
 匈奴
 の難に対処できるのは
 郭伋
 しかいないと
 朝廷へ召還することはなかった
 ↓↑
 盧+α・・・
 ↓↑
 鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)尊
 鸕鷀草葺不合
 鵜葺草葺不合
 ↓↑
 天津日高日子波限建-鵜葺草葺不合命
 彦波瀲武     -葺不合命
 彦波瀲武     -鸕鶿草葺不合尊
 日子波瀲武    -葺不合命
 ↓↑
 鸕=盧+鳥
 ↓↑
 盧芳・・・新代~後漢時代初期の武将
 ↓↑   字は君期
      涼州安定郡三水県
     (寧夏回族自治区同心県)の人
      兄は盧禽
      弟は盧程
      北方辺境で活動
      一時、皇帝を自称
      新末後漢初の群雄の1人
      王莽の統治期
      盧芳は
      武帝の曾孫・劉文伯を自称
      三水県の北方民族と共に挙兵
      更始二年(24年・甲申)・・・更の始、甲の申(猿)
      更始帝(劉玄)が長安に遷都
      盧芳は騎都尉に任命され
      安定以西の鎮撫を命じられた
      更始三年(25年・乙酉)
      更始政権滅亡
      三水の豪傑たちは
      漢の皇族を自称していた
      盧芳を上将軍、西平王として擁立
      西羌、匈奴と和約を結び
      匈奴の
      単于(単于與)は配下の
      句林王をして
      盧芳、盧禽、盧程を
      匈奴支配地域に招き
      盧芳を漢の皇帝として擁立
      建武四年(28年・戊子)
      単于輿は
      無楼且渠王を遣わし
      李興、閔堪など
      并州に割拠していた群雄と和親
      盧芳を漢皇帝として
      内地に還したいと告げ
      建武五年(29年・己丑)
      盧芳は
      李興、閔堪らから迎え入れられ
      九原県(五原郡)を根拠地とし
      北方辺境を割拠し
      五原、朔方、雲中、定襄、雁門
      5郡を占領
      建武六年(30年・庚寅)
      盧芳
      は腹心の五原太守
      李興とその兄弟を誅殺し
      腹心の
      朔方太守
      田颯
      雲中太守
      橋扈が
      盧芳に反して
      光武帝(劉秀)に降った
      盧芳は
      後漢の
      大司馬呉漢や
      驃騎大将軍杜茂の度重なる討伐を撃退
      建武十二年(36年・丙申)
      盧芳が雲中を攻略でず
      部将の
     「随育」
      から光武帝に降伏するよう脅され
      盧芳は軍を放棄し
      匈奴の支配地に逃げ込んだ
      建武十六年(40年・庚子)
      盧芳は高柳(代郡)に入り
      閔堪とその兄
      閔林を使者とし
      光武帝に降伏を申し入れ
      光武帝は盧芳を代王に封じ
      閔堪を代の相
      閔林を代の太傅
      に任命
      盧芳らに匈奴との修好を担当させた
      建武十七年(41年・辛丑)
      入朝を求める
      光武帝からの詔を受け
      盧芳は洛陽へ向った
      途中で
      光武帝は
      入朝は次の年
     (建武十八年・壬寅)に延期
      疑心を抱いた
      盧芳は
      代に戻って再び反逆
      部下の
      閔堪や閔林と数ヶ月にわたって
      攻防戦
      匈奴の救援を受け
      妻子と共に匈奴支配地域へ引き返し
 ↓↑    盧芳は、10年余り後に同地で病没
 盧芳の将であった
 随育(隋育・ズイイク)・・・随の育?
 が寝返り
 盧芳は匈奴の地へ落ちた
 ↓↑
 建武二十二年(46年・丙午)
 郭伋
 は老病であると上書し
 并州牧の罷免を願った
 光武帝は
 郭伋を
 太中大夫
 に任命し、朝廷へ召還
 光武帝は莫大な財を
 郭伋に与えたが、
 自らの死期を知って
 郭伋はすべての財産を
 親族へ分け与えた
 翌建武二十三年(47年・丁未)
 激動の時を生きた
 郭伋
 は八十六歳で死没
 光武帝は葬式に列し
 郭伋の死を悼み、墓を下賜
 「後漢書・列伝二・盧芳伝」・・・
ーーーーー
 郭文貴・・・?
 「江沢民ファミリーの
  海外資産は
  1兆ドル」・・・???
 郭文貴
 が暴露 (2019年6月4日)
 米国に亡命した中国の富豪
 郭文貴は
 自身のSNSで
 江沢民一族が海外で
 1兆ドルもの資産を有していると述べた
 そのうち
 5000万ドルはすでに洗浄
 郭氏
 4月13日
 ユーチューブで発表
 ↓↑
 郭嘉
 郭鎮、郭賀と郭禎、郭禧、郭鴻
 『後漢書』列伝2・盧芳伝
 ・・・???・・・

滅茶苦茶な自分勝手な蘿、蔦、葛のような文字の羅列・・・

$
0
0
 甜瓜(テンカ)・・・千の口の爪の厶がメロンって?

 瓢箪(ひょうたん)も瓜(うり)の類(たぐい)だけれど・・・

 マクワウリ(真桑瓜・Oriental melon)
 北アフリカや中近東地方の原産で
 紀元前2000年頃に栽培が始まり東西に伝わった・・・
 SK・NK・一K・・・「チャメ」?・・・「うり」は帰化人だったろう?
 「近親の利害関係の愛も憎悪怨恨」も「他人の比」じゃないから・・・?
 ↓↑
 敦化市(トンカシ)・・・敦煌・敦厚・惇厚
 ↓↑          呉郭魚=鰉=かわスズメ
             ナイルティラピア=イズミダイ・チカダイ
             1946年台湾でシンガポールから
             カワスズメが導入され
             導入者である
             呉振輝
             と
             郭啓彰の姓を取った
             呉郭魚
             の名で養殖された
              鰉=ひがい・ カイ・テラピア(Tilapia)
 ↓↑              異体字「鳇・鱑=魚+黄」
 吉林省
 延辺
 朝鮮族自治州の県級市
 朝鮮族が人口の約5%
 市名の由来は中庸に
 「大徳敦化」
 あるのによる
 古代
 渤海国
 初期の都城が所在した
 ↓↑
 敦煌・・・北緯40度06分 東経94度39分
 (とんこう・ドゥンファン・Dūnhuang)
 中国と西域との出入口
 甘粛省
 北西部の都市
 酒泉市の管轄下の県級市
 シルクロードの分岐点として
 栄えたオアシス都市
 近隣にある
 莫高窟
 敦煌文書は有名
 歴史的な敦煌は
 敦煌市
 と
 瓜州県・・・瓜(うり)の州の県(懸)
 を合わせた
 領域に
 ほぼ重なる
 ↓↑
 紀元前2世紀前半
 匈奴の
 冒頓単于が
 月氏を攻めて支配した
 武帝の代
 西域に積極遠征を行い
 敦煌郡を設置
 設置年代は
 紀元前111年・・・壱壱壱・百拾壱
 だが
 紀元前92年ごろの
 李広利
 将軍の
 大宛(フェルガナ)遠征の際に設置・・・説
 この地の住民
 漢政府により送り込まれた
 窮迫農民
 犯罪者で
 敦煌の住民が
 漢の中心地へと帰ることは禁じらた
 ↓↑
 五胡十六国時代
 中央から自立した
 西涼の首都
 沙州(敦煌市沙州鎮)
 瓜州(敦煌市)
 と呼ばれ
 西涼は
 北魏
 によって滅ぼされた
 魏晋南北朝時代
 仏教が中国に布教した時代で
 この地では
 竺法護などの僧が
 西方よりやってくる経典の訳に励み
 布教に貢献
 366年
 僧楽僔(らくそん)
 によって
 莫高窟
 の掘削が始まった
 五胡十六国時代から
 敦煌は
 張氏・索氏・令狐氏・范氏・宋氏
 五家の名族によって実質支配され
 名族社会を形成
 ↓↑
 唐代
 西域への玄関口
 安史の乱で
 唐政府の統制力が弱まり
 781年
 吐蕃の侵攻を受け
 786年以後70年間
 吐蕃の支配下
 摩訶衍
 が吐蕃へ禅を伝えたが
 カマラシーラ(蓮華戒)
 との
 サムイェー寺の宗論に敗れ
 中国仏教は追放された
 吐蕃が唐と対立すると
 吐蕃の支配下では交易が行われず
 敦煌は衰退
 851年
 漢人の
 張議潮
 が
 吐蕃に反乱を起こし
 独立し
 唐に帰順して
 帰義軍節度使に任じられた
 唐政府の権威は衰え
 実質的には独立勢力であった
 張議潮勢力の下で交易は再開された
 曹氏が・・・曹?
 帰義軍
 の勢力を引き継いだ
 ↓↑
 北宋代
 タングートが
 西夏を建て
 1036年にこの地を占領
 敦煌文書が
 莫高窟の
 耳窟
 の中に放り込まれ
 入口を塗り込められた
 1227年
 モンゴル帝国が
 西夏を滅ぼし
 元の支配下に入る
 中国と西方を結ぶルートが
 シルクロードから
 南方の海の道へと移行し始め
 寂(さび)れた
 ↓↑
 1900年
 この地にいた
 道士
 王円籙(オウエンロク)
 が
 莫高窟中の
 第16窟の壁の中に隠されていた
 耳窟(第17窟・蔵経洞)
 から大量の文献を発見
 地方官と
 王円籙は学術的見識を有さず
 文書は放置された・・・
 ↓↑
 ウズベキスタン・ソグゾ(粟特・古波斯語・Suguda・Sogdiana)
         ソグディアナ
 ↓↑
 桜蘭=クロライナ
   (クロラインナ、Kroraina、Kroraimna)の音訳
    鄯善国の首都
 楼蘭(Loulan・現地名はクロライナ Kroraina)
 中央アジア
 タリム盆地の
 タクラマカン砂漠北東部
 (新疆ウイグル自治区チャルクリク)
 かつて存在した都市、国家
 「さまよえる湖」
 ロプノールの西岸に位置
 シルクロードが
 西域南道と天山南路に分岐する要衝にあって
 栄えた
 紀元前77年
 漢の影響下で国名を
 鄯善(shan shan・ゼンゼン)と改称
 楼蘭の名は長く用いられた
 4世紀頃
 ロプノールが干上がり
 国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれた
 1900年
 スウェーデンの探検家
 ヘディンによって遺跡が発見
 ↓↑
 手紙は匈奴の君主
 冒頓単于が
 前漢の
 文帝に宛てて送ったもの中に
 冒頓単于は月氏に対して勝利し
 楼蘭(ロウラン)
 烏孫(ウソン)
 呼掲(コケイ)・・・「袁紇・烏護・韋紇」などとも記録
 及び近隣の26国を平定したと宣言
 この手紙は
 文帝の四年(紀元前176年)に送られたもので
 楼蘭は少なくとも
 紀元前176年以前に形成され
 月氏の勢力圏にあった
 紀元前176年頃
 匈奴の支配下に入った
 『漢書』西域伝
 西域を支配下にいれた匈奴は
 焉耆、危須、尉犁
 の間に
 僮僕都尉を置き
 楼蘭を含む西域諸国に賦税し
 河西回廊に数万の軍勢を置いて
 交易を支配
ーーーーー
 ・・・???・・・
 葛籠(つづら)
 ツヅラフジのつるで編んだ
 蓋つきの籠の一種
 竹を使って網代に(縦横の組合わせ)
 編んだ四角い衣装箱
 ↓↑
 つづら=葛篭・防己・黒葛・黒桂・綴ら
 ↓↑
 西域・・・中国洛陽、日本からみた西
 高昌国
 楼蘭
 敦煌・瓜州・・・メロンの特産地だった?
 莫高窟(バッコウクツ・Mogao Caves)
     敦煌石窟
 ↓↑
 火焔山
 烏魯木斉(ウルムチ)・ウル・ウルク
           ・うり・うりく
 ウズベキスタン(Uzbekistan・・・渦壁州旦?
                 碓(摸)経記州譚?
         オズベキスターン・Oʻzbekistoni)
         北緯37度~46度
         東経56度~74度
         月即別・月祖伯
         烏茲別克斯坦
         烏茲別克
 ↓↑
 主要都市
 首都タシュケント
 アンディジャン・ブハラ
 サマルカンド
 ナマンガン・ヒヴァ
 ↓↑
 敦煌
 楼蘭
 キョウダン=杏壇・・・孔子廟
      =教団・凶弾・教壇
       狂壇・経壇・兇弾
 ↓↑
 粟=覀+米
    ショク
    ソク
    ゾク
    あわ・・・慌(あわ・あは)てる
    ふち
    もみ
    イネ科の一年草
    ふち・扶持米
    もみ・穀物の外皮がついたままの実
    つぶ・あわつぶに似たもの
 ↓↑  ↓↑
    地名
    粟 (あわ)
    粟井(あわい)・粟佐(あわさ)
    宍粟(しさわ)・白粟(しらわ)
 ↓↑  ↓↑
    諺・・・粟(あわ・ゾク)
    貫朽粟陳(カンキュウゾクチン)
        財産の貯めすぎで腐る
 ↓↑  ↓↑
    滄海一粟(ソウカイのイチゾク)
        大海一滴・九牛一毛
 ↓↑  ↓↑
  粟散辺地(ゾクサンヘンチ)
        辺境にある小さな国
  粟散辺土(ゾクサンヘンド)
    辺地粟散(ヘンチゾクサン)
 ↓↑  ↓↑
    粟粒一炊(ゾクリュウイッスイ)
        人の世界での繁栄は儚い
       『枕中記』
        一炊之夢
        栄華之夢
        邯鄲之夢
        黄粱之夢
        盧生之夢
 ↓↑  ↓↑   ↓↑  ↓↑
  斗粟尺布(トゾクシャクフ)
    尺布斗粟(シャクフトゾク)
        兄弟の仲の悪さの災い
 ↓↑  ↓↑
  布帛菽粟(フハクシャクゾク)
        衣食をする上で必要なもの
ーーーーー
 申し訳ない・・・
 ・・・滅茶苦茶な自己納得の蘿、蔦、葛のような文字の羅列・・・?
 ↓↑  ↓↑
 「葛=本草和名(918 年)」
 vine=つる植物・つる草・かずら
    自らは直立できず、他の植物に絡んだり
    物の表面をはって伸びる植物の総称
    vain(ヴァイン・ワイン)
 それでも・・・
 vine nursery=ブドウ園
 vine of ore=金脈単語帳
 vine peach=マンゴーメロン
 vine snake=ツル蛇
 vine tomato=枝付き赤茄子(トマト・苫と)
 balloon vine=風船カズラ
 black vine weevil=キンケクチブトゾウムシ(金毛口太象虫)
          果樹につく害虫
 chocolate vine=木通(アケビ)・通草
 cinnamon vine=長芋(ナガイモ)
 clinging vine=まとわりつく蔓
        他人にまとわりつく人
        そばを離れない人
        ベッタリくっつくヒト
        うっとしい(鬱陶しい)迷惑なヒト
        邪魔になってうるさい・煩わしい
        しつこい
 grape vine trellis→ grapevine trellis
 ivy vine=ツタのつる
 jade vine=翡翠葛(ヒスイカズラ)
 kudzu vine=クズ
 lace-flower vine=レースフラワーバイン
         イワたばこ
 love vine=ネナシカズラ(菟糸=役立たず)・・・訳立たず?
 Madeira vine=アカザカズラ( 藜蔓)
        ウンナンヒャクヤク(雲南百薬=ユンナンパイヤオ)
        オカワカメ(陸若布)
        リュウキュウヒャクヤク(琉球百薬)
        マデイラカズラ
 matrimony vine=クコ(枸杞)
 muscat vine=マスカット
 ↓↑  ↓↑
 蘿、蔦、葛(arrowroot・クズウコン=葛鬱金・宇金・郁金・玉金
     アロールート)は
 薬(くすり)
 葛籠(つづら)の原材料・・・
 藤原(鎌足・中臣鎌子)
 葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)・・・
 葛=くず=屑・国栖・頽・九頭・・・?
ーーーーー
 ・・・アンタは人間のクズ、ってか・・・

「舌敝耳聾(ゼッペイジロウ)」・・・絶北・治賂得・・・・?

$
0
0
 「用心棒」も
 「椿三十郎」も
 「金魚の糞」に・・・トランプ・金・文・・・
 「あばよ」・・・
 アバヨッ!!・・・でアルが、天神様の怒りにはドウショウもない?
  ↓↑
 「さらばよ」の略
 「また、逢はばや(あはばや)」の転
 「ああ、あれは」
 という感動を示す語
 「あは」に
 助詞の「よ」がついたもの
 「按配よう(あんばいよう)」の略語・・・
 「あばあば」はあばよの幼児語
 「按配よう(あんばいよう)」
 「さあらばよ」
 「按排良い」
 「失礼します
  それでは
  では、バイバイ
  じゃあ、さらばよ
  さらば
  あばよ
  ↓↑
 「阿婆擦れ(あばずれ)」・・・「粟・安房・阿波・泡・会わ」ズレ?
  ↓↑
 「あば=新品」・・・熊本弁
  ↓↑
 「虻=あぶ
   =阿部・安部・安歩・阿武・阿毎             ・・・阿毎王朝⇔煬帝(隋)
   =焙・炙・危・蝱・煬
  ↓↑
 「網走」・・・血走り・地走り・・・「鼠、龍、吹雪、砂塵」の地走り
  ↓↑     ↓↑
        千葉尻
        房総半島(ぼうそうはんとう)・・・阿波からの移住        南を「カミフサ・カズサ(上総)」国        北を「シモフサ・シモウサ(下総)」国
        ふさふさ(総々)した毛(毛奴)
        むさ(牟佐)苦しい
        蝦夷(えぞ・カイ)の居住地
        上総・下総
        千葉=律令制以来の房総三国

        千葉・房総半島の暗闇・・・カラスの形姿?
        ↓↑ 上総国(南総)
           安房国(房州)全土
           下総国(北総)の一部
       『万葉集(天平勝宝七年・755年)』
        に防人の
        下総国
        千葉郡の
        大田部足人が詠んだ
       「知波乃奴乃(千葉の野の)」と記録
        奈良時代の『日本書紀・古事記』に
        応神天皇が
        大和国から近江国に向かう途中
        山城の宇治野の丘で遠く
        葛野一帯を望んでの
        国見歌「千葉の」は
       「数多くの葉が繁茂する」の意
        葛の葉が良く繁茂し
        葛の枕詞として用いられた・・・
  ↓↑    ↓↑
        「茅(ちがや)」が生い茂る土地
        「茅生(ちぶ)」と呼ばれ
        転じて「ちば」になった
        葉が多く重なる「千葉」
        「千葉の」は数多くの葉の意
        「葛の葉」が良く繁栄したことから
        「葛、葛野の枕詞」として用いた
  ↓↑
 「ア・パ・シリ(我らが見つけた土地)」
 「アパ・シリ(入り口の地)」
 「チバ・シリ(幣場のある島)」など
  ↓↑
 「ア・パ・シリ(我らが見つけた土地)」
 「アパ・シリ(入り口の地)」
 「チバ・シリ(幣場のある島)」
 「チパシリ=Cipa-sir(幣場(ぬさば)の島)」
  ↓↑
 「chi 吾・pa 見つける・sir 島(国)」
 「チ chi(ci)=吾=a(吾)」
 と交代
 「a pa sir」
 に変化した・・・
 「chipa=inaw-san(幣・棚)」
 の古語で
 「sir シリ=島」で
 「イナウを祀った島」・・・伊能(忠敬)?
  ↓↑
 幣=幤=異体字「幤」
 幣=敝+巾
   㡀+攵+巾
   八+巾+八+攵+巾
   ヘイ
   ぜに
   ぬさ
   みてぐら
   神前に供える絹
   贈り物・貢ぎ物
   宝物・価値の高い物品
   ぜに・お金・通貨・貨幣
  ↓↑
 「衣幣覆穿(イヘイリセン)」
       遺秉 履践(実行・実践)?
       遺秉=田に遺されている落穂
       「彼に遺秉有り  此に滞穂有り」
        彼におとせる秉あり、此にのこれる穂あり        
 貧しいことのたとえ
 「衣幣」は使い古して敗れた衣服
 「覆穿」は履物が破れ穴があくこと
 襤褸ぼろになった衣服
 貧しい服装
 「衣幣れ履穿つ」とも
 『荘子(山木)』
  ↓↑
 敝=㡀+攵
   八+巾+八+攵
   ヘイ
   おとろえる
   つかれる
   やぶる
   やぶれる
   やぶれてぼろぼろになる
   よわる
   自分に関すること
   自分側のことを謙遜していうことば
   弊社
   おおう・おおいかくす=蔽
  ↓↑
  「千金敝帚(センキンヘイソウ)」
        撰金  並走・併走?
  自分の地位や能力など理解せずに
  思い上がることのたとえ
  自分の物なら
  どんなにつまらないものでも
  貴重に思えることのたとえ
  「弊帚」=使い古してぼろぼろになったほうき
       自分の物なら
       そのようなものでも
       千金の価値があると考えるという意
  「千金敝帚・敝帚千金」とも
  『東観漢紀(光武帝)』
  ↓↑
  「舌敝耳聾(ゼッペイジロウ)」
        絶北  治賂得?
  話が回りくどくて分かりづらいことのたとえ
  年老いて衰えたことを言い表す
  「舌敝」は舌がぼろぼろに破れる
  「耳聾」は耳が聞こえなること
  話す側が疲れ
  聞く方も飽きるという意
  「舌弊耳聾」とも
  『戦国策(秦策)』
  ↓↑
  「敝衣蓬髪(ヘイイホウハツ)」
  ぼろぼろの服
  乱れ放題の髪
  身なりが汚い様子
  「敝衣」はぼろぼろの服
  「蓬髪」は乱れ放題でよもぎのような髪
  「弊衣蓬髪」とも
  「弊衣破袴(ヘイイ ハコ)」
        兵 威 波来・波鼓・葉語?
ーーーーー
 ・・・???・・・

蓼の虫は蓼で死ぬ=蓼の虫葵に移らず・・・雪の明日は裸虫の洗濯

$
0
0
 「かえる」の鳴くこの頃・・・
  ↓↑ ↓↑
 鳧=鳥+几・・・几=キ・つくえ・ひじかけ・・・比字掛?
 ↓↑       脇息(きょうそく)・台・机
          ヒジを置いて休息する道具
 ↓↑      「几案之才」・「明窓浄几(欧陽脩・試筆)」
 フ
 けり
 かも
 野がも。カモ科の水鳥・・・鴨
 けり・チドリ科の水鳥・・・千鳥・鴴・鵆・千登里
 ケリ(鳧・計里・水札)
 「ケリリ」と鳴くことが名前の由来
 チドリ目チドリ科タゲリ属に分類される鳥類の一種

 ↓↑
 国巡る
 獦子鳥(あとり)
 鴨(かま)
 気利(ケリ)
 行き廻り
 帰り来までに
 斎ひて待たね
 (刑部虫麻呂・万葉集20・4339)
 ↓↑
 国巡(めぐ)る
 獦子鳥(あとり)
 鴨(かま)
 鳧(けり)
 行き廻(めぐ)り
 帰(かひ)り来(く)までに
 齋(いは)ひて待たね
 (刑部虫麿・万葉集20)
 ↓↑
 アトリ(獦子鳥・花鶏)
 鳥綱スズメ目アトリ科アトリ属
 ↓↑
 あとり=獦子鳥=カッシチョウ
     花鶏=カケイ
 ↓↑
 日本には
 冬鳥として
 秋にシベリア方面から渡来
 日本海より山形県、富山県等に飛来し
 それから各地に散らばる
 渡来する個体数は年による変化が大きい
 ↓↑
 「鳧(けり)=鳥+几」・・・読み=よみ=黄泉・夜見
 音読み=「フ・ブ」
 訓読み=「かも」
     「けり=鳥の名」
      過去の意を示す助動詞の「けり」
      鳧の字をあてる
      きまり・かた・終止・決著の意
 ↓↑    
 「けり=履物をいうアイヌ語」
     ・・・くつ=靴・・・くつ=沓=「水+日」?
 ↓↑
 「4339 刑部虫麻呂」 巻二十 (うち防人歌)
       ・・・高橋連蟲麻呂?
       ・・・谷潜乃=「たにぐく」の=蟾蜍の
       ・・・多邇具久(たにぐく)=ひきがえる
 ↓↑
 久尓米具留・・・・国廻(くにめぐ)る
 阿等利加麻氣利・・あとりかまけり
 由伎米具利・・・・行き廻り
 加比利久麻弖尓・・帰(かひ)り来(く)までに
 已波比弖麻多祢・・斎ひて待たね
          右一首 刑部 虫麻呂
 ↓↑
 刑部虫麻呂(おさかべの むしまろ)
       駿河国の防人
       755(天平勝宝七)年
       筑紫国に派遣されていた
 ↓↑
 け(来)・り=自ラ変
        動詞「く(来)」の
        連用形「き」に
       「あり」が
        接続した「きあり」の変化
        来ている・やってきた
 ↓↑
 けり(助動)=活用
        「けら・けり・ける・けれ・けろ」
        用言の連用形に付く
        過去の助動詞
 ↓↑
 けり=事実としては存在していたにもかかわらず
    それまで気づかれていなかったことに
    気づくことを表わす
    発見を表わす
    ~いたのだな・~たのだな
 ↓↑
    すでに気づいていることであるが
    なぜ起こっているのか
    分かっていないことについて
    こういう条件があれば
    そうなるのが道理であるという
    筋道を見いだして、納得することを表わす
    それで~ていたのだな
    そういう訳で~たのだな
 ↓↑
    すでに聞き手にもよく知られている
    神話、伝説、真実、一般的真理などを
    とりあげ
    それが話手・聞手の共通の認識であることに
    注意を喚起し、再確認する意
    ご存知のように~です
 ↓↑
    語りのなかで、新たに提示する出来事に
    確たる存在性があることを示す
 ↓↑
    ある物事が
    成り立つ時間に
    関係のない
    属性・性質をもつことを表わす
    背景や原因・理由などを示す
 ↓↑
   「古事記(712)上・歌謡
   「赤玉は 緒さへ光れど 白玉の
    君が装(よそひ)し
    貴くあり理(ケリ)」
   「古事記(712)下・歌謡
   「引田(ひけた)の
    若栗栖原(わかくるすばら)
    若くへに 率寝(ゐね)てましもの
    老いに流(ケル)かも」
 ↓↑
    きまり・かた・終止・決著の意
 ↓↑
    水札(ケリ)・・・推察=スイサツ・・・?
 ↓↑
    木札が縁起物・・・札の幌
    ・・・かるた・歌留多・骨牌・加留多
      の木札
       北海道は「下の句かるた」
       取り札に書いてある
      「下の句」を読み上げ
       木札をトルのが北海道流
       北海道独特の遊び方
       下の句かるた
       取る札が木(板)
      「板かるた」とも
       開拓時代に
       屯田兵によってもたらされた・・・
       それ以前から
       羽幌方面の人たちが遊んでいた
 ↓↑
 文化文政(1804~1829年)頃
 会津若松藩で
 板かるた
 が武家や商家で行われた・・・
 「下の句を読みて下の句を採る習ひあり」
  取り札が「木の板」
  それに独特の書体で文字が書かれている
 ↓↑
 国廻る
 あとり
 かまけり
 行き廻り
 帰り来までに
 斎ひて待たね 「刑部虫麻呂」
 ↓↑
 父母
 え斎ひて
 待たね
 筑紫なる
 水漬く
 白玉取りて来までに 「川原虫麻呂」

 ジャンプ
 ホップ・ステップ・ジャンプ=the hop, step, and jump
 カエルの三段跳び・・・変える三段論法・・・
 ↓↑
 ヒキ(蟇蛙)
 ガマ(蝦蟇)ガエル
 ガマ、イボ(疣・肬)ガエル
 蟇蛙、蟇、蟆
 などの異称をもち
 漢名を
 蟾蜍(センジョ)
 西王母(セイオウボ)の
 秘薬を盗んだ
 姮娥(コウガ)が
 月に逃げて
 ヒキガエルになった
 「後漢書」

ーーーーー
 ・・・???・・・
 多邇具久(たにぐく)=谷潜=ひきがえる・・・引き換える?
 ↓↑          多(おほの)
            邇(近い・近いところ・近づくに・ニ・ジ)
            具(そなえる)
            久(ひさしい)
           「邇邇芸命=ににぎのミコト=瓊瓊杵尊」
 ↓↑           ↓↑
            在邇求遠(ザイジキュウエン)
            正道は身近なところに求めるべきなのに
            人は遠いところにあるものを求めようとする
            親や年長者など相応に敬うなど
            身近なことから始めれば
            結局天下はうまく治まる
 ↓↑         『孟子(離婁・上)』
 日本神話に登場する神
 谷蟆、谷蟇
 の字を当てて
 ヒキガエル・・・引き換える?
 クク=ヒキガエルの鳴き声の擬声語
 ↓↑
 多邇具久=タニグクの語源
      谷潜り(たにくぐり)の意
      ・・・「谷潜=ヤセン・コクセン」
     「クク」は
     「ヒキガエルの鳴き声の擬声語」
     ヒキガエルを
     熊本県北部では「タンガク」
     和歌山県熊野では「タンゴク」
     「タニグク」の訛である・・・
 ↓↑   ↓↑
    「谷蟆とは
     傀儡子(くぐつ)の事ではなかろうか」
    「クグツは
     蟆人(くくびと)の義ではなかろうか
     (喜田貞吉)」と述べている・・・?
     ナゼ「傀儡(くぐつ)」なんだか・・・具沓(舄・靴・履)?
       「傀儡(カイライ)政権」・・・・歌意等意?
 ↓↑   ↓↑
     蟆子(ブユ)=ハエ(蝿)目ブユ(蚋)科の昆虫の総称
     あぶ(虻・蝱)=双翅目アブ科に属する昆虫の総称
     はえ(蠅・蝿)=ハエ目(双翅目)に属する昆虫のうち
             ハエ亜目(短角亜目)
             環縫短角群
             ハエ下目(Muscomorpha)に属するものの総称
             ハエ目イエバエ科、クロバエ科などの昆虫の総称
             ・・・「はえいろね=蝿伊呂泥=倭国香媛
                      =紐某姉(はえいろね)
                       意富夜麻登久邇阿札比売
               はえいろど=蝿伊呂杼=紐某弟(はえいろと)
                 二人は孝霊天皇の妃」
     具+沓(水+日=靴・履・舃・舄)?
 ↓↑   ↓↑
     喜田 貞吉(きた さだきち)
     阿波国
     那賀郡
     櫛淵村
     に生まれる
    1871年7月11日(明治4年5月24日)                 ~1939年(昭和14年)7 月3日)
 ↓↑   ↓↑
     辛未(丁乙己)偏印・偏財 墓⇔己卯
     乙未(丁乙己)食神・偏財 墓⇔庚午
     癸丑(癸辛己)  ・比肩冠帯⇔辛丑
      寅卯空亡   大運1939年8月 戊子 ・正官
     戊午(丙 丁)正官・正財 絶⇔甲午
 ↓↑
 四年壬申
 藤原宇合卿の
 西海道節度使に遣はさるる時
 高橋連「虫麻呂」・・・同名の人間が存在するのは
 ↓↑          不思議じゃぁないが「ムシ麻呂」
    「ムシマロ」&「浦島太郎」&「乙姫・亀・鯛」?
            高橋「虫麻呂」・・・ 蟲〇=おまる
            刑部「虫麻呂」・・・ 蟲〇=御虎子
            川原「虫麻呂」・・・ 蟲〇=簡易便器
            蟲々
           「獅子、身中の虫」
           「虫が好かない」
           「虫が知らせる」
           「虫が付く」
           「雪の明日は裸虫の洗濯」
           「夏の虫、氷を笑う」
           「蓼の虫は蓼で死ぬ=蓼の虫葵に移らず」
            夏虫疑冰(カチュウギヒョウ)
            夏虫疑氷(カチュウギヒョウ)
            身中之虫(シンチュウのムシ)
            彫虫篆刻(チョウチュウテンコク)
            雕虫篆刻(チョウチュウテンコク)
 ↓↑          蓼虫忘辛(リョウチュウボウシン)
 の作る歌一首 并せて短歌
 ↓↑
 ・・・ナンで「万葉仮名」を以下のような
    文章にできるんだか不思議・・・
 ↓↑   ↓↑
 白雲の 龍田の山の 露霜(つゆしも)に
 色づく時に 打ち越えて 旅行く君は
 五百重(いほへ)山 い行(ゆき)さくみ
 賊(あた)守る 筑紫(つくし)に至り
 山の極(そき) 野の極(そき)見よと
 伴(とも)の部(べ)を
 班(あかち)遣(つか)はし
 山彦(やまびこ)の 答へむ極(きは)み
 蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極(きは)み
 国形(くにかた)を 見(めし)たまひて
 冬こもり 春さりゆかば 飛ぶ鳥の
 早く来まさね 龍田道(たつたぢ)の
 岡辺(をかへ)の道に 紅躑躅(につつじ)の
 にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に
 山たづの 迎へ参(まゐ)出む
 君が来まさば(6-971)
 ↓↑
 反歌
 千万(ちよろづ)の軍(いくさ)なりとも
 言挙げせず
 取りて来きぬべき男(をとこ)とぞ思ふ(6-0972)
 ↓↑
 原文
 白雲乃・・・・・白雲の
 龍田山乃・・・・龍田山の
 露霜尓・・・・・つゆしもに
 色附時丹・・・・赤(丹)く色づくとき
 打超而・・・・・それをうち越えて
 客行<公>者・・・お出かけになるあなたは
 五百隔山・・・・幾重にも重なった山を
 伊去割見・・・・踏み分けて行き
 賊守・・・・・・敵の侵入を防ぐ
 筑紫尓至・・・・筑紫に至り
 山乃曽伎・・・・山の果て
 野之衣寸見世常・野の果てまでも監視せよと
 伴部乎・・・・・部下たちを
 班遣之・・・・・方々(班)に遣わし
 山彦乃・・・・・山びこの
 将應極・・・・・将に応える限り
 谷潜乃・・・・・蟾蜍(蟇蛙・たにぐく)の
 狭渡極・・・・・渡る極みの限り
 國方乎・・・・・国土を
 見之賜而・・・・ご覧になって
 冬<木>成・・・・冬木に成り
 春去行者・・・・春が去り行き
 飛鳥乃・・・・・飛ぶ鳥のごとく
 早御来・・・・・早く帰ってください
 龍田道之・・・・龍田道の
 岳邊乃路尓・・・岡の辺の道に
 丹管土乃・・・・赤いつつじが
 将薫時能・・・・将に咲き映えるとき
 櫻花・・・・・・桜の花
 将開時尓・・・・将に開花するときに
 山多頭能・・・・山たづの=接骨木・庭常’(にわとこ)
         スイカズラ科の落葉低木
 迎参・・・・・・お迎えに参事
 出六(公)之・・・出むし?
 来益者・・・・・来たるは歓迎いたします
 ↓↑
 反歌
 千萬乃・・・・・千万の
 軍奈利友・・・・軍なりとも
 言擧不為・・・・言挙げせず
 取而可来・・・・取りて来ぬべき
 男常曽念・・・・男とぞ思ふ(972)
 ↓↑
 任地へ旅立つ藤原宇合を
 高橋虫麻呂が
 龍田山のふもとまで見送り
 別れの際に詠んだ
ーー↓↑ーー
 鳧=けり
 ↓↑
 過去の助動詞「けり」に当てて用いられる字
 きまり・決着・結末
 「かたをつける」
 「結末がつく・終結する・決着する」
 「けり」を「けろ・ケリ・ける・けれ・けろ」
       ・・・田圃のカエル(蛙)の鳴き声?
       タゲリ(田鳧)
        ケリ(鳧・計里・水札)の名前由来
          「ケリリ」と鳴くので・・・?
 「かり・きり・くり・ケリ・こり」
            名-「ごり=石伏魚・鮴・凝・垢離・懲・語理」
 名-「ごり=石伏魚」・・・石(丆+口・いわ・いし・セキ)に(を)
               「丆=面」の口・・・
               丆(鋤・鍬)で口(〇・穴・井戸)を掘る
               丆(梃子棒)で口(〇=石)を動かす
             伏(ふせる・ふす・ふし・フク)
             魚(まな・うお・さかな・ギョ)
             磐(巖・岩・違和)
             or
             石(意思・意志・医師・遺子・異誌)に
             真名を
             伏せる・・・?
 ↓↑
 なごり=名残
     当て字で、語源ではない
     「なごり=余波」で
     波が打ち寄せたあとに残る
     海水や海藻を意味する
     「なみのこり(波残り)」
     余韻や影響など
     何かの事柄の後に残るものを
     「なごり」
     「お名残おしい」

 「波+残り」
 なごり=余波=風が止んだあとに残っている波
     潮が引いたあとに残る海水
     物事が終わったあとに
     それを思い起こさせるものが残っていること
     別れたあともその人の強い印象が心に残る
 名残惜しい=なごりおしい
       波残り(なみのこり)
       波が打ち寄せた後の海水や海藻
 ↓↑
 「あな名残惜しやな(あななごりおしやな)」
 ↓↑
 なごり=ある事柄が過ぎ去った後
     なおそれを思い出させる
     気配や余韻・影響
     人との別れを惜しむ気持ち
     去った人や亡くなった人を
     思い出す「よすが(縁)」となるもの
     故人の形見や子孫
     残り・残余
     物事の最後・名残り
 ↓↑
 「けり=鳧がつく」
 ↓↑
 「余波=なごろ・なごり」
 ↓↑
 13日目・十三夜月・十三日月
 豆名月・栗名月・後の月(のちのつき)
 月の名残(つきのなごり)
 陰暦で毎月十三日の夜の事
 旧暦の九月十三日の夜の事
 八月の十五日に対して
 後の月(のちのつき)と呼ばれ
 十五夜の「月」についで
 「月」が美しいとされ
 十五夜の
 芋名月(芋を供える)に対し
 九月の十三夜は
 枝豆や栗を供え
 豆名月、栗名月とも呼ばれる
 ↓↑
 早くを「はしり」と称したり
 遅くして「なごり」
 ↓↑
 塩梅=按排=按配=あんばい
   (按排・按配)
    物事のぐあい・ようす
    程合いを考えて
    程よく並べ
    ととのえたり処理したりすること
 ↓↑
 「さらばよ」
 「また逢はばや(またあはばや)」
  の転
 「あばよ」
 ↓↑
 「ああ、あれは」
  という感動を示す語
 「あは」に
  助詞の
 「よ」がついたもの・・・
 ↓↑
 「按配よう(あんばいよう)」
 の略語という説・・・
 ↓↑
 加減よく・上手に・都合よく
 get along
 「あんばい」=「あわい(間)」の意
 「あんばい」=健康や天候の間についていう
ーーーーー
 ・・・???・・・


贋作コイン・・・贋作報道・・・タンザニア =「坦桑尼亜」

$
0
0
 探砂貳雅-騒動・・・桑造・・・?
 United Republic of Tanzania
 Jamhuri ya Muungano wa Tanzania (スワヒリ語)
 タンザニア
 漢字表記は「坦桑尼亜」
 ↓↑     ・・・坦=十+一+日+一
             たいら・たいらか
             ひらたい・タン
             おだやか・やすらか
             明らか・はっきりしている
           桑=桒=又+又+又+木
               十+++十+十+八
             くわ・ソウ
             か=くわ=鍬・句倭
             mulberry・マルベリー
             モルス属(Morus)の
             落葉木の総称
             蚕の飼料
             仏語・ミュール(Mure)
             万葉仮名=桑=くわ=具波?
            「麻具波比=まくはひ(交接)」
        ク=咥(くわ)える=口+至(一ム土)
          ・・・口にクワえる
          銜(くわ)える=彳+釘+一=彳+金+亍
          ・・・口にクワえる
             釪(カ)=鉢釪(はつう)
             僧侶が用いる金属製の食器
             釬(てこ・カン)
             腕につける防具
             篭手(こて)・ゆごて
             弓を射るとき
             弦から手を保護するもの
             はんだ(半田・盤陀・solder)
             金属同士を接着する金属
        ハ=歯の形・先端のハ=刃・葉・羽
              戦端のハ=防人の矛・剣
        ワ=カ・・・くわぁ・・・か
           カ=和
             和氏の璧
            (かしのへき
             かしのたま)
            『韓非子(和氏篇十三)』
            『史記(和氏篇十三)』
            「連城の璧」とも
            楚の人卞和(ベンカ)の宝石の故事
            和氏=カシ=瑕疵
          ワィ=倭・・・Wey・Wei・ウェィ?
 ↓↑  ↓↑   ↓↑ ↓↑
              金光明最勝王経音義
     以呂波仁保反止  以呂波耳本へ止
    (いろはにほけと)
     知利奴留遠和加  千利奴流乎和加
    (ちりぬるをわか)
     与太礼曽川称奈  餘多連曽津祢那
    (よたれそつねな)
     良武宇為乃於久  良牟有為能於久
    (らむうゐのおく)
     也末計不古衣天  耶万計不己衣天
    (やまけふこえて)
     安左畿由女美之  阿佐伎喩女美之
    (あさきゆめみし)
     恵比毛世寸旡   恵比毛勢須
    (ゑひもせす)
 ↓↑  ↓↑   ↓↑    ↓↑
     伊路波歌
     伊呂八二保部(反)止  以呂波耳本へ止
     千利奴流乎      千利奴流乎
     和加与多礼曽     和加餘多連曽
     州祢奈良牟      津祢那良牟
     宇井乃        有為能
     於久也末(万)      於久耶万
     介不己江天      計不己衣天
     阿散幾弓女三之    阿佐伎喩女美之
     恵比毛世須(数)尓   恵比毛勢須
 ↓↑     ↓↑      ↓↑
        たらちねの母が
        そのなる
        桑(くは)すらに願へば
        衣(きぬ)に
        着ると
        いふものを(万葉集・巻七 1357)
 ↓↑     ↓↑      ↓↑
       「足乳根乃母・・・たらちねの母
        之・・・・・・・の
        其業・・・・・・その生業(なりわい)
        桑・・・・・・・クワ
        尚願者・・・・・更になを願うは
        衣尓着・・・・・衣に着る
        常云物乎」・・・常にいうものなのに
        たらちねの母が
        そのなる桑すらに願へば
        衣 (きぬ) になって
        着るといふものを
             又=一+乂
            「サンフランシスコ=桑港」
           尼=あま・ニ
           亜=あまねし・ア・次第
 ↓↑     ↓↑      ↓↑
 SKK・・・嘘がバレた!
 ↓↑
 タンザニア
 国の標語:Uhuru na Umoja
(スワヒリ語: "自由と統一")
 ↓↑
 国名は
 タンザニアを構成するために併合した
 タンガニーカ(Tanganyika)
 と
 ザンジバル(Zanzibar)
 の名前に
 アフリカ南部で栄えた
 アザニア(Azania)文化の名前を複合し
 1964年に命名された
 ↓↑
 報道の争点
 「タンザニアの法定通貨かどうか」か
 2019年9月18日
 タンザニア中央銀行が
 「(韓国)独島コイン」の発行を
 完全否定
 「その通貨を発行するための
  いかなる会社との契約も締結していない」
 ↓↑
 「タンザニア銀行は
  2019年7月に
  (韓国)独島の3000シリング貨幣を発行した
  というインターネット上の情報に
  反論したいと考えている。
  中央銀行は
  いかなる方法においても
  その通貨を発行しておらず
  また、その通貨を発行するための
  いかなる会社との契約も締結していない」
 ↓↑
 2019年9月
 15日
 KBS(韓国放送公社)によると
 タンザニア中央銀行は
 7月に東島・西島が刻まれた
 純銀製の記念コインを発行した
 コインの表には英語で
 「韓国の領土」
 というフレーズと
 韓半島(朝鮮半島)の地図を刻印し
 裏面には
 タンザニアの国章の模様と共に
 額面3000シリング(約140円)
 と表記されている
 タンザニアで法定通貨として
 認めるという意味だ
 タンザニア中央銀行が発行した
 独島記念コインは
 現在国内外で販売されている
 以下の記事全文はソースをご参照ください
https://s.japanese.joins.com/article/641/257641.html
 ↓↑
 2019年9月16日
 タンザニアの中央銀行が
 「独島(ドクト、日本名・竹島)は
  韓国の領土」
 と記された記念コインを発行
 ↓↑
 タンザニアで
 「独島は韓国の領土」記念コイン発行
  Joongang Ilbo
 中央日報(韓国)
 タンザニアの中央銀行が
 「独島(ドクト、日本名・竹島) は
  韓国の領土」
 と記された記念コインを発行
 ↓↑
 アフリカ・タンザニアの中央銀行が
 竹島(島根県隠岐の島町)は
 「韓国の領土」と
 明記した記念コインを発行したとの
 韓国の報道
 ↓↑
 韓国公共放送テレビ局のKBSが
 「タンザニアで
 『韓国の地 独島』記念コインが作られた」
 というニュースを放送
 ↓↑
 2019年9月15日
 韓国公共放送テレビ局のKBSが
 「タンザニアで
 『韓国の地 独島』記念コインが作成された」
 というニュースを放送
 ↓↑
 嘘がバレた!
 ↓↑
 「竹島は韓国領」記念コイン発行は
 「事実ではない」
 菅長官、韓国報道を否定
 アフリカ・タンザニアの中央銀行が
 竹島(島根県隠岐の島町)は
 「韓国の領土」と明記した
 記念コインを発行したとの
 韓国の報道があり
 菅義偉官房長官は
 17日午前の記者会見で
 そうした記念コイン発行はなかった
 と報道内容を否定した
 ↓↑
 「在タンザニア日本大使館が
  直ちに
  同国外務省に
  事実関係を確認したところ
  『中央銀行を含め
  タンザニア政府として
  そのような記念コインを
  発行した事実はない』
 との回答があった」
 と明かした
 (抜粋全文はリンク先へ[産経 2019.9.17]
https://www.sankei.com/politics/news/190917/plt1909170015-n1.html
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 チョウジ(丁子・丁字)
 クローブ(Clove)は
 フトモモ科の樹木
 チョウジノキ(Syzygium aromaticum)
 の香りのよい花蕾
 原産地は
 インドネシアの
 モルッカ群島であり
 香辛料として一般的に使われ
 生薬としても使われる
 ↓↑
 漢名
 丁香(チョウコウ)とも
 ↓↑
 チョウジ(丁子・丁字)の花蕾は
 釘に似た形をしているため
 中国では
 「釘」と同義の「丁」の字を使って
 「丁香・丁子」の名があてられ
 フランス語では
 釘(金+丁)を意味する
 「Clou」・・・・クロウ
     ・・・(crow)カラス・raven?
     ミヤマガラス1種だけは
     rook(ルック)・・・ルック(look)
     ロック(rock・lock)・・・?
   「岩のような=petrous」
     「錠=door lock」
     「岩登り=rock climbing」
 と呼ばれ
 英語の
 「Clove」・・・クロウブ・クロウベ(黒烏部)?
 もこれを語源とする
 非常に強い香気を持ってい
 「百里香」という別名もある
ーーーーー
 ・・・???・・・贋作コイン・・・贋作報道・・・

in(音)愚留主(守・諏・種)・・・

$
0
0
 ラグビーフットボール (Rugby football) ・・・      foot-ball=足鞠?・・・蹴鞠?
 羅具備意符通訳模雨留?
  ↓↑
 「あげよ、日の丸」・・・蹴り上げよゴールキック・・・トライ
  ↓↑
  揚げよフライドチキン(Fried chicken)、フライドポテト(French fries)
          ・・・flying chicken? Fried potate? flying potate?
  あげよ、pig・・・哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ科の動物
          イノシシ(猪子・Sus scrofa)を家畜化したもの
          Wild boar・Wild pig・・・ヰ(猪)のシシ(肉)
          イノシシは16の亜種が生息
          体重70kg以上、時速45km走行
          寄生虫、蜱(だに)を泥浴・水浴し、
          地面にぬたうちまわり(のたうちまわり)
          木に身体を擦り付けたりして除去する
 ↓↑        ↓↑  ↓↑
          記紀に加羅隋(カラダ)を刷り附け足史弖、序嘘する?

     瓜坊(うりぼう)・・・伊吹山の白猪神vs大和建命
  挙げよフライド瓜坊(flying Wild boar, Wild pig)?・・・                 Bow and arrow?
  挙げよフライド椰子(flying Palm)?    ピック. pique ・伊語で槍
       パルマエ (Palmae) 、羅語 palma(パルマ・掌・シュロ)
 ↓↑       ↓↑
  名も知らぬ遠き島より
  流れよる椰子の実一つ
     故郷の岸を離れて
     汝(なれ)はそも波に幾月・・・島崎藤村 作詞 ・ 大中寅二 作曲

 ↓↑
 ラグビーフットボールの形態
 ポリネシア人が
 椰子(ヤシ)の実を
 ボール代わりにしていた
 ↓↑
 1936年8月1日~8月16日・・・1+9+3+6+8+1=28・・・2+8=10・・・
 まえはた・・・凄かった・・・
 ベルリン-オリンピック
 Games of the XI Olympiad
 昭和十一年・・・・・・・・・十+一
 第11回オリンピック・・・・11
ーーーーー

 ラグビーフットボール (Rugby football)
 凄かった!!・・・ラグビー(9/22)・・・集団格闘技・・・?
 ↓↑
 アイルランドがスコットランドに27-3で快勝
 (アイルランド)27 VS 3(スコットランド)
 ↓↑
 スコットランド(Scotland)・・・須古通訳等務土?
 ↓↑       スコットランド民謡
         蛍の光(Auld Lang Syne)
         アンニーローリー
         チャーリー
         アフトン川
         ロビンアデア
         美しい牧場の堤
         肩を並べて
         わたしのボニー
         100人の笛吹き
 ↓↑       ロック・ローモンド
 グレートブリテン・・・愚例徒振理顛?
 及び
 北アイルランド連合王国(イギリス)
 を構成する一
 1707年の合同法によって
 グレートブリテン王国が成立するまで
 独立スコットランド王国

 ↓↑
 スコットランド
 グレートブリテン島の
 北部3分の1を占め
 本島と別に790以上の島嶼部から構成
 南部でイングランド国境に接する
 首都エディンバラ・・・絵出引話等?
 ヨーロッパ最大の
 金融センターの一
 グラスゴーは・・・愚等素語卯(鵜・鸕・雨)?
 人口の40%が集中
 ↓↑
 紀元前10世紀頃
 大陸よりケルト系の
 ピクト人が到来・・・卑句人?
 後
 紀元前43年よりローマ帝国が侵入
 スターリングに前線司令部を設置
 ハドリアヌスの長城
 アントニヌスの長城
 ヴィンドランダ要塞
 等が築かれた
 ローマ軍は
 ブリテン島支配
 ピクト人との戦いにも勝利したが
 (グラウピウス山の戦い)
 全域支配には至らなかった
 ↓↑
 中世
 「レッジド王国」
 「バーニシア王国」
 「デイアラ王国」
 「ゴドヅィン王国」
 「ロージアン王国」
 ↓↑
 407年
 ローマ軍撤退後
 ブリトン人等
 諸民族が数波にわたり到来
 隣のアイルランド島より
 現在のスコットランド人の
 直接祖先となる
 ケルト系スコット人(ゲール族)が到来
 スコットランド北西部を
 スコット人(ダルリアダ王国)
 北東部をピクト人(アルバ王国)
 南部をブリトン人(ストラスクライド王国)
 と
 アングル人(ノーサンブリア王国)
 が支配
 12世紀頃まで諸民族による
 勢力均衡・群雄割拠の時代が続いた
 8世紀頃から
 ヴァイキングが沿岸にたびたび襲来
 ↓↑
 9世紀(843年)
 ダルリアダ王国の
 ケネス1世が
 アルバ王国を征服・・・阿留話(婆)
 スコットランド王国が成立
 1071年
 ブリテン島南部
 イングランド王国を支配する
 ウィリアム征服王が・・・William=ウィリアム=維廉
 北部のスコットランド王国への侵攻
 以降、両王家には
 婚姻関係も生まれ
 和議が図られるが
 イングランド
 と
 スコットランドとの争いはやまず
 13世紀~14世紀にかけ
 スコットランド独立戦争
 1314年に
 ロバート・ブルースが
 スコットランドの
 大部分を再征服・・・維多利(ヴィクトリア)
 (バノックバーンの戦い)
 ↓↑
 近世
 カロデンの戦い
 1603年
 ステュアート朝の
 ジェームズ6世が
 イングランド王
 ジェームズ1世となり
 イングランドと
 同君連合を結ぶ・・・同訓連合?
 スコットランドの
 宗教改革
 清教徒革命
 (主教戦争
 三王国戦争
 (スコットランド内戦
  イングランド内戦
  アイルランド同盟戦争)・・・同名撰総?
 (アイルランド革命・アイルランド侵略)・・・蛙(雅)意留等務土?
 イングランド共和国の成立・・・寅具乱土享和語句?
 イングランド王政復古
 名誉革命
 ↓↑
 1707年
 イングランド王国・・・スカボロー・フェア(Scar-borough Fair )
            バラ (borough) =国々の行政区画の一
            バラ (borough) =自治制をもったタウンシップ
               borough=「要塞化された地・要塞都市」
               borough=「自治化された土地」
                    古英語の単語「burh」から派生
                    bury・brough
                    ~バーグ・~ブルグ
                    ~ベリー・~バラ
            イングランド民謡
            Are you going to Scarborough Fair?
                    守家母鸕鵜・符重鴉?7
 と合同し
 グレートブリテン王国
 又は
 グレートブリテン連合王国
 となる
ーーーーー
 アイルランド(Ireland)
        アイルランド民謡
        ダニーボーイ(Danny Boy)
        フォギー デユゥ(FoggyFoggy DewDew)
        サリーガーデン(the Salley Gardens)
        グレイス・オマリー(Grace O Malley)
 ↓↑
 アイルランド共和国
 北大西洋の
 アイルランド島の大部分を領土とする
 立憲共和制国家
 首都はダブリン・・・W臨?・・・拿武臨
 島の北東部は
 イギリスのカントリーの一つである
 北アイルランドと接している
 ↓↑
 独立前より
 北アイルランドも自国の領土であると主張
 イギリスとの対立と抗争を繰り返してきた
 1998年
 ベルファスト合意により
 領有権を放棄した
 ↓↑
 英語で「Ireland(アィアランド)」
 国際連合や欧州連合で「Ireland」
 1948年
 アイルランド共和国法
 (The Republic of Ireland)
 日本語で「アイルランド」
     「アイルランド共和国」
 アイルランド語の「エール」
          ・・・yell(イェル)
             エール=cheer(チァr)・root
            shout・scream・yell・holler・cry
 と呼(よ・叫)ぶこともある
 漢字
 「愛蘭土」で、「愛」と略す
 ↓↑
 紀元前265年頃
 ヨーロッパ大陸より
 ケルト人・・・化留斗訊?
 が渡来
 5世紀頃
 聖パトリック・・・葉鳥通句・・・PA-trick
          PA=Public Addressの略
           「大衆伝達・公衆報道のtrick」?
 らによるキリスト教の布教
 8世紀末頃
 ノルマン人(ヴァイキング)の侵入
 1014年
 アイルランド上王 (High King)
 ブライアン・ボル
 (Brian Boru、ブリアン・ボルー)
 が
 クロンターフでヴァイキングを破り
 以降ヴァイキングの侵入収束
 1169年
 ノルマン人の侵攻
 1171年
 諸豪族がイングランド王
 ヘンリー2世の支配下
 宗教改革と
 プロテスタント支配の強化
    ・・・プロテスタント=protestant=pro・tes・tant
       プロテスタント(Protestantism, Protestant)
       反抗する者・抗議者
       pro=professional
       tests | testing | tested
       important=im・por・tant
       This is tit for tat to you!
       フランス=tant pour tant
       英語=so much for so much
       オランダ=dit vor dat=英語でthis for that・・・?
       古いラテン語=quid pro quo
       タント=イタリア語(TANTO)=多く、沢山、大量、の意
                 タントおあがり
       スペイン語=tanto=tan=同じの意
       でぃれっtant(たんと)?・・・dilet-tante
 「アイルランド王国」
 「宗教改革」
 「三十年戦争」
 「大同盟戦争」
 1541年
 イングランド王
 ヘンリー8世が
 アイルランド王を自称
 以降
 イングランドからの入植者が増える
 アイルランドの貴族はこれを認めず
 ヘンリー8世と対立
 清教徒革命
 (主教戦争
  三王国戦争(スコットランド内戦
        イングランド内戦
        アイルランド同盟戦争)
 アイルランド革命
 1652年
 護国卿
 オリバー・クロムウェル
     ・・・緖理話蛙・句賂務宇恵留?
 による
 アイルランド侵略
 事実上の植民地化
 以後正式な移民が始まる
 イングランド共和国の成立
 イングランド王政復古
 名誉革命(1688年~1689年)
 ウィリアマイト戦争・・・・「雨意理海人伊都」撰総?
 ↓↑
 「あげよ日の丸」
 2020年7月24日~8月9日
 トゥキョゥ・オリンピック
 Games of the ⅢXⅡ Olympiad
 令和二年
 第32回オリンピック
 東京での五輪開催は
 1964年(昭和39年)
 以来
 2回目
 ↓↑
 ・・・上下抜粋原文は
 by  Wikipedia
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・???・・・尾(緖)理務比通句・・・
 グラウピウス山の戦い
 (羅語:Montis Graupii pugna
  英語:Battle of Mons Graupius)
 モンス・グラウピウスの戦い
 ↓↑
 帝政ローマ期
 83年 or 84年
 ↓↑  ・・83年
    干支 癸未
    景行天皇     十三年
    後漢  建初    八年
    高句麗 太祖王 三十一年
    新羅  婆娑王   四年
    百済  己婁王   七年
 ↓↑  ・・84年
    干支 甲申
    景行天皇     十四年
        誕生 第十三代天皇 成務
                  武内宿禰
    後漢  建初    九年、元和元年
    朝鮮
    高句麗 太祖王  十二年
    新羅  婆娑王   五年
    百済  己婁王   八年
 ↓↑
 ブリタンニア北部で行われた
 ローマ軍
 と
 カレドニア人(ピクト人)・・・化例土似蛙(雅)=卑句徒訊?
 との間の戦い
 カルガクス・・・珂瑠臥句素?
 に率いられた
 カレドニア人は
  グナエウス・ユリウス・アグリコラ
   ↓↑     ↓↑    ↓↑
 (具名重碓 ・由理碓 ・有具理胡羅)?
      ・・・小碓(ヲウス)命?
 を
  グラウピウス山の戦い
 (具羅雨尾碓)
   ・・・うす=渦・宇須・宇都・宇受・有珠
 で破った
 ↓↑
 ブリタニアのカレドニア人の部族長
 84年
 グラウピウス山の戦いを指揮
 ローマの将軍を
 G.アグリコラ
 に敗退
 ↓↑
 ローマのブリタンニア総督
 グナエウス・ユリウス・アグリコラは
 78年より
 カレドニア人追討の為に
 ブリタンニア北部へと侵攻
 カレドニア人を最北部へと追い詰め
 カレドニア人の支配地(グラウピウス山)にまで
 ブリタンニアの
 アウクシリア(補助兵)を中心とした
 軽装兵を進軍
 ↓↑
 カレドニア人の食糧穀物庫を
 ローマ軍が襲撃・占領
 カレドニア人は
 厳しい冬を食糧の乏しい中で迎え
 餓死に追い込まれざるを得なく
 カレドニア人は
 ローマ軍との戦いに応じた
 ↓↑
 カレドニア人は
 カルガクス(en:Calgacus)
 を指導者に選出
 カルガクスは
 「女に率いられた軍で
  ローマ軍を打ち破ったことがある
  が
  我々は訓練され
  文明にも毒されず
  ローマ軍を破ることは不可能ではない
  世界の収奪者たる
  ローマ軍による圧政を打破する」
 とカレドニア兵を鼓舞した
 ↓↑
 カレドニア人側の指導者
 カルガクス(羅語:Calgacus)・・・掛留雅句素?
 「Calg-ac-os」
 ケルト語で
 「剣を持つ者」の意味
 ↓↑
 戦闘
 カレドニア軍は
 3万の戦士およびその妻と子供が加わって
 2万のローマ軍を上回る軍勢で対峙
 ローマ軍はこれらを追討
 ↓↑
 「グラウピウス山の戦い」
 ローマ軍団自体は殆ど戦闘に参加することはなく
 バタウィ族らより構成された
 アウクシリア・・・蛙雨句史理雅?
 の力が大きかった
 タキトゥスによると
 戦死者は
 カレドニア人が約1万人
 ローマ側は360人
 ローマ軍の圧勝で
 約2万人のカレドニア兵は逃亡
 ↓↑
 戦いの勝利で
 アグリコラが
 ブリタンニアにいる
 全ての部族を征服したと宣言
 85年・・・85年
 ↓↑    干支 乙酉
      景行天皇  十五年
 ↓↑    後漢  元和 二年
 アグリコラは
 ローマへと召還
 後任のブリタンニア総督として
 サルスティウス・ルクルス・・・サルスティウス
 (en:Sallustius Lucullus)    猿 守定 碓?
 が赴任
 ダキア人がドナウ川流域の
 ローマ属州へ度々侵入
 86年
 デケバルス率いる
 ダキア軍によって
 ローマ軍団が壊滅
 ブリタンニアからの撤兵が必要となった・・・
 ・・・半島、島国からの米軍の撤兵・・・?
 ↓↑
 アグリコラの征服完了宣言
 ブリタンニア北部で
 ローマに対する反乱が頻発
 カレドニア人による
 ローマ支配地への攻撃は続いた
 タキトゥスの報告書は
 「Perdomita Britannia et statim missa
 (ブリタンニアは征服されたが
  すぐに放棄された)」
 と記した
 ↓↑
 アグリコラ以降の
 ブリタンニア属州総督らは
 グレン・フォーツ(Glen Forts)
 や
 インチトゥヒル(Inchtuthil)
 に迎撃用の要塞を設置
 ハドリアヌス
 や
 アントニウス・ピウス
 はブリタンニアへ城壁を築き
 セプティミウス・セウェルス
 は
 カレドニア人征伐の為に
 ブリタンニアへと親征した
 ↓↑
 「グラウピウス山の戦い」の場所
 スコットランド
 ハイランド地方
 更に
 「ハイランドとローランド地方との境
  アバディーンシャイアの
  ケンプストンヒル(Kempstone Hill)
  や
  ベナーキー(Bennachie)の丘を含む一帯」
 ↓↑
 キンカーディンシャー(Kincardineshire)
 地区は
 タキトゥスの
 「アグリコラ」の記述に合致
 ローマ関連の考古学的な遺物も発掘され
 ローマ街道の1つ
 「Elsick Mounth」にも程近い
 ↓↑
 ワトリング街道の戦い
 (Battle of Watling Street)
 60年 or 61年頃
 グレートブリテン島で
 イケニ族の女王
 ブーディカ
 が率いる
 ケルト人先住民の
 ブリタンニア諸族同盟軍
 と
 ガイウス・スエトニウス・パウリヌス
 が指揮するローマ軍団との戦い
 ↓↑
 ローマ帝国側の兵士の数が
 1対20
 不利な状況であったが、勝利し
 グレートブリテン島での影響力を維持
 これにより
 ローマの
 ブリタンニア支配は
 410年
 終焉まで続いた
 戦場は
 ロンディニウム(ロンドン)
 と
 ウィロコニウム(シュロップシャー州・Wroxeter)
 との間
 ローマが築いた
 ワトリング街道であった・・・ワトリング
       話(倭・和・輪・把鳥 務具?
 ↓↑
 「ワトリング」・・・倭の鳥の輪(林)の具?
 の名は
 後に
 アングロサクソン人によってつけられた
 この戦いの名称に用いるのは
 本来時代錯誤・・・?
 43年
 ローマ帝国
 小さな王国が多数並存していた
 ブリタンニア南東部への遠征の途上にあった
 軍事的に占領された王国
 同盟を結び自治を維持していた国
 も多数存在
 ↓↑
 独立王国のひとつ
 東ブリタンニアノーフォーク地域
 を支配していた
 イケニ族の王
 プラスタグスは
 自身の死後も独立を保とうと
 王位継承権を持つ
 二人の娘とともに
 ローマ皇帝を
 共同統治者とする遺言
 彼が60~61年頃に亡くなると
 彼の思惑は無視され
 ローマ人は領地を奪い
 彼の家族にも屈辱させた
 彼の未亡人
 ブーディカ
 は鞭打たれ
 二人の娘は辱められた
 行政長官
 デキアヌス・カトゥス
 や
 ローマの財政官たちは
 債務の返済に充てるため
 イケニ族の財産を没収し重税を課した・・・
 ガイウス・スエトニウス・パウリヌス総督
 率いる軍がウェールズで戦闘時
 ブーディカ
 が指導して
 イケニ族は立ち上がり
 故地カムロドゥヌム(コルチェスター)
 を植民地として奪われていた
 トリノヴァンテス族
 など周辺部族と連合、反乱を起こした
 最初の標的は
 カムロドゥヌム
 ・・・カムロドゥヌム
    神 盧同 努務?
    神室(禿・禿童)同怒武?
    咬む侶銅 塗武?
 ↓↑   ↓↑ ↓↑
      和銅元年(708年)
      和銅元年五月・・・・・ 和同開珎鋳造
      和銅五年(712年)一月・太安万侶
      ↓↑        古事記完成、撰上
      和銅(わどう)
      慶雲の後、霊亀の前
      708年~715年までの期間
      時代は女帝、元明天皇
      ↓↑
      和銅五年九月二十八日・・出羽国を設置
      和銅六年四月三日「丹後・美作・大隅」
               国を設置
      和銅六年五月・風土記の編纂の命
             郡・郷名に好字を付与
      和銅七年六月・首皇子、立太子
          九月・元明天皇(阿閉皇女)譲位
          氷高(日高)内親王(元正女帝)
          が即位する
      ↓↑
      持統(41)→草壁皇子
          →文武(42・元正の弟)
          →元明(43・草壁の嫁)
          →元正(44・文武の姉)
 ↓↑   ↓↑ 
   ・・・慶雲
     (大宝の後、和銅の前・704年~708年)
      時代の天皇は文武天皇、元明女帝
      慶雲=夕空に現れ瑞兆の雲
         蚊柱(ユスリカ・揺蚊)
         ハエ目(双翅目)・糸角亜目
         ユスリカ科(Chironomidae)
         に属する昆虫の総称
         和名は幼虫が体を
         揺するように動かすことに由来
         幼虫はその体色から
         アカムシ・アカボウフラ
         成虫はカ(蚊)に似た大きさや姿
         幼虫であるアカムシは
         乾燥アカムシ
         冷凍アカムシ
         として
         釣りエサや熱帯魚
              観賞魚のエサとして利用
         刺すことはない
         カのような鱗粉も持たない
         カと見誤って叩いても
         黒っぽい粉のようなものが
         肌に付くことはない
         しばしば川や池の近くで
        「蚊柱」を形成する
         アフリカのマラウィの
        「マラウィ湖の蚊柱」
         は数十mの高さになる
         アフリカの
        「ヴィクトリア湖」沿岸で
         大量発生したユスリカの一種を集め
         ハンバーグのように
         鉄板の上で焼いて食べる・・・
         ↓↑
         瑞兆雲
         蚊柱は
         大宝二年(702年)
         持統天皇崩御
         葬儀などが済んだ
         大宝四年(704年)
         藤原京において現れ、改元
         大宝年間に
         律令の編纂や都城の完成
         律令国家建設の諸改革
         大宝の遣唐使が帰国
         慶雲年間に
         遣唐使の報告
         律令を施行
         政治改革(慶雲の改革)
         平城遷都立案
         慶雲四年(707年)
         六月 文武天皇崩御(25)
         七月 阿閉皇女(元正女帝)即位
         文武天皇の姉
         諱は氷高(ひだか)
         第四十四代天皇
         在位
         715年10月3日
         霊亀元年九月二日
         ~
         724年3月3日
         養老八年二月四日
 ↓↑      ↓↑
 カムロドゥヌム
 この町に
 反乱軍は強い憎悪
 ローマ軍退役軍人の町で
 前ローマ皇帝
 クラウディウスを祭った神殿は
 トリノヴァンテス族
 を搾取、財産と労働力で建設したもので
 カムロドゥヌムを急襲した
 ブーディカ軍は
 逃げ遅れた人々を全て殺し
 反乱勃発の元凶の一人
 カトゥスは
 ガリアに逃げた
 ↓↑
 古代ローマ時代の
 ブリタンニア
 ワトリング街道
 ブーディカ軍は
 進軍先を
 ロンディニウム(ロンドン)に定め
 スエトニウス軍もそこへ向かったが
 防衛には要員が足りないと判断し
 ロンディニウムには入らず
 この街も、逃亡者以外は全員殺害
 ↓↑
 反乱軍が破壊に狂奔し
 次に北の
 ウェルラミウム(セント・オールバンズ)
 に進む頃
 スエトニウスも
 ワトリング街道(ローマ街道)に沿って北上し
 軍を補強
 タキトゥスによると
 スエトニウスが指揮する
 第14軍団ゲミナに加え
 第20軍団ウァレリア・ウィクトリクス
 からの派遣隊、予備役兵らを傘下に納め
 総勢10,000人の兵力を組織
 エクセター近郊に展開していた
 第2軍団アウグスタは加わらなかった
 ブリタンニアに展開していた
 クィントゥス・ペティリウス・ケリアリス
 率いる
 第9軍団ヒスパナは既に
 カムロドゥヌム奪回戦で敗退していた
 対する
 ブーディカ軍は
 約230,000人まで兵士の数を膨らませていた
 ↓↑
 戦闘終結から50年頃
 ローマの歴史家タキトゥスは
 ブーディカの演説を
 「ローマの思い上がりと傲慢さからは
  何者も逃れられない
  奴等は
  聖なるものを見つけてはこれを壊し
  清らかなるものを見つけてはこれを汚す
  勝利を得るか、さもなければ滅ぶか
  私は
  ひとりの女として
  この選択に挑む」
 ↓↑
 ブリタンニア軍は
 戦場の最後端に
 幌馬車隊を三日月状に配し
 そこから
 戦士たちの妻や子供たちが戦局を見つめ
 戦士は家族に
 勇姿と圧倒的な勝利を見せるために奮闘
 ゲルマン人を率いた2人の指導者
 キンブリ族の
 ボイオリクス(Boiorix)
 と
 スエビ族の
 アリオウィストゥス
 が
 ガイウス・マリウス
 や
 ガイウス・ユリウス・カエサル
 と戦った際にも見られた
 ↓↑
 タキトゥスは
 兵士たちを前にした
 スエトニウスの語りを
 「あの騒がしい蛮人どもなんか
  恐れるに足らない
  あいつらは
  女の尻に敷かれた情けない連中なんだ
  奴等は戦士なんかじゃ無い
  証拠に、あの貧弱な武装を見てみろ
  俺たちの武器と気概を見せ付けて
  やっつけてしまおう」
 「一団になるんだ
  槍を投げて、前に進め
  盾で奴等を撃ち、剣で止めを刺せ
  略奪は忘れろ
  勝って、もっとたくさんの戦利品を得よう」
 と戦術を伝えた
 ↓↑
 ピルムを投擲する
 軍団兵
 ブーディカと彼女の大軍は
 草原を横切って前進し
 大規模な正面攻撃を仕掛けて狭い地形へ殺到
 進軍するにつれ
 街道は押し合いへし合いの状態で
 約40ヤードほど進んだところで
 ローマ軍は
 ピルムと呼ばれる槍の投擲を始め、戦局は一転
 ピルムの穂は曲がりやすく
 盾に刺さると容易には抜けなくなってしまう
 ブリタンニア軍は
 数千人が倒れ戦局は不利になった
 反乱軍の混乱に乗じ
 スエトニウスは兵卒や予備役に
 ローマ軍伝統の
 ファランクス陣形を
 V字編隊(ウェッジ・フォーメーション)に改組
 鋸の刃型状とした前線を前進
 優秀なローマ兵は
 ピルムを手にせずとも勇敢で
 武器や鎧は敵に勝り
 槍を振りかざした機動部隊が
 側面から戦闘に加わり
 ブリタンニア側の状況はさらに悪化
 退却を試みたが
 後方に配した幌馬車の列が邪魔となった
 完全に包囲され、袋の鼠となった
 ブーディカ軍
 ローマ軍の攻撃は兵士に留まらず
 女や子供、荷役用の動物にまで向けられた
 ↓↑
 ローマ側の犠牲者400人程
 ブリタンニアの死者は80,000
 敗軍の将
 ブーディカの末路は
 服毒自殺を遂げた・・・
 ↓↑
 戦いに加わらなかった
 第2軍団
 アウグスタを指揮していた司令官
 ポエニウス・ポストゥムスは
 戦勝の知らせに自殺
 一度はブーディカ軍に敗れた
 クィントゥス・ペティリウス・ケリアリス
 71年
 ブリタンニア長官に任命され
 逃亡した
 デキアヌス・カトゥス
 については何の記録もない
 ↓↑
 皇帝ネロは
 反乱蜂起の知らせを受け動揺し
 ブリタンニアからの全面撤退を考えた
 ブーディカ軍鎮圧を知り
 ブリタンニア遠征の継続を決めた
 残党狩りの準備を進める強硬派の
 スエトニウス
 と穏健に転じた
 ネロとの間には意志の齟齬が生じ
 スエトニウスは解任され
 ローマに呼び戻された
 彼は
 68~69年の内戦で
 オト
 に属し
 クレモナの戦い
 で敗れ、以後の履歴の記録が無い
 ↓↑
 69年
 ブリガンテス族
 ヴェニュティウス王の反乱など
 ブーディカの故事よりも深刻な打撃を
 ローマに与える戦乱はその後も続いた・・・
 ↓↑
 戦場
 ワトリング街道の戦い
 キングスクロスの
 旧バトルブリッジ村
 ウェスト・ミッドランズ州
 ローマが築いた
 ワトリング街道(A5ロード)に沿った
 ロンディニウム
 と
 ウィロコニウム
 との間のいずこ・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・音愚留主(守・諏・種)・・・

クク=ヒキガエルの鳴き声の擬声語・・・ラグビーW杯・・・

$
0
0
 釜石  鵜  住居 復興スタジアム  ラグビーW杯日本大会
 9月25日 19時57分
 釜石(かまいし)・・・釜(父+金)
             ・・・カマ(鎌・がま・蝦蟇)の
                イシ・意志・意思・遺志
                   医師・遺子
                   頤使(頤指)
         榎本釜次郎=榎本武揚(えのもとたけあき)
               夏木金八(郎)
               伊能忠敬の元弟子の
               幕臣
               榎本武規
              (武兵衛・箱田良助)の次男
               幕府海軍奉行
               幕府海軍副総裁
               通称は「和泉守」
               蝦夷共和国総裁
               親族
               榎本武由(祖父)・・武の由来・由緒?
               林正利(祖父)・・・記紀整理?
               ↓↑
               榎本武規(父)・・・武の規律・規矩?
               実父は細川園右衛門
               義父は榎本武由
               初名は箱田良助
               通称は円兵衛、園兵衛?
               伊能忠敬測量隊員
               ↓↑
               榎本武与(兄)・・・武の寄与・給与?
                           贈与・壹與?
                           生殺与奪?
               林多津(妻・父は林洞海)
           石=丆(面の略字?)+口(くち or 丸〇の形)
          「丆」は「斧・鎌」か「鋤・鍬・耜・耡」だろう?
 ↓↑
 「蟾舞(ひきひと‐まい)」・・・「蝦蟇・蟾蜍」の舞?
  蟾=虫+詹
      詹=よく喋る・口数が多い・つまらないことをしつこく言う
        みる・一点をみる・見詰める
        足す・足りる
    「詹諸(センショ)」=月にいるキガエル・月のこと
 ひきひと‐まい(まひ)=侏儒舞
 平安時代の猿楽(さるがく)の一
 低人(ひきひと)が舞う芸
 蟾(ひき)舞
 ひきまい・ひきまい=蟾舞
 ↓↑
 蟾=セン・ひきがえる・つき
   ヒキガエル科の大形のカエル
   蟾蜍(センジョ)
   つき(月)
   蟾光
   みずさし・文具の一
 ↓↑
 「蟾蠩、蝦蟆なり(広韻)」
 「蝦蟆に似て、陸地に居る(爾雅・釈魚)」
 「ひき=蟇・蟾・蟾蜍=ひきがえる」
 ↓↑
 日本神話に登場する神
 谷蟆、谷蟇
 の字を当てて
 ヒキガエル・・・引き換える?
 クク=ヒキガエルの鳴き声の擬声語
 ↓↑
 多邇具久=タニグクの語源
      谷潜り(たにくぐり)の意
      ・・・「谷潜=ヤセン・コクセン」
     「クク」は
     「ヒキガエルの鳴き声の擬声語」
      ヒキガエルを
      熊本県北部では「タンガク」
      和歌山県熊野では「タンゴク」
     「タニグク」の訛である・・・
 ↓↑
 鵜(う-の)=鸕・・・盧・顱・蘆(葦)・・・鸕野賛良=持統天皇
        顱=髑髏(どくろ)=異体字「盧・𩔺・髗・鸕・櫨」
          髑髏(どくろ)=頭蓋骨=脳味噌容器→釜・窯・缶・罐
    ウ・・・アイヌ語「uray=簗(やな)+us+nay=川
                  やな のある川・・・?
 住居(すまい・ジュウキョ)・・・拾拠・獣擧・重拠・廿嘘
 復興
 スタジアム・・・諏多字編?
 (Stadium・ステイディアム・stadiums・stadia)
  観客席=スタンド(stand)
 ラグビーW杯日本大会(Rugby World Cup 2019)
 プールDの試合
 ウルグアイ (30 ) VS ( 27)フィジー
 ↓↑
 ウルグアイ東方共和国(Oriental Republic of Uruguay)
 (スペイン語: Republica Oriental del Uruguay)
 南アメリカ南東部に位置
 首都 モンテビデオ
 漢字表記
 宇柳貝=ウルグアイ=宇柳具
 「uru(ウルという鳥の)gua(飛ぶ)y(川)」
 タワンティン・スウユ(インカ帝国)の権威が
 この地には及ばなかったため
 モンゴロイドのチャルーア人
 と
 グアラニー人をはじめとする
 インディオの諸集団が
 狩猟や原始的な農耕を営みながら生計を立てていた・・・
 ↓↑
 ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダーノ 
 (西: Jose Alberto Mujica Cordano, 1935年5月20 日)
 ↓↑ 1935年5月20日 大運2019年11月 壬申 偏官
 乙亥(戊甲壬)印綬・偏印 絶⇔    己亥 傷官
  冲戊 食神
 辛巳(戊庚丙)正財・偏財建禄⇔
  合庚 偏財
 丙申(戊壬庚)   偏官 病⇔
  辰巳空亡
 甲午(丙 丁)偏印・傷官帝旺⇔
 ↓↑
 ↓↑ 1935年5月19日 大運2019年7月 壬申 印綬
 乙亥(戊甲壬)比肩・劫財 死⇔   己亥 偏財
  冲戊 正財
 辛巳(戊庚丙)偏官・正官沐浴⇔
 乙未(丁乙己)   偏財 養⇔
  辰巳空亡
 壬午(丙 丁)印綬・偏財長生⇔
 ↓↑
 ムヒカ大統領
 1935年生まれ
 1960年代に入って都市ゲリラ組織「ツパマロス」に加入
 1972年に逮捕され
 軍事政権が終わるまで13年近く収監された
 2009年11月ウルグアイ大統領選挙に当選
 己丑 乙亥 庚申
 2010年3月1日より第40代大統領
 己丑 丙寅 乙巳
 ↓↑
 フィジー共和国(Republic of Fiji)・・・附意字異?
 通称フィジー
 漢字表記 「斐濟(ヒサイ・ハイサイ)」
       ・・・斐(非+文・あや)が
          濟(澄む・すます・救う)
 オセアニアの国家、イギリス連邦加盟国
 首都はビティレブ島のスバ
 南太平洋のフィジー諸島と
 北に500km 程離れた保護領の
 ロツマ島
 に位置する群島国家
 300余の火山島と珊瑚礁からなる
 国の標語
 Rerevaka na Kalou ka Doka na Tui
 (フィジー語: 神を畏敬し、女王を尊敬する)
 ジョセファ・イロイロ
 (フィジー語: Josefa Iloilo、1920年12月29日 - 2011年2月6日)
 部族長クラスの称号“ラツ”(Ratu)を頭に付けて
 ラツ・ ジョセファ・イロイロ(Ratu Josefa Iloilo)
 と表記されることもある
 同国の大統領、第3・4を務めた
ーー↓↑ーー

「こうのとり」・・・鸛・雚・幸の鳥・鵠の鳥
          Ciconia boyciana
 8号機
 H IIBロケット8号機打上げ
 2019/09/25
 ↓↑
 今月11日打ち上げ予定が
 発射台火災で中止
 後
 25日午前1時5分
 鹿児島県
 種子島
 宇宙センター
 から打ち上げられ
 15分後の午前1時20分ごろ
 高度287キロ付近で
 「こうのとり」
 を分離し軌道に投入
 打ち上げ成功

 ↓↑
 「こうのとり」8号機
 全長10メートル
 直径4.4メートル
 高度400キロ付近の
 地球周回している
 国際宇宙ステーションに
 水や食料
 電気供給バッテリー
 大学が開発した人工衛星など
 およそ5.3トンの物資を搭載
 9月28日
 国際宇宙ステーションに到着予定
ーーーーー
 ・・・
 釜石市
 「陸奥(むつ)の国」の小漁村
 釜石と言う村名は
 遠野通、大槌通に1か村ずつあった
 釜石の地名
 アイヌ語
 クマ、ウシ平岩のあるところ
 「クマ・ウシ・イ=サケ(鮭)干し竿の干しの場所」
 水辺や川の中に平たい岩があり
 魚が沢山あつまる所の地名
 「カマ・ウシ・イ=平盤な岩がある場所」
 ・・・熊牛の平らの石・・・?
 ↓↑
 甲子村
 洞泉にあったと言われる
 「釜淵」 の直径2.5mほどの
 大釜に似た大石
 「釜淵の釜石」・・・?
 ・・・「釜淵」の大石=「釜淵」の「釜石」
 に由来って・・・
 これが地名の内容説明・・・
 「釜の淵」の「ふち」って?
 ・・・UFO(山高帽の鍔=つば)・・・?
 ↓↑
 鵜住居(うのすまい)
 鵜が住む場所
 ↓↑
 松尾村
 釜石環状列石=「釜石」
 松尾村の「釜石」の地名の由来
 ↓↑
 釜石
 古代韓国語「黒い上質の鉄」・・・
 「ガマウッシ」が転訛・・・?
 ↓↑
  ウライ「簗(罠)」+ウシイ「多くあるところ」
  ウラウシイ=嬉石(うれいし)
 ↓↑
 鵜住居村(うのすまいむら)
 唐丹村(とうにむら)
 鍬蓋 (クワンタイ)
 ↓↑
 伊能忠敬測量の碑
 星座石
 伊能忠敬が1801年(享和元年)
 測量のため
 岩手県釜石市唐丹を訪れたことを記念
 1814年(文化十一年)・・・拾壱・足壹
 同地に建立された碑
 ↓↑
 星座石
 測量の碑同様、葛西によって建立
 中央に北極出地丗九度壱拾弐分
 周囲に黄道十二宮と十二次が刻まれている
 十二宮において3番目は
 「双児宮」であるが
 石には「陰陽」と記録
 ↓↑
 「気仙」の由来
 アイヌ語説
 末端=ケセ kese
 入り江=モイ moi
 「ケセモイ」=気仙沼の語源・・・
 ↓↑ 
 日本語説
 船着き場=かせ
     「かせ間」が語源
      2文字表記で
     「ま」を略して
     「気仙郡」と書いた
 漢語説
 海道の入り口=滊先(ケセン)
 ↓↑
 古代・中世
 群名
 弘仁二年(811年)の「続日本書紀」が初見
 貞観元年(859年)に初代気仙郡司
 安倍兵庫丞為雄が下向し
 後
 左大臣
 阿倍倉梯麻呂(内麻呂)の後裔とされる
 金氏(キンウジ)・・・金姓の氏族?
 が治めている
 ↓↑
 その後
 気仙郡の南半分と
 牡鹿郡の一部を分割し
 元良郡が設置
 ↓↑
 文治五年(1189年)
 奥州
 藤原氏が滅亡
 気仙郡は
 胆沢・磐井・牡鹿・江刺
 などの諸郡とともに
 奥州総奉行
 葛西清重の所領になった
 別説
 源為朝の遺児
 閉伊為頼が源頼朝から
 閉伊、気仙を給わり
 閉伊氏を称して代々この地を治め
 葛西清重が治めたのは
 南北朝時代になってから・・・
 ↓↑
 戦国・江戸時代
 天正十八年(1590年)
 豊臣秀吉の奥州仕置
 気仙郡を統治していた
 葛西氏が滅亡
 気仙郡は
 木村吉清・清久父子の治下
 木村吉清は
 天正十九年(1591年)
 葛西大崎一揆で失脚
 伊達政宗が所領
 仙台藩の所領
 関ヶ原の戦い後
 大條宗直
 中島宗求
 ら重臣が配置された
 ↓↑
 気仙郡・・・記紀撰具務?
 の統治の
 中心となったのは
 代官所が置かれた
 今泉村
 ↓↑
 以下の「原文」は
 「花字満開」の興味ある「地名ブログ」だったので
https://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/47207326.html
 からお借りしました・・・
 ↓↑
 「盆花」「石花」「花城」「花巻」「花輪」
 ↓↑
 盛岡市
 盆花(ぼんばな)
岩花峠(いわはなとうげ)
 石花(いしはな)
 竹花前(たけはなまえ)
 ↓↑
 岩手県盛岡市
 上鹿妻(かみかづま)
 竹花前(たけはなまえ)
 舘花(たてはな・たちばな・たちはな)
 ↓↑
 北上市
 立花(たちばな)
 花園町(はなぞのちょう)
 ↓↑
 一関市
 厳美町
 四度花山(しどけやま)
 千厩町
 奥玉花貫(おくたまはなぬき)
 花泉町(はないずみちょう)
 東花王町(ひがしかおうちょう) 
 ↓↑
 室根町
 矢越花立(やごしはなたて)
 ↓↑
 陸前高田市
 小友町
 花崎(はなさき)
 花前(はなまえ)
 茂里花(もりばな)
 ↓↑
 広田町
 後花貝(うしろはながい)
 ↓↑
 釜石市
唐丹町
 花露辺(けろべ)
  ・・・けろべ=ケロリ
         漂着異邦人の名
         頭痛薬で
         ケロリと治る・・・?
        =アィヌ語
    「ケレ・オッ・ペ(kere・ot・pe)」
    「ケロペ(kerope)」の転訛
    「いつも波で削られている・所=断崖」
     北海道湧別町JR湧網線
    「計呂地(けろち)駅」の駅名
     アィヌ語の「ケレ・オチ(kere・ochi)」
 ↓↑    
 ・・・以下の原文も同じ・・・
 ↓↑
宮古市
花原市(けばらいち)
花輪(はなわ)・・・塙(はなわ)己保一
花輪橋(はなわばし)
 ↓↑
 花巻市
花巻市(はなまきし)
 ↓↑
花城町(かじょうまち)
 花巻温泉(はなまきおんせん)
花巻トンネル(はなまきとんねる)
 花巻大橋(はなまきおおはし)
花巻南大橋(はなまきみなみおおはし)
 花巻広域公園(はなまきこういきこうえん)
花輪堤ハナショウブ群落
 (はなわつつみはなしょうぶぐんらく)
 ↓↑
 二戸市
 浄法寺町
 長者花(ちょうじゃばな)
 仁左平字戸花(にさたいあざとはな)
 八幡平市
 花舘(はなだて)
 ↓↑
 奥州市
 江刺区
 愛宕土花(オダキツチバナ)
 水沢区
 花園町(はなぞのちょう)
 ↓↑
 岩手郡雫石町
 長山
 盆花平(ぼんばなだいら)
 岩井花(いわいばな)
 竹花(たけはな)
 ↓↑
 岩手郡滝沢村
 鵜飼字花平(はなたいら)
 ↓↑
 紫波郡紫波町
 大巻
 花立(はなだて)
 星山
 津花(つばな)
 宮手
 栃花(とちばな)
 ↓↑
 胆沢郡金ケ崎町
 西根花川(ニシネハナカワ)
 西根花舘(ニシネハナダテ)
 三ケ尻北花沢(ミカジリキタハナサワ)
 三ケ尻南花沢(ミカジリミナミハナサワ)
 ↓↑
 西磐井郡平泉町
 平泉花立(ひらいずみはなだて)
 ↓↑
 下閉伊郡岩泉町
 尼額西花(あまびたいにしはな)
 ↓↑
 二戸郡一戸町
 姉帯月花(あねたいつきはな)
ーーーーー
 ・・・???・・・

内浦湾(噴火湾)に面する洞爺湖町・同哉(耶・邪・也) ・虻田=阿武の伝(カリ)?

$
0
0
 スゲぇッ!・・・やったァ~!!
 2019年9月28日 18時13分
 ラグビーワールドカップ日本大会
 1次リーグの第2戦
 日本(19)VS(12)アイルランド
 勝利
 2連勝、勝ち点を9
 初めてのベスト8進出
 ↓↑     ↓↑

 噴火湾・・・噴火の湾
 Volcano Bay・・・寛政八年(1796)
          室蘭港へ初入港した
          英国軍艦プロビデンス号の
          船長
          キャプテン
          W・R・ブロートン中佐
         (William Robert Broughton
          1762年~1821年3月12日)
          が
          1796年(寛政八年)八月
          内浦湾(噴火湾)に面する
          洞爺湖町・・・同哉(耶・邪・也)
          虻田・・・・「阿武」の伝(カリ)
          の海岸に
          日本初上陸
          湾を
         「Volcano Bay」と命名?

 ↓↑
 胆振(いぶり)湾・・・燻(いぶ)る・アブる
 ↓↑                 焙る・炙る
 内浦湾とも
 北海道南西部
 亀田半島北部の
 砂崎
 と
 室蘭市南部の
 チキウ岬
 を結ぶ線より
 北西の海域をいう
 ↓↑
 渡島半島の基部東岸
 室蘭市のチキウ岬(絵鞆半島)
 及び
 駒ヶ岳北東麓の
 松屋崎に囲まれ
 円形(直径約50km)の海域
 ↓↑
 ・・・トイレでの・・・苦悶・・・
       排便は
       セックスや出産の
       苦しみと同じかも・・・
       快悦、快感、達成を伴う・・・奮勉?

 ↓↑
 カマイルカ
 (Lagenorhynchus obliquidens=鎌海豚)
 (Pacific White-sided Dolphin=パシフィック・ホワイト・サイド・イルカ)
 (White-beaked dolphin=ハナジロカマイルカ・鼻白鎌海豚)
 クジラ目ハクジラ亜目マイルカ科カマイルカ属
 北太平洋に棲息する唯一の
 カマイルカ属( Lagenorhynchus)
 名前は
 背びれの形が
 草などを刈る鎌に
 似ているコトに由来
 天敵は「鯱(しゃち)」・・・天敵・・・尾張名古屋の鯱・・・?

 ↓↑
 草などを・・・草壁=日下部
 ↓↑         大日下王・若日下王
           草壁皇子=大海人皇子
               (天武天皇)
                鸕野讃良
               (持統天皇)
 刈る・・・天叢雲剣
 ↓↑   (あめのむらくものつるぎ
      あまのむらくものつるぎ)
      草薙剣(くさなぎのつるぎ)
      草那藝之大刀(くさなぎのたち)
      ↓↑
      鰯=いわし=鰮=岩子・・・岩の子
              岩手・・・岩手の子?
              磐余比古=神武天皇
      ↓↑
      草薙の剣・・・叢雲之剣
      天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ
           あまのむらくものつるぎ)
      三種の神器の一
      スサノオは、八岐大蛇由来の神剣
      須佐之男(すさのを)・古事記
      速須佐之男
      神須佐能袁・出雲風土記
      須佐能乎
        ・+「命(みこと)」・・・
          いのち・メイ
          亥の地
      素戔男・日本書紀
      素戔嗚
      須佐乃袁
        ・+「尊(みこと)」・・・
          尊=酋+寸
            八+酉+寸
            丷+西+一+寸
          酒樽(たる)・酒壺
          尊 
          とうとい・ソン
          唐問(解)意
          東 都意
      大蛇の裂いた尾から取り出した剣
            尾張=名
               古(護・胡)
               屋(耶・邪)
      ↓↑
      草薙剣(くさなぎのつるぎ)
      草那藝之大刀(くさなぎのたち)
      ↓↑
      八岐大蛇・・・・蝦夷(えぞ)
      八俣遠呂智・・・蝦夷(えみし)
      八俣遠呂知・・・蝦夷(カイ)
      ↓↑
 ↓↑    草壁皇子・・・大海人皇子(天武天皇)
             と
             鸕野讃良(持統天皇)
             の息子
      ↓↑
      日下大王=波多毘能大郎子(ハタビノオホイラツコ)
           仁徳天皇の皇子
      若日下王=波多毘能若郎女(ハタビノワキイラツメ)
           仁徳天皇の皇女
           大長谷(雄略天皇)の皇后
      ↓↑
      日下部志々見・・・志深=しじみ=志染
               市辺押磐皇子の息子
              「オケ(仁賢)
               と
               ヲケ(顕宗)
               の両天皇」
               を助けた
      ↓↑
      市辺押磐皇子・・・磐坂皇子(いわさかのみこ)?
              押磐=押歯=八重歯?・・・磐=は=歯?
      ↓↑        磐坂-市辺-押羽-皇子
                    押羽=押歯?・・・押葉?
        天万国万押磐尊(あめよろずくによろずおしはのみこと)
               (日本書紀)
           市辺之忍歯王・・・忍歯?
           市辺 忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ)
               (古事記I)
               市辺天皇命(いちのへのすめらみこと)
               (播磨国風土記)
               履中天皇の第一皇子
               母は
             葛城葦田宿禰(あしたのすくね)の女(むすめ)
               黒媛
               息子は
           顕宗天皇=弟の弘計(をけ)⇔弓の厶(かいな・腕)
                       の言を拾(十・ひろ)う
             仁賢天皇=兄の億計(おけ)⇔人の意
                       の言を拾(十・ひろ)う
               飯豊青皇女の父
               安康天皇
      ↓↑       雄略天皇の従兄弟
      市辺押磐皇子
      の二人の息子
     「おけ(仁賢)」
      と
     「をけ(顕宗)」
      を
      日下部連(くさかべ のむらじ)が
      播磨国の
      明石や
      三木の
      志深(しじみ)村の
      岩室に隠れさせた
      後
      二人の皇子は
      身をやつし
      志染村の
      伊等尾(いとみ)・・・伊=等=尾?
      の家で
      牛飼いの下男として仕えた
      蜆=中+厶+見=しじみ
 ↓↑
 カマ-イルカ族(属)
 鎌に・・・蘇我入鹿(いるか・海豚)
      藤原鎌足(かまたり・鎌子)
 ↓↑
 似ていることに由来
 ↓↑
 伊弉諾尊=いざなぎ=伊邪那岐命
      いさ=石原・意佐・躄
             なぎ=名戯・凪
 伊弉冉尊=いざなみ=伊邪那美命
      いさ=石原・意佐・躄(いざり)=膝行(シッコウ)
             なみ=名実・波
 ↓↑
 『日本書紀』
 スサノオは
 イザナギ(伊弉諾尊・伊邪那岐命)
 と
 イザナミ(伊弉冉尊・伊邪那美命)
 の間に産まれ
 天照大神
 月読
 ヒルコ(蛯児)
 の次に産まれた・・・?
 ↓↑
 『古事記』
 須佐之男(スサノヲ)は
 伊邪那岐命が
 黄泉(よみ)の国から帰還し
 筑紫の
 日向の
 橘の
 小戸の
 阿波岐原・・・阿波の岐の原?
 ↓↑     安房・安和・安発
        安倭・阿和・早和
        泡・粟・淡
        合・會・并・遭・遇
        澹=氵+詹
          氵+厃+儿+言
          氵+⺈+厂+儿+言(亠二口)
        水が緩慢にゆれ動くさま
        水がたゆたうさま
        足りる・満たす
 ↓↑     十分・拾分・充分   
 で禊を行って
 左目・天照大御神・・・左女
    大日孁貴神
   (おおひるめのむちのかみ)
    大日女尊大日霊・大日女
    天照日女之命・天照孁女貴
    撞賢木
    厳之御魂
    天疎向津
    媛命
    別表記
   天照大神・天照皇大神
    皇大御神・天照坐皇大御神
 ↓↑
 右目・月読命・・・右女
    月読命・月夜見尊
    性別不明
 ↓↑
 鼻 ・須佐之男
 を
 濯(すす)ぎ産まれた
 ・・・単為生殖・単性生殖・・・?
    でウマれた・・・?
  鼻=自+畀=自+田+廾=自+田+丌
 ↓↑   畀=田+丌=畁=由+丌
        田+一+丿+丨
        ヒ
        物を与える・賜う
      阿鼻叫喚
     「阿鼻=仏教の
         八大地獄=八熱地獄
         の一
         無間地獄」
      ・・・死んだ方が麻痺?
      シンでも麻痺しない
      無間地獄・・・?
      五逆罪
     (殺生・盗み・邪淫・飲酒・妄語
      邪見・犯持戒人
      父母・阿羅漢=聖者殺害)
      を犯した者の行き先地獄
      一劫の間
      間断なく責苦を受ける場所
      阿鼻地獄
       鼻先思案=目先の
            軽率な考え
       鼻元(鼻許)思案
       はなもとじあん
       葉名摸訳字編務?
       喉元(のどもと)
       能登半島の元(付け根)?
       能登国(のとのくに)
       の根元
       越前(福井)+越中(富山)
   高志国=高志「道前・道中・道後」
       後
       高志前・高志中・高志後    
       の三国
       能登郡は後に
       鹿島郡へと改名
  「越前国」
   石川県、福井県の北部を含み
   後の
   敦賀郡、丹生郡、足羽郡、大野郡
   坂井郡、江沼郡、加賀郡、羽咋郡
   能登郡、鳳至郡、珠洲郡
   の十一郡
    拾壱「訓」の「阝・邑」?
 ↓↑ ↓↑
   養老二年(718年)五月二日
   石川県北部
   羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡
   の四郡を能登国として分立
 ↓↑ ↓↑
   弘仁十四年(823年)三月一日
   石川県南部
   加賀郡と江沼郡を割いて
   加賀国を建てた
   福井県のうち
   南部(若狭国)を除き範囲とした
   7世紀末の越国からは五分割
   8世紀初頭の越前国からは三分割
   残った越前国は
   延喜式等級で北陸道唯一の大国に区分
   領主
   新田義貞、朝倉義景、柴田勝家
   大谷吉継
   再起の拠点として逃れる途上で殺された
   藤原仲麻呂
   一時期同国の住人の
   明智光秀
   継体天皇は
   越前国の人
   万葉歌人
   志貴皇子(天智天皇皇子)の母
  「越道君伊羅都売」
   徳川家康の次男
   結城秀康
   米の産地
   越前・播磨国=「一播二越」   
 ↓↑
 須佐之男は
 母神イザナミの
 根の国
 (出雲と伯耆の堺近辺)
 に行きたいと哭いた
ーーーーー
 ・・・???・・・

カムリ=被り・被る・かむろ=禿童・神室・学文路?

$
0
0
 ・・・9/30/7:30・・・町内会の交通安全の交叉点の立ちん坊・・・
 濃霧・・・ほとんど2、3メートルの視界がゼロ・・・
 それでも車道のクルマの速度が速いようなカンジがする・・・
 ・・・「美咲ちゃん」・・・ドコに消えちゃったの・・・
 ↓↑
 ウェールズの勝利
 9/29/16:30
 ラグビーワールドカップ2019・日本大会
 オーストラリア(25)×(29)ウェールズ
 ↓↑

 欧州王者ウェールズ(4位)
 W杯2度優勝のオーストラリア(6位)
 ↓↑
 ウェールズ(Wales)
  ・・・アングロ-サクソン(Anglo-Saxons)人
           ・・・編務愚賂-作尊訊?     
     から見て
     Wales⇔wealas(外国人)
           ・・・有重得留事?
 (En-us-Wales.ogg Wales
  ウェールズ語 Cymru・カムリ)・・・キムリ?=Cymry
             化無理?  記紀無理?
         カムリ=被り・被る・かむろ=禿童・神室・学文路?
 ↓↑
 アングロ-サクソン(Anglo-Saxons)人
 アングル人、ジュート人、サクソン人
 のゲルマン系の3つの部族の総称
 ↓↑
 グレート-ブリテン・・・鰤顛・・・振り典・降り天

 ↓↑          ブリ(鰤、Amberjack)=スズキ目アジ科
            アンバージャック
                =すずき
                =鱸=魚+盧
                =あじ・・・阿字?
                =鰺=魚+參
            アムバージャック
            編 話蛙字耶通句?
               =カンパチ(勘八=Amberjack)
          ブリの幼魚(イナダ)=鰍?

          ブリの稚魚(モジャコ)=藻雑魚
             振りの知魚(模字也故)?
          稚魚は金属光沢のある黄褐色の体に
          赤褐色の横縞が6~11条がある
          ワカシ=魚夏(魚偏に夏、魚+夏)
          ブリの卵=鰤子(ブリ子)
          呼び名が変わる出世魚
           関東
          モジャコ(稚魚)→ワカシ(35cm以下)→
          イナダ(35-60cm)→ワラサ(60-80cm)→
          ブリ(80cm以上)
 ↓↑
 ウェールズ(Wales)
 北アイルランド連合王国(イギリス)
 を構成する
 4つの国イギリスの
 カントリー(country)
    ・・・咬む鳥居・・・鳥居耀蔵?
 ↓↑      ↓↑
       寛政八年十一月二十四日
      (1796年12月22日)
       ~
       明治六年
      (1873年10月3日)
 ↓↑      ↓↑
       丙辰(乙癸戊)傷官・正財冠帯⇔癸酉
       庚子(壬 癸)正官・偏印 病⇔辛酉
       乙丑(癸辛己)  ・偏財 衰⇔戊子
        戌亥空亡     大運1871~戊申
       壬午(丙己丁)印綬・偏財長生⇔戊午
 ↓↑     ↓↑
    鳥居耀蔵=名は忠耀・号は絆庵
    大学頭
    林述斎・・・林(木々)の述の斎
    の三男(四男?)として生まれた
    妻は登与(鳥居成純の娘)・・・登与・・・壹與?
    1844年失脚
    京極高朗に預けられ
    明治維新まで20年余を
    讃岐丸亀に流謫(るたく)・・・
 ↓↑     ↓↑
    鳥居正博・・・?
    鳥居忠耀から数えて
    四代目の子孫
    元旺文社副社長
    エッセンシャル英和辞典(旺文社)発行者
 ↓↑     ↓↑
    鳥居 次好(とりい つぎよし)?
    英語教育学者・文部省教科書調査官・コーネル大学卒
 ↓↑     ↓↑
 4つの国
 イギリスの
 カントリー(country)
 のひとつ
 ↓↑
 イギリス、グレートブリテン島の
 南西部を占める地域
 首都カーディフ・・・化蛙出倭(意)符?
 北はアイリッシュ海
 西はカーディガン湾
 セントジョージズ海峡
 南はブリストル海峡に面し
 東はイングランドと接する
 22の単一自治体
 (ユニタリー unitary authority)
 ↓↑
 ブリトン人
 Britons
 イギリスの先住民族
 ケルト系
 前5~3世紀に大陸より
 ブリテン島に渡来
 ローマ人により
 プリタニ (入墨を施した者) と呼ばれた
 対岸の北ガリアに居住するブリタニと混同され
 ブリタニ (ブリトン人)
 と呼ばれる
 1世紀以降ローマに征服され
 5世紀なかば以後
 アングロ・サクソン人に征服
 ↓↑
 現在
 ウェールズ
 コーンウォール
 スコットランド
 北フランス
 の
 ブルターニュに住む人々の祖先
 ↓↑
 ブリトン人
 インド・ヨーロッパ語族のうち
 ケルト人の一派
 キムリ人Cymryとも
 前4-前2世紀にヨーロッパ大陸から
 グレート・ブリテン島に渡来
 多くの小部族国家をつくった
 紀元1世紀にローマの支配に服した
 ブリタニアという
 ローマの属州としての
 グレート・ブリテン島の呼称の由来
 ローマの撤退後自立した
 5世紀以降
 アングロ・サクソン人の侵入に圧迫され
 西部に移動
 ウェールズ
 コーンウォール
 北フランスのブルターニュ半島に
 ケルト人の住む周縁を形づくっている
ーーーーー
 ・・・???・・・19:00・・・スコットランドvsサモア・・・

Viewing all 2191 articles
Browse latest View live